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システム的思考

河本英夫

環境は一般に複雑なネットワーク(システム)である。そのため環境が維持される場合には、この複雑なネットワークの仕組みが関与している。その仕組みを、かいつまんで考察する。自己維持するネットワークには、さまざまな仕組みがある。最初に現在環境問題を考えるさいに、必要だと思われる基礎知識を検討する。さらに少し視点を変えて、最も緊要だと思える局面を提示する。

1 システムの機構

動的平衡 オゾン層は、地上12-15Kmの大気圏上層にある薄い膜である。太陽光のなかに含まれる紫外線を遮り、地表に届く紫外線量を減らしている。紫外線がそのまま届けば、皮膚ガンが一挙に増大すると言われている。冷蔵庫や冷却用機器やスプレー式噴霧器に使われているフロンガスが、オゾン層を破壊するということで、一時大問題になったことがある。フロンガスが分解するさいに生じる塩素系の物質がオゾン層を破壊することは事実である。その後も断続的にオゾン層破壊という話題がでる。極地方で、オゾン層に穴が空いているという報告もなされている。しかしそれほど危機的な環境破壊だという主張は出ていない。
オゾン層は、長期にわたって維持されている薄い膜である。ということはオゾン層が恒常的に形成されても、一定以上の厚さになれば、自動的に分解されて、一定の厚さに保たれているようである。こうした自己維持状態を「化学平衡」という。恒常的に作られては、恒常的に分解され、一定の厚さが維持されている。この厚さが維持されている点が平衡点である。こうした系を、「動的平衡系」と呼ぶ。この場合には、オゾン層が一部破壊されれば、ただちに平衡点がズレ、急速に回復へと向かう。かりにオゾン層の形成速度を上回るほどの破壊速度が生じれば、オゾン層はもはや回復されなくなる。この場合には平衡状態そのものが壊れてしまう。平衡状態は、形成と分解の速度の釣り合いである。この速度が間に合わなくなるほどの速度や加速度での破壊が起これば、平衡状態は解除される。こうした平衡系は、生命体のなかにはたくさん備わっている。血中の糖分濃度が下がれば、肝臓でグリコーゲンが分解されて、血中に供給される。体温が上昇すれば、汗を出して体温を下げる。環境のネットワークは、これほど単純ではないが、自己維持する系には、こうした平衡状態がいくつもある。
二重安定性 双平衡状態と呼ばれるものもある。複数個の平衡状態をもつものである。一般に湖水は、少量の生活排水が流れ込む程度では、濁ったりはしない。薄められて、汚濁になるような物質が一定濃度以下になると、分解されることが多い。一般に自然の浄化力と呼ばれている。ところが汚濁物質がある濃度を越えると、全域が濁ってしまい、濁りが消えなくなる。こうした事態をもっとも簡略に示すのが、水が氷になる場合である。水の温度を下げていくと、ゆっくり温度を下げていけば、零度以下になっても氷にはならない。手をビーカーにぶつけて小さな振動をあたえると、一挙に氷ができることがある。
系の状態が一挙に変わることを「相転移」もしくは「フェーズシフト」と呼んでいる。たとえばサンゴ礁が汚泥の流入によって死滅し始めると、またたくまに絶滅してしまうことがある。死滅の回路に入ると、汚泥を取り除くぐらいでは止まらない。こうした局面の変わるポイントを「臨界点」という。臨界点には分岐があり、滝が尖った石を境に二股に分かれるような事例から、「カスケード」と呼ばれている。つまり水が水であり続けるのも、どこかに安定化の機構が働いており、サンゴ礁が維持されているのも、繰り返し再生が続いているからである。こうした動的に安定化している系に、なにか小さなきっかけが働いて、一挙に局面が変わるのである。
