触覚性コスモス Tactile Cosmos
河本英夫
コスモスは、近世以降一つの「秩序」である。だが外的な何かによって制約されたり、支えられてはじめて成立するような秩序ではない。コスモスは、この時期以降「個体」の別名ともなる。ルネッサンス期の典型として、コスモスは宇宙と個という対比で捉えられる。個体はみずからを秩序化する。秩序は、最低限そのつどみずからの秩序を維持しなければならず、積極的にはそれじたいがみずからを組織化するものである。ここに自己組織化という現代科学と通底する課題や諸法則が関与することがわかる。ここではコスモスを自己秩序化するものだと定式化しておく。このときみずから秩序化したものが個体である。個体はみずからを秩序化し、秩序化された成果も個体である。こうしたある種の循環は、個体の言語的表記に避けがたく付きまとってしまうのである。
1 自己組織化するもの
個体は、静物、動的物体、作品、生命体、身体、魂、精神、社会、国家、宇宙のようなさまざまなレベルで成立する。それぞれに個体化のモードは異なっており、圧倒的に多様な現実を形成する。個体の出現は、現実性の成立とほぼ同義である。ここにはいくつもの難題がかかわっている。
たとえばブラックとピカソによるキュビズムの台頭に直面したマティスは、この技法がどの程度の可能性をもち、またどのような危険性に直面してしまうかを、繰り返し自分の経験をくぐらせるようにして、検討を加えている。技法をそれとして応用することではなく、また技法の長所、短所を判別することではなく、この技法を実行する経験がどの程度の展開可能性をもち、どこで危うくなるのかを吟味するのである。そのさいのマティスの下した結論が、キュビズムは一貫させれば、「抽象絵画」に陥る可能性が高いという点である。もともとキュビズムという名称じたい、マティスが導入したものである。
抽象絵画は、方法的な視点から現実性を別様に解釈できること、さらには方法的に制御できる変数を変えることで、際限のない多様性を確保できるかに見える。ところが抽象絵画には、何かが欠けてしまう印象を受ける。方法的に実行される圧倒的な多様性のものとで何かが欠けるのである。おそらくマティスにとってそれが個体であった。物は、みずからによって物である。女体はそれ自身によって女体である。あるいは女体はみずから女体であることによって、それじたい一つの喜びである。絵画は、どのように方法的に制御されようと、一切の方法の一歩先において、みずから個体化する。この一歩先において成立する個体性をどのように出現させるかという課題が創作の要であり、抽象絵画ではまるごと欠けてしまう、というのがマティスの洞察であったように思われる。そこでキュビズムの技法を組み込みながら、かろうじて個体が出現し、そして維持されている場面を、マティスは何度も描こうとしている。その最高傑作の一つが、「ピアノのレッスン」である。
個体性の出現は、「それ自体」を成立させる仕組みを含んでおり、それは個体の認識から制御されるのではなく、認識の限界点において、それじたいで出現する事態を捉えようとする。行為をつうじた制作のプロセスでは、このプロセスのさなかにある経験そのものが、同時にそれとして形成されていくような仕組みを備えているに違いない。個体化こそ、世界の多様性のもっとも基本となる仕組みであり、その課題を落としてしまえば、マティスがピカソに対してつぶやくように「絵の描き方を知らない者」ということになる。個体は、時として潜在性に留まっていたり、時として前景化する近現代のコスモスの中心概念のひとつなのである。
個体の出現そのものは、一つの新たな現実の出現である以上、それじたい創発である。創発には、産出的因果が含まれるので、通常の因果関係では捉えることはできない。自然界には、新たな現実が出現しても、ただちに消滅してしまうものがほとんどである。溶液の色が、赤、青、赤、青と振動するベロウゾウフ=ジャボチンスキー反応も、ある周期的作動の出現であるが、放置すれば一分程度で終了する。他方、家屋の透明な窓ガラスは、ケイ素化合でできているが、約600年程度の周期で、ケイ素分子は移動している。こうした移動が、風や小石が当たったときのガラスの弾力を支えている。だがこうした周期的運動が確認される以前に、外的な理由でガラスそのものが壊れてしまうというのが実情である。創発には、それまで存在しなかった周期的運動の出現が含まれる。これはそれまで存在しなかった変数が出現してくるようなものである。新たな変数の内在的出現こそ、創発の特徴である。この周期的運動そのものの現れが個体である。そのため人間の眼では、ごく短周期のものも超長周期のものも、感覚知覚ではみることができない。どのような創造的行為も、こうした創発のプロセスがどこかに関与することによって、意図や設計や構想の一歩先で、創発の出現に寄与することができる。
