自己組織プロセスとしての制作
河本英夫
制作のなかでの最難関は、自分自身の制作であり、意識からみれば何が起きているのかが自分にとってもわからない制作である。このことは意識にもあてはまっていて、意識そのものもみずからを組織化し、それとして制作する。だが意識はその結果しか知ることができない。意識の最大の力能が知ることである限り、意識は制作プロセスにあっては制作された結果しか知りようがない。つまり意識はつねにこの場面で錯誤を含んでしまう。ここでは制作とりわけ自己制作にかかわる問題群を、自己組織システムから考察する。
ヒトが人間になっていくさいには、いくつかの決定的段階がある。約五万年前と推定される言語の獲得、自分自身を対象としてイメージする能力の獲得(ナルシス)、視点間の切り替え能力の獲得(そのホジティヴな形態がダイアローグであり、ネガティヴな形態が懐疑主義)、デカルト的自己意識(意識の意識)の獲得、ルネッサンス以降の近代人での極限化能力の獲得(極限の現世化)も、それぞれ決定的段階である。これらはいずれもヒトが人間になっていくさいの不連続なステップとなっている。もとより道具の制作は、いずれにも劣らないほどの決定的な段階であったと思われる。霊長類、類人猿で棒状の木や石を道具として使うことのできる種は存在する。丸棒を両手で回転させて観客を楽しませるクマもいる。だが高等哺乳類で、道具の作製にまで進んでいる種はないようである。ヒトが食料としているもののうち、八割は取ってそのまま食べることのできないものである。食料の採取とともに、道具の製作は進行し、同時に食性のモードも変えていることは事実である。
まず道具の製作のさい起きる事態を確認する。そして次に自己組織システムでの自己制作で生じる事態を検討する。ここに精神医学的に生じるさまざまな問題の場所がある。さらに言語の制作と運用にともない、何が起きるのかを考察する。ここでは言語の働きを、述定的記述や反省とは異なる働きとして考察する。言語は、感情を整えたり、記述的な物語化、あるいは記憶の整理、さらには自己対象化のような精神分析で用いられる働きとは異なる多くの働きをしている。そうした言語への感度を獲得するために、ここでは別様に言語システムに迫りたいと思っている。
1 物の制作に見られる機構
人間学のゲーレンによれば、物を作ることをつうじて同時に人間に出現した事態は、以下の二つである。(1)負担免除(機能代替)――たとえば手作業をスコップに置き換えることで、身体的負担を軽くしている。身体的作業の一部を、道具(制作物)へと移譲、代替する。このさい身体の働きも認知の働きも変化する。道具は、身体の外に出た身体類似物であるため、身体の動きはその範囲での身体体勢を常態とするようになる。さらに棒をつうじて地面の起伏を確認しながら歩くとき、手で感じ取っているのは、地面の凹凸であって、棒の振動ではない。棒をつうじて棒の先の地面を直接知るのであって、いわば道具は、認知の場面では認知の媒体としてそれじたいが透明となり、道具の先で環境を直接知覚する。これは認知の手段を一挙に拡大することを意味する。(2)過剰代替――たとえばスコップでの作業能力は、手の作業能力を大幅に上回り、コンピュータは計算能力だけでみれば、人間の計算能力を大幅に上回る。このとき(a)制作された道具の機能性に身体そのものが背伸びするように適応しなければならない。(b )そのため道具は身体の延長上ではなく、道具の機能性に応じて、身体そのものの作り変えがおのずと進行する。つまり道具の制作とともに人間はもはや身の丈にとどまることができなくなってしまっている。道具とともにある身体は、道具の機能性に特化して形成された身体であり、道具の機能水準に否応なく適合させられている身体である。[1]
さらにゲーレンから離れて、制作とともに進行する現実の理念化もしくは理念の現実化というプロセスがある。平らな面を作ろうとして、何度も凸凹を均していく作業を行っても、簡単に平面は実現できはしない。微妙な起伏を含めれば、物理的に平面を作ることはほぼ絶望的に困難である。しかし「平ら」が何であるかはその作業のなかで捉えられている。この捉えられているものを単独で取り出すと、それが「平ら」の意味となり、制作作業のなかで、実現できないがそれとして知られているものとして成立している。これはフッサールが『危機書』で鮮明に描いたことである。そして意味だけの世界を単独で構造化し、記号のネットワークとして取り出したものが、幾何学である。幾何学が、制作、測定の行為を母体にして生まれてきたことは、フッサールの言う通りである。[2]
