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触覚性転換――現象学的探求の拡張

河本英夫

 メルロ=ポンティは最晩年にいくつもの草稿を書き残し、そのなかには事柄として目覚ましいほどの新たな踏み出しを行ったものがある。それらは遺稿集の『見えるものと見えないもの』に含まれている。いつものようにここでもメルロ=ポンティらしい卓抜な比喩感覚で書き進めている。同時代の表現の限界を、比喩でうまく言い当てていくという真似のできない作業を行っている。経験が新たな局面に進んだとき、それを記述するためには、たとえ現象学者であっても、詩人であることを要求される。やがてそれらは新たな知の構想の装いをもって、別様に書き換えられるような事柄でもある。あるいはむしろ積極的に書き直されなければならない。それが知ということの宿命でもある。
このことは現象学的な経験を科学的な知見に帰着還元することとはなんの関係もない。かりに科学的な知に現象学的な経験が帰着できるなら、現象学はいまだ固有の経験の局面を見出していないのであり、その程度のことしかできていないのである。少なくとも現象学は立場や観点ではないと思われる。そうだとすると現象学的な解明は、たとえ後に科学的な解明に置き換えられたとしても、それなしではすますことのできない経験の層を指定しているはずである。またそうでなければ現象学の意味さえないことになる。
一般に現象学は単独で独立した知の領域を形成しているわけではない。またそれはありえないことである。現象学が、経験科学の基礎をあたえるということはありえない。むしろ現象学は、新たな経験領域を開いていくための有効な経験のモードなのである。このことは現象学をうまく活用すれば、それじたいで発見的な経験の領域を開くこともありうることを示しており、またそうした現象学の活用の仕方があるにちがいない。逆にある種の経験科学の限界には、経験科学的な語りを行ったのではもはや知識の枠に帰着できないような経験の局面に行きあたることがある。ことに根本的な事象ではことごとく、そうした事象に出会うことになる。そのとき現象学を新たな経験の局面の内実を明るみに出すために活用することができる。
知の典型は、視覚と言語と思考である。現象学は言語と思考の手前の直接的体験の層にまなざしを届かせようとする。だがまなざしもいまだ視知覚を典型としており、視知覚をまるでモデルのように活用しながら探求を進めている。しかし人間の生にとって最も緊要なものが触覚であることは疑いようがない。だが触覚を基にした議論は、多くの場合魅力がない。その魅力のなさにもさまざまな理由がありそうだが、触覚が可能な限り、知となることをみずから放棄する仕組みを備えていることが最大の理由である。触覚は可能な限り、認知しない方がよく、起動しなくてもすむのであれば起動しない方がよいのである。みずからを知の手前に留めることが触覚の特性でもある。触覚の一つが身体内感であり、それとして感じられる身体の感じ取りである。だが年がら年中自分の肝臓が感じられたり、性器が感じられるようであれば、どこかすでに病的である。他方触覚には、視知覚と比べて際立った特徴もある。眼前の机のザラつきを感じ取ってみる。そのときでさえ手には前方への運動が内在している。前方に押す運動がなければ、机の表面を感じ取ることさえできない。ここでは触覚性知覚の成立につねに運動が内在している。知覚と運動が内的に連動しているのが触覚であり、それらを外的に接続したのが、ギブソンらが展開し続けた生態心理学である。

