負量という現実性
河本英夫
負量は、現実のなかでも捉えにくいものの一つである。廊下を歩いているとき、前方に上り坂の傾斜があれば、足に力を籠め身体を少し前傾化して上っている。身体は、その力の籠め方を感じ取り、地面を強く押すように重心移動を行っている。地面を強く踏みしめている動作は、自分で感じ取ることはできる。しかし地面が陥没したり、沈み込んだりしない限り、足は地面から押し付けた力と等量の反力を受けている。物理的には「作用/反作用」の法則と言われるものである。地面の側を押す働きを感じ取ることは、歩き方の調整にかかわるために重要な調整変数である。だが地面から押されている感触は、簡単に感じ取ることはできない。
歩行は、地面を押し、地面から反力を受けることで成立している。そのことはスポンジ状のマットの上を歩きにくいことからもすぐにわかる。泥状の地面では、地面を押すことと、地面から押されることが均衡しておらず、地面そのものがズレたり、穴が空いたりして、作用=反作用は成立しておらず、地面そのものが変化する。その場合でも、地面の変化を感じ取る感触は明確に体験されているが、崩れる泥から受ける反力を感じ取ることは容易ではない。地面を押す力から見れば、反力はそれに対抗し、拮抗し、時として均衡する負量である。負量をうまく感じ取ることは、能動性を基調とする人間の「能力」から見ると、かなり苦手な領域の体験である。
水泳競技の場合、バタ足で水を蹴る。蹴る動作ははっきりと感じ取ることができる。だが水を蹴って身体が前に進むのは、蹴った水に押し戻されているからである。足は跳ね返されている。この跳ね返される感触を感じ取るためには練習が必要である。泳ぎの良し悪しにも直接効いてくると思われる。水の場合、それじたいが流動的であるので、蹴った足を押し戻すだけではなく、手で水を掻いたとき、掻く動作に抗うように抵抗力として働く。それが反力となる。また水に流動性を創り出し、その流動性に身体を乗せるように動かすこともできる。とすると水泳という競技は、相当に難しい動作の訓練であることがわかる。
負量は、明確な指標をもつことはない。そのためいくばくかの混乱を招いてきた前史もある。たとえば「見られる動作」がある。知り合いのアパートを訪ねていき、呼び鈴を押すが返事がない。5分に於いてまた押してみるが応答はない。周囲を見回して誰もいないことを確認すると、腰をかがめて鍵穴から中を覗く動作を行う。見ている人は誰もいないことは確認している。だが鍵穴から中を覗く動作には,「誰かから見られている」という感触がともなう。この見られている感触は、受動性ではなく、見ることの逆転した負の動作ではない。見ることは眼で見ることだが、見られることは全身で感じ取られている感触である。眼で見ることの逆方向で眼が見られているわけではない。誰かに見られているというとき、自分と同じような視点を外に設定し、そこから見られているように思いこむのは、人間認識の惰性である。この惰性は根が深く、フロイトが「投射」という原理で、解明しようとしたものである。特定の人間に見られていることと、誰かに見られていることはまったく別の事態である。
言葉を発するさいには、口で発するが、言葉を聞くさいには耳で聞いている。そのため話すことと聞くことは異なる能力であり、能動‐受動関係にはない。そのため正―負の関係にはない。同じように見ることと‐見られることは、能動‐受動の関係にはなく、正―負の関係にはない。つまり見ることの訓練と見られることの訓練は、およそ異なったものである。見られる訓練で自分を成り立たせている職業の典型は、俳優である。両肩にファンの視線を感じ取るように自分自身を作り上げている女優は、見られることをベースとしているが、ほとんど何も見ていないことが多い。彼女たちは、見られることで顔を作り、見られることで全身を作っている。だが見ることで顔を作り全身を作ることはまずない。見られることと見ることは反転可能な関係ではない。
またペットの犬や猫から「見られる」という感触を得ることは簡単ではない。とりわけ猫から見られることは難しい。じっと猫を見ていても、猫は見られているという感触をもつことはほとんどない。見る―見られるは、人間同士の間で生じるある種の親和性を前提としており、理解のレベルへとつながっていく回路の途上にある。その場面でやがて到達される理解のレベルから設定されているのが能動‐受動の反転である。
能動感と受動感は、対になっていないことが良くある。受動感は、もたらされるという感触のことで、相手から引きだしてくる場合には、自分に「もたらされる形にする」という能動的な態度である。愛することと、愛されることはまったく異なった能力である。そのため行為として能動‐受動の関係にはない。だが人間の言語は、能動―受動という形式性を備えている。そのため言語表記を行うと、能動か受動かという粗雑な配分が行われやすい。これは言語の形式の問題であって、能動‐受動という経験のモードとはかかわりがない。
ここでは体験的領域の延長上で、負量を体験にとって欠くことのできない事柄として位置付けるような議論を取り上げ考察する。負量はどこまでも正量との相反概念であり、場合によってはシステム的な概念でもある。そのため概念史から、構想の内実に探りを入れていきたい。
1 負量の概念史
負の量は現実的なものであるのか。世界が、肯定・否定の均衡関係で成り立っている場合には、一方を正に取れば他方は負となる。世界が、愛と憎しみの二つの原理から成っていると考えたのは、エンペドクレスである。一般には愛は事物の間の引き付け合う原理であり、憎しみは反発し合う原理であり、この二つを設定しておけば、事物の間の接近、離反、融合、反発のような現象は、すべて説明可能である。一方を正とすれば、他方は自動的に負となるので、かりに事物の間の反発を愛だとし、事物の引き合いを憎しみだとしても、言葉の感情的なニュアンスで腑に落ちない点は残るとしても、仕組みとしては成立する。実際、愛するがゆえに別れる、憎しみ合うがゆえに協力するという事態は、それほど無理な想定ではない。アリストテレスのエンペドクレス理解にも、そうした面がみられる。アリストテレスは、異質なものが引き合い連動する場面に、愛の働きを見出し、同質なもののつながりから脱していくところにも、愛の働きを見出している。こういう場合、事象のどの局面を切り取るかが緊要である。
