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宿命反転前夜

河本英夫

 街は個性をもつ。寺を中心に門前町ができ、交通の要所に宿場町ができる。山から突然海につながる閉域にできる漁村は、迷路だけで作られた孤島のようだ。山陰のこうした漁村にかつて車で迷い込んだとき、起伏だらけの道路をゆるゆると進む車に、村の子供たちがまるでアリのように群がってきたことがある。子供たちは初めて車を見るという風情である。たかだか10年ほど前のことである。漁村の朝は早い。夜明け前までに漁に出た者たちが、太陽が昇るとともに引き上げてくる。海岸沿いを何をするのでもなく、ただとぼとぼと歩いているだけの老人がいる。海岸には老人がよく似合う。岸についた漁師が、その日取れたばかりの魚を捌いて、老人に食べさせている。老人はただこの上なくうまいという日に焼けた笑顔を浮かべている。日本各地に残っている「与太郎伝説」の現代版である。与太郎は速度を遅くする存在である。いま深呼吸をして意識の速さを遅くし、呼吸も心臓の拍動も遅くしてみる。限りなく遅くしていくと、意識がそれとしてあることの輪郭がくっきりと浮かび上がるまで遅くすることができる。意識の起源が透明に浮かび上がってくるところまで、意識の動きを遅くする。こうして意識が別様でもありうることに触れることができる。与太郎はひとつの郷愁であり、もはや思い起こすことのできなくなった意識の起源に触れることである。
おのずと出来上がる都市では、立ち上がりのモードが都市や集落の輪郭を決める。いま何もないのっぺりとした空き地に都市を立ち上げてみる。何のために人はここに集まるのか。より面白く、より豊かに、より未来の可能性が大きくなるという理由だけで、人は集まることができる。東京ディズニーランドにも、各地のリゾート施設にもこうした要素は含まれている。生活の余白に、より面白く、より豊かなものを付け足すことはできる。余白で変えたものは、実生活では豊かさの記憶である。各種ユートピアが語り続けたものがそれである。浦島太郎は、助けた亀に連れられて龍宮城に行く。極楽の日々である。宴のあと、開けてはいけないお土産を手渡される。いったい開けてはいけないものを、お土産にするのだろうか、と素直に思う。開けてはいけないお土産こそ、生活の付け足しの夢であり、覚めてはいけない夢なのである。
余白ではなく、生活そのものをより面白く、より豊かにしてしまってはどうか。このとき場所、住む身体、住む感覚を変えることになる。夢を玉手箱のなかに抱え込むのではなく、時として行ってみることもできれば、いつ帰ってもよい異界を形成するのでもない。帰ることがつねに別の自分になることであるような場所、ひとたびその回路に入れば繰り返し新たな自己を作り続けていくことのできる場所、住むことがおのずとつねに新たな工夫と着想に誘われてしまう場所。こうした場所は、生活の異界ではない。生活がつねに別様になり続けることである。優れた芸術が、何度でも新たな発見を促すのは、それに触れるたびに別の自己になっているからであり、次に同じ形で作品に触れることができないからである。芸術はつねにこうした特質を備えている。このとき作品は鑑賞するものでも、観察するものでもなく、経験するものであり、経験を形成するものである。荒川の作品にしばしば向けられる「意図が見え過ぎる」という誤解は、ここを取り違えているのである。鑑賞するのではなく、経験を形成することが問われている。生身の身体を抱えた人間にとって、変えることが難しいものがいくつかある。身体存在の延長上に広がった空間と、身体そのものと、身体の境界を形作る感覚である。

空間の反転
