V 情動・感情のシステム
情動・感情は独特のシステムである。かりに感情にふさわしくシステムを定式化しようとすれば、システムの意味さえ変わってしまう。情動は一定の動きのように感じられるが、対象世界の運動のモードである、場所移動、質変化、発生消滅のようなどのモードとも異なる。また情動の変化は感じ取れるが、恒常的に運動として感じ取られているのでもない。
三つの難題 このシステムの扱いにくさには、三つの問題がある。一つは、本能に近い情動と圧倒的に多様な感情が、類似した基本性格をもちながらほとんど別の能力であることによる。情動は、主として、大脳基底核、側頭葉(辺縁系)に主要な座をもつが、感情は大脳新皮質にも座をもつ。[1] 系統発生的に感情の由来を考えようとするとき、これらは別の起源で別の機能をもって出現した可能性が高いのである。だが恐怖や不安のようなものは、どこに位置づけても座りが悪い。実は博愛のような感情でさえ、配置しようとすれば座りが悪くなる。というのも博愛総体が実現されれば、本能的な生存にとってコストの少ない安全が確保され、どこかで本能や情動に類似した効果をもつからである。その結果、博愛行動のような動物行動を探し出す企てには、限りがないことになる。だが最低限の区分をしなければ、あまりに多くの多義性と任意性が生じる。
ここで単純な事実を確認しておく。情動や感情は、脳神経系で考える限り、脳の多並行分散機能システムの特性にしたがって、感覚・知覚や思考とは、並列的な機能領域を占める。ところが現象学は、基づけ構想にしたがって、本能志向性、衝動志向性、感覚の受動的志向性のように階層的に議論を組み立てていくと思われる。だがこうした階層性は、本来どこにも成立しておらず、哲学の一種の虚構になってしまっている。最低限、固有化する機能領域は、並行分散系で考えておく必要がある。
第二に感情に限定しても、感情は通常の認知能力とは異なる働きをしている。感覚や知覚は、基本的に知る能力である。もちろん感情にも認知の能力はある。醜いものを避け、美しいものを求めることは、ごくありふれた行為である。しかし醜いものと美しいものをただ判別しているだけではない。認知的な判別とは、異なることが感情では実行されている。美しいものを感じ取るとき、対象を美しいと判別し、対象の美しさの内実を知ろうとしているだけではない。美しさを求める行為のなかには、美しいものをそれとして認知し、同時にあるいは先行してそれとの親和的な関係を築く行為も作動している。しかも認知的に判別した美しさを介して、はじめて感情が動くのではない。美しさがわかってのちにはじめて好きになるというのは、どこか筋違いである。この場合、認知と同時に働く行為の内実を詰めて見なければならない。だが感情の作動は、それによって激した振る舞いややさしい振る舞いが生じることはあっても、それじたいは振る舞いではない。感情的な振る舞いはある。だが感情の作動そのものは、動作でも振る舞いでもない。本当に問題を難しくしているのは、情動や感情と身体および感覚・知覚との関係が容易には明確に規定できないことである。
感情の作動は、独自の回路をもつ。たとえば論理的な事柄であれば、感情とは無縁であると思われがちである。ところが同一律(AはAである)のようなものでさえ、認知的な形式では疑うことができる。なぜA=Aは自明なのかと疑いをさしはさむことはできる。この場合、一般に同一律にはそれにふくまれる内容上の意味とは別に、どこかで「必然性の感情」がともなっている。[2] だから「自同律の不快」という言葉も、実質性をもって成立している。この実質性を支える位置に、感情の作動がともなっている。自同律とは異なる論理を選択する場面を考えてみる。自同律以外のさまざまな選択肢はありうる。A=Aの前のAと後ろのAは別の意味だと主張することは比較的容易である。「私は私だ」と言ったとき、前の私と後ろの私は明らかに異なっている。多くの場合、前の私は、私という個体の特定であり、後の私は、他の多くの個体との比較のなかで、他の誰でもない紛れもない私だという意味である。だがこうした自同律以外の他の選択肢がありうるという論理的操作とは別に、自足への不快がともなっているのである。一義的に確定できない事柄をそれとして特定しようとしたとき、論理的な選択性とは別に、同時に感情が働いている。
他方無限なものを知るさいには、全貌を知ることはできない。世界や宇宙総体は、人間がそれらの外に出ることが出来ない以上、本来的に全貌を知ることができない。精確には世界や宇宙総体は、全貌を知るような対象ではない。このとき論理的に全貌はわからないこととは別に、知りようのない無限なものに対して、ある種の情感がともなう。そこにときとして畏怖や畏敬が生まれる。根本的なものを感じ取りたいという欲求は、哲学にしばしば見られる。だが根本的なものの論理とは別に、根本的なものに触れている陶酔感のようなものもある。知にともなう感情の場合、知と感情との距離感にはさまざまなものがある。認知がそれとして完結しないとき、そこに同時に感情や情感がともなっている。感情や情感を欠く人間は、人間としての基本機能を欠く。これはしばしば語られることで、生活の精彩を欠くといわれる。だが知そのものにも、おそらく意識にも精彩がある。知の根底や知の限界に直面したとき、あきらかにそこにはある種の感情や情感がある。そしてこれは、計算や演算のような手続きの修得とは異なる知の記憶をもたらすと予想される。
人間の場合、認知機能のうち直観能力は、ある種のイデアを捉えることができる。このイデアへの直観は、それに対してどのような行為を行おうとも、すべて測定誤差範囲に入るようなところがある。それ以上にイデアは、それに対してどのような行為を行えば、行為したことになるかが規定できないのである。イデアとは三角形そのもの、四角形そのもののようなものであり、どのような具体的三角形、四角形でもないような三角形そのもの、四角形そのものである。これは生命そのもの、人間そのものにもただちに拡張できる。三角形そのものに対して、あるいは生命そのものに対して、どのように行為したら、それに対応する行為をしたことになるかを示すことができない。ところがこのとき独特の感情が生じると予想される。一般にそれは、ある種の崇高さであり、つねに身の丈を越えたものに触れ、それを感じ取ることである。これらは情動とは異なり、知の領域に密接している。おそらく前頭前野のどこかでの働きである。
しかも感覚・知覚された知的な事柄と、情感・感情の距離感の変動は、何度も確認してきたように、通常のカップリングの扱いができない。というのも情動・感情は、それじたいはオートポイエーシス・タイプのシステムではないからである。オートポイエーシス・タイプのシステムの必要条件のひとつに、構成素が単位としておのずと決まるという点がある。地球上の生命システムでは、活動の単位が活動のさなかでおのずと決まってくる。それがタンパク質であり、DNAである。もちろんこれは条件さえ変われば、異なる単位でもよい。だが単位が設定されることじたいは、欠くことのできない条件である。神経システムでは、ニューロン細胞が単位となっており、免疫システムでは免疫幹細胞と、そこから分化する、いく種かの免疫細胞が単位となっている。こうした単位の指定ができるために、オートポイエーシスは経験科学との接続の回路をつけることができた。ところが感情の場合は、事情が異なる。不快の単位、陶酔感の単位を取り出そうとしても、ただちに取り出すことはできない。おのずと単位を作り出し、それをもとに作動を継続するシステムではない。それどころか単位という捉え方が、こうした感情や情感に全面的にすれ違っている印象が強い。そして実際そうなのである。単位の指定できるものは、そうした単位の複数の組み合わせをもちいて、固有に位相領域を形成する。みずからでおのずと位相化する。これが作動するものの特性である。大気の流動でさえ、作動をつうじて固有に位相化している。ところが情動や感情は、みずからで固有に位相化したのではなく、なにか特殊な理由をつうじて、固有領域になった可能性が高いのである。
感情を経験科学化するさいには、特定可能な単位を指定しなければならない。そのため半ば以上は脳・神経科学に依存するよりない。感情の座を指定し、感情関連の作用系列を脳・神経系に特定することはできる。だが脳・神経系で細かく作用部位を指定したとき、それは何に対応している作用部位だと言えばよいのか。経験のなかの何かに対応する脳・神経系の部位の指定を行ったはずである。だが対応づけられる経験のなかの何かの方が、容易には決まらないのである。これは奇妙な事態である。現行の脳神経科学のように、活動している発火部位を大まかに指定している間はよい。あるいは生理学的な反応物質を大まかに指定している間はよい。だがひとたび感情の作動に相当するものを見出そうとすると、なにに対応しているかを指定しなければならなくなる。脳の作動部位は、現行の調査法で、大まかには決まってきている。だが情動が活動するものなら、経験のなかに特定の活動の単位が出てきてもよさそうなものである。その単位が情動・感情では、かなり複雑なものになる。
第三に感情の記憶がどのようなものかにかかわる。昨晩の晩御飯の風景を思い起こすことができる。昨年の夏休みの海岸の風景を思い起こすこともできる。これは通常の記憶モデルとなっているものである。書き込み、保存、想起からなる三機能一式の記憶が、認知科学での記憶の基本形である。だが感情の記憶は、像の書き込み、像の呼び出しのようにはなっていない。少なくとも感情は像ではない。楽しかったときの風景は像である。だが楽しさそのものは像ではない。そのため像の保存や呼び出しのような志向的な操作はできない。だが身体に負った外傷のようなものでもない。外傷も疲れと同様、身体に「記憶」され、身体に「保存」され、身体に残存する。だが外傷は自己治癒し、また思い起こす必要もない。実際傷を思い起こすということが、私には理解できない。それは傷を負った場面や怪我の外見を思い起こすこととは異なる。また感情の記憶は、修得された技能や習慣的反応のようなものではなく、身体行為としてのプロセスをたどることが、一つの記憶であるような手続き的記憶ではない。表象の記憶や、修得された技能記憶(手続き的記憶)や身体の外傷とは異なる仕方で、感情の記憶は起こる。感情の記憶が独特のために、作動を妨げられた感情の記憶領域を、フロイトが「無意識」だと呼んだ。現時点から見れば、少なくともそう解釈できる。意識によって作動を妨げられた感情の領域がある。それは意識と対比され、意識と類似した意識の根底にあるようなものではない。意識、前意識、無意識と並べたとき、前意識は考え事をしながらでも最寄の駅から自宅までおのずと最短距離を進んでいる場合のような、非志向的な意識の働きである。だが無意識は、意識からは隠されてはいるがそれじたいは意識の働きでも、意識の類似物でもない。感情の記憶についてのシステム的な分析は、ほとんどこれからの課題である。
感情について、あらためて興味深く語ることは容易ではない。感情は毎日の日常で誰にとっても自明なものであり、感情について語っても何かがさらによくわかるようになるわけではないからである。しかも感情について語ることをつうじて、感情そのものが変わるということも容易ではない。新たな感情にかたちをしっくりとあたえたり、感情を新たに形成するためには、論述よりも小説や詩や音楽の形式の方がはるかに優れている。感情の形成に資することのできない記述、それが多くの感情論である。システム論は、それが形成運動を行うシステムを扱う限り、記述されたものが何であるかを示すだけでは片手落ちである。どのようにすれば経験を形成できるかを示唆するのでなければ、このシステム構想の利点の半分は失われる。そして感情に関する限り、感情の形成へと誘導する記述は容易ではないのである。
感情と認知 感情と認知の関連についての議論の典型例をみてみる。というのも感情単独で議論を立てることは困難であり、通常感情と認知との関連で議論が立てられるからである。ところが感情と認知との関連を構想しようとすると、一般に複数の考え方が並置され、現実にそれらの複数の構想には相当大きな隔たりがある。従来感情と認知との関連を明示的に一貫して構想できたものはいない。それほどやっかいな問題でもある。現在人間が手にしている概念的、論理的道具立てでは、感情と認知の関連を余すところなく規定するような枠組みを提示することは困難だと、私は考えている。そしてその理由の大半は、情動・感情の側の特殊性にありそうである。もっとも極端には、情動・感情から、一切の認知が誘導され、概念の獲得、思考の形成まで誘導されるとするものがある。こうした構想の場合、認知の典型例が概念的思考におかれている。生命体にとって、概念的思考はなくてもすむ。なくてもすむものが発生してくるさいには、それなりの理由が必要であり、それは生存に適うものでなければならない。さらに認知全般がなくてもすむものであれば、できればなくしてしまいたいという願望を込めた言い分も付け加わっていることがある。この場合、認識はほとんどが、苦痛から生まれたというのである。こうして苦痛という感情から感覚・知覚や思考までが導かれることになる。このタイプの議論の手順では、生命の本来的な機能である本能、情動・感情、快不快による選択、認知の形成というきわめて論理的な段階が想定される。この論理的導出関係は、それじたいは感情的でも情動的でもないが、こうした論理を設定する動機は、十分に情動・感情的である。系統発生の上でも、内分泌系のような調整機能をもつ系から、認知が出現してきたと主張するものさえいる。情動・感情と内分泌系が密接に連動していることは事実だが、内分泌系から一切の認知機能が出現するような議論は、極端な進化仮説を持ち出しても、まともな議論になるとは思えない。
他方感情と認知との関連を、認知の側から構想するさいには、認知は一貫した固有の系であり、その系のエネルギー的な動因としてだけ感情が働く、というところに落ち着く。こうした議論の代表が、ピアジェである。もちろん時として、好き嫌いが知的構想や物品の選択にさいして、圧倒的な決定要因になってしまうことはある。洋服の色合いを選ぶさいにも、ケーキの種類を選ぶさいにも、好き嫌いが規定要因になることはある。そのため決定論か非決定論かというような二者択一、機械論か有機体論かというような二者択一、自然選択か自己組織化かというような二者択一では、いくぶんか好き嫌いは規定要因になる。だが二者択一とは異なる選択を作り出そうと試みることもできれば、選択にさいして将来の展開見込みを予想して選ぶこともある。これらは感情を基準にすることとは異なる。感情の基本は、好き嫌いに典型的なように、二分法になることである。
