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発達論の難題

河本英夫

発達の段階論を考えるさいには、個々の発達の局面を観察をつうじて細かく記述していく方法が採用される。実際、そうした観察の蓄積は膨大な量に上っている。そして観察事実から見る限り、いくつか不連続とも思えるような変化があることも確認されている。発達を時系列でおさえて特徴を取り出してみる。生後2ヶ月目で、それまで栄養補給に全力を上げ、それ以外の時間は眠り続けていた乳児システムは、母親へ微笑を向けたり、周囲のものへの差異をともなう関心を示し始める。また生後9ヶ月目で能動的な周囲へのかかわりが出現し、動作や行為はオーダーを更新して一挙に多様になる。そのため語呂合わせで、それぞれ「二か月革命」と「九か月革命」と呼ばれてもいる。時系列的に比較的はっきりとした特徴のでる質的変化の系列は、観察者から見た時間軸での指標を取り出したものである。[1]それぞれの局面では、乳幼児というシステムそのものの再編と変貌を含んでいる。そこにはそれまで見られなかった能力の出現が見られる、ということになる。こうした観察ではおよそ誰にとっても明白な変化が取り出されている。そのため経験科学的な区分となる。
そこに問題があるわけではない。問題があるとすれば、そこから先である。そうした経験そのものの再編を含むような変化を考察するためには、経験の再編と組織化がどのような仕組みで起きているのか、またそのことはたとえば能力の開発形成の誘導を行う発達障害児の治療で、どのような介入の仕方を可能にするのかという問である。前者の問では、発達ということが可能となるような仕組みを再考し、再度どのような構想が可能かを吟味してみなければならない。そのさい発達は、何の発達なのかという一見自明に見える問が再度焦点となってくる。ピアジェでは、感覚運動制御、さらには世界への操作的制御によるかかわりのモードの形成が、発達論の主題となる。また精神分析医のスターンでは、それとして感じ取られているまとまりとしての「自己」の形成が、発達論の主題となる。発達は、たんなる加齢とも一般的な意味での身体の成長とも異なるはずである。そうであれば、発達とは何の変化のなかのという問が再度前景化する。一言で言えば、それに相当するのが「能力の形成」である。だが個々の経験と能力は別のものであり、個々の経験から能力がどのようにして形成されるのかという難題が、さらにその先に待ちかまえている。発達段階論は、発達論の重要な課題だが、発達段階論だけで単独に成立する課題ではない。そのため本稿では、発達論全般の議論のなかで、発達段階論に焦点を絞ることにする。ある意味で発達段階論は、図式的な発達論の派生的な問題なのである。
発達論も発達段階論も、個別的事実は際限なく増大するものの、理論的には明確に立論しにくいほどの道具立ての不足につきまとわれている。圧倒的に何かが足りていないというのが現状だと思われる。実際、何が足りていないのか不明なほどである。発達論、発達段階論は、そこから検討しておかなければならない事象であり、課題である。まず発達論の難題がどこにあるのかを検討する。さらに神経系の再編の仕組みをモデルとすることで、新たな道具立てを提示することにしたい。また発達障害児に対してどのような能力の形成がありうるのかについて、重度発達障害児の事例を取りながら、発達障害児への治療的介入に含まれる発達そのものの難題を取りだしてみる。

1 発達論の諸問題

発達論を難題にしている基本項目を取り出してみる。第一に、発達する乳幼児そのもの(システム、以下同様)では何が起きているのかという問題がある。発達段階論は、観察者が明確に区分できるものを取り出すことによって成立している。そこに不連続なほどの形成段階があるというように取り出すのは、やはり観察者である。9か月頃、システムには環境世界への積極的、能動的なかかわりがはっきりと見られるが、このときシステムそのものには何が起きているのか、という問題である。少なくともシステムは自分自身で革命的な変化が起きたと感じているはずもなく、不連続な展開があったと感じているとも思えない。
このタイプの問題の基本形は、ヘーゲルの『精神現象学』の「諸論」に出てくる。この著作は、緒論から始まり、議論の途中で構想が変わり、当初の構想の三倍ほどの分量となって、冒頭に配置された「序文」が最後に書かれて終わっている。そのため一般に序文と呼ばれているものが二種類含まれている。この最初の序文に相当する「緒論」で、いわゆる「意識の命題」と呼ばれるものが提示されている。意識的認識は、意識にとっての「対象」と「そのもの自体」を区分する。意識的認識が捉えている対象は、認識がそのように捉えているものにすぎない。そのとき同時にそれ自体ではどのようになっているかという面を区分しながら認識は進む。認識対象とそれ自体との区分は、本来意識が行っていることであり、認識ということに本性的に内在している。これが「意識の命題」と呼ばれるものである。[2]つまり対象を捉えるさいに、これは観察者が捉えた認識対象という一面にすぎないことにどこかで気付きながら、認識対象ではなく「それ自体」ではどのようになっているのかという問を内在させてしまう。それが意識的認識の本性であり、これがあるために意識的認識は、どんどんと認識そのものを訂正し、いわば高まっていく。このプロセスが、『精神現象学』での精神の自己形成に相当し、発達のモデルの一つを提供している。
ところで意識的認識における対象認識とそれ自体とのギャップは解決されることがあるのだろうか。ヘーゲルのなかでは、対象そのものが形成され、高まり、それじたいで認識主体となって、みずから自身で認識を行うようになる。きわめて大雑把に整理すれば、それについての意識的認識は、認識対象とまさに認識そのものを共有し、認識の形成を共有する局面へと進んで行く。このとき意識的認識を行うものと、認識されるものが合致し、一つのものとなる。ここに経験の最終局面である精神が登場する。だがこうした仕方では、精神より以前の段階にあっては、ほとんどの場合、認識対象とそれ自体は分離したままである。つまり発達段階論については、精神の出現以前には、ただ観察者がそう言っているにすぎないという事態が生じる。

1 発達とは意識の錯誤か

ヘーゲルの『精神現象学』は、一般人が哲学者にふさわしい知的能力を形成するためのエクササイズを取り集めたものである。誰であれ、『精神現象学』の経験の工程をたどれば、哲学者として開始できる出発点に立つことができる。またそのように組み立てられている。そこには精神の自己鍛錬の道筋が貫いている。それは初級認識が自己吟味を繰り返して、精神の最高の局面まで到達するようなエクササイズの道程であり、精神がみずからを形成し高めていくプロセスでもある。ここには精神の自己発展の多くの仕組みが込められている。だがそれは主として「意識」を活用した自己陶冶である。まずここから検討を開始する。この著作は、思考訓練を行うにあたって、誰であれ一度は取り組んでみるだけの価値はある。そこで活用されているのは、意識による認識をつうじて、在るもの(真)とたんなる意識の対象(偽)の区別が起きることである。この区別さえあれば、意識は自分の認識の吟味を行うことができる。この区別が起きることが意識の本性であり、一般的に言えば、これはヘーゲルによる「意識の定義」である。それほど難しいことが言われているわけではない。たとえば眼前に石を見る。石の特徴は観察者が判別したものである。ところが石は、まさにそれじたいで石である。観察者のおかげで石になったわけではない。観察は石の特徴をいくぶんか詳細に取り出しているだけである。意識が観察する際には、意識によってそう捉えられているだけという面(対象的規定)と、そのもの自体でどのようになっているかという面(真もしくは存在)とがつねに分かれてしまう。この別れ方が、感覚、知覚、悟性、理性では異なったモードとなる。対象的規定とそのもの自体との間で吟味を繰り返すことで、感覚的確信、知覚、悟性、自己意識、理性、精神と進んでいく意識の上昇のプロセスを進むことができる。このプロセスの総体が、「意識の経験の学」(『精神現象学』の当初の標題)と呼ばれるものである。
「感覚的確信」の項目を見てみる。眼前に庭があり、分厚い緑があり、その先にコンクリートの車庫がある。この直接目の前にあることがすべての経験の始まりである。これはどこにも疑わしさなどない感覚的確信である。それぞれの対象はこのものであり、まさにそこにあり、それを見ているのはただのこの人である。「このもの」はそこにあり、あるということは知を介さなくてもあり、他方知は対象の知であるから、対象によってはじめて知はそれとして成立する。ところでこのものとは何であるかを問うてみる。すでに確信しているものをどうやって問うのだろう。問えるとすれば、「このもの」の内実ではなく身分を問うのである。疑いようのない内実は問いようがない。だがこれという身分を問うことはできる。そのときこのものの「いま」「ここ」を、このものの特質だと考えてみる。感覚的確信は、いま、ここの確信だからである。「いま」の内容は、夜がやがて昼になるようにそのつど移行くが、その移行きにあっても「いま」という事態は持続している。この持続があるからこそ、内容が刻々と移り変わったことがわかる。そこで「いま」は、夜や昼になることのできる単一のものである。こうしたものが「一般的存在」であり、感覚的確信の真(存在)である。通常の印象では、こうした議論は無理やりなこじつけにしか思えない。「いま」という言葉は、それが言葉である限り、どこまでも一般的な「いま」しか表現できない。それが言葉の特権であり、宿命だからである。個々の感覚的内容に較べて、「いま」という規定は、ほとんど届かないただの言葉である。この語には、一般的な過去でも未来でもない一般的な現在の局面という意味と、まさにこのいまという二つの内容が含まれていて、前者が対比的に規定される「いま」であり、後者があるまとまりをもったそれとしてある「いま」である。そしてヘーゲルは、一般化されうる言葉の方を真理だというのである。こうした箇所が概念操作に見える局面である。
