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創発的科学

昨年初春にフラーレンの新構造が、川崎市の国際基盤材料研究所で作り出された。フラーレンは、炭素だけからなる結晶で、サッカーボールのように5角形と6角形の結晶で形作られている。ダイヤモンド、グラファイト、チャーコールのような炭素だけからなる結晶に、もうひとつ異なるタイプの結晶が存在することがあきらかになったのは、15年程前で、まったくの偶然からである。この物質の発見の3日間に参加した科学者は、1996年のノーベル化学賞を受賞している。雪のような平らな結晶がつながって球形になるためには、理論上15個の正5角形が必要である。6角形は大きさ次第でいくつも増やすことができる。結晶化の温度を変えると、炭素二四〇個のもの(C240)、炭素五四〇個のもの(C540)ができる。12個の5角形を入れたまま、6角形の数をどんどん増やせばよいのだから、理論上も予測できることである。C60は、電圧をかけると高温で超伝導が出現すると、昨年11月に発表されている。ところが昨春できたのは、入れ子型のフラーレンであった。
ロシアのマトリョーシカ人形のようにC540のなかにC240が入り、そのなかにさらにC80が入っていたのである。この場合生成過程は一挙に複雑になる。おそらく外側の大きなフラーレンができて、それの6角形の部分だけが膨らみつづける間に、余った炭素原子が内側に落ち込んでそこで再度結晶を作るか、内側から小さなフラーレンができて、それを包むように外側のフラーレンができ、やがて膜が剥がれるように外側の皮膜が浮かび上がってきたと考えるのが常識的である。だが実際のところどうやって出来てきたのか良くわからない。しかもこのフラ-レンは、何に活用できるのかただちには明らかにならない。ただしイメージの喚起力が抜群である。
 イメージの拡張 この事例では第一に部分的に球状になる結晶のどこか先端部分には、5角形が入ると予想される。円筒上に物質が伸びていくさいにも、植物の芽の先端のように丸くなって伸びていくのであれば、そこに5角形があるはずである。これは先端で生成的に形成されていくものが5肢の分岐構造をもつという予想を導く。事実シクラメンやサクラの花びらは5枚である。ヒトデの足も5本である。人の手の指も5本である。サクラが開花するとき、5枚の花びらが一様に少しずつ開いて行くのではない。5枚の花びらはすこしづつ重なっている。これは巻き込みの運動が起こっていることを意味する。まず一番外側にある花びらが開き、ひとつ飛ばして144度隔たった花びらが開き、それを繰り返す。二回転すると5枚の花びらが開く。ここには先端へと進む形成運動が残っている。
ここで行っていることは、ただの発展的なアナロジーである。だがアナロジーの喚起力は、理論的に説明能力をもつ仮説以前の場面で、広大な経験領域をなしている。この領域は感性を目一杯開いて可能な限りの推論を行う領域である。しかもこの感性の働きは、人間の自発性や能動性とは直接関係がなく、通常センスと呼ばれているものである。センスを磨くためには、比喩の修得と同様、特定のトレーニング方針があるわけではない。この点についてはアリストテレスもカントも同じ意見である。しかも原著論文の体裁をとる科学論文は、論証スタイルを優先するため、アナロジーによる推論の痕跡が残らないように書かれている
とすると多くの場合発想法を修得する機会も場所もないことになる。科学雑誌には、原著論文とは別立てで萌芽的なアイディアを提示する部門があってもよいと思う。アイディアやノウハウやコンセプトだけでも特許の取れる時代である。イメージの喚起力を大きくするようなアイディアや、異領域での新たなつながりの着想は、実証までに数十年かかることもある。だがこうしたアイディアのもとで、研究は分岐していく。
いくつかエクササイズを行っておきたい。各人の口のなかにはちょうど地球の人口と同じ約60億個の雑菌が生息している。丹念に歯磨きをしても、これだけの雑菌が口のなかにいるという事実は変わらない。口を閉じれば、雑菌は体の内である。口を開けば、雑菌は体の外に出てしまう。とすれば生命体という組織の内‐外を決める境界はどうなっているのだろうか。雑菌のなかには、消化活動を助け、消化活動に参加しているものがある。とすると活動の継続という点で、このネットワークに参加している雑菌は、生命体の一部だとみなしてよい。実際人間は、多数の細菌と共生しているのである。これは内外の境界を変えていくためのエクササイズである。また客があれば、花を飾ってもてなすことがある。立派に手のかかった花を飾るのである。ところで花は植物にとっては生殖器である。生殖器を人様にさらして、めでていただいていることになる。しかも人為的に手を入れて、巨大な生殖器にして見ていただいているわけである。ここで生じていることは、外から見ている視点と、その当のものにとっての視点の落差である。これは視点の転換を行うためのエクササイズである。
