アキレスとカメ
最初、導入でゆっくりと経験の幅を広げて、うまく経験が動けるような場所を探し出していくという作業をやってみます。どこから入ってもいいのですが、材料を使いながら進めてみます。誰でもいいのです。あなたは写真写りどうですか。写真写りはとても良いですか? 何割ぐらい落ちますか。5割落ち。写真写り? 全然だめ。写真を見たときに3割落ちているとか、5割落ちているとか、全然これよく撮れていないとか、すぐわかります。あれこれ考えなくても端的にわかるのです。問題はそのとき、10割の顔をいつ見たのかという問題です。10割の顔をよく知っていて、それと比べてこの写真は3割落ちている、5割落ちていると言っているはずがない。10割の顔は、実際には見たことがないのです。鏡で見たという場合でも、あれは二次元の切りです。鏡をよく見る人がいますが、その場合には、実は見たいものを見ているだけなのです。一回も自分の顔なんか見ていない。
にもかかわらず自分の顔がどのようなものであるかは、よく知っているのです、それを10割の顔だとしておきます。10割の顔はみなよく知っている。ただ、それが何であるかを描こうとすると、これに近いかなとか、あれに近いかなというかたちになる。顔というのは不思議な領域で、自分で自分の顔を見ることができないという特質を持っている。にもかかわらず、それが何であるかということを、どこかでよく知っている。皆さん、そうですよ。全員がこの顔を、自分を代表するものとして世の中に、さらには世界に晒して生きていく以外手がないのです。「顔がない」という人間は成立するのだけど、通常はない顔も「ないと言うかたち」で世界にさらして生きていくしかないから、顔を世界にさらして生きていくという仕組みは、避けられない。しかも、それが何であるかがわからず、晒して生きていくしかないのです。それは皆さんだけではなく、私もそうです。この、私の顔は黒光りしているでしょう。毎日走り込んでいるからです。ゴキブリの輝きですよ。しかしそのゴキブリの輝きが何であるかはよくわからない。とにかく、そういう形で生きているのです。
何であるかがわからないのに、よく知っている領域。それはわかるという生き方、わかるという仕方では、それをわかったところで、良くなるわけではない領域です。 良く知ればそれによって良くなるわけではないです。大切なことは自分の顔について、よく知ることではなくて、かりによく知る場合でも、良く知るとはどのようなことなのかが問題になります。そうすると、顔をよく知るためにはどうしたらいいのか。顔はそもそも見えないのです。自分が見ることのできない顔を良くするためにはどうしたらいいのか。
逆に心は簡単です。心なんて、ある意味では情報処理できます。大学では就職の面接の練習もやっているのですが、面接するとき、こういうふうに答えなさいというと、大体3週間もあれば、それぞれを「聖人君子」に仕立てて、企業面接に行かせることができます。心は、かなり簡単につくり替えができます。そんなもの、近所の犬にでもやってしまってもいいのです。問題なのむしろ顔です。顔は簡単に良くなりません。顔を良くするにはどうしたらいいのかという場合には手掛かりさえない。哲学は、こんな問題さえうまく解くことができないのです。見ることのできない顔を良くする、これは一つの課題です。顔とは一つの課題だと言ってもよいのです。俳優は、自分の顔が何であるかわからないところで、ともかく俳優という表現をやっていくしかない。顔は、自分自身から閉ざされている。だから顔は、世界と自己との境界線のことだと、格好付けて言葉で言っていいし、いろいろな言い方ができると思いますが、顔を良くするというのは至難の業なのです。
哲学というのは、最終的に顔を良くするための大きなツールだろうなというふうに最近思っています。30年哲学を教えてきて、いつまでたっても終わることのできない哲学という代物について、アリストテレスから始まってカントまで教えるわけです。こうした著名な哲学者でも、自分の書いていることがでたらめだとわかりながら書いたのだなという面があり、そのつらさがわかるものだから、改めて哲学について問うと、哲学は何のためにあるのかというと、「捨てるためにある」のです。手にして捨てる。捨てるという形の中で何かが生まれてくるわけです。だからみんな自分で哲学は終わりにすると覚悟を決めたのです。デカルトも自分で終わりにすると考えていた。カントも自分で終わりにすると思っていた。ヘーゲルも自分で哲学を終わりにすると公言していた。そう決めて実際にやったら何一つ終わらず、局面が変わって別のところに進んでしまった。これが哲学の歴史の実情です。そうしたことが延々と今なお続いている。
そこで、「捨てる」という形の中にある「創造性」が問題になります。ここのところをつかんでいただきたい。たとえばデュシャンという人は、ちょっと才気があった人です。大した才能ではないと思うけど、才気はあった。たとえば自転車をひっくり返しておいて、いろんな部品を外すわけです。壊していく。壊していくと途中でどこかとまるところがあるのです。止まっているところを、そのまま作品にする。だから、デュシャンの作り方って、基本的に壊すことでやっているのです。全体をイメージしておいて、壊して、壊して、さらに壊して、とにかく無作為に壊していったら、どこかでピシっと止まるところがあるのです。その止まるというのが何の働きなのかよくわからないけど、止まるところで一応設定して考えてみるというようなことをやった。だから、基本的には、アート&プロセスというふうにいった場合の、この「プロセス」というのは、実は捨てるという作業なのです。知識を捨てる。その捨てるということが実行できると、相当のところまで、つまりこれまで活用されていないところまでいけるだろうなという感じはあると感じています。
