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カップリング――感覚の活用

システムはみずからの構成素を産出しながら作動している。他のシステムとの連動を図りながら作動しているわけではない。にもかかわらず密接に連動している複数のシステムがある。たとえば心的システムと身体システムがそうであり、心的システムとコミュニケーションを構成素とする社会システムがそうである。複数のシステムはそれぞれ一貫して作動しながらそれでもなお連動している。このとき複数のシステムは、第三項や中間項を介在させることなく連動している。そのためこのシステム間の関連を捉えるためには、新たな用語を導入しなければならない。それがカップリングである。カップリングとは、「一義的決定関係のない媒介変数を相互に提供しあっている複数のシステムの作動上の関係」と定式化できる。 だからカップリングしている二つのシステムの関係はすでに内的である。
ルーマンの定義によると、カップリングとは「互いに他を環境とする二つのシステムの関係」(1)となっている。ところがこれは広すぎる定義である。システムがみずからの作動をつうじて自己と環境を区分したとき、このシステムの自己以外はすべて環境に区分されてしまう。免疫システムと社会システムを例にとる。免疫システムはみずからの作動をつうじて自己と環境を区分する。社会システムも同様である。社会システムは免疫システムの環境に区分され、免疫システムは社会システムの環境に区分される。だからこの二つのシステムは相互に他を環境としている。だが免疫システムと社会システムには内的な連動関係がなく、カップリングの関係にはない。そのため定義を限定しなければならないのである。少なくてもカップリングは相互作用、相互関係、相互前提のような相互に外的に関与するもろもろのカテゴリーとは異質なものであることがわかる。
いま複数のシステムを並置する。たとえば心的システムと身体システムを横に並べたとき、通常それらを統合するより大きな第三のシステムを想定し、二つのシステムの上位に描くことになる。これが観察者に典型的な要素‐複合体という考えかたである。積み上げ方式と呼んでよい。二つのシステムに連動関係があれば、第三のものによって統合され、この第三のものが上位に位置づくというのである。ノリの細胞は、ただ同じ細胞が並置されつながって、ノリ巻のさいに提供される。細胞同士は、横に並んでいるだけである。おそらく細胞間連接物質はあるはずである。また原核細胞から真核細胞の形成では、自己複製系(核酸が構成素)と自己維持系(タンパク質が構成素)が複合して、それぞれに備えていた機能の一部を他方に譲渡し、それぞれは非自律系となって、より高次の真核細胞という単位体を形成する。これらの場合要素を組み合わせて複合体を考えることもできる。
ところが心的システムは、それじたいで一貫して作動し、みずからで境界を形成する。この境界によって身体は、環境に区分される。他方身体は一貫してみずからの作動をつうじて境界を形成し、心的システムをみずからの環境に区分する。かりに第三のシステムによってこれらが統合されていたとしても、心的システムの作動からも、身体システムの作動からも、この第三のシステムは環境に区分されるだけであって、それぞれのシステムの上位に現れたりはしない。複数の要素システムの上位に複合システムが配置されるような、階層関係そのものが消滅しているからである。(2)
カップリングにもっとも近いのは、ウイトゲンシュタインが言語と世界との間に設定した「内的関係」であり、質が異なるにもかかわらず密接に関連しているものである。この点を再度確認する。イスと言う語と物理的な腰掛けるための物体を例に取る。イスと言う語で、四本足のこの物体を表わさなければならない必然性はない。イシ、イネ、イノ、イタ、イメ、イコ等他ではいけない理由はないはずである。もとより別の語に置き換えなければならない理由もない。語と物理的物体を関連づけるさい、語の側からも、物体の側からもその関係を理由づけるようなものは導くことはできない。語と物体の関連を一方の側からのの決定関係で置き換えることはできないのである。イスという語は一定の音のまとまりである。音のまとまりが、物理的な物体と接点をもつ理由は、そもそもどこにも存在しない。そのため音のまとまりと物体との関連を第三項のもとで、配置することもできない。つまり語と物体の関係をより強力な関係のもとに包摂することは不可能である。
