3章 記憶システム
あらゆる経験には、つねに記憶がともなっている。美術館で展示を見たとき、初めて見たものか、前にも見たことがあるという感触は、潜在的であってもそのつどつねにともなっている。見たものが何であるか(知覚)とともに、再認(もしくは初認)の感触は紛れもないものである。見て知るとは別の仕方で、見て知ることに同時に別様にともなう知がある。この知は行為の組織化にとって重要なもので、場合によっては知覚以上に重要である。我が家に生息しているネコは、はじめて聞く物音には敏感に反応し、ただちに身構えている。いつでも逃げられる体勢をとっている。ところがそれが身に降りかかるような物音ではないことがわかると、次の機会からは物音そのものをほぼ完全に無視している。まったく反応しないのである。こうした振る舞いは、「認知コストの削減」という生存戦略に適っている。人間の毎日の生活エネルギーのうち、およそ二五%が脳神経系で消費されている。人間だけは、認知コストを下げるための仕組みを解除してしまっているかのようである。知覚が優先される人間の認知では、対象が何であるかを知るという対象認知が前景に出てしまう。おそらく膨大な余分な認知を行っている。それが知をもつものの宿命だと言っても、あるいは知にともなう連動コストだと言っても、どこか言い訳じみてしまう。というのもほとんど無駄だとわかっているような毎日のインターネット情報処理でさえ、いそいそとまるで惰性のように行っているからである。そのとき認知では再認か初認かをそのつど区別している。しかしそんなことはわかっていると思いながらも、それでも情報一覧を閲覧するのである。「そんなことはわかっている」という局面にすでに再認が働いているが、それらは背景に退いてしまっている。
再認や初認の感触は、すでに見たものを想起して、それと比較対照しながら二度目だとか三度目だとかを認定しているのではない。こうした再認判断は、知覚と記憶を比較する高次の認定であり、ずっと後に起きることである。その手前に、前にも見たことがある、これははじめての経験だというような直接的な感触がともなっている。こうした局面が記憶の感触であり、また感触としての記憶でもある。そのため一度も行ったこともない場所の風景を「前にも見たことがある」というように既視感(デジャ・ヴュー)が働くこともある。感触としては、すでに見たという感じがともなうにもかかわらず、再認判断を行うことのできる事実がないのである。この場合、感触と判断が齟齬をきたしており、それらは相互に連動するが、異なる働きである。
行為と連動する記憶の基本は、感触の記憶であり、それは表象の想起の手前で、あるいは表象の想起とともに、行為の組織化に直接寄与している。ここでは記憶そのものがすでに作動状態にある以上、こうした記憶は「遂行的記憶」の感触でもある。ところで「記憶の感触」とは何なのだろう。それを認知以前に行為的に作動する記憶を含む直感的区別だとしておく。これは相当粗い規定であるが、感触そのものは細かく規定しようとすると、そのつど内容を新たにモード化しなければならないようなことが起きる。ここでは記憶の感触について、主題的に考察する。
1 記憶という課題
認知科学では、記憶は三機能に分類される。登録(書き込み)、保存、呼び出しである。脳神経系でも機能的には、類似したものが見られる。実際この区別を行うことは出発点では重要である。たとえば記憶喪失では、前方健忘や後方健忘と略称される病態がある。過去の記憶はあるのに、新たに入ってくる知識はもはや記憶されない場合と、新たな知識が入ってきてそれは記憶されるが、過去の記憶が消えてしまっている場合である。これらは記憶の別のモードに障害があると考えられる。大まかには前方健忘では、現時点の登録に障害が出ており、後方健忘では過去の記憶の保存や呼び出しに障害がある。
ところで登録は、ディスプレー画面にあるような映像や文字を書き込むようなものなのだろうか。登録では、選択的に除去するもの、残して維持するもの等の選択的な書き込みがおのずと行われているはずである。あるいは登録では、個々の要素の再配置が同時に実行されている。これは一般にはエピソード化や物語化と呼ばれるものである。つまり登録は、個々の記憶が蓄積されるようなものではない。そして登録が重要なのは、登録そのもののではなく、むしろそこで働く選択性や再配置のような働きであり、登録という一つの行為としてすでに遂行されている働きである。たとえば「モルダビア」という地名を覚えたとき、この文字の並びを覚えているだけではなく、この音の並びの感触、音のまとまりの喚起力、音のまとまりが呼び起こすただ広がった水面のイメージのようなものとの連動のなかで、何かが登録されるはずである。現在の日本語の最大の変更を行った天性の詩人は、この地名に「水駅」という語を結びつけている。水が地平線までひろがるなかで、孤島のように駅が浮かんでいる。こうした風景を「モルダビア」という音のまとまりと連動させたのである。
登録は単なる書き込みではなく、再配置や再編をともなう一種の組織化の働きを含む。それは現在あるものが書き込まれるようなたんなる既定機能ではなく、登録ということが一つの行為であるような諸機能の複合体であることになる。
こうした事情は、保存や呼び出しでも起きていると想定できる。保存では、たんに蓄えられたものが維持されているとは考えにくい。最も典型的には、精神分析で繰り返し問題となる幼少期の性的外傷性痕跡が、本人の第二次成長期とともに別様の痕跡となり、病因となってしまうような事例である。幼少期の外傷痕跡は、出番を待っているような密かに隠された隠し球のようなものだとは考えにくい。ある年齢ではほとんど気にならなかったものが、成長や老齢化にともない、制御しにくい記憶になることもある。その場合、いったいこの組織化の仕組みに何か規則性のようなものはあるのだろうか。記憶の重要度や作用性の強さは、それぞれ発達ともに変容し、時として制御困難な別様の記憶になってしまうこともある。それとともに知覚像や想起像の記憶と、情動の記憶は異なったモードであるため、像と情動との関係に解離が生じることもある。情動はなにかのきっかけでおのずと起動してしまう以上、像を志向的に想起するようにして再起動するのではない。そのため何故ある風景が思い浮かぶのか本人にもわからないまま、繰り返し同じ像が思い浮かぶこともある。
さらに呼び出しは、記憶されたものを呼び出すことだと思われがちだが、昨夜の晩御飯の楽しかった風景を思い起こそうとすると、特定の場面しか想起できない。その場面の五分前も五分後もあったはずだが、想起されるのは断片となった特定の場面だけである。しかも何故その場面が想起されているのかは本人にもわからない。想起像はつねに断片であり、この断片はひとたび想起されると、何度でも同じ像を想起できる。つまり想起そのものをつうじて保存される記憶そのものも変容する。想起して語ることは、どこか高野豆腐や干しシイタケに似ている。乾燥させしばらく経ったところで、お湯で戻すと、別様の繊維質に変容される。記憶し想起すれば、まさにそのことによって経験内容は再組織化され変貌していく。
想起の場合にも選択性は働くが、その選択がどのように関与しているのかは、想起の成果である想起像を、どのように詳細に分析してもよくわからない。それは想起像が組織化のプロセスの末端の成果だからである。少なくとも保存されたものがそのまま回復されるというような呼び出しは、ごく稀なことだと考えられる。しかも像の想起とは異なる仕方で呼び出されるものがある。たとえば歩行は一歳前後で獲得されたはずだが、この獲得のプロセスは想起できはしない。言語の獲得も同じである。どのようにして言語を獲得したのかを想起することは困難である。しかしそれらは獲得され保持され、繰り返し再起動されている。紛れもなく記憶されているが、記憶のプロセスも個々の記憶の経過も想起できない。だが記憶として、紛れもなく作動している。
想起には、現前化するものと、現に作動するものという基本的な区分がある。これらはラリー・スクワイアによって、「意味記憶」(宣言的、外示的記憶)と「手続き記憶」(非宣言記憶、内示的記憶)として区分されたものの違いである。[1]基本的には想起され現前化される記憶と、行為として直接起動される記憶の違いである。だがスクワイアによって提示された二つの記憶のモードの違いは、想起(呼び出し)のモードだけにかかわっているのであろうか。
片麻痺患者は、歩行を実行できた過去の感触を想起することはできる。しかしほとんどの場合、歩行は起動しない。動作の感触は想起できても、動作そのものは起動しないことがある。これは実は片麻痺患者に限ったことではない。一度だけできた鉄棒の蹴上がりが、二度とできなくなったとき、成功した動作の感触は想起できるが行為を成功裏に遂行できない。この場合には、過去の奇跡的成功の感触を何度も想起するが、それが実行できないのである。そうすると意味記憶と手続き記憶の間に、感触の記憶というような別の領域があることがわかる。感触は像ではないが、想起することはできる。そして多くの場合、それは行為の調整にかかわっている。成功できるはずだという感触である。感情や身体動作の感触は、像や実際の動作にともないながらなお別のモードとして作動しているようである。そうだとすると登録、保存、呼び出しの各項目について、情報科学とは異なる仕組みで考えていかなければならないことになる。また感触の記憶は第三のモードとして調整能力にかかわる記憶として定式化した方がよいと考えられる。
感情や情動と同様、身体や運動の感触も、単独では想起できない。身体動作の感触も、感情や情動と同様に像ではない。像を想起するようにしては想起できない。自分の愛や憎しみが単独で眼前に現れることはない。愛しい表情や疎ましい顔は像として現れる。だが愛しさや疎ましさが単独で現れることはない。愛しい表情から愛しさを取り去り、普通の表情に戻すことはできる。だが愛しい表情から、顔を取り除き愛しさだけにすることはできない。感情や情動の再起動の場面では、像がともなうことがある。腹の立ったことが思い出され、次々にそのさいの情景が浮かんでくることもあれば、情景が浮かんで後に、像の想起とともにさらに新たに情動が起動することもある。想起像は、しばしば情動価を帯びている。しかし像と感情・情動との関係は、カップリングの関係ではない。カップリングは、それぞれが一貫して作動するシステム間で起きることである。感情・情動はまぎれもない直接経験であるが、それじたいで作動する系ではない。つまり固有の系ではない。感情や情動は、むしろ像に浸透している。[2]
同じように、身体や運動の感触も、像にともなうことはあるが、単独で像になって現れることはない。それどころか身体そのものや運動そのものは像となって現れることもない。身体や運動の像は、身体の感触の一部であるか運動の断片であり、それらは運動や動作の代理物であり、ヨーロッパの言語で言えば「代現」(リプレンゼンテーション)である。しかし運動や動作はそれじたいで起動し、また作動を継続する。こうした作動にはそれとして感触がともなっている。感触はなんらかのきっかけで再起動する。走り高跳びの選手が、助走開始前に、踏切やバーを越える体勢についてイメージトレーニングを行っていることがある。このとき何をイメージしているのだろうか。踏切を行うさいの像ではない。自分の踏切写真を見てそれに合わせて踏み切ろうとしているとは考えにくい。だが何かをイメージとして想起している。多くの場合には、踏み切るさいの動作の感触を想起していると思える。その感触が距離をもって捉えられるとき、ほとんどの場合像的なイメージをともなっている。このイメージは、表象像ではない。しかしなにかが感触をともないそれとして想起されている。すると感触の想起は、
感触の想起――遂行的イメージ・・・身体行為
というようなひとつながりのマトリクスとなった連動系で作動している行為である。連動系こそが想起にともなう作動の単位であり、病的な変異では本来連動してよいものが連動しなかったり、連動の強さが変異したりする。動作にともなう「こんな感じ」という感触の想起がある。それは身体に感じ取ると同時に運動性を含む輪郭的な像イメージともない、身体行為にとって決定的な手掛かりをあたえている。
一般に記憶については、近代以前に膨大な議論があった。それは主として、記憶術にかかわるものである。より強固な記憶を維持するための技法がそこでの主題であり、この主題は現在でも記憶のノウハウとして、記憶にかかわる最重要テーマであり、夥しいほどの書物が公刊されている。フランシス・イエイツには、記憶術にかかわる歴史的大著がある。ここでも記憶術が中心となっており、その中心となる技法がイメージ化であり、イメージ間の連動性(類似性、対比性)の形成である。[3]これは保持の組織化のための技法であり、想起しやすさの技法でもある。歴史上、偉大な記憶力の持ち主は一定頻度で出現していたようである。ルリアが三十年にわたって交流し、記述したシィーもそうである。[4]シィーは生まれながらの共感覚者であり、言葉の音ともに自動的に特定の映像を生み出していた。そこでシィーは数字を見たときにもそれぞれ特定の映像を想起し、直線状に配置していった。像は、配置でも想起しやすさでも記憶にとっては利便性が高い。複合連動系にしておけば、記憶の能力は数段向上することは事実である。
しかし記憶の保持と並んで、同程度に重要なのは、どのようにして忘れるかである。おのずと忘れることこそ、コンピュータとは異なる人間の記憶の特質だとも思える。この忘れることの仕組みの一部は、実は精神分析のなかで取りだされてきた。忘れることのできないかたちで蓄積されてしまう記憶こそ、身体へと作用をあたえて症状をもたらすのである。記憶一般の最も重要な課題の一つは、どのようにして記憶を強化するかではなく、どのようにしてうまく忘れるかである。発達障害のなかで、中間記憶であるワーキング・メモリの障害がしばしば報告される。新たな動作や行為の一連の単位が身に着かないことは良く知られている。この場合にも、機械的にすでに習得したものを繰り返してしまう事例が多くある。自然に忘れ、それを選択しないことは記憶の起動にとって緊要である。現代ではコンピュータが個々人の記憶の補助機構としていつでも機能してくれるのだから、記憶の保持の強化が課題になるとは思えない。むしろどのようにして忘れるかが、最重要の課題である。忘却とは、ただ忘れることではなく生命の能力を最大限に発揮できるような組織化の仕方のことである。
