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到来しつづけるもの

訪問者はいつも迷い込むようにやってくる。見るもの聞くものひとつひとつに大袈裟に驚き、挙動がことごとく事件であるかのようにやってくる。唯一測量師の契約をもって城と折衝したいという。契約はすでにあるという。だがそれが何を契約したことになるかが本人にもわからない。契約先の城にも確認する術がない。それどころか契約したはずの城が何であるかさえわからないのである。
訪問者は、滞在の許可がとれないまま訪問し続ける。宿のお内儀、従僕、女中も宿泊を切り上げるよう半ば強制的な視線を向け続けている。明日のあてのない今日を、日一日と繰り返し訪問し続ける。だがこの行為の継続は、いっさいの意図とも目的とも希望ともかかわりなく、存在の場所を形成する。城に接近する途も、生活の手立ても、ましてや故郷に引き返す手段もみつからず、それでも存在の場所が出来上る。名前をもたず、記号によってしか表すことのできないKの誕生である。城へ向かい、城を目指してもいつまでたっても城に至りつくことはない。Kはいつまでも到来しつづけなければならない。未刊に終わったカフカの『城』の成り行きである。(1)
城から拒絶されているわけではない。城に連絡をとろうとしても、連絡ができないだけである。城から出向いたと自称する男に、なんとかわたりを付けようとする。だが何をしたらわたりを付けたことになるかがわからないのである。認識は城へ向けて、 限りなく懐疑と躊躇と停滞を引起こしている。いずれなんとかなるという希望があるわけではない。だが絶望しているわけではない。すくなくともみずからの行為が制限されているわけではない。
城への訪問がかなわぬ以上、すべての行為は意味づけることはできない。 無為にみえる日々のなかで、ただひたすらな動きの自動的な反復から自己を形成し、さらにKとなって自己の領域を形成したはずである。いっさいの目的と動機から宙ずりにされたこの原初の作動は、 すべての到来するものに現れる。 太陽系の第三番目の惑星に生命が誕生して以来、生命はやむことなく到来しつづけている。ひとたび誕生したものは、紆余曲折を経て進化しているというのではない。生命はみずからへと到来しつづけるのである。この到来はいまだ未来からやってくる予期とも、流れることのないまま過ぎ去っていく希薄な現在とも無縁である。およそいまだ時間はなく、ただ純粋な作動だけがある。この作動から可能なかぎりの現象へとアプローチしてみることが、オートポイエーシスの課題である。それはちょうどなにかに希望を向けるのではなく、みずからへ到来することが一個の希望であるように行為することである。
チリの神経生理学者マトウラーナとひと時の弟子であったヴァレラが、オートポイエーシスという語を開発して、すでに四半世紀を経ている。(2)オートポイエーシスは、ギリシャ語からの造語であり、オート(自己)とポイエーシス(制作)を組み合わせている。 オートは、オートバイ、オートレースに見られるように自動的に作動するものに付せられている。ポイエーシスは、ポエム(詩)の語源となっている。この構想の骨子には、 三本の柱がある。
第一の柱が建築の隠喩である。これがオートポイエーシスの原イメージをあたえている。オートポイエーシスのプログラムと想定されたものである。いま26人の職人を集めて、13人づつの二つのグループを作り、家を建てる。一方のグループでは、頭領を決め、通常想定されるように設計図、見取図、レイアウトにしたがって想定された家を作る。頭領の指示にしたがい、微調整を繰り返しながら、当初想定されたものに合わせて家を建てるのである。(第一型) 他方もう一方のグループでは、設計図、見取り図、レイアウトを一切欠いたまま職人相互がどう振る舞うかだけを決めておく。各職人は出発点で偶然特定の配置場所につく。そこから行為を開始する。その場合でも家はできる。しかも家が出来たとき、それが自分の作ろうとしてものであることに気づくことはないし、また出来上がったときでさえ、それが完了したことに気づくことさえないであろう。それでも家はできる。(第二型) このさいの職人相互の振る舞いを決めているのがオートポイエーシスのプログラムだと言われる。これがマトウラーナの抱いた原イメージである。このプログラムは、職人の自動的な行為の継続を定める以上、自己組織化一般のイメージをあたえてもいる。(3)