幾何学の前史には、現実の極限状態を感覚的な事実の一歩先で捉えているという事態が成り立っている。現に実現されてはいないが、それがなんであるかをよく知っているというかたちで、いわば行為に組み込まれた意味の世界が出現している。この意味は制作行為にとっては、行為を方向付ける予期として働く。さらに幾何学の手前の意味の出現によって、現実のなかでの生活をつうじて、意味は身体行為とともに獲得される。たとえば平らが何であるかは、言語的な意味の習得に先立って、身体とともに体験をつうじて理解されている。たとえばデコボコの床で眠っているとき、よりなめらかであること、より平らであることが何であるかは、身体とともに体験され理解されているのであって、眼で見てはじめて知るようなことではない。
建築の出現とともに、身体行為や身体体勢とともに理解された意味は、生活をつうじて身体とともに伝承する。それは遺伝や言語的情報(ミーム)とは異なる回路で、いわば生活世界のさなかで継承される。遺伝とも言語・記号とも異なる仕組みで継承されるものがある。身体ならびに身体動作とともにある意味の出現は、建築の出現と同じほど古く、ほら穴を掘るような場面ですでに出現している。約二五〇〇年前になって、この意味を単独で取り出し普遍化させたとき、プラトンのイデアが登場した。イデアの単離は建築の出現から見てごく最近のことである。こうして道具の制作が、言語記号の出現とは独立に、固有の意味の領域を形成してしまったことがわかる。そして知覚の形成は、こうした身体的環境のなかで世代をつうじて継承されているのである。
かりに意識がつねに世界へと向かうものであるなら、すでに意識は世界を介して身の丈を超える状態へと入っており、身体が重力や大気へと向かい、みずからの作りだした道具に適合するのであれば、身体もつねに身の丈を超えてしまっている。人間にとって身体も意識も、制作を介して落ち着く先をすでにもてなくなっているのが実情だろうと思われる。物の制作は、つねに経験を身の丈を超えるところまでひっぱって行ってしまう。このとき意識は気づくことなく「意識緊張」状態に入っている。
2 自分を作る――あるいは見えないもの、見ることができないものを作る、あるいは作ろうとせずおのずと形成してしまう。
よい顔はどのようにして作られるか。シェリングは、「精神は人間に実現して顔となる」という。精神は頭のなかにあるようなものではなく、それじたい形をとって個体化し、具体化するものである。顔は眼と同様、自分自身からは見えない以上、それが何であるかを知ることなく作られている。自分自身から見えず、なにが作られているかもわからず、どのようにして作ったかもわからない。だがまぎれもなく作られているものがある。これは顔に限ったことではない。実は身体も身体動作も、さらには意識そのもの(活動としての意識)でさえも、それがなんであるかがわからず形成され、わかるとは別の仕方で形成されている。だが身体を動かすことも、動作を実行することも、意識を活用することもできる。
ここには「知る」と「できる」の間の構造的なギャップが含まれている。「できる」という広大な裾野にささえられて、ごく一部の「現実」だけが「知られる」だけである。そして「できる」という体験レベルで身体も意識も動作もおのずと作られている。知ることができるのは、作られた結果だけであり、意識は確定したもの、安定したもの、それとして距離化できるものを知ることを本分としている。そのためドイツ観念論期の美学者F.シュレーゲルは、対象として知られるものを「限定されたもの」と呼び、限定されるものに再度無限の可能性を回復すること、無限なものをそれとして感じ取ることのできる表現方法を考案しようと試行錯誤を繰り返した。[3] このとき必要になるのは、捉えられた現実が持続的な生成プロセスと並行するプロセスの部分的結果であるように、プロセスを捉えることである。このプロセスは、意識にとってもそれじたいでおのずと進行するものであり、たとえ特定の顔になりたいと意識の志向的努力を向けても、このプロセスは意識の意向に沿って進行するわけではない。そのため意識から見れば、なぜそのようになったのかがわからないまま、現実に起きてしまうのである。このできるという体験レベルで起こることを、現象学的に解明しようとしてもごくわずかなことしかわからない。すなわち生成プロセスもしくは生成しつづける制作にとって、意識はつねにすでに遅すぎるのである。
