遂行的記憶
河本英夫
記憶が経験として作動するのは、つねに目下においてである。作動しない記憶は、定義上一度も思い起こされることのない過去であり、膨大な過去が記憶されることなく忘れ去られている。記憶は、過去の経験や体験がなんらかのかたちで現在に影響を及ぼす作用である。もっとも緩やかな記憶の定義は、ここから生じている。一週間前の身体トレーニングが効果を発揮して、明日にも記録の更新が狙える。身体に蓄積された過去の記憶が、やがて効果を発揮する。先週行った歯の治療場面を想起すると、痛みの再生はないものの、緊張感が蘇り、薄っすらと冷や汗が出る。三日前の会議の場面が思い出されて憤懣が再生し、憤懣だけが再度進行する。昨夜の夕食の情景を思い起こし、そこで交わされた会話が実は別の意味をもっていたことに気づき、にんまりする。多忙だった1週間間を順序立って思い起こし、回想のなかで1週間を振り返ってみる。二週間後までにやっておかなければならない車の免許の更新を肝に銘じて、時間の取れる明後日にはこのことを思い起こすよう念じておく。最後の例を除いて、いずれも過去がなんらかのかたちで現在に関与している。そのためいずれにしろ記憶が関与していると予想される。最後の例は、2日後に念じたことの経験が再生する場面で、やがて記憶が関与する。
だが過去と現在との時間関係から記憶が生じるのではない。一週間前のトレーニングの効果が出る身体の運動能力の変化は、身体自体が時間関係を形成しているのではない。歯の治療場面での緊張感、恐怖感を思い起こし、いま恐怖を感じることは、感情の再生であり、再作動である。だがそれは過去の緊張や恐怖と現在の感情状態とを時間的に関連づけることで生じたのではない。感情はおのずと再生し、再作動するが、時間関係をもとに再作動が開始されたのでも、時間関係によって生じたのでもない。もちろんそれを時間関係で記述することはできる。記憶の作動にかかわる記述は、記述の本性上、なんらかの座標軸を設定しなければならない。記述のための座標軸の設定は、哲学にも経験的心理学にも欠くことができない。だが日付と配置を行うことは、記憶の作動とは独立の作業である。昨夜の夕食の場面を想起し、そこで交わされた会話をあれこれ思い浮かべてみる。ここには経験の日付と場面の配置が関与しているように思われる。だが日付を打ち、場面を配置することと、日付を打たれた情景を想起することは、別の働きである。想起の作動は、時間関係とは独立である。それでも想起は今なされているのではないかという思いはある。だがこの今は、いつでもよい今であって、目下想起されているという程度の意味である。それどころか作動する想起にとって、時間的今はどうでもよい今であろう。というのも今は想起の作動の時間的な指標にすぎないからである。
記憶の作動と時間関係は独立の事柄である。だが多くの場合、ほぼ同時に出現する事柄でもある。それは記憶の作動と同時に、作動への気づきが伴っているからである。運動性の活動でもある作動には、しばしばそれに気づく意識が伴い、現に行為しながらそのことに気づく意識が伴うという事態は頻繁に出現する。時間関係を捉えているのは、むしろこの気づきの意識である。たとえば感情が再生するとき、まるで経験のなかに深くしみこんだ因習のように、おのずとこれは前にも起きた感情だと感じることがある。感情が現実に再生し、作動することと、それを過去の感情に関連づけて、現在の感情との類似性や同一性や不連続性を感じ取る働きとは、まったく別の働きである。比較対照の働きは、認知的な判別であり、対象認識の近くに位置している。
記憶と時間が関連づけられる典型的な場面は、将来やろうとすることをいま計画を立て、予定に入れる場合である。二週間後には、免許更新の期限が来るので、少なくともその前日までには更新しようと予定を立てる。だが当日を過ぎてはじめて思い起すこともある。この場合、思い起こして後の行動が、あらかじめ時間系列のなかに配置されている。当初より時間系列のなかで配置された後の行動が焦点になっている以上、記憶がなにか時間と関連をもつように見える。だが想起の行為と、それがどの時点で起こるかは独立の問題であり、期日を過ぎてはじめて思い起こす場合のように、時間関係で記憶が作動するわけではない。時間関係で設定されたのは、想起された後の行動であって、それは現実の予定であり、時間関係のうちにある。だが想起することじたいは、時間関係によって律せられることも、時間のなかで出現することでもない。