一般に目的設定型のプログラムは、人間に典型的であり、組織形態でみればソビエト型社会主義に近い。つまりもはや有効でないことは分かりながらも、局所的には繰り返し登場するプログラムである。他方職人の行為の継続だけから家を建てるプログラムは、蜜蜂やアリの場合にも当てはまっていることがわかる。蜜蜂やアリが巣を作る場合、事前に寄り集まって設計図をみて談合を行っていたという事例は報告されたはいないし、事実やってもいないであろう。それでも巣はできる。この第ニのプログラムは、動物社会に典型的である。このとき動物の行動が目的適合的なものではなく、むしろ個体の行為の継続からなっていることが分かる。蜂が巣を作る場合、ある個体の行為を継続するように次の蜂の行為がなされる。この行為の継続がプログラムを組みたてるさいのモデルをあたえている。
ところがソビエト型組織に見られるプログラムと動物社会に見られるプログラムは、実のところ両極端を取り出している可能性が高い。そうなると第一に、この両者の中間にさまざまなタイプのプログラムが存在することになる。一例としてはマーケットのプログラムは、中間に位置する。たとえば為替取引きのマーケットでは、売り買いという一対の売買が継続される。紙切れをやり取りしているのだから、売買の行為の継続が停止した途端、これらはただの紙屑である。たとえ中断があっても売買の継続可能性に支えられているからこそ、やりとりされる紙切れは取引として成立している。マーケットでは、損得を見積もるという算定のさなかにも売買は継続している。だが見積もりをつうじて取引の戦略を立てるのでなければ、取引を行っていることにはならない。そのため継続する売買のなかに、人為的に大まかな区切りを導入しながら売買はなされる。この区切りという見積もりは、そのさなかにも売買が継続していることによって、不確定さを含んでしまう。こうして売買行為の担い手は、みずからの行為の成果の確定した数値を知ることなく、なお売買行為を継続せざるをえない。
してみると第二にこれらの複数のプログラムの間を自在に切り替えながら進行するプログラムをただちに想定することができる。こうしてオートポイエーシスのプログラムをオーダーを更新して拡大することができる。これはまぎれもなくオートポイエーシスの拡張である。さまざまなプログラムの間を自在に切り替えながら作動するシステムをイメージするのである。
第二の柱が当初の建築モデルの第二型に対応させて形成された、オートポイエーシスの定義的な機構がある。少々入り組んでいるが、引用する。「オートポイエーシス・システムとは構成素が構成素を産出するという産出(変形と破壊)過程のネットワークとして、有機的に構成(単位体として規定)されたシステムである。このとき構成素は、(1)変換と相互作用をつうじて、自己を産出するプロセス(関係)のネットワークを、絶えず再生産し実現する。(2)ネットワーク(システム)を空間に具体的単位体として構成し、またその空間において構成素は、ネットワークが実現する位相的領域を特定することによってみずからが存在する。」(4)
この定義はいささか複雑だが、力点は複雑さにはない。むしろこの程度の簡素な定義で、生命の基本を捉えようとするのだから、無謀な企てのひとつである。この定義がよほどの核心をついているのでない限り、生命の内実を大幅に取り落としてしまうことになる。一般に複雑系の力点は複雑さにはない。複雑さに伴う新たなものの出現の予期し難さ、事態を状態規定するさいの記述の困難さにある。ところでオートポイエーシスで現れている問題はさらに別のものである。それは建築の例で示されたオートポイエーシスの原イメージと、この機構の定義が一対一対応しているのかどうか分からないのである。というのも神経生理学者であるマトウラーナは、一方では神経システムのコード化という点で建築の例を設定し、他方では生命が動きを継続しながら一つのまとまりとしてあることの機構として定義を行っている。そうなるとオートポイエーシスの原イメージと定式化された機構は、別回路で形成されていることになる。しかも原イメージから、定義的な機構を必然的に導出するような回路が存在するわけではない。イメージと論理を演繹的に接続する回路は、そもそも存在しないからである。オートポイエーシスの原イメージと、機構上の定式化は、現在の予想ではおそらく一対一対応していない。