創造性とは、創造主による世界の創造や、職人が手本やモデルに合わせて物を作るようなものではない。こうした表象は、創発を出発点と産物に固定し、両極だけを捉えた一つの錯覚である。むしろ創造とは創発のプロセスのさなかにあって、プロセスの進行の各局面で、新たな経験が出現していくように、試行錯誤を繰り返すことである。プロセスのさなかにあっては、そこで必要とされるのは調整能力である。プロセスのさなかで万全の注意を払っても、なお創発が起きる場面では、制作者にとっては何が起きているかを理解することはできない。その意味で、理解は、結果として作られた成果や結果にしか届かないのである。
また個体が出現したとき、個体と個体の関係は、論理的には難題となる。個体は、それじたいで個体であるのだから、他のものとの関係を捉えようとすると、複数の個体の外から関係を捉えることになる。また個体を時間や空間に配置することはできない。個体とは、時間、空間的には一個の不連続点だからである。個体間の関係は、人間のもっている知識では、簡単に答えることができない。たとえば地表近くの大気下で、なんらかの個体が出現したとする。この個体化のプロセスには、重力、大気の湿度、大気の密度、光等々の条件が関与していることは間違いない。だがそれらの条件によって、個体が形成されるのではない。個体は、みずからどこかで閉じていなければならない。この閉じることの定式化を不可欠の条件として含むのが、個体である。このときこの定式化の下では、重力、大気、光の関係を捉える仕組みがおのずと廃棄されてしまう。閉じることの定式化のなかに、潜在的ながら、環境条件は含まれているはずだが、個体が出現した途端に、個体と環境との関係は一変する。それは個体と環境との関係だけが問題になるからではなく、個体にとっての環境という新たな局面が出現してくるからである。
そのため個体間の関係や個体と環境との関係を論じようとすると、とても奇妙な議論が展開されてきた。そのひとつがルネッサンス期に見られたマクロコスモスとミクロコスモスの関係であり、共振、共感、供応その他の言葉で表現されようとしたものである。パラケルススに見られるように、病気の原因は、食生活からも、環境からも、他の惑星からもやってくる。それらの影響の善悪を区別しながら、悪を排除し、善を取り込むことがミクロコスモスの働きである。ところが善悪の区別の基準は、人間と豚とでは異なっており、個体ごとに異なる。そのためこの基準が個体の特性となる。
この難題の現在での解決の仕方は、個体とはみずから断続的に個体化するプロセスであること、さらにプロセスのさなかに個体と環境との固有の関係が出現することを組み込むことである。これによって新たな環境概念のモードを形成することができる。そこに踏み込んだのが、オートポイエーシスである。
2 オートポイエーシスと制作
オートポイエーシス(自己制作)は、個体化の仕組みを定式化したものである。ところがこれを言語的に定式化しようとすると、事柄の半分しか記述することができない。そのことの理由は、追って明らかになる。
個体をモデルとした論理的な仕組みは、カントの『判断力批判』にも出てくる。カントの場合、美的なものと有機体の美しさを、ともに分析的な悟性の能力を超えたものとして、固有の人間の能力にかかわる事象として捉えようとしていた。たとえば有機体の基本的な仕組みとして、個々の要素は原因にもなり結果にもなるようにして、ひとつのまとまりを形成する。また個々の要素は、それぞれが全体となんらかの関係をもつ。部分‐全体関係というカテゴリーは悟性のカテゴリー一覧には存在しないので、これは高次の事態である。しかしこの二つの論理関係では、実は時計にも当てはまっている。だが時計と有機体とは、どのようにみても相当に大きく隔たっている。そこでカントは、有機体の特徴を、たとえ部分が壊れても、それを自分で修復できる、という点で考えようとした。このときどのような優秀な職人が作った時計であっても、壊れたときに自分でそれを修復するような時計は存在しないこと、また創造主が介入しなくても、まるでそれが介したかのように有機体は要素の破損を自分で修復している点だと論じている。しかし自己修復という第三の有機体の特徴は、論理的に詰めると、相当にやっかいな問題を引き起こすように思える。
