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美と真

河本英夫

 理論は真をめざし、美は新たな現実をめざす。カントが真善美という異なるカテゴリー領域に対して、三つの『批判書』を提示したとき、いったいどれが経験にとって最も基礎的な位置を占めるかは、最晩年の『第三批判』直後から開始された問いであった。このとき経験の本性を何に置くかによって議論が分かれてくる。真/偽を区分し、そのために主観性一般に備わるさまざまなカテゴリーを備えた場所として設定されたとき、経験は真なるものを探求し、そのことをつうじてみずからを律する自由の主体となる。これに対して、経験はみずからを拡張していくものだとすれば、真理そのものが生成し、それと同時に真の基準そのものも生成する。そのとき経験は、前進/停滞という新たなコードで作動する。この局面では、真は美の部分領域となる。経験の自己形成の姿こそ、美のかたちである。そのとき理論の姿は、美の残像の度合いを残し続けるはずである。
この場合、カント的用語で語れば、「経験の可能性の条件」の探求に代えて、「経験の拡張の可能性の条件」への問いが前景に登場する。ここで「批判」という企てであれば、『第三批判』をベースにして開始し、そこから『第一批判』へと進むような道筋が見えてくる。理論とは、理論形成のプロセスの派生的な結末の一つであり、いわばそうしたプロセスの副産物である。こうしたプロセスの残光や残り香が、理論の美しさであり、理論から見れば剰余になっているものである。だが理論の美しさは、装飾でも付属品でもない。むしろ生成するものの一時的に静止した名残のようなものである。その意味で、美はあらかじめ希望されるものでもなければ、特定領域に自足するものでもない。少なくともそれは動きのかたちのさなかで出現してくる以外にはない。認識がそれとして自足しているときには、こうした美は認識のつねに一歩先に感じ取られることになる。
一例を挙げる。眼前に物がある。静物で良い。物は、それじたいによって物である。認識が物をそれとして構成することはありえないことである。認識が届くのは、物についての認識までであり、このとき認識は、つねに物についての一面的切り取りとなる。この事態は、認識がどのように拡張されようと、認識から脱しない限り、原則変わることはない。では物はどのようにして物になるのか。これは歴史的系譜で言えば、「物自体」への問いであり、物がみずから物となるという仕組みへの問いである。歴史的には、この課題はさしあたり物がそれとして個体化するという仕組みとして構想された。物はみずから個体化する。
 個体化するという事態には、働きが含まれている。働きそのものは、人間の眼には見えない。人間の眼に見えるのは、個体化した結果だけである。そのため眼に見える結果が出現するように、個体化の仕組みが導入されることになった。フィヒテが『全知識学の基礎』の冒頭の「原則論」で試みたことである。「働き」を語るためには、働きを表す動詞が必要となる。動詞の選択を誤ると、すべては台無しになってしまう。そこで、「みずからをセットアップする働き」として、「セットアップ」という語が選択されることになった。日本語では、「定立」とか「措定」とか訳されているが、内実は「セットアップ」することである。そしてセットアップされたものが、「それ自体」である。ここではセットアップする行為とセットアップされた物が、同一となる。そのことが「事行」だと呼ばれた。フィヒテ自身は、これは証明することもできなければ、意識の事象となることもなく、かえってまさにこの事態が意識を可能にすると言う。これが「自我」と呼ばれるものであり、自我はみずからをセットアップする働きであり、同時にセットアップされたものである。これが物自体を解く構造的な仕組みとなった。
 こうした試みの成否は、後の展開が決める。展開可能性が拡張されるたびに、フォーミュレーションの内実が変化していく。そこからの展開の度合いに、作り手の経験と感度の重さが掛かってくる。この展開可能性こそ、構想の美のモードを決めている。事行では、作り出された成果が、あらかじめ結果となるように当初より組み込まれてしまっている。最終的に「自我」に到るように、あらかじめ自我に相当するものを働きのなかに組み込んだ。それが「自我とはみずからをセットアップする働きであり、セットアップされた産物である」という、ある種の「同語反復」である。そしてこのことが、自我の過度の自足をもたらしている。理論理性と実践理性の共通の出発点を確保する企てだとフィヒテ自身が述べるように、「拠点」として設定されている。しかもその拠点は、まさに拠点となり続けるような性質を帯びている。