少し一般的に言いなおしてみる。どのような経験であれ、直接あたえられるものから出発する以外にはない。直接あたえられるものの論理的身分が、「措定(設定)」であり、形式的にはこれが最初の定立(テーゼ)となる。これは意識の自己にとっての最初の自己の出現であり、原則この場合意識には、措定の意識も定立の意識もない。そのため意識の自然状態だと言われる。ただし措定ではそれとして認識されていることが必要であり、そのため表象となっていなければならない。意識をつうじた直接的吟味ができるのは、表象からである。表象の論理的特質は、いまだどこにも区別がなく、まさに区別がないことによって直接的であるような同等性のことである。吟味を介して、この同等性は実は思いこまれたもの、すなわち想定されたものであることがわかる。そして意識は、みずからで想定をあたえているものであることに気づくのである。このことをつうじて意識は、みずからあたえた規定に対して、区別された意識経験の自己を措定する。すなわち反省を行うのである。ここで意識の自己と対象との不等性が出現して、同時に当初の自己同等性に対して解体が進む。この自己不当性の出現が、おしなべて「否定」と呼ばれるものである。だが否定は当面肯定の無限補集合であるため、否定の内実はそのつど変わっていく。
否定性が意識の経験に入って以降、どのように直接的、自己同等的に捉えられるものも、実は不等性に対して自己を限定づける関連のうちで成立しており、それは他の存在を自分のうちでもつかぎりでの同等性である。他の存在との否定的関係で自己を捉えることが、「反省」である。反省は、自己同等性と他の存在との間の運動を行うことであり、自我と対象との対立をもたらす運動ともなる。この段階で反定立の局面に入っている。ところで対象性に自己自身が見出される段階に入ると、他の存在のなかに自己が発見されて、そのことがとりもなおさず自己への還帰となる。こうしてみずから他となりながら、そうなることをみずから自身と「媒介」するような運動が生じる。自己同等性が解体されたときの否定がさらに否定されて、みずからの再興が生じ、自己同等性が再度確保されるのである。こうしたプロセスの成果として出現するのが、再度確保される「真」である。この生成には、各局面での変化とその成果の保存(止揚)が含まれており、この運動は自己自身へと帰っていく反省とも呼ばれる。この反省のなかで、自分自身を実現する自己が、まさに経験の「主体」と呼ばれるものである。
こうした経験の進展には、いくつかの疑問が残る。(1)意識の吟味をつうじて偽だと判明しても、偽だからと言って、それを放棄して次の認識の局面へと進んでいくことができるわけではない。一方ではある観点から偽であることはわかってはいるが、それにもかかわらず他方ではそれは紛れもない確信だとするある種の固着は広く見られる。こうした局面では、視点を切り替える程度では何も変わらないことがほとんどである。つまり真偽の吟味から、ただちに経験の形成のプロセスを進んでいくことができるわけではない。たとえば真偽の判定が微妙なときには、真とも偽とも明確にならない場面を通過するはずである。このとき主体は、問題に直面している。ヘーゲルの記述のなかでは、問題は真か偽かを知ることである。だが真偽の判定の物差しは、この意識の経験の外にはない。するとそのつど真偽は吟味のプロセスのなかで選択されながら、前に進んでいくよりない。この選択は一つの行為としてなされるのであって、意識の知る働き(あるいは真偽の区別)とは、別の働きである。ヘーゲルでは、偽であると知るさいの否定の働きが、経験そのものに組み込まれるように描かれている。それが止揚というキータームである。だがこれは経験の局面を取り違えているように見える。対象に否定的にかかわる経験が、内的に組み込まれ経験そのものが組織化されるのではない。選択のさいに試行錯誤を実行することをつうじて、そのさなかに経験はまるで別の変数が獲得されるように自己組織化されると考えられる。真偽の判定という自己反省から、経験が形成されることはありえず、たとえ真偽の判定に直面した場合でも、そのさいの選択の行為から経験は形成される。
(2)個々の場面で選択が行われるさいに、まさに一つの選択を行うことによって、経験の組織化が起こると考えられる。この経験の組織化にも意識が深く関与している。経験の組織化そのものも、知るとは異なる働きである。選択を行い経験が次の局面へと進むとき、意識はそれに巻き込まれ、到達点では意識は何が起きたのかを部分的に知ることができる。だが局面の変化そのもののなかを移行していく意識は、そこで何が起きたかを知りようがないのである。つまり経験の組織化は、みずからにとって何が起きたかを知りようがなく、自覚的に知ると言う状態を維持しながら、意識がみずからのモードを高めていくことはありえないことである。このことはヘーゲルの記述が、あらかじめ意識の経験の到達先を観察者は知っており、その観察者によって割り当てられた到達地点に結果として到達するように構想されているという問題に関連している。通常これはヘーゲルの議論が目的論だということで、批判される箇所である。だが目的論の問題がどこにあるかは、明示した方が良い。それはヘーゲルに対抗して、意識の多元論を立てる場合でも同じ問題が起こるからである。経験が形成されるさいに、より高次なものであろうが、より多様なものであろうが、そこへと向かうように経験は形成されるわけではない。結果としてどこかへ向かっていくように判別するのは、観察者である。ところが観察者が判定している時系列的プロセスは、経験の形成のプロセスとは異なっている可能性が高い。そしてこれはすべての発達論に出現してしまう難題である。みずから感じ取るプロセスは、現に起きるプロセスとは異なるものである可能性が高い。
たとえ経験の形成の後に、当人がみずからの形成プロセスを過去の追憶の中に辿ったとしても、それじたいは時系列に配置された局面の羅列である。おそらくそれは一つの避けようのない誤解である。
(3)経験の自己組織化では、ひとたびそれが起これば、二度とそれ以前の経験に戻ることができない。最も卑近には、ひとたび自転車に乗れるようになったものは、それ以前の段階に戻ることができない。こうした不連続なプロセスが誰にとっても起きているのは、母語の習得である。ひとたび母語を習得したものは、それ以前に戻ることができないだけではなく、それがどのような状態であったかを思い起こすことさえできない。このとき意識そのものの自己組織的な再編が起きてしまっている。少なくとも意識の働きは別様になっている。とすると対象を知り、吟味をつうじて反省を実行する働きは、この働きじたいの自己維持をすでに前提していることになる。だがこれでは個々の経験の拡張は起きても、そしてそれがたとえ対象の無限性や意識の特定の機能性の無限に及ぶものであったとしても、経験の可能性が別様になることはないのである。『精神現象学』では、意識の知る働きと吟味する働き(一般的には自己意識の働き)だけが想定されている。そしてそれしか活用できないのであれば、意識の経験の学は意識の働きの自己形成を行うことができないのである。意識経験のトレーニングの典型であるヘーゲルの精神現象学が、実はとても狭くて小さな課題しか実行できていないことは、認めざるをえない事実のようである。ここには、働きや行為の洞察が欠けている。認識とは異なる仕組みで、感覚や意識の仕組みは変容していく。認識のエクササイズを積み上げることは、経験の変容にとって筋違いの訓練をしていることになる。
(4)以上の三点にすべてかかわる点であるが、ある物についての意識による認識は、そのものがそれとして在ることに到達できはしない。そのため意識による認識には、どこまでも認識の仮象とそれじたいであることとの齟齬を生みつづけ、認識はつねにみずからを訂正しなければならない。そのことを活用して認識が高まっていくという仕組みができあがっていたのである。ところがそれじたいとしてあるという仕組みには、認識そのものの改良では到達できない部分を含んでいる。認識するようにかかわるのではなく、それじたいとしてあるということに連動するようにかかわるのでなければ、すなわち行為としてかかわるのでなければ、接点の採れないような事態が存在する。みずから個体化するものはすべてそうした性質を備えている。発達には、みずから成るという部分が含まれる。このみずから成るということに行為として関与することで、はじめて開ける事象がある。こうした領域は、精神がどのように高まったものであっても、精神による認識ではすれ違ってしまうのである。結局のところ、ヘーゲルの精神現象学は、意識の経験という狭い枠で行われており、行為あるいは行為能力の形成という点では、多くの欠落を含んでしまう。

この事態を回避していくためには、それ自体(システムそのもの)を成立させている最小限の必要条件となる仕組みが必要となる。それ自体としてのまとまりを形成し、それ自体そのものが創発し、出現していくために欠くことのできない仕組みが必要である。それは最小限の個体化の条件を備えており、この個体化の条件が、何段階にも高次の個体化(認知的個体化、運動的な個体化、認知運動的個体化)のなかに含まれていて、高次機能系においては、必要条件として働くような仕組みである。その仕組みを構想し、提示したのが、オートポイエーシスである。[3]このシステムの機構そのものは、神経系をモデルとした一つの定式化にすぎない。その仕組みの設定についても多くのヴァリエーションがあることも間違いない。だがこうした仕組みがあれば、観察者がただ言っているだけのことと、それじたいで起きていることの区別を行うことができ、観察事実の訂正だけではなく、それ自体において起きている事象に迫るための回路が設定されていることになる。発達にかかわる多くの事実認定は、こうした機構のもとで再編を受けるのである。