記憶について考察するにあたって、発達の場合と同様、多くのことが未解明になっていることがわかる。毎日の自然な箸の上げ下ろしまで記憶が関与している以上、未解明な領域ではひとたび解明されれば、まさにそのことによって自然さが失われる領域もあるに違いない。記憶として保持されていることのなかで重要なことは、ほとんどは意識的に獲得されたものではない。そしてそのほとんどは、意識的に思い起こそうとしても、思い起こすことができない。しかしそこに膨大な記憶があることは間違いない。プラトンは『メノン』のなかで、すでによく知っているものを誰も探求しようとは思わない、逆にまったく知らないものを探求するなどいうことに思い至ることもない、とソクラテスをつうじて語っている。すると探求が必要になるのは、どこかで知ってはいるが、それが何であるかが分からないようなものについてであることになる。そこから知的探求とは、どこかでよく知っているものを思い起こすことだ、という主張が出てくる。いわゆる知の「想起説」である。この事態には、さまざまなヴァリエーションがある。たとえばよく知っているものを何故思い起こせないのか。思い起こすためには、どのような探求が必要なのか。ソクラテスのような問答法は、思い起こすことにふさわしいやり方なのか、等々の疑問が生じる。これらの疑問に応じて、回答の仕方によってはソクラテスの問いは、まったく別様なかたちになってしまうと予想される。
誰にとっても、思い起こせないものはある。このとき意識がまさに意識であることによって思い起こせない領域が出現してきたというように進んだのが、シェリングである。人間は意識あるいは意識の出現によって、多くのことを思い起こせないままになる。思い起こそうとしても思い起こせない過去があり、シュリングはそれを「先験的過去」だと呼んだ。そのことを明示するために「無意識」という語を活用してもいる。まさに意識がそれとして働くことによって思い起こせなくなっているのだから、意識的努力によって思い起こすことは困難である。そこでシェリングは、意識がまさにそこから出現してくるような意識の基層を捉える独特の探求の仕方を開発した。それは精神がさまざまな自己表現のかたちをとり、精神はまさに自己を直観するためにみずから客体化するような活動態として設定する。そして意識が出現することで終わるような精神の自己形成史を辿るのである。これが「自然哲学」と呼ばれるものであり、自然哲学は対象としての自然界を解明するものではなく、意識の基層をそれとして明るみにだす探求である。この企てが成功したかどうかは、容易には問うことができない。精確に検討すれば、おそらく失敗している企てである。だが意識にとってそれが意識であるために思い起こせない過去があるという課題設定は、いまなお有効であり続けている。
2 記憶という構想
認知科学では、実験的な手続きをつうじてデータを取ることが出来なければならない。またデータを取る作業そのものが記憶に働きかけている以上、備わった記憶の機能をそれに不介入のまま機能だけを調べるためには、周到に条件を整えなければならない。潜在的にであれ現実の事象におのずと記憶がかかわっている事態は無数にある。その代表が歩行や立位のような動作であり、目を開ければすでに眼前にある知覚表象である。これらは想起や回想を起動させている感触がいっさいともなわず、それらにともなう記憶はおのずと作動している。またこうした場面では、どこまでが記憶の関与であり、どこから先が記憶とは独立の働きであるのかを区別することが容易ではない。こうした事例では、記憶とそれ以外の実効的働きの間には隙間がない。いま一歩、二歩と歩いてみると、この動作のどこまでが記憶によって支えられ、どこからが記憶とは独立であるか、区別することはとても困難である。このことはかりに実験を企画したとしてもそれが記憶だけにかかわる実験になっているのかどうかを判別することが難しいことを意味する。
認知科学は、この科学の要請にしたがって、実験的な吟味のかかるものと、そうでないものを区別しなければならない。そして記憶の働きの区分そのものも、それに合うように再編成されることになる。それが非宣言的記憶(動作記憶、手続き記憶、知覚表象)と宣言的記憶(エピソード記憶、意味記憶、感覚記憶、ワーキング・メモリー等)の区分である。宣言的記憶には想起するという意識の努力の感触や、よく知っている(熟知性)ので比較的自然に記憶が起動しているという感触がともなっている。記憶の働きとそれをつうじて出現する事象との間には、なんらかの隙間がある。必死に思い起こそうとしてやっとの思いで想起できた場合のように、想起の働きへの努力の感触がともなっている。
この働きへの努力の感触の違いは、想起や回想にともなう自動性の度合いによって決まっている。トルヴィングは、そうした想起にともなう「想起意識」とでも呼ぶべきもので、記憶システムを分類している。オートノエティクな想起意識は、「自分自身の体験として自己意識」をともなった想起意識であり、エピソード記憶の想起にともなう。先週の楽しかったイヴェントを各断片を連ねるように思い起こすさいには、「私の」経験という意識がともなうというのである。またそうした自己意識をともなわない想起が意味記憶であり、想起感覚のない想起意識が手続き記憶だとしている。こうした分類は、想起のさいのそこに働く努力の感触をモード化したものである。[5]こうした点で、非宣言的記憶と宣言的記憶が、潜在記憶と顕在記憶(それとして感じ取られた記憶)と呼び換えられることもある。認知科学的な実験が関与できるのは、主としてそうした隙間のある事象であり、非宣言記憶については、記憶障害の症例や特異な記憶事例をつうじて推論していくことになる。
現行の実験手続きでは、「学習記憶」とでも呼ぶべきかなり狭い範囲の事象が問われる。複数の単語や図表や図柄を提示し、条件を付けながら記憶してもらって想起してもらうような実験である。それでもかなりの規則性を取り出すことはできる。しかも規則性が取り出されれば、多くの場合反証実験がなされて、再度記憶の理論を作り直していく、というのがここ数十年の推移である。記憶は、その程度に複雑で多くの変数が関与する事象領域である。たとえば新しく記憶された事象ほど容易に想起できることは、常識的な経験に合っている。しかし想起の開始場面である検索のための手掛かりの設定次第では、たとえば小学校の夏のグランドの風景の方がただちに回想できるというような事例を提示することができる。あるいは特定の事象は、その事象への期待や信念と関連しているほど思い出しやすくなるという傾向がある。これもほとんどの経験に当てはまる傾向性である。しかしこれも条件設定次第で、反例を出すことはできる。記憶についての実証科学的な規則性の取り出しは、ほとんどの場合反証例がつきまとっている。
記憶の理論モデルとしては、現行の認知科学では、「システム説」と「ネットワーク説」という議論の整理の仕方がある。記憶の種類や働きのモードに応じて、脳神経系に固有の領域化が起こり、脳神経系内に複数のシステムが実在的に存在するという説と、脳神経系のなかのネットワークの回路が異なるだけで、個々のシステム領域が実在するのではないという説である。後者は、一般に「処理説」と呼ばれる。記憶処理の段階にいくつもの機能系を設定する。音を聞いてたんに感覚記憶されている段階、音を聞いて意味と結び付けて処理されている段階、音を聞いて物語と結び付けて処理されている段階のように、ネットワークのモードの違いで記憶の働きを考察するのである。この場合には「処理段階」の複合の度合いに力点がある。[6]しかし一般的に、システム説であってもそれぞれのシステム領域は、記憶の働きだけに特化するものではないこと、システム領域の再編も起こりうること、個々のシステム領域は連動して起動しうること、という限定を付ければ、両説はほとんど差のないものとなると思われる。
システム説の利点は、加齢にともなう記憶力の変化や記憶障害に比較的対応しやすいことである。老人性健忘のように、記憶全般は損なわれてはいなくても、特定の記憶のモードだけは作動しにくくなっているような場面では、システムの一部に変化が及び、特定のモードが失われてしまう。こう考えた方がわかりやすいのである。60歳代なると新しく入ってくる知識の記憶は容易ではない。その場合でも耳から入る知識はまだ記憶しやすいが、眼から入る知識は記憶しにくいというような違いが出る。50歳代の記憶は容易には想起できないが、30歳代、40歳代の記憶にはほとんど変化がない場合もある。記憶の働きそのものが、年齢をつうじて変化していく。
実験にかかわる学習記憶の範囲内でも、かなりの規則性を取り出すことができる。ほぼ異論がないと思えるものから、精密に詰めてみればより複雑な事象の一部を規則として取り出している可能性のあるものまで、比較的なだらかな確実性の傾斜がある。
(1)呼び出し(想起、回想)にさいしては、記憶されたものが純粋に呼び出されるということではなく、呼び出される事象は多くのネットワークの関与によって再構成されている。こうした「再構成説」と呼ばれる規則性は、記憶の働きをどう考えるかという原理である。想起された事象には、さまざまな要素の関与があるというのは、間違いない事実である。しかしそのことは記憶に混在があるというようなレベルの問題とは異なる事柄がかかわっているように見える。
この原理じたいは、実は記憶された事象と記憶の働きをどのように考えるかにかかわっている。おそらく記憶の呼び出しだけにとどまる規則ではなく、イメージ的表象や直接知覚の場面でも当てはまっている。そもそも特定の感覚印象や意味が記憶される場合、記憶される当の事象以上の多くのネットワークが作動している。コンピュータで何かを登録保存する場合であっても、事象を登録保存するさいには「登録保存」という活動のネットワークが作動している。この作動の一部が登録保存された事象である。記憶された事象は、記憶するという働きの末端の一事実である、というのが実情に近い。
こうしたことは逆に、現実に知覚した事象の記憶と、イメージしただけの事象の記憶を厳密には区別できないことを意味する。実際被験者に物の名前のリストを手渡し、それらの物を実際に見たのか、見たことはないがイメージしただけなのかを区別してもらうと、イメージしただけのものを実際に見たと誤って判断することが、実際に見たにもかかわらずそれをイメージだと判断する場合よりも多いのである。その意味で、記憶はつねに再構成的である。
これに関連する事態としては、「記憶にかかわる事象は、事象単独では測ることができない」という原理がある。「混在の原理」と呼ばれるものである。どのように条件を精密にしても、単独の事象を固有に取り出すことはできない。なにかを想起するさいには、おのずと思い出されているという「熟知性」の部分がともなう。実はこれも根の深い事柄がかかわっており、必死で思い起こすという想起の努力がなされている場合でも、思い起こすという努力そのものにも、おのずと努力できるという働きの熟知性の手続き記憶が関与している。想起するという働きそのものが、すでに熟知性に裏付けられているのである。
(2)次に記憶一般にかかわり、記憶についての実験が可能になることを同時に保証するような原理がある。たとえば「記憶が作動するさいには、何らかの手掛かりをきっかけとする」という規則は、もっとも外側の規則性の一つだと考えられる。これは通常の平均値的な記憶もしくは健常状態とみなせる記憶を境界づける規則性でもある。というのもおのずと浮かんでしまう「自生記憶」は、なんらかのきっかけを必要としているとは考えにくいのである。統合失調症の初期症状の一つだと考えられる「自生表象」は、なんらかのきっかけを特定することは多くの場合困難である。そしてこのことを一般的な記憶の作動のなかに含めてしまうと、そもそも実験が有効に機能しなくなる。この規則は認知科学的な実験を行うことが実行できるための必要条件でもある。この規則は、なんらかのきっかけをあたえる実験によってある記憶の作動が起きたとき、記憶のシステムがこのきっかけによって起動したのか、きっかけはあったがそれとは独立に作動したのかの区別を考えなくてもよいという条件でもある。こうした規則性を設定しておかなければ、そもそもデータが成立しなくなる。
それと並んで、記憶の働きについては、「登録されるさいの符号化と検索をかけるさいの検索条件の関係が基本的な制約条件である」という原理がある。符号化とは登録保存されるさいの処理のことであり、検索は処理されたものを探し出すことである。記憶された事象の呼び出しのさいには、呼び出し条件によって大幅に働きに違いが出る。またより良く記憶される事象とそうでないものの違いは、事象の性格だけに依存するのではない。さらに検索のさいの手掛かりだけの違いによって、より良く想起されたり、そうでなかったりするのではない。そうなると登録保存と呼び出しの間には、個々の事象や個々の呼び出し手掛かりの性格によって差異が出るような線形の関係は存在しないことになる。この原理は、実は記憶の働きの線形の規則性が容易には規定できないことを述べている。
こうした原理ともに、いくつかの全般的な傾向とでも呼ぶべき規則性がある。それは対象の中で目立つものほど覚え易いとか、一回限りの出来事や特定の限定項目を参照しなければならないときの課題は、全般的な情報や関連情報の多い課題に比べて、成績が悪いというような全般的な傾向性にかかわる規則性である。また記憶と他の認知能力の関連をできるだけ明示しようとする規則性の取り出し方もある。短期記憶じたいは、内実はいまでもよく分からないが、注意の焦点に関連していることは間違いなさそうである。[7]個々の情報が注意の焦点に入ってくるためには、知覚の符号化や長期記憶から検索処理が必要であり、注意の焦点に事象を維持するためには、リハーサルのような能動的な処理が必要である、というような傾向性を取り出すことはできる。こうした傾向性であれば、歴史的にもかなりのことが語られてきた。記憶障害時には、近い出来事を思い出すことは、古い出来事を思い出すよりも困難である(リボーの法則)、あるいは二つの時間期経過を経た事象が、同じ強さを維持しているのであれば、遅い事象の方が減衰が遅い(ヨストの法則)のようなものがある。こうした傾向性や規則性は、おそらく今後も増えていくだろうし、多くの場合同時に例外がともなうことであろう。
