奈義の龍安寺の謎
――アラカワ+ギンズとオートポイエーシス
河本英夫
アラカワ+ギンズの最高傑作のひとつが、奈義の龍安寺である。この作品には数々の謎が残っている。しかもこの謎は、製作者自身にも明確に理解することも、分析することもできないようなものである。一般に制作されたものは、制作者の意図を越え出て行く。この事実は技術一般にみられ、基本的にシャベルが手の能力を超え、自転車が足の能力を超えることに由来する。技術的制作物は、人間の作ったものであるにもかかわらず、半ば必然的に人間の能力を超えていく。こうした事態を人間学のゲーレンは「過剰代替」だと呼んだ。身体の機能を代替するように道具か作られるさいには、必然的に過剰に代替が起きるというのである。ここでは技術的制作に伴うこの一般的な事態が問題になっているのではない。どのような意図で制作されようと、奈義の龍安寺には、意図を超えるだけではなく、意図とは別の事態が実現してしまうというあり方をしている。このエッセイでは、この問題に踏み込むつもりである。
そこでまず奈義の龍安寺を、アラカワ+ギンズの方法的特質から検討する。ここでは方法的特質のいくつかの柱のうち、一つしか取り上げることができない(第一節)。それを受けて、意味の形成の場という問題の内実を、アラカワ作品の系列を特徴づけ分析する(第二節)。ここでもアワカワ+ギンズの作品の特質は、かなり明らかになる。さらに奈義の龍安寺で起きることを、理論的に解明するさいに、現在最大の手掛かりをあたえてくれるのが、オートポイエーシス構想である。神経生理学者、マトゥラーナとヴァレラが考案し、ルーマンによって普遍化されたこのオートポイエーシス構想の現在の水準を示す。とりわけこの理論を身体行為に向けたとき、多くの見通しを得ることができる(第三節)。それを受けて、この奈義の龍安寺が、何を企てた作品なのかを示そうと思う(第四節)。
1 制作的還元
アラワカ+ギンズの製作過程には、およそどのような現象学者にも見られないほどの、徹底した現実についてのある種の「現象学的還元」が見られる。その議論の端緒は、現実が何であるかは、どのようにしても決まらないというニールス・ボーアの主張に、部分的に依存したものである。だが一般にはミクロな量子の世界で成立することが、そのままマクロな世界で成立するわけではない。量子的な世界で成立することをモデルにして、現実を捉えようとすれば、眼前の事実を、つねに別様でありうるという論理的可能性のもとで、現実そのものを還元してしまいかねない。ところがこの還元を行ったとき、現実は何であるかという解答をあたえるための手掛かりが何も残っていないことが、ただちにわかる。現象学にしたがって、意識の直接性に訴えて、事象を解明するというわけにはいかない。意識そのものが何であるかは、すでに意識自体が別様で在りうるというアスペクトのもとでしか成立しないからである。この点では、現象学的還元をかけたとき、還元ののちの宛先が原則的にないのである。ここが現象学的還元とまったく異なる点である。
ここではただちにある種のパラドックスに直面している。現実は別様でもありうるというアスペクトでの現実そのものの還元は、実際には意識が行っていることである。ところがこの意識そのものが本来別様でもあれば、この還元にも不確定性が含まれてしまうことになる。そうしてすべては不確定のまま、振り出しに戻ることになる。意識そのものが別様でありうることを認めたのは、意識によってである。同じようにして意識によって、イメージも知覚も別様でありうるというアスペクトで、現実のイメージや知覚を還元しうる。見かけ上アラカワ+ギンズの構想には、こうした還元が含まれているようにみえる。だが実はこうしたことが行われているわけではない。
まず確認しておかなければならない。起きていることは見かけ上パラドックスにみえる。パラドックスが生じているように見える場面では、多くの場合、事柄の本質を外し、瑣末な局面に力点を移動させて、そこに形式論理を持ち込んでいる。瑣末な形式論理は、同じ形式論理によってただちに克服される。論理的可能性という点で、世界も人間も意味も別様でありうる。論理的可能性だけであれば、なんでも言えるのだから、たしかにそれは正しい。これらを論理的懐疑と呼んでおこう。しかしたんに論理的可能性だけであれば、論理的に世界も人間も意味も、別様である必要もないということも同程度に成立する。これらはたんなる形式論理の問題である。世界は、論理的に別様でありうると言っても、この論理の持ち込みによっては現実は何も変わらない。現実がなにも変わらなければ、これらはただのトリックである。実質的な内容は別のところにある。
論理的懐疑とは異なり、事象そのものの意味を暫定的に括弧入れすることができる。意味を括弧入れする還元を、「制作的還元」と呼んでおこう。この場合、意味は解除されていても、なお意味不明なもの、なにがなんだかわからないものを感知している。訳のわからないものをそれとして感じ取っている場合には、「まなざし」はそこに降り立っている。この降り立つことが、アラカワ+ギンズでは「ランディング」と呼ばれる。ランディングは場所を占めることであり、なんであるかわからないものにも、ランディングすることはできる。だからランディングは、認識によって対象をわかることではなく、むしろ「まなざし」の基本的な行為である。まったく意味不明な制作物でも、そこにランディングが起きれば、すでに作品は、同時に「意味不明なもの」として捉えられている。
ランディングとは、たとえば赤ん坊がハイハイしながら移動していて、前方に穴があるとき、ハッとしてみている。このハッとしてみているときのまなざしは、赤ん坊を観望しているのではなく、まさに赤ん坊の位置、あるいは穴の位置に降り立っている。特定の場所、もしくは位置に降り立つことが知覚の本性であり、知覚による場所を占める働きを最優先したのが、アラカワ+ギンズの特質である。[1]特定の場所に一時的に安定することが、ランディング・サイトであり、一時的に安定した場所を占めることがなくても、ランディングは起こる。このこと自体は、かなり大きな発見であり、意識のなにかを知る働きとは別に、意識の場所を占める働きを強調したのである。おそらくこれによって、将来現象学にはいくつかの組換えが必要になる。こうした議論で実行されているのは、意味の未定、未完、未了を意味のレベルで導くことではなく、「まなざし」を認知とは別の行為として捉えることである。
