天命反転の建築
——追悼荒川修作
河本英夫
「私は、死なないことに決めた」と言い続けた荒川修作さんが亡くなった。東京荒川事務所の本間桃世さんからの断片的な連絡では、進行性の筋委縮症だったようである。この病気は、神経原性だと、言葉を発するための筋肉運動ができなくなり、やがて物も飲めなくなり、最後は呼吸もできなくなる。しかも場合によっては、急速に進行する。5月19日未明に入った泣き声まじりの本間さんからの留守電には、せめてもの救いは、「荒川さんが長く苦しまなくてすんだことだ」とあった。
荒川さんの標語になっているいくつもの名言(迷言)がある。「死なないために」「天命反転」「不可能故に、我信ず」等々は、実は共通の特徴をもっている。落命は毎日夥しいほど見聞きしているが、死は経験のなかにはなく、天命は、なんとなく理解できるがそれが何であるかを知ることはできない。だから天命なのである。不可能は、論理的に規定することは無理である。日常言語のなかには、自明なように見えて意味を確定できない語がある。言語的ネットワークで考えたとき、このネットワークにはいくつもの特異点があり、そこではちょうどネットワークに空いた穴のように、別の次元につながっている。こうした特異点を探り当てる芸術的嗅覚が、荒川さんにはあった。ここを足場にして、「人間の経験の閉塞性」に戦いを挑み、別の次元へとつながるいくつもの回路を、つねに作品をつうじて開発しようとしていた。おそらく荒川さんにとって、自分自身の死も、そうした回路のひとつなのである。
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アラカワの方法
河本英夫(東洋大学文学部)
The Method of ARAKAWA
Hideo Kawamoto (Department of Literature, Toyo University, Tokyo)
はじめに
方法とは現に実行される経験の作動のごく一部を抽出したものである。そのため現実をきわめて単純化したものである。経験は方法にしたがって作動するのではなく、また方法は現実の行為を方向付ける統制原理でさえない。方法は現実のプロセスと同時並行する経験の手掛かりでしかなく、場合によっては経験を動かすための予期である。この同時並行のプロセスという感覚を身につけることは簡単ではない。だが経験の多くはそうした同時並行するプロセスのネットワークである。実は、この同時並行的な経験の作動を多用したところに、アラカワの方法の特質がある。
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アキレスとカメ
最初、導入でゆっくりと経験の幅を広げて、うまく経験が動けるような場所を探し出していくという作業をやってみます。どこから入ってもいいのですが、材料を使いながら進めてみます。誰でもいいのです。あなたは写真写りどうですか。写真写りはとても良いですか? 何割ぐらい落ちますか。5割落ち。写真写り? 全然だめ。写真を見たときに3割落ちているとか、5割落ちているとか、全然これよく撮れていないとか、すぐわかります。あれこれ考えなくても端的にわかるのです。問題はそのとき、10割の顔をいつ見たのかという問題です。10割の顔をよく知っていて、それと比べてこの写真は3割落ちている、5割落ちていると言っているはずがない。10割の顔は、実際には見たことがないのです。鏡で見たという場合でも、あれは二次元の切りです。鏡をよく見る人がいますが、その場合には、実は見たいものを見ているだけなのです。一回も自分の顔なんか見ていない。
にもかかわらず自分の顔がどのようなものであるかは、よく知っているのです、それを10割の顔だとしておきます。10割の顔はみなよく知っている。ただ、それが何であるかを描こうとすると、これに近いかなとか、あれに近いかなというかたちになる。顔というのは不思議な領域で、自分で自分の顔を見ることができないという特質を持っている。にもかかわらず、それが何であるかということを、どこかでよく知っている。皆さん、そうですよ。全員がこの顔を、自分を代表するものとして世の中に、さらには世界に晒して生きていく以外手がないのです。「顔がない」という人間は成立するのだけど、通常はない顔も「ないと言うかたち」で世界にさらして生きていくしかないから、顔を世界にさらして生きていくという仕組みは、避けられない。しかも、それが何であるかがわからず、晒して生きていくしかないのです。それは皆さんだけではなく、私もそうです。この、私の顔は黒光りしているでしょう。毎日走り込んでいるからです。ゴキブリの輝きですよ。しかしそのゴキブリの輝きが何であるかはよくわからない。とにかく、そういう形で生きているのです。
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2013/12/15 神経現象学リハビリテーション研究センター 自治医大
行為としての意識とその可能性
東洋大学文学部哲学科
河本英夫
意識の機能性
認知科学的な意識研究(1980-2005)は一つの壁に当たっている。現状では展開力がないのである。意識を単独で取り出し、それに対応する脳神経系部位を特定することはできない。意識はおそらく単独の働きではない。
意識の機能性として、未来への予知能力、能力の全体的整合性(デネット)、意識の自己感知(クオリア)(チャーマーズ)、反応を遅らせる働き・保持(クリストフ・コッホ)として特徴づけられている。これらは、多くの心的機能(短期記憶へのアクセスの促進、知覚したものの分類、意思決定、行動の計画、動機づけ、複雑な課題の学習、問題の検出、時の指標づけ、トップダウン型注意、創造性、推測、推理等々)にかかわる付帯機能として、意識を設定できることを意味する。しかしいずれも意識がつねに伴っていなければ働かないわけではない。すると意識とは、随伴調整機能であることになる。
意識とは、躊躇(遅延)の別名である。(荒川修作)
現象学的な意識分析(時間論)は、意識の働きを現れの出現の仕組みの解明に向けて、過度に「焦点的な注意」を向けた考察である。つまり多くの意識の行為(働き)を見落としている。
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方法としてのオートポイエーシス――体系とは異なる仕方で