自己組織システムからみて、自分自身を形成するさいのいくつかのモードを取り出すことができる。自己組織システムの要点を確認しておく。このシステムはつねに生成プロセスにあり、内部に分岐を含み、時として新たな変数を獲得するように作動のモードを変える。これが相転移と呼ばれる。動きをつうじて一定の構造を維持している場合は、散逸構造(たとえば渦巻きや竜巻)である。これらの仕組みのいくつかをさらに複雑に活用することによって、自己制作のさまざまな事態をあかるみにだすことができる。心や脳神経系は、広範な可塑性を含む自己組織システムであり、自己そのものを生み出す自己制作システムである。ところが可塑性は、主体にとっても意識にとっても都合よく作動するわけではない。可塑性を含むが故の病理はある。また外的に見て創造、前進、経験拡張であっても、それじたいはしばしばすでに疲弊、後退、縮小ということもある。
第一にある能力の形成や出現にさいして、それを全面化するように経験の全域が再組織化される。これは健常者であっても、人間文化では視覚の詳細な能力が形成されると、一般に感覚・知覚能力の再編が起き、実はほとんどの人にとってすでに起きてしまっている。眼を閉じて眼前の置物を触ってみる。細かな形の起伏までわかる。そのとき触覚よりも、視覚的なイメージを想起しながら視覚イメージに対応する細部のかたちを視覚イメージのもとに配置して捉えている。この場合、触覚は視覚に従属するように働いており、視覚以前の触覚の固有性をもはや感じ取ることができなくなっている。発達障害(脳性麻痺)の患者ではきわめて頻繁にこうした事態が見られる。[4] 特定の能力が獲得されるのはそれじたいはひとつの治癒過程だが、それが前景化、全面化するように再編がおのずと進行すると、かえってそこから先の発達が困難になる。これは発達の自己限定とでも呼ぶべきモードである。このとき視覚優位の文化のなかで、人間はどれほどのものを失いどれほどの病理を抱え込んでいるかを思い起こしてみてほしい。
第二に経験にあらたな能力が形成されると、志向的な能力の使い分けが常態となる。これは経験を意識によって律する場面で、特定の観点や考え方のような視点として物事が捉えられるようになることを意味する。いわば経験そのものはそれとして進行するものであるにもかかわらず、つねに要約としての視点のような経験が自己理解されてしまう。この場合、物事を経験するのではなく、あらかじめ設定された視点からの「知る」ことに経験が縮減される。そうなると経験の進行は、みずからを培い、形成するのではなく、新たな観点から知ること、視点を切り替えること、新たな視点を獲得して物事の見方のレパートリを一つ増やすことが、経験の総体的な働きに代行されてしまう。そして教育の現場でも観点の獲得のような学習が広範囲に実施されている。
ところで現象学的な経験、とりわけ身体感覚や感情・情動にかかわる経験は、経験の感触をつかんでそれを可能な限り精密に記述していくと、やがて数週間後には、記述したもののさらに先の内奥の事象がおのずと感触として感じ分けられるようになってくる。現象学的な探究は、見えてきた事象を足場にして、さらにその先の別の事象が見えてくる。現象学的経験は、そうした仕組みでしか進まない。このことは現象学を自分自身で実行したものにはただちにわかるはずである。ここには視点の切り替えのようなものはまったくない。おのずと事象が出現しながら、なおさらに先まで見えてくる経験がある。それは身体や身体を含んだ体験的行為ではつねに起きていることであり、とりわけ触覚性の感じ取りではごく普通のことである。陶芸家は素材に触れる自分自身の感触を何度も形成しなおすはずであり、それによってはじめて見えてくる素材の現実がある。それは自分自身を再度差異化するような経験であって、多くの場合自分自身の感覚の内外の区分のなかに、さらに内外の区分が進行する。差異化とは、視覚的に捉えられた事物の違いを認識すること(分明)ではなく、経験のなかに細かな違いが出現してくることである。ドゥルーズが加速度のような感じ取りを強度と呼び、強度の変動を差異化の典型例としたのは、触覚性の運動を強調するためであった。[5]こうした経験を哲学が強調しなければならないほど、実際経験はなんらかの視点から知ることに代用されている。視点とは、制作され知られた結果に合わせて、制作プロセスを制作する開始点に圧縮し、要約したもののことである。