感情と認知との関連というこの未決の大問題に対して、感情優位の側から見通しもった議論を展開したのが、精神科医チオンピの『基盤としての情動』である。[3]フラクタルやカオス理論を援用したこの構想は、感覚・知覚、言語的思考、概念的構成のような認知の多様な段階で、感情がさまざまな密接な関与をしていることを証明しようとするものである。そこでチオムピは、「認知・感情照合システム」もしくは「認知・感情・行動プログラム」を設定する。そして課題として、認知に対しての感情の働きの内実を細かく調べるのである。ここで大前提となるのは、認知と感情のそれぞれの生成モードの違いである。感情の生成モードは、未分化なものが次第に分節していくパターンをとり、認知の生成モードは、部分的で詳細な働きや事実を統合していくパターンをとる。感情は、胚発生のように未分化な全体がここのものに分節して分化し、認知は要素を統合するモードとなる。そしてさらに感情の分類については、関心(欲求)、不安、怒り、悲しみ、喜びが基本形だとする。感情の基本形を何にするかについては、いくつもの見解があるが、その点を競っても生産的ではない。というのもそれぞれの感情について、膨大な細分化が進むが、おそらくそれには限りがないからである。
感情の機能的モードについては、(1)注意の焦点を規定すること、すなわち不安や、興奮や、怒りの気分に応じて、注意や知覚が異なった認知内容へと向けられる。焦点的意識の向け方に、感情が関与している。(2)特定の感情は、さまざまな記憶装置への通路を開いたり閉じたりしていること、すなわちたとえば怒りの感情が起きたときには、この感情を確認し強化する想起内容だけが記憶のなかから引き出され、これに反する内容は抑制される。記憶をつうじて、感情は想起内容を規定する。(3)感情は、認知要素に対して、ある種の「接着剤」もしくは「結合組織」のような働きをする。さまざまな感覚・知覚内容に対して、選択的なスリットとして働き、コンテキストや緩やかなまとまりをあたえる。すなわち同一の感情のもとで異なる知識がひとまとまりのものとして記憶される。(4)感情は思考内容の優先的な順位、もしくは思考内容の階層構造を規定する。たとえば会議中に話される内容を恨みをもって聞くときには、話している人のキャラ、話し手の仕草、話された内容、話の論理的組み立てのようなさまざまな局面のどこに優先的な焦点があたるかを規定する。(5)感情は、認知的な複雑さの低減装置として機能する。(1)から(4)までの内容は、実は認知的に見れば、すべてこの複雑さの低減にかかわっている。こうした感情の働きを、オペレータ作用と呼び、「認知・感情照合システム」のなかで、恒常的に働き、認知・感情連動系の組織化を進めるものだとしている。
こうした議論に直面すると、ただちに認知から感情への逆方向の働きもあるのではないかという思いが生じる。感情が未分化な状態から分化した状態へと生成していくとき、感情単独では分節化するとは考えにくく、認知の働きを介して分節するはずである。さらに認知の組織化に感情が関与することはもちろんあるが、認知はそれ固有にも組織化を行いうるのである。そうでなければ認知の高次化が、圧倒的な精密さと詳細さをもって進行するとは考えにくい。こうした場合にも、数学や物理学で見られるような形成された精密体系に美しさの感情がともなうことはある。だがこれは出来上がった体系にともなう付帯的な感情である場合がほとんどで、美しさの感情が、精密体系を導いたとは考えにくい。そこで認知と感情との「相互作用」と粗く要約したくなってしまうが、問題は「相互作用」の内実である。しかもその内実を詰めていくとき、認知と感情の関係は、一般的な規則を取り出すことがとても困難である。こうしたことからみて、感情を固有に取り上げるさいには、なにか大掛かりな仮説が必要であることがわかる。それをつうじて感情固有のシステムのエッセンスを取り出そうと思う。
1 感情の由来
感情の由来を問うと、実に多くのことに気づく。一般に感情は、衝動、欲動、情動の系列の延長にあって、人間の場合洗練され、多様になったものだと想定されている。この系列にある活動はいずれもそれじたいは現れることなく、内的に感じとられるだけであり、しかも意識の制御がかかりにくい。そのため感覚・知覚のような意識の活動とは、異なる系列に属すものであることははっきりしている。この領域をどう扱うかは、いまだはっきりした目途がたっているわけではない。一般に認識論は、認識されている世界が、認識を行う主観性のどのような働きと仕組みによって成立するかを分析する。この場合の世界は、当然認識されているものであり、現れているものである。ところが感情は直接現れることはない。自分の感情が隣の家の窓際に見えたり、近所の路地を横切ったりすることはまずないのである。だが現れないものを分析するさいにも、現れるものを手掛かりにする以外にはない。
ダーウィン ダーウィンが、人間の由来を検討するという大きなテーマのもとで、人間と動物の表情について観察報告している。[4]人間にも見られる感情表現を、動物にも見いだすことは、人間の進化的な起源を解明するうえで欠くことのできないものである。進化論での考察パターンは、感情にかかわる動作や振る舞いの由来上の見当をつけること、由来からみてそれがどのように変貌したのかを推論することである。こうした議論の仕方は、繰り返し進化論的な説明に登場する。鳥が空を飛ぶさいの羽は、当初は体温調節機能をもっていたが、それがやがて飛ぶという動作の別の機能性へと変化したものだという説明は、由来とそこからの変貌を語っている。こうした議論の立て方が、進化論の典型である。だが感情の場合は、それが特定の機能性を担うことはないという点で、独特の働きになっている。少なくとも感情は、直接生存可能性につながるような機能ははたしていない。敵を前にしてとっさに逃げることは、生存上の価値がある。だが敵を前にして立ちすくみ、泣き叫ぶことは、かりに仲間や親への救いを求めるシグナルではあっても、直接生存に資するものではない。そのため生存機能からみて、感情は当初より「剰余」としての働きとして考察しなければならないのである。この点が、感情の扱いを難しくしている。餌を奪い合うさいの威嚇の動作は、別段情動・感情をともなわなくてもよい。兄弟のネコにエサをあたえると、いつものように兄ネコが弟ネコをエサから遠ざけるが、まるでそうするのが当然のようにそうしている。また求愛の動作にも別段情動・感情をともなわなくてもよい。生殖行動とともにあるというだけの理由で、情動・感情が動く理由はない。卵生の魚類は、産卵期にオスからなんらかの刺激を受けて排卵し、産み落とされた卵にオスは精子を振りかけている。刺激と振る舞いの間に、直接的な連動がある以上、そこに感情の働きがあると言ってもないと言っても、どちらでも事態は同じになる。そうするとその場合情動・感情についての語りは、一種の付加的な装飾、あるいは人間からの思い込みとなる。感情と呼ぶことができ、それを設定しなければうまく解明できない事例で、なお観察可能な動作や態度や身体的特徴の変化にかかわる領域が、進化論のさいの感情領域である。この場合、動物にも人間にも共通してあてはまる機構を取り出そうとするのだから、かなり大雑把な記述にならざるをえない。
ダーウィンは膨大な事例報告とともに、基本原則を三つ立てている。
感情は、たんなる生存のための本能的行動ではない。餌を見つけ、食べ、休み、さらに次の餌を見つけるための一連の動作とは同じものではない。複数の個体が同じ餌をめぐって威嚇動作を行うことがあるが、これじたいは感情表現ではなく、餌を確保するさいの技法に近い。情動・感情といえるために領域は、生存のための直接的な動作だとはみなせないことが必要条件である。しかもそれは広く繰り返し見られる動作として、観察されるものでなければならない。たとえば人が当惑したときには、しばしば頭を掻く。この動作は、生存に対して中立であり、また生存のための振る舞いからみたとき、何故そうした振る舞いをするのかを容易には説明できない。こうした振る舞いが、感情についてのダーウィンの観察の主領域である。そこでの起源と変容を語る説明が、進化論的な説明である。説明のなかに含まれる第一原則が設定される。「有用な連合性習慣の原理。ある複合動作は、ある心の状態にあっては、ある感情、欲望等をいやし、もしくは満たすために、直接または間接に有用である。しかしどのようにわずかであっても、これと同一の心の状態が誘発されるときには必ず、習慣と連合の力によって、同一の運動が、かりにそのときなんの役にも立たなくても遂行される傾向がある。」というのが主な内容である。先の頭を掻く動作の場合、ダーウィンの説明によれば、その人は平素頭が痒くなりがちであり、痒さの不快感に応じて頭を掻いていたが、当惑したときにも、習慣によってまったく軽微な不快な身体感覚の場合、頭を掻く動作をする、ということになる。この説明は、素朴な印象では、そうとう苦し紛れである。
この説明の内実は、(1)有用な行為の系列がすでに形成されており、(2)それは習慣化している、(3)そこに不快の感情がわずかでも生じたときには、同じ行為系列が出現する、ことを骨子としている。そこで前提になっているのは、不快を避けるという有用な行為があり、別の由来をもつ不快が生じたときに、同じ振る舞いをするという機構である。一般に不快はさまざまな原因から生じ、原因の系列と快-不快は独立であり、同じ不快が生じたときには、不快に対する習慣的な動作を行う。その場合、さらに不快に対する習慣的な動作は、個人差があり、当惑したとき、眼をこするもの、肩をすくめるもの、ため息をつくもの等さまざまである。快-不快にかかわる固有の領域がなければ、こうした由来が特定できず生存に中立な動作は説明できないことになり、この動作が、感情の表現すなわち表情となる。快-不快という感情領域を中央に置くと、それを引き起こす側の刺激がさまざまであり、他方不快に反応する動作もさまざまである。多種類の刺激対一の感情、一の感情対多種類の動作という三つ一組のうち、不快を避け、不快に対応する動作の基本パターンが個々人で決まる。そこが連合である。その後多種類の刺激から同じ不快の感情が生じたとき、基本パターンが繰り返される。そこが習慣の働きである。これによってパターン化された動作が出現する。これがダーウィンによる説明の仕組みである。
この場合、快-不快という固有領域の成立の説明がなければ、説明は完了していない。またこの固有領域が独自に成立しているとすれば、刺激-快(不快)-反応のなかに不連続な箇所がふくまれるため、どこかに無理やりな印象が残る。言葉に言いよどんだとき、咳をする場合は、かりに同じパターンの説明をしたとしても、言葉に詰まるさいの咽喉の緊張感が咳によって緩和されるというような、機能する器官の上での近さがある。そのため咳をすることが不快の解除の動作だとしても、それほど無理な印象を受けない。他方性格のきつい母親から非難が向けられたとき、いつも微笑んでしまう子どのもの場合には、感情領域に少し複雑な仕組みを導入しなければならない。ダーウィン・タイプの説明では、こうした事態は避けようがない。
第二原則は以下のようなものである。「反対の原理。心のある種の状態は、第一の原理の場合のように、有用な習慣的動作を導く。そこでこれと正反対の心の状態が誘発されたときには、前と正反対でしかも何の役にも立たない運動を遂行しようとする強い不随意的傾向がある。こうした運動はある場合には、とても表現的である。」ここにもダーウィンの特質が良くでている。この場合の事例は、散歩に連れて行ってもらえると思って喜んでいた犬が、散歩が突如取り止めになり、落胆したそぶりであるとか、相手が誰だかわからず警戒していたネコが、その人物が飼い主であることがわかりホットしたり、喜んだりする場合である。このタイプの感情の動きも、由来からみれば、生存に直結する動作ではない。しかも落胆したり喜んだりするのは、それじたいなくてもすむが、にもかかわらず比較的おのずと起きている。由来上は、はっきりした理由がない場面で、にもかかわらずしばしば起きることには、ある機構が働いている。そこが法則と呼ばれるものである。この法則の内実は、(1)感情は特定の刺激と対応するものではなく、(2)また感情は快-不快の軸に沿って両極化しており、(3)一方の極の感情状態の解除は、他の極の感情の出現となるという内容である。感情には度合いがあり、度合いの昂じた強い感情に対して、それの解除は対極へと反転した固有の表現をとるということになる。あまりの嬉しさのなかにいるものが、突如はしごをはずされるようにその条件を取り除けられたとき、対極の落胆が生じる。ここではたんなる快-不快ではなく、快-不快のなかに度合いが生じ、それが両極化することが含まれている。
第三にこれらとはまったく異なるパターンの表現がある。恐怖のあまりに一晩で髪が真っ白になるような場合であり、あるいは筋肉の震えである。これらはなくてもすむ身体反応であるが、ある極端な感情に由来するものだと考えることができる。恐怖ばかりではなく、極端な喜びや憤りでも身体反応が起きることはある。アメリカ・メジャーリーグに昇格して出会い頭に初めてホームランを打ったバッターは、しばしば腕の震えが止まらないという。ダーウィンは、こうした反応を「感覚器官が強く刺激されるときには、神経力が過剰に起発され、さらにこの神経力は神経細胞の連絡により、一定の方向に伝達される」ことによって生じることだとしている。恐怖や興奮や歓喜やストレスは、それが度を越せば、身体反応にまで及んでしまう。感覚刺激が認知的判別につながるよりは、それが過度である場合には、まったく別の反応を引き起こす。しかもおそらく認知されたものの記憶ではなく、いわば外傷に類似した生理的な記憶が起きてしまう。極端な場合には、心的外傷記憶となる。
こうしたことから、感情は生存可能性にかかわる活動とは別のものであり、そこには一定の機構があるが、その機構は感情が、刺激とは独立の作動系であり、両極化しやすい本性をもち、身体にまで及ぶ過剰反応を示すことがあるという程度の内容にまとめられる。だが感情そのものの由来が語られていないこと、快‐不快という形式の出現の由来が語られていないこと、この基本形式のもとで感情の多様化がどのように進行するのかが不明である点が、課題として残っている。前の二つは、直接観察することができないので、観察事例を列挙することでは明らかにできない。だがいくつかの事例をもとに仮説を立てることはできる。また感情そのものが多様化することについては、ことに人間の場合、感情の発明があるので、その仕組みについては別途考察しなければならない。
情動仮説 大まかな見通しを立ててみる。そしてこれは情動・感情の出現についての現時点での仮説である。由来を問うような議論は、いずれにしろ不連続な生成を問わなければならない。そのためこの仮説のなかには、観察によっては明らかにならないような「構造的な仮説」も含まれている。まず飢えや渇きに対応するような本能的な内感がある。これらは通常、欲動と呼ばれているものである。何かが満たされないような、欠如状態についての内感である。これは生きていることの別名だとみなしてよい。飢えや渇きを知らせるシグナル系は、生命体の初頭の能力として備わっている。血糖値が下がれば、空腹感となる。血中塩濃度が高まれば喉の渇きとなる。こうしたシグナル系に内感としての欲求、欲求の内感は含まれている。欲求・欲動は、つねに欲求・欲動そのものの作動と、それへの気づきが並行している。気づかなかった渇きや飢えは、体温の上昇であったり、活動の低下ではあるが、飢えや渇きではない。この部分の働きは内感であるが、身体行為を促す動因とも、身体行為への調整ともなっている。空腹感のあるときに仕事を止めて休憩するような場合は、調整要因として働いている。空腹で疲れて休んでいるとき、何も食べないまま横になっているだけで、やがて空腹感が止まり、疲れが緩和することがある。そのため欲求は、摂食行動とは独立に、充足と欠如という両極の感じ取りを基本にしている。この充足と欠如という感じ取りは、否応のないもので、それ以外の選択肢がないほど基本的である。ここから情動・感情ラインにつながる対極化が出現し、快-不快として一般化される対極化の枠が出現すると考えられる。