異界があるということは、自明のことである。むしろ問題は空間を作り出す働きである。イメージを喚起するために、光を例に取る。光はつねに一定の速度である。マンハッタンのエンパイヤーステイトビルから懐中電灯をもって真逆さまに飛び降りてみる。落ちながら懐中電灯を点ける。そうすると落下速度に光の速さが加わるので、そのとき発光する光は、通常の光より速くなるはずである。ところが光の速度は一定である。どうしてか。光の速度は物凄く速いので、落下速度は測定誤差内に入るというわけではない。光の速度の半分の速さの宇宙船から発光しても、光は1.5倍の速度になるわけではなく、同じ速さである。ここに光が波であることが効いてくる。静かな水面に石を投げ入れる。波が立ち、四方、八方に伝わる。いま石を強く投げ入れてみる。波の振幅は大きくなる。だが波の伝わる速さは同じである。投げ入れられた石の初速に対して、波の伝わる速さは独立である。つまり初速の方向は、波の進む方向に垂直である。
ではエンパイヤーステイトビルから落下しながら発光する場合はどうか。落下方向と光の進行方向は同じではないのか。実は光は、どこで発光されようが、波である限り球状にすべての方向に伝わる。だからビルから落下する初速は、全方位に伝わる球に対して垂直に働く。いま球をイメージする。球の中心から球の全方位に光が進むとする。発光は、球の内側から球へと出現する。発光の作用は、球のあらゆる方向に対して垂直で、球の内側から球へと働きかけている。作用自体は、球のなかにはない。球ではない場所から、球へと出現するのである。この出現の方向が全方位に広がる球に対して、垂直である。球に対して垂直なものは、どのようにイメージすればよいのか。球の空間にはなく、球へと出現してくるものをどのようにイメージすればよいのか。球の内面で、球の全方位に対して垂直であるような作用体は、空間を出入りしている。
空間を作り出す働きを行うものは、空間のなかにはない。だが空間の外に留まるのでもない。空間の内面から空間へと広がっていく。そして空間を作り出していく働きとなったものは、みずからが作り出す空間と垂直になる。つまり何故そうした空間が形成されたのか不明なまま、空間が形成される。逆に球形に広がる空間をすべて寄せ集め、エネルギーをかけて圧縮すると空間内の一点に凝縮するのではない。広がる空間とは垂直な方向へと空間から抜け出てしまう。かりにこのエネルギーの拡散、集積を極限的に実行できれば、眼前の壁を通り抜けることも可能なはずである。空間から抜け出たものは、再度きっかけに応じてまた異なる空間を形成する。宿命反転地で形成される空間は、およそこうした性格を備えている。空間の反転は、別の空間へと旅することではない。むしろ空間の内面へと抜け出て、別の空間を形成することである。空間を形成する作用体となることは、ひとたびコツさえつかめば誰にでも実行可能になる。ただし空間の手前であらかじめ身構えてしまう姿勢だけは、括弧に入れなければならない。
空間の例を代える。光とは透明な明るさである。これはアリストテレスにもゲーテもウイットゲンシュタインにも見られる。光は、粒でも波でもなく、可視的な明るさである。だから闇とは、光粒子の欠如ではなく、可視的な陰りのことになる。いま一様な明るい広がりをイメージする。空の一面が一様に明るい広がりとなっていたとする。この明るさの広がりの縁(エッジ)をイメージする。広がりの境界であり、広がりの終わる線である。縁は一般に、変化する物事が、変化率で出現する場所である。縁ではつねに変化は増幅される。因みに電車で座っている人が、次の駅で立ち上がろうとしたとき、その人の一連の動作を縁の変化で描こうとすると、ただちに記述は爆発してしまう。実際変化率で生じている事態を、変化の語で記述しようとすれば、オーダーが異なるためにただちに爆発が起こる。だがこれは点を無数に重ねても線にはならないことの変形である。
いま明るい広がりの広がりの縁ではなく、明るさの縁をイメージする。空間的な広がりの縁ではなく、明るさが陰る明るさの縁である。一様な明るさにも縁がある。この縁は空間の縁ではない以上、すでに縁は位相化されている。位相的な縁は、際限なく成立する。因みに身体の広がりの縁ではなく、つねに動き続ける運動の縁を思い浮かべることができる。また透明な意識の透明さの縁を思い浮かべることもできる。この縁には何段階もの暗がりがあることがただちにわかる。明るさの縁には、色が出現する。これをゲーテはかつて色には光と影が必要だと述べていた。現代的には、色は明るさの縁に出現する。しかも際限なく細かな度合いをもつ。影のなかにも無数の色彩の度合いが出現する。フェルメールが活用したのは、影のなかの無数の陰りの度合いである。位相化された縁は、外延の縁ではなく、内包的な縁である。宿命反転地で形成されるのは、こうした無数に位相化した内包の縁の感覚である。

