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Toward the 22nd ‐Century World Philosophy (Ⅱ)

Hideo KAWAMOTO

Keywords: Naturalism, Methodical Procedure, The Task of Philosophy, Information Systems, Ecological Systems


“What is the purpose of philosophy?” This question reflects a suspicion always directed toward philosophy while simultaneously representing a challenge that philosophy imposes upon itself. For the meticulous recognition and confirmation of facts, one could hardly conceive any procedure superior to science and technology. However, if the scientific method represents the yardstick of all knowledge, is the only task remaining for philosophy akin to gleaning what is left when the crops have been harvested?

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Toward the 22nd-Century World Philosophy:
Philosophy as a Research Program

Hideo KAWAMOTO

Keywords: Virtual reality, Transformation of reality, Transcendental empiricism, Autopoiesis, Systems theory


1 Philosophy’s Confusion

The Emergence of a New Reality

There was a time when the bounds of reality were pre-established. During the period that Foucault distinguished from the modern era and termed “the Classical Age,” the contours of the world had been largely captured on world maps and opportunities to encounter the unknown world had gradually disappeared. Natural theology, based on the pre-established concept of a “mechanistic world,” holds that, once brought into existence, the universe is governed by necessity. In the world of necessity, first crafted as a theological creation, theology and mechanics (science) coexisted effortlessly in their different roles. Under this construction, religion and science coexisted complementing one another. Since classical mechanics has no mechanism to conceive new realities, the bounds of reality became fixed.

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芸術はどのような運動か

河本英夫

Key words
experience, affection, emergence, environment

KAWAMOTO Hideo ; Arts as movement

東洋大学文学部哲学科 112-8606 文京区白山5-28-20


 身体運動は、多くの場合経験に変化をもたらす。他方、経験そのものが運動を行うこともある。経験のなかには認識も含まれており、意識をつうじた認識では、多くの場合経験は主体と世界とのかかわりという設定で捉えられ、主体はどのように世界を捉えているかが問われる。この問いの総体が、「認識論」と呼ばれる。カント哲学の大半は、ここにかかわっている。
だが認識の手前で経験そのものが作動している基本的な場面がある。経験とは一つの運動であり、認識の出現の手前で、それとして作動していることである。ヘーゲルは、それを『精神現象学』で「途行き」と呼び、ジェームズは「純粋経験」だと呼んだ。経験そのものの作動のモードを作り替え、経験の弾力と可動域を変え再形成していく作業が、哲学や芸術や精神医学の共通の課題となる。この点で、運動とは、まさに経験そのものの本性なのである。


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東洋的フラクタル
――三浦梅園の構想

河本 英夫


 哲学は原理的な問いを行い、原理からの組み立てと同時に、それをつうじてそれまで見えていなかったものを見えるようにする作業を含んでいる。そしてさらにその作業の持続的な展開可能性の感触を含んでいる。それを手にすれば、なにか新たなものに触れ、新たな領域に踏み出し、繰り返しそこに触れることで、経験はさらに細やかとなり、新たな展開可能性を感じ取る場合に、哲学は有効に機能する。三浦梅園(1723-1789)は、江戸中期の大分の医師であり、日本人には珍しく資質上「原理論的」な問いかけを行う人であった。何を論じても過度に「原理論的」になる人のようで、書簡を見ても、相手に固有に語るというより、ともかくも原理を述べ続けるという書き方をしている。

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哲学の困惑
――科学哲学的試論

河本英夫

はじめに

新たな現実性の出現
 現実性の範囲があらかじめ確定していた時代がある。フーコが現代と区別して「古典期」と呼んだ時期で、世界地図で世界の輪郭はほぼ決まり、次々と未知の世界に出会う局面が終わった時期である。自然神学は、あらかじめ確定された「力学世界」を基調としていたので、世界はひとたび作られてしまえば、必然性が支配する。神学的な創造と創られたのちの必然的世界というかたちで、神学と力学(科学)は、役割分担しながら無理なく両立する。この仕組みのもとでは、宗教と科学は相互補完として両立している。そして古典力学には、新たな現実性を生み出す仕組みがないのだから、現実性の範囲は確定している。この段階では、現実と虚構、現実と想像性は、明確に区別できる。虚構はあくまで、現実性の向こう、あるいは現実とは区別されるエクストラである。それらは娯楽ともなり余興ともなるが、むしろそれに留まっている。

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自然知能とソフト・ロボット――科学哲学的考察

河本英夫

 知能が人間だけに限られたものではないことは、生物界ではよく知られている。たとえば働きバチのかなりの部分は、働かない。怠け者のように見えるが、ハチの組織を維持するうえで、一定量の働かないものを作っておくことは大切な仕組みのようである。何か極端な激変が起きたとき、たとえば毒物をせっせと食べてしまうような場合、絶滅を防ぐためにも生活の仕方が異なっていたほうが良いことは、むしろ自然の知恵である。人間とは異なるシステムを形成し、それはそれで維持されている場合には、人間的に言えば、それ固有に十分な理由があり、その意味で有効な活用法があるに違いない。すでに成立している仕組みを人間のシステムに導入する場合には、サブシステムとして導入して置くことが選択肢となる。介護現場のように厳しい労働環境では、同じ一つのシステムとしてやっていくことは容易ではない。ときとして代替可能なシステムをサブシステムとして導入しておくのである。

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自然知能―――職人の哲学:ダ・ヴィンチ

河本英夫

 人工知能(AI)というとき、人間の知能を数学や論理に置き換えて、コンピュータ上でプログラム化し、それを自動的に発展させていくやり方をとる。ほとんどが人間の知能の移し入れであり、人間の代わりにコンピュータが動き、マシンが作業を代行してくれる。イチゴの最盛期には、イチゴの農家は大変な思いでイチゴを出荷している。イチゴは、大きな葉っぱの影に隠れていて、長時間腰をかがめるようにして探し出し摘み取っていく。この作業は現在大型機械で代行されている。センサーが葉っぱの影のイチゴを見つけ、指になぞらえた先端機器で触ってみて熟度を判定し、適合すれば摘み取りトラックの荷台に置いていく。これをすべて自動機械がやってくれる。過酷な労働をかわりにやってくれる点では、ありがたいことである。

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