すると記憶にまつわる問題の基本がどこにあるかが見えてくる。過去と現在のかかわりがどこかで捉えられていなければ、事柄を記憶にかかわる問題だとおさえることはできない。この時間関係がなければ、知覚とは独立に出現した心像を、想起のよるものか、想像によるものか区別することができない。だが過去と現在のかかわりは記憶という活動にとって、本質的でも重要でもない。これは奇妙な事態である。事柄を捉えるための必要条件が、事柄の必要条件ではなく、事柄を捉えるための必要条件が、事柄そのものを捉えにくくしてしまう。この場合事柄を必要条件からおさえて、順次事柄の内実を明らかにしていく手順を取ることができない。
記憶の多型
経験の連続性から見て、過去の経験が現在の経験になんらかの影響をあたえていることは間違いない。ほぼ毎日顔を合わす職場の同僚に、顔を判別して即座に挨拶するのも、過去の経験が影響をあたえている。だがどの過去が影響をあたえたのだろう。昨日の記憶か、一昨日の記憶か。見慣れた顔を見る場合、どの過去の経験が影響をあたえたのかを判別するのは通常困難である。こうした場合は、記憶の影響というより、習慣だと呼んだ方がよい。意識化できる経験は、経験のなかでもごく一部だと認めるなら、こうした習慣は、現在の経験の意識化されない基層にあると言っても、現在の意識がそれとしてあることの環境にあると言っても、現在の経験の手前に堆積された過去にあると言っても、実は大差がない。意識化されない経験の作動の説明を行うために、説明だけであればどれも大差のない説明力をもつ。というのも意識化されない記憶の活動まで含めれば、膨大かつ複雑な機構が関与していて、その機構から見たとき、いずれにしろそれらはささやかな説明力しかもたないからである。
こうした場合、記憶の働きを調べようとすれば、たとえば顔の再認の失敗や機能不全に注目することができる。見慣れた顔をただちに判別できている場面から、いくつかの機能を取り除いて見るのである。知っているはずの人の顔を再認できない場合、ある人の顔を他の人の顔と見間違える場合、顔は再認できているにもかかわらず、それが誰であるかを思い出せない場合、顔もそれが誰であるかも再認できているにもかかわらず、名前が思い出せない場合のように、蓄積された記憶のなかから欠落しているものを分析するのである。さらに顔の知覚の前段階には、何かまとまった形が感覚できているにもかかわらず、それが顔であると意味付けることのできない場合、個々の部分の配置や比率は知覚できているにもかかわらず、それが顔という形であることがわからない場合等、何段階かの障害を取り出すことができる。習慣のように意識せず作動する経験の内実を調べるためには、必要条件を順次明らかにするのではなく、欠損を手掛かりに機能的条件を差し引くのである。通常認知科学であれば、再認の失敗は記憶された情報の欠損だとし、顔認識ユニットの欠落、個人情報ノードの欠損、付加的情報ストアの機能不全だと言うと思われる。だが再認できなかった知っているはずの人の顔も、次の機会には楽々と再認できることもあり、たまたま名前が思い出せないこともしばしばある。そのため再認の不全を一概に記憶だけの機能不全だと考えることは困難である。記憶を情報ストックのようにイメージする限り、記憶が作動するためには、登録、把持、呼び出しがスムーズに行われていなければならず、この範囲内でもどの機能に欠損が生じたのかを特定することは容易ではない。機能を差し引く場合には、脳に欠損が生じるような器質疾患を除いて、記憶について明確なデータを出せそうにない。ところが器質疾患の場合、記憶だけの欠損なのかどうかの判定が困難になる。
ベルクソンもこうした疾患例を『物質と記憶』で多用している。たとえばある街の情景を想起できるのに、その情景の前に立つと、初めて見た風景にしか感じられない事例を取り上げている。ここから知覚と身体行為とを接続する記憶力に問題が生じていると結論している。[1]だがこの場合知覚そのものが変容している可能性も、知覚と想起との関連が欠損している可能性もある。疾患の事例から機能を差し引く操作で、時として貴重な知見が得られることもある。聴覚性の言語的短期記憶が欠落していた症例で、他の認知能力は記憶を含めてまったく正常な事例がある。短期記憶がなければ通常長期記憶に情報がもたらされない以上、長期記憶が活動しなくなるはずである。ところがこの予想を裏切るような症例が出現したのである。短期記憶は長期記憶の前段階のステップではなく、固有の働きをしているのではないかというのがその事例からの帰結であり、そこから作業記憶(ワーキング・メモリ)の着想が出てきた。[2]一般に記憶のような複雑な活動を問題にする場合に、論理的な必要条件から詰めていくことはできない。それは論理的な問いの立て方が主として言語レベルの高次認識をベースにして組み立てられているからである。論理は主として言語的な思考の規則ではあるが、それが記憶の活動の基礎にあったり、その活動を貫いていることは、ほとんどありそうにない。
