ゲーテ自然学とオートポイエーシス
生成するもの、あるいは生成そのものを捉えるための手立ては、感覚・知覚にとってそう多くはない。最も一般的には、生成の結果だけを認識できるとするものである。たとえば平面に書いた図形を立方体として捉えるとき、ゲシュタルト転換を経験する。ある面が前面に出ていた立方体から別の面が前面に出た立方体に変わるとき、数秒間の時間がかかる。ゲシュタルト転換は、瞬時には起こらない。このゲシュタルト転換を起こす隙間のところで、認知は猛烈になにかの活動を行っているはずだが、知ることができるのは、ゲシュタルト転換をした後の図形だけである。生成プロセスのなかにいるものは、それが何であるかを知ることはできず、生成プロセスの結果だけを知ることができる。これが生成するものへの認識の本姓であり、認識の限界でもある。結果として出現したものについては、吟味を行うことができ、真/偽の判定を行うこともできる。結果として出現したものの吟味と真/偽判定を活用し、真/偽が次々と入れ替わる経験を「経験の形成」として活用したのが、ヘーゲルの『精神現象学』である。
また生成プロセスの傍らにいるものは、動いているものと静止しているものを間違いなく感じ分けている。止まっているものが突如動き始めれば、そこに異なる事態が起きてしまっている事実は、誰にとっても感じ分けることはできる。これは動物にも広範に見られるもので、突然物音がすれば、動物はそちらに注意を向けてただちに身構えている。これじたいは感覚的反射運動のレベルでの経験であり、ここには身体運動が同時に伴う。このレベルの経験を運動の科学的認識と対比的に論じると、時間空間で指標された運動とは異なり、直接的に感じ取られた運動がはっきりと感じられる。時間空間で記述された運動の図柄を早回しするとアニメーションにしかならない。生命の動きは、誰であれアニメーションとは異なることを良く知っている。すると時間空間的な記述以前に感じ取られている生命の運動を前景に出すような議論が生じる。ここを活用したのが、ベルクソンである。また動きが出現したとき、この動きの出現には、変化率の大小がある。変化率が大きければ、なにやら緊急の事態が起きていると感じられ、小さな変化率であれば、場合によっては無視可能な範囲に留まることもある。この変化率の大小も、運動性の反射反応で捉えられており、変化率の大小の感じ取りを、ドルゥーズは「強度」の一つだと考えている。感じ取られた変化率の度合いは、「強さ」としてしか捉えられない。しかもそれが何であるかが分かる以前に、変化率の度合いに対してはすでに身体運動で反応してしまっている。この身体運動は、変化率の度合いと一対一には対応しない。ここが不確定で偶然がからむ場面である。
さらに生成するものを捉えようとすれば、生成のなかでそれじたいでなにかが維持されていなければならない。この維持されているものが個体である。個体は生成プロセスをつうじて個体化する。ここが生成を経ることによって、あるいは生成をつうじて同時に個体がそれとして個体であるような場面である。この個体がさまざまな細かな変化をもたらし、場合によっては別の個体の姿にかわっていくのであれば、この個体はさまざまに変化していく基本形となる。この基本形は、それとして別のものに成りゆく運動を内在するので、「動きのかたち」である。しかもそれじたい「具体的な形」である。個物である場合には、そこに基本形の直観とそれが変化しながらいずれ変わって行くという予期が含まれていく。この両者がまるで一つのことであるかのような含まれる場合が、「原型」である。