これらと対比的に、記憶がどのような変化を起こしうるかについて、規則性と思えるものを列記してみる。これらは記憶の変化、あるいは記憶とともに起きる変化にかかわっており、実験的な特定が困難紺である以上、確度の高い推測としておくのがよいと思われる。
(1)母語のようにひとたび習得されれば、それを放棄することのできないネットワークの獲得は、記憶の機能領域を全面的、もしくは部分的に再編する。この規則性は、ほとんどの手続き記憶に当てはまっている。たとえばひとたび自転車に乗ることができるようになれば、それによって身体のバランス制御にかかわる記憶は、部分的に再編されている。
(2)記憶の時間経過は、ダムに水が溜まるようなものではありえない。一歳を過ぎた頃、歩行は習得され記憶されていると考えられるが、身体そのものものも形成され、筋力も変化する以上、歩行の記憶も再組織化されていくと考えられる。歩行は7歳ぐらいまでにほぼ成人の歩き方になる。骨格も筋肉もしっかりしたものになる。そうした身体の変化にともない、記憶された手続きや身体動作も再編される。
(3)歩行のような基礎的な手続き記憶に相当する記憶は、脳卒中その他によるシステム損壊の場面では、他のシステム領域での機能代替は起こらず、大幅に記憶の再編が起きる。そのため手続き記憶であっても、再度記憶を形成しなければならない。
(4)現実に歩行不全の状態で、手続き記憶が起動できない場合でも、過去に歩行できた時の動作の感触の記憶は残っている。そのため動作の手続き記憶と動作にともなう感触の記憶は、異なったものであり、損傷後の現実の動作の形成に多くの困難をもたらす。たとえば過去の十全な歩行の感触は、それに対応する手続き記憶が破損していれば、そもそも無理な課題を過去の感触やイメージのもとに制御しようとする無理な努力であり、その傾向はおのずと出現する。
(5)記憶を直接規定する「時間」変数は、基本的には存在しない。「記憶に保存されている時間が長ければ長いほど、想起される可能性は低くなる」とか「思い出せる確率は、保持時間の長さに応じて減少する」というような事態は、成立していない。しかし新たに記憶された事象は苦もなく思い起こせるのではないかという思いは残る。近傍の事象でそれが自由に再生できる場合には、刺激と刺激の間の時間間隔と、再生を始めるまでの保持時間との比に比例するという規則はある。この場合には、比の中に時間は間接的に出現するが、比の中で相殺されることが多い。
(6)記憶の強さは保持のさいの注意の向き方に関連し、さらに認知的要素とは異なる情動や感情や快/不快あるいは生存に連動している場合には、不連続的な強さが生じる。こうした強さを、認知的課題をつうじて解明することは容易ではない。こうした不連続の強さをともなう記憶は、記憶のネットワーク全般の制御機構では、対応できないと考えられる。こうした強さをともなう記憶は、保存される仕方も出現する仕方も、一般的な認知的知識とは異なる。
(7)記憶の認知的誤りは、記憶し忘れる脱落と、他のネットワークとの混戦(侵入)によるものとを区別することができる。脱落は、ブロッキングのようにそこだけ記憶されないままになるような場面や不注意によって経験が飛んでしまうような場面である。侵入は、一般に思い込みにかかわるものであり、誤帰属、被暗示性、バイアス、固執等々のモードがある。こうした事態を考察するためには、手続き記憶を含めたより広い脈絡のなかで「記憶」を考えていかなければならない。
ベルクソン ベルクソンに『物質と記憶』という著作がある。一九世紀末に書かれた著作で、ちょうどフロイトがヒステリーや神経症の多くの患者を扱いながら、情動の記憶について試行錯誤していた時期に書かれたものである。ちょうど百年ほど前に記憶が、広範な課題になっていた時期である。[8]ベルクソンの著作で、記憶にかかわる基本文献となっているのは、同時代に提示された記憶障害についての夥しいほどの文献と、いつの時代でも書き継がれる「記憶術」にかかわる一般書である。『物質と記憶』では、「再認障害」が主要な事例の一つとなっている。いくつか興味深い事例が出てくる。たとえばかつて見たことのある風景を自宅で思い起こすことができる。だがその風景の前に立つと、かつて見たという感触がまったくないという。保持と呼び出しは働いているが、知覚にともなう再認、初認という「遂行記憶」が働かない。これはおそらく一時的健忘なのではない。眼前に風景がなければ想起できるのだから、保持も呼び出しも働いている。おそらくむしろ運動と連動するさいの知覚の場面での記憶に障害がある。こうした障害を構想の周辺で参照しながら、ベルクソンは記憶をもとに知覚-運動理論を構想しようとしている。そしてそれを哲学的な難題を緩和し、解くために活用しようともしている。
著作じたいに設定される哲学的な要請は、観念論と実在論の対立を、両者とも極端な主張だということで退け、両者を緩和し、いわば解毒することである。ベルクソン本人の主張通り、いわば常識の近くにスタンスを戻すのである。常識とは、可能な限り無理な前提を置かない知のことである。そのとき常識のすぐ近くにある場面の設定を行うことが必要となる。
哲学の議論だから、どこかで出発点となる場面の設定が必要である。これは拠点の設定とは異なる。主体や主観性のような拠点となる出発点、実在世界のような拠点となる出発点を設定すれば、またもや立場設定に戻ってしまう。それはほぼ必然的に哲学的な構想へと進む。拠点の設定と出発点の場所の設定は異なるものである。拠点の設定は、いわば正当化された出発点から進むことである。その拠点からどこまで進むことができ、その途上にどの程度の新たな見通しを見出すことができるかが、議論の成否を決める。設定された拠点から無矛盾に進み、一貫してどれだけ世界に対して有効な説明をあたえることができるかが利点のように見なされる。デカルトの思考する我も拠点である。そこから解析幾何学を導いている。
これに対して出発点の場面の設定は、それが常識的な経験に近づくのであれば、何が事実的に重要で、何が作為的に作られた問題なのかを判別しながら、いわば「問題の再仕分け」を行うことが課題となる。この再仕分けにも、新たな前提が入り込むが、それらがどの程度経験的に検証されるかが問われるのである。それと同時に、そうした場面の設定から、どの程度新たな課題が開けるかが問われる。
そこでまずベルクソンは直接世界の場面設定を行う。それがイマージュ(イメージ)であり、イマージュは「非措定的現れ」の総称である。なにかをそれとして捉えているのではないが、捉える以前にすでに現れているものがある。それがイマージュである。昼間の空は青く、夕焼けは赤い。水は流れ、風は渡る。空の青さも夕焼けの赤も水の流れも渡る風も、一般的な物ではない。通常の物よりもはるかに広く非措定的現れは成立している。脳も神経もどこかでそれとして分かっており、物質に類似したものだから、その意味ではイマージュである。イマージュの総体は、宇宙の総体でもある。これらは一般に科学的な規則に従う。
さらにそこに身体という特殊な存在がある。イマージュの受け渡し、イマージュの変化のなかで、身体というイマージュだけは選択をともない、選択的にイマージュの連鎖に変化を作りだすことができる。それはたんなる機械的法則、力学的法則に従わない。そしてこの身体をともなうイマージュは、それじたいのおこなう選択の場面で、記憶の影響を受ける。それは不断に記憶の影響を受けるのであって、ここに記憶力の問題が関与している。身体を導入していることの利点は、知覚が身体行為と連動している場面を強調するためである。知覚を対象を知るためのオルガン(器官)だとするのではなく、動作の遂行に連動する器官だとするのである。これによって純粋認識や純粋知覚が、認識(論)ということのなかで作りだされた、ある種の虚構もしくはそれを例外的な事態だとする議論を展開することができる。動物を考えてみれば、動物の知覚は有効な身体行動を行うために、知覚そのものが身体行動と密接に連動している。そしてここに記憶が関与するのである。
それらは時代的制約を帯びたいくつかの「思い」として述べられている。「私の神経系は、私の身体を興奮させる諸対象と、私が影響を与えることのできそうな諸対象のとの間に介在して、運動を伝達、分配し、あるいは制止するたんなる伝導体の役を演じているだけだ。[9](51P )「知覚は感覚中枢の中にも運動中枢の中にもあるのではない。知覚はそれらの関係の複雑性を示す尺度であり、それが現れる場所に存在するのだ。」[10](53P )「知覚は、生活体の行動力、すなわち受けた興奮に後続する運動ないし行動の不確定を表現するものであり、これを示す尺度なのである。」[8](74P )「外部知覚における意識の理論上の役割は、現実の瞬間的な数多の観照を、記憶力の連続的な糸によって互いにつなぎ合わせること」[11](80P )である。
これらの行文が示すように、知覚を行動へとつながるラインで捉え、それを主要な機能だとすることで、純粋知覚の虚構を弱め、意識を記憶力の介在する場だとするのである。こうするとどのようにして認識世界が成立しているかではなく、また物質的世界から認識がどのように成立してくるかではなく、認識を世界へとかかわる行動との関連で捉えることになる。この行動の起動に記憶力が関与するのである。後にベルクソンは、病的誤認や認知障害を「現在の回想と誤った認知」でまとめて扱うが、そのさいにも主要な症状の場所を、運動へのつながりを欠いた認知という点で押えている。ベルクソンが主要に関心を寄せていたのは、初めてみたものを「すでに見たことがある」とする再認障害である。一般には既視感と呼ばれるものである。これは認知的感情の誤作動だとされる。ここには過去、現在、未来の時間区分が不明になる障害も含まれている。
記憶の関与 ベルクソンが知覚は運動と連動する器官だとするさいには、生態物理学で見られるような知覚と運動の「連動の内実」が問われているのではなく、知覚-運動連動系に、つねに記憶が関与しているとした点に力点が置かれている。ベルクソンの提示する記憶力の区分は、当時でもおおむね現在の分類と似通ったものである。一方では想起できる記憶であり、「再認記憶」と呼ばれ、「過去の蓄積」だとされている。これは日付が打てるという特徴をもつ。はっきりとした日付をもたなくても、原則日付が打てることが特徴である。たとえば幼少期の記憶で何度でも想起できるものは、大まかな日付をもっている。あの頃の記憶というおよその配置をもっている。時間軸上で配置ができるということが特徴である。ベルクソンは記憶を時間経験にかかわるものだとしている。
他方では、行動の準備にかかわる記憶があり、これは身体に蓄積し、反復するような動作にかかわっている。そのため原則日付をもたない。これらは現在でいう「意味記憶」と「手続き記憶」の区分におおむね対応している。ところが実際にはそうした区分に対応した記憶論の前史を、ベルクソン自身は記したのではない。そこでの記憶力は、以下のような議論になっている。
第一の記憶力は、私たちの日常生活のすべての出来事を、それらが展開するにつれて、記憶心像の形で記憶するものであり、どんな些細なことも洩らさないで、ひとつひとつの事実や動作に、その位置と日付をあたえるであろう。損得や実用性を気にする下心なしに、それは、ひたすら本性の命ずるところに従って、過去を蓄積するであろう。これによって、すでに経験された知覚の利発な再認、というよりは知的再認が可能になるだろう。私たちは、あるイマージュを捜しもとめて過去の生活をさかのぼるたびに、そこに活路を見いだすことになる。しかしあらゆる知覚は、生まれようとする行動にまで及ぶものだ。で、ひとたび知覚されたイマージュがこの記憶力の中に定着しその一員になるにつれて、そのあとに続く運動は有機体を変様し、身体の内に行動への新たな準備をつくり出す。こうしてまったく秩序を異にする経験が生じ、身体に沈殿するのであり、完全に整った機構として、外界の刺激にたいするますます多様化し多様化する反応をもち、たえず増加する有りうべき問いかけにそなえて応答の準備を完了するのだ。私たちはこの機構をその発動にさいして意識するものであり、現在に蓄積された努力の全過去のこのような意識は、これもまたたしかに記憶力ではあるが、第一のものとは根本的に異なった記憶力であって、たえず行動へと向かい現在に立脚し、ひたすら未来をめざすものである。[12[(95-96)
ここにははっきりとした議論の特徴が出ている。(1)記憶が蓄積されることは、過去の蓄積にかかわるのであり、その過去の蓄積が現在に作用する。その蓄積された過去の記憶は、時間軸上に配置され、そのつど現在の行動に影響を及ぼす。あるいは形式化してしまうと、記憶を時間軸上で起きる出来事だと考えており、刻々と時間軸上に蓄積されたり、刻々と行動に作用をあたえたりする。
これはベルクソンが採用する大前提である。だが短期記憶の大半がまたたくまに捨て去られること、記憶は水甕に水が溜まって行くように、均等に時間軸に配置されるような蓄積性はないこと、想起のように思い起こさなくても、意識下で記憶が作動することは間違いないが、少なくても過去が働きかけるというような作用性とは異なる仕組みで作動すること等の異論はただちに出そうである。
(2)記憶の蓄積は、おのずと形成されるものであり、それをベルクソンは「自発的記憶」と呼ぶ。自発的記憶は普段からすでに作動している記憶であり、一般に経験と呼ばれるものにすでにともなっている記憶である。おのずと保存され想起される記憶という点では、行為に連動する記憶でも、おのずと浮かんでしまう記憶でも、実は「自発的記憶」である。これは一切の能動性をともなうことなく、おのずと作動している点で、記憶の働きの主要部分を占める。眼前に知覚像があるとき、そこにどこまで記憶が関与しているかを問うてみれば良い。幼少時からの発達のなかで、形成されてきた記憶のいくぶんかは関与しているはずである。だがどこにどの程度に記憶が関与しているのかを特定することも、判別することもできない。単純歩行にさえこうした幼少期からの記憶は関与しているのだから、記憶に支えられていると言っても、どのように支えられているのかは明らかになることはない。これは探求の設定の仕方に、そもそも無理があることを示している。たとえば一般観念(種、類等)の成立は、抽象による普遍化と個別個体への概念の適応が必要となるが、物事の類似性は表象以前の生きられた体験的現実において取りだされているというベルクソンの指摘は、それじたいは正しい。だがそこに記憶力がどのように働いているのかは、基本的に示すことはできない。