ここには現実性そのもの、とりわけ現実性の意味をできる限り括弧入れし、行為にとっての可能性を開く場所へと事象を還元する手法が、含まれている。経験科学的な意味が括弧入れされ、事象そのものへの回帰がおこなわれることが、現象学的還元である。そのときさらに、事象そのものに内的な意味さえ括弧入れし、経験の可能性そのものへの回帰がなされてもおかしくない。少なくともそれをとめる理由はない。むしろ人間が別様でありうるなら、こうした還元がなされてもおかしくない。こうした還元が「制作的還元」である。
このことの内実を必要な限りで、述べておく。人間が物を作るさい、たとえば杖や作業用の棒を作るさいには、一定の長さの木の周囲を削り落とし、何度もやり直しながら、まっすぐな棒を作ろうとする。このとき物理的には、直線は簡単には実現できないが、制作行為のさなかでは、直線がなんであるかは、制作行為とともによくわかっている。物を作る人間には、固有の知の領域が出現する。制作行為と相関的に、物理的には実現されていないが、意味としては間違いなく捉えている領域がある。これは誰であれ、まっすぐな棒を作ってみれば、同時に直線の意味をおのずと知っていることを示している。
制作行為とともに取りだされた直線という意味を、二次的に制作行為とは独立に知覚によって捉えることもできる。ひとたび制作行為のなかで意味として捉えたものは、その行為を取り除いても、直接知覚によって捉えることもできる。このとき物理的には歪みもでこぼこもあるまっすぐな棒を、直線としても捉えることができる。棒を直線「として」捉えるという、知覚に典型的な「として」構造が出現している。この場合直線そのものは、どこにあるのか。現実の物理的空間のなかにはないのだから、永遠の天上界にあると言いたくなる誘惑にかられる。そうなればプラトンのいうイデアである。制作行為のさなかで意味を獲得したことによって、人間の行為は実に安定したものとなり、意味によって制約された認知が行われるようになる。これによって、人間そのものが過度に安定してしまったというのが実情である。人間の脳の容量は、ここ10万年程度変化がないことが知られている。どこかで人間は、過度に安定した回路の入ってしまっており、能力の伸びが止まっているようである。人間学的には、この過度の安定性を突破することが一つの課題となり、アラカワ+ギンズの制作が、そこに向かっていることは疑いようがない。さて再度手続き的な制作行為にもどってみる。
木を削り、でこぼこを削ぎ落としてまっすぐにしようとしているとき、個々の身体行為をともなう手続きで働いているのは、この行為を調整し、この行為を方向づけるなんらかの予期である。この部分を削れば、もう少しまっすぐになる、ここを磨けば筋が通るというように感じられるさいには、行為を調整しうる予期が働いている。実践的、手続き的行為のなかでは、意味は予期のなかに含まれている。手続き的行為のさなかでの知覚は、基本的には予期であり、本質の把握ではない。しかもそのとき、予期がなければ行為を方向づけることはできないが、予期のなかの意味が確定している必要は必ずしもない。直線は、非ユークリッド幾何学でいうような緩やかに婉曲したものでもよく、ユークリッド幾何学のいう二点間に唯一決まる最短距離でもよい。もちろんそれ以外のものも可能性としては考えられる。だがなんらかの直線の意味を含んだ予期をもちながら、制作行為は進行する。最低限確認できるのは、予期に含まれる意味は、確定する必要もなく、そもそも確定されるようなものでもないという点である。
制作行為の手続きは、削る、磨くというような要素的行為の継続が可能になるように進行しており、予期は個々の手続きの調整要因としてつねに働くが、一つ前の手続きの状態も手続きの継続にとっては、決定的な規定要因である。削り続けていくうちに、どうもうまく行かなくなったと感じられることがある。このとき直線にうまく合わせられなかったということよりも、さらに続けて微調整を繰り返えそうとしても、もう継続できる手段がないというのに近い。そのときには材料を捨てて、また一からやり直しである。こうしてみると手続きの継続には、予期されたなんらかの意味だけではなく、継続可能性の予感が決定的に効いてくる。予期のなかのなんらかの意味がもつ効果は、そう大きなものではない。そこで行為の継続可能性を満たし、意味としては未規定で、また別様の意味をもちうるような予期も可能であることになる。予期のなかの意味は、手続き的行為の継続可能性を満たせば、かなり広い範囲の内実をもちうる。そこで事象そのものの意味さえも還元し、そこに行為の継続可能性、ならびに意味不明なものでもランディングできるという可能性さえ満たされれば成立するような、意味の可能性の領域が開かれる。おおむねこれが、制作的還元の内実である。このレベルで、現実そのものが別様でありうる範囲を考察しようとすると、どこかで行為の継続可能性、身体の形成可能性を含めた構想の場所を設定しておかなければならない。
この場合行為の継続可能性が決定的に重要であり、その継続可能性を示す機構こそ、オートポイエーシスが定式化しようとしたものである。また身体をともなう手続き的行為を考えるさいには、身体は特段に固有の意義をもつ。この固有性は、三つの点にかかわっている。第一に身体は、意識による還元にさいして、本来意識の自由度にしたがう還元を行うことはできない。身体も別様でありうると意識が考えたとしても、身体は意識が想定するような別様さをもたないはずである。第二に一切の現実が別様であると考え、そのためむしろ現実を、すなわち生命や環境を含めた現実を作り出す方向に進んだとき、この製作過程には身体が不可分に関与している。作り出された作品は、一切の現実が別様でありうるという可能性のなかであっても、新たな現実の測度をあたえることができる。それは確かに事実であり、別様の現実を作り出してしまうことのなかで、現実性そのものの測度をあらたに手にすることができる。だがこの新たな現実の制作のなかに、身体は不可分に関与している。第三にこうした現実の可能性のなかで、身体の形成は、実はイメージや知覚と同じ仕方で、同じタイプのプロセスを経て、行われるわけではない。身体の形成には、独自の回路がある。そこに自己組織化やオートポイエーシスの機構が関与している。別様な現実を形成するさい、形成された作品のなかでの知覚やイメージの形成と、身体の形成のプロセスは明らかに異なる。この問題に踏み込むために、オートポイエーシスの機構が必要となるのである。
