哲学の困惑
――科学哲学的試論
河本英夫
はじめに
新たな現実性の出現
現実性の範囲があらかじめ確定していた時代がある。フーコが現代と区別して「古典期」と呼んだ時期で、世界地図で世界の輪郭はほぼ決まり、次々と未知の世界に出会う局面が終わった時期である。自然神学は、あらかじめ確定された「力学世界」を基調としていたので、世界はひとたび作られてしまえば、必然性が支配する。神学的な創造と創られたのちの必然的世界というかたちで、神学と力学(科学)は、役割分担しながら無理なく両立する。この仕組みのもとでは、宗教と科学は相互補完として両立している。そして古典力学には、新たな現実性を生み出す仕組みがないのだから、現実性の範囲は確定している。この段階では、現実と虚構、現実と想像性は、明確に区別できる。虚構はあくまで、現実性の向こう、あるいは現実とは区別されるエクストラである。それらは娯楽ともなり余興ともなるが、むしろそれに留まっている。
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自然知能とソフト・ロボット――科学哲学的考察
河本英夫
知能が人間だけに限られたものではないことは、生物界ではよく知られている。たとえば働きバチのかなりの部分は、働かない。怠け者のように見えるが、ハチの組織を維持するうえで、一定量の働かないものを作っておくことは大切な仕組みのようである。何か極端な激変が起きたとき、たとえば毒物をせっせと食べてしまうような場合、絶滅を防ぐためにも生活の仕方が異なっていたほうが良いことは、むしろ自然の知恵である。人間とは異なるシステムを形成し、それはそれで維持されている場合には、人間的に言えば、それ固有に十分な理由があり、その意味で有効な活用法があるに違いない。すでに成立している仕組みを人間のシステムに導入する場合には、サブシステムとして導入して置くことが選択肢となる。介護現場のように厳しい労働環境では、同じ一つのシステムとしてやっていくことは容易ではない。ときとして代替可能なシステムをサブシステムとして導入しておくのである。
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自然知能―――職人の哲学:ダ・ヴィンチ
河本英夫
人工知能(AI)というとき、人間の知能を数学や論理に置き換えて、コンピュータ上でプログラム化し、それを自動的に発展させていくやり方をとる。ほとんどが人間の知能の移し入れであり、人間の代わりにコンピュータが動き、マシンが作業を代行してくれる。イチゴの最盛期には、イチゴの農家は大変な思いでイチゴを出荷している。イチゴは、大きな葉っぱの影に隠れていて、長時間腰をかがめるようにして探し出し摘み取っていく。この作業は現在大型機械で代行されている。センサーが葉っぱの影のイチゴを見つけ、指になぞらえた先端機器で触ってみて熟度を判定し、適合すれば摘み取りトラックの荷台に置いていく。これをすべて自動機械がやってくれる。過酷な労働をかわりにやってくれる点では、ありがたいことである。
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