こうしてみると「原型」にはプロセスのなかでみずから個体化する運動と別の個体のかたちへと変貌していく運動の予期が含まれていることになる。このモードの異なる二重の運動が、「原型」に感じ取られている働きである。こうした働きをうまく表現するような概念やキータムは、ギリシャからゲーテの時代までをつぶさに探しても見当たらない。どこか違うがなんとなくわかるような語や概念であればいくつか見つかる。その一つがシラーの持ち出した「理念」である。カント主義者であったシラーは、理念が一番近い語だと考えたのだろう。しかし理念では、原型の内実をほとんど覆うことができない。[1]というのも原型という事態は、およそ純粋認識の対象ではないからである。むしろ運動性の直観で捉えるしかない。そのとき認識が一つの行為であるような事態を現すようなタームが必要となる。それが「認知行為」「行為知」「実践知」と呼ぶことのできるようなものである。[2]カントの用語では「純粋」という語が繰り返し活用されるが、それはそれ単独で成立するという事象を表している。経験的事実を介することなく直接認識される事象のことである。だが原型は、そのタイプの事象ではない。またカント以降、「絶対」という語が頻繁に使われるようになるが、それは事象そのものが「無限性」を含んでいるという意味である。原型はそのタイプの概念でもない。とすると原型は、認識論や各種存在論の概念では語れないことになる。少なくとも原型は、認知行為の事象である。
最も単純化した局面で捉えてみる。眼前にある個物が、いつ変化してもおかしくないが、かろうじて同一性を維持している場合を想定する。いつ変化してもおかしくないという局面に不均衡な拮抗状態があり、他方同じかたちを維持している局面に不均衡状態の反復的な継起がある。この二つは相補的に働き、眼前の個物の事象を支えている。こうした個物において、一方では不均衡状態の働きが取り出され、他方ではそれの継起的反復の働きが取り出される。これらが原型という現象の内面であり、こうした内面の必要条件を取り出していることになる。こうした異なる二つ一組の働きが、基本的な事象の内的原理となる。
1 ゲーテ自然学には、自然の運動に関して、二つの原理がある
こうした二つの原理のうちの一つは、相反するものの「不均衡対関係」(双極性、不均衡動力学)であり、もう一つはそれを繰り返し生み出し続ける円環的で「再起的な反復」である。この二つは、ある事象をそれとして出現させるために、さらには生成する個体をそれとして出現させるために欠くことができない。だが、これらの二つの原理を一つの働きに統合することもできず、また一方だけで済む、ということもありそうにない。ところがこれらの二つの原理の関係は、さまざまなモードで組み合わせられる。そこに領域としての固有性が出現する。[3]
気象学も、マクロ現象でありながら、ゲーテの注目を引いた。気象の変動に関与している変数を取り出す作業を行っており、そこには二つの指標がある。一つは気圧であり、もう一つは湿度である。これらの数値の変動は、気象の変化を象徴的に示している。大気を満たす物質には、圧力、重量、弾性等の性質がある。大気には水が出現したり、水が含み込まれて青空になったりする。またゲーテは赤道での雲の時系列的な変化を取り出している。朝は晴れており、朝10時頃には絹雲状となり、やがて雲の層の変化がある。正午頃には、雷雨となる。その後夕方には薄い雲が出現するが、夜には雲散する。
ここで対立する2原理(動力学的2原理)だと考えられるのは、「地球の引き付ける力」と「空気の加熱力」に由来する膨張であり、「圧縮と膨張」が不均衡対関係に相当する。それらの間の変動が繰り返されるが、この変動の反復は、地球内部の回転運動(自転)に由来するとしている。
この場合、不均衡動力学の支えとなる二つの相反する原理(圧縮と膨張=気象そのものの出現)と、反復的な気象の変化(時系列的再起性=自転の周期性)は、異なった仕組みによって支えられている。つまり相互に外的でそれぞれが独自に並行的に成り立っている。気象は、マクロすぎる事象であり、あまりに多くの変数が関与するが、それでもこうした複数の原理を取り出すことに成功している。圧縮と膨張は、気象という事象そのものの現実化に相当し、カント的な言い方では、「気象の可能性の条件」となる。そこにさらに周期性が外的に関与するのである。