2 経験の形成の場
人間や生命を現実に別様なものでありうる存在だと考えたとき、別様になりうることの現実性は、どこかに現実の手掛かりをもたねばならない。アラカワ+ギンズにとって、この手掛かりになるのが、作品である。そのため生命を、現にあるものとは別様に現実のさなかに作ってみせることが必要になる。生命の定義を考えたとき、生命の必要条件の範囲は容易なことでは決まらない。それを人間が思考をつうじて決定したとしても、たかだか文化の歴史的現在での定義に過ぎないであろう。とすると現に生命と呼びうるものを、人間とは独立に作り出してしまうことが一つの選択となる。規格外の生命を見ることによって、人間の意識の対照項を手にすることができ、また生命の可能性の拡張を実現することができる。これが大まかにはアラカワ+ギンズの意図したことであろう。このとき生命の意味を知ることと、知ることに不可分に関与している身体の形成が、どこかで一時的にしろ安定した関係性を維持する場所において成立すれば、誰であれ新たな現実を感知し、知ることができる。というのも新たな現実であることを知りうるためには、反復をつうじたある種の安定性が必要だからである。だがこの点において奈義の龍安寺だけは特異なのである。
実行され、作り上げられた作品は、一般にそれを経験するものにとって、別様の意味をもち、別様の働きをもつ。作品をそこで経験が形成されるような場所として作り出し、そこにおいて人間はそれぞれ別様に経験を形成する。この形成のプロセスにこそ、生命の条件が現実に作動するものとして出現するのであり、経験を形成する当の人間にとっては、みずからの生命が感じ取られるのである。この形成的に作動する機構を示したのが、オートポイエーシスである。だがこの場面でも、形成される経験は、最終的にどこかに到りつく。ところが奈義の龍安寺だけは、こうした静止点が存在しない。しかも静止点が存在しないことを、反省的に意味づける視点を取ることさえできない。とすると奈義の龍安寺では、紛れもなく経験は形成され続けているが、誰にとっても何が形成されたのかを知ることができないのである。
ほとんどの人にとってはどうでもよいことだが、こうした文章を読むと、何が形成されるかがわからないことを、何故わからないといえるのか、あるいはわからないことを何故それとして書けるのかという疑問をもつ人がでるかもしれない。そうした疑問をもった人は、自分自身を「神経症傾向」だと考えてまず間違いない。わかるということのなかで、わからないことを位置づけようとしているのであるから、機械的にパラドクッスが生じてしまうのは、むしろ当然である。だが実際、強調されているのは、わかる/わからないの二分法にしたがう認識の場所から、経験の形成の場所へと進むことである。カントで言えば、認識の可能性を問題にする『純粋理性批判』(第一批判)から、経験の形成の可能性を問題にする『判断力批判』(第三批判)へと移行することである。おそらくこう述べても、経験を形成することより、意味のわからなさがなんであるかを知りたい人がいる。どこまでもあらかじめ知りたいという位置を取ること、これが神経症である。このエッセイで送ろうとしているメッセージは、わかる/わからないの二分法を超えて、経験の形成の場へと進もうというものである。そのさい自分自身の視点の一切の制約を、一時的に括弧入れしなければならない。
経験の形成される場所を開いたとき、人間がその場所に立てば、本人にとっても意味不明の経験が起こる。その作品は、既存の意味を破壊し、一切の意味のコンテキストを断ち切り、断片のまま宙吊りにし、意味の脈絡が切断される境界線をそのまま作品にしているように見える。いわば意味の限界がそれとして描かれているように見えるのである。ここで起きていることが、何であるかを明確にしておきたい。それはかなり多面にわたり、さまざまな検討材料が必要になる。
意味の形成 作品が、意味不明であり、意味の剰余を含むと感じられるとき、この印象は、作り出された作品をすでに完結した観賞(観照)される対象として見た場合である。この作品がかりにそれぞれの人に知覚のやり直しを否応のないものとし、各人はその作品から、みずからで経験し意味を形成してみなければならないとき、この作品は意味の形成の場所そのものを示している。この場所にあって各人はみずからの経験を作動させ、 みずから自身で意味形成を行わなければならない。だからこの作品は同時に一種のエクササイズであり、そのことによって経験はみずからの作動の可能性を繰返し予感することができる。こうしたタイプの作品はアラカワ+ギンズの構想の最初から出現している。
しかもここでは制作の場所そのものを開示することが問題になっているのではない。場所の開示だけであれば、解釈学的行為の先行的理解の地平を浮かび上がらせることによっても可能である。いまテキストを読みながら、各局所の理解を前後のコンテキストを呼び寄せるように行ってみる。各局所の理解には、それを取り巻く一種の全体性の呼び寄せを欠くことはできず、そのことをつうじた局所の理解によって全体性そのものの意味合いが変容していく。この全体性が、読解のさいに先行的に理解されているものである。ところが時としてこの全体性の意味が何であるかが、さっぱりわからないことがある。このとき先行的に理解された全体性は、わからなさの雰囲気に満たされながら、なおそれでもひとつの場所となっている。場所の開示だけであれば、こうした局面へと経験を誘導してもよい。ところがたんにこうした場所を開くことが目指されているわけではない。むしろこの場所で否応なく、行為としての知覚を引起こすことが必要になっている。その行為の回路こそ問題なのである。
アラカワ+ギンズの作品群はおおまかに『意味のメカニズム』、それの姉妹編である『死なないために』、さらに身体行為を全面的に更新しようとする『天命反転』と続き、当面の総決算である『建築する身体』に続いている。これらは意味の形成の場を、意味形成のモードごとに章立てして提示し(意味のメカニズム)、そのさいの行為としての知覚の形成を「ブランク」というキータームで記述し(死なないために)、さらに知覚に内的に関与している身体行為そのものの可能性の範囲を拡大する企て(天命反転)とつづいている。