これを論理関係で言えば、何も必然的な関係はないが他に置き換える理由もないということになる。語と物理的物体が結びつく必然性はないが、別のものに置き換えなければならない必然もない。これは言明形式で記述した論理関係である。そのため内的関係は、言明の二重否定によって特徴づけられる。ところが現実のシステムではこうした言明形式の表現ではとても覆い尽くすことができない。つまりウトゲンシュタインの内的関係はもはや粗雑すぎて、そのままではあまりにも多くのものをこの語に託しすぎるのである。内的関係は、基本的に基礎づけ関係の否定から組み立てられている。どこかに語と物の関係を根拠づけるものがないかと探求したのち、根拠はないが別の関係に置き換える根拠もないと答えている。あくまで根拠関係から考えようとしている。ところが語と物の現実の関係は、連続的に形成され続けて維持されている関係である。この現実のあり方は、根拠への問いに比べてはるかに広範な経験にかかわっている。
実のところこの内的関係は、質の異なるものの間の関係すべてにかかわっている。カップリングは、あらゆる質の間の関係で成り立っている。(3)質の違うものの間には、必然的関係はいっさいないように見える。特定の色と特定の形が結びつく必然性はどこにもない。アリストテレスによれば、「質とは、相互に共通の全体に組み込むことのできなもの」のことである。赤が円と結びつかなければならない理由はない。ちなみに赤の地の布に白い円が描いてある無数の旗(逆日の丸)が視界一面揺れ動いていたら、ただちになじむことはできない。 異なった質の間に、なんらかの親和的な関係が見えてくることがある。いま一面うす茶色の色紙を眼前に置き、じっと見つめていて、何かの形が浮かんでくるまで待ってみる。色が形をとるまで待つのである。必然性はないが、特定の色と特定の形の間には、何らかのつながりが出てくることがある。腸ガンの手術後の最晩年のマティスは、ベッドに横たわったまま切絵で創作を再開している。このとき紙の色から形をイメージしていくような手法をとっている。色は、暖かい寒いというような表情をもつ。表情にさらに形を与えてみるという手法がとられているように思える。(4)
表現の技法が格段に拡張されたとき、異なる質間の接続を切り替え、新たな質の間の接続を開発するような回路を作り出していくことが可能になって来る。たとえば次のような問いを立ててみる。一切が変化していく世界を色で表すとどのようになるか。また形であらわすとどのようになるか。さらに問いを限定して、たとえば透明な飽和溶液から突如結晶が出現するような「相転移」を、音で表すとどのようになるのか、 色で表すとどのようになるのか。 これらの問いはただちに解答できるとも思えないし、また一通りに決まるとも思えない。またうまくいった解答は、数学の答えのようなものではなく、むしろそれ自体一つの芸術作品に近いもののようになるはずである。(5)
「速度」については、一面もやのかかった風景のなかから列車の先端だけが出てきている画像で表されたことがある。ターナーが「雨、蒸気、速度――グレート・ウエスタン鉄道」で試みている。白い闇のなかから、突如形が出現することを「速度」だと呼んだのである。速度と形の出現を関連づけているのである。
感覚質の間の自在な切り替えを前面にだして作られた作品に、映画監督ゴダールの『右側に気をつけろ』がある。音と映像と語りが全編断片となって、かろうじてつながっている。作られた映画を飛行機で運ぶ白痴殿下、音が始源から湧きあがってくる現場に繰り返し戻りつづける作曲家リタ・ミツコ、そして次は傑作ができるはずだと不明な発話を繰り返すアリの三ストーリ仕立てのこの作品は、ストーリをばらばらにして接続を切り替えているだけではない。音の位置から映像や語りを導入したり、語りの位置から音や映像を導入したり、映像の位置から音や語りを導入している。それ以上切り離せばばらばらになる境界線を縫うように、音と映像と語りを接続しているのである。(6)
これらで語られているのは異なる質の間になにも必然性はないものの、かすかに見出されている接点である。質の異なるものにかすかなつながりが見えてくるというのは、詩的隠喩に似ている。「愛は光を受けて微笑む小石」、「憎みは迂回されつづける手紙の希望」、「霊媒が目をわずらい船にのって歓喜をこぐ」、「地球を留守にする愛は、夏によろこぶ町だ」である。二つのものの距離感を逆手に取る隠喩の回路に、質の異なるものの新たな接続が見えてくる。隠喩はかすかにつながることを本意としている。