たとえばこの有機体に内在する修復の働きは、かりに損傷がなくても、働くことができるはずであり、それを認めてしまえば、有機体は自分自身を作り変えていくことさえできることになる。そしてそこから先は、自分自身を作り変える「有機体」が、おのずと新種になっていくことも可能となる。おそらくカントのことだから、こうした事態には気づいていたに違いない。しかしそれを認めると、神による種の創造の教義に抵触し、場合によっては怪力乱神を語るところまで行きかねない。危なっかしい可能性に気づき、その手前で留まるといういつものカントの自己抑制が発揮されて、この問題にはそれ以上立ち入らないでいる。この自己抑制の精神に貫かれた限界設定を、カントは「批判」だと呼んだ。
ここで問題にしたいのは、第一の条件の各要素は、原因にもなり結果にもなるようにして、一まとまりのつながりを形成するという場面である。これは因果連鎖がどこかで円環的に閉じていく事態を想定している。そのことによって個体が出現する。出来上がった個体は、外に目的をもたないので、カントの用語でいえば、「内的目的」であることになる。他方、食物連鎖で、他の物に食われ、他のものに役立つ関係は、「外的目的」だと呼ばれた。つまり有用性である。他との関係で設定される手段‐目的関係をつうじて捉えられたものが、外的目的である。たとえばイワシは、成体になる前に98%はより大きな魚や動物によって食われてしまう。イワシは彼らの有用な手段となる。しかしイワシは、他のものに食べられるために生きているのではない。イワシはたとえ短い人生であっても、それ固有に生きているに違いない。その固有に生きているという場面が、「内的目的」である。その内的目的の論理的定式化の一つが、因果連鎖が円環的に閉じることである。
内的目的は、個体の出現の必要条件の一つである。芸術的制作でいえば、作品はどのような意味でも直接何かの役に立つことを目指しているのではない。作品は、それとして個体である。鑑賞という点で考えれば、作品はそれに触れることによって、自己触発をつうじて情動的に快の感情をもたらし、感性的に美の理念への判断を誘発する。快と美の合一が、カントでの最高の芸術的経験である。だがこれは作品を鑑賞する場面である。
これらを制作行為という点から再考してみる。カントでは、芸術家に固有の営みとは、構想力(想像力)が悟性の強制から解放されて自由になり、その結果構想力が概念との一致を越え、悟性に強制されることなく、おのずと悟性に対して豊かで、いまだ展開されていない素材をあたえることである。一般には、作ろうと思うものを明確に概念(たとえば建物や橋や塀)として手にし、この概念を構想力の表象を用いて感性化し、具体化する。つまり個々の具体的な建物や橋や塀を思い描く。しかしこれだけであれば、職人の行っていることと同じである。
芸術家が行うのは、個々の具体化のなかに概念(悟性)に制約されないような新たな素材を導入していき、美的理念を新たに提示することである。しかもこの新たな理念の提示においても、既存の概念の感性化がおのずとなされているように、つまり所与の概念とおのずと整合的であるように制作することである。芸術的な才能は、本人の意識的な側面に基づくのではなく、むしろ主体的な天賦の自然性であることになる。ここに含まれているのは、自由な想像性(創造性)と悟性的な規則性をどのように折り合わせているかであり、その一面が想像的なものの自然性という事態である。カントの場合、この二つを両立させる高次の能力はないのだから、ここでは根源的に同一化できない二つの事態の拮抗が制作の基本的な事柄として、取りだされていることになる。
カントが有機体を材料としながら個体の定式化を行って後、約200年後に個体の出現についての新たな定式化が試みられた。それがマトゥラーナ、ヴァレラによるオートポイエーシスの定式化である。こうした基本的な発想から組み替えるような定式化は、200年に一度のぐらいのものだと考えてよい。発想の基本は、マトゥラーナが抱いていた。それをヴァレラもルーマンもカワモト(私)も、次々と新たな局面を見出すようにして展開してきた。それぞれがかなり多くの著作を著し、多岐にわたる展開を行い、そしてルーマンは神経の自壊により、ヴァレラは肝臓ガンが全身に転移して亡くなった。カワモトは何度か手術を繰り返しながら、まだ生きている。オートポイエーシスそのものは、現在の人間の経験では、やはりまだ無理のかかる構想のようなのである。しかしこれによって個体性を中心とする新たなコスモスの構想を手にすることができるようになった。