またこれらは、感覚・知覚・表象と結びつく必要はないように思われるが、飢えや渇きが、選択的行為をともないながら感覚・知覚に影響をあたえることはしばしばある。血糖値が下がっているとき、コンビニで見かけるチーズケーキがやけにうまそうに見え、全身の瞬発的なエネルギーが足りないときには、フライド・チキンがやけにうまそうに見える。だがこうした感覚・知覚へのつながりは、個人差も大きい。
欲求・欲動の延長上に、恐怖や怒りのような情動がある。だが欲求・欲動と情動の間には、不連続な飛躍がある。これらの起源を考えようとすると、大きな仮説が必要である。系統発生的には、情動の部位である大脳辺縁系(旧皮質)は、爬虫類あたりからはっきりしてくる。情動は進化史でみれば比較的新しい能力である。脳・神経系の発生から見て、ゴキブリにはこの種の情動はないことになる。ゴキブリが夜中ゴソゴソとエサをあさりに出てきて、なにも食べるものがなく、今夜も石鹸をなめるしかないのかと、ガッカリしたとする。このゴキブリの顔を思い浮かべようとすると、たちまち当惑する。ゴキブリには満たされない欲求に対する感情や情感があるようには思えない。またカエルのメスは繁殖期に振幅の大きな太い鳴き声に向かって進んでいく。これによって自動的に図体の大きいオスに出会う確率が高くなる。ここには認知されている事態と行動との間には隙間がない。つまり情動があるといっても、ないといっても、事態は同じになる。すると情動や情感につながる回路に、なにか爬虫類あたりを分岐点とする新たな事態が出現していると予想される。
一般に感覚と感情を較べたとき、感覚の鋭い人とか、感覚の違う人とかという褒め言葉で使われることが多い。逆に感情的になってはいけない、感情におぼれてはいけない等の非難がましい言葉が感情にはまとわりついている。感情は劣る能力であり、感覚は高等な能力だという漠然とした価値的な思いが、人間の現実にはある。ところが能力の進化的な発生史を考えてみると、これはほとんど奇妙な事態である。感覚を外界の情報を弁別的にキャッチする能力だとすれば、酸素濃度や二酸化炭素濃度に反応して、運動方向を変える単細胞生物にも備わっている。感覚は、個物や個体が環境とつながっていく基本的な能力であり、生命体ばかりではなく、選択的に外界と反応する個物には備わっていると考えることもできる。半導体が、あるものを通し、あるものを通さないとき、そこに制御可能な選択性が働いていれば、すでに原初的な感覚能力があることになる。そうだとするとタンパク質の特異的結合性は、十分な感覚能力だと見ることもできる。ところが情動は、進化の段階では、ずっと遅くにしか現れない高等な能力であり、ある意味では剰余の能力に近いのである。情動は、爬虫類の近傍の段階で出現した。これは解剖学的にも行動学的にも、広く受け入れられている。だがそのとき何が起きたのか。
これから述べることは、一つの仮設である。このタイプの情動は、認知システムの形成と行動システムの形成の間の乖離によって出現する。
認知システムが創発を続けた結果、それが行為とは独立な場面まで進展すると、ついに行動可能性を超えて、行動で対応できないものまで、認知によって捉えることができるようになる。認知と行動との落差が大きくなれば、認知的に分かっているのに、行為として対応できない広大な領域が生じる。認知と行為の間で、それらが対応する世界に外延的に落差が生じて以降、生命は、認知可能な世界で、行為によって対応できないものに対して、ある種の行為隣接的な能力を開発することになった。それが情動である。
これをとりあえず「情動仮説」と呼んでおく。認知と行為の間には、そもそも大きな落差がないほうが、生存経済には適っている。行動によって対応できないものを認知できることは、認知のコストを上げてしまう。空を飛ぶ鳥に注意が向き、それを知覚できるのであれば、地上の動物ではそれに対応するすべがない。認知能力の向上は、おそらく当初自衛的な機能で出現したのであろう。自分の身を守るために、外敵の動きを読み、それの対処法をあらかじめシュミレートするために高度な認知を形成してきたと予想される。だが防衛のための認知は、実はかなり大まかなものでよい。自分の身体と比べて大きな物体が動けば、ともかくも身を避け、身を遠ざけることができればよい。かつて頭をぶつけたことのある雨戸の音がすれば、ネコはその音だけで、かりにぶつからない位置にいても、さらに遠くへ逃げてしまう。外的を避けるための認知は、極めて大まかでよい。その程度の認知を超えて、対象を捉えるとこるまで認知が進んでしまえば、その認知は行為として生存機能に直接活用することができない。神経が自己組織システムである限り、システムの自己形成運動によって、こうした場面まで進む回路はいくつも用意されていたはずである。さまざまな仮説や、人工的に制作されたビデオで示されているように、恐竜が空を飛ぶ鳥を叫びをあげて威嚇するとき、この威嚇には行動によって対応できないものに対して、なんらかのを対応することが含まれている。捕食者に追い詰められて逃げ場のなくなった小動物が、敵から逃れる行動ではなく、断末魔の叫びをあげるとき、ここにも単純行動とは異なる活動が含まれている。
また同じ知覚情報に対して、行為の選択肢が成立する場面で、認知と行為の間にはそのつどギャップが生じ、選択的な行為可能性が獲得された段階で、このギャップは恒常化する。敵と対峙する高等哺乳類は、身構えることもできれば、襲い掛かることもでき、逃げることもできる。このとき身構える状態では、行動が抑止されている。この抑止のなかに運動可能だが運動しない状態が出現し、ここにも興奮性の情動の発生の一端がある。
認知と行為のギャップは、人間の場合著しい。人間の場合、生後一年近く自分で動くことができない。ここでもこの事実が決定的である。人間は一年早く早産した欠落人間だという話になっている。当初自分で動いて母親の近くに行き、母乳を得る能力さえないのだから、間違いなく欠陥存在である。その理由として、人間のような巨大な脳をもつ個体をさらに一年間母胎内で育てて生めるほど巨大な膣道をもつ女性が現れるとは考えられないという説明がつく。これはグールドの意見である。いずれにしろ生後一年近くも自分で動けないことは、生物にとっては致命的なことであり、決定的である。哺乳類の場合、母親の母乳を求めて自分で動くことができなければ、そのまま死につながる。それ以上に人間の場合、動けないまま感覚・知覚の形成がなされている。つまり人間の感覚・知覚システムの形成は、行為や行動を伴わず形成されている。
そのため人間の場合、認知的情報の獲得可能性は、当初から行動可能性とは切り離されて成立している。認知的情報をただちに行動と直結するようなシステム間の形成はなされていないのである。認知能力にかかわる神経系の形成と、運動能力にかかわる神経-筋肉系の形成は独立になされており、生後一年間も自分で動くことができないことは、極端な生命界の例外である。
ここでの情動は、行為近似的に出現しており、認知と行為とのギャップを埋めるような働きをしていると考えられる。行為可能性の剰余で出現しているのだから、ここでの情動は、本人にとっては衝動性の作用であるような印象を受ける。情動と感覚・知覚との関連は、どのようにしても一対一対応はない。このギャップが、人間の場合恒常的であるため、情動は固有領域となる。情動がかりにそれじたいで作動する領域だとしても、この作動は波の上下動のような振動に近く、場所移動のような運動ではない。
また情動では、働きの強さを感じ取ることはできる。強い怒りや、穏やかな怒りのように、類似した情動のモードにも度合いを感じ取ることができる。ここには作動する情動とその作動を感じ取る気づきが明示的に分かれてくる。情動はある度合いをもって作動する。その強さの度合いを感じ取っているのは、情動そのものではない。作動を感じ取ることは内感であり、この内感は、活動の調整能力として出現しているため、純粋な対象認知能力ではない。むしろ運動の調整能力から由来する内感だと考えた方がよい。筋肉に力が入っているとき、力の入り方の度合いに気づくことはできる。興奮しているとき、興奮の度合いにも気づくことができる。この気づきは、活動を感じ取っているのであって、運動性の調整能力から由来したものだと思われる。この調整能力は、純粋な認知能力ではない。活動がなんであるかを知る能力ではない。活動の状態を知って初めて調整できるのであれば、本当は命がいくつあっても足りない。気づきは、対象がなんであるかを知るのではなく、活動そのものに身を添わせるように、活動を調整しており、実践的行為能力である。
ここでの留意点をいくつか述べる。第一に、この情動領域が情動仮説にしたがって、認知と行為のギャップから出現してきたいとしても、これが生理反応として内分泌系に接続することは、必ずしも必然ではない。進化の途上で、内分泌系に接続したとしても、ここには系統的な事実の積み上げが必要だと思われる。
第二に、情動や感情を論じるさいに、しばしば感情はみずからを感じ取るというような粗暴な議論がある。現象学者でもこんな議論をするものがいる。感情や情動の本性は、意識から見れば、理由の決定できないかたちで作動することであり、作動を感じ取ることは、運動感を感じ取るような運動性の気づきに由来すると思われる。たとえば朝車で出発しようとして、大型トラックとぶつかりそうになり、ドッキとしたとする。接触前にブレーキがかかり事故にならなかった。だがその後しばらくは動悸や興奮が続く。その後こうした動悸や興奮は冷静に感じ取られているが、動悸や興奮そのものはその日いっぱい続くことがある。興奮が高まってしまえば、容易に収まらない。だがそれに気づき、それを感じ取っている内感は、ニアミス直後から冷静になっているのである。作動する活動とその感じ取りは、モードもその由来も異なったものである。
感情仮説 脳幹に座をもつ本能や側頭葉に依存する情動とは異なり、第三の情感・感情領域がある。脳・神経系の座としては、大脳前頭葉にある。この領域は人間でことに著しく、極端に多様化している。しかも認知的な判別能力と密接に連動している。人間の場合、この感情領域がどのようにして発達したのかについては、どのように述べても仮説になってしまう。だが仮説であっても、感情と身体行為との関連、感情・情感と感覚・知覚との関連を検討するためには、なんらかの仮設的な手掛かりを欠くことができない。一般に喜怒哀楽のような感情は、感情そのものに、なにか心が動くという運動性の働きと、面白さ、つまらなさを見分けるような認知的働き、さらに面白さの度合いを感じ分けるような内感という三つの働きのモードが出現している。感情が働くとき、この局面ではすでに快-不快は恒常的な機能となっている。人間の場合、認知と行為の間に発生的なギャップがあり、この構造的なギャップに応じて情動も構造化された特定の機能領域になっていた。情動の激しさ、強さの度合いに応じて、快-不快の二分法的な座標軸が恒常化されている。これがどのようにして大脳前頭葉の微細で繊細な感情につながるかは、さらに新たな問題である。
まず感覚・知覚にともなう感情や情感がある。色彩や音のような運動性を含む感覚が、特定の知覚された対象となって「それとして」捉えられるとき、この感覚の運動性は対象の知覚に回収されはせず、なんらかの剰余を残す。道路標識の緑と赤がともに同期して点滅していたとする。通過する場合でも停止する場合でも注意しなさいという意味だとも、そもそも意味不明だとも取れる。だがこうした理解とは別に、ある種の奇妙さは残る。対象としてどのように理解されようとも、奇妙さの感情が残る。対象の意味がそれとして捉えられることにともなう剰余は、ある種の情感となる。
この事態の極端な場合が、丸い四角や正五面体のような対象である。これらをフッサールは非意味だと呼んだ。これらはどこかで理解できるものの、この理解と同時に困惑が残る。この場合知覚対象は、明確な像としてかたちを取ることはなく、角張った変形四角のような、近似的なアナロゴンを想起できるだけである。そのためむしろ奇妙さのような情感が前景化してしまう。そして対象が特定のかたちをもたない以上、情感だけに浸る感触が生じる。もちろん知覚対象が三角形のような場合、三角形として知覚されるだけで、別段情感や感情はともなわなくともよいと思えるかもしれない。しかし美しい三角形、見事な三角形、愛しの三角形、ふざけた三角形、よろめきの三角形、疑惑の三角形等の感触がともなっていることがほとんどである。そのため対象がそれとして捉えられることの剰余が出現したとき、そこに認知的特定にともなう情感や感触が出現する。
感情・情感は、認知がそれじたいとして確定することの剰余として出現する。認知能力が高次化し、対象の規定を認知総体の限定として行ったとき、おのずと認知隣接的な働きとして、感情・情感は出現する。
認知が言語を介したものになる場面で、音韻やリズム感からなる運動性の働きが、事柄の言語的規定とともに、経験の言語的分節化にともなう対象特定の剰余として、ある種の感情もしくは情感となる。たとえば詩の一節に、次のようなものがある。「青野季吉は、一九五八年五月、このモルダビアの水の駅を発った。その朝も彼は詩人ではなかった。沈むこの邦国を背に、思わず彼を紀念したものは、茜色の寒さではなく、草色の窓の深みから少女が垂らした絵塑の、きりつけるように直な気性でもなかった。」[5]この天性の詩人には、成育史からみた固有の感情や情感は感じられない。すなわち体験的に詩を書く必然性も理由もない、生粋の天性の詩人である。この詩人は、地図帳を見ながら地名の喚起力が、地図上の場所の喚起力と見合うような地名を取り出している。それが「モルダビア」であり「水の駅」である。この地名は、音のつながりとともに地名を指すだけではなく、ある種の音韻とリズム性の情感がある。してみると言語的音声は、感覚・知覚の剰余となった感情や情感にかたちをあたえるだけではなく、むしろ情感を作り出すためにまたとない手段をあたえたはずである。言語的にかたちをあたえられる情感に出会うたびに、いまだかたちになっていない情感に気づくことがある。そのあまりの部分にさらに言語的表現をあたえようとする企ては、つねに実行可能である。
言語的意味と感覚的識別の間には、細分化の度合いで、およそ三桁ほどの違いがある。言語によって色彩を表わすと、どのように人工言語を作り出しても、数十どまりである。それに対して色彩の感覚的識別は、三万五千種程度可能であるらしい。感覚の識別に比べれば、言語は極めて粗い分節機能しかもたない。感覚的に感知されたものを言語的に表現しようとすると、いずれにしろ無理がかかっている。感覚と言語のギャップは、それ単独では感情や情感を引き起こすわけではない。だが言語的表現による対象の特定は、必ずもれてしまうものの感触を残している。