これは生物のような高度な系でも、部分的に出現する。たとえば雌雄の決定に環境温度が関与し、この温度の偶然性によってオスになったりメスになったりする魚類がいる。性決定の仕組みそのものは同じであっても、環境条件次第で別様の発現様式をもつことがあり、別様の現実性となる。ボラの一種では、四度という水温を目安に性が決まるようである。ベラ科のブルーヘッドでは、集団を支配していた有力なオスがいなくなると、最も大きなメスがオスの行動を取るようになり、生殖巣が卵巣から精巣に変わる。これらは環境条件によって、安定化の機構の表現形が二つあることになる。性が遺伝的に決まっているのではなく、性決定の仕組みのなかで、いずれでも表現形になりうる。
再度水と氷の例に戻す。氷になった状態で、温度を上げても氷が一挙に水になることはない。少しずつ解けていくだけである。多くの場合、水と氷が混在した状態がしばらく続く。系のなかには、一挙に局面が変わってしまうような場面もあれば、複数個の状態が混在しているような場面もある。こうした事態の典型例は、湖水の汚濁で、ひとたび湖水が不透明になると、汚濁物質の濃度を減らしても、容易には湖水が透明にならない場面である。汚濁の始まった物質濃度以下に下げても、湖水は透明にならない。汚濁が進行するプロセスの軌跡と汚濁を減らして透明化していくプロセスの軌跡を比較すると、異なる回路を取ることが分かっている。そうなるとこの汚濁化には、プロセスの進行のなかに、「履歴」が関与していることがわかる。つまり汚濁化が進み始めるとそれが過速度化し、また透明化が開始されると過速度化する。透明化した状態と汚濁化した状態は、それぞれに安定する仕組みを備えていて、それぞれが相転移していく臨界点が異なることになる。こうした事態を「二重安定性」と呼んでいる。
こうした仕組みのあるところでは、環境がひとたび変化し始めると、容易なことでは止めることはできず、また環境維持を行おうとすれば、莫大なコストと年数がかかる。この二つの臨界点の間では、水と氷が共存するように、複数の事態が共存している。湖水汚濁では、濁ったり透明になったりを繰り返している状態であり、それを敏感に感じ取ることのできる感度がなければ、気がついたときにはすでに一方の極へと進み安定化状態に入っていたということになる。
視覚は、物事を特定化することに長けている。何であるかを知ることに特権化しているのが視覚である。そのため視覚は、図形や確定した像を見ることに適しているが、変化や動きや揺らぎや蠢きを見ることには適していない。人間の眼では変化そのものは見えず、変化の結果しか見えない。そうなると観察にもおのずと限界が生じる。観察は起きた後の結果しか知りようがないからである。そこで日頃から動きの感度を少々高めておくことが必要となる。
カオス力学 動きへの感度を形成するためには、物理学のカオス力学を参照するのがよい。たとえば雨が降り雨水が恒常的に樋を伝わって落ちているときにも、一定量ずつ落ちているのではなく、ちょろちょろと流れ落ちることもあれば、一気に大量に落ちることもある。落ちる流量は、非周期的、非規則的に変動している。こうした非周期的、非規則的な運動の総称をカオスと呼んでいる。ここでのカオスは、混沌のことではない。むしろ一定の複雑さが維持されている系の動きのモードを指している。人体の血流も一定量ずつ流れているのではなく、非周期的、非規則的な流れ方をしており、血流も一定の複雑さを維持している場合の方が、健康状態を表している。血流の流れが、一定量となり定型的な周期性が出るのは、むしろアルツハイマーや老人性痴呆の患者のようである。これは実際に測定データが出ている。