また意識化されない記憶をつうじて経験が形成される場合には、どのような構想を取ろうとも記憶の議論にはなはだしい恣意性が生じてしまう。身体トレーニングで、一週間前のトレーニングが有効に機能して、今日新たな身体行為ができるようになったのか、突如今日身体機能が新たな局面に入ったのかを区別することはできないし、区別しても明確な解答は出そうにない。また精神のように自分自身の経験を自分で形成できる場合は、たとえ記憶の効果が認められたとしても、記憶をつうじて経験が形成されたのか、記憶は間違いなくあるもののそれとは独立に経験が形成されたのかを区別することができない。たとえばゴッホの絵には、視界一面が黄色く塗られたようなものがある。こうした黄色はゴッホに典型的である。この絵を見ることは、たんに見るだけではなく、見ることの形成を否応なく促すところがある。それによって記憶のストックに変化が生じるだけではなく、感覚的に見ることそのものが変化する。そのため次にゴッホの絵をみるさいには、わずかなりとも別様に見ることができるようになっているはずである。このとき別様に見るという経験の形成は、前回見た記憶をつうじて生じたのか、記憶はあるもののそれとは独立に今回はじめて形成されたのかを区別することはできない。とすると経験の形成を論じるために記憶をもちだしても、せいぜいのところ事柄の半分までしか議論が届かない。経験の形成を論じるさいに、記憶を立論の中心に据えるのは、おそらく筋違いである。[3]
意識化されない記憶を語る際に典型的なのは、現に経験が作動していることと、作動についての時間的関連づけがあまりにも多くのギャップを含んでいることである。顔の再認の場合でさえ、膨大な活動が関与しているはずだが、その作動についての時間関係での説明は、あまりにもわずかなことしか語っていない。そのことは経験の作動というそれじたいにおいて生じ、生起し、継続する記憶の活動と、それを意識の関連づけによって意識に対して自分自身で理由づけている時間的な配置との間に極端な開きがあることに関連している。時間関係は、観察者あるいは対象化する意識が捉えていることに過ぎず、現に作動する記憶の働きとは、別の事柄である。ちなみにそれとして作動するものは、最低限作動のネットワークをもち、このネットワークのうちには現在の活動が繰り返し蓄積された過去の経験に関与し、組替えていく再帰的な活動が含まれているが、こうした活動でさえ時間関係で捉えることはできない。
記憶について語りは、それじたい作動であるとともに作動への気づきがあるところに成立する。記憶には、(1)経験の連続性に裏付けられた何らかの先行経験が、潜在的な形成要因として現在の経験の遂行に関与している、(2)そのさい現在の経験において経験の遂行にともなう現在と過去との関連づけの意識がある、という二点が含まれる。これらは相互に一方を他方に帰着することも解消することもできず、またなんらかの第三の心の働きに統合することもできない。統合できないまま、ほぼ同時に進行している。こうした事態を、記憶の「二重作動」と呼んでおきたい。[4]二重作動は本来統合しえない二つの活動が互いに他の活動にとって欠くことのできないように、ほぼ同時に進行することである。だが記憶の働きでは、経験の遂行に現在と過去の関連づけを直接伴わないこともある。後になって回想のなかで当時の現在と当時の過去が関連づけられたり、他者から指摘されて初めて時間関係が理解されることもある。これらの場合は、(1)(2)は当初より分離されている。だが(2)を欠けば、出現した心像が想起によるものか、想像によるものか、本人自身にとっても区別できない。また(2)は部分的に、記憶の登録の推進に寄与している可能性がある。時間的配置は、機能的にはおそらく登録を容易にする補助機構の一つである。