意味形成の理論であれば、言語的な比喩(とりわけ隠喩)になぞらえるか、技術的制作になぞらえるか、自然的な形成(アリストテレスのいう自己偶発/オートマトン)になぞらえるかが普通である。これらは、形成のプロセスを可能な限り理論化して語ってみるという課題を負っている。たとえば隠喩の形成には、隔たった語をかすかなつながりを発見するようにして連結する能力が問われる。比喩の能力は新たな意味を形成するのだから、既存の規則を修得することによっては不可能である。この能力の学習が不可能なことについては、アリストテレスもカントも同意見である。
アラカワ+ギンズのとった方針は独特である。意味形成の回路を検討するのではなく、むしろ意味形成の場を直接提示することで、各人にそれを実行させるのである。「意味のメカニズム」は意味形成の場にかかわっている。これらの作品は意味形成の場を指示するだけではなく、現に見るという行為をつうじて意味形成を実行することを要求する。たとえば一つの作品である境界を越えたら、もはや意味を失いそれが何であるかを考える手掛かりさえ失う場面がある。とするとそれ以上ひきはなすと何もかも台無しにするが、その手前にとどまる限り意味形成の可能性のままにとどまってしまう領域がある。この場所を直接作品として示すことで、否応なく知覚の形成を行わせるのである。
『意味のメカニズム』のなかでアラカワ+ギンズが複数回使用しているものに次のような作品がある。(図参照)[2] 大きな白い紙を均等に4分割し、右下のものだけを黒く塗りつぶす。その隣に同じ大きさの白紙に、ただ無造作であるかのような斜めに描かれたラセン状の線が描いてある。このラセン状の無造作な線を、右下の塗りつぶされた図形として見よという指示がある。端的にそのように見よという指示である。どうみてもただちに繋がる図形ではない。つまり既存の意味の脈絡ではどのようにしても関係づけを行うことができない。二つの図形の隔たりにさまざまな解釈が持ち込まれる。ラセン状の線をさらに書き込み続ければ、やがては紙面全体が真っ黒になり同じ物になるという、言ったはなから微笑みのもれてしまう解釈から、ラセン的線と平面の位相的な写像、つまりある多変数変換をかければ両者が変換可能であることを示すという、過度に教養に妨げられた解釈まで、この隔たりの隙間に導入される。この図は、意味としては不可能である。だがその図について何かが理解されている。この理解の中に、アラカワ+ギンズのメッセージが含まれている。このメッセージこそ、知覚を形成しなさいという彼らの指示なのである。実際の課題としては、この二つの図の間の中間の図を描いてみなさいという指示である。中間の図を考案したとき、そうした図は一つに決まるのか、あるいは中間の図と元の図の間に、さらに中間の中間が必要になるのかというような課題が次々とでてくるはずである。
感覚の形成 感覚によって形成される場のことを、アラカワ+ギンズは『死なないために』では「ブランク」と呼んでいるように思える。意味の可能性は視覚的には一種の空白となって、まるで物事の裾野のような広がり方をしている。 いま眼前に花瓶を置き、花瓶の裾野を眼前にあけ広げる。これは対象そのものに対して地平のようになっている。このとき明確な意味である花瓶を取り除いてみる。そうすると広がりだけが残る。視覚のこの事例を、形成された意味一般に拡大する。明確な意味を取り除いたとき、そこに成立しているのがブランクである。このとき何を経験するかが問われたのが、この『死なないために』という作品のモチーフである。いっさいの対象が失われたブランクでは、なおそれ自体で動きつづけている。この動きは時間、空間以前のものであり、座標系以前の動きである。このブランクに原初的な境界が形成されたとき、これが「切り閉じ」と呼ばれる。この最初の境界は、原感覚に対応している。[3] 動きつづけている感覚が、まさにみずからの動きによって世界に境界を形成していくその場面を捉えているのである。ここまでくるともはや否応のない知覚のやり直しにとどまっていることができない。知覚のやり直しの場合、どのように意味不明な図形であっても、どこかでなんらかの意味に突き当たるはずだという安心感のようなものが残っている。それは意味へと向かう知覚の変更を迫ることはあっても、意味が成立するはずの場所の支えがあるからである。たとえば先の図形が描かれた空間がそれに相当する。
感覚の行為によって形成される空間は、知覚的にあけ開けた空間とは成り立ちを異にしている。感覚を扱うさいの最大の難題となるのは、空間である。空間以前の動きを捉えることはできる。メロディの推移のなかにある動きは、空間内に存在するものではない。だが動きからそれに固有の空間を形成することは容易ではない。空間が形成されるというときすでにある空間内に固有の領域を占拠するようにイメージしているのが、普通だと思われる。境界を引くと言うとき、やはり幾何学的空間に線をひくように思い描いているはずである。眼前に広がる視界のなかに、みずからの身体さえ置き入れてイメージしているはずである。移動可能な身体を備えた動物は、自発的な場所移動能力をもたない植物とは異なり、移動可能な空間の形成を身体の形成とともに獲得している。移動可能性が空間そのものの認知を必要条件としているからである。動きそのものがなんらかの空間内にすでにイメージされてしまっているために、動きから空間そのものが形成されると言っても容易には実行できないのである。
感覚は固有に空間を区切る。通常眼は光を浴び、光のなかで感覚を形成する。可視領域は、一定の光の波長から切り取られる。その外を紫外線と赤外線と略称している。見ることができないために、これらの領域をさらに細かく区分しても視覚にとって意味をもたないからである。ところが見えている明るさの範囲は、感覚によって領域化されているはずである。これも空間の区切り方のひとつであり、こうした空間を位相空間と呼んでおきたい。これは数学的な定義によって張り出された空間ではなく、むしろ運動である感覚によってはじめて形成される空間である。この感覚の運動は、空間を形成する運動であり、空間内の場所移動の運動ではない。このとき感覚は、形成運動と認知を同時に行っているはずである。こうした異なる働きを二重に行うことが形成運動に典型的に出現し、こうした事態を「二重作動」と呼んでおきたい。感覚の空間の場合、境界の形成とそこで環境を感じ取ることが基本になる。