こうした動きのレベルでは、いくつかの原則がある。(1)初期条件の微小な差異に対する敏感な依存性 これは当初の小さな違いが、やがて大幅に増幅されるというもので、日常でもよく経験する。新幹線に乗って出張する予定のときに、最寄りの駅で1分の違いで急行電車に乗り遅れ、東京駅で予定の新幹線に間に合わず、目的地に着いたときには、数時間の違いになってしまうようなものである。一般には、北京での蝶の羽ばたきが、フロリダでハリケーンになると言われているものである。最近ゲリラ豪雨が頻発する。ゲリラ豪雨は、ごく狭い範囲の突発的な積乱雲によってもたらされる。こうした空気の動きを直接捉えることは難しい。そこでレーダーで虫の集団の動きを調べている。小さな昆虫は自分で移動するというよりは、空気の流れに乗って集団移動している。そこで虫の集団が特異な動き(上下動)を開始すれば、積乱雲の発生の場所をかなり正確に予測できるようである。
 (2) パイコネ変換 ひき肉料理を作るときに、塩コショウを上にかけ、ひき肉に上下左右の変換をかける。機械で行って、同じ強さ同じ速さで行ったとしても、塩コショウの分布は、そのつど異なり、それは塩コショウが一様に分布するまで続く。これはひき肉と塩コショウの系が閉じているから起きることである。かりに系そのものが開かれていれば、同じオペレーションをかけても、そのつど異なる事態が生じる。すると同じような動きが続いているだけで、刻々と事態が異なって行くことがある。これも人間の眼で見ることは容易ではない。小さな変換を積み重ねていくと、少しずつ変化が生じ、その果てには、予想外のことが起きる可能性が生じる。
たとえばヒトデとイカは種の分類で言えば、大幅に異なっている。体制の作りが異なると言われている。ヒトデの口は海底にあり、通常見えているのは背である。放射状に広がっているので、動きは回転運動になる。イカは頭足類と呼ばれる類で、足を使って直進運動をしている。人間の眼にとっては、両者には相当大幅な隔たりがあり、それぞれの体制は変化の限界を決めていると言われている。ところがヒトデを元の平状から、口と背を刻々と隔たらせ、膨らませて、五本の足を口とは反対方向に折り曲げ、それぞれの足が半分になるように切れ目を入れると、圧縮と引き延ばしの効果だけでイカの体制に近づく。そうすると力学的な変化だけで、相当大幅な変化が起こりうることがわかる。小さな変化の積み重ねが、人間の眼にとっては不連続だと思えるほどのところまで進みうるのである。こうした小さな変化で、かつ巨大な変化をもたらすものの予兆を感じ取る力が、人間の場合、ほとんど劣ってしまっている。
 (3) 非整数次元 複雑なかたちをしたものの面積を測定しようとすると、求積法というやり方を使う。円で被って、余った部分にはさらに小さな円で被って行く。これを繰り返して面積を求めるのである。それでも複雑なかたちでは、無数に被うことのできない部分が残り、それが無限量になることがある。とすると面積を求めようとして2次元で被って行くと、3次元的なかたちまで被うことができないという事態が生じる。この場合には、2次元と3次元の間に、非整数次元があるか、あるいは複雑なかたちをしたものは立体であるという理由だけでは単純に3次元だとは言えないことになる。生命のように複雑なかたちをしたものは3,12次元、3,46次元のような非整数次元なのかもしれない。そうだとすると空間という発想を変えなければならないことになる。地球上の空間が3次元だというのは、最も外側の空虚な座標軸の話であり、それが粗い要約である可能性は高い。人間の眼は、この粗い要約に慣らされてしまっている。
 こうしたことから動きへの感度を回復させることにともなって、空間さえ変えてしまうほどの変化の可能性に開かれてしまう。動きへの感度のある眼を形成することは容易ではないが、環境問題を考察するさいには身に付けておいた方がよいのである。