ここでの観察の仕組みは、少し入り組んでくる。直接的な観察事実がある局面で、ひとまずそれを括弧入れする。この括弧入れは「現象学的還元」と同じものである。一方ではこうした操作を行いながら、それ自体(システムそのもの)の仕組みに沿うように経験を再度起動させ、個々の観察事実を再編するのである。それ自体(システムそのもの)の仕組みは、このとき必要条件として再編された事実に認定に内在的に組み込まれていく。このことを外的観察を内的視点へ移し替えることだと取り違えてはいけない。視点の移動は、高次認識にとってだけ可能となるのであり、生きていることと地続きになったさまざまな事象を解明するためには、まったく足りていないのである。
またそれは観察において発見的な問いを投げかけることに寄与する。一般に発達するシステムに典型的な外的指標を取りだすことは、それほど難しい問題ではない。だがこの指標は、ただ観察されるだけの外的指標であってはならず、システムそのものの経験のさなかで形成され維持され、それじたいが経験を支えるものでなければならない。そうでなければ「それ自体」にはまったく届かないことになる。たとえば近似的にそれに相当するのが「自己」である。自己は、自我でも主観でもない。また反省的に認識されたものでもない。事実、言語的、反省的、意識的に捉えられる以前の自己の分析をめぐっては、精神分析に多くの前例がある。このとき重要な手掛かりとされたのが自己感である。自分自身を一つの漠然としたまとまりとして感じるというときの「このもの」という感じであり、自分よりも広く、自我よりももっと広い。しかも「このもの」の感じである自己感は、つねに同じモードではなく、内実が変貌していく。
 この「自己」の変遷を追跡しようとした場合、自己そのものの働きに視点を置く機能的な議論がほとんどである。自己というとき、経験のプロセスさなかで何が起き、そのなかで自己がどのように感じ取られているかを、活動のモードの分析として取り出す議論には、いまだいたっていない。だがそれでも詳細な議論はなされている。このタイプの発達のモデルとしては、スターンの議論が代表であり、これじたいはとても良くできた議論である。ここでの段階的プロセスは、「新生自己感」(生後二カ月頃)、「中核的自己感」(二カ月から六カ月)、「主体的自己感」(七カ月から九カ月)、そして「言語的自己感」(言語習得前後以降)である。言語的自己感は、省略する。[4]
新生自己感の特徴の一つは、眼と眼が合い始めることであり、運動にパターンと言えるほどのものが出現し始める。いわば個体の組織化がはっきりと方向性をもちはじめている。それ以前に周囲の活動性、複雑性、配置のような気配や特性を感知でき始めている。生後一月で、すでに生きているものと幾何学模様は明確に区別できる。また親の表情の違いにも気づくようになる。認知的には、臭いの区別ができるようになり、母親とそれ以外の乳房の区別ができる。首を回すことが少しできるようになり、人の声に注意を向けることができるようになると同時に、声とただの物音の区別ができるようなる。一説には左右対称を、上下対称よりも長く見続けているようである。生後三週間程度で、自分の口に入れたおしゃぶりと、それと同形のおしゃぶりを脇に置いておくと、口にしたおしゃぶりの方を長く見ていた、という報告がある。また光の強さや音の強さには、どこかに対応関係があることに気づき始める。また舌をだしたり、口を開けたりする動作で、周囲の人の真似をすることができるようになる。生きているものとただの人形の区別もはっきりできるようになる。さらに輪郭や形ははっきりと捉えられるようになる。これらでは、原初のなにかを感じわけ、それに対する応答に、ある種のパターンが生まれてきつつある段階である。もとより自己というようなくっきりとしたまとまりはなく、また何かへと向かうほどの能動性もない。
次に「中核自己感」と呼ばれる局面は、そのつどの動作に「自分自身から」という能動性が出現する場面が特徴となる。自分で身体を動かして、物を取りに行く場面や、快-不快の区別がはっきりするだけではなく、過度に強調するように泣き叫んだりもする。身体も大きくなり声帯も太くなる以上、泣き方にも度合いが生じるようになる。それらをつうじて自分の情動の違いに自分で気づくようになる。また身体がひとつのまとまりだと感じられるようになり、随意的に、半随意的に動かしやすい身体部位とそうでない部位の違いがはっきりするようになる。
こうした中核的自己感が形成されてくると、主要な関心は、乳房や母親の呼び掛けから、一転外の物事に急速に移行する。無生物に対する興味が急速に増大する。手を動かすと同時に、もっていく手の先に視線を向けるような手と眼の間の協働関係が形成されるようになる。面白いと感じられるものに対しては、繰り返しの動作が見られ、また快-不快の軸のなかに、最適刺激範囲が形成されるようになる。動作は、ただ反射的に動いている局面から、動作の手前で欲求の発動のような意志の感触が生じてくる。指を吸っている腕を徐々に引き離すと腕に抵抗が生じる。同じオペレーションを双子のもう一方で行うと、ただ見ているだけであるのに、腕には抵抗感はないが、頭を動かし、指が引き抜かれないことに相当する動作を行う、という報告がある。この場合、双子という特殊性があるが、外から向けられるオペレーションに対して、どう振る舞うかについての予期が成立している。その場合、因果的推理のような動作にとっての初頭の関係は理解され始めている。つまり何かを行ったとき、その結果がどうなるのかという対応関係での予期が成立している。
「主体的自己感」では、見かけ上主観性の感覚が生じる。何かが起きているとき、何が起きているかだけではなく、何故そうなったのか、どのようにしてそうなったのかについての感覚が生じる。これは高次の知的操作ではなく、物事の関連性の感触である。直線と曲線では、曲線の方を長く見ており、静止しているものと動いているものとでは、動いているもののほうを長く見ている。主体ということのなかで飛び切り重要だと思えるのは、選択性の獲得である。また注意の向く先を共有するという「共同注意」が出現する。
こうした特徴の記述は、今後もどんどん詳細になるに違いない。それを大まかな特徴で整理し、輪郭を明示するために、段階的に新生、中核、主体というような形容詞を付けて区分しているというのが実情に近い。実際、自己の大半は、活動の結果形成されたものであり、それとして感じ取られていることによって、まさに自己である。これらの各段階で、意識がどのように出現し、関与しているかははっきりしない。また身体運動性の能力の形成と、認知能力の複合的形成がどのような仕組みなのかもはっきりしない。また自己そのものは、認知の制御や運動制御との関連で、どのような機能として関与しているのかもはっきりしない。自己は、それとして感じられるだけではなく、世界へのかかわりの制御変数の一つとして関与するはずだが、それは調整変数が増加する方向でなされていることが多い。
発見的に考察するさいには、次のように行うのが良い。自己というとき、この自己の述語を考えてみる。たとえば意識の述語は自覚的に知ることであり、生命の述語は生きることである。こういう主語と述語が同語反復的になることは、基本用語の場合はやむをえない。魂の述語は、体験することである。この場合には、主語と述語は少し性格を異にしている。それは「魂」そのものが何を指しているかを確定しにくいが、にもかかわらずなしですますわけにはいかない用語であることに関連している。それではさらに自己は何を述語としているのか。これを個々の機能性とは異なるレベルで取り出せれば、自己という語の輪郭ははっきりしてくる。そして自己の述語を「みずからを組織化すること」だとしてみる。このとき組織化という働きに必要とされる必要条件を取り出すのである。すると、この組織化のモードと段階にいくつかの明確な局面があることを指示していることになる。こうしたことが発見的問いかけの事例である。
次に発達論および発達段階論の第二の難題は、発達とは何の発達なのかにかかわっている。一般にその問が「能力の形成」という点で解答される場合でも、能力というのはいったい何なのかにかかわる。能力にかかわるさいには、個々の観察事実は、一度きりの偶然的な事実を語っているのではなく、一般に同じような条件であれば、何度でも繰り返えすことができ、条件がわずかに異なれば、それに合わせて行為が起動されるような場面が焦点となる。この場面で、観察者に感じ取られているある種の「行為起動可能性」が、能力である。たとえばいまだ歩けなくても、明日には歩けるようになるだろうという片麻痺患者をリハビリ室でよく見かける。こうした予期の事実は、患者本人も感じ取っている。そのとき行為起動可能性は感じ取られているが、歩行じたいはいまだ観察事実になっていない。そのため能力じたいは、直接的な観察事実ではない。
また能力ということで、いったい何を語り、何を観察するのか。たとえば生態心理学の場合には、環境情報の探索能力の向上がその何に相当する。生後4ヶ月程度の乳児で、眼前にあるものに手を伸ばして触ろうとするようなリーチングが見られる。眼前の物にともかく手を伸ばすのである。これは何をしているのだろう。観察者である成人が現在持ち合わせた認識能力を遡行し、現在の能力へとやがてつながっていくような初期能力をそこに見出すことは、一般にはできない。これはよほど気を付けていても誰であれ陥いやすい思考回路である。リーチングの動作を、成人が物に手を伸ばして取ろうとする動作の前史を見てしまい、動作の前駆形態を乳児に発見するというようなことがしばしば起こる。リーチングについて、手を伸ばして物を制御しようとしていると言っても、手で触れたものの情報探索を行おうとしていると言っても、たまたま手を伸ばしただけだと言っても、いずれも事象の手前に落ちているか、事象の先まで一挙に通り過ぎているか、あるいはわからないことを別の言葉で語り換えたという印象が残る。もちろん乳幼児の場合、意識の覚醒の度合いは不安定であり、意識の能作たとえば物への志向的行為で語るわけにはいかない。