方法は、定型化された経験の手順であり、その手順を一貫して適応していくことで、通常の経験では見えないものを見えるようにしていく仕組みである。方法の由来は多様である。科学のなかに含まれる方法を抽出し、それを個々の経験の場面に適応するのであれば、「自然主義」となる。科学は生産的な方法的探求の一つであり、そのなかに含まれる方法をあらゆる場面に応用しようとするのである。たとえば実験手続きや帰納法を適用していく。自然科学のなかには、有効な方法が多く、必要に応じてそれを活用することはできる。そしてさらに知への反省そのもののもこうした科学的方法のいずれかを適用してみる。たとえば「反証」という科学的方法の一つを、知そのものの吟味にも活用するのである。伝統的な反省に代えて、方法の自己適用による反省を導入することになる。反省知にまで高められた科学的方法の運用を、「科学主義」という。
20世紀の前半から後半にかけて、「論理実証主義」からポパーによる「反証主義」まで、科学的方法の運用はこうした反省知にまで高められている。これらの方法は、経験から抽出され、それ単独で手順を示すことができるので、方法とはすなわち使い勝手の良い場面ではいつでも運用できる「道具」のことである。人間の身体が物理的な物でもある以上、道具が一定の範囲で生活にも経験にとっても有効であることはむしろ当然である。こうして道具的に活用可能な方法が経験の前景に出てくると、方法の意味合いがとても狭くなってしまう。
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オートレファレンス――免疫システムと神経システム
免疫システムは、生体の末端にまで及んでいるにもかかわらず、特定の器官をもたない。肝臓や脳のような器官をもたず、構造形成を行うことがない。このシステムは、作動つうじてはじめて存在しつづけるシステムであり、ここにはさらに特殊な作動のモードが出現する。骨髄の造血幹細胞から断続的に形成されてくるリンパ球は、一切反応する機会をもたなければ、役立たずとして自動的に細胞死に至る。リンパ球が存在しつづけるためには、リンパ球が産出されるだけではなく、恒常的に刺激を受け取っていなければならない。ところが膨大な種類の免疫活動を行う細胞が刺激をうるために、かりに刺激源が外界から調達されるのであれば、莫大な種類のウイルスに常時曝されていなければならない。そうだとすると免疫細胞を維持するために、無理やりウイルス充満空間に身を置くことになる。ところがそもそも免疫は病原性ウイルス等から身を守るために存在するはずである。
免疫細胞が、恒常的に刺激を受け取っているとすれば、刺激源は体内に存在するに違いない。みずから自身を感知しながら、みずからの存在を維持するものは、新たな活動のモードに入っている。産出されたものがたんに存在するだけではなく、みずから自身を感知している作動のあり方をオートレファレンスと呼んでおく。自己が作動をつうじておのずと自己の境界を区切るだけではなく、自己がそれとしてみずからを区切るのである。この段階でシステムの作動に明確な認知機能が入ってくる。オートポイエーシスは、産出的作動の機構から組みたてられており、作動の継続から自己を形成し自己の領域を形成していた。そのため行為論だと言いつづけてきたのである。その場合でも自己(Selbst)の形成の場合には、自己を閉域として形成するのだから、システムそのものに感覚に類似したものは現われている。というのも感覚とは、つねに自己の境界をそれとして区切りつづけることだからである。ところがみずから自身を感知するようになると、構成素の段階にまで感知の作動が現われる。これは通常認知と呼んでいるものである。ここでは作動(運動)と認知の機能分岐が明確になる。(1)
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2015/6/13 東北大学大学院文学研究科
システム現象学の試みオートポイエーシス
東洋大学文学部哲学科・哲学専攻
河本英夫
どのような事象を問うのか体験的事象領域――現れ(フッサール)、存在(ハイデガー)、メルロ=ポンティ(身体)、内在的活動(アンリ)、超越(レヴィナス)等々に対して、創発、出現、出来、事象化等々の領域を扱う。哲学史のなかでは、個体(スピノザ)、モナド(ライプニッツ)等々で指標される「単位体」の論理的仕組みではなく、個体化、モナド化の仕組みを問うものである。システムの出現の事象と仕組みが問われる。科学的には1960年代からさまざまな機構や仕組みが考案された自己組織化やオートポイエーシスに対応する事象の解明の試みである。哲学史の上では、ホワイトヘッドの『過程と実在』、ドゥルーズ『差異と反復』をどのようなかたちで継承するかにかかわる。事象の個体化では、意識そのものも生成のプロセスに巻き込まれるために、意識の活用の仕方もいくつかの工夫が必要となる。それどころか意識そのものの個体化、すなわち意識の出現が問われる。シェリングの自然哲学が主題としたテーマである。自然とは意識の先験的過去である。
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カフカ システムの日常 『プロセス(審判)』をめぐって
意識にはさまざまな世界が浸透している。意識はみずからの作動によって自己の境界をひき、さまざまな浸透する世界を自己の環境へと区分している。目覚めきった意識は、みずからの境界を自覚的に区切り、その境界がどこにあるのか気にも留めない。
目覚めつつあるとき、意識はみずからの境界そのものをぼんやりと浮かび上がらせる。半睡半醒の朝には、意識はみずからの境界を自覚的に区切ることができず、夢とも現ともさだかでない浸透する世界がそのまま立ちあらわれてしまう。そのとき境界そのものの経験が成立している。境界そのものにおいて、世界は二重分節する。それはちょうど日の丸の赤い円の淵を疾走しつづけるときの光景に似ている。走り続けることで眼前の光景が、赤と白に二重化する。海岸線の列車は、走り続けることで海と陸を切り分け、滑走するモーターボートは、走り続けることで空と海を切り分ける。境界において世界には内部も外部もなく、裏も表もない。両者が裏合わせに重なっているというのは、二重分節化した世界を観望している観察者の言い分である。むしろ意識は作動しつづけることで、世界を二重に分節する。
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カップリング――感覚の活用
システムはみずからの構成素を産出しながら作動している。他のシステムとの連動を図りながら作動しているわけではない。にもかかわらず密接に連動している複数のシステムがある。たとえば心的システムと身体システムがそうであり、心的システムとコミュニケーションを構成素とする社会システムがそうである。複数のシステムはそれぞれ一貫して作動しながらそれでもなお連動している。このとき複数のシステムは、第三項や中間項を介在させることなく連動している。そのためこのシステム間の関連を捉えるためには、新たな用語を導入しなければならない。それがカップリングである。カップリングとは、「一義的決定関係のない媒介変数を相互に提供しあっている複数のシステムの作動上の関係」と定式化できる。 だからカップリングしている二つのシステムの関係はすでに内的である。