この予想は、たんに論理的なものではない。定義的な機講の変更は現実に可能であり、しかも本書で変更した後の機構でさえ、完結している保証がないからである。そうだとするとかりに建築の隠喩の第二型をオートポイエーシスの原イメージだとしたときでさえ、機構の定義は複数存在することになる。そして建築の隠喩は、二つの基本形の間にさまざまなヴァリエーションをもつ以上、ほんとうのところこの定義的な機講が完備するものかどうか見通しがたっているいるわけではない。オートポイエーシスの機構の定義は、変更可能なものであり、またそれを欠くことができない。
さらに第三の柱となるのは、夜間飛行するパイロットの隠喩である。(5)夜間飛行での着陸に成功したパイロットは、困難な飛行の偉業を称えられて、見守る人たちから喝采を浴びてひどく当惑する。暗闇のなかの一点を見極め、速度を落としながらランディングした飛行の見事さが賞賛されているのである。パイロットの行ったことは、ただ操縦席で計器の目盛りを一定の値に調整しただけであり、闇夜の一点に奇跡的に降り立ったつような離れ業を行ったのではない。信じられないことだが、およそ神経システムの行っていることは、こうしたことである。神経システムは、みずからの外に出て、外の世界と自己との関連を計りながら、作動しているのではない。むしろ一貫してみずから自身に関与するようにしか作動していないのである。
常識では、ここで多大な疑問が生じる。それ自体に関与するような作動しか行わないものが、結果としてであれ、どうして観客から見て奇跡的とも思える作動を行うことができるのか。だがここには根の深い問題が潜んでいて、論理的な議論の組み立てだけでは解決できそうにないのである。段階的に探りを入れてみる。
観察者が外から観望し、そこで起こっている事態を記述した場合に、現にそのものにとって生じている事態とは、異なっていることはいくらでもある。来客があれば花を飾る。見栄えがするように人工的に花だけを巨大にしたり、複雑に色模様がついたものを造ることはできる。ところで花はそれ自身にとって生殖器の一部のはずである。生殖器を美しいとか見事とか言ってめでているのである。花にしてみれば、生殖器だけを勝手に巨大にされたり複雑にされていい迷惑かもしれない。
観察者と当時主体にとって、起きている事態が異なっていることの指摘は、古くからある。典型的にはヘーゲルが多用した我々観察者にとっての視点と、当事主体(そのものにとって)の視点の落差を利用する。(6)ヘーゲルの場合、当事主体の認識が次々と破綻し、それを超えていくことで我々観察者に至りつくように組みたてられている。ところが当事主体で起きていることは、観察者の認識に全面的に組み尽くすことができないだけではなく、起こっていることを別様に翻訳しているだけかもしれない。そうだとすると当事主体にとって起きていることを固有に見極める作業が成立する。パイロットの隠喩は、こうした面を持ち合わせている。
しかしものそのものに視点を据えるということは、一面「擬人法」である。(7)一切の認識が人間の認識である以上、人間の視点を持ち込むことは最終的には避けられない。だから擬人法に問題があるとすれば、人間の視点を花に持ち込むところではない。どのように気を配っても、この視点の移行はギリギリのところで避けられないからである。むしろ人間に固有にみられる事態を不当に拡大して一般化している点に異論がある。局所的な事態を普遍化するところに擬人法の問題がある。そうだとすれば花に固有の事態をとりだすことができれば、人間から花への視点の移動は成功していることになる。花は花それ自身にとっては生殖器である。こうした観察者から当事主体への視点の移動は自在にできるはずである。ところがパイロットの隠喩は、視点の移動ではすまないのである。