(3)さらに行動に関連する記憶(第二の記憶)は、第一の記憶を絶えず制止する務め、あるいは現在の状況を有利に照らし補充するものだけを受け入れる務めを負うものだとするような制約条件下に置かれる。第一の記憶は、自動的に蓄積され自動的に認知や行動に刻々と働いてしまうのだから、それには何らかの制約が働くはずである。こうした制約条件は、自発的記憶が自動的に働くという設定に応じて、次々と仮構される。たとえば意識では、知覚と整合して有機的な全体を形成することのできないイマージュの意識を、ことごとく排除するというのである。
生きることや行動にとっての有用性が、心的現象に大きく影響することは間違いない。しかし記憶にはそれじたいに組織化の仕組みがあり、行動には行動の組織化の仕組みがある。固有に組織化の仕組みをさらに考察することが、課題となる場面である。
(4)無意識のイメージというものがある。私の眼前で知覚されているのは、部屋の窓とブラインドであり、その手前の作業器具であり、机であり、キーボードである。しかしその外に庭があり、ブロック塀があり、さらにその外には道路がある。これらはイメージであり、習慣のように自明化されているイメージである。それらが記憶に支えられていることは間違いない。不快な感情の生じた場面を何度も思い起こしていると、またもや不快になってくるともいう。だがこうした多くの心的要素が関与する場面では、それぞれの経験の組織化についての考察が必要とされるのであって、記憶力が関与しているのか関与していないのかは争点にならないはずである。ベルクソンの考察では、どこか争点の場所を取り違えているような議論が展開されている。それが多くの謎を生み、著作そのものを難解にしている。問題は、このやり方で記憶の問題にどの程度届くのか、あるいはベルクソンが議論の中心の一つに据えている「記憶障害」の議論にどの程度届くのかである。ベルクソンの議論は、大筋で適切な議論の展開になっているが、大枠での道具立てが不足している印象を受ける。
記憶と日付 ベルクソンの議論の立て方は、記憶とは時間軸で起きる事象だと考えている。知を時間、空間に配分して考えるというニュートン、カント以来習い性となった科学的な仕組みが前提されている。だがこれは本当のことなのだろうか。記憶にとっては、実は日付は本質的なことではない。時間軸で過去を蓄積したり、過去を現在において想起したり、するわけではない。想起された像を、特定の日付に事後的に結び付けることはできる。また逆に特定の日付から、その日の夕方に会った友人との出会いの場面を思い起こすことはできる。いまある像がおのずと思い浮かぶ。そのときそれがいつの場面の記憶であったかを探し出そうとする。するとその前後の場面が浮かんでくる。これは場面の連動であり、時間軸とは直接関係がない。像の想起とともに、想起された像を配置しようとすると像は、なんらかの位置をもつ。そのとき昨夜の楽しかった風景のように、その日の大騒ぎを一つのまとまりとして想起し、そのなかの一つの場面として配置することはできる。ここでは想起をつうじて記憶の再編が起きている。これは特定の場面をきっかけとして、ひとまとまりの出来事をエピソードとして想起し、そのなかに配置するものである。また想起された像の位置をより全体的な空間的な位置と結び付けることもできる。なにかの理由で、特定の誰かの表情が浮かんだとする。誰の顔なのかがわからない。それが誰なのかわからない。いつのことかも分からない。場所を思いだそうとする。すると前週出かけたレストランでの出来事であったことがわかることがある。想起像は、本性的につねに断片である。この断片は、配置をあたえることで想起像として安定する。時間軸は、こうした配置のための一つの変数に留まるのである。記憶は時間軸上にあるのではなく、時間軸とは記憶の再編のための手掛かりとなる外的指標の一つである。ベルクソンの場合、基礎的な記憶が、本来日付をもつとしたために、まるで時間軸の上に過去が積み上がるような記憶の蓄積を考えてしまっている。だが記憶と時間軸とは、内的ではなく、時間軸に記憶が積み上がるような仕組みにはなっていない。保存のさいには最低限選択的な保存が行われ、多くのことは忘れ去られるのであり、保存されたものは、まさに保存という行為によって組織化され、さらに想起をつうじて組織化される。
記憶の動作障害 道具使用をうまく行うことのできないような障害がある。眼前にあるゴマスリ棒が何であるかがわからない、それをもたせると頭にもっていき、ゴマスリ棒で頭を撫でてしまう。こうした病態を一般に「失行症」と呼んでいる。失行症では、大まかな動作はでき、動作全般の障害ではない。しかし道具使用のような動作の微細な組織化をともなう場面に障害が出てしまう。ゴマスリ棒で頭を撫ぜてはいけないということはないが、頭を撫ぜることがゴマスリ棒の有効な活用にはなっていない。こうした失行症は、記憶が関与していることは間違いないが、どこの場面のどのような障害なのかが問われる。かつてゴマスリ棒を使ったことの記憶が障害され、ゴマスリ棒の活用の仕方が思い起こせず、そのためゴマスリ棒を不適切に使用したのか、ゴマスリ棒の知覚が固有の使用関連で見えておらず、細長い物体としてしか見えていなために、ともかくそれをもって何かをしてみただけなのか、ゴマスリ棒が本人にはヘヤブラシに見えていて、その知覚に応じた固有の行為を行っただけなのか、いくつもの可能性が出てしまう。ベルクソンの構想からこうした病態に届かせることは容易ではない。
脳神経系の障害は、知覚障害、行為障害、記憶障害のいずれも起こりうるのであり、どの場面が病態の焦点なのかで治療の力点が変わってくる。行為が環境内もしくは世界内で有効に実行できることは、記憶の関与はあるが、記憶だけに依存したことではない。手の関節が微細で道具適合的に動かなければ、物の道具的な使用を有効に行うことはできない。
失行症については、身体動作に大きな欠損はなくても、全般的に手足に関節の詳細な動きができないことが知られている。そのとき手足の関節に細かな注意が向かない注意障害も指摘されている。そのため記憶による再編だけからでは、病態の詳細さに到達することは難しい。
リープマンに倣って事態を整理してしまうと、運動性の記憶である「運動エングラム」と行為の編成にかかわる「観念企図」があり、運動エングラムの起動がなければ、肢節運動失行となり、観念企図が起動しなければ、単純な動作はできても道具使用のような複雑な動作はできなくなる。そして両者に解離が起きれば、動作と道具との間にミスマッチが起きる。これらはいずれも動作の再起動のさいに見られる障害を基本にして組み立てられている。[14]失行症では大まかな動作(単純歩行、食事等)はできるのだから、基本的には症状は動作と道具とのミスマッチである。道具の知覚のさいに、それにふさわしい動作記憶が呼び出されていないのか、道具の知覚が注意を欠いた状態でなされ認知的な誤認が含まれているのか、あるいはいずれも起きていてともかくも物を掴んだら、何かを実行しただけなのか。症状の度合いによっていずれもありうるのである。そのとき道具を前にして、「これは何ですか」「これを以前に使ったことはありますか」「これを前に使ったときの感触は思い起こせますか」「これを前に使ったときの動作はイメージできますか」等々が経験を区分して行く問いとなる。失行症は、軽度の脳損傷であるので、言語的な問いに対しての経験の分節は起きると期待してよく、それによってどこに経験の再編が必要であり、どこにエクササイズが必要かを考察するのである。
記憶の言語障害 ベルクソンは言語的失語症の症例を比較的多く取り上げている。たとえば怪我で自発的に語る能力を失った患者でも、他人から語られた言葉はよく覚えており、それを繰り返すこともできた、という症例がある。語の選択的結合能力が損なわれていても、機械的にあたえられた語を繰り返すことはできる。これじたいはヤーコブソンが、後に失語症の一つの典型例として取り上げるものであるが、機械的反復が可能な以上、記憶全般の障害ではない。また時計の打つ音は聞きとれるにもかかわらず、何時を打ったのかが、わからない症例も取り上げられている。音の聞き取りと数えることは別様のオペレーションであり、音の聞き取りは覚えている以上、短期記憶の障害ではなく、また再認障害ではない。その音が時計の音だということは分かっているのである。そうなると数え上げるという行為的オペレーションに不備が生じる、ワーキング・メモリの障害なのかとも思える。こうしてみると記憶の障害は、圧倒的に多様な変数が関与していることがわかる。
再認障害としての人物誤認 「人物誤認」(キャプグラ)という頻度はそう多くないが奇妙な病態がある。よく知っている身近な人物に対して、「今日のあなたは偽物だ」というような言動がでてくる。[15]どこが違うのかと問うと、何も違わない、顔も目も髪もいつもと同じだという解答がでてくる。この病態の多くは、直接体験に根差している。あるよく知っている人に出会う。知覚はできる。どこかで会ったことのあるよく知っている人だという再認の感触もある。しかしその日の知覚と再認の感触にはズレがあり、再認で認定されているものと知覚で捉えているものの間には、隔たりがある。
どうも今日のその人物は、どこか違うのである。ここの感触の違いがかかわっている。再認には、個体の基本イメージが関与している。そのイメージは、それとして明示的に取り出すことはできないが、無数の知覚から抽象して「基本形」を取りだしたようなものではない。おそらく二,三の実際の場面からでも直接獲得されている。このイメージが「この個体」を支えており、あの人、この物というように分かるのである。それは意味というよりはゲーテの原型に近いものである。というのもそれはいくぶんかは一般化されているが、具体像である。ゲーテの言う「原型」は、イデアのような普遍的抽象態ではなく、植物の双葉のような具体的個物であり、そこには別様なものになりうる活動の基本形が含まれている。個体の知覚は、意味ではなく、抽象態でもなく、端的な基本形としての原型知覚に近い。
ところがある日の知覚がこのイメージとの落差を含んでいることがある。あれと感じられるような違和感を含んでいる。この違和感の出現も、再認をベースにしている。再認の感触があるにもかかわらず、知覚が再認の感触とはズレている。それが誰であるかは、再認をつうじて分かっており、了解はできている。しかしその日の知覚は、再認されているイメージとはズレているのである。それがよく知っているいつもの人であることは、理解できているにもかかわらず、違うという違和感は、紛れもないものであり、さらには時として圧倒的な確信でもある。これが「今日のあなたは偽物」だという特定をもたらしている。
実は、こうした人物誤認は、同じ人物に対しても毎日起こるわけではない。だがなにかのきっかけで起きてしまう。この場合再認を強く取り、この人であることは間違いないという確信の側に力点を置くと、「時々はこんな表情もあるのだ」という「知覚の修正」にいたる。知覚の修正の論理的根拠は、ある人物の属性をどのように詳細に集めても、「この人」という個体に到達しないことである。属性の無限集合からは、個体そのものに到達できない。[16]あるいはこの物の知覚は、さまざまな現れをともない、すべての現れはこの物の現れであるが、現れから「この物そのもの」には到達することはできない。逆に個体の現れが、さらに追加されることはむしろ自然なことである。通常は別の表情、仕草、態度もあるという知覚の修正が行われる。知覚の修正能力は強力であるため、ごく自然に修正はなされる。このとき知覚が修正されない可能性も同時に出現する。再認の感触と知覚のズレが強い確信となっている場合である。
知覚は感覚的直観であるため、一つ一つの知覚はそのつどの確信をもつ。だからある人を見たとき、それが再認できない場合には、「あの人は誰だろう」ということになる。つまりその知覚は初認である。この場合には、人物誤認は起こりようがなく、誰だか分からなかった、知らない人だというに留まる。またある人物を見たとき、再認はあり、かつ基本的イメージとの違いが認定されている場合には、「あの人はずいぶんと変わった」「今日は別人のようだった」という基本イメージからのズレは認定されている。何年振りかに会う場合には、こうしたことがよく起こる。前者が知覚の修正であり、後者が基本イメージの訂正である。いずれの場合にも、人物誤認にはならない。
すると人物誤認の必要条件は、(1)いつものように再認はなされており、その人についての再認は習慣化されるほど身近なもので、(2)現在の知覚はその再認の基本イメージとは異なり、(3)再認と知覚のズレは、感覚的、感触的に確信されており、(4)このズレはただちには修正も訂正も効かない場合である。
感覚や感触は、知覚とは異なり訂正可能性がない。(1)が人物誤認が身近な人にしか起こらない理由であり、(3)が人物誤認はそれほど頻繁には起こらない理由であり、(4)は人物誤認を引き起こす人(患者)が、比較的老齢である理由である。またこの訂正や修正の幅が狭まったり、知覚の同一性認定が変容した病態では、「人物誤認」が比較的頻繁に起きる。[17]私自身も、五〇代後半の年齢になって以降、自分自身に人物誤認が起こるようになり、はじめてこの感触がわかるようになった。ゼミの学生を見て、「今日のあなたは偽物だ」と何度も言いそうになったのである。
人物誤認には、再認の基本イメージと知覚のズレが含まれるが、このズレが何をきっかけにするかによっていくつものモードがありそうである。人物の表情には、知覚とそれに浸透する情感とが捉えられている。情感では、親しさや優しさ、あるいは拒否的もしくは無関心のような情感が直接捉えられており、人物の知覚はできているが、情感としては別の人物だと認定される場合もあるかもしれない。オリバー・サックスがそうした可能性を指摘している。[18]だが情感として、今日は普段とは様子が違う場合には、「今日は機嫌が悪い」「今日の雰囲気は妙だ」というような認定になるのが普通で、人物の同一性は維持されているが、普段とは様子が随分と違うということに留まる。これは人物誤認ではない。