前景化した情感は、衝動性の作動よりも、気分や雰囲気や落ち込み、はしゃぎや落ち込み等の心的傾向のような状態として感じられることがある。感情が一つの状態のような情感として出現すると、そこに一切の認知的要素とは擬似独立な雰囲気や気配が出現する。これらは、特定の対象と結びつく必要もなく、対象とかかわる必要もない情感である。しかも内的な感じだけではなく、知覚世界に感じ取ることができる。不安に満ちた世界、退屈な世界、崇高な世界、イロニーに彩られた世界等である。
匂いは気体状でつねに物を包んでいる。包むように出現するのが、匂いである。匂いの認知は多くの人にとって特定の情報になることはない。自分を優雅な匂いで包むための化粧品があり、逆に自分の体臭に包まれれば、包んでいるのも自分自身だから、もはや逃れようがない。場所を移動しても、自己臭はどこまでも自分を包んで移動している。この匂いの包む働きのために、匂いは雰囲気と直結する。匂いは、知覚の明確な対象とならない。ところが匂いの印象と記憶は圧倒的なので、雰囲気を作る場合には、匂いをさまざまな活用することができる。レストランに入ったとき、入った瞬間特定の匂いに気づくことがある。席についてしばらくたてば、もはや気にならなくなるが、次にこのレストランに入ったときには、確実に前回の記憶とともに感じられる。
感情や情感は、すでに身体行為との直接の連動は失われている。由来から見て、高次の認知能力の隣接機能として出現しているからである。そのため大脳新皮質に主要な座をもつと予想される。感情や情感を認知(情報把握)の剰余だとしたとき、この剰余はそれ単独ではかたちを取ることはない。そのため言語ばかりではなく、絵画や音楽によって形をあたえられ、これらが人間の主要な表現領域となる。認知的対象に含まれる運動性の働きが、対象の特定とともに剰余となる場面では、多くの場合感情や情感が出現するのである。
2 哲学的意匠
こうした領域についての人間の努力の跡を辿ってみる。情動や感情は、あまりにも人間にとって身近すぎる。身近すぎるものを解明しようとすれば、ささやかな経験の蓄積ではほとんど身の丈に釣り合うことができない。そのため大掛かりな議論が出現してしまう。大掛かりな議論は、ほとんど展開を拒む。実際情動や感情は、半世紀に一度程度主題的に語られ、そして停滞するというのが実情である。そのためこの領域は、あまりに多くの言説と容易には進まない理論展開に満ちている。ここでは二つの構想だけ取り上げる。認知として直接現れることのない活動をそれとして組み込むとなにが起きるかを、典型例として示しているのである。停滞の理由は、主として情動・感情がなんであるかを記述するような議論の組み立てにある。それらについての記述的体系を形成しようとする企ては、記述したとたんに停止する。システム論が切り込むのは、この事態に対してであり、情動・感情を、自己形成するシステムとして設定することである。
シューペンハウアー 現れている世界を、ショーペンハウアーは「表象」という経験レベルで設定する。[6] 現れているものの基本単位は表象であり、表象についての形式的分析をかければ、主観と客観に分かれる。つまり表象は、主観、客観以前の純粋な「現れ」に近い。むしろ現象そのものだと言ってもよい。ところが彼は、現象そのものが現実の半分に過ぎないと考えている。現象学的に言えば、現れざる半分が現実のなかにはあり、それが現れそのものを成立させているというような議論に近いのである。現れざる半分を解明するための手立てを考案することが、『意志と表象としての世界』の課題だった。
この現れざる現実は、認識にしたがって、認識をつうじて成立しているようなものではない。そのためそれを別の名称で、「意志」と呼んでいる。この意志は、認識にしたがって作動するのではないのだから、「盲目的に」作動すると特徴づけられる。だが盲目的の内実は、何でもありで、しかも何をやっても無駄だという意味ではなく、認識とは別の仕方で成立している現実という程度のことである。当然ながら、認識とは別の仕方で成立している現実を捉え、それを記述するためには、またもや認識を部分的にしろ活用せざるをえない。こうして機械的に、認識ではないものを、どのようにして認識によって捉えるのかという問いが生じる。この問いの形式性は、すでに見飽きたものである。また問いの形式ほど、現実に難題に直面しているわけではない。意識による認識が、こうした形式性に巻き込まれることは、やむをえない。
こうした課題領域に至りつくためには、いくつかの前提条件がある。まず若き日よりのショーペンハウアーの主題となっていた、「根拠」の類別、位置づけのテーマがある。これを問題にするにあたって、当時頻繁に用いられていた「力」の学説とそこでの混乱がある。たとえば引力、斥力には共通に力という語が張り付いている。この力そのものは何なのか、という問いはただちに思い浮かぶ。力は現象を可能にする根拠であるだけではなく、それ自体が潜在的活動として、みずから形を取り、現象となる。それが力の表現である。こうした力についての学説の延長上で、当時「生命力」「有機化力」「形成力」等の概念が、それぞれの現象にふさわしい固有の力の学説として展開されていた。力は、一般に現象の根拠である。だが当時は、因果関係のなかで、力を原因として考察するような議論も飛び交っていた。そこで因果関係内の原因である力と、現象の根拠としての力を明確に区別する必要があり、根拠一般の類別を行ったのが、「根拠律の四つの根」である。[7] 少なくともここで確認できるのは、力の学説が通常の因果関係には解消できないような独自の根拠関係にあるという点である。
また根拠という位置から考え直すと、カントの設定したカテゴリーは、表象の形式的根拠である。形式的根拠は、表象にとっての必要条件であり、論理的必要条件にとどまる。このとき物自体からの働きが、なんらかのかたちで行われていなければ、現実の認識は成立しない。だがカントの場合、物自体はつねにXにとどまるように組み立てられている。物自体は、現実には因果関係で働いているはずである。カントは、それを触発という。しかしカントにとって、因果関係は、悟性のカテゴリーであり、悟性の段階で初めて出現するはずである。にもかかわらずカントの認識論の組み立て全体のなかに、物自体からの触発というかたちで因果関係がすでに組み込まれている。この問題を解消するための選択肢はいくつかある。悟性によって構成される現象の因果関係と、物自体からの触発のさいの因果関係の内実が異なるというのも、選択肢の一つである。その選択肢のもとでショーペンハウアーは、働きや活動という質料性を含んだ作用関係を設定している。こうした作用関係を捉えるためには、時間、空間、因果関係さえあればよく、ショーペンハウアーにとっては、この三つだけが基本的なカテゴリー(表象の形式的根拠)である。このことは認識とともに、認識にともなって、同時に働いている作用関係があることを意味する。この作用関係を一般的に言い直すと、生の利害から考察される認識の位置価を考察するようなものとなる。それは基本的には、概念的認識の段階では対象の制御へとつながるような作用関係である。この場面だけを取り出すと、ニーチェの『権力への意志』で見られるような、知識論に近いのである。ところがショーペンハウアーの構想の力点は、現れざる半分をどのように捉えるかにある。
こうして現れざる半分は、哲学史的な関連で「物自体」と呼ばれ、固有には意志と呼ばれ、現実の場面では客体化されない「身体」のことだと言われる。身体に関連して、衝動や欲求や感情も、同じように認識とは別の仕方で作動する。こうした領域に踏み込むための手がかりは、当時の自然科学に求められている。たとえば結晶や鉱物には、秩序だった文様状のキメや模様が現れることがある。そのさい空間的パターンの分析だけ行えば現象論であり、数学的には詳細な記述を行うことができる。また生成の集合体を設定し、そこからエネルギー安定性にしたがって文様が出現したのだとすると、力学-熱力学的説明が行われていることになる。それは出発点となる初期状態を設定し、いくつかの必要条件を満たせば、こうした文様になることを意味する。しかしこのやり方では、エネルギー安定性を満たすものが、この文様一つに決まるのか、あるいは特定のエネルギー安定状態が何故この文様なのかという点で、多くの未解決の難題を残してしまう。
そこでいま結晶や鉱物に、現れざる原理を設定してみる。これは結晶や鉱物に内在する原理であり、文様へと至るプロセスに内在する原理である。この現れざる原理が、みずから文様へと自己表現していくと考えてみる。このプロセスは、当然のことながら認識とは異なる仕方で作動している。この作動の分析への手がかりは、現れざる半分である衝動や感情が発露するさいに感じ取られている活動への「気づき」である。衝動や感情が動くとき、それらが何であるかを対象として認識するというより、むしろそれらの感じ取りには感じ取ると同時にみずからも動き、かつ作動を調整するという実践課題が含まれている。この実践的能力を手がかりにして、内在的原理が特定の形態へと自己表現する回路を考えようとしている。
自然学では、ショーペンハウアーの企てはいまのところどう活用したらよいかわからないが、認識とは別様に作動する広大な領域を見いだしたことは、現象学にとって示唆的である。現れの基本は、主観-客観に分かれるという形式性であり、それは現象学のノエシス-ノエマという対関係に類比的なものである。このハイフンで示される距離感の場所に「志向性」が働く。そうなると現れざる現実は、志向性とは異なる原理で捉えられることになる。感情は、壁やカーテンのように向こうに見えてはいない。だが向こうに見るということとは別の仕方で間違いなく捉えられている。そのため現象学らしい記述で、志向性の能動性とは異なる受動的な領域だと位置づけることができる。
盲目的内在の原理から、表象としての世界につながろうとすると、にわかに困難が生じる。内在の原理は、ただ作動するだけであり、認識とは異なる原理だからである。すると形式的に世界を認識するとは異なる原理が、どのようにして世界を知りうるのかという問いが立てられる。意志は、ただ盲目的に作動するだけであるはずなのに、不快なもの、危険なものを察知して避けている。どのようにしてか。この問いは当初より解けないように立てられている。少なくとも意志の側からは、解けないように立てられている。この解けなさを本来的に抱え込んでしまうところが、意志の特質でもある。またそれは哲学的な問いの典型例にもなっている。哲学は、時代水準で見たとき、ほとんど乏しい道具立てで原理的な問いを立て、それを解こうとする、ある種無謀な企てのことである。哲学に思い入れることは不要な信仰だが、哲学の問いの形は基本線をついているのだから、後の歴史で繰り返しその問題に戻っていくことになる。現れざる世界は、現在では、欲動、情動、感情、情感というそれじたいで作動する系列と、内感、キネステーゼ、体勢感覚、位置覚のような行為の調整を基本とする実践的原理の系列に分けて考えることができる。こうした内在の原理は、そもそも認知とは異なる仕方で形成されている。行為のさなかで個々に形成されたものの間の連動は形成されているが、内在の原理と認知との連動を解明するモデルは、今のところ提示されていない。次節ではこの難題に取り組んでみる。
フィヒテ ショーペンハウアーから二〇年ほど前に、フィヒテが内在的な原理を扱う別の構想を出していた。この構想は読み取りにくいために、内在の原理のコンテクストではほとんど取り上げられることがない。だが現れざる内在を活動態として構想していくためには、とても重要な内容が含まれている。フィヒテが「知識学」を構想したとき、理論哲学と実践哲学の共通の出発点を見出すこと、および哲学の開始を告げる出発点となる原理を基礎づけ構想によって見出すことをみずからに課している。手続的にはみずからの前提を問う批判哲学の手法を継承し、同時におよそ知識が成立しうるための根拠を、主体性の自由の確保という課題から導き出そうとしている。最終根拠を設定し、そこからさまざまな原理を順次導出する独断論ではなく、それに対置される批判的方法を取ることを宣言し、またどこまでも人間の自由が確保される基盤の設定が課題とされている。
ここでは細かな哲学的争点にはかかわらない。またフィヒテ自身が構想したいくつもの知識学の出発点の微細な変更にもかかわらない。むしろここではこうした知識学という構想のエッセンスにかかわることができればよい。フィヒテの場合、見かけ上出発点に根源的な「活動性」が置かれている。認識の原理は、知ることに対応した原理である。ところが行為することの原理も、同じように心には含まれているはずである。行為することの原理と、知ることの原理の共通の基盤を求めようとすれば、それは一種の活動性になる。自我とは、絶対的な活動そのものであり、同時にまた活動がかたちを取ったものである。
精神の活動性そのものは、哲学者のみがもつのではなく、人間である限り、そして人間の本性が自由である限り、誰であれ備えた特質である。この活動性から哲学へ進むためには、およそ知ということが成立しうるための固有の原理が必要になる。だが活動性からさまざまな哲学の原理が導かれるのであれば、出発点がそれとして設定されているのだから、それは出発点を無前提に設定する独断論に逆戻りしてしまう。そのため活動性がなんらかの形で維持され、活動性を含んだ形で、当初の知の成立する根拠が解明されねばならない。
最初の知識学の作品である『全知識学の基礎』の第一部では、知識学の原則論が述べられている。第一原則は、自我の設定にかかわるが、自我とは本来、ゼロからの絶対的な産出性である。そのため自我は、みずからの産出性をつうじてそれとして出現してこなければならない。つまり自我は産出するものであると同時に、産出されたものでもある。だがこの産出されたものには、みずからの産出的活動性が貫いているはずである。根拠づけで見れば、知の出発点の形式的な枠として自我が設定されるさいに、出発点そのものの根拠を問うかたちで、みずからを貫く活動を取り出すが、その活動こそ、自我の本体であり、自我はみずからを産出する。わかりにくければ、自分の意識のまとまりをイメージする。この意識のまとまりが、ある活動をつうじてもたらされたものだとイメージする。しかも活動は意識のまとまりを貫いている。このとき意識のまとまりを貫いているものこそ、活動を本性とする自我であり、この活動の結果もたらされているものも自我である。
こうして成立している事態(産出された自我)とその根拠(産出する自我)との循環的な同一性が確保され、また活動を介して、知と行為との同一性が確保される。これが事行と呼ばれるもので、この事行のさまざまなモードが現実の知識のカテゴリーとなって具体化する。その最初の表現が、自我はみずからを定立する、となる。[8] この知識学の最初の出発点の組み立てについては、現時点では、とても多くの可能な設定の仕方を考えることができる。