いま次のような経験の操作を考えてみる。たとえば植物は特定の色と形をそなえている。色と形は独立の質だが重なっている。葉の緑とガラスの花瓶の緑は、量感と厚さの感覚がまったく異なっている。葉の緑の量感を、透き通るようなガラスの緑は持ち合わせてはいない。この量感は葉の緑の不透明さに関連している。葉に固有の緑と葉の形の間には、どこか否応のない関連がある。ここで葉の色の位置に視点を導入してみる。色がそれとして成立するその場所へ視点を入れていくのである。その位置から同じ葉の形をみる。色の位置から形を見るのである。色と形はぴったりと重なっているのであって、その二つには隙間がない。隙間がないものの一方から他方をみるのである。
この経験の操作には、二つの事柄が伴っている。第一に隙間のない二つの質を見分けているのは、これらの質を「位相化」しているからである。色と形はぴったりと重なっているものの、重なっているものから複数の質を取り出すことができる。それは質がそれとして固有性をもつからであり、それとして成立することのなかに視点の導入が可能になっているからである。場合によっては、質はみずからを限定して質としてあるという西田幾多郎的な語りの方が分かりやすいかもしれない。さらにそこから他の質である形をみる。ここがこの経験の第二の操作である。色と形の間には隙間がないのだから、距離感として見ているのではないし、志向的に形へ向かう必要もない。色に全面的に浸透している形をみるのだから、回りを取り巻くものを感受するような見方である。
分かりにくければタップリと水を含んだスポンジを想定する。スポンジの位置に視点を入れて回りの水をみる。スポンジの回りには全面水が浸している。これと同様に色の位置から形をみるのである。こうした経験の操作によって、カップリングしている事態の距離感のなさを語ることができる。カックリングは位相分析によって異なるものを判別することができるが、いわば隙間のない関係である。
この隙間のなさは、空間的なものではない。というのも色と形を空間で関連づけているのでも、色と形の違いを取り出すさいに空間内で区分けしているわけはないからである。位相化というのは色一般、形一般のように領域化が可能であり、それを現に実行しうることを意味する。にもかかわらず両者の間に隙間がないというのは、第三項が存在しないことである。どのようにしても第三項を取り出しようのないものには隙間がない。カップリングで表現されているのは、こうした隙間のなさである。ここで行った経験の操作は、知覚に属している。作為的に質の間の接続を切り替え、視点の移動を行い経験の場面を変容させたのである。知覚の作為的な操作によってかろうじて取り出されるものを、オートポイエーシスでは行為をつうじて実行しているのである。スポンジは、みずからの作動によって自己と水を区分し、そのとき水はスポンジに浸透している。こうした比喩に喩えられるような事態を、システムが作動をつうじて現に実行するとき、それがカップリングである。
質の異なるものの間には、必然的なつながりがない以上、このつながりの距離感には変動がある。ゴムの緑の葉を思い浮かべる。フットボールを平面化してような形と一面の緑がある。色と形には必然的なつながりはない。いま形を残し、色を一〇センチ上方に浮かび上がらせてみる。この操作は可能である。形から切り離した、一〇センチ上方の色はどんな形をしているのか。五〇センチ上方へと持ち上げてしまえば、当初のゴムの形から完全に切り離される。そのためアモフルな緑を想定することができる。一〇センチ上方に持ち上げたとき、なおゴムの形の残響のようなものが残っている。これを五〇センチまで持ち上げたとき、形はアモフルになっている。いったい緑の色の形はいつ変化したのだろう。
質の間の変化は、さらにやっかいな問題を含んでいる。たとえば飽和溶液から突如結晶が析出してくるとき、流動する水溶液の分子が物体となる。ただの水溶液に、突如水溶液のうちから物体が出現してくる瞬間を思い描くことはできる。だが水溶液を流動する分子が、物体へと転化する変化そのものを知覚することはできない。これは二つの木を強く摩擦しつづけたとき、火がつくさいの運動から火のへの変化を知覚できないのと同じである。おそらく人間はこうした質変化そのものを知覚能力を持ち合わせてはいない。カップリングしているものの間を経験が移行するさい、知覚することはできなにもかかわらず、現に実行されてしまっている経験の行為がある。この経験の行為の仕方を変化させ、活用しようとするのがオートポイエーシスである。

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