1 現象学的解明

 メルロ=ポンティが終生課題とし続けたテーマの一つが、身体である。身体は知覚するものであると同時に知覚されるものである。知覚から身体を捉えようとすれば、身体は知覚されるもの(客体)でありながら、知覚するもの(主体)の一部でもある。身体においては、主体-客体の二重の事態が出現し、能動-受動の反転が起きる。左手で右手を掴んでみる。当初左手で掴んでいるのだから、左手が右手を知覚している。ところが掴まれている右手に視点を移動させ、注意の焦点を変えていくと、掴まれている右手が掴んでいる左手を知覚しているという事態が出現する。こうして身体では、知覚では見られないような世界の局面があり、そこから能動-受動が反転し入れ替わるような固有の事態があることが明らかにされた。これが「両義性の哲学」だと呼ばれるものの基本的な事例となっている。これを敷衍すれば、自己と他者においても両義性が成立しており、世界と主体の間でも両義性が成立していることになる。
 こうして両義性という設定で、世界や身体の固有性を明るみに出し、定式化していくことは哲学の仕事の一つである。それまで見えていなかった局面を明るみに出すのだから貴重な仕事でもある。しかしさらに問わなければならないのは、こうした議論の「展開可能性」である。哲学的な定式化は、たとえそれによって斬新な局面が明るみに出ることであったとしても、そのことによって完結するわけではない。それで完結するのであれば、事象とは一つの立場や主張に戻ってしまう。つまり哲学としての過度の自足に陥ってしまう。現象学は、そんなことのために開発されたのだとは思えない。それでは「展開可能性」はどこからやってくるのか。
 現象学的還元の主な働きは、事象のなかに入り込み、体験的行為と地続きになっている事象に対して隙間を開き、それを記述可能にしていくことである。事象のなかに入りこむさいに多くの既存の知識を捨てなければならないが、これが実在措定を捨てると言われる「還元」である。ところがこの還元は、事象のなかに入り込むための準備段階に相当する。捨てる作業(括弧入れ)自体は、いまだ事象解明ではない。そこから解明に入って行かなければならない。ところが事象の本質だと思っていたものが、実はただの仮象で、そのさきにさらに本質と思われるものが見えてくる。一度現れたものが、まるでそれを踏み台にしてその先が見えてくるように、おのずと前に進み続けるのが、還元の特質である。ある意味で、際限なく前に進み続けるプロセスが、還元なのである。これが一度でもできるようになると、現象学という行為的解明の手法の内実を掴むことができる。しかしこのプロセスを一度もやったことがないと、現象学が立場や観点や方法に留まってしまう。
そのとき身体のような事象については、どのように進んで行ったらよいのか。身体の両義性は立場として完結しすぎている。そこでこれを一度括弧入れしなければならない。メルロ=ポンティのような才人が行ったことが、何故「過度の自足」に陥るのか。それは身体を捉えるさいに「知覚」を前面に出したことによっている。知覚からみたとき、身体は知覚されるものでもあれば、知覚するものでもあるという能動-受動の両義性が出現していた。立場になってしまうのは、事象に対して探求が外からあたっているからである。身体にとっては、「知覚」がまさに外から当たってしまうのである。実はこの知覚は、視知覚をモデルとしており、視知覚で世界を捉えるように身体を捉えている。そのためまさに知覚による解明こそ、括弧入れしなければならないのである。能動、受動の反転は、一方の腕が他方の腕に視点を移動させたとき、当初能動的であったものが視点の転換をつうじて受動的になる。
 現象学が警戒しなければならないのは、たとえ純粋な直接的体験の層に届いたと感じた場面であっても、同じことを書き続けるしかないと感じられる局面である。「展開可能性」がなければすでに終わっているのである。身体については、知覚するものと知覚されるものの反転する事象とは別な局面に進んでみなければならない。