感覚の位相空間は、見えるものと見えないもの、聞こえるものと聞こえないものを同時に区分することで境界を形成している。境界によって内‐外が区分されることで、はじめて内‐外を貫く空間が形成されうるのである。境界形成によってはじめて形成される空間こそ、ここで語られている位相空間である。つまりこの空間形成は、行為の継続に相即的に形成されているのであって、知覚に対してあけ開けているのではない。知覚的な空間以前の、位相区間を形成する運動こそ、「切り閉じ」と呼ばれるものである。この切り閉じの成立によって、知覚の降り立つ場がもたらされる。切り閉じは、ランディング・サイトの可能性の条件である。
次のようなことをイメージする。眼前にはコンピュータ機器が置かれている。ここには多数の電磁波が飛び交っているはずである。これらの電磁波は見えないが空間内を飛び交っているということもできる。そしてそう考えるのが普通である。ところが見えないものが何故同じ空間内にあると言えるのか。感覚の作動をつうじてはじめて内‐外が区分される位相空間では、まさに感知されないことによって、電磁場は位相領域の外に区分されている。感覚がそう区分しているのである。感知によって形成される位相空間では、電磁場はまさにそのことによってこの位相領域の外に区分される。実際には感覚が感知できるものと感知できないものを区分したとき、そこに境界が形成され、内‐外区分された領域を後に空間としてイメージしているというのが実情である。ところが感知はされないが、感受されてしまっている広大な領域がある。音の場合は、ある一定の空気の振動数以下のものと、一定の振動数以上のものは音として感知できない。それらは鈍い振動であったり、もはや音にならない高速の振動であったりする。音にならない鈍い振動であっても、感受されている。このとき感覚は、感知によってみずからの境界を区切るが、境界の外に区分されたものは、この位相空間に浸透している。まさに外に区分されたことによって、浸透という関係が生じる。この位相空間の指標は、数学的な座標軸ではなく境界と浸透である。感覚の作動をつうじた位相空間の形成は、感覚が運動であると同時に認知であるという特殊な事態に依存している。境界形成は、感覚が作動し続ける運動系の活動を基本としており、浸透は感知されないが感受されているというみずから自身には自覚化されない感覚の認知的活動に由来する。「切り閉じ」とは、この二つの活動モードをつうじての境界形成である。ここでの「切り閉じ」の考察は、アラカワ+ギンズの切り閉じというキータームの可能性を積極的に拡張していくためのものである。
二重作動 ちなみに二重作動の基本的な事態は、実は最晩年のメルロ・ポンティが気づいている。この事態は、一般的には、運動と認知という二つの質の異なる活動の関係に関わり、物の活動は基本的には運動と感知(認知)であり、運動と感知が未分化な状態で個体に備わっている場合が、ライプニッツのモナドである。この場合には感知は運動の一種であると言っても、運動は感知の一種だと言っても大差がない。ところがこの二つの活動を一つの系で記述できたためしはなく、しかもこれらはそれぞれ独立する傾向をもち、一方から他方を決定する関係にも、一対一対応の関係にもない。
運動することがすなわち認知であるという事態は、神経系でも免疫系でも実現されている。神経系も免疫系もそれじたいで作動する。作動を継続することがすなわち認知なのである。ここでは作動が認知を構成するのではなく、認知によって作動を制御するのでもない。見ることがつねに見ることの形成であるようなゲーテの知覚では、見ることはすなわち自己形成運動である。ところがこの運動と認知の「すなわち」の関係は、これまでのカテゴリーでは解明された試しはなく、またカテゴリーの詳細な分析を必要とすると思われる。
運動と認知を備えた複雑な系の現実体のひとつが、身体である。身体は、運動系の自己の環境と認知系の自己の環境という異なる環境を繰り返し折り合わせるように、それぞれの段階でみずからを形成する。最晩年のメルロ・ポンティが、運動する身体の問題に取り組んでいる。メルロ・ポンティによれば、運動する身体の特徴として、(1)動かされる物体の運動とは異なり、身体はみずから動き、(2)この身体の運動は一種の再帰性であり、(3)運動をつうじて身体はみずからを自己へと構成し、同様に(4)身体はみずからに触れ、みずからを見、(5)それはみずからを対象として捉えることではなく、みずからに開かれてあること、みずからに向けられていることであり、(6)身体の自己知覚は見えないもののうちで終わる。[4]
こうした丹念に言葉を当てられた特徴づけのうち、(1)(2)(3)は身体の運動にかかわり、(4)(5)(6)は身体の行う知覚にかかわっている。この両者のかかわりが問題なのである。一般に運動の記述は、運動しか記述することができない。運動する身体が、運動をつうじて、またそれによって、またそれと同時に知覚するものであるときでも、運動の記述は運動しか記述できないのである。おそらくこれは記述だけの問題ではない。なによりも運動は運動だけに接続するのであって、この接続のなかで運動は運動以外のものになることはできない。こうして運動はすなわち認知であるという事態の全貌を捉えることはできない。このタイプの問題に直面すると、運動と認知は同じひとつの事柄の両面だと言いたい誘惑にかられる。それがもっとも簡便な解答だからである。ところがこのひとつの事柄をどのようにしても認識することも、記述することもできないのである。こうした事態を受けて、二重作動は、今後の解明を支える要となる機構であることがわかる。
こうした議論の内実を、ドゥルーズを対照項にして確認しておく。感覚の形成そのものは、すでにドゥルーズが差異化という言葉に託して語っている。いまこの運動そのものを、微細な差異として押さえてみる。それじたいがそれじたいに対してつねに差異化を行っていると考えてみる。この差異化は、際限なく細かくできる以上、類比的に言えば微分で表されるようなものとなる。そこで世界に差異化をもたらすものを微分状単位(差異化そのもの)で設定することができる。この微分状単位は、つねにみずからに対してみずから差異化を行っている。そうすると権利上つねに世界は、この微分状単位の作動によって多様性を生み出しつづけることになる。どのような段階であれ、認識された多様性はつねに途上にある多様性である。しかもこの多様性は、この後どの程度拡散するのか予想することもできないのだから、多様性の度合いを判定することもできない。