過去が日付と配置をともなって取り出される場合、特定の経験が典型例となっていると考えられる。それは表象の想起である。想起された表象には、はっきりと判別できる特性がある。昨夜の夕食の情景を想起してみる。家族とともに夕飯を食べている情景をくっきり思い起すことができる。だが現実には、その情景の数分前の情景もあるはずであり、数分後の情景もあるはずである。ところがくっきりと思い起こすことができるのは、特定の情景だけである。しかもその情景は特定の場面であり、なだらかに広がる裾野をもたず、視線を移動させるようにして周囲の情景へと移動させることはできない。想起された表象は、はっきりとした単位をもつ。あるいは情景が一つの単位となっている。この事態は、昨夜や一週間前の出来事に限らない。窓の外にいま風景が見える。眼を閉じて眼前の風景を想起する。想起された風景は、やはり単位になっている。眼をあけて直接見ている情景には、なだらかな裾野があり、境界のはっきりしない広がりがある。だがたったいまの情景でさえ、想起されれば単位をもっている。前後から切り離され、次々と移り変わることもない単位をもつことが、想起された表象の特質である。これによってこの表象に記しと日付を打つこと、複数の表象に配置をあたえることが可能になっている。記憶のモードを分類するさい、もっとも大枠での分類基準は、想起されるもの、再生されるものが単位をもつかどうかである。そして直接明確な単位をもつのは、表象だけなのである。[5]
表象をモデルにして、表象の準現在化、準現前化を語り、準現前化した表象と現在の他の表象の間に、現実性の度合いに関して差異がなければ、準現前化した過去は、準現前化したところにあるという首尾一貫した議論が生じる。昨夜の夕食の風景はどこにあるのか。想起された表象は、特定の単位となっており、特定の場所をもつ。当然のことながら、準現前化した表象は、過去にあるのではなく、現にいま想起された場所にある。想起によって過去という形で経験が形成される。それは知覚とは異なる経験であるが、想起によって過去の経験が形成されるのであって、過去は再生されたり呼び戻されたりはしない。大森荘蔵のこうした議論は、実のところ明確な単位となる表象の想起をベースにしている。そして想起という行為によって、過去形の経験がはじめて形成されるのであって、想起には「現在以前」という時間的配置が内含されているという。想起は、それによってかってそうであったという過去形の経験を形成するというのである。[6]
だがここには単純で、おそらく戦略的なすり替えがある。想起という行為は、フラッシュバックのように、必ずしも時間的配置を伴う必要はなく、想起そのものには時間的配置は内含されてはいない。内含されているように見えるのは、去年の夏の海の青さの想起のように、あらかじめ特定の時点についての想起がなされているためである。しかも想起の分析と過去時制をともなう文の分析を重ねることで、準現前化を記述的な時間的配置の確定と等置している。それに対して昨日のご飯のおいしさは、再生するわけではないが、おいしさの感触は残っている。だから昨日のご飯はおいしかったと誰しも自然に語ることができる。このとき想起によっておいしさの感触は過去の経験として形成されている。だがおいしさそのものは再生しないが紛れもなくあったものとして捉えられている。おいしさそのものは想起できはしない。それはおいしさが感覚的な単位をもたないことに関連している。想起によって形成されるのではない経験が、ここでは問題になっている。
表象の再認のさい、たとえば顔を見ると同時に、どこかで見た顔だという感触が残る場合がある。この感触は知覚に伴う知覚する行為への気づきではない。知覚された顔に、なにやら気配や雰囲気を感じ取るように、どこかですでに知っているという感触が伴う。知覚はそれじたい行為でありながら、みずからが行為であることを隠蔽する行為である。そのため顔は直接直観されており、直観された顔にこの感触が伴っている。あれこれさまざまな顔を思い浮かべるうちに、どこかでピンと来る顔がある。数年前に見た顔が再生し、あまりの変化に驚く。記憶の活動への気づきが出現するのはこの場面である。この気づきの延長上に、想起された顔は日付を打たれ、時間関係で配置される。表象は過去のものであっても、単位をもつ以上配置可能である。表象の再認と複数の表象の配置は、表象を見るという点で、同じ活動を少し場面を変えて活用している。いずれも表象そのものや対比された表象が捉えられているので、複数の表象の配置は空間的配置であり、すでに記憶の活動はどこにも現れなくなっている。表象の再認は、表象の想起の特質によって、空間的に並んだ複数の人の顔の対比に変換可能である。変換されれば、短期記憶を除き、もはや記憶の問題ではない。とすると表象の想起を記憶の典型例だとしたとき、記憶の問題からはほとんど逸れてしまっている。