2 二重作動

 フィードバック 化学反応で、反応の産物が反応速度を遅くすることがある。フィードバックと呼ばれる反応であり、多くの場面で生じる反応のモードである。このとき反応産物が、自分自身を作り出した反応に速度調整的なかかわりをしていることになる。反応産物は、作り出された物質であるが、それが化学的反応プロセスに関与するのである。こうした場面ではこの物質は生成産物であると同時に、速度を調整する酵素的な働きをしている。ここでは機能的には、二重の働きを行っている。こんな単純な局面で、すでに機能が二重化していく。そしてこうした二重の働きのモードは、相当たくさんあると予想される。
 自己組織化 ビーカー内の水溶液で、ひとたび結晶化が始まると、継続的に結晶化が続き、結晶が増大することがある。結晶化が終わると、生成反応はそれで停止する。ところで結晶化のプロセスに焦点を当ててみる。出来上がった結晶は、プロセスから外に排除されたプロセスの結果である。そのため結晶は、見た眼にははっきりわかるが、結晶化のプロセスの外に排出されたいわば生成プロセスの糞もしくは副産物であるゴミのようなものである。そうだとすると結晶化のプロセスの本体は、できあがった結晶ではない。
そこで「生成プロセス」という動きの単位を設定してみる。個々の微細な結晶化を引き起こしているプロセスに焦点を当ててみる。そのときこの個々の生成プロセスは、次の生成プロセスの開始条件になっていなければならない。個々の生成プロセスは、個々の結晶を外に排出すると同時に次の生成プロセスの開始条件になっていなければならない。「生成プロセスが、次の生成プロセスの開始条件になるようにして、連鎖した生成プロセスのネットワーク」という事態を考えてみる。こうした定式化を「自己組織化」という。自己組織化は、おのずと進行しつづける生成プロセスのネットワークである。この場合には、個々の生成プロセスでは、次の生成プロセスの開始条件となると同時に、結晶を外に排出する働きも行う。この事例では、この二つが二重の働きになっており、二重作動の一つのモードである。
 二重作動は、自動的に進行する生成プロセスのなかで、事態が多様化していく基本的な仕組みである。またこれによって物事を出発点(初期条件)と結果(産物)という因果関係で捉えるような思考の慣例が、それじたい粗い要約であることがわかる。それだけではない。生成プロセスを因果関係で捉えることが、実際には奇妙な捉え方であることがわかる。というのも生成プロセスが開始したとき、このプロセスは結晶を作ろうとして作動しているのではなく、結晶は生成プロセスの副産物だからである。人間の観察は、初期条件と結果とを並べ、それらをつないで考えてしまう傾向が強い。いずれも眼で見えるのであり、眼で見えるものをつなぐのは自然なことだからである。しかし生成プロセスは、次の生成プロセスにつながっているだけであり、結晶を作ろうとしているのではない。するとかりに結晶の量を減らそうとするなら、生成プロセスの進行に働きかけて、生成プロセスの速度を遅くするか、生成プロセス間のつながりを別様にするか、生成プロセスを別のプロセスに接続できるように条件を変えてしまうか、というような選択肢が生じる。ここには多くの選択肢がある。
 たとえば排出二酸化炭素量を減らすという世界的プロジェクトがある。もっとも有名なのが、1997年に京都で議決された「京都議定書」である。先進各国に温暖化ガスの削減数値目標を明示した取り決めであり、それぞれの国で批准されれば「努力目標」としての拘束力をもつ。二酸化炭素は、水蒸気と並んで熱を含みやすく、地表付近の温度を上げてしまい、地球温暖化をもたらす元凶のように言われている。二酸化炭素は、現在の技術ではそれ以上加工できないので、ゴミである。このゴミが熱を含む。もっとも考えやすいのが、そもそも二酸化炭素を出さないようにするというような出発点を抑制する選択である。