ルーマンの定義によると、カップリングとは「互いに他を環境とする二つのシステムの関係」(1)となっている。ところがこれは広すぎる定義である。システムがみずからの作動をつうじて自己と環境を区分したとき、このシステムの自己以外はすべて環境に区分されてしまう。免疫システムと社会システムを例にとる。免疫システムはみずからの作動をつうじて自己と環境を区分する。社会システムも同様である。社会システムは免疫システムの環境に区分され、免疫システムは社会システムの環境に区分される。だからこの二つのシステムは相互に他を環境としている。だが免疫システムと社会システムには内的な連動関係がなく、カップリングの関係にはない。そのため定義を限定しなければならないのである。少なくてもカップリングは相互作用、相互関係、相互前提のような相互に外的に関与するもろもろのカテゴリーとは異質なものであることがわかる。
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感覚の精神病理
河本英夫
こころの働きのなかでは感覚は末端に位置する。言語的認知や思考に比べ、こころの能動的な働きの中心にあるようには思えない。しかも怒りを抑えるというように思考によって感情の働きを制御するように動かすことができるが、感覚の制御はほとんど困難である。眼前のゴムの葉の緑を、赤だと思い込むことはでき、またそう想起することもできるが、作為的に赤い葉を眼前に知覚することはできない。すくなくとも感覚的経験は、自己意識以前の経験である。このため感覚は受動的であると言われ、それ自体経験の源泉ではあるが、自覚的な意識にとっての末端にすぎないというのが通念である。意識の特質を自覚的制御可能性に置いたときには、この主張は半ば必然である。
色相互の区別は、三万五千程度可能であると言われる。万のオーダーでの色調の区別を行うことができるらしい。ところがこれらの色に言葉を当てようとすると、ただちに困惑する。私が色の名称を持ち出すことができるのは、せいぜい五十どまりである。言語に比べて感覚は圧倒的に多様である。色の感覚的経験と言語的経験は、分析性についてオーダーが異なる。とすれば言語は感覚を分節するように使用されてはおらず、感覚の経験の回路と言語的回路は別個の回路だと考えたほうがよい。おそらく感覚による情報処理系と言語・記号による情報処理系とは、独立である。
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V 情動・感情のシステム
情動・感情は独特のシステムである。かりに感情にふさわしくシステムを定式化しようとすれば、システムの意味さえ変わってしまう。情動は一定の動きのように感じられるが、対象世界の運動のモードである、場所移動、質変化、発生消滅のようなどのモードとも異なる。また情動の変化は感じ取れるが、恒常的に運動として感じ取られているのでもない。
三つの難題 このシステムの扱いにくさには、三つの問題がある。一つは、本能に近い情動と圧倒的に多様な感情が、類似した基本性格をもちながらほとんど別の能力であることによる。情動は、主として、大脳基底核、側頭葉(辺縁系)に主要な座をもつが、感情は大脳新皮質にも座をもつ。[1] 系統発生的に感情の由来を考えようとするとき、これらは別の起源で別の機能をもって出現した可能性が高いのである。だが恐怖や不安のようなものは、どこに位置づけても座りが悪い。実は博愛のような感情でさえ、配置しようとすれば座りが悪くなる。というのも博愛総体が実現されれば、本能的な生存にとってコストの少ない安全が確保され、どこかで本能や情動に類似した効果をもつからである。その結果、博愛行動のような動物行動を探し出す企てには、限りがないことになる。だが最低限の区分をしなければ、あまりに多くの多義性と任意性が生じる。
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環境概念とエコ・フィロソフィー
河本英夫
環境は、曖昧で豊かな概念である。本来環境は、システム(人、物、組織体、生命等)を取り巻いているものであり、システムとともにある。そのため環境とは自然界一般のことではない。こうした環境概念が、ヨーロッパ思想の中に明示的に出てくるのは、ダーウィンの進化論での「生存条件の集合」という意味での「環境」あたりからである。生物は、世界一般の内を生きているのではない。世界一般、自然一般は、いわば対象認識において成立している概念的な装置である。それは生存や生活と切り離されることで、はじめて成立する装置である。
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遂行的記憶
河本英夫
記憶が経験として作動するのは、つねに目下においてである。作動しない記憶は、定義上一度も思い起こされることのない過去であり、膨大な過去が記憶されることなく忘れ去られている。記憶は、過去の経験や体験がなんらかのかたちで現在に影響を及ぼす作用である。もっとも緩やかな記憶の定義は、ここから生じている。一週間前の身体トレーニングが効果を発揮して、明日にも記録の更新が狙える。身体に蓄積された過去の記憶が、やがて効果を発揮する。先週行った歯の治療場面を想起すると、痛みの再生はないものの、緊張感が蘇り、薄っすらと冷や汗が出る。三日前の会議の場面が思い出されて憤懣が再生し、憤懣だけが再度進行する。昨夜の夕食の情景を思い起こし、そこで交わされた会話が実は別の意味をもっていたことに気づき、にんまりする。多忙だった1週間間を順序立って思い起こし、回想のなかで1週間を振り返ってみる。二週間後までにやっておかなければならない車の免許の更新を肝に銘じて、時間の取れる明後日にはこのことを思い起こすよう念じておく。最後の例を除いて、いずれも過去がなんらかのかたちで現在に関与している。そのためいずれにしろ記憶が関与していると予想される。最後の例は、2日後に念じたことの経験が再生する場面で、やがて記憶が関与する。
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3章 記憶システム
