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触覚性境界

河本英夫

触覚は、あまりに自明すぎて、常日頃忘れてしまっている感覚である。むしろ触覚は本来潜在化している方が自然状態である。四六時中、胃や肝臓、あるいは性器が前景化して感じ取られているようであれば、おそらくすでに病的である。身体や身体運動にかかわる感覚のおよそ九割は、触覚性感知である。だが触覚への探求は、とても立ち遅れていて、脳神経系の部位でも、体性感覚は二箇所(触覚性体性感覚と尿意・便意の生理的感覚)しか特定できていない。体勢(姿勢)感覚、身体部位の相互位置の感覚、動作のさいの各部位の運動順序のような基本的な能力も、そこからは抜け落ちてしまう。そのことには十分な理由もあり、人間の場合、過度に視覚優位の文化を形成してきたこと、視覚のように詳細な実験的分析を掛けることが難しいことも事実である。
 身体の境界は皮膚ではない。身体には内感による差異があり、内外区分がある。正坐の後足が痺れて感覚がなくなることがある。物理的には足はあるが、感じ取られている足がない。内的に感じ取られている状態を、身体内感と呼ぶ。これは認知科学でながらく「固有感覚」と呼ばれてきたいものであるが、固有感覚という語には実は多くの内実が含まれている。この場合、どこが境界なのかが分からなくなる。痺れた足は、しばらく待てば回復する。だが放っておいたのでは回復しない感覚がある。これが麻痺である。片麻痺、脳性麻痺のように麻痺と呼ばれるものは、怪我とは異なり神経の治癒を必要とする。また麻痺には多様な度合いがある。麻痺側の手を挙げようとして、挙げようと志向しているが挙がらない、挙げることがどうすることかわからない、挙げるという課題が何なのかわからない等は、異なった度合いの麻痺である。それぞれに異なるリハビリが必要である。
 内感の回復は身体全域に一様、均等に起こることは稀である。麻痺側の足では、足の外側の感覚は回復しているが、内側は麻痺したままであることが多い。この場合、おのずと外転歩行となる。足の外側で床や道路を感知しているために、外側に巻くような歩き方になる。身体のなかに内感によって区分が生じて、内外が形成される。内感の回復は身体になんらかの差異が生じることであり、差異によって生じた内側でも、外側でもさらに内外区分が進む。つまり内に区分されたもののなかに内外のさらに微妙な区分が生じる。
脳性麻痺で、首が据わらない場合、首より上は触覚的には外にある。発生的には脊髄神経は、中枢の末端が伸びて形成されるのではなく、中枢と脊髄神経は別個に出現し、首のところで二次的に接続される。そのため首が据わるという事態は、筋力で支える以上の意味をもつ。これらは身体内に出現する境界である。こうした内外区分の仕組みを備えた理論構想は、いまのところスペンサー・ブラウンの代数学とオートポイエーシスしかない。差異のなかにさらに差異が生じるという仕組みまで一般化すれば、ベイトソンの情報概念とドゥルーズの「差異化」の概念がある。
 身体内の境界は、一挙に健常状態になることは難しい。たとえ健常状態が治療目標だとしても、そこに直接向かうような治療設定はほぼ困難である。内感が形成されそうな部位に注目し、なにかが感じ取れそうだという局面で、半ば感じ取れ半ばわからなくなる部位に課題設定する。この場面が、発達心理学者のヴィゴツキーのいう「最近接領域」である。この領域での経験は、半ば成功し半ば失敗するような、経験そのものが形成可能性をもつ領域である。最近接領域での課題設定を継ぎ足すようにして、健常状態に近づけていくよりない。
 触覚で物に触れる場合、物に触れると同時に触れている自分の身体部位を感じ取っている。触れるということは、界面で何かに触れると同時に、触れている自分に気づくことである。これを視覚に置き直してみると、途方もない事態だということがすぐにわかる。眼前にある物を見る。物を見ると同時に、自分の眼を感じているというようなことである。トンネルを抜けてまぶしいほどの光に照らされたとき、光に触れた眼を感じることはある。だがこの場合は、ほとんど何も見ることはできない。視覚ではほとんど起きないようなことが触覚の常態である。つまり視覚と触覚を同じ感知の仕組みで考えることはできず、認知科学も現象学も、いまだ触覚的感知をうまく定式化できないできたのである。その定式化を行っておく。