一般に「学習のパラドクス」と呼ばれるものがある。学習が可能であるためには、そもそも学習能力が備わっていなければなければならない。だが学習能力が備わっていれば、わざわざエクササイズを課す必要はない。これが形式論理だけで捻りだされたパラドクスであることははっきりしている。能力を、基層にある論理的前提であるかのようにあらかじめ設定し、前提とその派生態である現実の活動を論理関係だけで接続しているのである。こうした論理関係は、最低限「能力の自己組織化」の問題へと転換する必要がある。自己組織化には相転移が起きる分岐点があり、分岐点の近くまでどのように誘導するか、その分岐点でどの方向に誘導するようなエクササイズが有効かを問うのが、学習理論である。この場合、学習とは能力の形成であって、知識の増大や観点や視点の獲得ではない。知識の増大は、学習の部分的成果である。だが能力の形成は、学習に含まれてはいるが、知育とは異なる回路で成立していると予想される。ヴィゴツキーの能力形成論の要となる「最近接領域」は、客観心理学的に「本人一人ではいまだ実行できないが、親や教員の手助けがあれば実行可能な経験領域」という内容になっている。だがこれでは経験の幅が大きすぎ、客観心理学的すぎる。[5]本人にとってまったく意図せず、予想もしないことでも、親や教員の手助けがあればできるのである。そしてこの手助けがなければ、もう二度とやろうとはしないという事態も起こりうる。最近接領域で親や教員の助けを得てできるようななったことは、その後一人でもできるようになる、というのが暗黙の大前提である。「本人が志向し、実行可能な自分自身の予期をもち、ひととき親や教員の助けを得ながら形成される能力の領域」というのが、最近接領域という語で語られようとした内容だろうと思われる。これはヴィゴツキーにとっても有利な変更である。こう変更したとしても、ヴィゴツキーの設定にはまだ難題が残っている。ヴィゴツキーは定常発達を前提しており、発達の方向性を、暗黙に見込むことができている。この定常発達という外側の基準が、最近接領域の幅を決めるさいに、暗に活用されている。ところが重度障害児の場合には、発達の向かう先をあらかじめ前提することができないのである。
能力のもとになっている「なんらかのもの」がどこか本性的に人間に備わっているのだとすると、いずれにしろ生得的能力があらかじめどこかで前提される。これが各種観念論の起源である。この場合、個々の経験はこの能力に基づいて行われるとされる。それに対して、能力は個々の経験から導かれるとするのが、各種経験論である。これらはいずれも立場であるから、それにふさわしく経験と理論を組み立てることができる。だが事実として、能力そのものの形成は紛れもなく存在する。能力があらかじめ一覧表のようにパック化されているとは考えにくく、また当面形成余力のある能力もあるはずである。また他面個々の経験のたんなる蓄積を能力とは呼ばない。経験をもつことと、経験と同時に能力が形成されることは異なる仕組みになっているに違いない。
発達論の場面で、能力の形成は雲をつかむような課題だが、なしですますことができそうにない課題である。能力そのものは、組織化され再編されて、そのつど固有に自己になっていくと考えざるをえない。するとこの組織化の活動そのものを、発達の軸にするという課題が出現する。この場合の組織化とは、活動する自己そのものの組織化であり、自己と世界とのかかわりの組織化であり、さらに他者とともに行う組織化の場面である。だが組織化する活動をターゲットにするさいには、それじたいはどのようにしても直接眼で見ることはできない課題を問うているのである。
また能力というとき、いくつかの能力のモードを明確に区分しておいた方がよい。たとえば知覚での普遍項(三角形一般やネコという種等々)の形成のようなものは、能力の一つのモードであり、極めて知的領域に限定されたモードである。馬にさまざまな魚の絵を見せると、やがて魚一般という知覚的な普遍項が形成されたと推測できるデータがある。馬は魚を食べないので、食べることの手掛かりを臭いやなにかの部分的兆候から認定したようなものではない。すなわち大脳基底核や脳幹の関与する働きではない。するとこの魚の普遍項は、純粋に認知的な普遍項だと考えられる。認知の普遍項の出現に見られるような能力の形成は、能力の形成のなかで重要なモードである。
これに対して、ひとたび自転車に乗ることができるようになれば、数年乗っていなくても機会があれば乗りこなせるだろうという確信はあり、何よりもひとたび習得してしまえば、習得する以前に戻ることができない。つまり能力の獲得には、不可逆性がある。多くの場合、プログラムが形成されたと言われるが、そのプログラムはいったいどのようなプログラムなのだろうか。少なくてもコンピュータ・プログラムのようなものではありえないと思われる。というのもこうしたプログラムのもとで、取り外し不可能という不可逆性を論じることは、きわめて異例のことになってしまうからである。
こうした事態に対して、ピアジェの子供の発達の記述で示唆をあたえるのは、第六段階と区分されものである。 第六段階は、内的知能と呼ぶものの出現の段階で、鉛筆を渡して穴に入れる動作を行わせているとき、削っていない側の方を手前にして渡すと受け取った状態のまま穴に入れているが、やがてどこかの段階で鉛筆をひっくり返して穴に入れる動作が出現する。ひとたびこうした動作を発見すると、それ以前の動作がまるでなかったかのように、鉛筆の細い側を下にして穴に入れるようになる。物へのかかわりの変更が出現しており、物の性質への探索が、動作のかかわりの選択肢とともに出現する。この段階では物への探索行動が開始されているので、第三次循環行動だと呼ばれる。不連続な事態が生じているのは、この場面である。物とのかかわりに選択性が生じるのであれば、この選択の遂行とともに、この選択に応じた「能力」の形成が見られる。それとともに選択に直面するさいの行為に、いわゆる調整能力が芽生えるような局面に来ている。[6]
さらに1+1=2の算術が実行できるようになったとき、そのことの習得と同時に、2+3=?という問題にも対応できるだろうという予感はある。規則の運用が実行できることともに、「規則を運用するとはどうすることか」という基本的な理解能力の形成も起きているはずである。つまり別様に規則を運用したり、あえて規則を外すこともできるようになっているのである。能力は、ある種の普遍性の獲得とそれの自由度を備えた選択的活用を必要条件としていると考えられる。
さらに発達論、発達段階論での第三の問題は、段階区分そのものにかかわっている。多くの場合、発達にかかわる観察者は、質的な転換が見られるような場面を取り出している。その場合にも、特殊な局面を発達段階として取り出しているのではないか、あるいは慣習的な制約で発達段階を見ているのではないか、というような種々の論争があった。[7]だがここでもシステムにおいて何が起きていることなのかが問われてしまう。実際、乳幼児たちはそうした質的転換を、質的転換だと感じているとは思えない。発達の区分は、システムの自己形成の結果として出現するものである。それは当然当人には自覚もなく、後に指摘されてもピンとくるものでもない。発達の区分は、当人にとっては、過去として記述された疎遠な外的な目安である。それは本人にとって、場合によってはそうであったかもしれない「追憶」のなかの知識にすぎない。そしてこうした区分をもとにして、この障害児は何が欠けている、あの障害児はどこの段階で停止していると外側から欠損を指摘したりしているのである。だが何かが欠けているとみずから感じている障害児は一人もいないのである。それぞれの障害児は、それぞれ固有に固有世界を生きているだけである。それを欠損だと言われても、障害児にとっては自分のことではないのである。あるいはある意味で大きなお世話である。
しかしながら定常発達の発達段階論については、観察者がただそう言ってみただけではない。能力の形成に段階が生じることは、日常的な経験にもよく見られる。技能の習得でも、特定の技能が習得され、ただちに次の技能に進むことができるわけではない。最初に習得した技能が自動化され、その起動に選択性が生じて、いわば隙間が生じることが必要となる。この自動化のさいに、動作や行為の滑らかさが獲得される。生後一年近くを経た局面で歩行を開始する幼児は、当初全身に力が入っている。肩を怒らせ、両腕にも力を込めて、一歩一歩前進していく。脳神経科学的には、歩行開始時の動作は大脳前頭葉から指令が出ているが、何度かの歩行の後には小脳からの指令に移る。このとき歩行はすでに自動化している。そのため小脳には、「内部モデル」があると言われたことがある。こうした局面では全身から余分な力が抜け、最小の動員単位だけで動作がなされるようになる。能力の形成の段階とは、獲得した技能が内化され、いわば手続き記憶されて、自動化するようなシステム的な平衡状態の獲得に他ならず、そこには能力そのものの組織化の一面がある。つまり観察者から見て停滞の時期は、獲得された技能や知識の再編的な組織化が起きており、システムそのものにとっては、欠くことのできないプロセスである。つまり乳幼児にとっては、質的な飛躍をともなう発達とそれの内化のプロセスは、別段大きな違いではなく、自己を組織化するモードが異なるだけであろう。
構造論的発想では、能力は構造的基盤の形成なのだから、一つの能力の構造が形成されれば、次の構造が形成されるまで、一時的な停滞がある。それは観察者から見た段階区分にとって好都合なほど適合的である。だがかりに次の構造が形成されるというとき、いったいどのようにして形成されるのかはなお不明なままである。精確には、この課題は本来そうした構想からは明らかにしようのない課題である。
発達の段階区分には、区分の成立そのものに抑制機構が関与していると思われる。余分な動作や運動のさいの余分な緊張が消えて、いつ起動してもおかしくないが通常は抑えられている広範な行為起動可能領域が存在すると予想される。抑制機構は、生命の機構の基本的な部分であり、発達の段階が生じるのは、こうした抑制機構の形成が関与していると考えてよい。抑制は、化学的プロセスのフィードバック的な速度調整のような場面から始まっており、一挙に進んでしまうプロセスが制御機構をつうじて遅らされていることが基本である。これは選択肢を開くという意味で生命一般の特質でもある。この遅れは、生命のプロセスのなかに選択性を開くための必要条件となっている。この場合、発達論の基本は、どのようにして次々と能力が形成されていくかだけではなく、あるいは能力が次々と付け足されるように再組織化されるだけではなく、抑制的な制御機構が何段階にも整備されてくるプロセスでもある。抑制的な制御機構は、観察者からは見落とされがちだが、システムそのものにとっては欠くことのできないプロセスである。このとき「なめらかさ」の形成は、派生的な事態の一つである。[8]