あらゆる経験には、つねに記憶がともなっている。美術館で展示を見たとき、初めて見たものか、前にも見たことがあるという感触は、潜在的であってもそのつどつねにともなっている。見たものが何であるか(知覚)とともに、再認(もしくは初認)の感触は紛れもないものである。見て知るとは別の仕方で、見て知ることに同時に別様にともなう知がある。この知は行為の組織化にとって重要なもので、場合によっては知覚以上に重要である。我が家に生息しているネコは、はじめて聞く物音には敏感に反応し、ただちに身構えている。いつでも逃げられる体勢をとっている。ところがそれが身に降りかかるような物音ではないことがわかると、次の機会からは物音そのものをほぼ完全に無視している。まったく反応しないのである。こうした振る舞いは、「認知コストの削減」という生存戦略に適っている。人間の毎日の生活エネルギーのうち、およそ二五%が脳神経系で消費されている。人間だけは、認知コストを下げるための仕組みを解除してしまっているかのようである。知覚が優先される人間の認知では、対象が何であるかを知るという対象認知が前景に出てしまう。おそらく膨大な余分な認知を行っている。それが知をもつものの宿命だと言っても、あるいは知にともなう連動コストだと言っても、どこか言い訳じみてしまう。というのもほとんど無駄だとわかっているような毎日のインターネット情報処理でさえ、いそいそとまるで惰性のように行っているからである。そのとき認知では再認か初認かをそのつど区別している。しかしそんなことはわかっていると思いながらも、それでも情報一覧を閲覧するのである。「そんなことはわかっている」という局面にすでに再認が働いているが、それらは背景に退いてしまっている。
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触覚性コスモス Tactile Cosmos
河本英夫
コスモスは、近世以降一つの「秩序」である。だが外的な何かによって制約されたり、支えられてはじめて成立するような秩序ではない。コスモスは、この時期以降「個体」の別名ともなる。ルネッサンス期の典型として、コスモスは宇宙と個という対比で捉えられる。個体はみずからを秩序化する。秩序は、最低限そのつどみずからの秩序を維持しなければならず、積極的にはそれじたいがみずからを組織化するものである。ここに自己組織化という現代科学と通底する課題や諸法則が関与することがわかる。ここではコスモスを自己秩序化するものだと定式化しておく。このときみずから秩序化したものが個体である。個体はみずからを秩序化し、秩序化された成果も個体である。こうしたある種の循環は、個体の言語的表記に避けがたく付きまとってしまうのである。
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フィードバックの罠
困惑するような事態が生じたとき、行為主体はそこに変化をもたらそうとする。ここでの問題の焦点は、行為をともなう変化である。自己言及の項の不眠の場合が、そうである。認知を介して行為をともなう事態の対処が、事態そのものを深刻化させる。そこに固有のシステムの作動がみられる。事態への対処の仕方がさらに事態を深刻化させる機構は、ワツラヴィクによって繰り返し記述されている。(1)変化をもたらすよう良かれと思って行った行為が、何一つ事態を変えることができず、さらに事態を悪くしてしまうのである。これは観察者が作為的にしでかしてしまったものではなく、認知をつうじた打開策が、実のところ変えなければならない局面をさらに深刻なものとするのである。ここにシステムのやっかいな特質が表れる。
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自己組織化と進化
――理論内部の隙間をどう考えるか
河本英夫(東洋大学文学部)
理論構成したとき、理論内部に隙間の残る構想がある。「自然選択」もその一つである。ダーウィンが隙間を隙間のまま残して定式化したために、進化論は拡大可能で修正可能なプログラムとなっている。だがこうした拡大や修正は、通常の演繹理論とは異なる内実をもつ。こうした隙間がどのような理論の特殊性と固有性をもたらすのかを明示するためにも、自己組織化との距離感を見定めておきたいと思う。[1]
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創発的科学
昨年初春にフラーレンの新構造が、川崎市の国際基盤材料研究所で作り出された。フラーレンは、炭素だけからなる結晶で、サッカーボールのように5角形と6角形の結晶で形作られている。ダイヤモンド、グラファイト、チャーコールのような炭素だけからなる結晶に、もうひとつ異なるタイプの結晶が存在することがあきらかになったのは、15年程前で、まったくの偶然からである。この物質の発見の3日間に参加した科学者は、1996年のノーベル化学賞を受賞している。雪のような平らな結晶がつながって球形になるためには、理論上15個の正5角形が必要である。6角形は大きさ次第でいくつも増やすことができる。結晶化の温度を変えると、炭素二四〇個のもの(C240)、炭素五四〇個のもの(C540)ができる。12個の5角形を入れたまま、6角形の数をどんどん増やせばよいのだから、理論上も予測できることである。C60は、電圧をかけると高温で超伝導が出現すると、昨年11月に発表されている。ところが昨春できたのは、入れ子型のフラーレンであった。
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宿命反転前夜
河本英夫
街は個性をもつ。寺を中心に門前町ができ、交通の要所に宿場町ができる。山から突然海につながる閉域にできる漁村は、迷路だけで作られた孤島のようだ。山陰のこうした漁村にかつて車で迷い込んだとき、起伏だらけの道路をゆるゆると進む車に、村の子供たちがまるでアリのように群がってきたことがある。子供たちは初めて車を見るという風情である。たかだか10年ほど前のことである。漁村の朝は早い。夜明け前までに漁に出た者たちが、太陽が昇るとともに引き上げてくる。海岸沿いを何をするのでもなく、ただとぼとぼと歩いているだけの老人がいる。海岸には老人がよく似合う。岸についた漁師が、その日取れたばかりの魚を捌いて、老人に食べさせている。老人はただこの上なくうまいという日に焼けた笑顔を浮かべている。日本各地に残っている「与太郎伝説」の現代版である。与太郎は速度を遅くする存在である。いま深呼吸をして意識の速さを遅くし、呼吸も心臓の拍動も遅くしてみる。限りなく遅くしていくと、意識がそれとしてあることの輪郭がくっきりと浮かび上がるまで遅くすることができる。意識の起源が透明に浮かび上がってくるところまで、意識の動きを遅くする。こうして意識が別様でもありうることに触れることができる。与太郎はひとつの郷愁であり、もはや思い起こすことのできなくなった意識の起源に触れることである。