カントでは、因果的に連鎖した要素が一つの閉域を形成していた。その場合には、要素の集合は一応決まっている。ところが要素は、生物の場合一定期間を過ぎれば、自分で壊れてしまう。タンパク質だと約100日である。そこでそれを再生産する仕組みを導入しておかなければならない。また再生産されたものも、元の要素のように要素の集合に入るかどうかはわからない。タンパク質であれば、末端が少し変異していただけで、要素にならないことはよくある。また逆に末端が少し変異してもそれでも要素になることはある。それでは要素の集合を決めているものは何か、ということになる。それはたとえ変異した要素であっても、次の再生産のプロセスに入るものは要素の集合のメンバーとなると考えていく。
このあたりのことは少し条件を代えると分かりやすくなる。制作を制作プロセスのさなかで考えてみる。部分的な要素をつくってみる。この要素が作品の一部として残るということは、それをもとに次のプロセスに進むことができるかどうかにかかっている。その要素から次の局面に進むことができれば、その要素は作品の一部となる。次のプロセスに進むことができなければ、再度その要素から作り直しである。制作の試行錯誤は、一般に次のプロセスに進むことができるかどうかである。次のプロセスに進むことができたものは、その手前の部分が集合のメンバー(構成素)として確定していく。そしてプロセスの接続点には、ほぼ必然的に選択肢がある。このときプロセスが進めば、なにか特定の傾向がそのプロセス群のなかに出現してくることがある。そのとき作者は、よく分からない力によってそちらに引っ張られていくと感じることがあり、時としてまるで出発点では気づいていなかったものに向かって行ってしまうこともある。
ところがこのプロセスの連鎖は、どこまでも続くわけではない。制作プロセスの連鎖が、どこかのプロセスに接続して、プロセスの閉域ができたとき、そこに作品の個体が出現する。するとこれはすでにある個体の必要条件を述べているのではなく、個体そのものの出現の仕方を定式化しようとしていることになる。しかもプロセスのさなかを進む経験は、個体が出現したとき、それが何であるかを知りようがない。作者は、行為として作品の個体を作り出したのであって、実際にはみずからの制作行為をつうじて、個体の出現に立ち会ったのである。そのため出来上がった個体は、作者はそれを目指したわけではなく、それが何であるかがわかって制作したのでもない。そのため作者は、自分の作品についてほとんど語らず、それについて後に評論家の語る批評を「本当にそんなことなのか」という思いで聞くことが多い。
制作プロセスと作られた作品は、異なるディメンションにあり、二重の現実性として成立している。ここがオートポイエーシスの要となる事態の一つである。カントでは、認識の範囲内で、構想力と悟性的な規則をおり合わせる点に、創造性の才能や才気が関与していた。ところが制作行為で考えると、制作する行為と作品の間で、埋めることのできないギャップを含みながら、作品は固有の現実性として成立することになる。ここに制作行為での創発(出現)がある。ある意味で、作品は制作プロセスの副産物であり、このプロセスから手が届かなくなったときに、作品は出現する。あるいはある構想やアイディアを抱いたとき、それを直接制作しようとするのではなく、ひとときそれらを括弧に入れ、まったく別様のプロセスを進んでみる。そのプロセスの副産物が、当初の構想やアイディアの現実の形であるように、プロセスを進んでみるのである。
