オートレファレンス――免疫システムと神経システム
免疫システムは、生体の末端にまで及んでいるにもかかわらず、特定の器官をもたない。肝臓や脳のような器官をもたず、構造形成を行うことがない。このシステムは、作動つうじてはじめて存在しつづけるシステムであり、ここにはさらに特殊な作動のモードが出現する。骨髄の造血幹細胞から断続的に形成されてくるリンパ球は、一切反応する機会をもたなければ、役立たずとして自動的に細胞死に至る。リンパ球が存在しつづけるためには、リンパ球が産出されるだけではなく、恒常的に刺激を受け取っていなければならない。ところが膨大な種類の免疫活動を行う細胞が刺激をうるために、かりに刺激源が外界から調達されるのであれば、莫大な種類のウイルスに常時曝されていなければならない。そうだとすると免疫細胞を維持するために、無理やりウイルス充満空間に身を置くことになる。ところがそもそも免疫は病原性ウイルス等から身を守るために存在するはずである。
免疫細胞が、恒常的に刺激を受け取っているとすれば、刺激源は体内に存在するに違いない。みずから自身を感知しながら、みずからの存在を維持するものは、新たな活動のモードに入っている。産出されたものがたんに存在するだけではなく、みずから自身を感知している作動のあり方をオートレファレンスと呼んでおく。自己が作動をつうじておのずと自己の境界を区切るだけではなく、自己がそれとしてみずからを区切るのである。この段階でシステムの作動に明確な認知機能が入ってくる。オートポイエーシスは、産出的作動の機構から組みたてられており、作動の継続から自己を形成し自己の領域を形成していた。そのため行為論だと言いつづけてきたのである。その場合でも自己(Selbst)の形成の場合には、自己を閉域として形成するのだから、システムそのものに感覚に類似したものは現われている。というのも感覚とは、つねに自己の境界をそれとして区切りつづけることだからである。ところがみずから自身を感知するようになると、構成素の段階にまで感知の作動が現われる。これは通常認知と呼んでいるものである。ここでは作動(運動)と認知の機能分岐が明確になる。(1)
これはフィードバックとは異なる。反応測度を調整するような酵素反応では、測度を調整するように産物がみずからを生み出した反応に関与しているだけであり、もっぱら速度調整が行われている。自己をそれとして認定し、自己と非自己を区分しているのではない。これをオートレファレンスと混同するわけにはいかない。またこれは反省的自己言及とは異なる。反省的な自己言及は、自己言及を行うと同時に、その言及性を外から観望する観察者の出現が潜在的ながら伴っている。そうでなければ行っている反省について語りようがないのである。
オートレファレンスのこの特質は、免疫細胞という構成素のもつ物性に依存している。個々の物質は、固有に親和性をもつ。ジャリ道の石や近所のブロック塀さえ、固有の親和性をもっている。ただ現時点で人間が有効に活用できる親和性ではないだけである。類は類を呼ぶのは、人間だけではない。個々の元素すべてに当てはまっている。一八グラムの水には、地球の人口の10の13乗倍の水の分子が含まれている。類が集合を形成する親和性をもつのでなければ、こうした集合は成立しようがない。ところが静電気が発見されたころ、+と+、-と-のように類似したものが反発し合うことがわかり、当時の科学者はひどく驚いている。その代表がゲーテであり、へーゲルである。反発は親和性の一種である。親和性の反対は、反発ではなく、無関心である。この無関心が免疫では、「寛容」と呼ばれる。免疫細胞のもつ親和性は、攻撃起動状態が引き起こされることであり、これが発動されないままにとどまることである。
この段階でシステムはみずからの産出した構成素を介して、産出的作動を行うのみならず、構成素の特性によって、さらに自己の境界を個々に形成する。ところが構成素になりうるのは、自己自身に反応し、反応可能な免疫細胞である。産出された構成素のなかで、免疫システムの構成素として残り得るのは、オートレファレンスを持ち合わせたものとなる。
オートレファレンスが成立することによって、伝統的な免疫のイメージは一新される。他人の皮膚を移植すれば、免疫システムは、それを異物だとみなして攻撃する。異物から自己を守る防御バリアーが、免疫の中心的なイメージである。ところがこれが実行できるためには、つねに自己から刺激を受け、反応可能な状態で備えていなければならない。そのため反応の起動をつうじてそのつど、自己と非自己を区分するものだとみることができる。(2)その場合免疫システムが恒常的に刺激を感知しながら存在しつづけるとき、いつ何時自己自身を異物だと認定し、自己に対して免疫反応を示してもおかしくないことになる。そして事実そうしたことがしばしば起こるのである。いわゆる自己免疫疾患である。