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触覚性境界
河本英夫
触覚は、あまりに自明すぎて、常日頃忘れてしまっている感覚である。むしろ触覚は本来潜在化している方が自然状態である。四六時中、胃や肝臓、あるいは性器が前景化して感じ取られているようであれば、おそらくすでに病的である。身体や身体運動にかかわる感覚のおよそ九割は、触覚性感知である。だが触覚への探求は、とても立ち遅れていて、脳神経系の部位でも、体性感覚は二箇所(触覚性体性感覚と尿意・便意の生理的感覚)しか特定できていない。体勢(姿勢)感覚、身体部位の相互位置の感覚、動作のさいの各部位の運動順序のような基本的な能力も、そこからは抜け落ちてしまう。そのことには十分な理由もあり、人間の場合、過度に視覚優位の文化を形成してきたこと、視覚のように詳細な実験的分析を掛けることが難しいことも事実である。
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触覚性転換――現象学的探求の拡張
河本英夫
メルロ=ポンティは最晩年にいくつもの草稿を書き残し、そのなかには事柄として目覚ましいほどの新たな踏み出しを行ったものがある。それらは遺稿集の『見えるものと見えないもの』に含まれている。いつものようにここでもメルロ=ポンティらしい卓抜な比喩感覚で書き進めている。同時代の表現の限界を、比喩でうまく言い当てていくという真似のできない作業を行っている。経験が新たな局面に進んだとき、それを記述するためには、たとえ現象学者であっても、詩人であることを要求される。やがてそれらは新たな知の構想の装いをもって、別様に書き換えられるような事柄でもある。あるいはむしろ積極的に書き直されなければならない。それが知ということの宿命でもある。
このことは現象学的な経験を科学的な知見に帰着還元することとはなんの関係もない。かりに科学的な知に現象学的な経験が帰着できるなら、現象学はいまだ固有の経験の局面を見出していないのであり、その程度のことしかできていないのである。少なくとも現象学は立場や観点ではないと思われる。そうだとすると現象学的な解明は、たとえ後に科学的な解明に置き換えられたとしても、それなしではすますことのできない経験の層を指定しているはずである。またそうでなければ現象学の意味さえないことになる。
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ソーム
「ソーム」とは、私個人が設定した用語である。遺伝情報である「ゲノム」と言語記号情報である「ミーム」との間には身体行為をともなう膨大な情報がある。農耕も職人技も身体表現も、ともに身体行為をつうじて伝承されていく。言葉自体は、体細胞的という語(ソマティック)から採ってある。この領域でも、単純な身体行為の部分は、どんどんとロボットに置き換えられていく。コンビニで売られているおにぎりはロボットが握っている。自動車の製造のかなりの部分もロボットが行っている。外科手術の切断、縫合もロボットが行っている。というのも人間の身体を切り取り切断するとき、ロボットであれば同じ強さで実行することができるからである。私自身の開腹手術も、ロボットがやってくれた。単純な動きはほとんどロボットがやってくれる。ところが陶芸のように、この一作、この一品のような制作はほとんどまだロボットに置き換えることはできない。制作物の「個体化」にはいまだロボットでは届かない。ながらくそう思われてきた。ところが個体の特性を詳細なところで分析する技能がAIにはあるために、遺跡や古い絵画の修復や模造にAIが用いられるようになった。そして遺跡のクローン展示が実際に可能となり、実物の感触まで再現できるようになった。クローン展示は、事実以上に現実的である。
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創発と現実性――ネオ・サイバネティクスの一回路
河本英夫
現実性はどのようにして成立するのか。現実はそれが何であるかが分かる以前に、それとして成立している。たとえば近所の商店街で、ふと気づくと何度か行ったことのある店が閉店していることに注意が向く。近づいて張り紙を見ると、すでに四週間前に店を閉めていたことがわかる。するとこの四週間の間、この商店の閉店という現実は成立していなかったことになる。このときの注意は、それによってはじめて現実が成立する以上、場合によっては命の危険に直面することになる。見落しとは、一般に取り返しがつかなくなってはじめてそのことに気づくことが多い。こうした注意は、注目や注視とは異なり、それによってはじめて現実が成立する以上「遂行的注意」と呼ぶにふさわしい。
この閉店は、客足が遠のいたことによるのか、店主の高齢化によるのか、資金繰りの悪化によるのか、さまざまな観点からこの現実の説明を行うことができる。つまり現実性についての捉え方は、さまざまな観点から行うことができる。これが現実性についての認識であり、この認識の仕方の諸前提を解明すれば認識論となる。認識はつねに成立した現実に遅れ、その分だけ現実との隔たりがあり、それによってつねに別様にも考えることができる。すなわち観点の選択性をともなっている。このことは認識論が、眼鏡を通して世界を見ることに喩えられる理由である。この眼鏡に相当する認識の諸前提の一式を解明したのが、カント、新カント派による認識論である。
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自己組織プロセスとしての制作
河本英夫
制作のなかでの最難関は、自分自身の制作であり、意識からみれば何が起きているのかが自分にとってもわからない制作である。このことは意識にもあてはまっていて、意識そのものもみずからを組織化し、それとして制作する。だが意識はその結果しか知ることができない。意識の最大の力能が知ることである限り、意識は制作プロセスにあっては制作された結果しか知りようがない。つまり意識はつねにこの場面で錯誤を含んでしまう。ここでは制作とりわけ自己制作にかかわる問題群を、自己組織システムから考察する。
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クワスあるいは存在の裂け目
河本英夫