身体の反転
サンショウウオのような肉鰭類が上陸を開始するとき、さまざまな難題に付きまとわれていたはずである。鰭の先端が指状に分かれているのが、肉鰭類の特徴である。肺で呼吸できるかどうかが一般にイメージされる問題である。ところが肺魚のように肺呼吸する魚がいるだけではない。条鰓類や肉鰓類は、肺をもっていた。この肺を活用しないまま浮き袋に変えてしまったものがいる。チョウザメがそうである。魚の浮き袋が、上陸とともに肺に変わったというのがダーウィン以来100年以上にわたって信じられていたことである。ところがこれは順序が逆らしい。陸に上がったから鰓呼吸が肺呼吸に変わったのではない。イルカは肺呼吸しかしないが、水中に留まり続けている。しかも魚の尾鰭は左右に動くが、イルカの尾鰭は上下に動く。クジラも肺呼吸だが、一度陸に上がった形跡がある。陸に上がりカバの類縁として暮らしていたようだが、再度海に戻っている。インド亜大陸がまだインド洋の真ん中にあり、ヒマラヤがまだなかった頃の話である。
むしろ難題は、乾燥と体重である。体の表面がつねに乾いてしまうなら、水分を大量に体内に蓄えておかなければならない。というのも体内で廃棄物として作られるアンモニアが高濃度になり、尿毒症になるからである。この問題は最終的には、体内で作られるアンモニアが尿素に変換されて無毒化される。オタマジャクシがカエルになるさいにも、水中ではアンモニアを排出していたオタマジャクシが、生理機構も組替えて、陸上では尿素を排出するようになる。ところですでにオタマジャクシでもまだカエルでもない、純粋に活動するだけのものはいったいどのように描けばよいのか。純粋な活動体である身体に触れるまで、身体を反転させることはできる。これらは約1億年を費やした生命の上陸の一部であり、上陸は40億年の生命史のなかで5本の指に入る生命の果敢な企てである。
陸上に上がったとき、浮力がなくなるために、自動的に体重は7倍になる。水圧がなくなり血流を圧迫するものがないから、十分な血液を供給でき、大気中に増えた酸素を活用できる。陸にあがる利点は、身体運動の多様性が一挙に増すことである。行動のパターンがオーダーを更新する。体重の重さを身体運動の多様性に転化できないものは、陸にいる意味がない。そのため再度海に戻ることになる。身体運動に直結するのが音である。音感と運動感は、起源は同じである。魚にも水圧の変化を感じ取り、仲間と連絡を取ったり、敵の動きを感知する仕組みはある。これは圧力を感じ取る働きである。上陸とともに圧力だけではなく、音を聞き取る器官が発達する。声の発生と耳の形成と運動の多様化は、同じひとつの事態の三つの面である。
植物の適応戦略は、まったく別のものである。植物は動かないという選択をしているのである。運動のなかで環境を感知することはなく、神経は形成されていない。動く代わりに、身体の自在な形成力を活用している。夏に食べる西瓜は、干瓢や糸瓜に接木されている。根の遺伝子と茎以上の遺伝子はまったく異なるが、それでもひとつの個体を形成できる。茎を切り、切片を土中に差し込んでおくと、水分に触れそこから根が出てくる。ゴムの木の中途の皮を剥ぎ、濡れた布で巻いておいても、そこから根が出てくる。触れる環境に応じて、自在に形成する器官を代えることができる。それが植物の戦略である。ゲーテがメタモルフォーゼと呼んだのは、器官を次々と作り変えていく植物の働きである。モウセンゴケのように葉で虫を捕まえる植物も、葉に力をかけて形を変えているのではない。筋肉がないのだから、力をかけて形を変えることはできない。虫を捕まえた葉の裏側の細胞が3倍ほどに成長し、全身を作り変えて、結果として虫を捕獲する。そのため虫の捕獲は一生に三度ぐらいしかできない。