植物はみずからの活動の継続をつうじてみずからを形成する。植物はみずからの視点によって自己を構成するのではない。いったい植物がどのような視点から、花を形成しているというのだろう。行為による自己形成プロセスは、視点からの構成に解消されない。
みずからの行為をつうじて自己を形成するものは、特定の視点から自己を構成することとはまったく別の事態である。気がついたときには否応なく自己は形成されており、それは自己の境界を形成するようなものである。つまりみずからの行為をつうじて境界を区切ったとき、そこに自己が形成される。それは円を描くように疾走し続けることが、すなわち自己の境界を形成するような事態である。
ものそれじたいの活動をつうじて形成している境界が問題になる場面では、視点の移動ではすまず、それじたいの活動の継続の機講を導入しなければならない。地球の人口に匹敵する約六〇億個の雑菌が、各人の口のなかに生息している。丹念に歯磨きをしても事態に変化はない。ところでこの雑菌は、生命体の内なのだろうか外なのだろうか。口を開ければ雑菌は、大気の末端にあって粘膜にへばりついていることになる。口を閉じれば雑菌は、閉じられた粘膜の内に閉じ込められていることになる。これは皮膚の境界で、内‐外を区分した場合である。(8)
ところが雑菌のなかには、消化活動に参加しているものがある。消化活動のネットワークで、境界を区切る限り、このネットワークに参加しているものは、このネットワークの内側である。活動の回路を追跡して、活動の継続の側から境界を決めると、皮膚の境界で内‐外を決めた場合とは、境界の位相が異なってくる。皮膚という生命活動の産物で境界を考えるのが、構造‐機能主義と呼ばれる。他方活動の継続の側から、境界を考えていくのが、機能‐構造主義であり、ルーマンが自称した立場である。(9)
パイロットの隠喩で、パイロットが計器をみながら行っている行為の継続のネットワークは、観客の見ている闇夜と飛行機を関連づけた空間のなかでのパイロットの場所とは、位相を異にする。およそパイロットは、闇夜の外界と自分の位置を計量しながら、自分の活動を継続しているのではない。
マトウラーナがオートポイエーシスを構想するさい、実験的に提起されたアイデアがある。(10)ハトの視覚実験をつうじて、マトウラーナは神経システムの活動状態と芸的刺激が一対一対応しないことに気づいていた。複雑なシステムになれば、入り組んだフィードバックがかかるので、システムの活動状態と外的刺激とが対応しないことはむしろ自明であるように思える。複雑な変換マトリックスがあるために刺激とシステムの活動状態が対応しないのだと考えるのが常識に近い。だがここからマトウラーナは「システムには入力も出力もない」と言い切ってしまう。実験事実からはこのアイデアはただちに出てくるとは思えないし、実験事実に対しては過度な要求であるように思える。極端な飛躍である。
おそらくこのアイデアはマトウラーナが直感的につかんだ生命の原イメージに関連している。生命には、入力も出力もないのである。字義どうりにとればほとんど理解しがたい事態が、マトウラーナの生命への確信である。生命の活動の継続をそれとして取り出したとき、入力、出力が指定される空間とは、別の空間で活動しているのである。だがパイロットの隠喩はなおこれでも尽きないのであり、それは生命の行為にかかわってしまっているからである。
行為と知識の間には、どこまでも不透明さが残りつづける。自転車に初めて乗るとき、他の人の乗り方をみて、さらに乗り方についての便法を聞き合わせて、自転車に向かう。だが初めて自転車に挑むとき、既存の知識で思い描いていたこととは、まったく別のことが起こる。しかも初めて自転車に乗ることができたとき、どうやって乗ったのかと周囲の人に聞かれても、どうやって乗ったのかが分からないという事態が生じる。観察者となって、知識として知っていることと、行為をつうじてそれを実行することの間には、埋めようのない溝がある。いわば肉の深さには限りがない。この溝を理論的に埋めることはできない。理論は、いずれにしろ観察者の位置から述べられており、この位置から行為のあり方を組み尽くすことは不可能だからである。パイロットは何故それでうまくいくのかわからず、行為しているのであり、しかもみずからの行為が何であるかを知ることなく、そうしているのである。