視点からの認知では、どちらの視点、どのような視点を取るかに経験が縮減されているために、「形成の余白」というようなものがなくなってしまう。経験の形成にさいして、新たに経験を獲得するさいには、半ば実行可能で、半ば失敗するような場面を通過する。自転車に乗る練習をするさいにも、半ば成功し半ば失敗するような場面を通過するはずである。発達心理学者のヴィゴツキーはこうした局面を「最近接領域」だと呼んだ。[6] 最近接領域こそ経験が形成される現場そのものであり、そこには個々の課題に対して多くの選択肢が含まれており、試行錯誤がもっとも豊かな成果をもたらしうる場面である。ところが視点から知ることが前景化してしまうと、明示化されたなんらかの視点を取り、そこから物事を対象として要約することが一足飛びに進行してしまう。こうなると試行錯誤の余地はなく、また行為選択の機会が、個々の視点の選択に代用されてしまう。この場合、おのずと形成されるはずの経験や経験の自己は、要約された知のなかで自分自身によってあらかじめ作りつけになったものを選択するだけである。このとき自己制作はすでに身構えたものとなっており、身構えた自己像に自分自身を適合させていることになる。これは発達の単純化のモードであり、自己制作はすでに作りつけになったものからのたんなる選択となる。
第三に能力、技能の開発において、課題となっているものに対して実は異なる受け取りをしてしまうことがある。人間の心や脳神経が多並行分散系であるかぎり、どの能力が起動するかはあらかじめ決まっているわけではない。たとえば鉄棒の逆上がりの練習の場面で、予期としての身体感覚ではなく、恐怖感や緊張感で現実を捉えてしまうことがある。感情や緊張感は、意識経験の広範な場面に同時に出現しており、この場合物事を認知的にではなく、感情、情動、痛みのような別の働きで捉えてしまうことになる。つまりこの人にとっては別の現実が出現しており、それにすでに対応してしまっている。この場合、その人の経験には構造的なズレとでも呼ぶべきものが生じ、それが進行しつづければもはや接点のないところまで行ってしまう。コンラートが統合失調症のモードとして、世界全体のなかに固有の歪みが生じ、視点の切り替え可能性が失われてしまう局面をアポフェニー期と呼んだ。[7] それに近い事態が出現して、いわば別の経験の仕方があることは知っていても、それがどうすることなのかがわからない状態となる。あるいは確信となった現実に対して、そうではないと言われてもそれじたいは理解はできるにもかかわらず、なにひとつ経験の変わらない場面が出現してしまう。理解からの訂正可能性が届かないような局面である。これは経験の異形成のモードである。
心や脳神経系は、自己組織システムの本性を備える限り広範な可塑性をもつが、この可塑性は意識にとって、あるいはその人の主体性にとってもっとも望ましいように作動するわけではない。むしろシステムの本性からして、システムの作動の維持にもっとも好都合のようにしか作動しない。そのため可塑性を含むシステムでは、広範な停滞、広範な単純化、広範な逸脱のように独特のモードが出現する。その結果として制作された自己は、本人自身にとっても否応のないものとなる。たとえばあせりを含いんだまま時間だけが進行してしまうような「思うようにならなさ」(対応不全)、本人はすべてはわかっていると思っているにもかかわらず、周囲からは結局なにも分からない人だと思われている事態に対して、どうしたらよいのかまったく対応の手だてが見つからないこと(経験の切り替え不全)、自分では全力で対応しているはずであるのに、誰もそのことを理解してくれる気配がなく、それに対して最大限対応しても、より理解されないほうへと進んでしまう(自分だけの自足)。システムの本性から見て、これらの事態は本人の必死の努力の結末であり、たとえ不本意であっても自己制作の成果である。
意識の制御の届かないシステムの自己制作に対して、経験的にとりうる手だては、制御のための予期をもつことである。それは意識の本性上、予期としての自己イメージをもつことでもある。掛け値なしの自分自身の顔は一度も見たことがないにもかかわらず、それについては見て知るとは別の仕方でよく知っている。そのため写真を見て、それは写りが良いとか悪いとか、ただちに直観的に判断できる。この見て知るとは別の仕方でよく知っている場面が、「遂行的イメージ」である。この場合、対象として知るためにイメージを活用しているのではなく、むしろ進行してしまうプロセスのさなかで、自分自身の手掛かりを得ているというのに近い。生成プロセスは当人にとっては行為遂行のさなかにあり続けることである。この遂行の手掛かりを自分自身に獲得している場面が、イメージである。
一般にイメージは、感覚・知覚と対比され、感覚・知覚のように現実を捉えるのではなく、フィクションとして像を形成する場面でおさえられることがほとんどである。多くの場合、知覚が知の基準となり、知覚に対しての異同でイメージを捉えるのである。このイメージの作用は、伝統的には「構想力」と呼ばれるものの一部であり、大半は象徴作用である。[8]こうなればイメージは認識論の枠の中で配置があたえられるだけである。だがイメージは、作られた対象像に解消できず、また像を作る作用にも解消できない。それ以上に、顔や身体や動作、さらには行為の遂行につねにともなっているのである。しかもこのイメージは、行為遂行そのものによって形成される自己制作と一致することは稀なのである。