モウセンゴケも主たる栄養は根から得ている。虫を捕まえるのは、一生に三度の祝祭に近い。これほどの可塑性があるために、少し操作をすれば植物にプラスティックを作らせることができ、現に実行されている。このプラスティックを車の車体に使うという。廃車にしたとき、植物性のプラスティックは容易に分解し、土に戻すことができる。おそらく植物にとっても上陸にさいして、体重はやっかいな難題であった。水中では長さ100メートルにも及ぶコンブができる。ところが地上で根だけで重力を受け止め、身体を支えることは容易ではない。そのため強固な構造部材を形成することになった。日本の家屋で柱に用いているのは、植物が重力に抗して行った戦いの成果である。
身体には、信じられないほどの可塑性がある。シドニーオリンピックの後のパラリンピックでは、両腕と片足がなく、四肢のうち足が一本しかない水泳選手が出場していた。首と腹筋で全身に伸縮をあたえ、体を伸ばすと同時に一本の足で水を蹴るのである。首と腹筋で作られた全身の湾曲のなかに水を閉じ込め、この閉じ込めた水の拡散に上体を乗せて滑らせ、それと同時に足で水を蹴り、水の反発力を身体に呼び込むのである。これだけの高度な行為であれば、上達がありレースになる。このとき身体は水の拡散力や反発力を感知している。事故で両足をなくしたひとのリハビリ過程では、しばしばプールでの泳ぎを行う。足がないために重心が前にかかっている。このとき横泳ぎのような泳ぎになる。この場合は、腕で身体の周りに作り出した水の流動に体を乗せていることになる。このとき感知されているのが水の流動性である。水の拡散、反発、流動を身体の動きをつうじて感知することができる。とするとかりに五体満足であっても、いまだ活用していない身体の可能性の領域は広大なはずであり、身体の活用を変えるたびに、感知できる世界が広がってくる。
身体の活用と運動性感覚の拡大のプロセスを、作品の経験とともに実行できるようにしたのが、「奈義の龍安寺・建築的身体」と「養老天命反転地」である。作品の経験が身体運動性を拡張し、身体運動性の拡張が、感知の拡張になっているために、何度作品に触れても新たな経験ができ、触れるたびに身体と感覚を一から作り直すことができる。神経は、神経細胞が作られ一度ばらばらになり、そこから新たな接続が繰り返し作られる。経験がなされるごとに神経細胞は新たな繋がりを作り出す。神経細胞は、たとえば水分があればばらばらになり、乾燥するとキノコを作る細胞に似ている。神経の形成そのものは、植物性の形成能を備えているようである。日常のなかから身体と感覚の可能性を引き出し、しかもそれを持続的な形成の回路へと入れていくことが、宿命反転地の実行することであり、1億年の歳月を経て行われた生命の果敢な企てを、日常のなかで別様に反復することである。身体は、つねにみずからを可能性の宝庫とするように未分化な個体へと向かって形成されていく。この個体の可能性を再生させるのである。

感覚の反転
廊下を歩きながら、自分の足音が前方から聞こえてくる。そうした装置を作ることはできる。このとき後方に過ぎ去ったはずのものが、前方から聞こえてくる。かりに過去が追憶のなかで蘇るのではなく、前方から繰り返し到来するとどうなるのか。耳の神経のどちらか一方だけを形成すると、前方を歩く人の足音が斜め後ろから聞こえ、後ろからやってくる人の足音が横から聞こえる。これは外国で暮らすときに、最初の半年間でしばしば起こることである。両耳の神経が、タイムラグをもって形成されるからである。
生まれる前に母体のなかにいて、神経が形成されてくれば、母体の心臓の鼓動も呼吸の音も聞こえている。これらが循環器や呼吸器のような、不随意筋の動きのリズムの形成を支えている。波打ち際の海水の中に潜り、波の打ち返すリズムを聞いてみる。こうしたリズムが母体のなかで聞こえているはずであり、このリズムが呼吸のリズムと同じであることがわかる。