ところでこうした事態を言語的に定式化してみると、かなり奇妙なことが起きる。それぞれの個体は、プロセスが閉域を形成することをつうじて一つの個体が出現する。それは物体であれ、生命であれ、身体であれ、社会であれ、地球であれ、プロセスの閉域が出現することによってそれぞれが個体化する。それらには上下関係はなく、また視野のなかに配置されるようなものではない。縦横に内部を交叉させながらそれぞれが交差する円環のように個体性を形成している。観察者から見ると、こうした図柄にしかならない。そしてそれがオートポイエーシスの提示するコスモスなのである。ところがそれは視覚的表象であって、実際に進行しているのは複数の各プロセスでの個体化であり、個体の維持である。ここに認知と行為の二重の分岐が必ず含まれてしまう。このことがオートポイエーシス的コスモスの特質である。このため言語的な定式化を行おうとすると、事柄の半分しか定式化できないのである。
さらに生成プロセスが、どこかで閉じていく場面では、新たな事態が出現していることがわかる。たとえば今プロセスとして円を描くように走り続ける行為を行ったとする。純粋に走り続けているだけである。ところがそれは世界のなかに内-外という区分(円の内と外)という区分を作り出してしまう。ただプロセスを維持するような走り続ける行為は、その行為とともに、意図とも目的とも異なる仕方で、別様の現実を出現させる。ここでも現実性は、二重に形成されていく。これは世界の多様化にかかわるもっとも基本的な仕組みの一つである。これを詰めていくと、個体の形成と環境との関係に、多くの新たなカテゴリーが見出されてくる。
こうした特質は、小さなものではない。第一に視覚的判別された図柄と現に行為によって形成される個体化の回路は、つねにズレてしまう。第二にコスモスのイメージは、伝統的に視覚像、視覚イメージをもとに形成されている。カントの個体性の定式化も、基本的に視覚像をもとに定式化されている。ところが現実性の大半は、こうした視覚像の手前で起きているのであり、視覚像とは異なる回路で形成されてきている。つまり現実のコスモスのありかた、コスモスの内実を捉えるためには、視覚像とは異なる回路を見出さなければならない。第三に視覚像の手前の現実性には、多くの感覚的経験が含まれるために、それを前景化するためには、いくつもの試行的な試みが必要になる。そこでの企ては、見えないものを見えるようにする企てであるよりも、見えるものと見えないものの間を繰り返し浮かび上がらせるような試みとなる。それは芸術の課題とほとんど同じである。そしてそれは基本的には触覚性の現実にかかわっている。
ところが知識の本性上、触覚からコスモスが描かれることは、これまでほとんど試みられないままできたのである。アリストテレス以来、ヨーロッパの知性は、見ること(観照)、考えること、自己超越したもの(イデア)を捉えることに主要な課題を見出してきた。そのため触覚性の現実をどのように捉えるかを課題の外に置き続けてきたと考えてよい。そこに踏み込んでみたいと思う。
触覚性コスモス
たとえば動きは、感覚的確信であり、動いているものとそうでないものはただちに感覚的に判別されている。いままさに動こうとしているものは、それとして動きの予感に満ちている。それは動きの感触として、間違いなく感じ取られている。ダ・ヴィンチの行ったことは、線を微分で繰り返し引くことをつうじて、この感触を視覚像としても感じられるようにしたことである。現代のカオス理論は、カオス運動を「非規則的で非周期的な運動」として定式化し、樋を流れる雨水や、動物の血流の速ささえ、一定の複雑さを内蔵するカオス運動であることを明らかにしている。こうした複雑さは、感触として感じられているものであって、視覚の手前にある事象である。コスモスのなかには、一定の複雑さが内蔵されていることを明らかにした点で、カオス理論のもたらした成果は小さくはない。運動性の感触を、数学的理論として展開してくれたのである。
静物の触覚的な姿は、どのようなものなのだろう。物をそれに触れた感触として捉えることが一つの手掛かりである。視覚は過度に詳細に分節している。身体的な生存にとって不要なほど秩序化され、詳細になっているのが視覚である。そうなると視覚を括弧に入れるか、程よく緩和してしまうことが考えられる。眼前に四本足のイスがあるとする。これの触覚的感触はどのようなものだろう。このイスを覆うようにシーツや毛布や布団をかけてみる。もっこりとしたなだらかな起伏のあるイスがそこに出現する。掛ける物によって、起伏もキメも奥行きの感触も変わってくる。これを触覚的なイスの姿のだと考えてみる。視覚と触覚は一対一対応はしないので、触覚的感触を表す手法は、まだまだ多くのことを開発できそうである。
3 触覚性オートポイエーシス