風景の再認のさい、同じようにどこかで見た風景だという感触が残る場合がある。ところがその場所にはいまだ一度も来たことがないはずだがという思いがよぎる。この場所ではないが、類似した場所を思い起こそうとすると、似かよった場所はいくらでも思い起こせるが、過去に見たこの風景は思い起こせない。この場合は、幼少期に来たことがあるのに、来たことの断片さえまったく記憶に残っていないか、初めて見る風景だが雰囲気や気配が似かよっているために、どこかで見た風景だという感触が伴っているかである。たとえ幼少期に来たことがあるにしろ、風景の記憶はまったく残っていないのだから、かりに記憶が残っているにしても表象にはならない雰囲気や気配である。既視感は多くの場合、こうした雰囲気や気配の再生に関連している。かりに過去に訪問したことのある特定の場所が思い浮かぶとすれば、雰囲気や気配に表象を関連づけるようにして想起しているはずである。この場合表象と雰囲気という通常の知覚での図と地が反転している。雰囲気の側に記憶が働き、そこに表象が呼び寄せられる。既視感に特有なのは、多くの場合この知覚の図と地の反転であって、記憶としては特段に珍しいものではない。[7]
何かを見つけようと探している。何かがあるはずだと思いあぐねながら探し続けている。どこかで何かわかっている感じがある。にもかかわらずそれが何であるかはっきりしない。たとえばここ三日間記憶の本質について考えながら、必死で探している。やがてそれもはっきりするだろうとという思いもある。少しづつ形を取ってきているようだが、それでも何かはっきりしない。見出そうとしているものは見えないにもかかわらず、少しづつ変化しているという感触はある。この場面では、見つけようとしている志向的な努力にすでに気づきの意識が出現しおり、この気づきが見つけようとしている何かの変化を感じ取り、ここ数日の回想を順序立て、さらに何かが明確になるはずだという予感を抱いている。三日目の午後に突如見つかる。「エウレカ」と叫びたくなる。気づきの意識は、志向的努力の延長上に何かが見出されたと感じることができる。だが突如見つかるという経験の創発は、おそらくここ二日半の志向的努力と何の関係もない。見出そうと努力することと、見出すことはまったく異なる働きだからである。だがここ数日少しづつ形を取ってきていたものは、紛れもなく連続していると感じられる。だがこの連続しているものは、志向的努力であるのか、少しづつ形を変えている、見出されようとしているものなのかは判然としない。志向的努力は意識の努力であるため、間違いなく連続している。ところが見いだされようとしているものが連続している可能性は、保証されないばかりか、ほとんど低いのではなかと思われる。この場面で記憶の働きと、志向的努力ならびにその努力への気づきは、まったく別の事柄である。
想起された表象が単位をもつという事態を、感情や情動の記憶にも拡大しようとすると、ただちに難題が生じる。感情や情動の記憶で何が想定されようと、表象のような単位をもたない。単位のないものに本来、正確な日付を打つことはできない。かりに日付を打ったとしても、時間関係と、感情や身体行動の記憶の作動とは、もはや類似した点はないであろう。この理解のもとで感情や身体行為の記憶を語ろうとすれば難題だけではなく、奇妙な主張が生じる。それは感情には記憶がないというおよそ哲学でしか語られない主張である。こう言われたとき、実際精神分析医も臨床心理士もただ当惑するだけであろう。[8]だがこの主張には、予想以上に複雑な事情がからんでいる。
感情の記憶
感情を思い起こしてみる。昨晩出席したの院生の結婚パーティで愉快そうに笑っていたある情景を思い起こす。そのときの楽しさが、少しだけ色合いを変えて再度戻ってくる。この楽しさの呼び戻しは、昨日の愉快な情景の想起とは異なる。楽しさは、再度楽しいのであり、感情の再作動である。感情は作動するだけであって、想起されはしない。これが感情には記憶がないと呼ばれる第一の理由である。にもかかわらず昨日の楽しさに似た楽しさである。そのためこの場面では、再度楽しくなるという遂行的行為と、そのことに気づき昨日の楽しさとどこかで比較している気づきの働きが、ほぼ同時進行しているはずである。感情は、遂行的活動として作動する。腹は立ち、悲しみは私を襲い、憂鬱は私を包む。作動する経験とそれへの気づきは、遂行的活動の基本形である。感情が遂行しつつそのことに気づいているさい、この気づきは活動の遂行と共にあり、知るものと知られるものとの関係にはない。