動植物の原型は、有機構成(オーガニゼーション)の具体的なかたちであり、それじたいは普遍的であり、また同時に多様化する。そのとき有機構成には、内に向かって進む完全に純粋な使命と、外に向かっていく純粋な関係もある。この相反する運動の傾向が、ダイナミクスとなる。
有機構成は、当時の大流行語の一つであり、体制、有機性、有機体制とさまざまな訳語があたえられてきたが、部分間の関係そのものを指標していたり、部分の変化が大幅に起きたとしてもなお維持されている当のものを指標していたり、部分とは異なる水準の自己維持するネットワークを指標したりしている。時代によって突然のようにある語がつかわれることがあり、当初はさまざまな意味が盛り込まれ、やがて別の語に置き換えられていくことがある。こうした語をフーコは、「エノンセ」と呼んだ。こうした語は、当初それぞれの人が思い思いの内実を盛り込むために圧倒的に多様な意味を含んでいるように見える。最も有効な意味を持ち込めれば、先駆的な概念の創出者となり、新たな発見の道筋を見出した人になる。ゲーテの眼には、この「有機構成」(体制)は、さらに内的な働きを見出すための材料に見えている。
「生体の完全な体制には、内に向かってゆく極度に純粋な使命と制約がある一方、外に向かっていく純粋な関係もまた同時に存在していなければならない。」
内的な中核をなす決定的形態があって、これが決められた外的エレメントによってさまざまな姿に形成されていく。この内的形態と外的姿を形作る傾向が、不均衡になっているために、極めて特殊なすがたも出現することができる。原型的直観は、ダイナミズムの直観であり、原型の継起的反復がかたちの形成となる。たとえば竹の節は同型の原型的単位を繰り返し接続するようにして、成長する。
この場面では、不均衡な二つの傾向(働き)が持続的に作動している(膨張と収縮)場合でも、一定期間は同じすがたを維持しているのだから「不均衡状態の自己維持」という継起的、再起的反復の働き(有機構成)があるに違いない。ここでは不均衡ダイナミクスと持続的、円環的な有機構成の働きが、いわば「相補的」になっている。動植物学では、純粋な内的形態の維持ではこうした相補的働きがかならず作動している。この相補性は、部分的には「相互制約」的で、円環的有機構成の働きは、変化への抑制となっており、メタモルフォーゼのタイミングを計るような働きを示している。
色彩論では、不均衡ダイナミクスは赤-緑、黄-青のような補色関係に出現する。ところが色彩円は、隣接性から成り、円環的固有領域を形成する。この不均衡ダイナミクス(補色関係)と隣接性による円環的活動は、色彩の二つの面という「相互内属関係」となる。
この色相環が閉じることによって、まさにその環境に「光」と「闇」が位置付き、光の近傍には黄が出現し、闇の近傍に青が出現する。色相互の隣接性と異なり、光と黄、闇と青は色彩そのものの出現にかかわり、「色彩という事象の境界」にかかわる事象である。隣接というとき、光と黄は「次元的な浸透」という隣接である。光と黄の隣接は、黄と橙の隣接とはまったく性質が異なる。[4]
ゲーテ自然学の内部でも、「不均衡動力学」と「円環的活動」は、いくつかの典型的なかたちで捉えられており、相互外在(気象学)、相補的(植物学)、相互内属(色彩論)のような異なるモードで捉えられている。この二つの働きは、統一することはできず、一方にとって他方を欠くこともできない。
2 オートポイエーシスは何を語ろうとしているのか
いまたとえば動物のメタモルフォーゼを考えてみる。オタマジャクシは、自分の身体を解体しながらそこからでる部材を使ってカエルに組み替えていく。もはやオタマジャクシでもなくいまだカエルでもない局面を通過する。そのとき組み替えの活動そのものと、組み替えながら作られていくものの活動は別の物となる。何かが作り変えられるとき、作り変えのさなかで継続して働いている活動と、作り変えられて新たに活動していくものは、事象上区別される。この事態を含むように定式化してみる。
オートポイエーシスの模式図
これは以下の当初の定義を概略的に図式化したものである。