微小な差異の微分状単位を、ドゥルーズは数学的な表記を借りてdxだとしている。これは極限概念ではなく、感知されている紛れもない運動に対応する現実の出来事である。極限操作によって要請される原理ではなく、感覚的に直観された現実の原理である。これをドゥルーズは理念だと呼んでいる。この原理から直観的感知を差し引くと何も残らないからである。微小な差異と微小な差異を関係付けると、それが微分方程式となる。もっとも単純な形態は、dx/dyとなる。ここでは差異が差異に関係している。運動の微小単位が他の運動の微小単位と関係を形成する。
このとき議論の組み立てから見て、多様性をもたらす潜在的な原理をそれとして設定していることがわかる。これはたんなる仮定や要請ではない。多様化をもたらす潜在的な動きは、運動や変化の直観に対応する。概念的な思考や分析的な測定によってはついに到達することのできない動きがある。この動きを概念的に捉えようとすれば、一通りには決まらなくなる。この事態を逆手にとって積極的に活用する。つまり動きに対応する微分状単位を設定しても、それが間違いであることは証明できそうにないのである。それによってこの動きそのものを多様性の潜在的あり方だとすることができる。そのためドゥルーズ自身が言うように、こうした設定で議論を展開すれば一種の哲学的SFができ上がる。
この微分状単位は、多様性の潜在的原理である。どのような現実であれ、判別できない微細な局面でこの微分状単位の蠢きがある。このタイプの議論の成否を決め、もっとも豊かな解明を必要とするのは、潜在性が現実化する機構である。差異化の原理から現実の多様性がどのようにして成立するのか。差異化の原理は、どこまでも哲学的追い込みによってつかまれている。ここから現実の多様性に至るためには、現実化の機構が何重にも整備されなければならないはずである。ところがドゥルーズは意外にあっさりとこの問題を処理している。
理由はかなり簡単なところにあるように思える。微分方程式は、しばしば次のような形をしている。dx/dy=x/y。この方程式は、微小な動きと現実の延長(長さ)の関係を表している。つまり運動の単位が、現実の長さに繋がって行く関係を示している。微分と逆の積分操作を加えると、運動の単位からテクニカルに現実性を引き出すことができる。このタイプの微分方程式は運動の単位と現実の長さを接続する以上、異なるポテンシャルにあるものが繋がって行く回路でもある。こうして差異化はつねに現実の一段階下の層、もしくは現実の一皮内奥で蠢き続け、積分に相当する操作になぞらえられるプロセスで現実化するのである。これじたいは、差異化を微分になぞらえて考察したことと同じ代償を支払うテクニカルな機構である。
最大の疑問は次の点である。運動性の原理で設定された微分状単位は、数学的にイメージされるような理念的なものではない。運動には質料が伴うのである。運動はつねに何か運動である。微分状単位は、どのように微小であっても一切の質料性から免れることはありそうにない。というのも質料を伴うのでなければ、世界は論理的可能性としても多様化しうる。ところがドゥルーズ自身が強調するように、可能性と潜在性は異なる。たんなる可能世界の多様性が言われているのではなく、潜在的な差異化の原理から現実の多様性が導かれる構想になっているのである。そうなると数学的操作とは異なる現実化の機構を考案しなければならなくなる。ドゥルーズも胚発生の例と形態の分類の例でこれに解答しようとはしている。だがあまりにもポテンシャルの落差のある事例を引き合いに出しているため比喩的な事例にとどまってしまっている。およそ道具立てが足りていないのである。微小単位以外に、形成の途上で何段階もの単位が出現してこなければならない。この単位性を形成する機構がないのである。感覚の形成は、たんに差異化ではない。そこに固有の空間を形成し、位相空間そのものを作り出し、位相空間を多元化するような働きがあるはずである。それこそ「切り閉じ」に託された行為と運動の機構であった。
身体の形成 意味の形成や出現にとって、身体および身体の形成は内的であり、さらに問題になるのが身体の位置と体勢である。知覚は身体体勢と対象との位置関係によって内的に制約されてしまっている。先の図形をみるさいにも、特定の解釈は図形から一定の距離の範囲内にいる場合にしか成立しない。図形に近すぎれば二つの図形の間に「として見る」関係は起こりようがなく、図形から遠すぎれば、あまりにも多くの背景が入り込んでしまう。このことは見慣れた反転図形の場合にも当てはまっている。 反転図形の反転が起こるためには、身体体勢と距離の条件を欠くことができない。またランニングする時の速度でみる街並みと歩行のさいの街並みは異なる。散歩のさいの歩行によって閑散とし隙間だらけと見えていた新興住宅群が、車の速度のなかでは整然とし、みごとに企画され調和のとれた街並みになることは、誰しもよく知る事実である。
身体行為の側に変化を加えることによって、 知覚そのものの可能性を拡大してみることが次の主題になる。これが「天命反転」や「宿命反転」と呼ばれる作品群である。知覚の行為を誘発するだけは、容易なことでは経験を変えることができない。経験を変更するためにいま身体に負荷をかけてみる。たとえば重力に対して身体の均衡をとる動作は二足歩行を開始する幼児期にさんざんと試行錯誤をし、すでに思い起こすことのできない記憶となって身体に内化されている。そのため地面に立っているとき、重力にたいして均衡をとっていることなど意識に浮かびはしない。均衡の維持は、すでに思い起こすことのできない記憶であり、かつてシェリングが「先験的過去」と呼んだものの一部である。身体に組み込まれた記憶は、ほとんど先験的過去となっている。経験的過去は意識の想起をつうじて思い起こすことができる。だがつねにすでに思い起こすことのできない記憶は、意識の操作によっては回復されはしない。 意識がそれに対してつねにすでに遅すぎる過去が、先験的過去の定義的な意味である。そのため行為において作動する知は、基本的に先験的過去となっている。身体に負荷をかけることは、こうした経験の層に届かせることである。岐阜県養老町の養老公園中腹部にある「天命反転地」が企てたのは、この先験的過去を思い起こし、そこに変化をもちこむ工夫である。ここにはいくつもの十分に配慮された装置がある。たとえばU字型の洞穴が掘ってある。洞窟の半分まで行くと、出口からの光が射してくる。洞窟に入ったものは、おのずとそちらへ体の向きを変えようとする。そのとき軸足の一歩先の地面が闇の中で深く窪んでおり、全身が光とは反対方向に振られる。身体の向かおうとする方向とは逆方向に、一挙に振られるために、通常身体が何を行ってしまっているかがわかるようになっている。あるいはこの装置は、身体の別の可能性に気づかせるのである。