感情の作動の特徴を、ここで必要な範囲で確認しておきたい。以下の点である。(1)感情の作動には、単位がない。感覚・知覚の作動にも、身体の作動にも要素単位がある。にもかかわらず感情には単位がなく、そのため流動する動きとして、イメージされやすい。単位があるもので、無理にその単位が分割されると、いわゆる「強度」が出現する。(2)にもかかわらず感情には、度合いの区別がある。強い怒り、弱い怒りのようにはっきりと区別できる度合いがある。(3)感情は単独では現れることができない。怒った顔、嬉しい顔はあるが、顔のない怒りや、嬉しさを現れとして、感じ取り、知覚することは通常困難である。そのため感情がデータ記憶のように、記憶されているとは考えにくい。これが感情には記憶がないと言われる第二の理由である。(4)その結果感情は、感情以外の現れに伴う形でしか、現れることができない。感情が物の現れに伴って現れる場合、一切の投射は伴っていない。感情の現れは直接的であり、直接物に現れる。フロイトの投射には、内的な運動感を外的な運動感のない表象へと転化すること、感情の形を別様な感情の形に変えること、内的な衝動性を外的な意味へと転化することが含まれている。これらは原則自己意識の操作による。感情は、運動や感覚・知覚の領域化にともなって二次的に出現するだけである。(5)感情に抑制や調整が入ることで、心の働きにはっきりと否定性が入る。声の抑制のように、活動可能なものの限定が起きる。否定性は一般に自己意識の特質であり、何よりも言語の特質である。否定的感覚や、否定的直観は、言語上は可能だが、実行はほとんど困難である。ひそひそ話しの声の抑制のように、ひそひその直観を活用することは難しい。この点で感情は、言語と特段に結びつきが強い。この結びつきは、言語が発声の延長に出現すること、言語には否定形が入ることに拠る。(6)運動感の自在さ、なめらかさ、あるいは運動感の停滞、運動感の障害が、快、不快の出現の主要な源泉の一つになっている。人間学的にみたとき、感情の由来は、主として生後一年以内の幼児が自分で動くことができないことにある。とりわけ生後半年から一年の間で、感覚的な認知能力は向上するにもかかわらず、それに匹敵する運動能力の形成が行われず、運動能力の代替機能として、叫ぶ、泣く(鳴くではない)、喜ぶ等の著しい形成が見られる。フロイトの反復強迫、ラカンの鏡像段階、クラインの抑うつポジション等の精神分析の主要な概念は、ほとんどこの生後半年から一年の間の幼児期を題材として着想されている。(7)感情は、自己触発系ではない。感情の動きに、きっかけや特定原因がないからといって、自律系でも、閉鎖系でもない。感情は、感覚や身体と異なり、自己運動しない。感情の変化に、感情以外の特定要因を指摘することは困難であり、それが感情の自律性を錯覚させる理由になっている。また感情の変化は、それとして感じ取ることができる。感情とこの感じ取りの間には、知覚に類似した距離感がない。この距離のなさによる対象化不能が、感情を単独の系だと感じさせる理由の一つである。(8)感情はそれ自体では変化しない。変化しないものに記憶があると言っても、その記憶が何に働いているかを示すことはできない。これが感情には記憶がないと言われる第三の理由である。
これらの特徴から見て、感情単独の作動の記憶を擬似的に取り出すことはできるが、それは感情の作動とは相当かけ離れている意識の作為になりがちである。また感情の再生を特定の要因との関連で捉えることは機構上困難である。感情の再生のきっかけをどのような要因に求めようとも、それはきっかけ以上のものになることはできない。そしてこれらの事態を満たし、かつ一貫した感情の記憶の機構を考えようとすると、現時点ではかなり困難であることがわかる。論じるための道具立てが現行の知識では圧倒的に不足している。記憶についての経験科学的なモデル形成を行うさいに、作動するものの単位が取り出せないというのが最大のネックになっている。そこで感情の記憶が意識される場面で捉えうることを語ってみる。