触覚性の現実を新たに制作しつづけたアーティストを二人取り上げてみる。2010年5月に亡くなった荒川修作は、1980年代の途中から絵画の制作を止めて、作品にかかわる人の身体そのものを形成するような構想に取り掛かっていた。絵画を鑑賞するさいには、身体条件が密接に関与する。見る人の位置や姿勢や距離が作品の鑑賞に密接に関与する。するとこの身体条件に働きかけて、身体そのものを作り変えるような場所をそれとして作品にしてしまうような構想に進んでいった。ところがそのことは、作品の見方を変えるというようなことに留まらなかった。あるいはそれではすまなかった。むしろ作品を鑑賞するものではなく、身体を含めた「経験を形成する場」として作品を構想したのである。ここでは作品は、何を描いているか、何を技法として実行したのかではなく、作品においてどのように経験が変わり、どのように経験が形成されるのかにかかわる「一つの実験」として作られていくことになる。それが「奈義の龍安寺」(岡山)であり、「養老天命反転地」(岐阜)である。もちろん見た目の装飾として、存分に楽しむことのできる要素は埋め込んである。ただしそれは「芸術的な装飾」である。
荒川修作は、当初より意識が焦点化して、じっと見る、しっかり見るというような経験を誘導したのでは、経験が拡張されないと考えていた。そこで作品にかかわる経験を広げて行くためには、注意を分散させ、分散した注意がそこでの経験の形成をつうじて再度おのずとまとまりを獲得していくような場所として、作品を構想した。この注意の分散を引き起こす運動が、位置を指定し行為を組織化する「ランディング・サイト」であり、この分散した注意が、再度新たな集合を形成する運動を「切り閉じ」だと呼んだ。奈義の龍安寺は、円筒形の筒の中に京都の龍安寺が射影されており、内部では安定した足場はどこにもないので、作品の内部にいるだけで、身体も感覚もおのずと形成されてくる。一時間もその内部にいると苦しくなるので、作品の外に出て休まなければならない。
触れることによってその作品を知り、経験するだけではなく、感覚そのもの、感度そのもの、経験そのものを形成させるような作品は、作品の出来栄えとは異なる作品の価値をもつ。作品の完成度とは別の価値をもつのである。そうした作品は、大袈裟に言えば人間の経験を拡張しているのだから、ある意味で人類の遺産なのである。形成運動の誘発が作品に組み込まれている場合には、何度でも作品の中や作品の前に立ち、なおかつそこに不思議な感触が生じる。何かが新たに感じられるという感触である。実は光のごく近くにある激しい黄色を多用したゴッホも、見えない光と見える黄の間の経験の移り行きを繰り返し誘導する作品を作成した。二度目に見ると、この黄はいつもどこか懐かしいのである。ここで起きていることは、「作品を見ることが見ることそのものの形成」につながるような場所として、作品を描いたことになる。さらに三原色の配置、ことに赤と緑の配置を繰り返し作り続けたマティスも、「野獣派」の時期から原色の浸透による経験の形成を作品としていた。つまり色の経験の形成が、おのずと個体の出現にかかわるような場所を作品として作ろうとしていたことになる。この形成運動がおのずと個体の出現につながる場面を、システムの自己運動の仕組みとして定式化したのが、オートポイエーシスである。
こうした作品では、その内部にいるものの経験の形成が同時に進行するのだから、新たなコスモスの設計になっている。色の経験は、かたちのように一目分かるようなものではない。色は光とともに変容し、かつ相互の配置や量的な延長によって、色の経験そのものが変化していく。こうして芸術の課題になかに美を実現したり、別様の美を作るだけではなく、経験そのものを拡張していく課題が含まれていることがわかる。この経験の拡張こそ、オートポイエーシスが本来定式化しようとしたものである。つまり新たなコスモスの課題を設定したのである。
2010年6月に死去した舞踏家の大野一雄は、身体内に生じる身体の触覚性内感(身体のこれという感触)をさまざまなかたちで呼び出し、それにかたちをあたえようとしている。身体には思い起こすことのできない記憶として、植物性や動物性が含まれている。それを呼び出していき、身体や動作の姿としてかたちや振る舞いを作り出していくのである。