規則とオペレーション 2000年前後に問題にしたことだが、規則とオペレーションの間には、どのような意味でも対応関係はなかった。58+67=125という演算は、たとえ規則に従って回答した場合でも、それがどのような規則なのかは決まらなかった。そこからいくつもの可能性が出てくる。まったく別のオペレーションを行って回答に到達した場合、いくつかのエラーを含みながら結果はあっている場合、規則に従うというやり方とはまったく別のことを行っている場合のように、いくつもの可能性が出てしまう。クリプキが『ヴィットゲンシュタインのパラドックス』で行った懐疑は、予想外の仕方で、コンピュータ・ソフトの内実に関連している。そのことは行為と規則の間には、まったく別様のつながりがあったということであり、そうしたことの内実は当分明らかにならないだけではなく、解明の現実に限界がある、という問題であった。
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ゲーテ自然学とオートポイエーシス
生成するもの、あるいは生成そのものを捉えるための手立ては、感覚・知覚にとってそう多くはない。最も一般的には、生成の結果だけを認識できるとするものである。たとえば平面に書いた図形を立方体として捉えるとき、ゲシュタルト転換を経験する。ある面が前面に出ていた立方体から別の面が前面に出た立方体に変わるとき、数秒間の時間がかかる。ゲシュタルト転換は、瞬時には起こらない。このゲシュタルト転換を起こす隙間のところで、認知は猛烈になにかの活動を行っているはずだが、知ることができるのは、ゲシュタルト転換をした後の図形だけである。生成プロセスのなかにいるものは、それが何であるかを知ることはできず、生成プロセスの結果だけを知ることができる。これが生成するものへの認識の本姓であり、認識の限界でもある。結果として出現したものについては、吟味を行うことができ、真/偽の判定を行うこともできる。結果として出現したものの吟味と真/偽判定を活用し、真/偽が次々と入れ替わる経験を「経験の形成」として活用したのが、ヘーゲルの『精神現象学』である。
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終章 ミケランジェロの決断
同時代に出現する歴史的偶然によって、どのようにしても超えられない壁ができてしまうことがある。前方に先行する巨大な才能が立ちはだかり、後ろからは類稀な出自と才気を備えたアーティストが、広く才能を認められようとしている。自分自身は、フィレンツェの一小市民の息子であり、五人兄弟の一人である。周囲からは、アーティストになることなど賛成するものはいない。もちろん当時アーティストに類似した言葉で呼ばれるはずもなく、端的に「石彫り職人」にはならないでほしいと訴えられている。父親と同様の官吏になるか、商売を営み家計を助けてほしいと請い願われているのである。だがわずかな徒弟修業を経ただけで、人並みはずれた能力があることは、誰の目にも明らかになっており、本人にも相当の自負がある。気性は荒削りで、無愛想であり、礼は尽くすが、とても協同作業などできそうもない。人間像は、端的に職人であり、奇妙なことに経済合理性だけが頼りの職人である。実際弟子を標榜するものはほぼいない。大掛かりな作業は必ず助手を雇い入れて行う。だがミケランジェロの場合、その場限りの請負で助手を雇うことがほとんどである。
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発達のリセット
河本英夫
システムはみずからと環境とのかかわりを組織化し、かつみずからを組織化する。この組織化の段階的なモードの切り替えが、発達と呼ばれる。発達は、加齢による成熟プロセスでも、学習による知識の蓄積でもない。だがこの事態をどのようにイメージしておけばよいのだろう。認知科学、情報科学であれば、環境情報の獲得がシステムの組織化を促し、その後システムはより高度な環境とのかかわりを形成する。いわばらせん的に組織化の水準を切り上げていく。本当にこんなことなのだろうか。このらせん軌道は、上に行くほど大きな円を描くのか、先細りになるのか。これはたんなる図柄の問題ではない。「子どもはみな天才であり、発達は可能性の消滅である」という言明と、「理性は発達の最終段階として世界内での自己の最高の組織化であり、最高の可能性の発現である」という言明は、どの時代でも両立する。「人間は、動物界の例外として無限の可能性に開かれている」という言明と「人間ほど可能性から見放された存在はない」という言明も両立する。いったい何が起きているのか。
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負量という現実性
河本英夫
負量は、現実のなかでも捉えにくいものの一つである。廊下を歩いているとき、前方に上り坂の傾斜があれば、足に力を籠め身体を少し前傾化して上っている。身体は、その力の籠め方を感じ取り、地面を強く押すように重心移動を行っている。地面を強く踏みしめている動作は、自分で感じ取ることはできる。しかし地面が陥没したり、沈み込んだりしない限り、足は地面から押し付けた力と等量の反力を受けている。物理的には「作用/反作用」の法則と言われるものである。地面の側を押す働きを感じ取ることは、歩き方の調整にかかわるために重要な調整変数である。だが地面から押されている感触は、簡単に感じ取ることはできない。
歩行は、地面を押し、地面から反力を受けることで成立している。そのことはスポンジ状のマットの上を歩きにくいことからもすぐにわかる。泥状の地面では、地面を押すことと、地面から押されることが均衡しておらず、地面そのものがズレたり、穴が空いたりして、作用=反作用は成立しておらず、地面そのものが変化する。その場合でも、地面の変化を感じ取る感触は明確に体験されているが、崩れる泥から受ける反力を感じ取ることは容易ではない。地面を押す力から見れば、反力はそれに対抗し、拮抗し、時として均衡する負量である。負量をうまく感じ取ることは、能動性を基調とする人間の「能力」から見ると、かなり苦手な領域の体験である。
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発達論の難題
河本英夫