行為の次元の特徴をもつ知識を、かつてマイケル・ポランニーは暗黙知と呼んでいた。(11)指示をつうじて言葉と物をつなぐとき、言葉によって表記された知識と物との関係を知識の側から統制することはできない。にもかかわらずこの関連づけは、日々自明なことのように行われている。知識として対象化されない広大な暗黙知が、働いている。雲が人の顔に見えたり、柳の下に美人がみえたりするさいも、そう見える必然性がなく、またそう見なければならない理由もない以上、どのようにしてそうした現われが生じるのか、本人にもわからない。ここにも暗黙知が働いている。また新たなアイディアが開発されるとき、切断をともなう知識の形成が進む。ここにも暗黙知が作動している。何故そうした方向へ飛躍したのかがわからず、飛躍は行われている。この行為の次元を、継続する行為の機構として、しかも行為の特有の不透明さを内在するものとして、理論構成していかなければならない。
理論構想がこの経験の次元にかかわるとき、理論的定式化から、演繹的に個々の領域に適用するような手続きを踏むことができない。この理論構想は、適応して確定値をうるような道具ではなく、むしろ経験を変えていくための一種のエクササイズとなる。このエクササイズが、新たな経験の回路の開発を要請する以上、ここには半ば必然的に創発が含まれる。つまり理論的な道具立てをマスターするのではなく、経験の仕方を変えることが、ここでは目論まれている。こうした理論構想は、歴史上数あるものではなかった。少なくとも近代科学的な理論的定式化の枠に収まることはできない。つまり別様の科学を実行しなければならないのである。
オートポイエーシスは、これらの柱からなるシステムの機構であり、本書で実行することは、理論のひとつのタイプを提示することである。というのもこれらの柱を組み込んだ構想が、一通りに決まるとは考えられず、むしろ精神医学、進化論、認知科学のような各領域でそれぞれ固有の理論構想を形成しなければならないと予想している。そしてそれらはおそらく外見上ほとんど類似性をもたないようなものとなる可能性が高い。(12)オートポイエーシスは、それぞれの領域で固有に自己領域化を行うからである。
理論的定式化がひとつに決まらないとうのは、オートポイエーシスがニュートン・タイプの理論の系列に属していないことを意味する。これは理論の内部に未決定性が含まれてしまうことを意味しているのではない。理論的定式化はひとつに決まり、その内部に未決定性が含まれる理論構想は、いくらでも存在する。現代ではカオス理論が代表的なものである。決定論的な形式の定式化にもかかわらず、予測が効かないのである。これはニュートン・タイプの経験科学であるが、内部に偶然性を含む。ダーウン進化論も理論的定式化は、整理すればひとつに決まる。だが選択をつうじて何が生き残るかをあらかじめ決定することはできない。その意味で予測が効かないのである。オートポイエーシスは、このタイプの理論とは異なる。もちろん内部に未決定性や偶然は含まれる。だがそれは小さな問題である。それ以上に本性上定式化がひとつに決まらないのである。そのためこれは異なるタイプの経験科学を実行しているのだと考えたほうがよい。この構想の使い方を修得することは、必然的に経験のあり方を変える。経験のあり方を既存の位置から更新しつづけることで、理論構成の回路の作り方を提示できればと考えている。そのことをつうじてオートポイエーシスの理論構想そのものが到来しつづけるのである。