 みずからをセットアップするという働きは、はたして自分自身に到達できるのか。想定外の自分自身が作り出されてしまうことはないのか。作り出されたものは、ひとたびそれが物になった途端に、物としてセットアップする働きを制約するのではないのか。夥しいほどの疑問がわく。セットアップする働きとセットアップされたものは、本当に同一なのか。同一であるのは、最初からそのように組み込んだからではないのか。こうしていくつもの種類の疑問がわき、そこから分岐するように多くの構想が生まれてきた。分岐するとは、おのずと別様に一歩踏み出してしまうことだ。こうした踏み出しも、美の一つのモードである。
 作り出されたものは、作り出す働きと同一になることはなく、むしろ「二重化」する。作り出す働きは、みずからと同一の物を作り出すことはなく、必ずずれを含み、再度局面を変えながら、二重化を続ける。こうしてシュレーゲルが構想した「無限の二重化」が誕生する。実際クリエータが、作品を作ったとき、何か想定外の物が出来てしまうことは、ごく普通に起きることである。どのように反省的な作動を繰り返そうと、反省はみずからに回帰することはなく、二重化する。創作の働きが作品と同一になることはまずない。そのため再度創作を続けなければならない。シェリングが、ドイツ語の「精神」という言葉を、「みずから自身を直観するためのみずから客体となる」働きだと改めて定式化したときも、同じ問題に直面している。みずからの全貌がまったく同一に映し出せる作品は、奇跡的な瞬間にしか成立しない。そしてそれは瞬く間に過ぎ去ってしまうのである。そうしたことの延長上で、シェリングは、根源的な「不均衡動力学」を構想する方向へと進んだ。
 他方、働きがかたちを取るさいには、働きはみずからを超え出て、かたちへとなっていく。働きが自己限定してかたちになるのではない。むしろ作品とは、働きの「自己超越」である。働きは、みずから個体化しようとするとき、世界に触れ、光や湿度や重さに晒されて、不断に働きの外への引き出されてしまう。作り出す働きは、否応なくみずからを超え出てしまう。これはノヴァーリスの定式化である。産出するものは産物に超えられてしまう。こうしてフィヒテの定式化は、評論、哲学、詩人でそれぞれに別様の踏み出しへと展開されることになった。この展開可能性の蠢きと躍動こそが、美の姿なのである。
こんなとき言語化され、記号化され、数式化されたものは、構想の上から光を当ててできた、影のようなものになっていると考えることができる。言葉を読み、記号を読み理解するのではなく、言葉や記号をつうじて、理解ではなくむしろ経験を動かすことが必要となる。影がどのように整合的で見栄えがし、応用可能なように見えようと、影の図柄はすでに過度に自足し続けている。影を映している平面こそ、「時代」である。
 物自体を個体化の仕組みで構想するさいに、いまだ語られることもなく通り過ぎてしまった問いがある。たとえば個体が不可分にあわせもってしまっている「重さ」である。どのような個体でも由来不明な重さをもつ。個体にとってのある種の不透明さでもあり、存在の軛へとつながる通路でもある。シェリングは、物体に内在的な引力と斥力を統合するために「重力」を持ち出しているが、まるで連想ゲームのようなやり方である。
宇宙空間では重さはないのではないか、という疑問は無効である。宇宙空間でなんらかの衝突で動き始めた物体を押しとどめるためには、重さに相当する力で押しとどめるしかない。こうした誤解は、重さが慣性質量と重力質量という出発点から異なる仕方で二重に定式化されてきたことによる。この二つの定式化が統合されているのかどうか、あるいは本当に統合可能なのかどうかは、今のところよく分からない。質料をもたらす素粒子は、予言されてはいるが見つかってはいない。
物体そのものが抱え込んでしまった重さ(慣性質量)と他の物体との関係で生じる重さ(重力質量)は、由来も内実も異なる。そして個体そのものが感じ取っている重さは、いったい何なのか。成人の首から上の頭には、平均的に12キログラム程度の重さがある。10キログラムの米袋よりも重い。重さの感覚は、内的なものと外的なものの変換関係を断ち切ってしまう。この変換関係が断ち切られていることが、個体の実質である。個体とは、世界内の不連続点である。個体の出現は、構想上、新たな難題を生み出すことになった。それは尽きることのない謎という新たな美のモードなのである。

(かわもとひでお/科学論・システム論)

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