脳神経科学のデータで明確になったことだが、一つの腕の動きに関して、乳幼児では当初多くの神経系が複数の回路を用いて、その手を起動させている。それが繰り返される間に、特定の神経部位の起動だけで手が動くようになる。神経系は当初余分なほどの複数の起動状態を活用するが、それがこなれてくるさいには、特定の神経系だけに限定されるようになる。[9]この場合には一般に自動機能化すれば、他の神経系の回路は抑制されると考えられる。また発達に類似したプロセスを経る片麻痺の患者の治療経過では、健常な部位の脳神経系の活動が過度に活発になり、それが同時に患側の対応部位を抑制してしまい、神経系の再生を遅らせることも知られている。抑制は、発達のとても重要な局面を示しており、抑制の機構が関与することで、逆に抑制の解除の仕方を何段階も設定することで、動きの滑らかさと、無駄な動きをしない仕組みを作り上げていると考えられる。調整能力の多くは、抑制の機構によっている。そこには刺激反応速度の調整のような場面、感情の制御、無駄な動きをなくしていくこと、力の入った状態から力を抜くこと、決定を遅らせ選択の場面を維持することのような重要な機能が含まれている。だがこうした抑制の機構の解明はようやく開始されたばかりだと考えてよい。

2 発達のモデル変更と脳性麻痺の治療

 発達のモデルとして、当初より個体の行為能力をあらかじめ設定したのでは、この能力の発現があるかどうかが主要な変数となる。これは発達を、自然的発生の延長上で押さえることである。こうした発達論は、発達が損なわれたさいの障害児そのものの多様性にはいたらず、未発達あるいは発達遅延程度の規定の仕方に留まってしまう。つまり定常発達から見たとき、いまだ届いていないか、手前に留まるという議論の仕方になる。定常発達から外れるものは、それじたいは障害であっても、一つの個性として存在する。ことに脳性麻痺のような圧倒的に多様な患者の存在する世界では、未発達と言っても発達障害と言っても、そのことじたいで何が語られているかがわからないのである。ここでは発達のさいに現実にもっとも大きく複雑な変化が生じる場面で、モデルを設定する必要が生じる。おそらくそれは神経系である。ただし神経系のモデルと言っても、これはたんなるモデルではなく、現実に個体において形成されていく実際のシステムである。つまり個体全体の発達に必要条件のように関与している。そこで経験科学的データを手掛かりにしながら、このモデルの前提となる大枠に関して考察しておきたい。少なくとも、発達のモデルを更新するために、脳神経系科学から得られた知見をもとに、ある種のシステム論的なモデルを考案する。それは言語の肯定・否定に依存するヘーゲル・タイプの発展型の論理でもなく、またピアジェ・タイプの構造的発達論理でもなく、またしばしば試みられている経験科学的モデル(たとえばカオス理論)でもなく、現実に進行する神経系の形成をモデルとするような論理形式である。
ここにはいくつかの骨子がある。その一端だけを示しておきたい。第一に、共通の特徴になるのは、体細胞的な発達と神経系の発達は仕組みが異なることである。発達の途上で、さまざまな機能が分化してくるのだから、機能分化の仕組みは最高度の課題である。ところが機能分化というとき、一方では細胞が分裂増殖し、細胞集合が機能分化していくような仕組みが、体細胞的な発達である。植物が大きくなるとき、増大しながら枝分かれし、枝分かれの末端で葉や花弁がでて、やがて花の細部の器官が形成されていく。異なる器官が出現する場合にも、すでにある器官の先端で機能分化した異なる器官が出現していく。イメージを明確にするために、これを「枝わかれモデル」と呼んでおく。枝分かれモデルの典型は、同じパターンが何度も繰り返しレベルを変えて出現する「フラクタル」である。こうした枝分かれモデルは、観察の本性上、あらゆる観察に避けがたく含まれてしまっているものである。というのも観察は、分析的な能力を用いるために、単純な事態から複雑な事態へ継ぎ足されるようにして、発達の形成過程が進むと見てしまうからである。ピアジェのような観察の名手であっても、やはり発達の組み立ては、そうした形成プロセスを見てしまっている。
他方、こうした増殖分化とは異なり、神経系は減少分化である。これは機能的には未決定の細胞が、おびただしく形成されていて、神経細胞の作動によって、残存するものと自己消滅するものが分かれていくような分化である。イメージを明確にするために「切り絵モデル」と呼んでおく。発達の上で、神経ニューロンが最大の時期は、母体内の五ヶ月目ぐらいだと言われている。脳の部位によって局所的最大量になる時期にはいくぶんかずれがある。そこからニューロンを減らす形で、機能分化が進行するのである。そのとき残存するニューロンは、その局面、その段階での機能性をもてばよく、特定の機能分化が起こる必要は必ずしもない。つまりシナプス回路が形成され、他のニューロンと接続することができれば、その段階でニューロンは生き残ることができる。そしてその限りでの機能性を獲得している。つまり特定の既定の機能性へと分化して、分化した機能性が獲得されてニューロンが生き残るということではない。ニューロンは他のニューロンと接続することによって生き残るが、それは機能性の獲得へと向けて接続していくのではない。機能とは、発達の結果の最終段階で、結果として出現した恒常性のことであり、その恒常性は観察者によって捉えられている。免疫システムはどちらかと言えば、「切り絵モデル」に近い。多くの免疫細胞が産出され、そのなかで反応しすぎるものやほとんど反応しないものは、胸腺で取り除かれる。この段階では、特定の異物への対応関係が決まっているわけではない。
この局面でも多くの事柄を論理的仮説として確認していくことができる。[10](1)神経システムは、相互に接続することによって生き延びていくニューロンのネットワークである。このネットワークの範囲は、機能分化に対応するものではなく、必要とされる機能性よりもはるかに広い範囲で生存している。(2)そのため機能性から見たとき、その機能性を担うための潜在的な回路は、複数個併存していると考えられる。それだけではなく後に消滅していくような回路も形成される。たとえば共感覚のように、音と色が恒常的に対応している回路が形成されたままで、後の音と色の感覚質の分化がうまく進行しないような場面もある。通常感覚質は、独立になっていくが、にもかかわらず弱い連動が残り続けている場合がある。それが共感覚者と呼ばれている。(3)手足の動きや初頭の認知のような機能性が確保されるのは、新たなネットワーク回路が形成されることに対応するが、それらは「おのずと実行可能」なような「自動化の回路」に再編される。この局面が「能力」の第一の要点であり、「おのずとできる」という事態に相当する。この場面を観察者は、発達段階の区分だと観察することが多い。(4)この再編の一面が身体運動面での馴化であり、この馴化は身体運動がおのずと要素単位を持ち始める場面に対応している。もう一つの面が認知的な「枠」の形成である。枠というのは、たとえば視覚であれば、視野の左右対称性や視野の奥行きのような個々の認知に同時にともなっている、まなざすことの条件のようなものである。哲学では、こうした条件は一般に「超越論的条件」と呼ばれてきた。個々の認知的経験ではなく、しかも個々の認知的経験に同時にともなっているのだから、個別認知とは異なるレベルにあり、また個別認知とともに作動しなければならない。つまりこうした能力の形成後には、個別認知はつねに二重に作動している。(5)ひとたび認知や動作の枠が形成されてしまえば、個別の認知や動作さは生物的なコスト削減の本性にしたがって、最短で進行するようなプロセスが獲得されると予想される。こうした動作の単位や認知の枠のような能力の形成が進行しない限り、次の動作や認知の形成は、容易には進まない。というのもそのつど一からの動作や一からの認知を実行しなければならないからである。この場面で、神経系の作動の二つのモードが明確になる。動作や運動のようなそれじたいで動くものは、必ず単位を形成する。まばたきとか寝返りでも、ひとつながりの動きのまとまりはある。このまとまりは無理に分割しようとすれば、動きの一部にはならず何か別のものになってしまう。多くの場合には、不必要なほどの緊張を帯びる。こうしたまとまりは次のまとまりに接続しようとするとき、それぞれに選択肢がある。歩行という動作も、次の一歩へと進むこともできれば、停止することもでき、場合によっては前に進めた足を元に戻すこともできる。認知の場面では、ある種の普遍項が形成される。この普遍項は、認知的コストの削減に寄与するために、普遍項を獲得すれば、およそすべての認知に広範に活用される。動作では、おのずとひとまとまりの単位が形成され、認知ではいわゆる「意味」が形成される。動作の単位や認知の枠のような能力の形成がなされれば、その内部での動作の別様性や認知の詳細さは、比較的容易に形成される。(6)動作の単位や認知の枠の形成とともに、そこで進行する個々の動作や認知は、「そうでないこと」「しないこと」の可能性を獲得する。別様に動作できることと、ある物を認知しないことが可能になる。ここが一般にシステムの「遊び」と称されるものであり、恒常的な選択性の場所であるが、システムの機能性から見たさいには「抑制」である。こうした仕組みは、さらに細分化され、詳細に展開することができる。