ポイエーシスは、制作的行為の知である。アリストテレスが知の分類を企て、精密な理論知(テオリア)と、賢慮をともなう実践知(プラクシス)に対置して、まったく質の異なる知の形態だとしたことは、すぐれた洞察である。ところがポイエーシスは創発をともなう知であるため、容易には理論的定式化ができないのが実情であった。ポイエーシスには、生物の自然発生のような「自己偶発」が伴うこともあり、また金策で走り回っているさいに、たまたま大昔にお金を貸していた人にばったりと出会うような「偶運」もつきまとう。(13)そのためテオリアは、近代では精密な学問的知識(エピステーメ)として継承され、プラクシスは社会哲学、倫理学として継承されているにもかかわらず、ポイエーシスは、芸術領域と家内工業のような家庭内生産に限定されて継承されている。ここで企てることは、ポイエーシスを経験の基層に設定することで、再度経験そのものの更新を図ることである。ポイエーシスは、確かに新たな物を作り出す。だが物を作り出すと同時に、自己そのものも新たに形成される。さらにポイエーシスの経験のなかで、作られた対象物がみずから自身を形成するような場面に至ったとき、それがオートポイエーシスである。
システム論は、息のながい伝統をもつ。(14)ながらく「体系」と訳されてきたシステムという語は、ドイツ観念論の最重要テーマのひとつであった。この哲学の形成に、多くの着想と素材を提供しつづけていたのが、同時期の自然哲学である。ニュートンタイプの自然科学に全面的に対抗し、反正統の烙印を押され、ながらく歴史の周辺に埋もれたままであったこの自然哲学は、ここ数十年経験科学の進展とともに、再度見直しが続いている。自己組織理論やサイバネティクスの進展とともに、かつての自然哲学に先駆的な着想が多数含まれていることが判明してきたのである。ベルタランフィやマズローの行った「一般システム論」からみると、今日のシステム論は非連続的な飛躍を遂げている。この飛躍の果てに、かえってこの自然哲学の成果を継承しうるところまで来ているのである。(15)
一般システム論は、安定した階層構造、動的平衡系を柱にしている。(16)階層構造は、原子・分子、高分子、細胞内器官、細胞、組織、器官、個体、個体集合とつづく階層のヒエラルヒーで示される。確かに階層間には、下位層は上位層の基礎ではあっても、上位層を決定することはなく、上位層は下位層を方向づけることはあっても下位層を決定することはないという二重の未決定性が成り立っている。つまり各階層は、宙吊りなのである。これを三つの層を取り出して中間層について言い直すと、この中間層は、上位層の基礎となり下位層を方向づけるという両面性が成り立っている。この両面性をケストラーは「ヤヌスの双面」と呼んでいた。(16)世界のなかに絶対的な上位層や絶対的な下位層を見出すことは原理上困難であり、現実にほとんどありえないことなのだから、存在のほとんどはこうした両面性を持ち合わせていることになる。これらは階層関係論の成果である。
だがたとえば細胞内器官から見て、細胞はみずからの上位に見えているのだろうか。地層平行的に階層を区分していたのは、各階層を横から眺めている観察者である。特定の階層に属するものから、その上位層はどのように見えているのか。細胞内器官は、人間が横から眺めるような仕方で、自分自身の位置から上位階層をみているはずがないのである。したがって横から眺めている視点を、当のものに持ち込んでそこから見ても細胞内器官のあり方を分析することができない。少なくとも細胞内器官は、細胞とともに作動する。細胞内器官の作動を部分的に巻きこむように細胞の動きが関与し、にもかかわらず細胞内器官は、独自の作動を継続する。作動のなかで両者の関連が形成されているのであって、ここには作動を継続するシステムの分析が必要となっている。このとき細胞内器官を下に、細胞を上に描く必要ももはやない。部分的に作動を共有する直交平面に描いても、十分成立する。そしてむしろそうした選択をしたほうがよいと考えているのである。
動的平衡は、さまざまな外的な刺激にもかかわらず維持されている機構を示している。実際動的平衡状態にあるシステムの事例は、いつの時代も多々ある。外界から栄養と情報を得て、それでも自己維持しつづける細胞は、動的平衡状態にある。そして外的要因とシステムそのものとの関連を計量して、動的な自己維持の範囲が定められる。ところが細胞が、みずからで外的要因との関係を図りながら、みずからの作動を調整しているということは、考えにくい。細胞が細胞の外に出るようにして、みずからと外的要因を関連づけ、そこで調整を行うということはおそらく困難である。細胞は、およそ観察者の計量したものとは異質なことを行っているはずである。ここでもまた細胞はそれ固有の作動のありかたで作動を継続しているのであって、およそ観察者が捉えているようなことを行ってはいない。これはカメレオンのような擬態を行うものが、外界の色とみずからの皮膚の色を見比べて調節しているのではないことにも派生してくる問題である。