オートポイエーシス・システムとは、構成素が構成素を産出するという産出(変形および破壊)過程のネットワークとして、有機的に構成(単位体として規定)されたシステムである。このとき構成素は次のような特徴をもつ。(1)変換と相互作用をつうじて、自己を産出するプロセス(関係)のネットワーク、絶えず再生産し実現する。(2)ネットワーク(システム)を空間内に具体的単位体として構成し、またその空間内において構成素は、ネットワークが実現する位相領域を特定することによってみずからが存在する。(マトゥラーナ、ヴァレラ、河本英夫訳、1980)[5]
原型やオートポイエーシスのように、それじたいで「生きていること」と地続きになっているような構想は、人間の言語で定式化しようとすると必ず無理が来てしまう。言葉が事象に対して不足している状態であるため、言葉の意味を読み解き、言葉から事象を解読しようとしてもほとんど届かないのである。言葉をそこでなされている経験の影だと考えていくよりない。言葉がそれの影であるようなある種の仕組みを感じ取り、その経験の内実を可能な限り、科学的に捉えていくよりない。
ここでのシステム構想の箇条書き風に取り出してみる。
1)システムの本体を、プロセスのネットワークだとしている。見えないものを見るような特質として設定されている。人間に眼では、働きは直接見ることができない。免疫の働きは見えず、バランス調整の働きも見えない。また当然のことだが、「心」も見えない。しかし免疫グロブリンや、調整ホルモンや脳神経系は見ることができる。この見えない部分が働きに相当し、それを最も単純化した事態で取り出せば、プロセスのネットワークとなる。
2)このプロセスは特定の空間内にはない。どこかの空間内に描けばこの活動の影のようになってしまうような設定である。空間内にないものを見る、という直観が必要である。
3)こうしたプロセスのネットワークから特定の事物が形成される。この場面は、過飽和状態の一面の霧から水滴が一滴析出してくるような場面と同じである。何故、いつ、どこでそうした水滴が出現したのかについては答えようがない。しかし現に起きることである。一般的には、この部分は「産出的因果」と呼ばれる。これじたいは産出関係を因果関係になぞらえて命名した誤った名称であるが、産出的因果はどのような解明に対しても、限界を含む。というにも産出は因果的関係ではなく、そこには「質変化」や「起滅」が含まれているからである。
4)産出された要素が、自分自身を生み出したプロセスのネットワーク(システム)を再起動させなければならない。事物的要素が自分自身を生み出したネットワークを再起動させるかどうかが、要素がシステムの構成素になることができるかどうかの分岐点になっている。ここに「円環的、再起的作動」が組み込まれている。
5)円環的、再起的作動には、多くのモードがあり、そのモード全般が「有機構成」と呼ばれる。それぞれのモードは、種に対応する。つまり有機構成のモードがアリストテレスの言う「形相」に相当し、形相は時として新たに出現する。
6)そのことをつうじて自動的にシステムの要素の範囲が決まる。それによって産出的プロセスと、その後の再起動のプロセスのさなかで、おのずと要素の集合が決まる。そこがこのシステムでの「個体化=モナド化」の要である。
7)認識の場面での空間の問題がある。人間の知は、空間内に事象を描くという視覚と空間に圧倒的に制約されて成立している。システム(プロセスのネットワーク)は、いまだ空間内にはない。それの産出する事物をつうじて空間が形成されてくる。事物の張り出す広がりによって、空間の内実が決まる。これは位相空間の設定に似てくる。事物の関係が固有空間を張り出すのであって、あらかじめ設定された空間のなかに事物が出現してくるのではない。こうして張り出された領域が、図の下の自己(Selbst)に相当する。ところがカエルのような両生類は、この自己さえも組み替えてオタマジャクシからカエルに成っていく。ということは生の途上で、みずからの住まう空間そのものを変えてしまうシステムもある。この部分が、オートポイエーシスが圧倒的に多様な応用領域をもつ理由になっている。かたちが変わるだけではなく、空間そのものを変えてしまうのである。