原則論から四年後に公刊される『新たな方法による知識学』が採用したのは、作動する活動を実在的な活動だとすること、またそれを直観する活動を観念的な活動だとすることである。作動し続けるものは、それじたい知ることとは異なる活動であり、またそれはそれを直観する活動を欠いては成立しない。そこで作動し続ける活動と、それを直観する活動の二つの活動から、一切の知識の基本的なカテゴリーを取り出す作業が行われる。ところで活動が働いていることに当初どのようにして気づくのか。ただ作動しているだけであれば、その作動には気づきようがないはずである。そうすると活動をそれとして気づく、すなわちそれを意識の事実とするさいには、すでに活動にかかわる最初の前提となるカテゴリーが出現しているはずである。これは「抵抗」だと呼ばれる。抵抗がなければ活動をそれとして捉えることもできない。初期のフィヒテの議論の組み立てでは、相反する二つの原理で組み立てていくのだから、活動がそれとして取り出されているさいには、見かけ上活動ではないなにかが同時に前提されていることになる。それが「抵抗」である。これは難しいことを言っているのではない。意識が、自分自身を意識だと気づくさいには、何かひっかかるものがあるはずであり、そのひっかかるものが「抵抗」である。こうして最初の活動への気づきが出現する。原則論では、定立活動そのものを、活動とその産物の関係で捉えようとしていた。ところが『新たな方法による知識学』では、活動を感じ取ることから開始されている。これは知識学の出発の仕方が、理論哲学から実践哲学に代わったことを意味する。
実はこの段階でも知識学には多くの組み立てがあることがわかる。活動が作動するさいには、それじたいで動きのパターンを形成する。活動の開始、活動の進行、活動の区切りのような開始、進行、終わりの基本パターンをもつ。これらの開始、進行、終わりは、みずから作動するものには必ず備わっている。そのときこの基本パターンで、経験に一区切りのまとまりが出現する。まとまりの出現の反復によって、そこに活動そのもののパターンに気づくことができる。この場合には、活動の反復的生成に、活動のさなかで気づくのであり、反復が活動に気づくことの基本条件となる。つまり「抵抗」を導入しなくても、活動をそれとして捉えることはできる。だがフィヒテはそうした選択をしなかった。理由はかなり明白である。初期の知識学(『全知識学の基礎』および『新たな方法による知識学』)では、精神のダイナミクスを成立させているのは、相反する二項対立の原理であり、活動の対極の原理が活動に不可欠だと捉えているからである。実はこうしたダイナミクスは、愛と憎のようなエンペドクレスの自然哲学から見られ、近代ではニュートン後期の引力、斥力のような対概念で定式化されており、弁証法にも変形されたかたちで組み込まれている。
ともかくこうした組み立てで進んでみよう。抵抗を感じ取る場面で、当初の最初の活動が出現する。それが「衝動」である。「衝動は自分自身を生産する努力であり――活動へ向かう持続的傾向であって――行為ではなく、観念的活動を規定するものにすぎない。いつまでも自分自身を規定する内的活動にすぎず、外的活動ではなく、ひきとどめられた活動であり、抵抗がそらされるやいなや活動となるようなものである。」[9] 衝動は、一般には活動の内感で、通常感じ取られるだけであり、なにかのきっかけで蠢き始める。直観される最初の活動が、この衝動であり、最初の活動の妨げとともに成立している。これは行為に先立つものであり、行為を可能にする。フィヒテはこんなかたちで内感領域をカテゴリー化するのである。こうした衝動は生命のごく近くにあるものであり、現代的に言えば、脳幹部に座をもつような作動である。ここから意識にそれとして現れる感情を導き出すのであるが、そうした議論は多くの思弁に満ちざるをえない。
とりあえず感情についてどのようなことを語っているかを、最初期の『全知識学の基礎』の方から取り出しておく。活動についての議論では、本来活動状態であり続ける「感情」をどう捉えるかが、一つの試金石になる。というのも感情は、それを眼前に定立するようにしてはじめてイメージされるものではなく、そもそも比喩に訴えるのでなければ、怒りや喜びをそれとしてイメージすることさえできない。怒りをイメージしようとすれば、仁王像を思い浮かべるかもしれない。しかし仁王像は、表象であり、怒りに対応づけられた一つの事例である。怒りそのものは表象することはできない。その意味で感情は定立されたりはしない。また表象的なイメージ像に関連づけられる以前に、すでに感じ取られている。定立以前に感情においては、「自我は、みずからを感じる働きとして、感じる」という事態が成立しているように思われる。これは感情から見た自我の最初の定式化なのであって、定立する以前に、活動として感じ取られているのである。フィヒテの実践的自我を優先的に設定するなら、感情の側での自我の定式化を行っておいた方がよいとも考えられる。だがフィヒテ自身はそれを行わなかった。
一般的には感情はみずからを定立したりはしない。そのため感情の自我は、それとしてあるのではなく、むしろそれが主語になったとしても、それ自体はXである。感情は、特定の状態であることはあっても、それとしてみずから存在することはない。そしてこのことは、感情はそれ自体では存在の単位をもたないことを意味する。自己意識のようなひとつのまとまりとしても、表象のようなまとまりとしても、おのずと成立するようなまとまりとはならないのである。感情は、変化の一つの状態であり、変化として感じ取ることはでき、変化の度合いを感知し、判別することはできるが、変化する当のものや、あらかじめ定まった変化の単位もない。しかも感情は、たとえ表象と結びついて、表象から何かを感じ取ることはあっても、それは能動-受動で示されるような認識対象の受容を行っているのではない。感情にあっては、受容とはひとつの運動であり変化であって、およそ対象認識とのかかわりに類比されるような受動性ではない。感情は受け取るのではなく、むしろ動くのである。
感情の感じ、怒りの感じ、慶びの感じ、悲しみの感じ、この感じをもつことが感情の活動を感じ取ることである。感情と感情の感じは、同じ物なのか。それらが異なるとき由来は同じなのか、異なるのか。感情は感じ取ることも、直観することもできる。しかもこの感じ取りには、明らかに運動感の感知がともなっている。運動を感じ取ることは、それが何であるかを知ることとは別のことである。感情の感じ取りは、活動に身を添わせることであり、現に作動することである。
フィヒテは、『全知識学の基礎』の段階では、定立活動によって設定した自我と非我および両者の間の交互限定(知識学の第三原則)の枠を用いて、配置をあたえるような論証的解明を行っている。この解明は知に全体的統一をあたえるという哲学の体系の要請にかなうようなものであり、その要請に沿うように働いているのが反省である。このやり方によっては、意識の実感に訴えたのでは見えないものをどれだけ明るみに出し、明示的に語ることができるようになったかが、記述の成果となる。体系的な記述をあたえるという要請のもとで、反省は記述ばかりではなく、事柄の発見にも関与するが、その分だけ記述されたものが事柄そのものの特質なのか、反省によって特徴づけられた特質なのかの区別をつねに行う必要が生じる。主として『全知識学の基礎』第六定理である「感情はさらに限定され、かつ限局されねばならない」から、感情の特質と思えるものを最大限引き出してみる。[10] (1)絶対的自発性によって生じる活動は、自我のなかに存在するものののみを客観としてもちうるのであり、この活動は感情にかかわる。(2)感情は能動的であり、能動的なものが能動的なものにかかわるようなありかたをしており、活動として感じるものは、自我として定立されている。(3)感じるものは自己自身を感じる限りでのみ、自我である。(4)こうした自我は、自我が感じるものであると同時に感じられるものであって、自己自身との相互作用をなす限りにおいて、定立されている。(5)感じるものは、衝動との関係では、受動的であり、強制された活動として感じる。(6)この強制的な受動感によって、物の実在性が感じられるように思われるが、感じられている当のものは実際は自我である。(7)あるものが感情の関係によって可能となり、直観が意識されず、意識することもできず、ただ感じられている場合、それは信である。(8)直観と感情の両者は、関連をもたない。直観はみるだけで空虚であり、感情は実在性にかかわるが、盲目である。(この項目だけ第七定理による)
これらの規定は、立ち入ったものであるとはいえ、一切の運動感を欠いている。感情は、それじたいで活動し、感じているさいには活動している感じをもつのであり、感じられるものも蠢いているという運動感をもつはずである。運動感は、それじたいではいまだ能動でも受動でもなく、また自発でも強制でもない。しかも感じるものを感じるという仕方のなかに、微妙ではあるが感覚的直観が入り込んでいるはずである。ところが正しく規定されているように、直観と感情は直接関連をもたず、また由来も特質も異なる。また感じるものを感じるという自己回帰的循環が成り立っても、それによって自己意識とは異なり、感情の自我は定立されたりはしない。ちなみに自己回帰的循環をそれとしてイメージしてみればよい。そのイメージはすでに直観によって対象の位置にイメージされているのであり、感じる働きによってそれとして捉えられているのではないはずである。この場面では、直感的反省はあまりにも多くのことを配置しすぎるのであり、成立していないことをも端的に語ることができてしまっている。反省による配置ではない機構が必要とされるのは、実はこの場面である。ここにシステムの機構が必要とされる。
3 感情はどのようなシステムか
情動や感情を一つのシステムだと考えたとき、このシステムの特質、あるいはこのシステムの作動モードの特徴となるのは、以下の点である。こうした事柄の確定が、システム現象学の特質が良く出る場面である。以下部分的重複をいとわず、列記する。
非単位化 感情の作動には、単位がない。感覚・知覚の作動にも、身体の作動にも要素単位がある。感覚は、どのような感覚質であっても、つねにこのものとして出現する。この黄色、この赤、この青であって、黄色一般、赤一般、青一般というような分類的な区分以前に、つねにこのものである。知覚の場合には、線路を見ながら直線や平らのいうような意味を捉えている以上、明確になんらかの「この意味」をともなっている。線路を知覚しながら、当然のことながら時間経過がある。この時間経過にもかかわらず、この直線、この平らの知覚はある同一性をもっている。これが単位である。現れるものは、現れにふさわしく、おのずとそれにふさわしい単位がある。またそれじたいで作動するものは、作動の継続にふさわしく作動のための単位が出現する。にもかかわらず感情には単位がなく、そのため流動する動きとして、表象されやすい。
度合い だが感情には、度合いの区別がある。単位がないのに度合いがある。強い怒り、弱い怒りのようにはっきりと区別できる度合いがある。度合いを区別できるさいには、強いもの、やや強いもの、やや弱いもの、弱いもののように相反する極が出現する。感情の場合の典型的な両極が、快―不快である。両極化したとき、なだらかに快から不快までつながっているようにみえるかもしれない。しかし快もしくは不快の感じ取りは、つねに特定の度合いで感じられる。このとき快、不快の情動と、情動の作動を感じ取っている感じ取りの働きが分かれているはずである。これは怒りや憎しみのように、制御があまり効かずおのずと動いてしまうような情動と、それを感じ取る働きの場合には、はっきりとしてくる。この感じ取りが、気づきである。この感じ取りの働きは、起源・由来で考えれば、運動している筋肉の働きの強さの感じ取りに類似したものである。少なくとも運動性の働きの調整能力として出現している可能性が高い。これは一つの仮説だが、相当確度が高いと予想している。
非領域化 感情は、それ自体で領域化しない。みずから作動するものは、作動の継続をつうじて、それ自体の存在領域を形成する。それが生命の特質でもあり、この活動の様式は、生命が作動しながら、そのことによってみずから存在するという行為存在論に相応したものである。存在領域というのは、それが在ることにかかわっていて、動きをつうじてみずから存在する。意識は、ひとたび発生すれば、意識がある状態とない状態とははっきり区別できる。眠っているときと意識が覚めているときとでは、はっきりと区別できる。目覚めているとき、意識をつうじて何かを知るだけではなく、意識があるということも感じ取っている。ところが感情は、恒常的にあるといえるような経験領域としては感じ取れない。情動・感情が動き始めれば、それが起動していることはすぐにわかる。しかし覚めれば恒常的にあり、眠れば消えるというような領域化が起きているようにはみえない。ところが感情はそれ自体で領域化しないのであれば、感情は生命の特質のうちのかなりの部分を欠いており、特殊な作動のモードだと考えた方がよい。飢えや渇きのような欲求・欲動は、空腹や体温上昇にともなうシグナルに近く、それらが起動すれば間違いなく感じ取ることができるが、経験のなかの固有領域ではない。そうなると感情や情動が作動すると言っても、上下運動のような振れる作動であって、運動のように動き続けるものではない。だが情動や感情は、付帯的に領域化する。それは機能的には内分泌系の一部とつながることによって、機能的に固有領域を占めるからである。たとえば自動車を運転していてぶつかりそうになり、ドキッとしてのち、気持ちは平静なのに動悸が打っていることがある。咄嗟の事態に脳内に一挙にホルモン様物質が放出され、内分泌系が作動してしまって、心は平静に戻っているのに、生理反応だけが進行し続けている。
付帯的出現 感情は単独では現れることができない。怒った顔、嬉しい顔はあるが、顔のない怒りや、嬉しさを現れとして、感じ取り、知覚することは困難である。その結果感情は、感情以外の現れに伴う形でしか、現れることができない。感情が物の現れに伴って現れる場合、自己意識による一切の投射は伴っていない。感情の現れは直接的であり、直接物に現れる。フロイトの投射には、内的な運動感を外的な運動感のない表象へと転化すること、感情の形を別様な感情の形に変えること、内的な衝動性を外的な意味へと転化することが含まれている。[11]これらは原則自己意識の操作による。感情は、それ自体で領域化しないのだから、運動や感覚・知覚の領域化にともなって二次的に出現するだけである。表情や泣き声には、おのずと感情や情感がともなっている。ところが人間の場合表情や泣き声の感じ取りは、知覚に優先する。近所のネコの多様な鳴き声も、鳴き声そのものを細かく真似ることは難しいが、なにが訴えられているかはすぐわかる。感覚・知覚は対象を識別する能力だが、感情や情感の感じ取りは、識別以上に態度的なかかわりを要求している。つまり感情は、知るのではなく、行為することを要求する。
形態変化 感情は、同じ強さの度合いでも、愛しさ余って憎さ百倍のように、形態を変える。相手や対象に対する同じ強い関心に方向付けられていても、形態が変わることはしばしばある。この形態は、生存価値に関連している。感情が両極化する性質をもつ以上、極の間の反転はある。愛の反対は、憎しみではなく、無関心である。憎しみは、愛に劣らないほど強い関心にささえられている。ストーカーは、おそらくどこかの時点で愛とも憎しみとも自分自身でもわからないか局面を何度も経ているはずである。この関心の度合いを決める心的エネルギーの量を考えようとすると、リビドーのような着想に行き着く。このリビドーに新たなかたちをあたえることが、感情の発明である。