ニューロンの可塑性 第二に、神経ネットワークの本性は、それじたいがただ生き延びることであり、生き延びるためには、どのような戦略でも活用することである。それは個体にとって総体としては不利に見えることであっても、神経系ネットワークは生き延びることだけを基本とする。神経細胞の本性には、他の神経細胞と接続することによって生き延びるという仕組みがあり、この接続が形成されなければ、それじたい死滅する。この死滅には、細胞一般の自死であるアポトーシスが関与していると予想される。
かりに脳内の疾患によって、ネットワークの一部が破壊されたとき、この生き延びるための戦略では、いくつもの回路が活用されていると予想される。一般にそれは神経系の可塑性と呼ばれているものである。だが脳神経系の可塑性は、システムが十分な複雑さをもつことに応じて、たんに必要な神経が再編されるようにはなっていない。神経はシステムの本性に沿って作動を繰り返すが、それは別段機能維持のような目的にそって作動することではないのである。およそ現時点で判明している可塑性のモードを取り出してみる。ここでも体細胞的な分化とは、異なる仕組みがあると予想される。胃を切り取れば、十二指腸や食堂の末端が、胃を補うように補償的な機能変化を行う。だがそうした仕組みとは随分異なることが起きる。
(1)脳神経の場合、特定の部位だけに障害が起きると、周辺のニューロンは量的に拡大し補償しようとする。たとえば運動野の手の動きをつかさどる領域だけが損傷されれば、周辺はただちに拡大し、肘や肩の運動に相当する部位が量的に拡大するような変化が生じる。これはリハビリを介さない自然的な補償の場合に、多く起こることである。そのためテーブル上のコップを取ろうとすると、手は動かず、肘や肩の動きが前景化してしまうことがある。(ニューロン領域変化のモード)
(2)神経システムに部分的障害が生じれば、ニューロンは既存の連接、連合が断たれるため、新たな連接、連合を隣接近傍に創り出すように作動する。この場合、既存の連接、連合が隣接領域で部分的に回復されることもあれば、それまで存在しなかった連接、連合が形成されてしまうことがある。ことに隣接近傍を超えて、およそつながりがあるとは思えない領域のニューロンがつながってしまうことがある。(ニューロン連接のモード)
この場合、回復期に運動を行おうとすると、必要な範囲の運動単位を超えて、過剰動員が起きてしまうことがある。本来連動していないものが連動してしまい、動作のなかにおのずと不要な運動単位が入り込んでしまう。また当然ながら連接の途切れている場面では、運動単位の過小動員が起こる。動かなければならない部位が動かないのである。
(3)神経システムに部分的に障害が生じれば、隣接領域でその障害で損なわれ機能を代償するように、ニューロンの機能代替が起こる。これは機能的器官の一般の損傷でみられる機能代替である。運動野に障害が起きれば、隣接する運動前野、補足運動野の一部が運動野の働きをするようになる。(機能代替のモード)
(4)一部障害のある部位に対応する刺激を適度にあたえていけば、近傍のニューロンそのものが機能的に活性化し、機能再生する。脳神経系には、三か所程度、神経幹細胞が保存されていることがわかっており、かりにニューロンが破損しても必要とされる機能に対応してニューロンが補給されることが考えられる。(補給のモード)
脳には神経幹細胞が三箇所に保存されているという確度の高い知見がある。脳神経には、四種の幹細胞がある。大元の幹細胞と、そこから派生したニューロプラスト、プロオリゴデンドロサイト、O-2A前駆細胞であり、いずれも幹細胞に特有の自己複製能と末端の各種細胞への分化能力を備えている。幹細胞が保存されているとすると、破壊され、機能不全になった神経回路に補給のための予備軍があることになる。すると神経細胞は再生されない、という従来の鉄則に例外条項が付くことになる。神経回路の機能再生は、神経系の可塑性と幹細胞の分化を誘導できれば可能だと考えられる。神経細胞そのものは、壊れてしまえばそれじたいが回復することはない。だが隣接するニューロン細胞を活用して機能再生は可能である。
(5) たとえ神経系にバイバスが作られ、機能的に失われた動作ができるようになった場合でも、それが実行しつづけられなければ、バイパスが消滅してしまうことがある。ニューロンは膨大な冗長性を抱えた系であり、そのつど出現しても不要であると識別されれば、自壊してしまう。あるいは潜在化してしまう。また機能回復のために同じ課題を繰り返すだけでは、神経系の活性化は頭打ちになる。神経系の活性化を促すためには、身体動作の上でより高次の課題を継続する必要がある。(機能活性化のモード)
(6) 刺激によってはそれ以前にほとんど活用されてこなかった神経部位が活性化されることがある。視覚不全で視覚神経をほとんど用いていない人に、点字読解の訓練を行わせると、視神経が活性化されるような場合である。これは視覚的なイメージを活性化させることで視神経に外的刺激をあたえなくても、視神経が活性化する場面である。(機能創発のモード)
こうしたモードは、今後も脳神経系の研究をつうじてさらに増えていくと思われる。脳神経系の変化にかかわるモードは、脳神経固有の複雑さに応じて詳細になるはずである。またこうしたモードは、リハビリにさいして治療の組み立てをおこなうときに大きな手掛かりとなるはずであり、小規模な発達障害にも示唆をあたえると予想される。
こうしたニューロン可塑性のモードに含まれているのは、(a)ニューロンの連動範囲は、ニューロンそのものの生存戦略によって形成されていくが、それは個体全体の生存にとって必ずしも最適でもなければ、適合的でもない。そのため運動機能、認知機能の両面でエクササイズをつうじて再形成しなければならない。通常の発達では、ニューロンは持続的に生存可能なほどの豊富なニューロン連接のなかにいる。それは発生のさいの条件である。そのためそこから機能的に分化していくことができる。そのさいには連接の集合の範囲をおのずとみずからの作動をつうじて決めていくというモードを取っている。その場合、疾患でみられる可塑性は、通常の発達の場合にも条件を変えて同じように作動すると考えられる。(b)ニューロンの総数は、いずれにしろ減っていくが、ネットワークの機能創発を考慮に入れれば、神経系の機能再生は可能だと考えられる。神経細胞は再生しないが、神経機能は再生する。それは破壊された部位周辺のニューロンの機能的な再活性化もあれば、機能転化もあると予想される。
縮退(冗長性) 第三には、神経ネットワークの本性には、代替的な選択肢を確保し、それによって生存戦略を高める傾向がある。そのため神経系ネットワークは、複数の選択肢を自分のなかに含むようにみずから分化する本性を備えている。これは脳幹や大脳基底核だけの機能ではなく、ネットワークとしての本性でもある。この戦略の中心の一つが積極的機能分化を安定させるアポトーシスである。アポトーシスをつうじて、神経細胞は機能的区分の生じたエリアでみずから消滅することによって、その領域に脂肪列を残し、構造的な区分を形成する。このとき機能分化したものが、ネットワークのなかに選択性をもつことができるのは、「縮退」が形成されることによってである。縮退は、たとえばDNA3個の並び(64個)が20個のアミノ酸に対応するように、ネットワーク内に複数の対応関係を形成することである。[4]その場合、複数対応系の入り組んだネットワークが形成される。
縮退の由来は、機能性の形成のさいに、複数個の回路が形成され、どれかが唯一の回路になることの手前で、複数の回路が維持される続ける場合や、別種の機能性を備えていたものがなんらかの理由で機能代替を行って、その機能も同時に維持していた場合、あるいは機能的回路以前の段階で、ともかくネットワーク回路が縦横に形成され、そのなかで機能的作動を行った複数のものがおのずと生き残るような仕組みが考えられる。これらのうち、最後の仕組みがもっともありえただろうと推定できる。というのもコンピュータと異なり、一つ一つの機能回路が出来上がってから、それらが複合、全体化、重畳化するとは考えにくいからである。刺激と反応性の間で比較的対応が付く場合には、この対応が付いている事態を、まさに観察者は機能性と呼ぶ。だが機能性に合わせて神経回路が形成されるとは考えにくい。機能性とは、発達的な形成過程の最後の一指標にすぎない。あるいは発達過程の副産物にすぎない。このことは経験科学的には、神経系が、結果として主要な機能回路をもつ場合であっても、複数個のサブ回路をもちあわせる可能性とよく合致している。また一つの機能が発動される場合であっても、それが複数の回路によって担われているという可能性とも合致している。
こうした事態は、そもそも感覚モジュールがそのタイプの形成を否応なく要求するとも考えられる。各感覚モジュールの形成では、大きさ、形、色、パターン、奥行き、運動のような独立した視覚特性の弁別と感覚質それぞれの詳細な形成がなされる。形成のタイミングについては、機能性の分化と同時に進行するものと、機能性の分化ののち、少しずつ改良されていくものに区分される。事実、統合と分化のプロセスでは、あらたな現実特性が出現する。物の動きとか、方位、視差のようないくつかのモダリティが同期して起こることによって生じる視覚にとっての新たな現実である。だがこれらはひとたび形成されれば、モダリリティの固有の層として定着する。物の表面と物のなかの区別はそのつど見分けなければならないようなものではなく、これらの認定は、最初の連動で形成され、固有モダリティとなる。
たとえば、「どこ」という位置認定が起こるとき、この認知は、どのような感覚モダリティに対しても起こる。すると各感覚モダリティが固有のモジュールを形成し、それぞれが固有の位置認定のモダリティとつながるとは考えにくい。それぞれの感覚モジュールがそれぞれ個別に位置認定のモダリティを形成した場合には、たとえば物の色の位置認定と、同じ物の形の位置認定とが食い違う可能性が高くなる。その場合には、位置に関して、感覚質の乖離となる。物の色の位置が手前にあり、物の形の位置がずっと隔たったところにあれば、その場合の物とはいったい何なのか。