こうした正負の設定では、「相反的な負量」の概念が出現している。世界が相反的な二つの原理から成っているという仕組みでは、正量が設定されれば必然的に負量が対置されるのだから、負量は世界の根源的原理の一つである。ニュートンは、物質がまとまりをもったまま一定の体積を維持している場合には、引力と斥力が必要条件となると考えて、物質論を構想した。近代のルネッサンス期において、磁石のNとSのような現象が発見された。この後、同質なものが反発し合い、異質なものが引き合うという仕組みの現実的な事例が広範に発見されるようになった。静電気の場合も、同質なものは反発し、異質なものは引き合う。磁気と静電気は、類似した現象になるが、磁気では二つの磁性体の間に薄い紙や木片を挟んでも起動するのに対して、静電気は間に物を挟むと機能しなくなる。
地球の磁気を発見したときのギルバートは、磁気に本当に驚いたらしく、さまざまなことを考案し夢想した。地球全体が磁気だというのだから、この着想に思い至ったときには、自分の天地がひっくり返るほどの驚きだったと思える。実際ギルバートは、地球の自転さえ、磁気の働きから生じると考えていた節がある。
相反性の負量が、広範に導入されるのは、18世紀の終わりころから19世紀初頭にかけてであり、いわゆる「第二科学革命期」と呼ばれる時期である。化学の元素に酸とアルカリが見出され、化学反応が広範に見出されるようになった。また磁気と電気の間の相互の転換も見つかり始めている。この時期にゲーテは色彩論を、光と闇の相反的二原理から構想した。この場合、光とは可視的な明るさであり、光粒子ではない。また闇とは可視的な暗さのことであり、光粒子の不在のことではない。光と闇の間に圧倒的に多様な色彩が発生する。こうした仕組みは、光の屈折率に対応する光粒子の属性としての色というニュートンの発想とは随分と異なり、ゲーテは終生ニュートンの構想に疑問を持ち続けていた。これらはいずれも相反的な構造の一方の側を取り出せば、他方は負量になるという仕組みである。基本的には、相反的な二原理が相殺しあうということが特徴である。
運動の場合、赤道から北に100キロメートル進み、南に30キロメートル戻れば、この船もしくは飛行機は、赤道から70キロメートル北のところに位置する。運動の方向が反対であれば、進んだ距離は相殺できる。相殺できるものは、正の量に対して相反の関係にあるので、負量といっても「実質的な現実量」である。
ところで運動の速度を遅くしてみる。ゼロにまで速度を遅くして静止させる。そこからさらに負の速度を論理的には考えることができる。ゼロよりももっと小さい速度である。この場合の「負の速度」とはいったい何なのだろう。これは次のような場合とは異なる。いま時速20キロから加速して時速50キロまで速度を上げる。そこで10キロだけ減速して時速40キロとする。この場合には、減速した10キロは負量であるが、相殺できる量であり、実質的な現実量である。ところで速度をゼロにまで落とし、さらにゼロ以下の負量を論理的には考えることができる。これらは相殺関係にはない、マイナスの速度は論理的に想定することができる。それを「純粋負量」と呼んでおく。だが純粋負量とはいったい何なのだろう。
重さの場合にも、類似した事態が生じる。ボクサーの減量のように、重さを減らし、それを延長してさらにゼロまで重さを減らす。そこからもっと重さを減らして、マイナスの重さを論理的には考えることができる。だがいったいこれは何なのだろう。相殺するものがないマイナスの重さとはいったいどのように理解し、どのように捉えればよいのか。たんなる言語による遊びではない。しかし「純粋負量」は論理的な操作概念である。いわば量を小さくしていってゼロに到達し、ゼロの向こう側という論理操作である。
風船のように手を放せば上昇するものは、負の重さなのだろうか。これは初等の理科教育にもでてくる。カントが主著の『純粋理性批判』で近年の科学的探求の成果だと名前を挙げているシュタールの「燃焼論」というのがある。物が燃えるというのは、物体から燃える素(燃素)が飛び出すことであり、物が燃えれば多くの場合、煙が立ち火そのものも上に燃え広がるのだから、物体から何かが飛び出るというのも、多くの場合観察に適合している。つまり燃焼とは、物からなんらかの物体が飛び出ることだというのは、多くの事実に合致しているのである。その物体を「燃素」だとしてみる。ところで物体から燃素が飛び出るのであれば、その分だけ物体の重さが軽くなるはずである。現代から見れば、燃焼とは酸素と化合することだから、燃焼が起きれば物は重くなるはずである。だから燃素が、燃素が物から飛び出さすことだという説はおかしいということになる。
ただしこの問題は、「純粋負量」を考えれば、相反的な負量に転換することができる。風船は手を放せば、上に登って行く。風船を圧縮して物体に閉じ込める。そしてなんらかのきっかけで物体から風船が飛び出て上に登って行く場面を想定する。風船が飛び出れば、物体は実際重くなる。これは論理操作ではなく、たんに物理的な問題である。実は、大気には重さがある。平均分子量28.8という重さがある。これよりも軽いものは、大気中で手を放すと自然に上に登って行く。ヘリウムを詰めた風船は、放置すれば上に登る。そこでこの風船を圧縮して物体に閉じ込めると、大気中の浮力に応じて、それ以前よりも物体は軽くなった状態にある。この状態から風船を外に飛び出させると、物体は重くなる。酸素が化合するという理由とは別の理由で、重くなるのである。この問題を「純粋負量」で考えていくと、にわかにややこしくなる。