社会学者のルーマンは、膨大な記述的システム論を展開した。その場合、基本的に、Selbstの多様性(展開可能性)を活用している。しかしこのシステムの機構が、記述と経験の拡張という点で威力を発揮するのは、システムそのものの出現と再編(=メタモルフォーゼ)の局面(SichとSelbstの連動)である。
8)哲学の伝統で言えば、形相そのもの出現を、主として運動の継起的反復の側から主題とする構想となっており、現象学で言えば、「事象の出現」「事象の出来」を主題化するものとなる。生成プロセスのさなかでの意識の出現さえ主題とするのだから、主体形成の行為論となる。この点ではゲーテの精神を全面的に継承するものとなっていると考えられる。
ゲーテとオートポイエーシス
1)ゲーテの構想との違いは、オートポイエーシスは動力学的な拮抗する対関係を使わないことである。それをプロセスのさなかでの構成素の自動選択性に置き換えていく。つまりある意味でオートポイエーシスはデジタル的である。プロセスのさなかの選択性をささえるところに接続・切断の不均衡選択性が出現する。ゲーテの直観を、プロセスの側から組み直しており、動力学的ダイナミクスをプロセスのさなかでのダイナミクスに置き換える。
2)かたちを「動きのかたち」とみる点は、両者は共通している。高速で動き続けているコマが回転しながら静止していることがある。この回転する静止がかたちである。かたちとは激しく動く静止の直観である。
3)ゲーテを古典派だと呼ぶとき、古典派の意味は、人間の歴史の総体を引き受けていくという点に力点がある。歴史の総体を引き受けるためには、それなりの道具立てが必要となる。そうした道具立ての最有力候補の一つが、オートポイエーシスである。オートポイエーシスは、21世紀型の「原型」の仕組みなのである。
4)複数個のシステムの連動を扱う仕組みが、オートポイエーシスでは細分化される。ここにカップリングの機構がある。カップリングとは、複数のシステムが相互に決定関係のない媒介変数を提供し合っている連動関係のことで、極めて緩やかな関係である。
5)行為者と観察者の関係 オートポイエーシスは、個体化のプロセスの定式化であるが、個体化を完了した後の局面では世界内の一個の不連続点になる。そうすると観察者から見たとき、世界内に多くの不連続点が散在しているような外観となる。しかしこれはシステムの外から、複数個のシステムを観望した眺望的な見え姿である。人間の意識が、つねに観察者にもなりうるという能力を備えている以上、オートポイエーシスの存在論は観察された個体の併存のようになる。そしてこうした視点こそ、観察者の視点だとして繰り返し括弧に入れなければならないものであった。こうしてかりにオートポイエーシスにとって「体系」(システム)ということがあるにしても、知にとっての全体図というようなものではなくなる。しかも各システムは、それぞれのシステムの作動によって固有の空間を形作り、それらは時として交叉していたり、内部の一部を共有したまま連動しているような図柄となる。喩えてみれば以下の図のようになる。
そしてこうした図柄さえ括弧に入れて、プロセスのさなかに繰り返し戻っていくことが必要となる。こうした事態を、「システム的還元」と呼んできた。最低限、それぞれの円環の動きのなかで、他の円環がどのように見えているかを考えてみてほしい。そしてさらにみずからの円環がそれとして出現してくる局面を想起してみてほしい。それがオートポイエーシスの経験なのである。認知と行為には、部分的に相反的な関係がある。認知が前景に出てしまえば、行為は本来そこに含まれている場合であっても隠蔽されてしまう。そのため認知を括弧に入れるようにして、行為へと回帰していくのである。「学んでも何もわからない、行為することが必要」な場面である。
3 芸術的制作