ただしオリバー・サックス自身には、本人自身が自任するように、人の顔をほとんど見分けることのできない「相貌失認」傾向がある。ごく少数の良く知っている人以外には、顔を覚えられないらしい。おそらく普段、顔や表情を見ていないか、注意が向いていないのである。オリバー・サックスは自分の秘書の顔さえ、多くの人のなかでは見分けがつかないようである。待ち合わせ場所で秘書から声をかけられてはじめて気づくと言った状態らしい。顔の再認が、ごく少数の顔についてしか起こらないのである。こうした特殊条件下では、そもそも人物そのものの個別特定できていない可能性が高い。人物失認が起き、にもかかわらずいつものように普段と変わらず身近にいるという条件を満たす人物に生じる違和感が、こうした主張になっていると考えられる。
ともあれベルクソンの立てた問いは、斬新で果敢なものであった。だがそこから記憶の夥しいほど多様な障害像に迫ろうとすると、どうにも道具立てが不足しているというのが実情である。記憶にかかわる事象では、個人差が大きい。このことは記憶システムが多くの変数から成立していることを意味する。そこで記憶を行為を支え、行為とともにある潜在態だと規定しておく。この潜在性は、新たな経験をつうじてそのつど再編されている。この再編にはネットワーク化されてエピソード記憶になるものと断片のまま保持されているものがある。断片のまま保持されているものは、一般に「記憶に落ちていない」と言われ、一切の志向性をともなわず随意に出現することがある。多くの場合、恐怖や怒りのような強い情動と連動している。また呼び出しに応じて、記憶は選択的な再編を受ける。呼び出しは、つねに選択的になされているが、その選択は継起的に進行する場合には、そのつど一つの回路を作りだしてしまう。つまり潜在態の関与のもとで、何度でも同じ回路が作動しやすくなる。身体動作の場合には、それが練習と呼ばれる。その場合には記憶は起動可能状態と同じである。呼び出しの選択性は、現に実行されようとする行為と整合的であるとは限らない。ことに道具使用では、眼前にある道具と起動される行為がミスマッチになることがある。また知覚的な像に対しては、再認、初認の区別は潜在的にはつねに働き、知覚が純粋に現在の知覚であったことは一度もない。そのさい知覚が類種的な制約を受ける。知覚に関与する潜在性は、枠取りを提供する。流れていく雲が人の顔に見えてしまったり、柳の枯れ葉が美人に見えたりもする。この局面では知覚は選択的再認によって組織化されてしまう。ここでも知覚と再認のミスマッチが起こりうる。それが人物誤認であり、知覚は人物の同一性を確保しているが、そこに再認の感触がともなわないのである。暫定的に定式化しておけば、以下のようなマトリックスとなる。
表象・再認[記憶の再編]・・・行為の起動[記憶の再組織化]・・・行為の予期(イメージ、期待、信念)
2、情動の記憶
基本的事柄 情動は、直接現れることはない。悲しみや愛しさが、物のように眼前に現れることない。だがそれは紛れもない現実である。現れには、情動がともなうことがあり、そこには必然性はないが、にもかかわらず見かけ上密接に連動するように関連している。情動は、現れに「浸透」する。それだけではなく類似した情動に異なる現れが結びつけられたり、異なる現れに類似した情動が結びつけられたりする。子供が、医師に類似した人を見つけると、それだけで泣き出してしまうような場合もある。現れと情動の間には、一対一対応がなく、両者の結び付きは比較的任意性が高い。だが結びついた場合には、確信を越えた必然性が感じられるようにつながることもある。このつながりは否応がない。
現れの想起は、つねに特定の場面の想起である。昨夜の夕食の楽しかった風景を思い起こすさいには、特定の場面がくっきりと思い浮かぶ。特定の場面が何故想起されるのかには、明確な理由を指定することはできない。ここにも想起をつうじた選択的再組織化が働いている。現れの想起は、つねに像の断片性である。それはそもそも像が断片的でしかないことによっている。そのためなぜそれが繰り返し思い浮かぶのかわからないかたちで、同じ断片的な情景が想起されることがある。たとえばテーブルの上に置いてあった氷を詰めた壷である。こうしたイメージ像が何度でも思い浮かぶ。その情景の周辺を思い起こすと、それが祖父の葬儀の一場面であったことが思い起こされる。これはフロイトが「代理記憶」と呼んだものである。代理記憶は、現れの想起がつねに断片であることを基礎にして、もっとも印象の強い断片を記憶していることが多い。なぜそれがつねに浮かぶのかは、理由を求めても明示できない。本人にとって繰り返し起こるほどの事態であるのに、そのこと自体には別段重要性がないらしい。ここにも記憶システム固有の作動のモードがあり、本人の履歴上の重要さと記憶として想起されるものには、線形の対応関係がない。それは本人にとっても不可解で不気味なことでもある。
思い起こそうとすればいつでも思い起こせる幼少期の記憶はある。それが紛れもなく自分であることの充実の感触をともなって想起される場合には、その人の「原風景」である場合もある。私の場合、保育園の砂場で夕暮れまで遊んでいて、西日が金色にまぶしく自分の右の顔半分に当たっている情景を何度も思い起こすことができる。
それに対して、情動の想起は、それがいつの情動であったのかを指定することはできない。昨日怒りにまかせて怒なったときの怒りの場面が想起されても、日付が指定できるのは、昨日怒ったときの風景である。現れには想起の後に日付を打つことができる。だが情動の想起には、原則日付がない。いつの怒りなのかを指定することができない。しかしこれは事態を誤っている。昨日の怒りの場面を想起した場合でも、場面をきっかけとして再度今怒っているのであり、昨日の怒りが想起されているのではない。情動は、過去の怒りの場面をきっかけとする場合でも、いまもう一度作動しているのである。そのとき怒りの強さの感触がともない、あのときと同じくらい怒ったというようなことが起きる。情動の再認には、「情動の強さ」の感触がともなうことがある。情動の強さの感触は、情動そのものではないが、情動への気づきを含み、情動に対しての調整機能を果たしていると考えられる。
恐れや不安のような情動は、記憶(登録)にさいして、記憶しようとして記憶しているのではない。情動の記憶は、一般に非志向的である。おのずと記憶され、ときとして否応なく記憶されている。学習での知識や美しい風景をくっきりと記憶しようとしているときには、それを心に刻もうと志向的に努力している。登録の仕組みが、情動と現れとでは、まったく異なったモードになっている。楽しかった時の楽しさを心に刻んで、一生覚えておこうと努力することはまずない。そのため多くの場合に、情動は学習の対象にはならない。学習の対象となるのは、情動の制御の仕方であり、情動そのものではない。このとき情動の制御には、調整の感触がともなう。
楽しかった場面の楽しさを思い起こそうとすることはあるが、それは再度楽しさに浸され、再度いま楽しくなるのであって、過去の楽しさを思い起こすことではない。過去の楽しさを思い起こすことはなく、現にまた楽しくなるのであり、それは何度も類似した楽しさを経験することである。不安や恐怖も、同じように過去の不安や恐怖を思い起こしているのではなく、再度いま不安になりいま恐れているのである。そのため情動の想起は、つねに遂行的であり、「遂行的記憶」である。ただし鉄棒の逆上がりや自転車に乗ることのように何かのきっかけで自動的に遂行される「手続き」記憶のようなものではない。情動のきっかけとなった情景を思い起こしても、別段不安や恐怖が起動されることがないこともあれば、度を越して再度情動が起動することもある。情動の起動は、手続き化されていない。それはおそらくそれじたいの作動に不確定変数が含まれていることによっているのであり、そこに情動の作動の制御の難しさがある。
数日前から歯痛に苦しめられているとき、最大限に痛かった日を思い起こすことがある。しかし情動と同じように、直接過去の痛みが蘇ることはない。痛くて苦しんだときの苦しみが直接蘇ることもない。しかし苦しかったときの感触は残っている。そのときの緊迫感や緊張やどうにもならなさは、いま再度想起され起動し、薄らと冷や汗がでるとか再度緊張することがある。緊迫性や緊張感は、再度いま起動して、一人で苦しんだりすることがある。しかも感触の再起動の強さには、そのつど強弱がある。これは感触の記憶の基本形である。
こうした領域では、情動や感触に対しての意識的な制御に、意識の本性的な錯誤が含まれやすいことが薄々察せられる。多くの場合、不快な情動や感触に対しては、意識はそれを避けようとする。だがそれによってさらに新たな問題が引き起こされることもある。フロイトが敢然と踏み込んだのは、こうした領域である。
発見にともなう試行錯誤は、いつも入り組んでおり、届かないと思われる箇所と、届きすぎて踏み越えてしまっている箇所が混在し、それじたいは魅力的である。しかもそこに再度踏み入ったとたんに、新たな問題群に直面し、当惑するほどの分からなさの前に佇むことになる。『夢分析』で無意識の文法という新たな問題圏を突き進むことになるフロイトは、1885年から『夢分析』に着手する手前まで、さまざまな症例とともに、試行錯誤を繰り返している。この試行錯誤の中には、多くの可能性が含まれていた。精確に言えば、その試行錯誤の一つがやがて「精神分析」という大きな構想となった。それ以外にもさまざまな構想の可能性が残されていたのである。この時期の試行錯誤は、精神分析という技法のシステムに総体として組織化されるプロセスを含んでいる。ここでの最大のテーマとなっているのは、情動の記憶であった。そしてそれが生半可なテーマではなかったのである。
神経心理学的力動 フロイトの初期著作に、「心理学草案」というのがある。[19]フロイトの著作の中では、異様に抽象度が高く、読みづらい草稿である。神経システムに最小限の要素を設定し、それの相互作用と相互作用のための各種条件を付けていく仕方で、心理学の基本概念を神経システムの機構の側から対応づけて考察する仕方をとっている。これじたいは力学の手法と類似したものである。メカニズムに、最小限の要素設定を行う。力学で物体の運動と相互作用を設定する場合と同じように、ニューロンに「透過性ニューロン」と「非透過性ニューロン」の二種類を設定し、神経細胞に接触障壁があり、作用の伝達に選択性があると設定する。さらにそこに働く外的刺激や内的作用量の量的な違いで変化が生じる。ことに非透過性のニューロンは、選択的透過性があり、ひとたび興奮するとそれ以前の状態とは異なる状態に移行し、記憶を担いうる可能性が出てくるとしている。透過性ニューロンは何も抵抗がなく、何も保持しないニューロンであり、フロイトは知覚に関与するニューロンだとしている。知覚ニューロンには二つの機能性があり、外部からの刺激を受容するニューロンと、内因的に発生した興奮を放散するような機能性を含んだニューロンという区別が設定される。非透過性ニューロンでは、接触障壁が伝導性を増し、非透過性が減じれば、通道するようになる。一様に通道したのでは記憶のような事態は生まれないので、通道の度合いに差異があると考えられる。その差異は、心理学で言う「印象の大きさ」と同じ印象が繰り返される「反復頻度」に依存するとされている。
こうした議論の利点は、生物的な細胞間作用量の蓄積を、通道をつうじて緩和し、また非透過的なニューロンの数を増やすことで、いわば通道の選択的な通路が生まれるとしたことである。こうした選択的な通路を設定しておくと、たとえばイメージのような外的刺激に依存しない心的事柄を説明することができるようになる。たとえば痛みとは、大きな作用量が非透過性ニューロンに向かって侵入してくることである。痛みは、透過性ニューロンも非透過性ニューロンも作動させ、痛みの伝導の妨げになるものは何もないとしている。
こうしたやり方で量的な作用を想定したとき、意識的経験のような質的事態がどのようにして起きるのかを説明する必要が生じる。神経系は、仕組みからして、外的量を質へと転換するための仕組みが備わっているに違いないと想定されている。それは量的なもののなかに出現する周期性であり、作用量の非受容にともなう周期性である。しかし知覚では「固有のこの知覚」というような質的なありかたを直接導くことはできない。それは知覚がそもそも選択性をもたない通道性があるからである。こうしたやり方で議論が前に進まなくなれば、さらに第三のニューロンすなわち「知覚ニューロン」を導入するというような仕方になっている。そうした知覚ニューロンの導入後に、意識も知覚ニューロン過程の主観的側面だというように再解釈される。不快とは、非透過性ニューロンにおいて細胞間作用量が亢進するさいの知覚ニューロンの感覚だということになる。他方、透過性ニューロン刺激は、それに比例する運動性の興奮に変換されることで、神経系の放散傾向を喚起する。このように変換された作用量は、筋、腺などに流入して、はるかに大きな作用を生み出す。
非透過性ニューロンにおいて中心となるニューロンが充足されると、放散努力が生じる。ただしこうした放散機能は、人間の場合、一人ではできないので周囲の人が手助けをする。こうして意志疎通という二次的過程が獲得される。作用量の充足体験では、対象像と想起像という二つの表象と、圧迫の状態で備給される場合に中心となるニューロンとの間に、通道が生じる。
一般に自我は、非透過性ニューロン全体の中で、同一に留まる構成部分を変化する構成部分から区別する働きを行うことができるというように設定されている。そして選択的に作用量の流れ方を変えることができる。自我は、敵対的な想起像への新たな備給の到来に対して注意を向けさせる仕組みの助けを借りて、不快の迸りの経過を制止させることができる。つまり抑制の機構が備わっている。知覚ニューロン放散の情報が、非透過性ニューロンに届くと、この情報は、非透過性ニューロンにとっての質的指標すなわち現実指標となる。
また一般に判断は、自我の静止によって可能となる非透過性ニューロン過程であり、想起像の欲望備給とそれに類似した知覚備給との間の非類似性によって呼び起こされる過程だとされている。この両方の備給が合致すれば、思考行為を終結させて、放散を開始させる生物学的信号となる。知覚像がまったく新しいものでない場合、想起像知覚ニューロンを呼び起こし、この想起像において思考過程が反復される。あらゆる思考過程の目標と終端は同一の安定状態をもたらすことであり、それは機構でいえば、外部由来の備給作用量をニューロンへと移送することである。思考は、身体備給との同一性を、再生する思考は心的な備給との同一性を探し求める。判断する思考は、再生する思考がさらに動けるように、通道を仕上げていく。およそこれがこの議論の概要である。