いまゴムの葉を思い浮かべる。ゴムの葉には、フットボールを平板にした形態と一面の緑の色がある。いまあの形だけをそのまま残して、色だけを10センチ上方に浮かび上がらせる。色と形は分離することができる。質の異なるものは分離可能である。ところで10センチ上方に浮かび上がらせた緑は、どんな形をしているのだろう。ここで生じていることは、質の異なるものが相互に決定関係がないまま、密接に関連することがあるという事実である。感性が違うと呼ばれる人は、複数の感覚の間の自在な切り替えができることが多い。たとえば「速度感」を色で表したら、どんな色か、あるいは形で表したらどんな形か。赤、黄、緑を図形で表すとどんな図形か。ちなみに円錐、台形、楕円で表すとどうなるのか。こうした訓練をするのである。イメージの喚起力を活用することは、科学と芸術の分岐点に立って、最大限の経験の自在さを発揮することである。
合理性と非合理性の間  進化論の難題のひとつに「性の起源」がある。有性生殖はコストがかかり、生殖のたびに遺伝子の半分は活用していないのだから、無駄の多い増殖の仕方である。ヒトにおいても遺伝子間の相性で、容易には子供ができないことがある。この無駄を省く手順が、クローン生物で試みられている。アリストテレスに倣って自然は無駄をしないというのであれば、クローン技術は自然の摂理を最大限発揮させようとしていることになる。この場合有性生殖個体に、人為的に無性生殖をやらせている点に違和感が残る。進化の系統樹の上位に属するものを、下等な無性生殖へと退行させているというイメージも浮かぶ。しかもクローンでは有性生殖の利点を台無しにしているのではないかという懸念もある。有性生殖では遺伝子の組み合わせが増殖のたびに変化する以上、無性生殖に較べてより大きな多様性を確保できるというのが常識的な直観である。そのため極端な環境の変化に対応するには、有性生殖の方が有利だということになる。ところがこのコストとメリットの間の算定を行うと、有性生殖がかならずしも生存に有利とは言えなくなる。そこで有性生殖種が現実に大量に存在する以上、どうしてこうした有性生殖種が残存してきたのかという疑問が、ただちに生じる。進化論的には、有性生殖の利点を探すことになる。現実に存在するものは、十分な理由をもち、しかもそれは生存に有利だという合理的な理由でなければならない。だが性を介した生殖は、どこまでも進化史上の偶然によるものであり、ひとつの選択だったのである。クローン生物は、この選択肢をさらにひとつ増やす選択である。
遺伝子は複製のたびにエラーを抱え込む。染色体が二本になっている安定した高等生物では、染色体のどちらかにエラーが生じても、他方を用いて増殖を行うことができる。つまりこの場合は逆にエラーが蓄積されてしまう。そこでエラーを除去する仕組みをどこかで獲得しているはずであるという合理的な推論が成り立つ。有性生殖では、増殖に際して遺伝子の交差と組換えが起こるので、その段階でエラーが除去される。遺伝子のエラーを除去する仕組みこそ、性の合理的な残存理由だという説が出てくる。こうした議論の仕方は、現に存在するものには合理的な理由があるはずであり、他に可能な仕組みのうち最上のものが実現されているはずだという前提に基づいている。可能性と現実性という対比で考えると、世界は別様でもありうるということは論理的には自明である。むしろ現実性の位置付けが問題である。現実は可能なもののうちどの程度のレベルにあるのか。現実は可能なもののうち最高のものであるという考えは、さほど根拠があるわけではないが、ライプニッツにもヘーゲルにも見られる。つまりヨーロッパで合理性を最大限拡大して考えた人たちにも、こうした考えは残っている。