問題はその先である。プロセスとしての行為遂行は、意図や意志もしくは予期にそのまま応じてくれるわけではない。つまり維持されているイメージと、行為遂行をつうじて形成されたものが折り合わせることが困難なほど隔たってしまうことがある。これは身体についても起こり、デパートの洋服売り場で自分に似合うはずだと思って試着してみると、まったく体形にも自分自身の雰囲気にもあっていないことがある。自己イメージは、ある種の自分自身の願望や自分への予期を投影した姿に対応している。この場合イメージと作られた結果とが不具合になってしまっている。
さらに活動としての意識の作動モードが、自己イメージと不具合になってしまっていることがある。この不具合の度合いが軽微であれば、各種「人格障害」となる。たとえば自分自身が立派な人間とかかわりあい、また立派な扱いを受けることがふさわしいと自己イメージを作っておきながら、まさにそのことによって意識の作動の範囲も、作動の柔軟さも失い、人間関係の上で問題ばかり引き起こすものが一定頻度で出現する。一般にこれは「自己愛性人格障害」と呼ばれ、三歳ぐらいまでの母親との関係がうまく作れなかった場合に多く出現するようである。母親に愛され認められるべき人間へと自己イメージを作ろうとする潜在的努力が、結局のところ自己に対して外側からの枠になってしまい、自己はつねに強制された形で特定の人間へと向かおうとする。そして誰からも相手にされないほどの不適合が生じる。自己イメージと行為遂行が調整できないほど隔たってしまっているために、そこから一切の現実を自己イメージ適合的に解釈すれば、この解釈はいくぶんか妄想を帯びる。これは、どの職場にも一、二名いそうなタイプである。
だがイメージは、行為遂行にとっては本来行為プロセスへの手掛かりをあたえるものであり、イメージによって有効な行為を導きうるはずである。たとえば意識が散漫で意識の集中が弱っているときには、鏡に映っている自分をイメージし、そこから自分の顔を消す。さらに眼も消して、鏡の向こうからやってくるまなざしだけにしてみる。鏡の背後から自分を見ているまなざしをイメージするのである。このことによって意識は向かう先に焦点をもつことで、意識そのもののまとまりを獲得できる。この鏡の向こうからやってくるまなざしは、ラカンが対象aと呼んだものの一つのヴァージョンである。対象aは、意識そのものにとっての意識の遂行的イメージである。
プロセスとしての自己制作の特質として、自己が何であるかを知ることはできない。そのとき生成プロセスのなかで自己イメージが、一般に行為遂行の手掛かりとして獲得される。生成プロセスで制作された自己と自己イメージは不断に二重化している。そしてここにさまざまな問題が出現するというのが実情である。
3 言語的表現とともにある制作
言語による制作は、いったいどのような事態をもたらすのか。言語はそれじたいで物品や道具のような身体負荷の免除にはかかわっていない。だが何かの負荷免除(少なくとも記憶の負担免除)やコミュニケーション・コストの負担免除はあるに違いない。ソシュールの言語機能の分類では、伝達、喚起、表出、述定がある。こうした言語の機能性とは別に、言語的制作が経験にとって何をもたらすのか、さらには経験の形成にどのように関与するのかを問うてみたい。[9] 誰にとっても言語は、気づかない間に身についてしまっている。言語の習得をつうじて、意識、経験、身体はいずれも言語の習得以前に戻ることができないほど再編されている。この再編は、自己組織的なプロセスを経て相転移が起きるほどのものだが、あまりにも大規模に起きているために、現在の人間の知見や経験科学的知識では、この相転移の内実を探求することは困難である。つまり誰にとっても言語を習得する以前の自己が何であったのかを思い描くことは困難である。言語がシステムとして人間の経験に入り込んできて以降、何が起きるのかを事柄として取り出しておきたい。これは言語システムの活動が同時に何を生み出してしまうかにかかわっている。この場合は制作と言っても、システム複合のなかで生み出されてしまうような産物もしくは成果にかかわっている。しかもここでは手掛かりとしての予期とは異なる事態が出現し、それがなんであるかが本人にとっても測りきれないのである。言語は「密な間接性」で決定的な働きをしていることになる。密な間接性とは、複雑なシステムで起こりうる関係性の総称で、この語の曖昧さは、既存の関係のカテゴリーを用いたのでは、現実の事態に対してまったく不足してしまうことの代償である。[10]