こうした経験が形術的制作にとって何を意味するかを確認しておきたい。一つには、制作プロセスは、このプロセスの継続と、プロセスの産物としてのその都度の制作物に分岐していくことである。作品は、プロセスが目指しているものではなく、また一切の主観的条件から由来するものではない。プロセスを歩むものは、次のプロセスへと継続するための試行錯誤を繰り返している。その途上に、制作物がプロセスの副産物として出現してくる。ここでは開始条件からも、作られた作品からも、制作を特徴づけることはなくなる。あるいはそれはある種、人間固有の誤解だと考えていくのである。
溶液のなかで結晶化が進行する場面を考えてみる。結晶の開始は、外からあたえられる振動でも外気温の上昇でも内発的な偶然でもよい。結晶化はしばらく続く。このときプロセスから考えていくのである。結晶化の一つのプロセスを想定する。このプロセスは、次のプロセスに接続する。それと同時に、プロセスの外に「結晶」を排出する。プロセスから排出されたものは、生命体で言えば「糞」である。ここではプロセスの内容が、二重に分岐している。一つはプロセスの継続であり、もう一つが結晶化というプロセスの外に排出する進行である。起きていることは、およそこうした事態である。ところが化学的な定式化を行うと、出発点に反応物質を置き、そこから反応が進行して、反応産物が出てくるように描かれる。これは化学反応式で描かれているような仕組みである。人間にとって最も分かりやすく、かつ誤解を含んでしまっている場所である。その誤解の特質は、(1)反応産物は、本来プロセスの進行の副産物であるにもかかわらず、反応の到達点であるかのように捉えられてしまう。ここには目的や目標という意識の事実が根深く入り込んでしまっている。化学反応式は、どこまでもアリストテレス的な目的論の枠内にある。反応は産物に向かって進行するというわけである。また人間の言語では、二重の分岐を描くことは容易ではない。そもそも言語こそ「線型」の表現形式である。この言語で二重に進行する事態をうまく表現することはできない。(2)開始条件から産物に到るような線型の関係は、粗い要約であり、プロセスは一貫してプロセスに回帰して、円環的な作動を繰り返し、他方プロセスに回帰しない物は、プロセスの外に出ていく。ここに結晶化することもあればしないこともあるという選択的分岐が含まれている。ここが不均衡の出現する局面である。こうして化学反応式のようなありふれたものでも、本来はゲーテ自然学ののなかに含まれるような「不均衡状態での局面の変化」と「反復的な継起」が含まれているのである。そのことの粗い要約が近代科学であることになる。
こうして産物を到達点ではなく、副産物として捉えることが必要となり、プロセスのさなかにある者にとっては、産物はみずからのプロセスから外にでたものになる。そのため主観性の原理をどのように整備しようとも、それは制作の仕組みに届くようなものではなく、また制作者の意図をどのように推測しようとも、そこから作品までは到達することはありえないことである。物事の制作というさいに、説明のために人間の活用できる材料が不足し続けている、というのが実情に近い。それは建築物を考えるさいにも同じことが当てはまっている。
家を建てる場合を想定する。13人ずつの職人からなる二組の集団をつくる。一方の集団には、見取り図、設計図、レイアウトその他の必要なものはすべて揃え、棟梁を指定して、棟梁の指示通りに作業を進める。・・・もう一方の13人の集団には見取り図も設計図もレイアウトもなく、ただ職人相互が相互の配置だけでどう行動するかが決まっている。職人たちは当初偶然特定の配置につく。配置についた途端、動きが開始される。こうしたやり方でも家はできる。[6]