大野一雄が、植物のなかに身を潜めている図柄がある。これは植物へと自己投入しているのではなく、またかたちを植物に適合させているのではない。そんなことであれば、姿やかたちを似せればすむことである。それでは人間身体の可能性の一つでもある物真似能力を活用しているだけである。もっとも人間のように種を超えて、別の種の物真似にまで進むものが稀有であることは、紛れもない事実である。また人間の身体のように何にでもなりうる特性を局限的に活用しているのでもなければ、身体そのものの美しさを際立たせているのでもない。身体そのものの美しさは、動物のレベルでみれば、ダーウィンの言う「雌雄淘汰」に依存するものが多い。クジャクの羽や大鹿のツノのように、その美しさが種を超えて理解できるところにまで拡大されているものも珍しくはない。しかしメスのクジャクには、あのオスの羽はどのように見えているのだろう。あるいは樹林のなかを動き廻るには邪魔になるほどのあの大鹿のツノは、メスにはどう見えているのだろう。いずれにしろ身体の豪華さや際立ちは、人間にとって視覚的に見えやすいところを見ているだけになる。あるいは生存の必要性を超えた身体の拡大は、種を超えても容易に見えるということなのかもしれない。身体を性の機能性に引き寄せたのでは、身体の個体性にいまだ届いていないのである。
身体の生存機能は、有用性によって判別できるために、比較的見えやすい。だが身体は、生存に適合するように機能化されているわけでもない。その点を極端に強調したのが、ドゥルーズ、ガタリの提示した「器官なき身体」である。身体は、何にも向かわず、死は外からやってくる突然の偶然にすぎず、身体はみずから自身を消費するだけであり、消尽するだけである。それをもじって「器官なき感覚器」を求めれば、触覚がそれに相当する。器官のあるものは、それ固有に特定化する。視覚も聴覚も精密化する方向で形成されてきた。ところが器官のないものは、精密化とは異なる精確さや豊かさを備えているのである。
身体の植物性は、皮膚や肉や骨が破損したとき、おのずとそれが自己治癒するところに含まれている。空間内の移動の能力(動物性)を放棄して、自己再生能力を全面的に活用したのが植物である。その植物性を、思い起こすことのできない記憶を呼び出すように、触覚性の感度で呼び出し、環境内でかたちをあたえていくのである。この場合、身体の触覚性内感からおのずとそれがかたちを取るように振る舞うことが、そのまま身体表現となるような経験の回路を探し当てていることになる。これは一つの表現であるが、そのままみずからの身体の発見でもある。このとき触覚性内感は、なんども感じ直され、「この感触」というかたちで獲得される。それは身体の新たな可能性と調整能力を見出すことでもある。触覚性コスモスは、新たな現実性が浮かび上がるたびに、さらに多様になっていくのである。みずから多様化していくコスモスこそ、触覚性コスモスである。
参考文献
荒川修作+マドリン・ギンズ『建築する身体』(河本英夫訳、春秋社、2005年)
大野一雄『稽古の言葉』(フィルムアート社、1997年)
カッシーラー『個と宇宙』(薗田坦訳、名古屋大学出版会、1991年)
河本英夫『システム現象学』(新曜社、2006年)
河本英夫『メタモルフォーゼ――オートポイエーシスの核心』(青土社/アマゾン・ジャパン、2002年)
マトゥラーナ、ヴァレラ『オートポイエーシス――生命システムとは何か』(河本英夫訳、国分社、1991年)
ボア、イヴ・アラン『マチスとピカソ』(宮下規久朗監訳、関直子、田平麻子訳、日本経済新聞社、2000年)
メニングハウス『美の約束』(伊藤秀一訳、現代思潮新社、2013年)
要旨
本稿ではコスモスを、触覚から描こうと試みている。そのとき視覚的に描かれるコスモスの図柄は、一つの比喩であり、一対一対応のない射影の一つである。このコスモスの要点となるのは、個体であり、個体は世界内の一個の不連続点である。こうした個体からなる世界をコスモスとして描くためには、多くの工夫が必要となる。本稿では、個体化のプロセスを組み込んだシステム理論であるオートポイエーシスを中心にして、議論を進めている。このシステム論では、多くの場面でプロセスの二重性が出現する。そうした二重性が、世界そのものが多様化していくことの基本的な機構になっていることを論じた。そのとき多元性とは、視野内に多くの個体が集合的に配置されるようなものではない。むしろ多様化の内実は、世界内でのみずから自身の行為をつうじた制作によっている。そのさいの制作課題は、鑑賞者から見た美の制作ではなく、人間の経験そのものを拡張することである。