言語は身体にとってもともと疎遠である。だが言語が語られている環境内で身体行為も動作も形成されるのだから、影響がないはずはない。言語そのものの機能性とは別に、身体にどのようにかかわっているかを考察したい。第一にたとえばスキーの初級者でボーゲンが曲りなりにできるようになった頃、自分の身体制御、身体各部位の状態についてできるだけ細かく言語で記述してみる。膝、足首、腰、上体その他あらゆる身体部位に対して語れるだけ語ってみるのである。するとその後ずっとなめらかにすべることができるようになるようである。言語は身体行為のような疎遠なものまで組織化の度合を変える。自分のおこなうことのできる動作に細かな注意を向け、それによって組織化の度合を変えるのである。この場合言語的記述をつうじて、まず身体部位に身体そのものが感じ取ることとは異なる物差しで、注意を向けるという事態が生じている。
身体は通常個々の部分に細かな注意を向けないまま作動する。あるいは個々の身体部位に説明的なまなざしを向けてしまえば、まさにそのことによって身体は動かなくなる。いま歩行という自分の行っている動作を克明に記述してみる。「右足を前に出し、同時に左手を前に出し、それとともに体幹の重心を移動させ、次に後ろに残った左足を蹴り、同時に前に出ている左手を引き、逆に右手を引いて、重心を右足に乗せ、股間節での左右移動を行う。」こんなふうに書き出してみると、呆れるようなことしか書きだすことができないことがわかる。それどころかこの記述にしたがって身体を動かそうとすると、とても歩行することはできない。つまり言語的な意味内容から歩行という体験的行為が獲得されたのではないという事実とは別に、どのように詳細に言語的記述を詰めてみても、言語の仕組みから見て、歩行や動作とは異なることが描かれてしまう。これは言語的記述と身体動作の間に構造的なギャップがあることを意味する。
通常身体動作訓練を行うさい、動作の時系列的な説明記述は行わず、必要だと思われる身体部位についての助言をあたえるだけである。たとえば右膝を意識するようにとか、左の踵に注意を残すようにとかである。それだけでも動作の滑らかさがまったく変わってしまうことがある。そして言語的な指示という点では、そうした指示しかだせないのである。身体動作に対して、記述的な説明の言語はまったくすれ違ってしまう。
それでは自分自身の身体に対して、言語的な記述をあたえるさいにはいったい何が起きているのか。一般に身体はダンサーのような訓練を積まない限り、体性感覚的な細かな感じ取りを各部位に向けることができない。そのため言語記述は、身体に注意を向けるさいのもっとも活用しやすい手掛かりであることになる。言語で記述したことが当たっているかどうかではなく、ともかくそこに言葉を向けてみることが必要となる。
身体に対しては、その内感的な感じ取りは動作に直接調整機能をあたえる。力の籠め具合、抜き具合、バランス保持の感覚のように調整能力をあたえる。だが言語が直接そうした働きをするとは思えない。すると言語による記述は、身体内感による調整的組織化とは異なる回路で、身体動作の組織化を促していることになる。身体は若い間のごく短い時期を除き、それほど融通が効くわけではない。一般に身体の制御については、誰にとっても変数が足りていない状態である。動物であればそれでもよい。一生の間ほとんど動作のモードは変わらないからである。ところが制作された道具を用いた動作は、つねに身体の可能性を引き出し、新たな行為のモードへと進むように促してしまう。このとき手掛かりを身体の外に増やしておくというのが実情だと思われる。すなわち身体動作の対照項として、言語的ネットワークを導入することをつうじて、システムを複合連動系とすることである。
発達障害児に対して、認知運動療法(ピサのグループ、プッチーニら)が治療を行うさいに、患者が一歳未満であっても、延々と言葉を語りながら治療を続けている。しかも幼児語を語っているのではない。[11] 保護者が、傍らで言葉はまだ通じませんと言っても、言葉を語り続ける。ここには言語を語りながら、訓練のための課題を設定することが、脳神経系の形成にとって有効であるという確信がある。もちろん言語が身に付くことはなく、言語的な対応を要求しているのでもない。だが言語を語り続けることによって、脳神経系に身体、認知を含んだエクササイズを課すさいに、補助機構として、言語を連動系とするように動かし続けるのである。言語的発話が可能になるためには、健常幼児でも一年近く必要である。だがこれは運動性の発語能力の形成が必要なためで、語の分節や意図の感じ取りはずっと早く、生後4ヶ月‐6ヶ月程度でも可能になっているという指摘がある。言語的規則は、諸感覚の働き、とりわけ内感領域の分節に共作動していると考えられる。内感領域は、痛み、快-不快のように見て知るとは異なる仕方で感じ取られており、それじたいは容易には分節しない。内感領域の分節そのものに言語が関与しているのだとすると、言語とともに進行する経験の形成があることになる。