前批判期と呼ばれるカントの著作群のなかには、いくつか奇妙で際立った論考がある。相当に怪しいテーマにも踏み込みながら、それでもカントらしい抑制的な分析をかけて、どこまで事柄に迫ることができるかを繰り返し吟味している。この時期の著作は、多くの場合、後の主著である『純粋理性批判』にどのように繋がっていくかで読まれることが多い。そうした読み方をしていくと、この前批判期の論考にはごたごたと取り留めもなくいろいろ考えてみたという論考が多いのである。後の展開につながるように一つひとつ積み上げるような構想の作り方は、多くの場合成立しない。小さな問題や大きな問題に順次メドを立てながら、それらを活用して全体を組みなおしていく。構想の成立は、リセットの繰り返しである。そのためそのときどきの論考には、余分なものや後に捨て去ってしまうものや、ある時期考えたが途中で放り出してしまうようなものもある。とりあえず考えたが、展開するところまで行かなかったテーマがそのまま残っていることもある。そうした可能性を秘めながら、ともかくも一つ一つの論題を考察していく。それらを別様の可能性をもつものだと読むこともあれば、放棄されたテーマだと読むこともある。そうした読みができるほどの分量を、カントは残している。
それらのなかでもごくわずかのことを手掛かりに際立った踏込を見せているのが、「負量概念の哲学への導入」(1763年)である。数学的に負の量を扱うことのできる事象はある。山を登り、登った尾根の地点からさらに下りまた登るときのように、高低差を差し引きすれば、到達地点の高度が決まる。下ることは相対差のひとつだから、負量で処理すれば十分である。また物のかさばりが決まるさいには、物質がお互いに引きあう引力だけではなく、退け合う斥力も必要となる。かさばりの大きさを決めるときには、一方をプラスで扱い、他方をマイナスで扱えば、相対差が決まる。こんなふうに考えていくと、負量を自然学一般や哲学のなかに導入してもなにも問題はないかのように見える。しかし扱いに苦慮するような事態はいくつもある。
仕事という物理量がある。物を運ぶ際に重さと移動距離を掛け合わせて定義される。10キログラムの米袋を階段で3メートル持ち上げれば、10x3=30の仕事量である。ところでこの米袋を、階段を使って3メートル上から下へ降ろすときの仕事量は、どのようなことになるのか。階段の手すりから投げ落とせば、3メートル落下する場合でも仕事はゼロである。腕で抱えて3メートル持ち下げれば、仕事量はどうなるのだろう。まさか-30というわけにはいかない。米袋を降ろすという仕事をしているのだから、それをマイナスの仕事だと名称で呼んでも、なにかしっくりいかない。そのときにはマイナスという語の意味が変わるからである。
物の体積の場合も、体積が消滅したさらにその先に、負の体積を考えることができるのだろうか。こうした事態は、数直線上で数値を小さくしていきゼロに到達したときに、さらにゼロをまたいで反対側の数値に対応する現実性が成立するのかという問題である。大気中の湿度は、極限的にゼロ近くまでもっていくことができる。大気中での湿度が極端に低くなれば、味も臭いも感じられなくなる。そのときさらにゼロをまたいだマイナスの湿度を考えることはできる。だがそれに対応する現実がどのようなものかがまったくわからないのである。こうしてみると負量の概念は、一筋縄ではいかない問題を含んでいることがわかる。この問題にカントは取り組んだのである。
この問題についての論考「負量概念の哲学への導入」は、マイナスという数学的表記から生じた同時代のいくつもの混乱を整理しながら、むしろこうした表記を積極的に活用するための試行錯誤である。東に進む航海の場合、東へ進み、さらに西に戻り、また東に進むような場合には、西に進むことは負量として、実在量である。東に進むという点で見れば、西に進むことをマイナスで表記することができる。設定された量に対して、「打ち消す」方向で働くものは、負量である。異なる二つの量は対立量であり、矛盾ではない。当時の歴史的事情で、対立と矛盾が混同されていたようで、カントはそれを最初にはっきりと区分している。一つの物体を左右から均等に押して、対立する力によって動かないこと(剥奪)と、ただ静止していること(欠如)の違いを明示しようとしている。
この後カントの行っていることは、負量の概念をできるだけ一般化して見せることであり、それによって負量という概念そのものの活用範囲を拡張していくことである。あるいは「負量」という言葉の使用法を拡張してみせることで、どのような現実が見えてくるかの試みである。
「下降」とは「負の登り」であり、「落下」とは「負の上昇」であり、「退却」とは「負の前進」と呼ぶことができる。こうして下降も落下も退却も、それぞれ固有のモードで積極的なものである。同じようにして、負債は、「負の資本」であり、資本は「負の負債」である。こうなると資本と負債はどちらかを肯定的に呼ばなければならない理由はないが、一般的に負債を負の資本と呼ぶのか、資本を負の負債として呼ぶのかは、論理的な問題ではなく、むしろただそのときどきの「気持ち」の問題であることになる。
そしてさらにこうした実在的対立と欠如の違いを軸にしながら、適応領域を広げていく。たとえば「不快」は、欠如なのか剥奪なのかと問うのである。不快は快の無い状態なのか、それとも不快とは「負快」(積極的な負の快)なのか。蒸留水を飲めば、味もそっけもなく、快ではないが、それじたいは不快ではない。ニガヨモギの薬を蒸留水で飲めば、まったく別の感覚が生じる。そうなると不快は、負快であり、欠落ではないことになる。
快も不快もない欠落状態が、「無関心」であり、快もしくは不快に対応する事態が実在的対立によって欠落しているときには、「平静」であり、一方が勝っているときにはいずれかの「優性」である。こんなふうにやっていくと、少し工夫すれば幸福量の計算もできるのかもしれない。悪にも、「欠落の悪」と「負の悪」があり、積極的悪とは、「負の善」ということになる。嫌悪は、「負の欲求」であり、憎しみは「負の愛」であり、醜さは「負の美しさ」であり、非難は「負の称賛」である。論理概念に拡張すると、誤謬は「負の真」であり反証は「負の証明」である。こんなふうに、言葉遊びに近いような操作で、「負」という語の貼り付けができるものを探し出し、負量で置き換えてみると、事態の鮮明さが変わったり、薄らと感じていたことが事柄として確定したり、場合によっては視界がひらけるように事柄の広がりが一挙に変わることもある。