こうした議論の仕方は、実は「神経システムでの量的作用の論理学」とでも呼ぶべきもので、徹底的に論理的であり、ごく少数の原理から一貫して説明を企ててみる、という具合に議論は進んでいる。
おそらくフロイトはいつものように同時代になされていた多くの議論を吟味し、一つ一つ検討を加え、論駁し、別様に説明するという課題をみずからに課している。科学的な理論形成からすれば、前提となる仕組みを設定し直すことで、事柄を可能な限り明示することを目指しているのであり、それは事柄の間の関連をさらに内的に規定することであり、そこに思考回路を貫いていくやり方である。しかも記述は科学的というよりは、ドキュメンタリーの語りに近い。ドキュメンタリーの語り(物語)の資質をもちながら、そこから機構を考えるさいには「過度」と形容してよいほど徹底的に論理的である。事象への接近の仕方は文学者のようであり、かつそこに稀有なほどの粘り強い強靭な論理を持ち込んでいる。こうした稀に見る資質から「精神分析」は生まれた。だがそれは科学や心理学より、文学と論理学の合体物に近いのである。文学的読みと論理的整合化は、往々にして過度の整合化と過度の読み込みを生みやすい。そもそも合致困難なものを合致させようとしているからである。そこから文学的な読み込みで症例に対して共同作業を行い、やがて論理的思考をつうじて共同作業そのものを解消していくというフロイトの終生の傾向が生まれる。みずからの過去の成果に対しても、みずから自分自身との「共同作業」を解消するプロセスが終生続くのである。
初期症例 この時期、フロイトはブロイラーとともに、一般に言われる「神経症」や「ヒステリー」もしくは「情動障害」の患者を数多く手掛けている。ブロイラーとともに手掛けたフロイトの症例のなかには、多くの洞察と踏み込みが見られる。それは多くの場合外傷性ヒステリーにかかわっている。驚愕、不安、恥、心痛のような苦しい情動を引き起こすすべての体験は、心的外傷として作用しうるものであるが、それが心的外傷となるのは、もちろんそれを被った人の感度や感受性に依存している。ここでは記憶の仕組みにかかわる範囲で、ブロイアーやフロイトの症例を取り上げる。
フロイト自身の医師としての転機となった症例が、ブロイアーによる「アンナ・O嬢」である。[20]内斜視、重篤な視覚障害、右上肢および両下肢の拘縮性麻痺等が身体症状として出ている。O嬢には、二つの完全に分離した意識状態があり、頻繁にしかもかつ突然に交代した。一方では比較的正常で、周囲のことが理解でき、不安はあるものの安定していた。もう一方の意識状態では、幻覚を起こし「不作法」であり、周囲の物を投げつけるような暴れかたをした。こうした意識の異なる作動モードが、くっきりとした区分をともなって切り替わった。これをブロイアーは「二重意識」と呼んでいる。父親の看病と死をきっかけにして形成されたこうした意識の異質なモードの共存には、明確な時期的区切りもあった。第二の状態は、特定の年代と季節が区切られていて、その状態以降に起きたことは、すべて忘れ去られていた。この時期の再体験が繰り返し起きており、それが治癒まで続いた。病的な第二状態で蘇ってくるさいの心的刺激が、正常な第一状態に影響を及ぼすこともあった。ブロイアーは、患者本人が実行していた語りをさらに敷衍させて、「最初のきっかけ」を語らせると症状が消失して行くことを報告している。ただし最初のきっかけの場面だけを想起しても治癒は起こらず、当時の情動を起動させて、それを記述させることが必要である。
この症例では、異なる意識状態に応じて、異なる記憶の回路が形成され、病的状態の記憶は比較的独立性が維持されていることがうかがえる。比較的正常な第一の意識状態からは、第二状態の記憶を意識の努力によっては想起することができないようである。また第二の意識状態の出現では、想起が情動や身体行動を巻き込んで制御の効かないかたちで作動してしまう。また想起されたものが、断片化され、不連続性を含み、容易には系列化されない状態にある。第二の意識状態では、記憶された事象が選択的組織化を受けておらず、ともかくも起動すればしばらくの間、作動し続けるのである。
フロイト自身の症例であるエミー・フォン・N夫人は、時として「恐怖幻覚」が出て、顔をひきつらせて恐怖と嫌悪をあらわにし、声も変わって不安に満ちたものになる。こうした恐怖幻覚は、それが始まったときと同様に突然終わり、それから患者は話を続けるが、恐怖幻覚のさいの興奮を亢進させることもなく、突如経験のモードが切り替わる。身体には、痙性様の緊張症状が出て、足に冷感や痛みがでる。また項の引きつりが起きる。
また催眠誘導が異様とも思えるほど容易である。暗示をかけると注意を集中させて聞き、やがて顔つきも穏やかになり、なごやかな表情になる。譫妄幻覚では、動物恐怖症におびえている。動物恐怖の由来は、本人自身は幼い頃兄弟が死んだ動物を自分に投げつけ、それによって痙攣発作を起こしたことにあると考えている。それに引き続き怖い思いをした情景をいろいろ繰り出すが、それらが比較的すらすら出るところをみると、何度も想起されては系列的に記憶されているようである。恐怖や不安が浮かんだとき、それを最初に見出した表象(たとえばエレベーター)に結び付けるように、情動や感情が起動すると比較的任意にその場での表象に結びつける傾向がある。フロイトは、これを「想起錯誤」と呼んだ。想起錯誤が起きるさいの表象は、過度の「生々しさ」を帯びている。それを見ているのではなく、それだけを切り取った映画の一場面のようにくっきりと浮かぶのである。また催眠下で患者に報告を求めると、いつも時系列を逆に進む。近傍の手前の方から思い起こし、最後にもっとも重要なきっかけとなった事態を語り始める。
身体性の麻痺の原因は、四肢にかかわる表象が新しい連動系を見出せないことであり、四肢の表象による連動が外傷性の想起と結び付いているためである。また特定の部位を動かさないようにすれば、他の部位に緊張その他が生じるような「代替行為」が起きる。N夫人は、容易に夢遊状態に誘導できる。そのため譫妄幻覚のような意識状態と、正常な状態と、催眠状の夢遊状態という三種の意識状態が判別される。正常な意識状態では、譫妄幻覚状態と夢遊状態の時のさまざまな経験の想起ができない。ところが夢遊状態では、三状態すべての経験の想起ができる。想起という点では、夢遊状態がもっとも正常に近く、自在さの度合いが大きいとしている。
次にミス・ルーシ・Rは、ある家庭の子供たちの家庭教師であり、軽度のヒステリーを呈していた。化膿性鼻カタルがあり、痛覚消失がともなっていた。この症例は、夢遊状態になりにくく、催眠も容易ではなかった。そのため横たわり額を押して離す瞬間に想起を誘導するという手法(前額法)が採用された。焦げたケーキの臭いが、繰り返し想起され、幻覚になっていた。それの由来する事象を追い求めると、ケーキを焦がした場面が想起されたが、それが想起された後に、さらにその奥に隠された情動の記憶があることが明らかなった。ケーキを焦がした臭いに代えて、葉巻の臭いが想起されてきたのである。この葉巻の臭いは、家庭教師先の恋心を抱いた主人と彼から発せられた受け入れにくい言葉に由来していることがやがて明らかになった。外傷性の記憶は、二度目のものが最初のものを被い隠すような働きがあり、二番目の症状が除去されるまで、最初のものは想起できないことがはっきりとしてきた。
次にカテリーナは、呼吸困難や吐き気が生じる程度の悩みを少し超えた軽症の症例である。叔父と従姉妹の不倫現場を目撃し、そのことを叔母に告げたことで、叔父夫妻の離婚にまでいたる騒動に巻き込まれている。その不倫現場の目撃の背後には、さらに数年遡る叔父からのカテリーナ自身への身体接触も潜在化していた。性を知らない頃の心的印象は、成熟するにつれて、記憶そのものが心的外傷のような働きをする。
さらにエリザベート・フォン・R嬢は足に痛みを訴えている。彼女は、心的印象と、たまたまその時期に感じていた身体的痛みとの連想を作り上げており、痛みの身体感覚を心的感覚を表す「象徴」として用いていた。この痛みは、性愛的表象が締め出され、それに付着している情動が、それと同時期に独立に発生していた痛みの亢進もしくは再活性化に用いられた。したがって心的外傷が、身体的障害を生み出す一般的なヒステリーとはかなり異なるものである。
身体諸感覚と表象は並行する系であり、そこでは身体感覚が解釈として表象を呼び起こしたり、逆に表象が象徴化して身体感覚をつくり出すようなことが起きる。記憶にかかわるのは、連想による表象と身体感覚の連動であり、この連動を支えるものが表象とは区別されて「象徴」と呼ばれている。身体の変調と表象とが、抑圧のような作用関係を介さず、いわば患者自身の「イメージ」のなかでつながっているのである。これらが初期フロイトが丹念に記述している症例の概要である。
初期フロイトが症例から見出しているのは、情動の記憶にかかわる多くの局面に関連する事象である。心的印象が身体へ作用する場合、直接的には、その場から逃げる、その場から遠ざかる等の運動性の反応が起こる。それは生存の適合戦略に適うことであり、恐怖に襲われれば逃げ、不安に圧倒されれば叫び出す。個々の情動の起動する場面は身体反応を引き起こし、そうした状況が解除されれば、情動も反射的な運動も終わる。さらには情動の起動にともない身体的な震えや硬直や場合によっては痛みをともなうこともある。ところが情動が心的印象として記憶され、それが意識のさまざまな防衛反応を受け、その結果身体に痛みや運動不全のようなさまざまな症状がでることがある。その一つがヒステリーである。記憶というかたちで経験の基層に蓄積されたものの活動性の成果が症状であることになる。
一般的には記憶された情動の不快さを避けるために、意識はその記憶が再起動しないように抑圧をかけている。そのため現動化できない情動は、エネルギーが別の形に転換されて、身体症状になって出てくる。そこでそうした心的外傷の発生の場面まで遡り、その場面を想起させながら起動した情動的な出来事を言語的に記述させると、症状が消えていく。「誘因となる出来事の想起を完全に明確な形で呼び覚まし、それに伴う情動をも呼び起こすことに成功するならば、そして、患者がその出来事をできる限り詳細に語りその情動に言葉を与えたならば、個々のヒステリー症状は直ちに消滅し、二度と回帰することはなかったのである。情動を伴わない想起は、殆どの場合全く何の作用もない。[21]
この想起の場面には、時として当面想起している場面とは別に、さらに隠されている記憶があることがある。それを丹念に掘り起こし、抑圧されていた記憶とそれにともなうエネルギーを解除すれば、治癒が実現するという仕組みとして語られている。これは精神分析の一般的な定式化である。
ここでいくつもの疑問や別様の考察の可能性が生じる。(1)心的印象は、像(表象)と同時に情動的な付加として快・不快のような情動価を帯びている。怖い表象、激怒する表象、楽しい表象のように像と情動価は、独立であるが比較的緩やかなかたちでつながっている。いわば情動は、表象に浸透している。そうすると心的印象が記憶されるさいには、想起像と情動価は同じように記憶されるのだろうか。これは記憶(登録)として、比較的前後関係や意味的な関係でネットワークを作ることの容易な表象の記憶と、相互に関連づけの難しい情動が同じモードで記憶されているとは考えにくいことに関連している。
事象の登録というさいに、登録すべきもの、登録しておきたいものとそうでないものの区別は、おのずと進行しているはずである。ここには登録にかかわる選択がある。では選択そのものがなされないような登録はあるのだろうか。多くの驚愕や強い不快や危機感は、一切の選択が利かないように出現する。それらは選択がない以上、登録しようとして登録しているのではない。そこでは外傷という言葉が過度に似合いすぎているように、神経に刻まれた傷のようなものである。だが傷は、それが傷である限り、自然修復のプロセスをおのずと引き起こす。一切の選択が関与せず登録されるものは、通常の記憶回路には入らず、いわば傷として残存する。これは保持や呼び起こしにさいしても通常のプロセスとは異なった回路を経ると予想される。つまり登録には、いくつもの複数のモードがあるに違いないが、そのうちでもおのずと進行して登録されるものと、そうでないものの区別は、神経システムが認知的に行う区別ではなく、おのずと起きてしまう違いである。その結果、記憶された経験は、自分自身にとっても一種の驚きである。
エピソード記憶は、すでに選択がなされ、系列だった記憶であり、配置の上での制御が可能となっている。意味記憶は、アフリカの砂漠の暑さのように、意味のネットワークのなかでの配置を受けているが、系列的な記憶ではない。アフリカの砂漠の暑さは、たとえ一度も直接経験したことがなくても、メージとして暑さの経験をもつことができ、それをイメージとして想起することもできる。意味記憶は多くの場合イメージと連動している。そうすると登録の仕方のモードによって、その後の保持の組織化や想起のモードにも違いが出ると考えられる。
(2)心的外傷は、意識や自我の能動的作為によって、忘れ去られ避けられようとするが、そのとき不快な情動が避けられようとしている。このとき意識は能動的作為によって、情動に関連する表象を避けようとするのか、情動そのものを避けようとするのかで、抑圧には異なる回路が成立するはずである。不安な雰囲気のように、気がつけば繰り返し再起動するような情動は、それに対して気にかけないようにする、もっと別の楽しい時間を過ごすようにする、あるいはじっと我慢して時間が過ぎて行くのを待つ等の選択肢が生じる。情動と連関する表象を思い起こさないようにする場合には、表象の出現を意識の志向的努力によって回避する。当初情動と結びついていた表象を、別の表象に置き代えて当初の表象が想起されにくいようにしてしまう場合や(想起錯誤)、その表象の前後だけを直接つないでその表象だけを欠落させる場合や(戦略的健忘)、前後関係とは異なるまったく別の表象系列に組み込んで、別の事態として安定化させる場合や(神経症的再編)、イメージをつうじて別のイメージ系列をつくり出し、当初の表象を形骸化あるいは希薄化する場合や(無化)、さらにはおよそ無関係な事実系列に乗せて、別の意味をあたえてしまう場合(虚構・妄想化)等が考えられる。それぞれにおいて、当初その表象と連動していた情動は、いくぶんか再編を受けるのだから、その表象の経験の内実は入り組んだものになる可能性があり、実際にフロイトが繰り返し悩まされたように、由来が不明なほど複雑化してしまう。