 知覚の手前に戻り、その手前をさらに進んでみる。みずからの身体をそれとして感じ取るのである。たとえば重さを感じ取ってみる。エレベータが動き始めたときに、重さが突如出現する。エレベータが止まる手前では、起動時と比べて負の重さが出現する。これは物理的に計量した重さとはかなり異なる。にもかかわらず直接的体験としての重さは紛れもない。成人の頭の重さは、量的には12キログラム程度ある。10キログラムの米袋より重い。米袋に感じるときの重さとはまったく異なる重さが、頭部にはある。直接感じ取っている身体は、物理的に計量される重量の基礎にもなければ、またそれが明らかになったからと言って、そのことによって経験の局面が変わるわけではない。
 だがこの重さの感覚は、身体を直接感じ取る体験の層を指定している。身体は直接感じ取られている。感じることは肉という質料性の働きである。そしてこの感じることの膨大な裾野が形成されなければ、おそらく身体と知覚との連動がうまくいかないのである。
手で物に触ってみる。手の先で物に触れ、物を感じ取っている。それと同時に物に触れている手そのものの感触もある。物に触ることは、つねに物を感じ取り、物に触る手そのものを感じ取っている。同じ「感じ取る」という語で表されているものが、一方では知覚につながり、他方では「身体内感」につながる。両者は二重に進行する。触覚の場合には、こうした二重に進行する事態は、はっきりしている。実は、味覚、臭覚でも舌や鼻の感触はときとして明確で、聴覚の場合も低周波音であれば、身体に振動を感じ取ることがある。
とすると視覚だけが例外ではないか、という思いが生じる。眼前の物を視覚で感覚知覚したさいに、眼そのものに知覚している内感はまずない。眼前にバラの花があり茎があり、棘がある。手で棘に触れば、棘の感触と棘に触れた手の感触ははっきりしている。痛みがあるはずである。ところでバラの棘を視覚的に感覚知覚したとき、眼に痛みがあるというような人はいるのだろうか。これがないのだとすると、視覚だけが異様であり例外だと考えた方がよい。言ってみれば「現れ」は光の奇跡なのである。この例外的な視知覚を基本にして身体を捉えたとき、身体の両義性が出現していた。そしてそこではもはや前に進みようがなかったのである。
 身体の事象は、基本的には触覚的な感覚知覚をベースとしている。物を視覚的に知覚するのではなく、物に触る。まず経験の現場を変える。物に触る度合いを変えてみる。強く触る、緩く触る。そのとき物に触るさいには、かすかだが前方への運動感を感じ取ることができる。物の表面の起伏を細かく感じることができるためには、前方への運動の強さ、物を握ろうとする運動の強さを変えて行かなければならない。触覚性の知覚のためには、その知覚する身体行為に内在する運動を調整しなければならない。この調整という実践的行為を行う能力が、「内感」という「感じ取り」だったのである。そして多くの場合、こうした行為の調整は、意識に登ることなくすでに遂行されている。
 身体行為をともなう知覚の場合、知覚に運動が内在している。こうした事態を明るみに出すためには、視知覚に典型的な「注意の焦点化」が妨げになってしまう。焦点を絞って起きている事象を捉えるような仕方は、意識の本性に入り込んでいるもので、うっかりすると気が付くと焦点化が起きてしまっている。物に触るとき、物が何であるかを知ろうとすれば、おのずと内感による調整が起きているが、知覚は物の触覚的特性が何であるかを知るという方向にすでに焦点化している。それによってそこで起きていることを見落としてしまう。そうなると身体行為として起きている知覚する行為を明るみに出すには、注意の分散という還元の仕方が必要となる。意識の本性によって焦点化してしまう注意を、むしろ分散させて事象を捉えることが必要である。物に触りながら、そのさなかに遂行されている運動を感じ取るような注意の分散が必要なのである。
 触覚性知覚と視覚的知覚は、まったく異なる仕組みが成立している。運動しながら知覚が行われている場合にも、運動の調整が行われているはずである。方向や速度調整が行われている。それは光学的な指標を活用して行われている。飛行機に乗りながらそのことに気づいたのが、生態心理学者のギブソンである。その指標が「オプティカル・フロー」(光学的流動)と呼ばれている。壁伝いを歩くときに、横目で壁のほうを見ていると、壁の通り過ぎる度合いが異なっていることがある。壁に並行に進まず、離れていくときや、早足になっている場合には、壁の通り過ぎる度合いが異なっている。それを活用して、おのずと方向調整や速度調整を行っていることを、ギブソンが明らかにした。