このとき、たとえば物の位置認定とさまざまな感覚モダリティとはどのようにつながっているのか、という問いが生じる。さらにここではこのつながりが一つのモードに決まるのか、複数個のモードが併用されるのかという問いも生じる。こうした場合、ありうべきモードを設定して、そのどれかが活用されているような選択肢の設定を広く行っておくことが有効であり、また適切である。(1)各感覚モジュールは、それぞれ位置認定のモジュールと接続している。そのなかで位置認定として特定される指標が選ばれる。それが色であるのか、形であるのか、物の質料感であるのか、そのつど選ばれる。この選択には、運動性のネットワークへの有効さの度合いが関与している。光の量が少ない場面では、色が位置指定のための指標になるとは考えにくい。(2)各感覚モジュールは、相互の関係のなかで、相互関係を形成しながら、カップリグした感覚モダリティの相互関係そのものが、位置認定のモダリティと関連する。この場合には、感覚モダリティの相互関係レベルのモダリティが、位置認定のモダリティとつながるが、その場合でも手掛かりとしてもっとも優先的な指標を活用しながら位置認定のモダリティと接続すると考えられる。各感覚モダリティの間の乖離は、当初の相互関係で防がれているが、なにか特定の感覚モダリリティの変化があった場合に、たとえば色は同じだが形が変わったような場合には、突然位置認定にも変化が生じるというようなことが起きると考えられる。(3)各感覚モジュールは、それぞれが位置認定モジュールと接続し、さまざまな位置認定モジュールを形成するが、位置認定の場面では、運動性のモジュールとの関連で、各位置認定モジュールが調整され、特定の位置の指定が行われる。
おそらくこれらのいずれも可能であり、またこれらのいずれも実行されている可能性がある。しかしながら個々の場面では、どれかが支配的に作動している可能性が高い。つまり縮退は、機能的適応が一つの基本的な回路のつながりから形成されたのではない可能性を示唆している。神経システムの機能で見れば、各回路には速度差が生じており、この速度が頻用される回路や時として活用される回路の区別を生み出す。
こうした事態を念頭に置き、発生的に見れば、いくつかの回路から、特定の回路へと主要な回路が限定されていくこと、回路間には速度差が生じ、速度差による回路選択が生じると考えられる。だがこれらは一般に機能回路の限定にかかわっており、発達というより発生的な事態を語っている。
二重選択性 第四に、ネットワークの内部には、このレベルでみれば、たんなる一機能系(モジュール)にすぎないにもかかわらず、個体総体を代表象する働きを備えた機能系があり、典型的には、意識と言語的思考がそれに相当する。意識は、何かについての意識(現象学では意識の志向性と呼ばれる)であり、言語的表現は何かについての言語的表現であって、たんに機能的な作動をおこなうだけではなく、「何かについて」というレファレンシャルな仕組みを備えた特異な機能系である。「何かについて」という仕組みは、意識の行為や言語行為に本来的に含まれているが、何かの側(外的指標)から、意識の行為や言語行為を誘導することはできない。たとえば「私」についての意識は、意識そのものの行為的な働きにしばしばともなうが、「私」から意識の行為を誘導することはできない。
そのためネットワーク内部の機能系で見れば、個別機能モジュールと代表象機能モジュールは見かけ上対立することは、しばしばみられ、時として深刻な誤解を引き起こすことがある。たとえば健常者で手を上げようと思い、手を上げることができる。だがそうできるのは、意識でそう思ったからではない。しかし通常意識は、そう思ったので手が挙がったと自己誤解する。それが意識の本性である。意識はみずからの行為や身体行為についてはつねに自己誤解する。そのため意識から誘導された行為は、つねに半ば歪曲された行為であり、代償行為である。
 軽度片麻痺の患者で、両手を挙げてみてというと、「うん挙げられる」と言い、挙げようとするが患側が挙がらないということはしばしばある。このとき意識の働きとしては、挙げようという行為的志向性は、働いている。意識は健全である。だが手は挙がらない。このとき意識という指令系と動作とがつながる回路が切断されていると考えがちである。そのため腕に注意を向けて、意識経験を何度もやらせるような、たんなる誤解にすぎないエクササイズが行われる。だが意識からの指令が運動系につながらないと想定するのは、ただの誤解だと思われる。
 意識で手を挙げようと思ったので、手が挙がったというのは意識だけが思いこんでいる誤解である。手を挙げることのネットワークは、意識がそれとして出現する以前に作動しており(0.35秒以前)、意識はどの局面においても選択肢を開くための機能系を遅らせる(遅延させる)働きである。意識は指令系でも認知系でもなく、調整系、すなわち遅らせて選択可能性を開く働きを主に行っている。
だが対象認知能力や言語的表現能力のようなものは、機能系として優れているために、独自安定系をただちに形成しやすい。たとえば言語的に自分の身体について語ることは、言葉の表現としてはどんどんとうまくなるが、それによって身体行為にかかわる神経の形成にはもはやつながらず、1,2度効果があるものの、安定した機能系の内部での情報処理になってしまう。「何かについての」という仕組みを備えたものは、まさにそのことによって独立系を形成しやすく、それによって起きている現実に対して、同時に他の可能性や選択をおのずと遂行してしまう。
セルフ・レファレンスは、働きが二重化することであり、あるプロセスが進行すると同時に、そのプロセス総体についての働きが進行することである。この事態に含まれるのは、(1)コスト削減につながる代替機能系の形成、(2)調整系の形成、(3)代償機能系の形成であり、ここには人間の認知にみられるように、視覚だけが細かくなり、触覚的な認知は視覚のもとに配置されるようなことが起こる。
 ニューロン細胞は、他のニューロン細胞と接続するだけではなく、他のニューロンとつながっていることについての働きが出現していてもおかしくはない。それは意識の本性と同様に、そのニューロンの接続選択性を開き、接続の集合を組織化し、また他のニューロンに接続することと、選択性の間をみずから組織化するような機能性をもつという仮設である。これはどのような意味でも、擬人法ではないが、際立って大きな仮設である。だが神経細胞の一部に、他と接続的する作動だけではなく、接続のさいの選択性を獲得するものがある、というこの仮設は、能力にとって重要な分岐点なのである。
カップリング 第五に、神経系ネットワークの生存適応戦略は、身体的、体細胞的な入力がないと、運動系のネットワークが未形成のままになってしまう。ことに2か月幼児、9か月幼児に見られるような、まなざし、指さし、リーチングのような動作をつうじた体細胞的な体性感覚の入力がないと、認知と運動との関連を二次的に、高次機能として作らなければならなくなる。身体は、それじたい巨大な出力と組織化を備えており、そこから膨大な量、神経ネットワークに入力がある。そのため身体が情報の受容器表面だというのは、おそらく本質を外している。
頭や眼球を動かせるということは、認知に対して選択性を獲得することである。運動の形成は、そのことをつうじて認知的選択肢を増やすのでなければ、ただやみくもに頭や手を動かしているだけになる。それだけではなく、頭を動かしても物体には変わらないものがある、という物体の恒常性の認知のレベルを開く。事実、頭を動かすことができれば、運動可能性とともに、環境への選択性を獲得する。ことに複数の物に対しての注意の移動を行うことができるようになる。注意の移動とともに、位置の指定を獲得する。また物体の恒常性から、頭を動かすこととともに距離の変化、物の奥行き、眼球調整を行うようになる。それをうけて、複数の物体の違いの認定(大きさの違い、位置の違い、前後左右の位置関係の認定等が起きる。
神経系で言えば、生後3カ月程度の段階で、物の感覚知覚としての腹側経路と運動性の機能を行う背側回路とはすでにつながっているようである。この局面では、部分的に隠れた物を見るために頭を移動させるような、認知的に誘導された運動を行うこともできるような仕組みの前段階が準備されていることになる。また物を手全体で掴みに行く場合には、位置指定と手と物の位置関係の変化にかかわる動作の組織化が関与する。手と物の距離は本来刻々と変化しているが、この距離は、両眼視差よりも、単眼奥行きを使っている場合もある。生後4カ月で、両眼立体視による奥行きが形成される。中心視野の形成(視野の真なかで物を見る)があれば、両眼の視差情報を活用している。視野の中心-周辺の調整ができれば、物へ直接向かう方位をもったリーチングの準備ができていることになる。だが視野の調整そのものは、リーチングと独立に生じる。当初触れそうな物になんでも手を伸ばすのは、視野の調整と独立に起こることである。しかし手当たり次第に手を伸ばす動作は、6か月-9か月ぐらいで、もう起こらなくなる。物体認知と動作システムが連動するさいには、相互を調整要因として活用するようである。[6]
ここでは動作システムと認知システムの間の高度化は、同じテンポ、同じ速度で進行しているのではない。認知システム側は、リーチングに必要な情報を超えて、さらに細かく進行する。認知の過剰形成、認知の過小形成の問題は、とりわけ視覚の場合つねにつきまとう。この場面では、独立した機能系のぞれぞれの形成と、それらの機能系がカップリングし、連動した場面での形成を別個に変数化しなければならない。
こうした神経系から再編される論理は、見かけ上発達の観察事実を語ってはいないように思われる。だが個々の観察に含まれる「機能性」の成立や、「能力」の出現を語るさいには、すでにどこかで前提されている論理でもある。あるいはこうした論理を一方では手にしながら、実際の発達の現場観察を行うことで、より詳細でより行きとどいた観察を可能にするものである。しかも脳性麻痺のような発達障害を観察する上で、それらの症状の多様さに対応する観察を行うためには、欠くことのできない論理である。個体全体から見て、こうした論理は、「それ自体」のなかに含まれるメカニズムなのである。