一般に表象の制御には、多くのモードがある。それは健常者においても活用されているものである。第一に見たくないものをおのずと無視をする。気づかなかったことにする、おのずと無いものにするということに近い。これは抑制でも抑圧でもない。選択的注意の場面で、注意を向けない。するとそうした現実性が出現することの手前で、現実そのものが成立しなくなる。多くの場合、何かそれ以上にかかわるとやっかいなことになるという、予期が働いている。予期をつうじて現実性の出現の手前に事態を止めてしまうのである。表象の領域では、注意をつうじて現実化するものと現実化しないものが分かれる。現実性の境界はそのつど区分されている。ここには意識的抑制に類似したものは何もない。そうした現実は意識の事実となってはおらず、意識の範囲内の問題ではないからである。
さらに表象そのものを消そうとすれば、感覚・知覚に変化をもたらすことがある。感覚・知覚の変化が生じる場合には、境界が変動して幻覚がでたり、通常では聞こえない物音が聞こえたりもする。さらには別様の感覚・知覚系列が生じたりもする。表象に関連する感覚・知覚が変容するのであれば、身体内感のように内的に感じ取られる感覚も変容することがある。いわゆる麻痺である。これらは記憶にとどめられたまま、意識に浮かぶことなく、なんらかの記憶そのものの再編を受けている可能性が高く、意識は再編の事実をいわば他人事のように受け取る可能性が高い。
そして心的外傷は、発達の過程で別様に変容することがある。保持は、たんなる維持ではないので、繰り返し組織化を受けると予想される。そのなかでも成長とともに増幅され、変容するような外傷が焦点となる。外傷もそれが外傷である限り、摩滅し消滅していくのが普通である。大半は消えていくと思える。忘却とは、見かけ上過去を清算することである。ところが例外的に内実を変え、さらに別様の興奮・緊張を生み出すような外傷がある。それが性的領域である。性成熟にともない別様のシステム状態に、外傷が組み込まれていき、ごくわずかのきっかけで制御不能な挙動や言動が起きることがある。これはフロイトが「事後性」と呼んだものである。自己組織化からみれば、ごく自然なことであり、情動のマトリックスが変容し、形成されてきて、そこにごくわずかのきっかけで相転移に匹敵する劇的変化が起こるのである。その劇的変化が、情動を解放することもあれば、錯乱を生み出すこともあり、別様の回路を見いだし、昇華されることもある。幼少期の体験が、別の体験をきっかけとして、一連の感情価を帯びた表象となり、隣接領域での身体的不具合まで形成されてしまうというものである。
こうした経験には、過去の経験とその蓄積、現在でのきっかけ、それらの感情価の変化、隣接領域での連動の四つの変数をともなう組織化が行われているように見える。これらの四つの変数は、可能性としては膨大な変化の余地があるが、感情価の変化が病理として発現するというのが本来の仕組みである。ところが幼少期にささやかであった体験が、ある時期のある出来事や経験をきっかけとして再組織化され、別の感情価をもつ経験の作動へと変化し、本人自身にとっての病態となる。これをフロイトに倣って因果関係に転換したとき、過去のあのささやかな体験が、はじめて過去での原因となる以上、実際には過去への投射が起きている。こうしたことが「事後性」ということの内容である。
こうした設定のなかにも、自己組織化に特有のシステム的作動の未決定さが含まれてしまう。軽微な病態に対して治療的介入を行えば、まさにそれ自体によって、ささやかな経験を不釣り合いなほど病態化してしまうこともあり、鬱積したリビドーを慢性病態へと組織化することもある。これらは事後性とは言えないが、にもかかわらずシステムの本性として起こりうるのである。もちろん鬱積したリビドーを病態化させることなく、別の事態へと再組織化(昇華)させることもできれば、ささやかなきっかけをつうじて過去をさらに劇的にしてしまい、倒錯へと誘導することもある。こうしたシステム的分析は、多様に現実化される回路をそれとして形成しながら進んで行くのであり、そのことは情動の作動マトリックスがそもそも多変数的であることに対応している。フロイトは因果関係を基本にして考えており、ラカンは言語関係から取り出された隠喩、換喩の関係で事態を捉えようとしている。だがシステム的な機構で進む途は、もちろん開かれたままである。
(3)想起(呼び出し)するさいには、表象の多くは思いだそうと志向して思いだされる。もちろん想起しようとしないのに思い浮かぶ表象もある。自動想起を引き起こすには、意識による志向的想起-非想起のラインを解除することが有効な場合がある。いわゆる夢遊状態にして自動想起をつうじて、表象を呼び起こすことはできる。ところが情動は、呼び出そうとしても呼び出せないこともあれば、呼び出そうとしないのに再起動してしまうこともある。情動を想起しようとして想起する場合には、単独で情動の側を呼び起こすことは難しいと思われる。というのも不快な情動は、すでに避けられようとしており、避けようとしているものを引き出すことは容易ではないからである。
ところで想起は、ストックされたものから選択的にどれかの項目を選び出すようなことだとは思えない。想起するという事態のなかで、情動の再起動と表象の呼び出しは、別個の仕組みである。情動は、身体ならびに身体運動との連動性が強く、リズム性と運動性をもって作動する。
一般にブロイアーもフロイトも無意識下で自分自身では知らないようにしている心的要素を、想起とそれの語りをつうじて「知る」という手続きを取れば、病状が消滅することを繰り返し述べている。それは臨床的事実なのであろう。この点は、後年精神分析の技法そのものに吟味をかけ、病態解釈の枠そのものを変更するようになる「快感原則の彼岸」においても、なお維持されている。患者自身が自分で知らない自分の無意識の経験を、精神分析をつうじて知ることができれば治るという大前提は、記憶の仕組みから見る限り、実は心的システムの仕組みを狭く設定し過ぎている。
何故、どのようにして病状が解除され消滅するのであろうか。想起するということは、まさに想起する行為によって、記憶されているものを再編し、さらには経験そのものを再編する。不快で避けようとしている心的印象を、その情動を再起動させると同時に、言語的な語りと連動させることで、情動そのものを再編する。ここにはいくつもの行為要素が含まれている。本人が避けようとしている情動は、抑圧されている状態であり、あえて抑圧を解除することで、作動性を回復させる。しかも反射的な亢進が起きないように、語りといういわば別様の連動系を起動させる。語ることは、経験の別様の再編であり、それは「知る」というような事態ではなく、遂行的経験であり、行為である。多くの場合には、強烈な断片となった心的印象を脈絡のなかに置き、エピソード化し、さらには物語的なつながりを形成させて、記憶されているもののネットワークを再編する。もちろんそこには語ることで、それ以前の自分自身による抑圧とは異なる対処に踏み込んでもよいという治療者への信頼も前提されている。
想起することは、それがとりわけ想起されにくくなっている記憶の想起であれば、想起することによって記憶そのものを再編し、記憶のなかに含まれていた意識的制御によるアンバランスな緊張を解除することにもつながっているに違いない。意識がみずからの制御を記憶に及ぼしている場合には、注意深くそれが非随意に作動しないように管理しているはずである。そのことは経験だけではなく、身体的反応へ緊張をかけることでもある。すると意識そのものもそうした制御をつうじてみずから緊張状態にある。これは経験全域に緊張をもたらしている。そのため過去の想起を行うさいには、いくぶんか自動想起状態を作り出し、いわばこうした緊張を解除して行くのである。この場合には、知るということとは独立に、まさに想起という行為を行うことが緊張の解除につながる。そして経験に行為的な再編が起きていることになる。知るということにともなう同時に進行するこうした経験の行為的な再編こそ、あらゆる分析的治療法でベースとして関与しているもののように思える。少なくても抑制され、抑圧されて生じている経験のなかの歪みのかかった緊張は解除されている。これは想起するという行為をつうじた再編である。
患者が抑圧されたものをみずから知るというプロセスへと誘導される場合に、治療者(医師、セラピスト)が知りたいと思っていることをそれに合わせて述べてしまうことがある。心的外傷が身体の痛みに影響をあたえているのではなく、強い外的印象とたまたまその時期に起きていた身体の痛みが時間的に共存するだけで、患者本人がそこに何かのつながりがある、と思いこんでいるだけの場合には(エリザベート・フォン・R嬢)、心的外傷由来の記憶の負担には、ほとんどかかわっていない。そのため治療者(フロイト)が自分の問題とは異なることを言わせようと患者自身は感じている。医師によって訊ねられたことが、自分の固有の問題に対して筋違いだと感じられることは、しばしば起こる。医師は繰り返し何度も筋違いの問いを向けてくる。そしてなにやら患者は何かが違うと感じながら、それに対して答えなければならないほどの強制力を感じているのである。
想起そのものは、一つの行為であり、まさにそれを実行することによって、記憶そのものも再編されている。だが多くの場合、強烈な心的印象となった表象を何度も思い起こし、それによって患者自身がこの印象を強化している。そこへの対処へ向けて、フロイトは、機械的因果関係と語りによる認知をつうじて患者の病態を動かそうとしたのである。
第三の記憶 情動の記憶には、特殊なモードが関与していることがわかる。それは認知科学では容易に手の届かないようなものである。情動や感情や感触の記憶は、第三の記憶というべき独特の仕組みになっている。情動や感情や感触は、直接現れることはない。現れとなるのは、表象であり、情動や感情と表象は直接的な結びつきはない。つまりそれらのつながりには、ある意味での自由度と選択があり、さまざまな理由から特定の表象と結び付けられている。言語と情動は由来から見ると、相当に近い位置にある。そのため情動に対して言語的な表現をあたえることは、情動や感情を整えることでもある。言語的表現は、表現されたものが何であるかを知ることとはまったく異なる働きをする。情動にメリハリを付け、リズムをあたえ、それとして作動の調整の変数を多くするのである。
情動や感情は、それ単独で自律的に作動するシステムではない。身体的行為と認知とのギャップから生み出された派生的なシステムである。これが情動仮説であり、感情仮説であった。[22]派生的なシステムであってもさまざまなシステムと連動しながらマトリクッスとなって作動している。そうするとシステムの連動のありかたを変えることで情動や感情の作動のモードを変えることができる。言語的な表現は、そうしたモード変更の一つの手段である。
情動や感情に対して言語的表現をあたえることは、叫びやうめきのような詩的言語の場合には、情動や感情に対して、ある種の爆発性の身体運動をあたえる。言語のなかに含まれる運動性の要素を最大限活用するのである。これも言語的な認知とは異なる働きである。また言語的な表現は、物語化を含む。いわば事象を時系列的に記述することを可能にする。すなわち前後関係での配置をあたえることを可能にするのである。これは記憶の仕組みを時系列で再編することで、選択された事項からなるコンテキストとなる。ところが事象や表象は時系列化できても、情動や感情そのものは時系列化されはしない。このギャップに作為的な無理がかかったり、本人にも理由のよく分からない緊張が出現したりする。
一般に記憶にさいして、表象化できる記憶は、特定の断片となる。こうした表象の断片化は、記憶のさいの簡便さ、呼び出しの簡便さ、表象間の置き代えの容易さをもたらす。フロイトが問題にしたのは、記憶に意識的、本能的な制御(抑制)がかかった場合の情動の記憶の作動モードである。そのさいのシステムの定式化は以下のようなものとなる。
身体生理
情動の起動・再起動(感触・気づき)・・・表象の想起・・・イメージ(感触)・・(意識)
言語
情動の起動・再起動と表象との間には、比較的緩やかなつながりしかなく、別の表象との置き換えが効く。表象とイメージの間も比較的緩やかであり、ここには新たなイメージを設定して誘導を行うことで、一挙に情動を再編するような働きも含まれている。それはラカンが威力が強烈過ぎると規定したような事態である。このとき意識は、多くの場合選択の場所を開き、選択的に事態を制御しようとする。
情動の起動にともなう感触とでも呼ぶべきものがある。ちょっと調子が悪そうということにともなう気づきである。こうした感触をうけて同じように抑圧をかけているとすると、そうした場合には抑圧の仕方を学んでいなことになる。多くの場合、意識の努力をともない意識的な充実すなわち我慢の快感にも支えられた抑圧を繰り返しているように思える。抑圧は、それを解除するだけが正当な手続きではない。抑圧を別様に実行し、別様に活用することはできる。その場合には、意識はいくぶんか緊張を帯びており、こうした緊張を解除しながら別の抑圧の仕方を学ぶことができる。たとえば先送りであり、また次の機会に考えましょうというような先送りである。それは意識そのものの制御の仕方を学ぶことであって、同時に意識から力を抜くことでもある。
あるいはすでに症例で見たように、連動するイメージを活用することもできる。イメージの連動によって、身体的痛みと過去の記憶とが独立であるにもかかわらずどこかでつながっていると思いこんでしまっている症例がある。この場合には、無くてもすみ、無いほうがよい身体的症状と記憶された情景の連動が形成されていた。それでは積極的に、連動の新たなつながりを作ってしまうことも考えられる。何度も同じ表象が浮かんでしまう場合には、別様のイメージを連動させると局面が変わってしまう。私は中学生の頃、粗暴で無茶なことばかり行っていた。階段の手すりで逆立ちするようなことまでやっていた。後年その場面を思い起こすと、全身に緊張が走り、意識にも身体にも緊張が漲って解除できないことが続いた。あのときの緊張の感触が何度も出現するのである。そのときには転がり落ちて背骨を骨折するようなイメージが連動して浮かんでいた。そこでウルトラC並みの転んでも一回転して足で着地するイメージを何度も接続して行った。その逆立ちの情景が浮かび、あの緊張の感触が再起動するたびに、ただちにそのウルトラCの動作のイメージを接続してしまい、経験の局面を変えてしまったのである。