感情は発明されて、新たなかたちを取ると、表現手段とともに受容され、継承される。博愛のような感情は、自然発生的には成立しにくい。というのも博愛は、自分の生存を危うくする可能性につねにつきまとわれるからである。博愛は、道徳の大天才が、ある時期発明したのである。ひとたび発明されると、なんとなくわかり継承される。だが博愛の感じ取りには、個人差が大きいのではないかとも予想される。博愛には、マゾヒズムや自虐性がともなっているとも感じられる。あるいは博愛には、みずからを際限なく超えていく超克感のようなものもある。あるいは限りなく自分を超え出たものに触れていく崇高さもある。イエスは、キリスト教の開祖というより、おそらく感情の大発明家なのである。
一般に認識の限界に設定される事象は、この限界に認知的に触れると同時に、ある種の情感を呼び起こす。たとえば人間からはどのようにしても届かない絶対超越に対しては、それを捉えることはできないが、なくてすむことはありそうにないという確信とともに、崇高さ、穏やかさ、けなげさ、気鬱さの情感が生じる。あるいはこの世は絶対的な「無常」であることからは、はかなさ、無力、心の贅肉のなさ、透明さのような情感を感じ取ることができる。
他方廃れていく感情のかたちもある。憤り、義憤のような感情は、現代では多くの人にうまく感じ取れなくなっているのではないかと思われる。物事に対するさい、人に対するさいに、好き嫌いではなく、「けしからん」という情感をあまり見かけない。これが先行すると、現在の日本社会では右翼的だと言われかねない。義憤は社会生活上余分なものではないはずなのに、どこか背景化している。あるいは別の感情のかたちに置き換わっている。おそらく好き嫌いに置き換わっている。感情は、個々人にとって使わなければ消滅してしまう。そのためある年齢以降は、努力してでも感情を動かさないと、その感情のモードが消えてしまう。さらに「やさしさ」のような感情は、内実の変化も多い。やさしさは、親切であること、穏やかであることとは異なる。またたんなる思い遣りでもない。ある日、下宿のアパートの近くで、どこか家出をしてきた様子の女の子と出会う。行くあても、泊まるところもなさそうである。白いスーツを着ており、白いスーツケース一つをもっている。しょうがないので狭い自分のアパートに泊めてあげることにする。ご飯を作り食べさせ、自分で言い出さない限りは、身の上や事情を聞いたりはしない。そうこうして数日が経つ。そんなある日、ご飯の用意にと買い物に出かけて帰ってみると、女の子の気配がない。その子が携えていたスーツケースもない。見ると机の上に、一枚の書置きが残っている。「いやな奴」とだけ書いてあった。[12]
その次の文は、さまざまな選択肢がある。「恩知らず」と激怒してムキになることも、「大丈夫かな」と先々を案ずることもある。だが村上春樹の実際の作品は、「きっと僕のことだろうと思った」となっている。寡黙で、大きく感情を動かさず、ただその事態をじっと引き受けている。一般的には、音楽や料理のセンスがよく、にもかかわらず言葉数の少ない体育会系の人間のやさしさである。体育会系の人間は、自分の身体能力の限界をよく知り、限界の先で敗北をよく知る人間である。敗北の情感を、感情を動かすことなく受け止めていく人間像がある。村上春樹の作品にしばしば登場するのは、こうした敗北の先の哀感に包まれた、受動的なやさしさである。しかもどうやらこの人物には、性的能力について、相手の希望にいつでも応じることのできる過剰なほどのタフさが、さらに備わっていることがしばしばである。
否定性 感情に、調整能力を介した抑制や抑圧が入ることで、心の働きにはっきりと否定性が入る。声の抑制のように、活動可能なものの限定が起きる。ネコやイヌの鳴き方を思い起こしても、思いっきり鳴くのではなく、小さく微妙に鳴いたり、抑制を効かせて控えめに鳴いたりできる。もっと大きく作動させることのできるところを調整して微妙に活用できる。つまり感情には、否定性の萌芽がある。感情では、快、不快のように肯定形と否定形が対極的に成立する。ところが感覚には、こうした否定性を考えることが難しい。色と不色、形と不形というように否定形を並置したとき、不色や不形に、不快のような実質的な経験を対応させることができない。それどころか何を意味しているのかを、判然とイメージすることもできない。不快は感情の一つだが、不色や不形を色や形としてはイメージできないのである。色や形は極めて多様だが、多様性の形成の仕方は、否定性を介したものではなさそうである。基本的には感覚は、組み合わせと分節によって際限なく多様化する。黄と緑の間に際限のない黄緑のモードを形成することができ、内角の開きを変えることで際限のない多角形を形成することはできる。だがこれらは否定性を介したものではない。
否定性は一般に自己意識の特質であり、何よりも言語の特質である。否定的感覚や、否定的直観は、言語上は可能だが、実行はほとんど困難である。ひそひそ話しの声の抑制のように、ひそひその直観を活用することは難しい。眼前に見えるものを、ひそひそと見ることはできるのだろうか。直観に抑制をつけて、物を見ることは難しい。これが直観の直接性の理由になっており、現象学が回帰しようとする経験の直接性は、この直観の直接性に支えられている。これに対して感情は、本来強さの度合いを基調としており、さらには強さの調整を基本としている。これは集中の度合いのような、身体行為の内感と共通の特性である。声を発するさいに、大きく騒ぎ立てることもできれば、ひそひそと発することもできる。人間ばかりではない。雛鳥は、人間がすぐ近くにいることを察すると、途端にひそひその鳴き声になる。身体を介した運動性の行為は、調整能力とともにある。情動・感情には、一般に制御機構が備わっている。
生理的身体との連動 感情は身体と直結していると言われる。怒りの感情によって、身体ががたがた震え、さらにきわまれば頭髪天を突くと形容される。悲しみの感情で落ち込み、全身が思うように動かない。喜びの感情をつうじて、全身に力がみなぎる。これらはいずれも誰にでも起こることであり、広く認められる事実である。だがこのとき身体と呼ばれるものは特殊な性格をもつ。いわばここで問題になっているのは、運動する身体ではなく、生理的身体と呼ぶべきものである。寒さを我慢していると、生理的に鳥肌が立つ。また小さく震えが来る。こうした生理的反応を行う身体がある。ダマシオは、情動・感情が身体に密接に働きかけ、両者は密接に連動すると繰り返し述べている。このときの身体は、こうした生理的身体のことである。
生理的反応経路は、比較的詳細に調べられている。たとえば脅威や恐れの場合、下垂体から副腎皮質刺激ホルモンを放出させ、これが副腎からステロイドホルモンを放出させる。そののち副腎ホルモンは脳に戻ってくる。まず副腎皮質ホルモンは、身体がストレスに適応するのを助けるが、ストレスが長引くと、ホルモンが病的な結果をもたらし始め、さらには認知機能に干渉したり、脳の部分的な障害を引き起こすこともある。[13]これだけ明快に反応回路がわかっていれば、情動・感情の働きが、身体にとって、多様な可能性をもつものではないことがわかる。なによりも身体に震えがきたり、身体に力が漲ったとしても、それによって行為や行動の多様さには、ほとんど転化されていないのである。情動や感情が身体行為の可能性を拡張する回路は、ほとんどないと考えてよい。この意味で、ダマシオの強調する身体は、情動・感情と生理的におのずとつながった身体であり、これによって新たな身体の可能性が見出されたり、新たな身体の局面が見えてくるようなものではない。つまり、ダマシオは、あまり見込みのない身体の回路を主張していたのである。
それに対して、ダマシオの指定する「ソマティック・マーカー」仮説は、まだ見込みがある。[14]これは身体ではなく、むしろ感情と認知の関係にかかわる。たとえば不快感は、なんらかのイメージをマークする。そのイメージは、直面する事態に細かな注意を向けさせ、行為の選択に関与する。注意を喚起する機能は、ソマティック・マーカーの優れた働きである。さらにたとえば眼前の道路一面に、赤い水がついているような偶発的に生じた出来事に直面したとき、ソマティック・マーカーは、認知的な事態の掌握以前に、緊急さの度合いについて、類別化を行う働きもある。眼前の水がただのインクで赤くそまった水なのか、血液が混ざった水なのかはわからなくとも、そのとき喚起されマークされたイメージとともに、緊急な事態であることはわかる。このマークされたイメージは、予期の働きの決定的な部分をなしている。この仮説の重要さは、情動・感情-生理的身体連動系が、認知とかかわるさいに、イメージを媒介にしている点である。
複合連動系 情動・感情は、一種の剰余系である。そのため自己形成するシステム間の連動とは異なる連動が生じる。一般に情動・感情は、強弱が変動するだけであり、固有に自己産出することはない。そのため強弱変動系はそれが作動としてあるということに連動している気づきがともなう。この気づきは、反省的な内容はまったくもたないだけではなく、調整にかかわる実践的能力である。動いているもののさなかで動きに触れているという程度の意味であり、それがなければ強弱の変動に対しての調整能力の起動も、それに介入することもできない。そこで暫定的な定式化をあたえておくことができる。情動系は、「情動‐気づき―イメージ」の複合連動系であり、感情は、「感情‐気づき・意識―シニフィアン(言語・記号)」の複合連動系である。ここで情動や感情は、それじたい単位化することはないが、にもかかわらずそれとして感じ取られるときには、すでに度合いとして区分されている。それが気づきと接続している場面である。この想定はそれほど不自然なものではなく、情動の強さの度合いや、感情の強さの度合いにそれとして区分がある場合には、つねにこうした認知の仕方になっている。しかもその認知は、強さの度合いを精確に捉えるよりも、情動や感情を制御するような作動の調整として働いている。
他方の運動性の働きである情動や感情も、同時になんらかの認知を行うが、一対一対応関係のないイメージやシニフィアンとの接続がなされる。情動が何故イメージと接続し、感情が何故シニフィアンと接続するかは、発生的な理由によると思われる。情動は当初危険なものを避け、保護してくれるものを判別できればよい。対象がなんであるかではなく、みずからの行為の選択のための指標さえあればよく、それについての記憶さえあればよい。行為のための判別可能な類型的な像を得ることができれば十分である。またそれが心の安定に資するものであれば、構造的な支えとして記憶に保持されると予想される。
こうした複合連動系は、産出的システムの自己を形成することはない。どちらかと言えば細胞間物質や対人的媒体のような媒体機能をもつような、媒体的存在として、媒体独自の動きを備えたものである。通常の産出的システムとは異なり、媒体は連動するシステムとの関連で、連動するシステムに引きずられるようにして形をとる。だが連動するシステムの形のなかに収まりきることはできない。この収まりのなさが、情動や感情を単独の系だと感じさせる理由になっている。オートポイエーシスとの関連で言えば、この自己は、ある場所に判別される自己(Selbst)であるが、その場所が媒体であるような自己である。そのためこの自己は、作動の時間的な周期性、作動のリズムとして感じ取られる自己である。少なくとも産出的作動によって形成される自己ではなく、気づきをつうじて区分され、認知的に判別される自己である。
精神分析医の十川幸司が、ひとときオートポイエーシスを手掛かりに精神分析の治療場面に不可欠なシステムの設定を試み、そこに基本的に四つの自己を設定している。[15] 感覚の自己、欲動の自己、情動の自己、言語の自己である。治療的に重要な場面だけを取り出したものだとしても、なお詳細なまなざしが必要なのは、これらのうちの半数は、同じシステムの自己の扱いができない点である。感覚はこのものという作動の単位をもち、言語もシニフィアンという作動の単位をもっといるため、オートポイエーシス系の作動を行うシステムである。他方欲動(飢え、乾き、眠り、押し倒し)や情動(恐怖、不安、怒り、不満)は、強弱の変動を基本にしている。このためかりに自己と呼べるものがあるにしても、連続的に産出されるような自己ではなく、作動への気づきが調整の働きのために区分した自己である。
また現象学では、情動や感情を理由なく作動し、どのような環境条件との対応関係もないことから、産出的なシステムのように扱ってきた系譜がある。情動・感情の動きがさらに次の動きを作り出すようにイメージしてきたのである。だがこうした設定は、一段階粗い体験記述であったことがはっきりする。産出的なシステムは、理由なく動くことが条件ではない。それはすべての自己組織システムについて言えることである。みずから動くものは、動くための理由を必要としない。自己組織システムのなかでも、それじたいで新たなものになっていくことのできる系は、産出的である。だが情動や感情のシステムは、こうした系ではない。
作動するシステム 情動に密接に連動するのは、言語ではなくイメージであり、具体的な形である。何かのきっかけがあれば情動に連動する特定のイメージがおのずと出現してしまうことがある。大きな木に数匹の真っ白いオオカミがまるで鳥のようにとまっており、こちらをじっと見つめている。ある患者にとって、このイメージ像は、何度も繰り返し現れてくる。情動の動きもしくはその動きの抑制が、イメージのもつ喚起力に見合うところで、このイメージ像が成立している。情動の動きに連動するものがイメージであることを、はっきりと直感的に感じ取っていたのは、ユングである。ユングは情動の作動にリズム性を感じ取り、この作動の自在さを回復するためには、イメージによる形態化が寄与すると考えていた。
心の作動が自在性を失うとき、この作動の欠損にはかなり少数のパターンしかない。これが構造主義的な着想を組み込んだすべての精神分析の基本前提である。イメージの産出性を強調するユングでも事態は同じである。それどころか、このことはユング自身が明確に述べていることである。このときイメージに働きかける治療戦略を取ったのが、ユング派の治療法である。[16]このイメージのなかには、心のあり方さえ変えてしまう基本的なイメージから、心に軽微な変化と意味の違いを感じ取らせるだけの象徴のようなものまで含まれている。また患者の個人差も大きいと予想される。臨床心理士レベルでも、イメージ療法はしばしば活用される。たとえば盗癖のある少年に、盗むことはよくないことだと説教しても無駄である。善悪判断ができないために、盗むのではない。盗癖は、一種の病的行為であり、心の状態を変えていく介入が必要とされる。意識の緊張度を下げ、場合によっては催眠状態で、前方に出現するイメージを誘導する。たとえば真っ黒なネコが、全身の毛を逆立てて、こちらを向いている。このネコについての意味解釈は、さまざまでありうるし、いずれにしろ解釈の域をでない。このネコのイメージに働きかけて、心の状態を変えることが治療手順である。そのネコを呼んでごらん、と催眠状態での誘導を行う。手を振り上げ、手首を折り曲げて、呼ぶような仕草をしている。そのさいクライアントに過度の緊張状態が出現すれば、その日はそれで打ち切りである。何度もセッションを繰り返して、心の状態を変えていき、純粋にイメージのなかで、その黒いネコを近くまで呼び寄せ、それを抱きかかえるところまでできれば、このイメージ治療はそこで打ち切りである。こうした治療法で、盗癖が治った例がある。それと同時にクライアントは、盗癖時にあれほど得意だった木登りができなくなり、わずかに高い場所でも、恐怖感を感じるようになっている。盗癖と木登りとの関連は、よくわからない。またどのように解釈しても、ここでも解釈の域をでない。解釈のレベルに落としたとき、ただ言ってみただけという印象が残り続ける。