第二に身体の可能性をさらに引き出そうとするとき、言語を動作形成のさらに誘導的な手掛かりとするために、いわば言語を比喩的剰余として活用することができる。つまり現実にはほぼありえない事態を言語的に設定し、それをつうじていわば経験を誘発するのである。立ったまま踵を持ち上げる姿勢を訓練しようとするとき、ただ重心を上げるだけでは、これは足首周辺の筋力トレーニングである。ところが宙に浮かぶように身体を持ち上げようとする課題を設定してみる。いまにも飛び出しそうな身体と、ただ持ち上げたけの身体はまったく異なったものである。宙に浮かぶようにするためには、イメージを持たなければならない。そのさいに活用されるのが、比喩的表現である。踵と床の間に青空を感じ取るというようなイメージを持ちながら動作を行うのである。
身体動作の拡張のために比喩を多用した典型例が、土方巽である。[12] これも言語表現をつうじた動作制作の一つのモードである。たとえば身体そのものから力を抜き、一切の作為を取り去ってそれでもなお立ち続けている身体を想定してみる。力を抜きなさいという言語的、説明的な指示は、ひとあたり力を抜いた後ではどうすることなのかがわからない。そのとき身体の外にさらに誘導するようにイメージを入れていくのである。それが「灰柱」である。いっさいが燃え尽きてなお灰だけが柱状に残っている。その状態をイメージしながら身体から力を抜き、そのままの状態を維持して歩行するのである。それが「灰柱の歩行」である。いわば崩れながら、浮き上がり、方向性をもたない歩行である。歩行一般のなかには、すでに目的合理性(どこかへと行く)や環境への適応(重力に抗すること)等が入り込んでいて、歩行という動作でさえ、多くの可能性を活用できないままになっている。灰柱のようなイメージは特定の状態を表わすのではないが、くっきりと具体的な像をもち、しかも一瞬にして消えていくような情感をともなっている。それはいまにもくずれそうでかろうじて形を維持しているようなものの原型と呼べるほど、くっきりとしている。それが行為誘導イメージである。経験にとってそれがさらに制作されていくようにイメージを活用するのである。
姿勢を作るさいには、頭の位置を決めることから始めなければならない。そのさいには、「頭上の水盤」が活用される。頭の上に、水の入った盤が置かれているとイメージしよう。すると顎を引き、首筋の中心線を確保する身体動作がおのずと形成される。これは立っているさいの軸を作るエクササイズとなる。さらに前を見ている状態では、まなざし(視線)が過度に前方に働いている。人間の場合、視覚に圧倒的に依存しながら身体制御を行っており、これに慣れ切ってしまっている。姿勢に対して、まなざしを中立化するためには、額の真中に眼が一つだけ付いているとイメージしてみる。要するに両方の眼を額の真中に集めてみるのである。すると頭の後ろ側から自分を見ているまなざしが出現する。これによって前方を向いているだけのまなざしを中立化することができる。また身体動作でやたらに関節に力を籠めて、関節だけが経験の前面に出てしまうことがある。このときには関節がクモの糸で張り出されたネットワークにひっかかっているような状態をイメージしてみる。これが「クモの巣の関節」というイメージである。これらの比喩はいずれも身体体勢を獲得するために、経験のプロセスの外に手掛かりとしてのイメージを作ることである。これらの比喩は実は、経験にとっての誘惑である。こうした比喩表現は、感情病関連でももっと開発されて良いと思われる。つまり精神分析に対しても、別の言語機能の活用の回路を示唆している。
経験そのものを動かすさいに、何であるかを経験的に決めることができないような語をイメージとして活用することがある。人間の作り出した言語のなかには、存在、世界、超越、無、精神のように経験的に調べ上げてもそれが何であるかを確定できないようなものがある。そのため記号論から用語を借りて、これらを「超越論的シニフィエ」と呼んでいる。こうした語が人間の言語に含まれているために、哲学が終わらないのである。ある意味では、哲学はこうした語を、経験を動かすためのイメージとして活用するさいの用法の開発、制作の歴史だったと考えることもできる。だが哲学は多くの場合、これらの語の日常語による夥しいほどの言い換えを作成し、なにか物事の本質を掴んだかのように思い込むのである。