悪徳を「不徳」ではなく、「負徳」だと考えてみる。不徳は、多くの場合には不作為であり、やった方が良い場面でやらないことである。不徳者は、多くの場合にやった方が良いという事態に気づいていない。これは欠如であり、こうした欠如であれば、聖者の欠点や高潔なものの誤りにも見られる。これに対して負徳は、内なる法則に、あえてもしくは平然と背くことである。これを認めてしまうと、本当のところ倫理学はそのままでは維持できそうもない。内的法則に背くことがその人の本性であるかのような人間の資質を認めたり、そもそも内的規則を理解もできず、みずから立法することもできないような資質を自明の前提にしてしまえば、カントの場合には倫理法則は成立しなくなる。
自然学での負量は、思考方法の拡張をもたらすことになる。ただしこの場面は、議論は簡単には行かないようである。熱い物体が、冷たい物体に触れて、温度が下がる場面では、熱い物体は、負の暖かさを受け取り、冷たい物体は正の暖かさを受け取る。こうした場面では、負量はそのまま活用できる。ところが当時磁気や静電気の現象が知られるようになってきており、分極という現象も知られるようになってきていた。物体を急速に加熱したり冷やしたりすると、加熱と冷却が同時に起き、二つの極が現れて、一方は正、他方は負に帯電するという。こうした事例への考え方は、見かけ上の均衡した剥奪状態が急激な変化に晒されれば、剥奪が解除されて、二つの対抗する実在量がそれぞれ固有に出現する、というようにカントは考えたのだと思われる。カントは、電気の正負の分極を、温度のばらつきにも当てはめようとしているが、さすがにこれは時代的な制約がかかってしまっていて、とても無理な解釈をしている。
こうした負量の概念の広範な導入は、哲学者にとっても容易なことではないはずであり、ほぼ間違いなく試行錯誤や頓挫や勇み足を含むと思われる。それを承知でカントは果敢に踏み出そうとしている。たとえば認識にも拡張しようとすると、あることを表象したとき、次の瞬間には、その表象を消すことができる。沈みゆく太陽を表象したとする。次にそれを消すことはできる。思考を止めることは、消すことではない。在ったものが消える場合には、消滅を「負の生成」だと考えるのである。悲しみに浸された心の状態を消すことも、同じように負の生成だと考えていく。すると捨象は、いくつかの明確な表象を消すことであり、捨象とは「負の注意」であることになる。
そしてさらに二つの同じ重さで同じ速度の物体が衝突して静止するような現実的対立とは別に、二つの物体が反対方向に動き始めて遠ざかっていく場面を想定する。カントはこれも可能的対立だという。この拡張は成功するのだろうか。
ないものが出現するような変化や、在るものが消滅するような変化では、何が起きているのか。カントは、この問題を考えていくさいの基本的な規則を取り出そうとしている。Aが出現するとき、自然的な世界の変化では、-A(負A)もまた生じるはずだ、というのがこの原則である。変化の場面で何が起きるかを規則として述べようとしている。ボートの上の人が水面の物体を押すと、自分は必ず反対方向に押されている。これは力学的には、作用=反作用で定式化されている。それを変化一般に拡張するのである。そのとき最大の難題になるのが、無いものが出現したり、在るものが消滅するような「起滅」という変化である。
嫌悪は欲求と同じように積極的なものである。つまり欠如態ではない。欲求が快の結果であるように、嫌悪は積極的な不快(負快)の結果である。そこである対象について快を引き起こす根拠が、他の別の対象について不快の根拠でもあるとき、欲求の根拠は同時に嫌悪の根拠になる。欲求の根拠は、潜在的とはいえ、対立するなにかの根拠なのである、というように論じている。
この事態を安易に拡張することはできない。というのも力学で起きることを相当に複雑な系で実感的な直観を頼りに定式化しようとしているからである。だがこうした定式化は、たとえ仮説的なものであれ、拡張してみたいという強い誘惑を含んでもいる。しかしその場合でもいくつもの注も必要である。まず正と負の実在量の打消しの議論は、世界全体の存在の総量の議論とは別の問題だという点である。世界の実在量は、総量として増えることもなければ減ることもないという議論は、いくつもの時点で繰り返し述べられてきた。
世界の存在総量については、増えることはままあるのであり、それはなにかが出現するさいに同時に出現すると考えられる負量が、潜在的対立のままであれば、その間には存在総量は増加する。また潜在的対立の場合、それが対立だと言えるためには、実際に打ち消し合う前にも、対立であることの仕組みが必要になるが、おそらく現時点で可能な道具立てを用いても、それを明示的に語ることはできない。こうした留保を付けてなお、負量を導入してみると、おそらく予想外の発見や既存の概念の拡張もあるにちがいないのである。こうして負量は、多くの試行錯誤の可能性をはらんだ概念であることがわかる。
2 負債貨幣論――信用貨幣
ニューヨーク州立大学のステファニー・ケルトン教授らが主張する貨幣論は、貨幣を「負債」だとする考えであり、それらを受容し継承する日本の論者たちは、それを「天動説から地動説への転換」だと形容する。これは言葉だけの問題ではなく、経済システムの運営にまでかかわるある種の巨大な視点の転換を含む。いったい何が問われているのか。
物と物を交換するさい、たとえばイモと麦を交換するさいには、重さの比率で行っており、物々交換には貨幣は介在しない。ただちに交換したいものがない場合には、イモと金銀で交換を行い、この金銀を受け取ったものは別の機会に、この金銀を交換要素として、支払いに活用することができる。そのため金銀は、交換の可能性として可能な限り多くの物品との取引に活用することができれば、経済的な汎用性が高い。貨幣の成り立ちからみて、「取引の媒体」として活用できるものであれば、なんでも貨幣になりうる。貴金属や貝殻やなにか珍しいものや、牛や馬まで貨幣として活用することはでき、現実にそうした歴史的事実はある。この段階での貨幣は、原則あらゆるものに交換可能な「商品」の一つであり、「商品貨幣論」である。そのためこの段階の貨幣は、財産の一つである。