何らかのきっかけで自己免疫が起動し、自分の体を異物だとみなして攻撃すれば、初診時には原因不明の病気となる。全身至るところに不可解な打撲傷ができ、血液検査の結果、赤血球も白血球も血小板も著しく減少していたことが判明するような場合である。化学物質やウイルスが自己免疫反応のきっかけとなり、免疫システムが骨髄の造血幹細胞を攻撃した可能性がある。(3)免疫システムの構成素である免疫細胞は、そもそも造血幹細胞由来である。そのためこれは派生したものが、起源そのものを攻撃するというまれな事例である。この事例は興味深い点を含んでいる。派生したものがみずからの起源を攻撃するさい、同時に自己増殖の可能性を獲得できれば、起源を免疫的に攻撃することによって、みずからの起源を消滅させ、それじたいは増殖していくことになる。この系は進化するはずである。この可能性を獲得できなければ、みずからの起源を絶滅させる以上、系そのものの自殺であり、治療法の見当たらない難病となる。進化と病気は紙一重なのである。
免疫システムは、刺激に対して無反応であればまったく作動しない。だが刺激にことごこと反応していれば、つねに全身炎症である。全身が喘息にかかったようなものである。とするといつでも反応できる体制で、反応前の状態に置かれていなければならない。このいつでも反応できる体制が、オートレファレンスであり、反応可能だが起動していないという曖昧な範囲を形成している。自己免疫が可能性としていつでも起こりうる場合、免疫システムはこの可能性を抑制していなければならない。そうなると免疫的自己とは、異物を認定する可能性のなかで、免疫反応を引き起こさないものということになる。だがこれが一筋縄ではいかない。
いまかりに免疫反応を引き起こさないものを自己だとすると、あまりに多くのものが自己に含まれてしまう。口に含んだ通常の水で免疫反応が起きなければ、この水は非自己だと認定されてはいないのだから、自己になる。海水浴でワックスを全身に塗り、免疫反応が起きなければ、これも非自己ではなく、自己になる。また体内に埋め込まれたシリコンは、免疫反応を引き起こさない。そうするとあまりに多くのものが自己の範囲に入ってしまう。だから免疫は、たんに自己と非自己を区別する機構ではないのである。
この事態は、実は免疫システムの行っていることが非自己の認定であって、自己の認定ではないことに関連している。免疫システムが標的とするものは、明らかに異物であり、非自己である。そのとき自己とは、論理的には「非自己でないもの」にしかなりようがない。非自己は、無脊椎動物と同様、集合論的には開集合である。開集合の否定も開集合となる。宇宙をそっくり内と外をひっくり返し、さらにもう一度ひっくり返すことに似ている。この開集合のなかに、論理的には口に含んだ水や体表に塗りたくったワックスが含まれていた。だがそのことの恩恵は、日々享受されている。消化を助ける雑菌が免疫の標的とならず、腸のなかに生息しつづけているからである。免疫の標的とならないもののうち、免疫システムが関心を示さずまったく無視してしまっているか(無応答)、あるいは刺激を受けるが免疫反応が作動しないで麻痺している(アナジー)かで機構上の区分が生じる。アナジーの基本形は細胞の分裂障害である。
そうなると免疫的自己とは、生理学的な活動を行う個体の要素のうち、免疫システムによって、当面非自己の認定を受けていないもののことである。免疫とは独立に生理学的活動から定められる大きな円を外に書き、内に免疫的に非自己だと認定される自己抗原を描くと、ドーナッツ状に免疫的自己の範囲を平面に射影することができる。老人になって、免疫システムの発動が押さえられず、自己免疫になってしまう疾患がある。非自己でないものの境界は変動する。ドーナッツの内側の円の境界は、免疫細胞のレパートリーと免疫抑制機構によって決まる。
そこで免疫的自己が成立するさいに、恒常的に起動可能状態にある免疫システムの発動を抑制している機構が問題になる。自己免疫を発動させないようにしている機構である。抑制こそ、抑制すべき自己にそれとして関与する以上、オートレファレンスの一形態である。免疫反応を引き起こす細胞は、大別してB細胞とT細胞であり、B細胞は骨髄のなかで成熟し、末端に出た成熟B細胞は、末端リンパ組織において抗原刺激を受ける。ここで激しく分裂増殖し、多様な免疫細胞となる。強い抗原刺激がない場合は、アポトーシスが作動し死滅する。また全身に存在するような自己抗原に対しては、B細胞の成熟が阻止される。B細胞は、おもに細胞表面に接近する微生物や異物の認定を行い、免疫反応を起動させる。