第三に経験にかたちをあたえるさいに、ともかく経験を閉じさせるために言語を活用するという仕方がある。舞踏家の大野一雄が土方巽と舞台共演のために、三週間程度共同での稽古をやっているとき、相互に盗めるものはすべて盗み、舞台の作りに別段異論がなくても、どこかの段階であらゆることを言葉にして語り明かしてみるという段階が必要だと述べている。[13] たとえば仕込み稽古のなかでお互いすべてを理解していても、なお一晩あらゆることを言語化してみるという局面を通過しなければ前に進みにくいという段階があるようである。これは身体表現ばかり行い、言葉を用いていないので、一気に言葉を使ってみるということとは事態が異なる。それであれば一日中授業を聞いていた学生が、帰り道に際限なくおしゃべりをすることに似ている。むしろ身体表現に対して並行する言語系によって、経験にかたちをあたえ区切りをつけるのに近い。
経験は、境界を形成し、そのことによってみずからを閉じるという局面を経なければそれ以上前に進めないことがある。これはさまざまな試行錯誤を整理するための言語による統合ではなく、また言語的表記によって経験の容量を圧縮することでもない。可能な限りの試行錯誤を経たのち、それ以上詳細に経験を形成するためには、外枠としての言語表記を制作し、みずから閉じてみるのである。閉じるということは経験の内外区分を行い、さらに分節できる場所を確保することである。経験が前に進むためには、あるいは停滞した経験を変容させるためには、別の視点を採用したり学んだりするのではなく、おのずとみずからを閉じることが必要である。視点の獲得程度では、その視点はいつ捨ててもよいのだから実は経験はなにひとつ変わりはしない。この閉じるという経験に行為のために、言語的表記はまたとない技法をあたえてくれる。
こうして言語システムの別様の働きがいくぶんか明らかになってきたように思う。それらは経験を前にすすめるためのいくつかの技法にかかわっている。注意の焦点を変えて経験の全域を再編し、それによって自己制作のキメを更新すること、経験の一歩先にイメージを置き経験を誘導し、自己制作をみずから誘惑すること、そしてあらゆる言語を総動員してみずからを閉じ、それによって自己制作の出現する場所を開いていくことである。この閉じるという感触がつかめるようになれば、それぞれの既存の知識に対して、経験はすでに一歩前に進んでいるはずである。
注
1、 ゲーレン『技術時代の魂の危機:産業社会における人間学的診断』(平野具男訳、法政大学出版局、一九八六年)
2、フッサール『ヨーロッパ諸科学の危機と先験的現象学』世界の名著51(細谷恒夫訳、中央公論社、一九七〇年)参照。
3、シュレーゲル「哲学の発展――意識の理論としての心理学」『シュレーゲル兄弟』(松田隆之他訳、国書刊行会、一九九〇年)所収。
4、人見眞理「発達の可能性」河本英夫編著『リハビリテーション――人間再生の技法』(誠信書房、二〇〇八年)所収。
5、ドゥルーズが強度を示すさいにもっとも頻繁に活用したのが変化率であり、変化の度合いに対しては、それが何であるかを知る以前になんらかの対応をとってしまっている。ここに触覚性の運動がある。さらにドゥルーズ、ガタリの最近の検討として、小泉義之他編『ドゥルーズ/ガタリの現在』(平凡社、二〇〇八年)参照。
6、ヴィゴツキー『「発達の最近接領域」の理論』(土井捷三、神谷栄治訳、三学出版、二〇〇三年)
7、コンラート『分裂病のはじまり』(山口直彦、安克昌、中井久夫訳、岩崎学術出版社、一九九四年)
8、サルトル『想像力について』(平井啓之訳、人文書院、一九五五年)が典型例であり、知覚(テオリア)のなかにイメージを配置する議論となっている。
9、言語システム、とりわけソシュールに関連する言語システムについては、河本英夫「言語システム」『思想』(岩波書店、二〇〇七年一ニ月)一七九-九三頁参照。
10、この語じたいは、荒川修作、マドリン・ギンズ『死ぬのは法律違反です』(河本英夫、稲垣諭訳、春秋社、二〇〇七年) ことに11、12章参照。
11、プッシーニ、ペルフェッティ『子どもの発達と認知運動療法』(宮本省三・沖田一彦監訳、小池美納・松葉包宣訳、協同医書出版、二〇〇〇年)
12、三上賀代『器としての身骨豊――土方巽・暗黒舞踏技法へのアプローチ』(ANZ社、一九九三年)また最新の土方巽研究としては、稲田奈緒美『土方巽 絶後の身体』(NHK出版、二〇〇八年)参照。
13、大野一雄『稽古の言葉』(フィルムアート社、一九九七年)参照。