身体行為が知覚の成立と内的であることは、いくらかの現象学者、アラカワ+ギンズにとって共通する事態である。だが知覚とはそれ自体が一種の行為であるだけではなく、行為であることがまさに知覚することによって隠蔽される行為でもある。背後から轟音を立てて迫ってくるトラックを振り向いた瞬間知覚するとき、この事態に相応しい身体体勢を同時に取っている。おのずとトラックの進路から遠ざかっているのである。この場合知覚すること以上に体を避けることが優先されている以上、トラックの知覚以上に逃げるという身体行為が急務である。
天命反転地の入り口近くに「極限で似るものたち」が設置されている。入り口が四方、八方に開いており、中は迷路のようになり、ひとたびどこかの入り口から入ると、同じ入り口から出ることはまずないように作られている。原始動物に、前後が分化しないままにとどまったものがいる。口と肛門が分化しなかったのである。この動物は最大で四、五メートルもの体長になるようである。現在この系列は生き残ってはいない。極限で似るものたちは、この生き残ることのなかった原始動物にどこか似ている。この建物の内部では、天井からイスがつるされ、足の下から青空が見え、知覚的に上下がなくなるように設計されている。
構造上前後、左右が分化しなかったものは、運動に方向性をもつことはない。そのため入って出ることは、こうした原始動物のなかを流れる物流のようなものとなる。この原始動物がかりに方向の分化を進めていくためには、部分の運動が特定の回路を持たなければならない。建物のなかに入ったり出たりすることは、こうした部分の運動を作り出すことに似ている。小さな小人となって、巨大なクジラのなかを動き回る自分自身をイメージしてほしい。そのとき前後、左右、上下が存在しないのであれば、自分自身の動きをつうじて、再度それらの空間的座標軸を形成する以外にはない。
3 オートポイエーシス構想の展開
これらの制作行為で実行されていることは、ヨーロッパの伝統とは、異なるスタイルの経験科学であることを意味する。それはアリストテレスの分類で言えば、テオリアではなく、ポイエーシスの系譜に属している。ポイエーシスは、身体を用いた知識であり、あらかじめ設定された規則に従う知識ではない。しかも近代においては、芸術と家内工業のような限られた領域の中でかろうじて存在場所が維持されている。だがこうしたポイエーシスを組み込んだ経験科学は、近代でも存在し、その典型がゲーテの色彩論であり、ダーウィンの進化論であり、20世紀後半の自己組織化諸科学である。とりわけ生命現象や心的現象のような高次な現象領域では、こうしたタイプの経験科学の構想を、オートポイエーシスが作り上げている。マトゥラーナ、ヴァレラによって当初構想されたこの理論は、極めて不備なものであった。それを手直しすることを含めて、この構想を示しておきたい。それによってアラカワ+ギンズの企てを、芸術としてだけではなく、近代のなかに脈々と続いたポイエーシス科学の先端の形態であることを示したいと思う。
オートポイエーシスは、 システムそれじたいの作動の機構を示し、 そのことをつうじて自己をそれとして形成する。 これが自己制作(オートポイエーシス)である。 ここにはいくつかの条件がある。 (1) 生成プロセスは、 次の生成プロセスへと自動的に接続する。 この事態はひとたび偶然によって開始されれば、 自動的に継続する結晶化の場合にも成立している。 (2) 生成プロセスは要素を産出する。 生成プロセスと要素は相互に因果関係になるのではなく、 むしろ次元を異にする。 異なる次元を結びつけるものが、 「産出」である。 産出という大袈裟な言葉にもかかわらず、 たとえば流動する霧が水滴になるような場面ですでにこの事態は成立している。 (3) 産出された要素が生成プロセスを再度作動させる。 作り出されたものが作り出すプロセスそのものを作動させる。 この事態は伝統的にフィードバックと呼ばれているものに類似している。 (4) 生成プロセスの継続が、 作動をつうじておのずと閉域をさだめる。 そのことがすなわち自己制作である。 この閉域を言明によって記述すれば、 どこかに循環的な規定が入る。 (5) 要素はそれらが存在することによって、 みずからが存在する場所を固有化する。すなわち生成プロセスが特定の空間内に出現する。これをシステムの位相化という。 それによってシステムは、 その固有化された空間に存在する。 動きの継続は、 それをつうじて作り出された要素の指定する特定の空間に場所をしめるようになる。
オートポイエーシスの機構の定式化は、 マトゥラーナ、 ヴァレラによれば次のようになっている。 「オートポイエーシス・システムとは、 構成素が構成素を産出するという産出(変形および破壊)過程のネットワークとして、 有機的に構成(単位体として規定)されたシステムである。 このとき構成素は、 次のような特徴をもつ。 (i) 変換と相互作用をつうじて、 自己を産出するプロセス(関係)のネットワークを、 絶えず再生産し実現する。 (ii) ネットワーク(システム)を空間に具体的な単位体として構成し、 また空間内において構成素は、ネットワークが実現する位相的領域を特定することによってみずからが存在する。 」 この定式は語られている内容に比べて、 難しく語られ過ぎている。 ほぐしてみなければ理解できないのである。 しかもさらに悪いことには、 オートポイエーシスの必要条件からみて、 十分でも精確でもない。