次に、ウサギとカメが競争するときに、やがてカメは草むらで眠っているウサギを追い抜きます。これを材料とします。そのときカメはなぜウサギを起こさないのか。ウサギを横目で見ながら追い抜くときの亀の顔はどのようなものか。カメは一生懸命走り、追い抜けないことを覚悟して走り続け、カメはそれでもレースを続けている。その状態で走り続け、草むらでウサギが眠っていた。カメはウサギを起こしてもいいのです。しかし起こさないままカメは通り過ぎてしまう。そのときのカメの顔を想起してください。ものを考えすぎではいけないのです。カメはそんな考えて苦しんでいるはずがない。
では、カメはなぜウサギを起こさないですか。なぜだと思いますか。普通に考えれば、カメはやっぱりレースだから勝ちたいと思ったとか、大体小学校3、4年生の頃からずっと聞かされてきた話なのです。余分なことに、能力のある者も途中で怠けてはいけないとか、能力のない者もコツコツ頑張っていれば勝てるとか、そうした無駄な尾ひれ背びれが付いて、話そのものが説教になっている。そうした説教は嘘に決まっています。ウサギとカメの話で重要なことですが、普通にレースが行われれば、99%カメは負けるのです。カメは、負ける勝負に颯爽と登場しているのです。当然ながら、ヨーイ・ドンで走ると早晩カメからはウサギの姿が見えない。ウサギの姿が見えないで、それでもカメはずうっと走り続けている。そうすると、ウサギとカメは何をやっているかというと、基本的には、ウサギは楽勝のレースをやっている。しかしカメは違う。勝ち目はないのだから。最初から勝ち目のない戦いに挑んだ。そう考えると、カメは自分のためのレースをやっていたはずなのです。自分のためのレースをやっていたから、延々と「競走」とは別のことをやっていたことになります。競走とは別のことをやっているカメの顔をやってみてください。ああ、いい顔だ、いい顔だ。その顔がいいのです。今の顔はどういう顔だったかというと、当惑と困惑です。それはいい顔ですね。その顔はいい顔ですが、なぜいいか本人にわからないから困るのです。
次に、ちょっと哲学っぽいことやってみます。食物連鎖で考えれば、生まれてきた鰯は、98%餌として食べられてしまう。これは事実です。しかし、鰯は、結果として食べられてしまう場合であっても、食べられるために生まれてくるのではない。少なくとも鰯は、固有に生きている。固有に生きているという事態と、いずれにしろ鰯は食べられてしまうという事態は、両方ともに事実です。この二つの事実を内的に関連付けてとらえるには、どのようにしたらいいのか。この問題は、まだ解けていない。二百年前にカントが出した問題です。こんな問題が解けないのです。生命体は、固有に生きている。固有に生きていることは間違いなのです。だが結果としては、98%が食べられるのです。ここのところが、どう折り合うのかという問題は、現在のところ解けない難題で、みんなここのところの隙間でいろいろ苦しむわけです。
例えば、医療の面で言えば、気持ちが沈んで病んで苦しみ、気鬱になっている人に対して、あの人はあの人なりの生き方だ。苦しいというのはあの人の生き方だと理解すると、固有のありかたを問題にしているのだけど、何かが足りないのです。つまり、本人は苦しいから、どこか違う状態に行きたいのです。この違う状態に行きたいというところが、どうやったら現在の自分と別の自分のところとつながるのかという場面で、うまく接続点になってくれるかどうかという問題なのです。この問題は、「固有に生きている」という事態が過度に自足してしまっている。つまり、気鬱で苦しんでいる人に、あなたは、あなたの固有性をどのように生きているのかと言われたら、苦しいことが私の固有性なのだ、と答えるよりない。それであれば、変わる必要はないのか。
「現存在分析」のような、病気さえ本人の固有の実存の在り方だと言うような、ある意味でどうにもならない学派では、考えて、考えて、考えた挙げ句、苦しみも本人の固有性だと言ってしまったのであれば、もはや治す必要もなくなってしまう。固有性というあり方が、あまりにも自足してしまっている場合、これは大きな難題を生みます。こういう場合、固有性を考える場合は、「展開可能な固有性」で考えていくしかないように思われます。展開性のない固有性というのは、本当は意味がない。展開可能な中で、どのように固有であるか。その固有性は、どの時点でも、自分にはわからないのです。というのも、展開可能なプロセスのさなかに居続けるのだから、分かるということとは別のかたちで、全力で生きていることになります。
その形で考えてみたときに、結局のところ、どういうふうにしてこの話がつながるかというところを考えていくと、いろんな問題が出てきます。もう一回確認するけれども、哲学の問題というのは、なぜ哲学の問題かというと、回答が一つには決まらないからです。回答が一つに決まらないところに向かって試行錯誤するわけです。そのときに、これが基本的な回答であるような決まり方をしてくれない領域、そこが哲学の領域なのです。だから繰り返しトライアルという形で、考え直したりするのだけど、にもかかわらず、しばしばトライアルにもなっていないことをやっている。それを踏み台にして、さらに次に行く。そういうことを繰り返している学問なのです。そんなことが実際にできる場合、年齢的に限界があって、そんなに長くはできないのです。実際にきついからです。だから、ある意味で、十分時間が経てば、違うやり方に変えていかないといけないのです。