生まれたばかりの高等動物は、鳴き声をあげる。発声では、呼吸器官を発声の器官として使う。だから時として言葉が喉に詰まる。しかも発声することで、消化器系内臓壁を形成する。鳴くことは、胃腸に形成運動をあたえる。鳴いて母を呼ぶ。だがすべての天敵にも、自分の存在を伝えてしまっている。鳴くものはもっともひ弱なかたちでみずからを世界にさらす。鳴くものは環境のなかに生きる以外にはない。また声は自分の耳に聞こえる。話しながら自分の声が、遅れて聞こえてくる。言い間違いも淀みも言葉足らずも、どこかで気づくことができる。声は、発するものに戻ることで、つねに気づく意識を発生させる。遂行する意識と気づく意識の分岐の場面が、声である。この声が発声するものの口から耳へと伝わるのでなく、口から発せられた声が、宇宙を一巡りして自分の耳に聞こえてきたら、この声はいったい誰の声なのか。口から発せられた声が、街を一巡りして自分の耳に聞こえたら、この声はいったい誰の声なのか。こうした装置も作ることができる。語り合うものに共同性が形成されるだけではない。声が一巡りすることによってもおのずと共同性は形成される。このときここでもまた声の主体と形成される共同体は垂直である。
人間が何故音声を言語として採用したのか、実のところあまりよく分からない。イヌやネコは、メッセージの伝達に匂いを用いている。鳥には、色合いや光の輪郭をメッセージに用いるものがある。クジャクのメスは、オスの羽の眼の数で求愛する。しかも確実に140個以上の眼の数のオスに求愛する。眼の数を数えているはずもなく、この場合色合いか光の輪郭をメッセージに用いている。人間が聞き取ることのできる音の種類は、半母音を入れてもせいぜい30以下である。それを細かく繋ぎ併せることで単語を形成している。色言語や身振り言語でもよかったはずだが、人間は音声言語の回路へと進んでしまっている。自分の声を聞くことに伴っている「気づく意識」の出現と、そこから派生する自己意識の形成によって、その回路を進み続ける誘惑に抗することは、ほとんど困難になっている。
感覚には感知されていないが、感受されている広大な領域がある。振動としてだけ感受している耳には聞こえない2キロヘルツ超の高周波には、感受されて神経をリラックスさせる効果があることが知られている。従来のCDレコードではカットされていたこの音域を、収録する製品も出ている。また前方に走り出してくる赤、拡散する黄、凝縮する青のような色とともにある運動感や、前方から走ってくる車の危険度を察知する強度の感受がある。運動感や強度は感知されていなくても、感受されている。
色と硬さのような感覚質と感覚質の間の関係には、両者を関連付ける手掛かりがどこにもない。色と硬さの間の中間項を考えることができないからである。中間項はないが両者は密接に関連する。特定の色合いを出すためには、素材の硬さが決め手になることがある。だがこの繋がりには何の必然性もない。いま進行し続ける赤の車が、突然透明な円錐になったとする。赤の色が円錐という形態に変化することはあるのだろうか。感覚質の分離の度合いから見て、ほとんどありそうにないが、ありえないことではない。感覚質の間の関連は、それぞれの感覚質にともなう運動感と連動して広範囲な変動の幅をもっている。しかもこの関連は、必然性はないが恣意的ではなく、個々に形成されるべきものである。そのためつねに途上にあり続けるこうした経験は、どこまでもエクササイズである。
色彩の広がりと配置を、色彩の空間形成に届く地点にまで拡大する手法をマティスが用いている。マティスは色彩のキュビズムであり、色彩と空間との関係や、色彩と重量感の関係を繰り返し探り当てようとしている。これらを越えて一切の感覚質の間の接続の仕方を作り変えてしまうところまで進んでしまうのが宿命反転地である。感覚質の間の関係は、作品として提示されるだけではない。否応なく作品に降り立ち、繰り返し経験を形成し続ける回路へと誘う。宿命反転地は、そこでの経験をつうじてこうした感覚質の関連の形成へ入り込むことをどこまでも誘惑し続けている。この誘惑に応えることは、生の希望を語ることと実は同義なのである。

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