これはかなり重要な発見である。壁の通り過ぎる度合いを知覚しながら、ギリギリ壁に近づくこともできれば、さらに早足にすることもできる。光学的指標は、行為の選択肢を開くのであり、選択に手掛かりをあたえているのであって、この場合には運動と知覚は外でつながっている。触覚性知覚に運動が内在すること対照的に、視覚的知覚と運動は選択肢を開くように外でつながっている。ところがこの延長上に、生態心理学はなにか大きな誤解のなかを進むことになった。たとえば踏切板までの距離は、そこに到達するまでの時間で知覚されているという。そのことの定式化もできている。しかし踏み切る動作に入るためには、知覚された時間を空間に転換し、歩幅を合わせるような動作へとつながなければならない。知覚が単独で身体動作を制御することはありえないことである。そのありえないことを定式化する方向に進んだのである。
 さらに身体という事象には別の特性がある。実は身体内感は、恒常的に顕在化しているのではない。長時間不本意に正座をしているときには、時として足の感覚が消える。痺れや麻痺として、足の感覚がなくなる。この場合、しばらく時間をおけばやがて感覚はもどってくる。ところが待っても戻ってこない足という局面がある。それが脳神経系の損傷にともなう「麻痺」である。内感の欠落は、制御機能を奪ってしまう。細かな足の動作ができなくなる。身体内感は、多くの場合消えており、必要な場合のみくっきりと出てくる。こうした特質は、意識にはない。意識は目覚めているかぎり、それとして働きを感じ取ることができる。意識を意識するという自己意識の手前で、意識は自分の働きをつねに感じ取っている。意識は作用である前に、それとして一つの働きなのだから、働きは感じ取られている。こうしてみると身体を知覚によって捉えることとはまったく別の仕方で、身体にかかわる多くの事象を明るみに出すことができる。
 視覚について考えた場合、感じ取られている身体に相当するのが、視覚的な色である。色は人間にとって何故そうなのかを明るみに出すことができないほど、純粋な直接性である。色を別様に見るという言葉は成立するが、別様に見るということがどうすることなのかも分からない。そして色は、光を内在している。まったく光がなければ色そのものが成立せず、光量によって色彩感覚は大幅に変動する。明け方や夕暮れ時で、光量が少なければ視界一面は青味がかり、光量が増えるにしたがって黄を基調として際限なく色彩感覚は鮮やかで細かくなり、さらに光量が増せば、おそらく一面爆発性の黄となる。そこでゲーテは、「闇の近傍に青があり、光の近傍に黄がある」と定式化した。これが光と色との関係である。この場合、光は「可視的な明るさ」のことであり、光を光粒子だと定式化しても(ニュートン)、波動だと定式化しても(ホイヘンス)、光という事象の25%程度しか覆うことができない。
 そうなると光という事象の残りの広大な領域で、固有の「展開可能性」があるのではないかと考えられる。その領域での光-色彩科学を展開した一つのやり方がゲーテ色彩論である。これは要素単位から色彩現象を説明していく色彩科学とは異なり、条件を換えてさまざまな色彩現象を次々と出現させていく仕組みであり、それを作り出し、活用したのである。ゲーテの色彩論は、色彩にかんする現象学的探求として見直されて良いのである。ここでも必要なことは、事象の可能性を探求の展開可能性として転換していくやり方である。視知覚で見出されたフッサールの記述の仕方は、色や身体や物性のような場面では、さらに拡張しうる。というのも光に対する感度、物への触覚性感度、身体運動の細かさ、高度化にともなう内感の感度は、機会に応じてさらに形成されていくのであって、それらはまさにそれに触れることが能力の形成につながるような事象だからである。視知覚のように、経験の場数や事例の数が増えるだけではない。
知覚は比較的安定した能力であり、その分だけ信用が置ける。だが能力の形成、感度の形成、調整能力の形成は、紛れもない現実でありながら、容易には解明することができない。それというのもそこでは触覚性知覚そのものが形成されるからである。こうした能力の形成の場面は、事象が少しずつ明るみに出ることではない。少なくとも知覚はプロセスとして何が起きているかが分からない場面を通過していくのである。