発達の段階論を考えるさいには、個々の発達の局面を観察をつうじて細かく記述していく方法が採用される。実際、そうした観察の蓄積は膨大な量に上っている。そして観察事実から見る限り、いくつか不連続とも思えるような変化があることも確認されている。発達を時系列でおさえて特徴を取り出してみる。生後2ヶ月目で、それまで栄養補給に全力を上げ、それ以外の時間は眠り続けていた乳児システムは、母親へ微笑を向けたり、周囲のものへの差異をともなう関心を示し始める。また生後9ヶ月目で能動的な周囲へのかかわりが出現し、動作や行為はオーダーを更新して一挙に多様になる。そのため語呂合わせで、それぞれ「二か月革命」と「九か月革命」と呼ばれてもいる。時系列的に比較的はっきりとした特徴のでる質的変化の系列は、観察者から見た時間軸での指標を取り出したものである。[1]それぞれの局面では、乳幼児というシステムそのものの再編と変貌を含んでいる。そこにはそれまで見られなかった能力の出現が見られる、ということになる。こうした観察ではおよそ誰にとっても明白な変化が取り出されている。そのため経験科学的な区分となる。
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美と真
河本英夫
理論は真をめざし、美は新たな現実をめざす。カントが真善美という異なるカテゴリー領域に対して、三つの『批判書』を提示したとき、いったいどれが経験にとって最も基礎的な位置を占めるかは、最晩年の『第三批判』直後から開始された問いであった。このとき経験の本性を何に置くかによって議論が分かれてくる。真/偽を区分し、そのために主観性一般に備わるさまざまなカテゴリーを備えた場所として設定されたとき、経験は真なるものを探求し、そのことをつうじてみずからを律する自由の主体となる。これに対して、経験はみずからを拡張していくものだとすれば、真理そのものが生成し、それと同時に真の基準そのものも生成する。そのとき経験は、前進/停滞という新たなコードで作動する。この局面では、真は美の部分領域となる。経験の自己形成の姿こそ、美のかたちである。そのとき理論の姿は、美の残像の度合いを残し続けるはずである。
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フィヒテ
河本英夫
フィヒテが『知識学』を構想したとき、理論哲学と実践哲学の共通の出発点を見出すこと、ならびに哲学の開始を告げる出発点となる場面を基礎付け構想によって、とりわけ主観性による反省的基礎付けによって見出すことをみずからに課している。手続的には批判哲学の手法を継承し、批判的基礎付けを行いながら、同時におよそ知識が成立しうるための根拠を、主体性の自由の確保と言う課題から導き出そうとしている。最終根拠を設定し、そこからさまざまな原理を順次導出する独断論ではなく、それに対置される批判的方法を取ることを宣言し、またどこまでも人間の自由が確保される基盤の設定が課題とされている。
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遅延と静止
河本英夫
無限に大きいものは、洞窟のマンモスのように動くことができない。隙間のないものには動きのための余白がない。全身乾ききったタオルは微動する余地がなく、渇きを感受することもできない。感受することは一種の運動であり、運動は触れることであって、微動しない物は、回りを取り巻く大気にさえ触れることができない。干上がって裏返しになった縁側のコガネムシは、内部に流動するものがない。流動の喪失にも形はあり、折れ曲がって天を指す手足はある。立ったまま干からびるコガネムシがあれば、立ち枯れコガネムシと呼ぶのだろうか。立ち枯れニンゲンは、確かに存在する。ニンゲンは人間のなかの植物性の一部を指している。干上がって立っているものは、重力に抗することを知っている。重力のなかに留まり、重力に自足するという運動はある。それはきっと激しすぎる運動だから、しかも空間運動ではないのだから、人間の眼からはうまく見ることができない。押しつぶされ平面となったシダの化石は、詰まりすぎて動くことができない。過密にも度合いはあり、過疎にも度合いはある。過密すぎるものは響く余白がなく、過疎すぎるものは響きを伝えるための余剰がない。
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到来しつづけるもの
訪問者はいつも迷い込むようにやってくる。見るもの聞くものひとつひとつに大袈裟に驚き、挙動がことごとく事件であるかのようにやってくる。唯一測量師の契約をもって城と折衝したいという。契約はすでにあるという。だがそれが何を契約したことになるかが本人にもわからない。契約先の城にも確認する術がない。それどころか契約したはずの城が何であるかさえわからないのである。
訪問者は、滞在の許可がとれないまま訪問し続ける。宿のお内儀、従僕、女中も宿泊を切り上げるよう半ば強制的な視線を向け続けている。明日のあてのない今日を、日一日と繰り返し訪問し続ける。だがこの行為の継続は、いっさいの意図とも目的とも希望ともかかわりなく、存在の場所を形成する。城に接近する途も、生活の手立ても、ましてや故郷に引き返す手段もみつからず、それでも存在の場所が出来上る。名前をもたず、記号によってしか表すことのできないKの誕生である。城へ向かい、城を目指してもいつまでたっても城に至りつくことはない。Kはいつまでも到来しつづけなければならない。未刊に終わったカフカの『城』の成り行きである。(1)
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奈義の龍安寺の謎
――アラカワ+ギンズとオートポイエーシス
河本英夫
アラカワ+ギンズの最高傑作のひとつが、奈義の龍安寺である。この作品には数々の謎が残っている。しかもこの謎は、製作者自身にも明確に理解することも、分析することもできないようなものである。一般に制作されたものは、制作者の意図を越え出て行く。この事実は技術一般にみられ、基本的にシャベルが手の能力を超え、自転車が足の能力を超えることに由来する。技術的制作物は、人間の作ったものであるにもかかわらず、半ば必然的に人間の能力を超えていく。こうした事態を人間学のゲーレンは「過剰代替」だと呼んだ。身体の機能を代替するように道具か作られるさいには、必然的に過剰に代替が起きるというのである。ここでは技術的制作に伴うこの一般的な事態が問題になっているのではない。どのような意図で制作されようと、奈義の龍安寺には、意図を超えるだけではなく、意図とは別の事態が実現してしまうというあり方をしている。このエッセイでは、この問題に踏み込むつもりである。
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1 二重作動(ダブル・オペレーション)