第二に、発達に含まれる形成プロセスの仕組みについて考案しておきたい。この場面での論理は、生成の仕組みを考えるさいに不可欠なものである。発達について語ろうとすれば、いずれにしろ時系列に配置される複数個の事象の間の関連として捉えるよりない。一般にそれが発達心理学の課題だと呼ばれる。自分自身の過去にも、自分の発達の姿を時系列的に配置して、みずからの前史として知ることはできる。思い起こすことできない過去を思い起こすように時系列を組み立てるのである。この時系列に含まれるのが、「物語」である。だがシステムそのものは、そうした時系列に合致するように、成長してきたわけでもなければ、そこへ向かってきたわけでもない。ここに発達のプログラムや形成プロセスにかかわる観察者の問題が含まれている。それを論理的に説明する前に、典型的事例を出しておきたい。
家を建てる場合を想定する。十三人ずつの職人からなる二組の集団をつくる。一方の集団には、見取図、設計図、レイアウトその他必要なものはすべて揃え、棟梁を指定して、棟梁の指示通りに作業を進める。あらかじめ思い描かれた家のイメージに向かって、微調整を繰り返しながら作業は進められる。もう一方の十三人の集団には見取図も設計図もレイアウトもなく、ただ職人相互が相互の配置だけでどう行動するかが決まっている。職人たちは当初偶然特定の配置につく。配置についた途端、動きが開始される。こうしたやり方でも家はできる。しかも職人たちは自分たちが何を作っているかを知ることなく家を作っており、家が完成したときでさえ、それが完成したことに気づくことなく家を建てている。実際ハチやアリが巣を作るさい、あらかじめ集まって設計図を見ていたということは考えにくく、またそうした報告もない。
ここには二つのプログラムが、比喩的に描かれている。認知的な探索プログラムは、前者の第一のプログラムに相当する。そのため対象を捉えるさいには、第一プログラムにしたがう。それが認知や観察の特質であり、目的合理的行為を基本とする。ところがシステムそのものの形成運動は、第二の後者のプログラムにしたがっている。
形成運動を、対象認知のプログラムのように捉えることはできない。また対象制御能力のように捉えることはできない。形成運動は、初期条件と結果との関連で設定されはせず、それじたいでの形成可能性をつねに含む。ただこの場面では、自己組織化についても同じことが言える。実際ヴァレラは、マトゥラーナの考案したこの建築の隠喩を、自己組織化のプログラムを示すものだと考えている。
この建築の隠喩は、現在人間が手にしている生成プログラムそのものが、理論モデルの選択を狭く設定しすぎていることを示唆している。発達は、到達目標に向かうようになされるわけではない。ただし結果として、副産物としての「家」ができるように、みずからの生成プロセスを進行させていく。たとえば神経システムの作動からすれば、このシステムはまさに作動を継続しているだけであり、世界内でみずからを有効に機能させようとしたり、みずから自身を高めようなどとはしない。たとえ結果として、そうしたことが起きたとしても、神経システムがそのようになろうとしたのではない。こうしたことが、発達障害児の治療に決定的に効いてくる。というのも発達障害児は、みずからに何かが欠けていると感じることはなく、発達が障害されていると感じることもなく、それ自体で固有に生きているだけだからである。
発達障害の治療では、観察者から見て、定常発達から外れた能力や機能の分析が行われる。そしてそうした能力や機能を付け足すように治療的介入が行われることが、一般的である。ただし中枢性の障害では、神経系は付け足しプログラムのような生成プロセスを経ることはないので、欠けている能力を付け足すような仕方は、まったく筋違いである。ただし治療である以上、治療目標を持たなければならない。この治療目標の設定は、第一のプログラムに相当する。ところが第一のプログラムに沿うように治療設定したのでは、形成プロセスを誘導することはできない。そこで治療目標を決めて、一度それを括弧入れする。そして形成プロセスを誘導できる場面で、形成プロセスを進め、結果として「目標」がおのずと達成されるように組み立てることが必要となる。
観察から導かれた発達の図式は、システムそのもの、個体そのものの行為をつうじて実行されたことではない。それは結果として到達された事態を、時系列的に配置したにすぎない。だがそれは、現実の自己形成に疎遠な外的図式として、括弧入れされ、別の回路で形成されるべき「目安」として必要とされるのである。発達の図式は、観察者から見たとき、図式で示され、配置されてしまう否応のなさとして、治療設定の手掛かりとなるのである。
一般的に考え直すと、第一のプログラムは、人間にとってとても根深いもので、現に人間の行為がほとんどそのように営まれていることからみて、行為のなかに染み込んでしまっている。このプログラムにしたがって作動しているのは、大まかな区分によれば、知覚、言語、思考である。いずれも線型性を基本としている。知覚のなかに含まれる志向性は、ここから向こうへ向かう傾向をもち、その特質の形式性をフッサールは、ノエシス‐ノエマのような線型の関係として取り出している。いずれも対象や現実を分かることを基本にしており、分かってから二次的に行為もしくは行動に接続される。また第二のプログラムにしたがって作動するのは、感覚、感情、身体、行為、その他の一切の形成運動である。身体の形成や行為の形成を本来第一プログラムで教えることはできない。しかし教育であれば、誰にとっても同じ解答がえられ、同じような手順を踏んで、同じ結果が出せることが基本になってきた。これは能力の形成で言えば、知覚、思考の形成には適合的であっても、他の能力の発現を大幅に抑制している。
観察が知覚や思考を用いて行われる以上、発達の事実観察は第一のプログラムに沿うように編成されてしまう。ところがまさにそれを一方で知りながら、なおそれじたいを括弧入れし、第二のプログラムに沿うように、教育や治療の課題設定を行うことはできる。そして発達障害児を、そうした状況に置くような治療設定は可能なのである。そのことをソレイユ川崎の理学療法士人見眞理は、心理学用語を「転釈」しながら、「デュアル・タスク」だと呼んだ。[11]ここには優れた直観が含まれている。というのもこうした大掛かりの議論の運用を経ることなく、彼女は現場の感覚からそうした手法を確立してきたからである。要点は、介入的に形成しようとする能力を直接誘導するのではなく、別のより簡便な課題を実行させながら、能力形成を同時遂行課題とするのである。それは被治療者にとっても、何が行われる課題かを薄々知りながら、同時にそれと連動する課題に間接的に取り組むことである。あるいは課題の内容を知りながら、課題そのものを意識の直接的制御が及ばない場面で行うことである。
こうして発達論の難題が、どこに根をもつのかがおよそ確認できたと思われる。発達論の図式がひとたび括弧に入れられたとき、発達を誘導する治療的介入(あるいは教育)は、一義的に決定することができない。そこには多くの試行錯誤がともなう。発達の段階図式は、括弧に入れられるべき「目安」の提示にすぎない。それはある意味で「必要悪」とも言ってよい、避けて通ることのできない立論である。それはなしですますわけにはいかないが、成立すれば当惑するほどの拘束力をもつ。実際、発達図式論へのほどよい距離感を形成するには、自分自身の経験を組み替えるほどの訓練が必要だと思われる。



1、ロシャ『乳児の世界』(板倉昭二、開一夫監訳、ミネルヴァ書房、二〇〇四年)、ゴスワミ『子供の認知発達』(新曜社、二〇〇三年)、アトキンソン『視覚脳が生まれる』(金沢創、山口真美監訳、北大路書房、二〇〇五年)、大藪泰・田中みどり・伊藤英夫編著『共同注意の発達と臨床』(川島書店、二〇〇四年)参照。
2、ヘーゲル『精神現象学』(長谷川宏訳、作品社、一九九八年)五九-六二頁。
3、マトゥラーナ、ヴァレラ『オートポイエーシス――生命システムとは何か』(河本英夫訳、国文社、一九九一年)、河本英夫『オートポイエーシス――第三世代システム』(青土社、一九九五年)、河本英夫『システム現象学』(新曜社、二〇〇六年)、河本英夫『臨床するオートポイエーシス』(青土社、二〇一〇年)参照。
4、スターン『乳児の対人世界』(小此木啓吾・丸田俊彦監訳、神庭靖子・神庭重信訳、岩崎学術出版社、一九八九年)また十川幸司『来るべき精神分析のプログラム』(講談社、二〇〇八年)第一章参照。
5、ヴィゴツキー『「発達の最近接領域」の理論』(土井捷三・神谷栄治訳、三学出版、二〇〇三年)一五-二七頁。また一般書として、明神もと子『ヴィゴツキー心理学』(新読書社、二〇〇三年)参照。
6、ピアジェ『知能の誕生』(谷村覚、浜田寿美男訳、ミネルヴァ書房、一九七八年)第六章、他にピアジェ『認知発達の科学』(中垣啓訳、北大路書房、二〇〇七年)参照。
7、これらについては、加藤義信・日下正一・足立自朗・亀谷和史編訳『ピアジェ-ワロン論争』(ミネルヴァ書房、一九九六年)ことに第四章5節参照。
8、ベルンシュタイン『デスクテリティ 巧みさとその発達』(工藤和俊訳、金子書房、二〇〇三年)参照。
9、H. Colman, J. Nabekura, J. W. Lichtman, Alterations in Synaptic Strength Preceding Axon Withdrawal : SCIENCE Vol. 275 -17 January 1997 356-61.
10、こうした機構整備に欠くことのできないいくつかの資料だけを掲げる。エーデルマン『脳は空より広いか』(冬樹純子訳、豊嶋良一監修、草思社、二〇〇六年)コッホ『意識の探求』(土谷尚嗣、金井良太訳、岩波書店、二〇〇六年)、チャーマーズ『意識する心』(林一訳、白揚社、二〇〇一年)、甘利俊一監修、岡本仁編『脳の発生と発達』(東大出版会、二〇〇八年)参照。
11、人見眞理「現れ考」『現代思想』(青土社、2009年12月)210-23頁、同「リハビリのポイエティーク」『現代思想』(青土社、2010年10月)188-199頁。

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