これは制作の二つのプログラムを指定しており、第一の集団のプログラムが近代科学的な設定である。第二のプログラムが、多くの動物が活用しているプログラムである。事実アリやハチが、巣を作るさいに、あらかじめ談合して設計図を見て作っているとは考えられない。またそうした証拠があるとも思えない。第一のプログラムは、結果から見て結果に到達するように組み立てられたプログラムである。これに対して第二のプログラムは、典型的な「自己組織化」のプログラムである。ただし第二のプログラムを人間が実行するさいには、闇雲な試行錯誤にはならないはずである。このプログラムには、プロセスのさなかにある人間の意識の関与する度合いによって、さまざまなヴァリエーションが出現する。その一つが、プロセスが次のプロセスに接続するように試行錯誤的な選択がなされる場面であり、それが継起的な反復のかたちとなる。またそのつどプロセスの外にでるように何かが造られてしまうので、それを巻き込むようにプロセスが進行するはずである。結晶化のプロセスでは、個々の結晶はただ排出され、蓄積されるだけであった。その意味で産物としての結晶は、糞であった。ところが人間的な事象の場合、自分の作り出した糞をさらにプロセスに巻き込み、糞を活用していくことになる。この糞の活用の場面で、選択的な不均衡が生じることになる。ここでも別の変化へと促す不均衡とそれの反復的進行という二つの局面が断続的に現われていくことがわかる。
こうした構想の位置価を検討しておきたい。制作行為の主観的条件については、シラーが検討を行っている。そこではカント的な認識論を前提にして、作品の質料性にかかわる「質料衝動」と作品の姿や形にかかわる「形式衝動」が、認識のための条件に代えて、制作のための条件として取り出される。そしてそれらを媒介して接続する位置に「遊戯衝動」が設定される。ただの認識論であれば、カント的な「統覚」もしくは「構想力」を置くところに、遊戯衝動を置くのである。カントの場合、芸術的制作は、新たな素材を見出し、それと形式をうまく適合させるところが、芸術家の才能となる。この場合、基本的には新たな形式の形成は認められない。というのも新たな形式が次々と産みだされると、次々と世界には無秩序が出現してくることになり、また多くの場合それらは「認識不可能なもの」となるであろう。そうなると素材をうまく取り出し、それに適合的な形式を探し出して、新たな作品として作り出す能力が、制作にとってはもっとも重要なものとなる。シラーはそこに「遊戯衝動」を置いている。ただしこの概念がカント的な心の働きだとすると、どのようにしてこれが起動し、機能していくのかが容易には語れなくなる。
総体としてシラーは主観性(心)の働きを、認識論を手本にして語っているように見える。[7]そしてそれはもっぱら芸術の鑑賞に力点を置く分析となる。というのも制作行為は、作り出してしまった物(個々の特定可能な物)を手掛かりにして、あるいはそれに制約されながら、さらにプロセスを進めていくところに特質があり、主観性の働きをどのように詳細に語ろうと制作行為とは別のことを語ってしまうことになるからである。プロセスの特質は、「自動」的な進行であり、すでに作り出された物によっておのずと動かされている場合(被動)や、制約されながらも自発的な進行を経るような場面が分岐してくる、認識論で見られるような能動、受動だけではなく、自然に動かされているような被動的作動、おのずと進行してしまっている自動的作動、制約されながらもみずから進むような自発的作動のような行為のモードの違いが出てくるはずである。それぞれでプロセスのさなかにある行為の調整能力や気づきに変化が生じてくる。
さらに制作物と制作行為は、つねに二重に進行する事案となる。この点では、産出する働きと産物は、つねに二重に作動していることになる。そのことによって産出する働きと産物が同一だとして定義されるフィヒテの事行は、基礎づけ基礎を急ぐ余りの勇み足である。基礎づけ構想から進む場合、どこかに拠点となる出発点を設定しなければならない。フィヒテの場合、それが「みずから自身をセットアップする働き」である。それが「自我」と呼ばれる。自我とはみずから自身をセットアップする働きのことである。セットアップという語は、伝統的に「定立」とか「措定」とか訳されてきた。内実は、設定する働きのことである。そのときセットアップする働きとセットアップされたものとの関係が問われる。セットアップする働きとセットアップされたものが実は同一であるというようにフィヒテは設定している。これが「事行」であった。