心の基本的なあり方を活動だとし、活動からさまざまな心の能力を引き出していく議論の典型は、フィヒテに見られる。そもそも活動の原理ではなく、活動そのものを問題にしようとするなら、活動の出発点で活動をもたらす原理だけを取り出しても、それは活動そのものとは別のことを論じていることになる。また活動の進行プロセスを時間経過にしたがって捉えるのであれば、活動を観望していることになる。活動を捉えるとは、活動のさなかで活動に気づくよりない。作動する活動とそれを感じ取る働きは、『新方法による知識学』(以下『新方法』)に見られる。この構想は、感情を論じるさいの後の議論の枠をあたえている。活動から自我を引き出し、理論的認識能力の導出から開始した『全知識学の基礎』(以下『基礎』)に対して、三年後の『新方法』は、実践的行為能力の導出から開始している。活動の最初のモードは「衝動」である。衝動は、自己自身を生産する努力であり、活動へと向かう持続的傾向である。また衝動は、なんらかの妨げがない限り、それが気づかれることも認識されることもない。衝動の気づきにはすでに「抵抗」という妨げる働きが関与している。この抵抗が『基礎』での非我に形式上相当する。論理的な構えからすると、活動それじたいを直観することはできず、意識によって直観できるのは活動の静止態であり、活動が制約され、この制約によって活動は規定可能なものから規定されたものになる。ただし実践能力の場合、認識対象を捉えるような仕方で、活動を存在として捉えているのではない。なによりも衝動やそこから派生する感情は、本来静止を考えることができず、対象を規定するようにして認識することはできない。むしろ衝動の活動をそれとして感じ取っているのであり、このとき自我は感じるものであると同時に感じられるものである。
この場合『基礎』に見られるような、自我の定立活動とは異なる活動が問題になっている。定立活動では、活動から存在が生じる以上基本的に産出活動が行われている。だが産出活動と衝動や感情の作動とは本来異なったものである。そのため本来『基礎』で見られるような三原則に相当するものを、『新方法』でも定式化しておくべきであったと思われる。というのも実践的能力から出発する自我が、理論的能力になぞらえて定式化された自我とは異なるからである。たとえば『基礎』での自我の定式化のひとつは、「自我はみずからを定立するとして、定立する」である。これに対応する実践的能力の定式化は、おそらく「自我は、みずからを感じるとして、感じる」という事態になると思われる。このとき「として」は、定立活動の「として」のような距離感がなく、「として」の隙間に直観や反省を開くことはない。これがこの活動が、「自己触発」Selbstaffectionenと呼ばれる理由になっている。この場合それ自体が作動しながら、同時にその作動を感じ取るという二重の働きがなければならない。この感じ取りが起こるのは、通常衝動が妨げられた場合であり、これによって衝動が感じ取られるだけではなく、衝動は意識されもする。この意識された状態が感情である。こうしてみると衝動や感情のような活動は、それじたい活動である感じ取る働きと、それに気づき意識するという異なる活動が伴っていると考えられる。作動する働きに伴うのは、それを感じ取ることと、感じ取っていることに気づいていることの由来も起源も異なる二つの働きである。
作動しながら同時に感じ取ることは、つねにいつも起こるわけではなく、必ずしも起こる必要もない。しかもたとえば痛みは、それが作動することと感じ取ることは分離できない。感じ取られていない痛みを何と呼んだらよいかがわからないのである。これが痛みの特徴である。だが痛みに伴う緊張感や緊迫感には、感じられるものと感じるものの分離が生じており、感じるものの側から感じた当の感触を想起することができ、想起に伴って感じられたものが再度作動することがある。緊張感や緊迫感は、感じ取る働きのモードなのである。純粋な作動は、作動を繰り返すだけであり、作動以外のものとみずから結びつくことはない。だが作動を感じ取ることは、雰囲気や気配と結びつくことができ、さらに感じ取ることに気づく意識は、作動のさいの情景にも結びつくことができる。だが情景から誘導して想起できるのは、感じ取りの働きであり、そのとき感情が連動してかりに想起されたとしても、それはただ再度作動するのであって、かつての感情が思い起こされているのではない。
衝動や感情の活動の機構について触れておきたい。衝動を妨げるものは、通常抵抗と呼ばれる。衝動と抵抗という相反する二つの原理で、事柄を捉える基本形がここでも出現する。だが抵抗を知りうるのは、衝動ではなく、衝動への感じ取りであり、それへの気づきである。衝動にはそもそも知る能力がない。だが活動として抵抗が対応するのは、衝動である。衝動は、作動する活動ではあるが、それじたいが抵抗を知ることもなく、抵抗との関係をみずから律することもない。活動の関係では、抵抗の相関項は衝動だが、抵抗を知りうるのは衝動とともにある感じ取りであり、気づきだけである。そのため認識の関係では、抵抗の相関項は感じ取りであり、気づきである。衝動や感情のような活動の議論の基本形がこれである。衝動の相関項は、衝動からは知ることができず、衝動への感じ取りや気づきは、活動での抵抗の相関項ではないのだから、抵抗を制御することはできない。この事態は、活動するものの機構やさらに活動に関与する記憶を論じる上での基本的な議論の配置をあたえる。[9]