オートポイエーシスは、当初マトゥラーナ、ヴァレラによって提起されたシステム論の最新形である。だが提起された機構には数々の謎が含まれている。それは機構の不備というより機構の定式化の限界にかかわる謎であり、その地点で複数の選択が生じてしまう謎である。そのためこの定式化がどこか理解できないか、そもそも理解ということとすれ違ってしまう感触をあたえることもある。だがオートポイエーシスの外形は、極めて単純である。それはオートポイエーシスの定義的構想からは予想もできないほど、単純な形をしている。入り組んだ仕掛け人形の仕掛けだけをひっくり返して取り出すと、あっけないほどの単純さに驚くことがある。この驚きの場面にどこか似かよった印象がある。おのずと生成するシステムであるオートポイエーシスの外形には、いくつかの必要条件となる前段階がある。
たとえば水溶液内で、なんらかの理由で結晶化が突如開始されたとする。これは相転移の一つである。というのも溶液内の分子が一定の配列を取ったとき、そこから結晶化が始まることも、再度分子が離散していくこともある。そのため論理的確率でどちらが起きてもおかしくないとき、どちらか一方に決まるさいには、たとえそれが偶然によるものであっても相転移となる。ひとたび結晶化のプロセスが進行すれば、通常継続的に結晶化が進行する。このとき結晶化のプロセスが次のプロセスの開始条件となるような事態が生じている。生成プロセスが次の生成プロセスの開始条件となるように接続した生成プロセスの連鎖というのが、オートポイエーシスの前世代である自己組織化の最小必要条件の定式化である。
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システム的思考
河本英夫
環境は一般に複雑なネットワーク(システム)である。そのため環境が維持される場合には、この複雑なネットワークの仕組みが関与している。その仕組みを、かいつまんで考察する。自己維持するネットワークには、さまざまな仕組みがある。最初に現在環境問題を考えるさいに、必要だと思われる基礎知識を検討する。さらに少し視点を変えて、最も緊要だと思える局面を提示する。
1 システムの機構
動的平衡 オゾン層は、地上12-15Kmの大気圏上層にある薄い膜である。太陽光のなかに含まれる紫外線を遮り、地表に届く紫外線量を減らしている。紫外線がそのまま届けば、皮膚ガンが一挙に増大すると言われている。冷蔵庫や冷却用機器やスプレー式噴霧器に使われているフロンガスが、オゾン層を破壊するということで、一時大問題になったことがある。フロンガスが分解するさいに生じる塩素系の物質がオゾン層を破壊することは事実である。その後も断続的にオゾン層破壊という話題がでる。極地方で、オゾン層に穴が空いているという報告もなされている。しかしそれほど危機的な環境破壊だという主張は出ていない。
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メタモルフォーゼ-日々新たな自己になるために 1
河本英夫
エコーは響く。響きは振動でも伝達でも共振でもない。ギリシャ神話に登場する最大のおしゃべり女がエコーである。際限のない噂話と、話に付けられた尾鰭、背鰭は、饒舌ではあっても響きではない。ただ騒々しいだけだ。この騒々しさは、ユノー女神の怒りをかう。その挙げ句エコーは舌を切られてしまい、言葉の語尾を繰り返すことしかできなくなる。生身のエコーの誕生である。まるで語の選択の軸が壊れた失語症患者のようである。言葉を失ったとき愛が生まれる。エコーは絶世の美男子ナルシスに懸想する。みずからの写し以外誰にも関心をよせないナルシスは、向けられた愛に気づく様子もない。そのため憔悴しきったエコーは、森にこもり衰弱しつづけ、やがて消滅する。身体という構造の消滅をつうじて、はじめて現存するものがある。それが、森に叫びかけたとき、何度も語尾を反復する木霊である。エコーは、みずからの消滅をつうじて響きとなる。[1] 響きは魂の原初形態である。というのも可視的ではない内面性が、出現するように感じられるからである。
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「曖昧な豊かさ」の彼方へ
河本英夫
メルロ=ポンティによる身体の両義性は、身体が知るものであり知られるものであることを基調としている。それは触れるものでありながら触れられるものであり、それじたい動くものでありながら、かつ動かされるものであるというように、さまざまなヴァージョンに転換できる。この両義性は、たとえば自然に対しも、まなざされるものでありながら、それじたいまなざすものへとなっていくという形で転用されている。こうした両義性をいたるところで見出す芸を、メルロ=ポンティは持ち合わせていた。だがまなざしは、本来一方から他方へと向かうような非対称性をもち、他者からまなざされる場合でも相互非対称にしかならない。この場合、まなざしにとってつねに世界の半分は、際限のない深さをもつ。非対象にしか作動しないものの延長上に、まるでそれじたいで隠れてしまう半面を言い当てるように両義性を見出していく。これは知覚の失敗ではなく、知覚とはそもそもそうしたなかでしか成立しないことを意味する。ここにメルロ=ポンティ固有の不透明で曖昧な豊かさが生じる。中・後期の講義録、草稿群でも、両義性を起点にして、各現象領野にいくつかの付帯的な仕組みを導入することで、記述の領域を拡張し続けている。
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経験の可能性の拡張とレジリアンス
河本英夫
はじめに
レジリアンスのなかには、大別して病的素因、環境条件に対しての「抵抗性」があること、ひとたび軽度病的変容に陥ったとしても、慢性化せず「回復」への回路をもちうること、重度の病的変容が起きたとしても、それじたいを再組織化して別様の状態に向かうことができるほどの「可塑性」をもつことが内容になっていると思われる。これらは一般に均衡逸脱からの回復性、変容からの再組織化、構造的組み替えをみずから引き起こしうるほどの再構築性だと整理することができる。[8,9]するとシステム(患者本人)の特質として、自己組織化の議論から取りだしうる機構と、内容上はほぼ重なる。レジリアンスは見かけ上、病因論的な「脆弱性」に対して、治癒論的な「抵抗力」「回復力」を対置しているように見える。だが、実際には病因論的な因果関係に代えて、より高次の自己組織化的なシステムの機構の導入になっている。つまりレジリアンスはシステム的病理学の概念であり、病理の構想そのものの刷新を図るものである。そこで経験そのものの自己組織化の仕組みを考察するなかで、レジリアンスの内実を詰めてみる。
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