このときイメージは象徴的に何かを意味していると考えてはならない。むしろ情動の動きを作り出すための操作的な手掛かりであり、現実に患者も潜在的にこうした手掛かりを活用しながらみずからの情動を維持しているのである。したがってこのネコのイメージは、なんであるかを知るための知的象徴ではなく、遂行的イメージである。治療的介入は、もっとも動きやすい局面にかかわりながら経験に変化をもたらすことであり、経験の動きにきっかけをあたえ、経験を誘導していくことである。
この系譜に属す「ファンタジー・セラピー」から治療の一局面を取り出してみる。[17]セラピストは、少し複雑なポーズを取る。それに対して、クライアントに鏡像模倣を促す。同じ姿勢を模倣するのではなく、左右反転した姿勢をとってもらうのである。もちろん鏡はない。このときクライアントは、イメージのなかで左右反転を形成しながら、そのイメージに合わせて、身体体勢を取る。セラピストの腕や足の配置が少し複雑だと、結構難しい課題である。静止状態で鏡像模倣の姿勢ができたところで、セラピストは回転移動を始める。その回転移動に合わせて鏡像模倣の運動をするように促す。二つの歯車が接しながら、ちょうど逆回転するような状態が生まれる。動作の最初の開始場面で、イメージの反転が行為の予期となっている。これも典型的な遂行的イメージである。遂行的イメージは、それがなんであるかを知ることではなく、それとともに行為を形成することであり、それによって心の状態に局面変化をもたらしている。
情動-気づき―イメージという作動の単位には、それぞれに介入可能な点が独立に示されている。情動は、他者との関係では、対人関係にはいったとたんにすでに双方で連動している。そのためセラピストは情動の動きに直接かかわってしまっている。ドアを開けて入ってきた患者と握手するだけで、すでに患者の局面が変わってしまっていることはよくある。情動の動きを回復させるだけであれば、さまざまな回路がある。恋愛感情の転位を意図的に活用しようと思えば、比較的容易である。だが必要とされるのは、情動の自在な動きであり、情動の動きを自己制御できることである。
また患者自身の情動へ変動への気づきがいっさい向けられず、むしろ患者自身が言語へと連動させて、言語的な意味で情動の作動を一定枠に制御していることがある。これは患者の自己治癒の試みが、そのまま病的になる場面である。たとえば情動がなんらかのイメージと強く結びついている場合、すなわち怖い、恐れといった情動が、特定の風景と結びついている場合、この情動そのものを情動への気づきで調整している場面では、ほとんど問題はない。ところが情動に結びついているイメージ的表象を意識に現れないようにすれば、このとき抑圧が生じる。作動記憶に選択的に介入する意識の努力によって、表象として現れないようにしてしまうのである。特定のイメージ的表象を意識から排除しようとすれば、意識に無理がかかるだけであって、多くの場合情動の制御は、間接的なものにとどまる。選択的注意をフルに活用することによって、この表象が作動記憶にかかわらないようにしているのが実情である。意識によって制御できるのは、原則意識にとっての現れであり、そのイメージ的現れが結びついていた情動ではない。このときイメージを排除するために、言語的シニフィアンで操作的に心の状態を安定させようとしていることがある。
先の基本単位には、ハイプンで示された箇所に実はさまざまなものが入りうる。シニフィアンも容易に接続される。そのこと自体に問題があるわけではない。シニフィアンで情動の動きを一定幅に押し留めていたり、情動を意味の問題へと転倒するように、別の問題へと摩り替えていることが問題になる。実際シニフィアンとの連動の回路を、情動の動きの回復と情動の動きの再組織化へと向けて、シニフィアンを活用することはできる。この再組織化の途上で、情動の動きへの気づきを誘導する必要がある。この場合、患者自身にとって問題となっている情動のモードとは異なるモードをもちいて、気づきの調整を再度回復させる必要が生じる。
イメージとの連動は、本来さまざまなイメージと連動しうるという自由変項をもつが、情動の動きを内感として感じ取ることや、情動をさまざまなイメージと接続するような経験の作動は、通常誰であっても行っていない。そのためエクササイズとして導入する仕方は、現時点では無数の可能性が残されているが、いずれの場合も経験の自在さを回復させるような組織化へと向けて実行されることになる。自在さこそ、システムの本性だからである。
4 遂行的記憶
記憶が経験として作動するのは、つねに目下においてである。作動しない記憶は、定義上一度も思い起こされることのない過去であり、膨大な過去が記憶されることなく忘れ去られている。記憶は、過去の経験や体験がなんらかのかたちで現在に影響を及ぼす作用である。もっとも緩やかな記憶の定義は、ここから生じている。一週間前の身体トレーニングが効果を発揮して、明日にも記録の更新が狙える。身体に蓄積された過去の記憶が、やがて効果を発揮する。先週行った歯の治療場面を想起すると、痛みの再生はないものの、緊張感が蘇り、薄っすらと冷や汗が出る。三日前の会議の場面が思い出されて憤懣が再生し、憤懣だけが再度進行する。昨夜の夕食の情景を思い起こし、そこで交わされた会話が実は別の意味をもっていたことに気づき、にんまりする。多忙だった1週間間を順序立って思い起こし、回想のなかで1週間を振り返ってみる。二週間後までにやっておかなければならない車の免許の更新を肝に銘じて、時間の取れる明後日にはこのことを思い起こすよう念じておく。最後の例を除いて、いずれも過去がなんらかのかたちで現在に関与している。そのためいずれにしろ記憶が関与していると予想される。最後の例は、2日後に念じたことの経験が再生する場面で、やがて記憶が関与する。
だが過去と現在との時間関係から記憶が生じるのではない。一週間前のトレーニングの効果が出る身体の運動能力の変化は、身体自体が時間関係を形成しているのではない。歯の治療場面での緊張感、恐怖感を思い起こし、いま恐怖を感じることは、感情の作動である。だがそれは過去の緊張や恐怖と現在の感情状態とを時間的に関連づけることで生じたのではない。感情はおのず再作動するが、時間関係をもとに再作動が開始されたのでも、時間関係によって生じたのでもない。もちろんそれを時間関係で記述することはできる。記憶の作動にかかわる記述は、記述の本性上、なんらかの時間軸を設定しなければならない。記述のための座標軸の設定は、哲学にも経験的心理学にも欠くことができない。だが日付と配置を行うことは、記憶の作動とは独立の作業である。昨夜の夕食の場面を想起し、そこで交わされた会話をあれこれ思い浮かべてみる。ここには経験の日付と場面の配置が関与しているように思われる。だが日付を打ち、場面を配置することと、日付を打たれた情景を想起することは、別の働きである。想起の作動は、時間関係とは独立である。それでも想起は今なされているのではないかという思いはある。だがこの今は、いつでもよい今であって、目下想起されているという程度の意味である。それどころか作動する想起にとって、時間的今はどうでもよい今であろう。というのも今は想起の作動の時間的な指標にすぎないからである。
記憶の作動と時間関係は独立の事柄である。だが多くの場合、ほぼ同時に出現する事柄でもある。それは記憶の作動と同時に、作動への気づきが伴っているからである。運動性の活動でもある記憶の作動には、しばしばそれに気づく意識が伴い、現に行為しながらそのことに気づく意識が伴うという事態は頻繁に出現する。時間関係を捉えているのは、むしろこの気づきの意識である。たとえば感情が作動するとき、まるで経験のなかに深くしみこんだ因習のように、おのずとこれは前にも起きた感情だと感じることがある。感情が現実に作動することと、それを過去の感情に関連づけて、現在の感情との類似性や同一性や不連続性を感じ取る働きとは、まったく別の働きである。比較対照の働きは、認知的な判別であり、対象認識の近くに位置している。
記憶と時間が関連づけられる典型的な場面は、将来やろうとすることをいま計画を立て、予定に入れる場合である。二週間後には、免許更新の期限が来るので、少なくともその前日までには更新しようと予定を立てる。だが当日を過ぎてはじめて思い起すこともある。この場合、思い起こして後の行動が、あらかじめ時間系列のなかに配置されている。当初より時間系列のなかで配置された後の行動が焦点になっている以上、記憶がなにか時間と関連をもつように見える。だが想起の行為と、それがどの時点で起こるかは独立の問題であり、期日を過ぎてはじめて思い起こす場合のように、時間関係で記憶が作動するわけではない。時間関係で設定されたのは、想起された後の行動であって、それは現実の予定であり、時間関係のうちにある。だが想起することじたいは、時間関係によって律せられることも、時間のなかで出現することでもない。
すると記憶にまつわる問題の基本がどこにあるかが見えてくる。過去と現在のかかわりがどこかで捉えられていなければ、事柄を記憶にかかわる問題だとおさえることはできない。この時間関係がなければ、知覚とは独立に出現した心像を、想起によるものか、ただ思い浮かべただけの想像によるものか区別することができない。だが過去と現在のかかわりは記憶という活動にとって、本質的でも重要でもない。これは奇妙な事態である。事柄を捉えるための必要条件が、事柄の必要条件ではなく、事柄を捉えるための必要条件が、事柄そのものを捉えにくくしてしまう。この場合事柄を必要条件からおさえて、順次事柄の内実を明らかにしていく手順を取ることができない。
記憶の多型 記憶と呼ばれるもののなかには、区別されないままあまりにも多くの活動が含まれている。そうしたさまざまな活動を区分しておくことは、記憶の仕組みを考えるうえで最低限必要なことである。経験の連続性から見て、過去の経験が現在の経験になんらかの影響をあたえていることは間違いない。ほぼ毎日顔を合わす職場の同僚に対して、顔を判別して即座に挨拶するのも、過去の経験が影響をあたえている。だがどの過去が影響をあたえたのだろう。昨日の記憶か、一昨日の記憶か。見慣れた顔を見る場合、どの過去の経験が影響をあたえたのかを判別するのは通常困難である。こうした場合は、記憶の影響というより、習慣だと呼んだ方がよい。記憶の部類では、意味記憶と呼ばれる。
こうした場合、記憶の働きを調べようとすれば、たとえば顔の再認の失敗や機能不全に注目することができる。見慣れた顔をただちに判別できている場面から、いくつかの機能を取り除いて見るのである。そこにはいくつもの場合がある。知っているはずの人の顔を再認できない場合、ある人の顔を他の人の顔と見間違える場合、顔は再認できているにもかかわらず、それが誰であるかを思い出せない場合、顔もそれが誰であるかも再認できているにもかかわらず、名前が思い出せない場合のように、蓄積された記憶のなかから欠落しているものを分析するのである。さらに顔の知覚の前段階には、何かまとまった形が感覚できているにもかかわらず、それが顔であると意味付けることのできない場合、個々の部分の配置や比率は知覚できているにもかかわらず、それが顔という形であることがわからない場合等、何段階かの障害を取り出すことができる。習慣のように意識せず作動する経験の内実を調べるためには、現に成立していることの必要条件を順次明らかにするのではなく、欠損を手掛かりに機能的条件を差し引くのである。通常認知科学であれば、再認の失敗は記憶された情報の欠損だとし、顔認識情報ユニットの欠落、個人情報分類ノードの欠損、付加的情報ストックの機能不全だと言うと思われる。だが再認できなかった知っているはずの人の顔も、次の機会には楽々と再認できることもあり、たまたま名前が思い出せないこともしばしばある。そのため再認の不全を一概に記憶だけの機能不全だと考えることは困難である。記憶を情報ストックのようにイメージする限り、記憶が作動するためには、登録、把持、呼び出しがスムーズに行われていなければならず、この範囲内でもどの機能に欠損が生じたのかを特定することは容易ではない。機能を差し引く場合には、脳に欠損が生じるような器質疾患を除いて、記憶について明確なデータを出せそうにない。ところが器質疾患の場合、記憶だけの欠損なのかどうかの判定が困難になる。
ベルクソンもこうした疾患例を『物質と記憶』で多用している。たとえばある街の情景を想起できるのに、その情景の前に直接立つと、初めて見た風景としか感じられない事例を取り上げている。ここから知覚と身体行為とを接続する記憶力に問題が生じていると結論している。[18] だがこの場合知覚そのものが変容している可能性も、知覚と想起との関連が欠損している可能性もある。疾患の事例から機能を差し引く操作で、時として貴重な知見が得られることもある。聴覚性の言語的短期記憶が欠落していた症例で、他の認知能力は記憶を含めてまったく正常な事例がある。短期記憶がなければ通常長期記憶に情報がもたらされない以上、長期記憶が活動しなくなるはずである。ところがこの予想を裏切るような症例が出現したのである。短期記憶は長期記憶の前段階のステップではなく、固有の働きをしているのではないかというのがその事例からの帰結であり、そこから作業記憶(ワーキング・メモリ)の着想が出てきた。[19] 作業記憶は、登録-想起される記憶ではなく、ある種の手続き的記憶であり、作業の継続のなかで、おのずとその作業の範囲を維持していく記憶である。
記憶についての認知は、それじたい作動であるとともに作動への気づきがあるところに成立する。記憶には、(1)経験の連続性に裏付けられた何らかの先行経験が、潜在的な形成要因として現在の経験の遂行に関与している、(2)そのさい現在の経験において経験の遂行にともなう現在と過去との関連づけの意識がある、という二点が含まれる。これらは相互に一方を他方に帰着することも解消することもできず、またなんらかの第三の心の働きに統合することもできない。統合できないまま、ほぼ同時に進行している。だが記憶の働きでは、想起の遂行に、現在と過去の関連づけを直接伴わないこともある。後になって回想のなかで当時の現在と当時の過去が関連づけられたり、他者から指摘されて初めて時間関係が理解されることもある。これらの場合は、(1)(2)は当初より分離されている。だが(2)を欠けば、出現した心像が想起によるものか、想像によるものか、本人自身にとっても区別できない。また(2)は部分的に、記憶の登録の推進に寄与している可能性がある。時間的配置は、機能的にはおそらく登録を容易にする補助機構の一つである。この補助機構を組み込んで成立している記憶が、エピソード記憶と呼ばれる。個々の場面のコンテキストが形成され、コンテキストとして記憶されている場合である。