物の特質-触知・運動感-内感(気づき)---遂行的イメージ---外感(主に視覚)
-触覚性力覚-内感(気づき)-運動性イメージ---

これを視覚に典型的な「見るもの―見られるもの」(現象学では意識極―対象極[ノエシス-ノエマ])と比べてみれば、別の事態であることがわかる。触覚には、たとえ速度ゼロであっても前側に運動感がともない、運動感には力の籠め方や速度の調整に関与する気づき(アゥエアネス)がともなっている。この部分が内的に感じ取られている働きである。物の特質(ざらつき、硬さ、起伏等)の感知とともに、それに触れている身体感覚を同時に感じ取っている。この感じ取りは、内的度合いであり、量として客観的に取り出すことはできない。いわば内包的強度である。そのため直接表象されることはなく、なんらかのイメージとつながっている。股関節に力を籠めて動かすとき、股関節は一度も見たことはないはずだが、それが何であるかはよく分かっている。そのときなにかのイメージをもっているのである。解剖図であったり、木の二股であったりするが、いずれにしろ股関節を動かすさいの手掛かりになっており、それを「遂行的イメージ」と呼んでいる。
 このとき内包的強度と物の特質(外延的量)の間には、一義的な変換関係はない。たとえばスポンジのさまざまな硬さを感じ取るとき、身体内感の度合いと、それに相対的な物の硬さの違いの感知が形成される。両者の変換関係は繰り返し形成され、調整される関係であり、そこに内的であることと、外的であることの境界が繰り返し区分され、さらに変換関係そのものも形成される。陶芸家の材質への感度と、一般人の感度が異なるのはこのためである。麻痺の場合、一般に内感が欠けており、そのため内感‐外的知覚の変換関係が形成されない。この変換関係が欠けていれば、物にどうかかわるかについての制御・調整能力が形成されないままになる。もちろん個々の身体動作もどうすることかがわからないまま、動けと言われれば無理やり動くことになる。
理学療法系の治療技法の一つである認知神経リハが、治療にさいして形成しようとしているのは、この変換関係の形成である。この部分の形成を行うと、個々の動作訓練に一段階オーダーの異なる細かなエクササイズを導入することができる。だがこの技法の複雑さによってただちに誤解が生じて、外的知覚(情報の獲得)から運動を導くような治療法だと広範に理解された。多くの会員もそう理解している。これは健常者のただの思い込みにすぎない。認知神経リハは、実際、誤解に満ちている。
 二列目の触覚性力覚は、これじたいはロボット用語から借りている。うまい命名がないのである。これは身体を動かしながらそのことと同時に感じ取っている認知であり、身体が世界へとつながっていくための基本的な働きである。いま鉛筆に指を沿わせて閉眼で下から上へと移動させてみる。この移動感によって、どの程度の距離を移動したかを感知することができる。これは身体動作とともに同時に認知が成立している場面であり、指相互の相対的配置(位置覚)、手の平からどの程度離れているかという感知(距離覚)、場合によっては指そのものの反りにともなう痛みの度合(痛覚)とともに、物の長さを感知しているのである。触覚では、身体の運動そのものが同時に物や距離の感知であり、これは運動が知覚を支えたり、知覚が運動を支えるような外的関係ではない。触覚に見られるこうした働きを「二重作動」という。触覚性力覚では、運動と認知が同時に進行し、それぞれが異なる位相を形成する。ここでは境界は、認知的、運動的に二重に形成される。
 ところで触覚以外の感覚ではどうなっているのか。眼は光を受けてみずからを形成し、光のなかのさまざまな差異を情報として感知している。同じように、耳は空気の振動を受けてみずからを形成し、振動のなかのさまざまな差異を情報として感知する。この場面でも当然ながら触覚は働いている。眼が光を受け、耳が空気の振動を受け取る場面で、受容する光や空気と、感知される可視光や音として聞こえる空気の振動は異なっている。眼も耳も触覚的に光や空気の振動を受容し、そこに感知可能なもの/ 感知可能でないものの境界を区切る。これが感覚の境界形成であり、感覚は伝統的に語られてきたような情報を受容する器官なのではなく、境界を区切り、その内部でさまざまな差異を見出していく能動的器官である。この境界は人間でも個人差があり、低振動が音として聞こえて、「間もなく爆発がありますよ」と友人に予言すると、直後に爆発が起きて、友人が狼狽するというようなことが起こる。フロイトとユングの最後の決裂の場面がそうだった。
 内外の区分を行い、最初の閉じる場面が、「個体化」である。生命体以上の存在は、すべて個体化している。そこでは、みずから閉じるという一種の組織化が働いている。この組織化の仕組みを理論的に定式化したのがオートポイエーシスである。植物でも個体化している。この組織化に同期するように身体動作を形成してみる。まるで植物と同化するかのような身体動作の作りをするのである。これを身体表現としたのが、ダンサーの大野一雄である。「目がこうあるでしょう。そうするとあなたの魂が目を通してすうっと外側のほうに出かけていく。すると外側のほうから、何か鳥のようなものが飛んできてて、魂の鳥のようなものが飛んでくる。そして魂のなかにすっと入ってきますか。そのために目が通りやすいようにしてありますか。」(大野一雄『稽古の言葉』)この文章で言われていることを実行しようとすると、何段階ものエクササイズが必要なことがわかる。下手をすると擬人化やその気持ちになってみるというレベルで終わってしまう。感知とは、対象をわかることではなく、生命の働きを感じ取ることであり、その働きにみずからの感度を沿わせてみることである。植物がみずからを組織化するように、その働きに気づきみずからを共振させて、組織化の働きがおのずと出現するように行為するのである。それが一種の表現となっている。人間がすでに思い起こすことのできなくなった過去を、身体動作をつうじて思い起こすのである。

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