他方T細胞は骨髄から胸腺に移され、そこで成熟し細胞内に侵入するようなウイルスや異物を認定する。T細胞が抗原と結合して、異物の認定が行われれば、情報はマクロファージに伝えられ、この貪食細胞が急激に増加して、異物の処理にあたる。胸腺は、実地教育現場のようなところで、無反応なT細胞やのべつまくなしに反応するようなT細胞は除去される。だから胸腺は、中枢制御室である。(4)胸腺皮質の上皮細胞に発現している自己の主要組織適合性複合体(MHC)分子(5)と弱く反応するT細胞だけが集められ、それらは胸腺髄質において自己抗原の提示を受け、過度に反応するT細胞は取り除かれるのである。ここで形成される状態が中枢性免疫寛容である。
ところが過敏反応性のT細胞のすべてがここで除去できるわけではなく、五%程度は末端に移動してしまう。末端に移動した過敏T細胞は、別の機構で起動しないよう制御されている。ここが末端制御機構である。T細胞が作動するために、ニ種類のシグナルが必要である。これらを欠けば通常激しく反応する抗原に対しても、無視してしまう。このニ種類のシグナルは、抗原受容体が抗原と結合することで発生するシグナルと、補助受容体やサイトカインからの生理活性シグナルである。(6)二つのシグナルのうちどちらか一方が欠けてもT細胞は作動しない。もうひとつの制御機構は、T細胞の一種である免疫抑制細胞の働きによる。ここには抗原を認定して、抗原特異的に抑制を行うものと、自己反応性のT細胞のアンテナ部分が認定する抑制がある。
個体のメタモルフォーゼにさいして、おそらく免疫システムには多大な混乱が生じているはずである。オタマジャクシとカエルは、免疫的には同一個体の言えないほどの変化を行うからである。同じ抗原に対する抗体の性質が異なり、メタモルフォーゼ前後のリンパ細胞を混合すると反応が起こってしまい、成熟体には幼生体にはない二つの主要組織適合性複合体が含まれるからである。かりにMHCまで組替えているとすれば、幼生体の免疫は、当初メタモルフォーゼを経て形成されてくる成熟体を異物だと認定して、攻撃するはずである。おそらく免疫の境界を全面的に組みかえるという非常事態が出現している。ここにも免疫的寛容が働いている。寛容とは感知しながら作動しない、オートレファレンス固有の機構である。
神経システムでも、ニューロン細胞は当初不必要なほど形成される。ここでも作動の回路に入らない細胞は、自死する。ニューロン細胞から形成されたシナプスが、神経システムの作動の単位である。シナプスは、前細胞と後細胞が一組となった回路の単位を作り、これが無数に伸びている。信号がシナプス細胞に到達するさい、シナプス前細胞と、シナプス後細胞が同期して作動する場合には、両者の結合は強化される。これはヘッブシナプスと呼ばれる事態である。また信号がないのに、シナプス後細胞が興奮したり、信号があるのにシナプス後細胞が興奮しないと、結合が弱くなることも知られている。これは逆ヘッブタイプと呼ばれるもので、発達脳視覚野に存在することが知られている。これらがシナプス可塑性の基礎となるものである。(7)
信号はシナプス前細胞からシナプス後細胞に伝わるだけではなく、逆向きの働きも知られている。片目を遮蔽したネコの実験で視覚野に生じるおもな形態変化は、遮蔽した眼からのシナプス前末端の退行や開眼側からのシナプス前末端の拡張である。ところが薬物でシナプス後細胞を抑制しておくと、こうした変化は生じず、時として逆の変化が生じるようである。とすると信号による形態変化にはシナプス後細胞からの逆行性の働きが、いつも関与していなければならないことになる。いわば前方からやってくる信号が、信号として働くためには、後方からの働きかけがあわせ必要であることが知られている。(8)
マクロにみればネコの眼の遮蔽実験から、外界からの刺激がなければ、視覚野の神経システムの形成が抑えられることはよく知られている。形成は抑えられるが、停止するわけではない。神経システムはそれじたいの活動で、みずからを形成する。神経システムに刺激をあたえ神経システムが形成されるとき、それが刺激によって形成されたのか、それじたいで形成したのかを実験的には区別できないはずである。とすると神経システムの働きは、外的刺激に対応すると同時にみずから自身への関与を伴っている可能性がでてくる。ここがオートレファレンスである。オートレファレンスを獲得したシステムでは、おそらくひとつの作動が、みずから自身に関与する回路と外的刺激に反応する回路とを同時に作動するすると予想される。この二重の作動があるために「入力も出力もない」という事態が提起されていたのである。