この局面から、どこかで貨幣が財産から負債に変わる転換点があると考えられる。天動説と地動説とは、視点の転換をともなって成立しており、天動説と地動説の間には、転換関係がある。事実、相対性理論のもとでは、どちらが正しいということはなく、複数の視点の間の変換関係があるという局面に留まる。地動説と天動説は、同じ事柄を逆向きに語っていくスキームのことであり、両者の間に転換関係がある限り、同じ権利で同じだけ正しい。それが相対性理論の帰結である。とするとその転換を行うことで、何が有効になるのかを明示できないのであれば、「負債貨幣論」は一つの視点にとどまり、そういう言い方もあるという範囲内に収まってしまう。
手元にある貨幣を当面使う予定がないので、銀行に預ける場面を考える。銀行に預ける場合には、ほとんどの場合、担保を取ることはない。そのつど銀行が預金者に担保を出していたら、銀行の業務は成立しない。銀行は請求があれば、一定期間後もしくはいつでも払い戻すという約束をして預かる。銀行はこのとき返すべき資金を預かっているだけなので、銀行にとってはこの財産は負債である。負債が大きな銀行が大規模銀行である。負債と言っても信用を帯びる財産であり、負債とは財産の一種であることになる。この負債を元手にして、資金を必要としている法人もしくは個人に一定の利子付きで資金を貸し出す。負債の一部が、他の法人や個人に貸し出されている。貸し出された貨幣は、現実の業務に活用できるのだから、資金と言ってもよいし、財だと言ってもよい。
銀行に預ける段階では、貨幣は銀行にとっては負債だが、それじたいは使用可能性をもつ信用状でもある。だから貨幣は商品や物ではなく、信用を含んだ負債、もしくは信用と負債が一つになったものだと考えてよい。銀行に預ける預金者からすれば、財産を銀行に一時的に保管してもらうだけだが、銀行から見れば、一種の負債である。
銀行に預金されている資金は、借り手が無ければただの紙である。実際には個々の口座に数字だけが打ち込まれ印字されている。借り手がいてはじめて貨幣となる。この局面で貨幣が出現するのは、「借りるというオペレーション」が起きたときである。そして貨幣の出現は、資金需要に依存する。資金需要がなければ、実は貨幣は出現しないのである。このとき需要/供給という異なる二つの要素が連動し、貨幣の出現(消滅)を促すことになる。需要/供給のバランスこそ、貨幣の出現と貨幣量を決めているのであり、いずれにしろ銀行から見れば、貨幣は負債であり、また借り手から見ても貨幣は負債である。
借りられた資金である貨幣では、信用・負債が別のところ(法人・人)に移動して、それをもとに事業が行われることになる。このとき貨幣は、借りている人が返せば、貨幣としては、消滅する。とするとこの負債は、一種の信用状であり、信用状を発行して、その信用状がまた次の取引にも使われることになり、いつでも使える信用状となったものが貨幣であることになる。この局面では貨幣を選択性のある商品だと呼んでも、信用・負債だと呼んでも、実は同型であり、言葉の言い換えにすぎない。とするとそれをわざわざ負債だと呼ぶ理由はなく、そう呼ぶことの利点はこの段階ではいまだないことになる。
農産物や手工業製品のような商品を生産し、貨幣を受け取る場面を想定する。この貨幣は、銀行から取り出され、いずれ銀行に返されるので、資金移動(特定の口座から特定の口座への振り込み)だけが行われる。このオペレーションでも、資金を財と考えても、負債と考えても、言葉の違いだけである。
しかし銀行からすれば、市中から集めた資金を元にして、貸し出しを行っているのではない。そんなことをやっているのは、個人営業の高利貸しぐらいである。銀行は、日銀の当座預金口座に資金を預け、日銀(中央銀行)から大量に資金を借り出してきて、資金需要に対応しようとする。かりにある企業で多数の早期退職の希望者が出れば、一時的に企業は銀行から資金を引き出してこなければならない。大型開発を請け負う企業にも、一時的な資金を手当てしなければならない。資金需要には、大幅な変動がある。それに対応する資金供給枠が確保されていなければ、銀行業は成り立たない。そのため各銀行は、日銀の当座預金口座に資金を積み、約100倍の資金枠を日銀から得ている。
日銀から資金を得てくる場面で、ただちに思い浮かぶのは、日銀はどこからその資金を得てくるのかである。そしてこの問いが、「信用貨幣論」にとって決定的なのである。日銀は、日銀の発行する信用状として、ただ貨幣を発行するだけである。紙を印刷し、そこに数字が書き込んであるだけである。貨幣は貨幣として設定されることで、貨幣である。そして貨幣にはそれ以上の裏付けはない。ただしこの貨幣には、「汎用的な使用可能性という信用」が伴わなければ誰も使わず、誰も受け取ろうとしない。
では取引で活用されるものは何でも貨幣になりうるのか。実際には各種スーパーやデパートの商品券も、地方自治体の商品券も、汎用性の低い貨幣である。しかしそれを受け取り、取引に活用できるものであれば、貨幣の一種である。香港ドルは、中央銀行の発行した貨幣ではない。大手銀行の発行した商品の一つである。それでも汎用性のある貨幣となっている。
各種商品券と通貨の違いは何か。そこでこの「信用貨幣」を主張するものたちの言い分は、ほぼ同じ意見に集約される。税金を納めるさいに使える通貨が、国の貨幣であるというものである。税の取り立てに活用できるものこそ、国民国家の通貨となり、それが汎用的な貨幣である。商店街の標品券では、納税に用いることができない。
こうして国民国家の中央銀行の発行する貨幣は、それじたい一切の裏付けはないが、にもかかわらず税の納入に活用でき、しかも中央銀行は資金需要の度合いによって金利を設定できる。しかも各銀行をつうじてか、あるいは政府発行の国債を中央銀行で引き受けることで、市場に供給される資金量を調整することができる。
政府のさまざまな業務の実行や職員の人件費は、この貨幣をもちいて支払いがおこなわれ、翌年の税収をつうじて、いくぶんか国債は償還される。だがそれぞれの年度では、負債として発行した国債や政府借入を中心に賄われるしかない。国はつねに負債をもとに運営されている。そして国は生産企業ではないので、原則利益を出すことはない。一切の物としての対価のない貨幣でそのつど運営されているのが政府である。政府の「子会社」である中央銀行の発行する貨幣は、それじたい負債である。