システム的な複合連動系で考えていくさいには、どこか連動しており、どこが選択肢を含む連動であるのか、選択肢がある場合には、どこに介入のポイントがあるのかというような手順となる。それは情動の記憶のようなマトリックスに対して、分析性の度合いを上げ、かつ作動のための選択肢を探し出し、新たな作動の回路を見出していく企てとなると考えられる。初期フロイトの症例から見る限り、システム的精神分析は可能であるように思われる。精神分析には、当初、多くの可能性があったのである。フロイトは、因果的作用関係と言語的な思考を軸とし、知ることに力点を置いて精神分析の枠組みを整えていった。しかし今日、自己組織化やオートポイエーシスから見る限り、いまだ多くの可能性を使い残しているのである。
4 記憶の補遺
記憶のなかには、エピソード記憶のように、一連の場面が次々と移り変わり、ある場面を思い浮かべると一まとまりの場面の移り変わりが出現してくるものがある。一つ一つは想起像である限り、断片である。断片が数珠のようにつながっている。まるで映画の場面の移り行きのようである。それぞれの断片には選択性がある。夕食の場面である会話の場面を次々と想起することもできれば、その合間に相手にしてもらえないで鳴き始めたネコの仕草を思い起こすこともできる。想起像の接続には、選択的な注意による場面の切り替えが起きる。同じように動作の記憶のなかにも、それが起動しても、一つ一つの動作単位での選択があり、異なる接続がある。これらの記憶は、短期記憶にも長期記憶にも分類できない。幼少期から習得しており、いつ習得したのかさえはっきりしない長期サイクルの記憶とも、そのつどほとんど捨て去って行く短期サイクルの記憶とも異なる別のモードの記憶である。こうした記憶こそ、新たな知識を獲得させ、新たな動作の獲得を可能にしているものだと思える。こうした記憶は、一般にワーキング・メモリと呼ばれている。おそらくワーキング・メモリには、かなり多くの下位区分があると予想される。一般に中期のサイクルをもつ記憶だと言われており、これらが行為や動作の多様性を形成するさいには、決定的に関与している。
いま手拍子を一定のリズムで打ちながら、86、92、98、104、110、116・・・と数えてみる。数字を6ずつ大きくしていく。すると手拍子のリズムが乱れたり、逆に次の数字が簡単には出てこないという事態が起きる。行為や動作には、それらを反復し、自動的に行いうるような行為や動作の再編があり、一まとまりの行為や動作を可能にするような記憶の関与がある。それらは作動を継続することもできれば、また作動の継続中に訂正を行うこともでき、ほどよい長さの作動の継続後に、行為や動作を打ち切ることもできる。数を6ずつ増して数えていく課題で、100を越えたとき8つずつ増やすという規則の変更を行っておけば、ごくわずかの訂正を行うだけで、自動的に変更しながらさらに継続することもできる。
行為や動作の継続のうちに、そのつど別の選択が生じる場面がある。それらの選択の出現するところで、行為や動作に区切りが生じる。それが行為や動作の要素単位である。6ずつ数を飛ばしていくさいには、6の数字を足し合わせて加算を使う場合も、6回数を数え上げて6回目に数を特定する場面でも、一まとまりの行為や動作を繰り返していく。100を超えて8つずつ進むように切り替えるさいには、手順が少し変更されるだけである。ところが102から順に6ずつ小さくしていく課題では、異なるオペレーションを行わなければならず、区切りが変わるだけではなく、オペレーションそのものが変更されている。こうした要素単位の繰り返しは、機械的な反復を支えるだけではなく、選択性のある分岐点でそれ以前の行為を選択的に放棄できていなければならない。そうすると、学習障害でのワーキング・メモリの障害には、要素単位の形成の障害、選択的制御の障害、すでに機械的に実行できていることを放棄することの障害、あらたに起動されたオペレーションを選択的ネットワークに組み込むことの障害、選択的ネットワークの再編の障害等々があることがわかる。行為の要素単位が、おのずと形成されているのか、オペレーションの局面が変わったとき、別の行為単位を選択できているのか、とりわけ現にすでに実行されている行為単位を選択的に放棄できているのかが、分岐点となる。[23]
動作の感触 動作の記憶は、基本的には手続き記憶であり、なにかのきっかけでひとまとまりの一連の動作が起動し、進行する。手を上げようと思い、苦もなく手が上がるのは、手を上げようとする意志の働きが動作を起動させているのではない。意識的な意志の働きはいずれにしろ動作のきかっけをあたえることはあるが、それが動作を起動させたり、動作を制御させたりするというのではない。おそらくスイッチのような起動開始条件でさえない。というのも電車のなかで立ったまま新聞を読んでいて、急に電車がブレーキをかけて減速するとき、おのずと後方の足を踏ん張りながら、吊革につかまろうと手をあげているのであり、意識的な意志は関与しなくても、おのずと反射的に手は上がっている。ただし反射行動だけであれば、動作は一般に多様化することも複雑になることもないと考えられる。
動作の感触の変容は、中枢神経や末梢神経の損傷時に比較的頻繁にあらわれる。歩行しても前に歩いた時のような感触がない、リハビリで歩行訓練を行っても、集中し訓練を行ったことの疲れと困難と難儀の感触はあるが、歩行したという動作の感触がない、という訴えは多い。むしろそうした動作の感触の喪失は、神経系の損傷の場合には、ほとんどつねにともなってしまうほどの頻度である。リハビリの場面で生じる記憶の関与する行為についてまとめてみる。
神経系損傷による麻痺によって、第一にそもそも行為や動作にともなう「身体内感」がない局面がある。身体の感覚がなく、身体を動かしてもそもそも動かしたという動作の内感がないのである。このときには、身体を動かすことは、どうすることなのかがわからないままになる。訓練を行う場合、一つ一つの訓練は支えを得て実行できても、何かができるようなったという内感がともなわないのである。つまりその訓練で少しは良くなるという感触がまったくない。この場合には、訓練を繰り返しても神経系が再生するまで、いつどのような形で歩行が獲得できるのか、まったく見通しがもてないままになる。この段階では、動作の内感が形成されないために、おそらく動作訓練は記憶には落ちていない。何度繰り返しても一から開始するという状態に近い。
記憶そのものに損傷があるわけではない。先週の訓練の風景を想起することはできる。それが苦しい訓練であったことも想起できる。また快・不快の感触は想起できている。だが動作について、記憶の回路に入るものがない、すなわち記憶すべき経験がないという事態に近いと思われる。これは何かを記憶できないことではない。すなわち選択的な排除ではない。むしろ非記憶なのである。訓練を行っても、その場だけの訓練である。
しかし過去の歩行の感触はいくぶんか想起できている。現在の歩行がそれとは随分と異なるものであることは感じ取れている。最低限、そのことについては理解できている。しかし想起した過去の歩行の感触と現在の動作の感触の隔たりを感じ取ることは困難のように思える。そこには無限の隔たりがあるからである。重度の脳卒中や脳梗塞による片麻痺では、こうした事例が多い。世界的免疫学者であり、重度の脳梗塞からのリハビリを行っていた多田富雄のリハビリ記には、こうしたことからくるいらだちやどうしようもなさや絶望に近い嘆きが多く含まれている。過去の感触のようなものも、動作や行為の感触ではなく、動作や行為を行った場面やそのさいの充実の感触のようなものかもしれない。
第二に、リハビリでの歩行訓練で、歩いている感じがしないという場合、過去の歩行とは感触がまったく違うというように感じられる局面がある。少し歩行はでき、歩行にともなう動作の感触もあるが、かつての歩行の感触とまったく異なるというのである。ここでは再認は働いている。しかし動作の再認は、認知的な再認ではなく、感触の想起である。動作の感触の想起はできていて、そこにズレがある。再認されている感触は、現在の歩行訓練の手掛かりとなり、調整能力の手掛かりとなるが、それに合わせるようにして現在の歩行を形成することはできない。このとき当日の訓練のそのつどの試行で、そのつど動作や行為の感触を想起してみる。それを繰り返すのである。どの程度の効果があるかわからないが、想起の活用を考案する必要はある。
第三に、選択的想起の障害というようなものがある。何かを覚えており、しかも大量に覚えているにもかかわらず、思い起こせないという感触が前面に出てしまう場合である。過去に何かはあり、その感触は残っているが、それが何であったのかを選択的に呼び出すことができないのである。記憶野の局所的障害の場合もあれば、想起の回路の不全であるのかもしれない。想起するという経験の感触はあるのに、想起そのものができないというのに近い。左脳の言語野もしくは記憶野の近くに脳卒中の出現したジル・ボルト・テイラーの回想録には、そうした場面がでてくる。
脳の中の壁に沿って、ファイル用のキャビネットは並んだままでしたが、あらゆる抽斗はぴしゃりと閉じられ、キャビネットも手の届かないところに押しやられています。
ここにあるすべての資料を知っていたこと、脳が豊富な情報を保持していたことは思いだせます。でも、それはどこへ行ったの?たとえ情報があったとしても、わたしはもう、それを取り出せない。・・・・
言語と記憶を並べる機能が全くなくなり、これまでの人生から切り離されてしまった感じ。そして、認知像や概念の拡がりがないので、時間の感覚もありません。過去の記憶も、すでに呼び戻せなくなっていました。[24](39-40)
この局面では論理的思考は大幅に解除されてしまい、もはや論理的に考えることは経験の制約条件ではなくなっている。逆にその分だけ右脳の直観的な自在さが前面に出て、いっさいの制約が解除されたかのような解放感さえ生まれている。至福の時だとも語られている。記憶の障害は、過去から解放されることでもあり、既存の制約から解放されることでもある。だがこうした記述は、特殊な感覚の感触を伝えている。つまり記憶があるという感触は残っており、それの一つ一つが思うように呼び出せないことにかかわっている。これは呼び出しに選択性がないというのが実情に近い。
第四に整形疾患で、末梢の神経系に損傷を負った場合にも、動作の感触が容易には戻ってこないことがある。外科手術による骨折や関節疾患への対応はできても、末梢神経系の損傷は容易には回復しない。ところが突如神経がつながるようにして回復することがある。この場合には中枢性の疾患はないので、過去の動作の想起は支障がない。現在の動作の感触がどうにも動作とは感じられないだけである。オリバー・サックスがノルウエー山中の崖から落ち、左大腿四頭筋腱切断という重傷を負い、切断した神経の障害によって足の感触も、歩行時の動作の感触もなくなっている。外科手術では、外傷性の筋肉、関節の障害を治すことはできる。しかし抹消神経系の障害は、また別である。オリバー・サックスが自分の身体や動作の感触を回復するときの場面は、いつものようにまるで劇画を見るように印象的である。
ひどく骨の折れる機械的な精確さ、慎重さ、うんざりするような計算が必要だったにもかかわらず、動物や人間の動きとはいえなかった。「これが歩くってことなのか?」恐ろしくてめまいがした。「死ぬまでずっとこんな歩き方をしなくてはいけないのか?二度と本物の歩き方をとりもどせないのだろうか。自由に自然に歩くことはできないのだろうか。これからずっと、動くたびにやり方を考えなくてはならないのだろうか。すべてがこんなに複雑で煩わしいのだろうか?簡単にはいかないのだろうか?」
凍りつくようなイメージが、心のなかで無声映画のように音もなくちかちかとつづいた。突然、静寂をやぶって、音楽が聞こえてきた。メンデルスゾーン。力強いフォルティッシモだ。歓喜、生命、うっとりするようなメロディーの動き!考えるまもなく、気がつくと私は歩いていた。かろやかに楽しく、音楽に合わせて。魂が呼んだのか、幻聴だったのか。ともかく、心のなかで音楽がはじまったとたんに、私自身の動きのメロディーが、歩行がもどってきた。そして左足も、なんのまえぶれもなく、そっくりともどってきたのだ。左足は、生きている自分の足として感じられた。それはまさに、自然に歩けるようになり、心に音楽がうかんできたそのときだった。ちょうど廊下から部屋に入ろうとしていたそのとき、まるで奇跡のように、音楽、歩行、足の現実化が一度にやってきた。[25](175-6)
この場面では、神経系の再生がネットワークとして一挙に進んだことがわかる。音楽は、幻聴でも想起でもよく、いくつもの感覚がネットワークとして再編されている。歩行訓練でいつものように力を籠めて訓練を開始している。ところがこの場面では、頭に鳴り響く音楽とともに、歩行の感覚も身体の感覚も一変する。とりわけリズム性の感触が再編の要であり、音楽のリズム性と動作のリズム性が連動している。しかしこうした局面がいつどのようなかたちで出現するのかを、あらかじめ決めることはできないと思われる。またつねにリズムが基調となるとも言えない。神経系の再編が起きる場面では、運動感覚や身体感覚だけが単独で再編されるとは考えにくい。特定の連動する感覚を指定し、そこから誘導することはできない。身体や身体運動の連動する範囲をあらかじめ決めることはできず、連動する作動のなかで、連動するものの要素の範囲がそのつど境界づけられていく。それは創発するシステムの鉄則でもある。そうしたさいの動作のマトリックスは以下のようなものとなる。
個別動作(動作単位)…動作の感触(想起される感触・気づき)…動作の遂行的イメージ(予期・調整・気づき)
記憶への問いは、リハビリのような人間行為の再生プロセスでは、いつもつきまとう課題である。片麻痺のように脳神経系の障害では、過去の歩行の姿や歩行の感触は思い起こせるが、そのことが歩行という行為の実行にはつながっていかない。その落差を段階的に埋めていく工夫は、いくつもの局面で実行可能だと思われる。こうした場面でようやく問いの局面が見えてきたばかりである。