ローカル・ゾンビ
河本英夫
周囲に見られる一群の奇妙で不思議な人たちについて、少しまとまって考えてみる。起きていることは、ごく普通のことだとも思える。ただ経験の仕組みに何か変異が起きている印象である。
58+67=125の計算は、PCでも容易に実行することができる。だがPCはそこで何が行われているかに気づくことなく、かりに間違っている場合でも、それを訂正する能力はない。訂正能力が無ければ、間違えば、単なる「故障」である。
時計は、精確に時を刻むが、時間が何であるかを知らない。優れたAIも同じで、精確に時を刻むが、時間が何であるかも、「精確」とはどういうことかも知らない。記憶を選択し、再編する能力がないのだから、時を刻んでも、それが何をしていることなのかを知らない。時計もAIも基本的には「時間的ゾンビ」である。経験がまったく欠落しているにもかかわらず、実行だけは精確にできる。そのため経験が質変化することはない。
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システムの実験か――チャイナ・コードの地経学的生態学
河本英夫(文学部)
要旨:中国は独特のシステムを作り上げている。中国は政治的には共産党の一党独裁であり、経済的には国家資本主義であり、世界でももっとも貧富の差が大きい全体主義国家である。ここには独特のシステム的な特質が見られる。そのシステムの特質を分析した。
一つには、中国式プラットホームである。チャイナ・システムでは、点と線から成るプラットホームではなく、むしろ面を制御するゾーンプラットホームが作られている。また情報も資金の流れも、つねに非対称性を生むように設定される。この点が世界中で問題を起こし続けるシステムになっている理由である。たとえば尖閣諸島は日本の領土であるという日本の主張は、日本からの「提案」であり、中国側の主張は、中国本来の「大義」なのである。そうした非対称性をあらゆる場面で作り出すことが、このシステムの特徴である。そのひとつが、巻き込み型のソフト全体主義であり、そこでは外的には「Win-win」の関係だが、内的には全体性制御というある種の覇権が出現する。内的と外的の作為的な乖離を含んだ仕組みが、このシステムの特徴である。
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フェミニズム神経症
河本英夫
2018年11月24日(土)に、私は立命館大学哲学会で、「活動の哲学とオートポイエーシス」という招待講演を行った。この末尾でいわゆる「内在的倫理」と言ってよい倫理の仕組みを導入した。仕組みは簡単なもので、倫理規範や倫理規則を外に設定するのではなく、経験のプロセスのさなかで「倫理」そのものを立ち上げていくやり方である。
講演の最後の場面で、カントの定言命法に倣って、行為の定言命法を設定した。その二番目の事柄にかかわるものでわる。定言命法じたいは3項目に分かれて設定される。
制作行為:つねに別様に新たな経験が可能なように行為せよ。
実践的行為:つねにみずから自身が継続可能なように行為せよ。
認知的行為:つねにどこに選択肢があるかに気づくことができるように行為せよ。
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情報暴走族――内容と空騒ぎの極端な乖離
河本英夫
2019年1月21日に、卒業まじかの哲学科4年生F君が、大学の授業がまともに回らないほどの規模に膨れ上がっているという「不利益」の訴えと、学内に「新自由主義」を唱える某教授を抱え込んでいることの不満を訴えるという内容の立て看板とビラ撒きを行い、学生部の職員に拘束されて、半ば強制的に言動を停止させられるいう「出来事」が起きた。
最近では珍しくなったある種の「事件」であるために、ただちにメディアが報道した。メディアの力点は、立て看板やビラ配り程度で、大学職員が伝えたと言われる「退学勧告」がなされるのか。それは不当なことではないのか。またそれと同時に、このビラに含まれる「新自由主義」の某教授が、教員として適格なのかどうかにかかわっている。F君自身がフェイスブックで公開したために、便乗機会を狙っている者たちが、ただちに動き出したというのが実情である。
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民族という罠――争いの地経学的生態学
河本英夫
ほぐしにくい事態が起きたとき、哲学はいったいどのような貢献ができるのかと思うことがある。哲学には専門領域はない。だが哲学として固有に語ることのできる領域はあるに違いない。私自身は、国際関係には疎く、毎日データを取り、検討しているわけではない。それでも論争や紛争が起きれば、そこにはなんらかの解決への手立てが必要とされ、そのための議論の整理も必要となる。そしてほぐれにくいもめごとが起きたときこそ、その当事者や当時主体の固有性がもってもよく出るのである。何がほぐれにくくしているのか、どこを突けば事態の局面が変わるのか、これらへの感度と洞察は、まぎれもなく哲学の課題でもある。いわば論争の地政学、地経学というものがある。そして地政学的生態学があり、地経学的生態学がある。特定の地域を占めることの地理的、歴史的偶然を解消することはできない。そこに固有の議論や争いのモードも出現する。そして世界でも稀な形で問題を拗らせる隣国があり、大陸がある。哲学である限り、時事論争においても、最低10年は持続する課題は何かを見出していかなければならない。
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不思議な挫折――能力の特異形態
河本英夫
とても興味深い能力があると感じられるのに、数年(約6年間)にわたって、まったく能力を前進させることができないままの院生(もしくは成人、ST君と呼ぶ)にかかわってきた。おそらく年齢は50歳に近いのではないかと思う。アドヴァイスがことごとくすれ違い、ほとんど効果をもたない。何を言っても、最終的に同じ場所に議論が戻ってしまう。別の素材で考察を開始しても、同じ場所にもどり、そこからは前に進めないのである。
大学院では、博士を何人作るかが仕事だから、ともかく博士論文に向かって手順を進める。だが博士論文の手前で、そもそもST君は「論文」が書けないのである。前任者の担当から引き継いで、都合6年間その院生(精確には3年間院生、3年間満期退学後)ST君と付き合ってきたことになる。だがこれだけの年月をかけても、本人の論文と言ってよいものが1本も書けない。
本人は何かは掴んでいる。その何かもほぼはっきりしている。だが本人がそこから1歩も進むことができない。ある「感覚的な確信」がある。そしてそれじたいは魅力的で、何かの大きな可能性を含んでいるとも感じられる。だが何年たっても、展開可能性が出てこない。何年やっても同じところから進む様子がない。ぐるぐる同じところを回っているという印象ではない。また何をやっても同じことになるというのでもない。印象は少し異なる。
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