貨幣を負債だと考えることは、政府と中央銀行の特殊性を考えることに等しく、政府の会計は、民間企業の会計とはまったく異なったものだ。貨幣を発行することは、新商品を開発したり、新サーヴィスの提供ではなく、特殊な調整機能を帯びる。このあたりには論じる人ごとに少しずつニュアンスの違いが残こる。それは負債だと言っても、つねに活用できる負債であれば、使用するときにはそれじたい財として扱われているからである。借りるときには、借りるというオペレーションによって貨幣が出現し、それを使うときには財となっている。この場面では、負債か財かは、オペレーションの局面の違いによっている。
貨幣を負債だとする理由は、売買のような対価とは異なる仕組みで貨幣は発行されることを論拠にしている。しかも借り出しによってはじめて貨幣が出現する。貨幣の出現の条件から見て、貨幣は負債だと考えるよりない。考え方のスキームとしては正しい。だがこの点に力点を置いて経済システムを考えたときに、いったい新たに出現する選択肢は何なのかという点が問題となる。
政府は、中央銀行に貨幣を印刷させて、それを使えばよいのであれば、もはや税収を見込む必要もなく、税金を取らなくてもよいのではないかという思いもある。政府の業務を賄うための資金を調達する必要が必ずしもないのであれば、税は取らなくても良いことになる。税は、支払う側からすれば何かの対価である、という思いが付き纏う。つまり税金を払っているのだから、それに応じて政府は何をしてくれたのかという話になる。ところが税は売買のような何かの対価ではなく、社会的格差の是正や、インフレ率の調整、新たなサーヴィスの立案や科学技術の研究のような公共財への投資がなされている。
税は、経済システムとして見れば、利子率と同様に、インフレ率の調整についての調整変数であることになる。税のない社会にすれば、インフレが極端に進み、経済的格差が極端に大きくなる。税とは調整変数として導入されている。
紙幣を発行しても、借り手がなければ貨幣は出現しない。そこに資金需要が必要となる。貨幣の出現は、需要/供給によってしか決まらない。そして貨幣を無尽蔵に発行することによってはただ紙切れを作るだけであり、必要な需要がなければ貨幣は増えないことになる。つまりマネタリーベースを大きくして、市場に低利の資金をジャブジャブに供給しようとしても、借り手が無ければ貨幣は増えないことになる。日本の金利は、ほとんどゼロ金利だと言われており、スイス、ドイツにならぶマイナス金利だとも言われる。それでも借り手がない。民間主要企業の内部留保金は450兆円ていどあると言われており、毎年増え続けている。そのため新たな投資のために資金を借り入れる必要はなく、また上場企業であれば株式市場から資金を調達することもでき、銀行から借り出す必要はない。それ以上に企業主体にとっては投資先がないのである。すると貨幣量はまったく増えていないことになる。通常の経済環境であれば、日本の経常収支は、毎年30兆円―50兆円ずつ積みあがる。そして政府は巨大な赤字を作り続ける。
日本ではデフレが長く続いている。需要/供給で見れば、明らかに需要不足である。半導体機器が新たな局面を開き続けたのは、マイクロソフトのウインドゥズの開発あたりからである。製品が投入されるたびに、新たな市場が拡大し、市場の拡大とともに新たな需要が作り出されてきた。AIは、生産や労働環境を変えるが、現時点では生活環境まで変えるほどの展開力を見せているわけではない。電子マネー決済や通販での買い物は、手段の変更であって、それじたいでは新たな生活環境が準備されているわけでもない。ロボットが車を運転する時代は、まだまだ先のことである。有効な投資先は容易には見つからない。つまり資金需要はそもそも足りていない。しかも供給で見れば、安価な製品が中国から大量に提供されるのだから、供給に対応する支出は恒常的に下押し圧力がかかっている。
マクロ国家経済の需要不足の最大の要因は、人口減少である。こうした局面で、こうなれば需要規模が拡大する条件はほとんどない。つまりデフレ傾向に対応する手段は、ほとんどないようにみえる。
信用貨幣論の論者たちが、ここで持ち出すのが、政府支出を増やすことである。いわゆる財政出動である。政府の借金を膨らませて、それを国内事業に振り向ければ、財が民間に移されることになり、需要不足に対応することができる。しかも政府借金は、民間企業や個人の債務とは性格が異なり、よほどのことがない限り、デフォルトに陥ることがない。この理由は、独自の不換通貨を持ち、公的債務(国債)の大半が自国通貨建てで、かつ為替が変動相場制をとる主権国家(つまり米国、英国や日本)は決して財政破綻しない、という理屈である。
一般には公的債務で資金を供給し続ければ、極端なインフレが起きるという予想はごく月並みなものである。そして多くの反対論者によって指摘されてもいる。資金が多く出回れば、一般には貨幣価値が下がり、紙切れを多く持つよりは、物に変えておいたほうが良い。物の購買圧力が大きくなれば、物価は上がる。我先に物を買っておこうとする消費者が増えるからである。これが極端になれば、ハイパーインフレとなる。
この場合には貨幣と物との関係が問われている。貨幣量だけが純粋に増えればたしかにインフレ圧力となる。だがインフレが極端になるためには、発行した通貨が物品の購入に当てられ、その物品を担保に資金をさらに借り出し、その資金でさらに物品を購入するような過剰流動性が起きる場合である。過剰流動性がなければ、極端なインフレにはならない。過剰流動性に対しては、物品を担保にした借り入れの利子を上げるか、中央銀行による資金提供を減らせばよい。インフレ対策は、金利政策と財政の緊縮化によって有効に対応できる。