二倍体の染色体をもつものは、一方にエラーが生じてもなお複製を行うことができるという利点をもっている。つまりこれはエラーに対して強いために残存し、逆にエラーを複製をつうじて保存する機構にもなる。この場合エラーが蓄積されるので、どこかで一倍体の状態に戻り、エラーを除去しなければならない。ところがゾウリムシに見られるように、必要に応じて全体で一倍体に戻り、そこでエラーの修復を終えると、再度同じ一倍体が合体して二倍体になる戦略を用いてもよいはずである。ここには性は介在していない。ここで生じる問題が、性細胞と体細胞の分化である。個体がそれじたいで一倍体と二倍体の間を行き来するのではなく、両者を機能分化させる戦略がどのようにして生じたのかである。この分化によって性が構造的な器官として成立し、自立し、固定される。
この点でマーグリスの取った見解は独特である。細胞のもつ複製機能と、それ自体が空間を移動したり、細胞の内部の器官の移動を支える運動性の機能は、ひとつの細胞のなかに同居させて折り合わせることのできる以上のものになっているというのである。細胞がそれ自体のなかで折り合わせることのできない働きをもってしまったとき、窮余の策として、運動性の働きと複製の働きを分離する機能分化の回路へと入っていったというのである。現在の多細胞生物の起源が、ここにあることになる。しかもこれはどちらかといえば苦し紛れに入り込んだ回路である。こうしてみると現実の合理性と非合理性の間には、広大な隙間があることがわかる。現実の合理的な理由を求めるだけの科学は、ギリシアでテオリアと呼ばれ、近代ではエピステーメと呼ばれて、精密科学知の典型を作ってきた。ところが現実の事態が新たに形成されるさいには、いっさいの合理性とは独立に、それじたいが形成過程を進んでしまうという局面がある。この場面で科学的な経験の範囲を広げてみることが必要になる。
概念的思考 学習段階では、物事を概念や意味として理解した方が知識は正確であり、しかも思考の節約にもなる。だが概念的思考回路を身に付けてしまうと、概念的にだけ経験を動かすようになる。その方が手っ取り早いから、どうしてもそうなってしまう。概念や意味だけで考えると、知識は広がっても経験の仕方はまったく固定してしまう。知識の修得段階でもっとも合理的な仕方が、ひとたび知識の形成の場面になると、むしろ融通の効かない制約になる。そのため経験の延長上に概念や意味を活用し、経験を広げるように概念を用いる工夫が必要になる。路上を歩くとき、前に出した足を着地させる直前に止めてみる。後ろ足に重心を戻し、後ろ足で踏ん張るのである。この状態は歩行の途上ではなく、何か歩行とは別のことをやっていることになる。ダンスの下手な物真似のような姿である。とすると行為にはひとまとまりの動きの単位があることになる。寝返りを途中で止めてみれば、この単位がどのようなものであるかがよくわかる。行為には、それを次の行為へと接続していくためのひとまとまりの単位がある。だから行為には無限分割が効かない。運動の無限分割を禁じたベルクソンの主張は、行為にもっとも良く当てはまる。
ここで概念的な思考をやってみる。運動にはそれが継続するための単位があるという主張を、すべての自然界に拡大してみるのである。自由落下をイメージする。たんに物体が落下するだけである。このとき物体は、一区切りづつまとまりをもって落下していくことになる。なだらかに連続的に落ちていくのではなく、ひとまとまりごとに落ちていくのである。ひとまとまりの区切りの間には、測定誤差内の隙間しかなければ、測定結果は、連続的な落下の場合と同じである。測定結果が同じであれば、どちらが現実の運動かを最終的には判定できない。どちらもありうることになる。その場合どちらが有効な経験の拡大可能性をもっているかが問われる。
連続的に物体が落ちていくという場合、実は連続的な空間がすでに前提されている。この空間のなかを物体が落ちていく以上、この落下運動は連続運動に決まっている。ところが無重力の宇宙空間では、いったい何が空間を張り出しているのだろう。さらに物体の運動が、空間を形成し、空間を歪めたり変化させたりするのであれば、空間内の運動ではなく、運動そのものから空間が形成されるような議論が必要になる。そうなると運動は、空間内の相対的偏差によっても、また空間内の移動のような連続性を必要条件ともしなくなる。物体はそれ固有の運動の単位をもち、また固有の運動のモードをもつ。少なくてもこうした可能性は、つねにストックしておいてよいのである。概念的思考は、すべてを一から考え直すための回路である。この考え直しの途上に転用して活用できるさまざまなアイディアが出てくることもある。極端な意見にあらかじめ身構える態度だけは、もう括弧に入れておいてよいのである。

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