過去が日付と配置をともなって取り出される場合、特定の経験が典型例となっていると考えられる。それは表象の想起である。想起された表象には、はっきりと判別できる特性がある。昨夜の夕食の情景を想起してみる。家族とともに夕飯を食べている情景をくっきり思い起すことができる。だが現実には、その情景の数分前の情景もあるはずであり、数分後の情景もあるはずである。ところがくっきりと思い起こすことができるのは、特定の情景だけである。しかもその情景は特定の場面であり、なだらかに広がる裾野をもたず、視線を移動させるようにして周囲の情景へと移動させることはできない。想起された表象は、はっきりとした単位をもつ。あるいは情景が一つの単位となっている。前後から切り離され、次々と移り変わることもない単位をもつことが、想起された表象の特質である。これによってこの表象に記しと日付を打つことができ、複数の表象に配置をあたえることができる。記憶のモードを分類するさい、もっとも大枠での分類基準は、想起されるもの、再生されるものが単位をもつかどうかである。そして直接明確な単位をもつのは、表象だけなのである。表象の記憶こそ、今日まで全般的に記憶の基本形をあたえてきたのである。
表象をモデルにして、表象の準現在化、もしくは準現前化を語り、準現前化した表象と現在の他の表象の間に、現実性の度合いに関して差異がなければ、準現前化した過去は、準現前化したところにあるという首尾一貫した議論が生じる。昨夜の夕食の風景はどこにあるのか。想起された表象は、特定の単位となっており、特定の場所をもつ。当然のことながら、準現前化した表象は、過去にあるのではなく、現にいま想起された場所にある。想起によって過去という形で経験が形成される。それは知覚とは異なる経験であるが、想起によって過去の経験が形成されるのであって、過去は再生されたり呼び戻されたりはしない。大森荘蔵のこうした議論は、実のところ明確な単位となる表象の想起をベースにしている。そして想起という行為によって、過去形の経験がはじめて形成されるとする。想起には「現在以前」という時間的配置が内含されているという。想起は、それによってかってそうであったという過去形の経験を形成するというのである。[20]
だがここには単純で、おそらく戦略的なすり替えがある。想起という行為は、フラッシュバックのように、必ずしも時間的配置を伴う必要はなく、想起そのものには時間的配置は含まれていない。それが内含されているように見えるのは、去年の夏の海の青さの想起のように、あらかじめ特定の時点についての想起がなされているためである。それに対して昨日のご飯のおいしさは、再生するわけではないが、おいしさの感触は残っている。だから昨日のご飯はおいしかったと誰しも自然に語ることができる。このとき想起によっておいしさの感触は過去の経験として形成されている。だがおいしさそのものは再生しないが紛れもなくあったものとして捉えられている。おいしさそのものは想起できはしない。それはおいしさが感覚的な単位をもたないことに関連している。想起されているのは、おいしさの感触だけであり、この感触は気づきの重要な要素である。
表象の再認のさい、たとえば顔を見ると同時に、どこかで見た顔だという感触が残る場合がある。この感触は知覚に伴う知覚する行為への気づきではない。知覚された顔に、なにやら気配や雰囲気を感じ取るように、どこかですでに知っているという感触が伴う。知覚はそれじたい行為でありながら、みずからが行為であることを隠蔽する行為である。そのため顔は直接直観されており、直観された顔にこの感触が伴っている。あれこれさまざまな顔を思い浮かべるうちに、どこかでピンと来る顔がある。数年前に見た顔が再生し、あまりの変化に驚く。雰囲気や感触の記憶はある。
風景の再認のさい、同じようにどこかで見た風景だという感触が残る場合がある。ところがその場所にはいまだ一度も来たことがないはずだがという思いがよぎる。この場所ではないが、類似した場所を思い起こそうとすると、似かよった場所はいくらでも思い起こせるが、過去に見たこの風景は思い起こせない。この場合は、幼少期に来たことがあるのに、来たことの断片さえまったく記憶に残っていないか、初めて見る風景だが雰囲気や気配が似かよっているために、どこかで見た風景だという感触が伴っているかである。たとえ幼少期に来たことがあるにしろ、風景の記憶はまったく残っていないのだから、かりに記憶が残っているにしても表象にはならない雰囲気や気配である。既視感は多くの場合、こうした雰囲気や気配の作動に関連している。かりに過去に訪問したことのある特定の場所が思い浮かぶとすれば、雰囲気や気配に表象を関連づけるようにして想起しているはずである。この場合表象と雰囲気という通常の知覚での図と地が反転している。雰囲気の側に記憶が働き、そこに表象が呼び寄せられる。既視感に特有なのは、多くの場合この知覚の図と地の反転である。既視感を、知覚像を想起してしまう病的な事態だとする意見もある。だが既視感は、比較的容易に生じるのではないかと考えている。
一般に記憶は、対象として想起できる記憶(陳述的、外示的記憶でエピソード記憶、意味記憶が代表)と、手続き的記憶(非陳述的、内示的記憶で、技能や条件付けが代表)に区分される。これらは言語的に明示できるかどうかよりも、むしろそれとして対象のように想起できるかどうかが区分の基準になっている。二〇年程前にスクワイヤーによって提示され改良の加えられてきた分類である。脳の部位で言えば、陳述的、外示的記憶は、側頭葉の海馬に依存し、内示的記憶は、扁桃体に主に依存するようである。この分類を行ったとき、たとえば作業記憶はどう配置されるのか。作業記憶は手続き的な短期記憶と考えられので、内示的記憶に近い。だが作業記憶は、対象として想起可能な範囲をそのつどそのつど定めている働きももつので、内示的な記憶とはいくぶん性格が異なる。ルドゥーは、作業記憶を、外示的記憶と内示的記憶が統合される場所のように考えている。[21]そうしたとしても雰囲気や気配や感触は、どちらに分類しても座りが悪い。感触は、それじたい働きであり、しかも明示的な像にはならないが、それでもなんらかのイメージはできている。
同様に感情の記憶は、さらに事情が複雑である。想起された表象が単位をもつという事態を、感情や情動の記憶にも拡大しようとすると、ただちに難題が生じる。しかも感情の記憶を語ろうとすれば難題だけではなく、奇妙な主張が生じる。それは感情には記憶がないというおよそ哲学でしか語られない主張である。こう言われたとき、実際精神分析医も臨床心理士もただ当惑するだけであろう。しばしばメヌー・ド・ビランの名前とともに語られるこの種の主張は、情動・感情の記憶の複雑さを示している。[22]
感情の記憶 感情を思い起こしてみる。昨晩出席したの院生の結婚パーティで愉快そうに笑っていたある情景を思い起こす。そのときの楽しさが、少しだけ色合いを変えて再度戻ってくる。この楽しさの呼び戻しは、昨日の愉快な情景の想起とは異なる。楽しさは、再度また楽しいのであり、現に感情が作動するのである。感情は作動するだけであって、想起されはしない。これが感情には記憶がないと呼ばれる基本的な理由である。にもかかわらず昨日の楽しさに似た楽しさである。そのためこの場面では、再度楽しくなるという遂行的行為と、そのことに気づき昨日の楽しさとどこかで比較している気づきの働きが、ほぼ同時進行しているはずである。感情は、遂行的活動として作動する。腹は立ち、悲しみは私を襲い、憂鬱は私を包む。作動する経験とそれへの気づきは、遂行的活動の基本形である。感情が遂行しつつそのことに気づいているさい、この気づきは活動の遂行と共にあり、知るものと知られるものとの関係にはない。
感情の再生を特定の要因との関連で捉えることは機構上困難である。感情の再生のきっかけをどのような要因に求めようとも、それはきっかけ以上のものになることはできない。そしてこれらの事態を満たし、かつ一貫した感情の記憶の機構を考えようとすると、現時点ではかなり困難であることがわかる。論じるための道具立てが現行の知識では圧倒的に不足している。記憶についての経験科学的なモデル形成を行うさいに、作動するものの単位が取り出せないというのが、ここでも最大のネックになっている。そこで感情の記憶が意識される場面で捉えることのできることを語ってみる。
作動しながら同時に感じ取ることは、つねにいつも起こるわけではなく、必ずしも起こる必要もない。しかもたとえば痛みは、それが作動することと感じ取ることは分離できない。感じ取られていない痛みを何と呼んだらよいかがわからないのである。これが痛みの特徴である。だが痛みに伴う緊張感や緊迫感には、感じられるものと感じるものの分離が生じており、感じるものの側から感じられた当の感触を想起することができ、想起に伴って感じられたものが作動することがある。緊張感や緊迫感は、感じ取る働きのモードなのである。純粋な作動は、作動を繰り返すだけであり、作動以外のものとみずから結びつくことはない。だが作動を感じ取ることは、雰囲気や気配と結びつくことができ、さらに感じ取ることに気づく意識は、作動のさいの情景にも結びつくことができる。だが情景から誘導して想起できるのは、感じ取りの働きであり、そのとき感情が連動してかりに想起されたとしても、それはただ作動するのであって、かつての感情が思い起こされているのではない。[23]感情はそのつど作動するだけであり、記憶に関与するのは、感情の動きを感じ取っている気づきであり、さらに感情の動きと結びついたさまざまなイメージである。こうした事態が感情の記憶という問題を異様に複雑にしている。
作動する情動や感情の活動は、感じ取られ、この感じ取りは作動の調整を行っている。この調整能力の記憶はさまざまに形成され、それによって活動のモードに変化が生じることがある。だがこの変化のモードには一対一対応はなく、変化の遂行は試行錯誤に似ている。調整能力自体は、運動性の能力であり、運動感として自分自身に気づくことができる。さらにこの調整能力は、気づきによって捉えられたさまざまな表象やイメージと結びつき、表象に対して選択的記憶をもたらす。この選択の働きは、表象のエピソード化(時間的配置)以前の、それとは異なる働きである。言ってみれば大人の意識による記憶とは異なる記憶の回路があることになる。実際三歳未満では、イメージや像の直接記憶が主になっており、エピソード化や意味化されるものとは異なる回路で、直接情景が記憶されている。感情には記憶がないのではなく、むしろエピソード化とは異なる機構をもち、一義的決定関係のないネットワークのなかで記憶が働いている。つまり感情は連動系として記憶されている。また感情の記憶は連動系のかたちだけで成立する。そしてこの幼少期の記憶のモードは、大人になっても基層のように働いている。この働きを疾病と関連づけて解明するのが精神分析である。たとえばフロイトの挙げる事例では、懐いていた祖母が亡くなったさい、幼かったためか、その近辺の事情の記憶がまったくないのに、テーブルに置かれた氷の詰まった鉢だけがくっきりと記憶に残り、何度も非志向的に想起されるという。フロイトはこれを代理記憶とか隠蔽記憶とか呼んでいる。[24]
外傷性残遺障害にも非志向的な記憶が出現する。フラッシュバックのように意図せず表象が出現する。しかもこの表象は、実のところ過去に一度も直接見たことがないものであっても、同じように成立している。[25]特定の感情の作動において、そのとき特定のイメージが出現すれば、そのイメージはその感情の度合いに連動してしまう。そのときこの表象はイメージである。大きな木の枝に乗った数匹の白いオオカミが、じっとこちらを見ている。これは純粋なイメージであるが、情動はこうしたイメージとともに作動する。怖さ、恐れ、喜びのような情動と密接に連動しているのは、これらの情動の強弱の作動と結びついているイメージである。イメージは、表象となって記憶されている。この場合時間的配置の関係ではなく、断片がそのまま保存されるように記憶されている。情動-気づき―イメージ、あるいは感情-気づき―シニフィアンという連動系で情動や感情の作動を考えるさい、記憶されるのはイメージであり、感情のなんらかの度合いとこのイメージとの結びつきそのものである。そのためイメージが喚起されて類似した情動や感情が作動することも、類似した情動や感情が作動して、同じイメージが想起されることもある。こう考えたとき、情動や感情に記憶がないと言われることの基本的な性格がわかる。それらと連動するイメージやシニフィアンは記憶されるのに、情動や感情そのものは、機会に応じてただ作動し、その作動にともなう気づきは、作動の強さの感触をイメージやシニフィアンを手掛かりにしながら、過去の感触と対比しているのである。情動も感情も、行為の調整系としてそのつど作動する。この作動はそのつどの調整であって、かりに情動や感情に記憶があるにしろ、それはイメージやシニフィアンを手掛かりに記憶されているはずである。
脳神経科学的な分類にしたがえば、情動や感情は、明示的に語れない以上、内示的記憶ということに分類されると思われる。しかし手続き的な行為として身体運動に接続するよりも、生理的反応では内分泌系に接続するのだから、少なくても手続き的な記憶とは性格が異なる。しかも経験のなかでイメージと接続することによって、ひとつのまとまりとなっている。情動や感情の記憶が、かりにあるとしても、こうした複合連動系であることによって、事態が錯綜していたのである。
特定の感情の作動に対して、意識は抑制的にイメージが出現しないように働きかけることがある。この場合表象されるイメージの側を抑制しているのであって、感情の作動は気づきをつうじて調整されているのではない。むしろ特定の感情を避けるために、それと連動するイメージを抑制すれば、感情は特定のモードで作動しようとしており、にもかかわらず表象としてイメージは出現しないだけの状態が出現する。これはフロイトのいう抑圧である。イメージを抑制するのではなく、人工的に作り上げられたエピソードのなかにこの特定のイメージやイメージのアナロゴンを配置して一貫したコンテキストを意味として形成し、感情の作動を別の接続状態へと変換することもしばしば行われる。こうなれば神経症である。感情は一定幅の触れ幅のかなに収まり、個々の言語化された発言はそれぞれは見かけ上もっともなことが語られているのに、この発話は総体として奇妙だと感じられるのである。それは、感情への気づきとはまったく別の複合的な安定化の機構を作動させてしまっているからである。複合的なシステムは、容易に代償的な作動を行う。自己治癒の努力が、そのまま疾患であるということは、こうしたシステムの本性から発している。システムの複合的な定式化は、どこに代償的な作動が生じるのか、あるいはどこに介入できるのかのポイントを機構として示唆しているのである。