そこから禁欲的な生活を行い、電気もできるだけ使わないようにして、シャワーを浴びる時間もテレビを見る時間もクーラーを使う時間も減らすという「我慢の快感」に訴えるような主張が出てくる。こうした主張は、どこか奇妙である。二酸化炭素削減にはどの程度の選択肢があるかという問の前に、まずどれだけ自分が直接的に貢献でき、どれだけ我慢できるかを自己主張とするのだから、筋が異なっている。テレビを見ないようにすることでエネルギー削減に貢献できるのであれば、そもそも番組や放送局を減らせばよい、というもっともな主張は必ず出てくる。動機が正しければ、行為は正しいということにはならない。それどころか動機は意識の直接性に訴えて設定されているのだから、動機-帰結という発想は、因果関係と同様に、線型の関係に縛られている。そして多くの場合、そうしたやり方によっては事態を見誤るのである。
二酸化炭素は地表では熱を吸収する。そうだとすると二酸化炭素を集めて圧縮し、地中に埋めてしまうことで地表面の二酸化炭素を減らすことができる。また二酸化炭素は水によく溶けるので海水に溶け込みやすくするやり方もある。なによりも現在ゴミの状態の二酸化炭素を別様の炭素化合物で活用できれば、二酸化炭素は資源となりゴミではなくなる。問題や課題に直面したとき、可能な限り多くの選択肢に開いていくときの基本的な仕組みが二重作動であり、どこに選択肢があるかを見極め、さらにどこに選択肢を開くことができるかという課題に直面しつづけることである。
 複合的なシステムの作動状態を表すのが、ハイパーサイクルである。生態系のもっとも多くの部分で成立していると予想されるシステムである。各サイクルは、一定期間持続可能な独立した系であり、それぞれが速度調整や触媒機能を果たしながら、他のサイクルと連動している。このときに起きていることは、個々のサイクルは一貫して自分自身の動きを続けているだけであるが、そのことが同時に他のサイクルにとっての触媒の働きをしていることである。これもかなり高度になった二重作動である。こうしたハイパーサイクルの最も基本的な仕組みが、DNA遺伝子とタンパク系の連動である。こうしたシステムの成立している場面では、ハイパーサイクル全域を維持しながら、特定のサイクルに働きかける必要が生じた場合には、直接そのサイクルを制御しなくても、間接的に制御できる。また連動している各サイクルをさらに増やすようにして、新たなサイクルを導入して、ハイパーサイクル全域の速度調整や機能性を調整することができる。各サイクルの数が多いときには、ハイパーサイクル内の多様性が高く、サイクル数が少ないときには、系は相対的に均質化している。一つのサイクルが破壊されたとき、それを欠いてもなおハイパーサイクルが維持できるのであれば、そうした系全体は、「レジリアンス」の度合いが大きい。
レジリアンスは、今日では多くの領域で活用されるキータームであり、生態学では変化が生じたときに、「元に戻る速度もしくは時間」で計測される。これじたいは数量化するための目安である。というのも回復過程も、どこかで急激に進行することもあれば、なだらかにゆっくりと進行することもあり、系の回復力を速度や時間だけで計算することはできないからである。レジリアンスは、壊れたときの回復力、あるいは少々の変異では壊れない、という「壊れにくさ」を表している。そのとき個々の系にどの程度の選択肢があるのかという点も、レジリアンスの重要な指標になると思われる。選択肢を増大させていく方向での設計が、環境デザインの課題となる。
 建築の比喩 もう一つ事例を出しておきたい。物事をデザインするさいには、最終的に到達したいと思うものを想定していることが多く、こうした未来像に到達したい、こうした環境が望ましいという思いは、アイディアを出す段階でつねに抱えているはずである。そしてつねに最終状態に向かうように組み立てているはずである。ところがそのときこの想定された未来像に到達するためには、実はいくつもの回路が存在するのである。典型的な事例を出しておきたい。