そしてインフレ対策で取ることのできる対策が、同じように逆回しするようにしてデフレに対して有効に機能するかが問われている。ここが信用貨幣論者の固有の言い分である。ここ20年間の日本のデフレへの対策は、何か筋を誤っていたのではないか、というのがそのさいの指摘である。実際、中央銀行がマネタリーベースでジャブジャブに資金を流しても、まったく需要は増えず、2%のインフレ目標さえ到達できない。中央銀行による資金提供は、デフレに対してほとんど効果がなかったのである。資金需要がなく、余った資金は「国債」購入にでももっていくしかない。ところが国債の半分近くは日銀が保有してしまい、品薄状態である。そのため国債の入札では、品薄の国債を求めて資金が殺到するために、利回りが極端に下がっている。ここで起きているのがマイナス金利である。
そこでここから政府は、積極的に財政赤字を創り出し、貨幣を市中に回し、需要を創り出していくことこそが本筋であることになる。財政健全化と称する消費税によって、財政均衡化を行うような政策はむしろ逆効果で、必要なのはむしろ積極的な財政出動であり、発行した政府国債を中央銀行が引き受けることで、政府はさらに借金をして需要を作りだすことである。これが信用貨幣論者の多くが共通して主張していることである。ここまで進んでみると、話がうますぎることがわかる。そしてこうした主張をする者たちは、見かけ上は「社会主義者」に似てきてしまう。というのも高齢者や障害者に対してどんどんと手当を厚くして、公共事業を際限なく増やし、政府支出を際限なく増やすことに、基本的には歯止めがないからである。
財政は、つねに経済活動の選択肢を多くする役割を担っている。東日本大震災のような緊急事態に対して、対応可能性を弾力のあるかたちで残し続けるのが国家財政である。政策の選択肢を減らし、対応可能性を狭めるような政策手法が、デフレ対策程度のことに果たして釣り合うのだろうか。財政出動を行う程度では、一時的に物価は上がっても、基本的な需要不足は解消するようには見えない。というのも市中を動く貨幣量が増えても、その多くがいずれ貯蓄へと回されてしまうからである。デフレに対しては、新たな需要を生み出すようなイノベーションこそ不可欠である。ただしイノベーションは、不連続な転換のことであり、マクロ経済の需要/供給の拮抗から生まれるものではない。つまり財政出動から、イノベーションが生まれるということにはならず、また歴史的事実としてそうしたことは起きていない。
また公的資金の投入は、それが次の展開に結びつくものでなければ有効なものではない。一時的に財政出動をつうじて公務員を臨時に増やしても、それが需要増につながるわけではない。こうしてこの経済理論のどこがおかしいかははっきりする。信用貨幣論は、積極的な財政出動を正当化する。だがそのさいの財政出動は、投資された資金がどのように次の生産活動に転換されるかがポイントなのであって、財政出動そのものが正当であるかどうかではない。
マクロ経済政策は、インフレやデフレの調整だけをやっているのではない。雇用があり、個々人から見れば仕事があることが決定的に重要である。働きたい意欲がある人が、職場がないという事態は、経済的には損失である。ここを埋めるのがマクロ経済政策であり、基本的には雇用政策である。だが現在の日本では、失業率はほぼゼロである。経済対策を講じても、失業率はこれ以上に小さくはならない。統計調査をとれば、2.5%程度の失業率である。この数字はこれ以上小さくならないのだから、実質的に失業問題はない。しかも雇用関係でいえば、労働市場は人手不足である。一定の失業率を確保しながら、労働市場は人手不足である。この隙間は、経済システムにとってとても重要なものである。この場合、賃金上昇圧力がかかって、それがインフレ基調に導くことも考えられる。だが失業率は、労働単価の上昇への歯止めとなり、同じ給与でより良い仕事を行うことのできる労働者や、同じ仕事であればより安い報酬で行うことのできる労働者の潜在的な供給の母体ともなっている。また現行の経済行為に対して、新たなアイディアを出してくる貴重な母体でもある。失業率とは、労働市場における負の要素であるが、経済システムにとって貴重な隙間であり、揺らぎなのである。
負量については、システム内在的な選択肢の増大をともなう場合に、有効なシステムの変数となる。それが実在的な負量である。それに対して、既存のシステムの一部を「負量」だと解釈することは、解釈のスキームを変更することに留まっている。この解釈の変更によって、新たに見えてくる現実性の局面は確かにある。たとえば中国政府は、貨幣の負性をよく理解しており、「負債は返す必要はなく、投資は返してもらう必要もない」という貨幣への信頼のなさが基調にあり、それは国家規模のものだという評論は、それはそれで重要な局面を突いてもいる。この場合、負量は信用の限界であり、信用の欠落態である。だがこの局面ではシステムそのものを別の局面へと自己組織化させるほどの展開可能な企画とはならない。解釈スキームの変更は、現実の別の言い換えであり、大半はただ言葉の問題なのである。
3 人間存在は負量か
人間の現実的存在について、まさにいまこのように「私が在る」という現実性の感触を前景に出し、実存は本質に先立つという主張とともに立論を組み立てるのが、「実存主義」である。確かに私がいま生きている以上、生きていることの実感をもとにそれを現実性の拠点のように考えることはできる。そこには、自分自身を裏切るほどの変化も含まれており、多くの場合一切の理由付けが効かないほどの場面を引き受けながら、それを生きていくのである。こうした場面は、「不条理」と呼ばれ、不確実性のなかで起きてしまう出来事のなかに巻き込まれながら生きていくことである。そのことが実存のもっとも劇的な局面を表してくれる。そしてささやかな日常の一コマを拡大鏡にかけるように取り出して行く作業が、不条理文学となる。
日中に思いもかけない不運が重なり、うまく行かない一日の終わりに、一人の労務者がやけ酒に近い飲み方をして店を出て、路地裏をとぼとぼと心もとなく歩いている。すると前方から今日一日餌にありつけなかった様子の痩せた犬がとぼとぼと歩いてくる。労務者は、前方から近づいてくる犬を見かけながら、何か気まずい思いになり、それでも前に進んでいく。すれ違う手前で、労務者は犬とばったりと眼を合わせてしまう。双方ともまずい出会い方だと感じたかのように、そそくさとその場を離れようとする。こんなことは良くあることなのだが、そこに過度に意味を見出してしまうのが、人間の実存である。オールビーの『動物園物語』にそれに近い話が出てくる。日常のなにほどでもない事実のある場面に、自分が自分であることの意外な局面を間違いなく感じ取っているのである。