作動する活動にたとえ記憶があるにしても、それは感じ取りや気づきによって制御されるものではなく、またそれらによって活動の記憶に変化が生じることはない。また感じ取りや気づきは、活動の進行を調整する働きを行っており、調整能力の記憶はさまざまに形成され、それによって活動のモードに変化が生じることがある。だがこの変化のモードには一対一対応はなく、変化の遂行は試行錯誤に似ている。調整能力自体は、運動性の能力であり、運動感として自分自身に気づくことができる。さらにこの調整能力は、気づきの意識によって捉えられたさまざまな表象と結びつき、表象に対して選択的記憶をもたらす。この選択の働きは、表象の時間的配置以前の、それとは異なる働きであり、言ってみれば大人の意識による記憶とは異なる記憶の回路があることになる。感情には記憶がないのではなく、むしろ時間的配置とは異なる機構をもち、一義的決定関係のないネットワークのなかで記憶が働いている。この選択の働きを、疾病と関連づけて解明するのが精神分析である。たとえばフロイトの挙げる事例では、懐いていた祖母が亡くなったさい、その近辺の情景の記憶がまったくないのに、テーブルに置かれた氷の詰まった鉢だけがくっきりと記憶に残り、何度も非志向的に想起されるという。フロイトはこれを代理記憶とか隠蔽記憶とか呼んでいる。[10]時間的配置以外の選択的記憶の機構の解明は、ほとんどこれからの課題であろう。この機構は幼児期に限らず、自己意識以前の心の活動ではつねに関与していると予想されるからである。だがたとえそれが解明され、その規則に基づいて精神分析的な治療が功を奏した場合であっても、衝動や感情の作動の機構から見て、何故治療が功を奏したのか、おそらく精神分析にはついに明らかにならないままなのである。
注
1、石井敏夫『ベルクソンの記憶力理論』(理想社、二〇〇一)第四章参照。症例に対するベルクソンの扱いに検討を加えてもいる。
2、山鳥重『記憶の神経心理学』(医学書院、二〇〇二)第一章。
3、別の観点からの議論だが、以下を参照。守永直幹「生命と記憶」『現代思想』Vol.22-11,66-95.
4、河本英夫『メタモルフォーゼ』(青土社、二〇〇二)第一、二章。
5、手続き的記憶は、現実の遂行によって手順を踏まなければ単位になることはできず、意味的記憶では、意味そのものの規定が完結しない以上単位ではない。
6、大森荘蔵「過去の制作」(全集第八巻、岩波書店、一九九九)。
7、既視感を知覚像を想起してしまう病的事態だとする見解もある。しかし既視感は、比較的自然にしばしば生じるのではないかと思われる。
8、メヌー・ド・ビランが語ったということで有名な主張である。以下を参照。中敬夫『メヌー・ド・ビラン――受動性の経験の現象学』(世界思想社、二〇〇一)。
9、この図式からさまざまな立論が可能である。衝動のそれじたいでの作動を優先すれば、衝動は何も知ることはできず、ただひたすら作動を繰り返すだけであり、行く果てもなく目的もなく、終わることもできず、ただひたすら作動するだけである。この場合衝動は、どのようにしても認識に類似し、認識の初頭形態であるような認知の働きをもつことはない。このタイプの構想は、ショーペンハウアーの意志論に見られる。また衝動から認知能力をもった感情が出現してきて、感情の段階でそれじたい感じる働きをもつとする構想がある。感じるものが、それじたい感じられるものでもあるとしたとき、ここに自己触発という事態が出現する。さらにここから感じられものと、感じるものが本来同一であり、能動、受動以前の根源的な「内奥感」の設定に進んでいく。メヌー・ド・ビラン、『一般者の自覚的体系』での西田幾多郎、ミッシェル・アンリ等は、こうした構想を選択している。
10、フロイト「隠蔽記憶について」、「無意識について」『著作集第六巻』所収(人文書院、一九七〇)参照。
Hideo KAWAMOTO, Operating Memory
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