家を建てる場合を想定する。十三人ずつの職人からなる二組の集団をつくる。一方の集団には、見取図、設計図、レイアウトその他必要なものはすべて揃え、棟梁を指定して、棟梁の指示通りに作業を進める。あらかじめ思い描かれた家のイメージに向かって、微調整を繰り返しながら作業は進められる。もう一方の十三人の集団には見取図も設計図もレイアウトもなく、ただ職人相互が相互の配置だけでどう行動するかが決まっている。職人たちは当初偶然特定の配置につく。配置についた途端、動きが開始される。こうしたやり方でも家はできる。しかも職人たちは自分たちが何を作っているかを知ることなく家を作っており、家が完成したときでさえ、それが完成したことに気づくことなく家を建てている。実際ハチやアリが巣を作るさい、あらかじめ集まって設計図を見ていたということは考えにくく、またそうした報告もない。(マトゥラーナ、ヴァレラ『オートポイエーシス』)

ここには二つのプログラムが、比喩的に描かれている。認知的な探索プログラムは、前者の第一のプログラムに相当する。そのため対象を捉えるさいには、第一プログラムにしたがう。それが認知や観察の特質であり、目的合理的行為を基本とする。ところがシステムそのものの形成運動は、第二の後者のプログラムにしたがっている。第一のプログラムでは、描かれたモデルに合わせて制作作業は進み、そのモデルに合うかどうかで作業の方向づけがなされる。つまり認知的に識別し、それに合わせて行為を行うのである。ところが第二のプログラムでは、最終的に到達目標とされたモデルを一時的に括弧入れし、個々人はみずからの行為の継続が、どのようにしてなされるかを基本にして考えていくことになる。それはたんなる認知的選択ではなく、また認知に合わせて行為を制御するのではなく、むしろ行為的選択として継続可能な行為が選ばれることになる。その場合、最終目標として設定されたモデルは、結果として副産物のようにそこに到達すればよいのであって、そこを目指すことは、むしろ逆に行為の可能性を狭く設定し過ぎてしまう。第二のプログラムに示されているのが、行為の二重作動である。
最終的に到達目標になっているモデルに対しては、実際そこに到達するためにはいくつもの回路がある。そうした回路を含めた行為の可能性を提示していくものこそ「環境デザイン」である。環境デザインは、実は新たな科学への要求であり、そこへの踏み出しなのである。たとえばコンピュター・グラフィックスや写真で、未来設計図を視覚的に描くことがある。とても美しい夢のある映像が提示されることもある。その美しさに含まれているのは、実はその映像が、近傍に多くの別様の可能性を含んでいることである。それらの行為を方向づけるイメージとして活用しながら、行為の選択を行いうる設計を行うのが、環境デザインの課題となる。

おわりに 二重作動の活用

 二重作動について、さらに付言しておく。現在の日本では、耕作放棄地が、総面積でみて茨城県全域に相当する。農家の高齢化によるもの、事業継承者のないもののようにいくつも理由はあるに違いない。農業で、経済的採算を合わせることは容易ではない。水田が、治水、国土保全に役立っており、水田とは別個に治水作業を行えば、巨額の費用がかかることの算定もある。そのとき水田を作ることは、治水や環境維持も兼ねているのであれば、米を作りながら同時に環境維持活動も行っていることになると考えてみる。一つの仕事が、同時に複数の活動を行っているのだと考えるのである。ところでこの環境保全作業の主体は誰なのだろう。水田は、田植えの後、夏場には十分な水に満たされていなければならない。より高い位置の水田から順次低い位置の水田に水を流しつづけなければならない。そうした水を流しつづけるネットワークが、治水のネットワークである。治水、環境保全は、個々の農家が単独で行っていることではなく、公共的な活動である。そうするとNPO環境保全ネットワーク坂戸とかNPO治水ネットワーク清瀬のような特定非営利法人を作り、そこに参加する人たちは、稲作を行うと同時に、それがNPOの活動でもある、というように設定してみるのである。NPOは活動の補助金や寄附を受けることができ、交通費、会合費のような必要経費を計上することができる。「新しい公共」として設定された、NPO、一般社団法人(特定目的活動の人の集合)、一般財団法人(特定目的活動の財産の集合)は、社会的な活動主体であり法人格である。稲作は、米を作ると同時に、そうした社会的活動でもあることになる。それが現実の姿であるなら、はっきりと見える形にした方がよい。農家への一律戸別保証とは異なり、現に行っていることを、それとして評価できるシステムに変更することはできる。こうしたことが二重作動の活用の一例である。
 システムの複雑さの度合いに応じて、個々の行為は複数個の課題遂行を同時に行っている。これは行為において、目的-手段関係とも、動機-帰結の関係とも異なる局面で、現実が成立していることを意味する。そうしてみると環境デザインは、新たな行為の可能性を示す総合科学なのである。

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