こうしたことからオートポイエーシスでは、階層そのものが消滅し、動的平衡は、観察者からの、時として妥当な荒い要約記述となる。それは視点を転換するというより、視点という発想そのものをどこかで変えてしまうことを要求している。そのため視点からの認識論ではなく、行為論が必要とされる。
 マトウラーナ、ヴァレラがオートポイエーシスの定式化を行ったさいの事情は、およそ次のようなものである。(17)認知科学のモデルでは、戦後からながらく支配的であったサイバネティクスによるモデルがある。これは外的情報をどのようにシステムが処理するかを基本にして組みたてられている。フォン・ノイマン、ウイーナ、フェルスターらが議論していたもので、外界の情報に合わせて、それに相応しい情報の認知の仕組みをシステム側にどのように持たせていくかを争点としていた。これは人間の認知は外界の情報を吸収するようにできており、それを認識することが認知であるとし、またそのさいの情報処理技術をコンピュータの処理技術の延長上に形成しようとしていた。(18)したがってここでは認知の基本規則を、構造的な束として獲得することが課題となっている。
ところが70年代に免疫情報の処理で、 ニールス・イエルネのネットワーク説というまったく発想を異にするものが現れている。(19)免疫ネットワークは、外界の情報に対応しようとしているのではなく、みずからで抗体の一式を形成してしまっている。新たに抗体が作られたさいには、それは新たな物質である以上、システムにとっては一種の異物である。つまり抗原となる。この異物に対して免疫システムが作動すれば、自分の作り出したものに反応して、さらにそれの抗体を作り出すことになる。これは連続して続く。そしてどこかの段階で新たに作り出された抗体が、すでにある抗体の抗原に相当する場合には、この連鎖は円を描いて完結する。こうして自動的に免疫システムは、自前で一揃いの抗体を用意しておくことになる。ここで示されているのは、外界に対応すると思われていたシステムが、一貫して自分自身で作動すること、そのためそのシステムは、通常想定されるものよりはるかに複雑であること、しかも外界とシステムとの対応関係からシステムの形成が行われるのではないことである。この事態は操作的技術としては、コネクショニズムに引き継がれ、作り出された要素の連結を自在に作り出す機構として定式化された。(20)
このとき外界は、自己組織化するシステムにとっての進化論的な陶汰環境となるだけである、という主張があった。自己組織化するシステムは、自前でさまざまな要素を作り出すが、環境はそこから残るものを選択するさいに寄与するというのである。そして認知とは最適選択であることになる。
ところが最適選択という目的論的な発想では、最適適応がかりに実現されたとして、その場合でも、新たな認知がさらに形成されることが理解できないし、また最適が一つに決まる保証もないのである。同じ環境のなかに複数個の最適適応があってもおかしくない。こうするとシステムは、外界との対応関係にも、環境による選択という関係にもないことがわかる。この段階でオートポイエーシスの理論構想が登場している。そしてこの理論構想の投げかけたものは、おそらくマトウラーナ、ヴァレラの予想をはるかに越えたものであった。つまり彼らは収拾のつかないような構想を提示していたのである。
オートポイエーシスは、着想段階では、神経システムをモデルとして形成された生命システムである。生命の基本を、要素‐複合体にも、全体性にも、さらには形態の多様性にも置かず、それじたいみずから行為を継続するものとしている。行為の継続をつうじておのずと自己そのものを形成すること、それこそオートポイエーシスである。 この構想を使いこなすためには、経験を変えていかなければならない。そしてそれを実行してみようと思う。

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