さらに極端にして見る。不治の病で治る見込みはなく、誰からも支援を受けることもなく、自分から働きかけるように何かを行うこともない。ただ命が尽きるまで、ただ自分であり続けることは紛れもない現実である。もはや過去の知人と出会ってもほとんど反応することもなく、誰かに声をかけることもない。それでも自己であり続ける活動の現実性だけで生きている。これはドゥルーズの「強度」の事例として取り出されるような内容であるが、こうしてなおも生き続けることは、それじたい世界内の一つの「不連続点」の形成である。こうした人間存在は不連続点であっても、なおそれだけで固有の価値をもつ。未来へと期待されるような信用存在ではない。経済的に見れば、負の存在であり、何かの役に立つような存在ではない。
幼児のように未来への信用をもとにした存在は、経済的にはひとつのクレジットであり、信用である限り、一つの負量である。将来の回収見込みとしてクレジットが設定されている。こうしたクレジットを身にまとう存在として人間は、「近代的人間」である。人間はいずれにしろ将来への期待と投資のかたちで「信用存在」として形成される。そして新たな期待を受ければ、さらに大きなクレジット存在となる。存在のほとんどはクレジットである。それはつねに可能性として生きるということの別名である。つねに負量として生き続けるものこそ、人間の現存在なのである。そうして実存主義の一つの極端なかたちが成立する。実存とは、つねにみずからを負量へと追いやる活動のことであり、正量とはみずからに自足した「頽落態」であることになる。
しかし生き死にかかわる事象は、経済に回収できるものではない。もはや死に行くだけの存在は、すでにして未来への投資対象からは外れている。だが過去の遺産(年金や貯蓄等)で生きながらえているのでもない。可能性として生きるというのは、どこか将来への発展的な形態が読み込まれている。だが発展的で、成長見込みがあり、増大見通しがあるというようなパースペクティヴのもとにはないような「可能性」を構想することはできる。ただ生きているだけの美しさや賢さはあるに違いない。死に近づきながら学ぶことを止めないもの、死に近づきながらに、そのつどこれが最後の言葉だという思いを込めながら、みずからを綴り続けるもののような場面に見られるように、老いることの区切りを付けていくものもいる。人間の別様な可能性を感じさせるのである。このあたりの人間存在を描き続けたのが、ベケットである。
人間存在のなかで、職種によっては、欠くことができないが、やがては消えるべき存在がある。たとえば各種コーディネーターである。河川敷の拡張工事を行うという事業企画を行う業者と、それに反対する地域住民の間で、思惑がすれ違い和解の糸口さえ見つからないことがある。このとき開発業者から相談を受けた行政当局が、コーディネーターを指定することがある。コーディネーターは双方の言い分を聞き、双方の主張のいくぶんかずつを割り引きながら、折り合える場所を探していく。現実に起きることは、コーディネーターは双方から恨みを買いながら、それでも折り合える場所を見出していくことである。そして双方が折り合うことで、コーディネーターは自分の仕事を終え、消えていかなければならない。成功とは、自分自身の役割が終わることであり、そこから消えていくことである。民事系の弁護でも、同じように原告、被告の調停にのり出して、場合によっては事案当事者の一方によって背後から刺されるようなことも起きる。私の知り合いの弁護士の一人も、東京地裁の玄関から出たところで背後から被告人に刺された。双方から恨みを買い、それによって着地点を見出して、自分の役割的な存在を終える。負量として存在することは、みずからの存在を消滅させることによって、現実に区切りをあたえることでもある。それは現実に対して、区切りを入れることによって、新たな選択肢を確定し、それによってみずからが消滅することである。
金融ネットワークでのコーディネーターは、市場で預かった資金を増やすだけではない。分散した資金を集めることで、「資金」に活をあたえる作業でもある。そのため資金の動きの背後で、いつも消えていかなければならない存在である。システムが特定の動きを見せるとき、そこに作為性をもたせようとするものは、まさにそのことによって匿名化し、またシステムの動きに特定のモードが出現すれば、自分自身がそこから消えていくことでもある。このとき負量とは、システムの動きを変えていくための一時的な媒体なのである。ひとたび資金のシステムの動きが生じれば、まさにそのことによって負量はもはや現実のなかに姿を現すことはなくなる。
こうして負量はシステム的には選択肢を調整する媒介的存在であるが、にもかかわらずつねに見かけ上のそれじたいの存在の含意をもち続ける。その存在の消滅こそが、現実に新たな局面を作り出す。そのことはかえって存在そのものが、本来消滅すべきものであり、消滅するというプロセスにもっとも有意義な働きを垣間見せるということがありうることを示唆する。このとき存在はまさに消滅のプロセスにおいて、もっとも本来的な姿を示していくのである。
参考文献
カント「負量概念の哲学への導入」『カント全集』第三巻(田山玲史訳、岩波書店、2001年)
桑子敏雄『何のための「教養」か』(ちくまプリマー新書、2019年)
ドゥルーズ『記号と事件』(宮林寛訳、河出書房新社、1996年)
中野剛志『奇跡の経済教室』(KKベストセラーズ、2019年)
中野剛志『富国と強兵―地政経済学序説』(東洋経済新報社、2016年)
原正人『日本銀行「失敗の本質」』(小学館新書、2019年)
フリードマン『資本主義と自由』(村井章子訳、日経BP社、2008年)
ベケット『マロウン死す』(宇野邦一訳、河出書房新社、2019年)
別役実『台詞の風景』(白水社、1984年)
三橋貴明『日本人が本当は知らないお金の話』(ヒカルランド、2016年)