しかし芸銃的制作の場合、作り出す行為と作り出された作品が、同一になるような場面は、稀な例外を除いてありそうにない。作り出された作品はつねに作り出す行為を超え出てしまっており(自己超越)、作り出す行為は作り出された作品にすべて現実化することなく、むしろそのため制作行為は制作行為そのものに回付する(自己回帰)。
こうしてみると事行とは産出する働きと産出された物が、二重に分岐しながら作動を繰り返す作動体であってもよかったのである。このとき産出する行為をプロセスのネットワークとし、産物を産出された構造体とすれば、ちょうどオートポイエーシスの定式化したものに類似してくる。ところが産出のネットワークと産物は、同一になることはありえず、構造体の出現生成をつうじて無数に個体が出現してくるので、フィヒテの想定とは異なり、唯一の基礎づけ基礎が決まるかたちにはならない。基礎づけの拠点形成を試みたフィヒテの事行は、その仕組みの延長上に無数の開始点、無数の個体が出現してしまう。この場合、哲学にとってはあまりにも多くの任意性が出現してしまうが、芸術的制作にとっては、むしろ望ましいことであり、積極的に活用できる事態でもある。
同時代の初期ロマン主義者は、とりわけ「反省」という語の意味合いを変更し、「自己関係づけ」という程度の意味合いで、反省という語を拡張することになった。こうした自己関係づけの働きが反省の起動する出発点の拠点化を解除し、反省がたとえ自己に回帰することになった場合でも、みずから自身と合致することはなく、際限なく二重化が起こり続けることを主張したのである。[8]この時期の芸術論が自分自身の踏み台にしたのは、フィヒテの知識学であり、シュレーゲルは主として「反省機能」の拡張を行い、ノヴァーリスは制作行為での産物の自己超越に力点を置いている。[9]
オートポイエーシスの場合、さらに制作プロセスに力点が置かれる。フィヒテの延長上に、主体の働きをどこまで拡張できるかではなく、むしろプロセスのさなかで「主体」そのものがどのように形成されるかを問うのである。プロセスのさなかには予期があり、行為の進行を促すイメージがある。それでも想定外の物が出来てしまうこともある。思うように物が出来ない場合には、プロセスの手前に戻り、新たな選択肢を採用してさらに前に進むことも必要となり、それによって多くの場合新たな手掛かりを手にする。プロセスの進行のさなかで、制作行為を継続するさいには、カント、シラーが行うような主観性の能力の分析だけでは間に合っておらず、制作する行為と産物とがつねに二重に分岐し続け、作品とはこうしたプロセスの副産物だとする分析が必要となってくるのである。
注
1、大槻裕子『ゲーテとスピノザ主義』(同学社、2007年)第三章参照
2、認知行為とは、認知と行為が分離しないまま作動している働きである。河本英夫『システム現象学』(新曜社、2006年)参照
3、この仕組みが明確に語られるのは、シェリングの自然哲学においてである。たとえば河本英夫「方法としてのオートポイエーシス」(村上勝三編『越境する哲学――体系と方法を求めて』春風社、2015年)所収)参照
4、ゲーテ自然学については、ゲーテ全集第14巻(木村直司他訳、治潮出版、1980年)を使用した。
5、マトゥラーナ、ヴァレラ『オートポイエーシス』(河本英夫訳、国文社、1991年)70-71頁
6、同上、236頁
7、シラー『人間の美的教育について』(小栗孝則訳、2003年、法政大学出版局)
8、こうした点については、メニングハウス『無限の二重化』(伊藤秀一訳、法政大学出版局、1992年)を参照
9、シュレーゲル「哲学の発展」(『ドイツ・ロマン派全集 第12巻』松田隆之訳、国書刊行会、1990年)所収、ノヴァーリス「一般草稿」「断章と研究」(『ノヴァーリス作品集 第三巻』今泉文子訳、ちくま文庫、2007年)所収
(2016年7月)