2 交叉(キアズマ)

 身体行為として行われる触覚の場合には、物に触ると同時に、物の方へ運動が働いていた。ところで物の触覚性知覚と運動の関係はどのようなものなのだろう。物に触らなければ、運動は身体運動として前方へ起動しているだけである。運動はそれとして起動し、それとして動くだけである。知覚は、物との接点で出現する。知覚のために運動が引き起こされているのでもなければ、運動が知覚をもたらしているのでもない。スポンジ様の柔らかい物体に触れるさいには、さらに前方への運動を強めたり、逆に前方への運動を弱めたりする。この場合にも、運動によって知覚が可能になるのでもなければ、知覚によって運動が制御されているのでもない。スポンジの知覚は、運動の速度や圧力の調整とともに起きているが、そのさいの知覚にはスポンジの弾力、斥力、硬さ等の感じ取りが含まれている。こうした場合に、知覚と運動は根拠-事象の関係にもなければ、基づけ関係にもない。それぞれは固有に作動している。視点を移動させるようにして、一方の位置から他方を捉えることはできるが、能動-受動の反転のような第三の支点はない。また反転するような関係ではない。実は、右手で左手を握るような事例でも、知覚だけではなくそこに含まれる運動も浮かび上がらせると、反転は起きていないことがわかる。知覚での受動の場面でも、身体は押されながら押し戻すという運動を行っているのである。
晩年のメルロ=ポンティは、既存の哲学的なカテゴリーなのかにはないこうした事象に気づき、「交叉」(キアズマ)だと定式化した。しかも運動と知覚は、それぞれが単独で作動することもできるのだから、メルロ=ポンティが多くの場面で導入した「相互内属」でさえない。相互内属でさえないものが密接に連動する。これを特徴づけるためには新たなカテゴリーが必要とされるが、うまく言い当てることのできるようなカテゴリーが見つからない。そこでメルロ=ポンティは、抜群の比喩で、さまざまな局面を描くことになった。
 こうした「交叉」という事態は、オートポイエーシスで言う「カップリング」の一つのモードである。カップリングは、科学的に定式化すれば、相互に独立に作動しており、みずからの媒介変数の少なくとも一つを相手が共有している場合の作動のモードのことである。これらは作動上の連動関係であり、部分-全体でもなければ、要素-複合の関係でもない。部分-全体や要素-複合は、実は視覚的に特定された単位を基礎にしており視覚的概念である。それに対して、作動上のカテゴリーは、それじたい動きのなかで起きることなので、運動-触覚性の概念である。
 リハビリテーションでの各種治療法の一つに「認知神経リハビリテーション」というイタリア発のリハビリ技法がある。開発したカルロ・ペルフェッティはヨーロッパ的な才人で、舞台の上で長いマフラーを膝まで垂らして、詩の朗読までやってのけるほどのスター性があった。朗読は雰囲気があり、うまかった。彼の発案した治療技法のひとつが、麻痺した手で、閉眼のまま硬さの異なるスポンジを認識するというものである。この技法は、奇跡的なほどうまくできている。麻痺だから手足の運動感覚はない。あるいはあっても極めて粗い。そのため手足がうまく動かないのである。そこで動かない手足を実際に動かしてみるような訓練を行う。これが伝統的な運動療法である。ところがペルフェッティは、硬さの異なるスポンジに触らせる訓練を発案した。スポンジの硬さを判別するためには、前方への運動や圧のかけかたを細かく作って行かなければならない。しかも認知と運動の調整の間には、意識は関与しないのである。意識の介入以前のところで起きる連動関係を活用して、手足の麻痺を治す技法だったのである。このときこの技法は、ただちに誤解された。異なる硬さのスポンジの判別ができれば、麻痺した手足が動くようになるというように、認知から運動が誘導されると理解されたのである。事柄として行われていることは、触覚性認知には、運動が内在しており、触覚性認知を行うことは、同時に運動や圧の調整に連動しているという事態であった。
スポンジの硬さの弁別的認識だけであれば、それじたいはただのクイズである。勘でクイズに答えるように硬さの判別を要求したのでは、スポンジに触れる課題はいまだ訓練になっていない。当時リハビリのなかに「認知か運動か」という大雑把な対立図式があり、それに合わせて訓練の在り方を分類していたのである。その結果、スポンジを用いた訓練を大幅に誤解するという筋違いの治療へと進んでしまった。こうした場面で、現象学は起きている事象そのものに細かな分析を掛け、的確に治療行為を誘導することができる。現場との接点において、現象学はみずからを有効に機能させることができるのである。
 ここには人間と世界との間の大掛かりな折れ合いの悪さにもかかわっている。環境内存在として人間は、いくぶんかすでに環境に適応してしまっている。そのための身体体勢を備え、認知機能の幅さえ環境適応の制約のもとで成立している。ここでの環境は人間を取り巻くものであり、認知機能は、触覚、味覚、臭覚あたりまでは環境に触れることで成立している。環境内に存在するのは、身体とともにある行為者である。ところが人間は意識的存在でもある。意識から世界を捉えているというのが、意識の原事実性である。このとき世界は、意識の相関者であり、意識の対象の総体である。この二つは一方では、ダーウィンの進化的適応からユクスキュルの環境内存在、ギブソンの生態学的心理学まで、広範な探求領域を形成してきた。他方意識の観点から見れば、各種認識論や視知覚を基調とする現象学では、世界は意識の対象としてあり、意識は言ってみれば世界の輪郭の果てにある。世界を物の地平もしくは地平の地平だとしても、図式的には大きな変化はない。これらの二つの世界論は、実は触覚性の身体と視知覚を、それぞれをベースにして、しかも相互に接点がない。いずれも人間にとっては欠くことのできない貴重な事実に基づき、双方とも展開可能性のある探求の回路を含んでいる。これらの二つの回路も、実は「人間」において「交叉」している。そしてしばしば個々の行為にかかわる事実性の認識で、多くの誤解をもたらしてきたのである。そのことはうっかりすると、身体行為を視点や観点から捉えてしまうという習い性に巻き込まれてしまうことによっているように思える。

参考文献

河本英夫『損傷したシステムはいかに創発・再生するか』(新曜社、2014年)
メルロ=ポンティ『見えるものと見えないもの』(滝浦静雄・木田元訳、みすず書房、1989年)

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