初歩的な事項を確認する。 システムは、 生成プロセスのネットワークである。 システムは要素の集合で定義されているのではない。 要素の集合でシステムを定義しようとすれば、 要素の集合の範囲をどのようにして決めたのかが問題になってしまう。 それを観察者が行ったというのであれば、 これは自己制作ではなく、 観察者からの定義による記述にすぎなくなる。 要素‐複合体というカテゴリーのもとで、 システムは要素の集合として定義されているのではない。 この定義に含まれているのは、 むしろ要素の集合がどのようにして決まるのかである。
要素はシステムによって産出される。 細胞を想定する。 細胞の要素であるタンパク質は、 作られては一定期間(平均100日程度)で消費されまた作られる。 とすれば要素の同一性を前提することができない。 むしろ問題になるのは、 たとえ消費されてもまた作られて、活動を継続できる機構である。 そのため要素が繰り返し作り出される機構を考えておかなければならない。
作られた要素は、 システムをさらに作動させる。 システムを再産出するというのは、 システムという動きのネットワークをさらに作動させるという程度の意味である。 システムは作り出した要素を使って、 さらに動きを作り出して行く。 このありかたが再産出である。作られた物質的要素をもちいて、 システムはさらに作動をつづける。 これが構成素の第一の特徴である。
この要素は特定の空間内に場所を占める。 あるいはそれが存在する場所を位相化する。要素によって張り出された空間にシステムは実現する。 細胞であれば、 物理空間に実現し、コミュニケーションを要素とする社会システムであれば、 要素コミュニケーションによって張り出された位相空間に実現する。 これが構成素の第二の特徴である。 この位相空間の拡張は、ルーマンによってなされた。
この定義にそってシステムの動きを追跡してみる。 システムは構成素を産出し、 構成素はシステムをさらに作動させ、 システムはさらに構成素を作り出す。 ここに一種の閉域ができている。 作動をつづけることで、 システムは閉域を生み出す。 これがシステムの自己である。 作動をつづけることがすなわち自己を形成する以上、 この定義は自動的に自己を生み出す機構になっている。 それ故オートポイエーシスなのである。
オートポイエーシスではシステムの作動をつうじて構成素の系列を形成し、 それが閉域をなすことによって、 まさに作動をつうじておのずと区別を行う。 つまり産出的作動を行うことがすなわち区別なのである。 さらに構成素の系列が産出的作動によって連続的に形成され、 そのことによって自己とその外(環境)が区分され、 固有の空間を形成する。 区別の理論が操作の手続きであるのに対し、 オートポイエーシスでは運動することがすなわち区別を行っているという行為の理論となっている。 区別することが、それじたい一種の行為であるとする認識行為論ではない。行為の継続が、すなわち区別を行い、自己を形成し続けるという行為存在論なのである。
この理論での要点を確認しておく。第一にそれ自体で動くものには連続運動を行うための要素単位がある。運動には、それを分割すれば別のものになってしまう要素単位がある。ベルクソンの運動の無限分割を拒否するという主張は、行為の領域でもっとも良く妥当する。第二に運動するものは、運動そのものによって自己を形成する。第三に運動を継続しながら、運動のさなかで自己は変化していく。第四に運動による自己の形成とともに、内外を区分する認知機能が出現する。
この構想によって、身体の形成に何を語りうるのかだけを論じておく。
オートポイエーシスは、制作的行為の回路を示している。物を作るさい、通常手本となる物や、制作で実現しようとしている目標がある。洞窟を見本にして竪穴式の家を建てたり、すでにあるイスをもとに道具を作ったりする。もちろん見本から外れてしまうこともあれば、意図的に見本から外していくこともある。ところで見本がなんであるかがわからないまま、制作行為がなお継続されることがある。このとき手本に合せるように行為することはできない。未知、未踏の領域に入り込んでしまったとき、もはや独力で進む以外にはない。一切の手本なしにそれでも制作行為は進む。このとき自己みずからを形成するようにしてしか進むことはできない。それが自己制作(オートポイエーシス)である。みずからの行為を継続可能なように進めるとき、おのずと形成されているのが自己(Selbst)であり、この自己の形成とともに制作物が形成されている。行為の本性上行為の対象として制作物が作られるということはありえない。行為は認知と異なり、みずからの制作物を対象として捉えたりはしない。行為を継続することが、同時に制作物の形成である。行為の継続をつうじて自己制作することが、同時に制作物の形成である。このとき制作物を行為の継続の副産物とも、また制作物の完成は、行為が階段中途の踊り場で休養しているに過ぎないと言ってみたくなる。これらは制作を行為として実行するのではなく、むしろ作られた産物を観賞する位置から述べたものである。問題になっているのは、むしろ行為を継続することが、同時に産物を生み出してしまっている場面である。ここには行為の継続にかかわるオートポイエーシスの機構と、行為と環境ならびに制作物との関係にかかわる、浸透や相即の概念が主題となってくる。
ここでは身体行為の側から考察する。身体行為には、際立ったいくつかの特徴がある。まず第一に行為には、要素単位がある。まばたきを途中で止めてみる。途中で中断すると、まばたきとは無関係な別のことをしていることになる。眼を半ば閉じ半ば開いているだけである。寝返りを途中で止めることも、左足をペダルに乗せ、右足の移動途中で中断することも容易ではない。これらも中途で停止させると、寝返りとも自転車に乗る動作とも無縁なことをやっていることになる。分割しようとすると、それだけで並外れた訓練を必要とするからである。この要素単位が、行為するシステムの構成素である。これらの要素単位を継続しながら、身体行為は作動を継続する。
身体行為の継続の第二の特徴は、同じ行為の反復が二度と同じことをできないことである。はじめて歩行を始めた幼児は、一歩歩くごとに歩く行為を行う自己(Selbst)を形成している。歩くことの実行が、行為する自己の形成となる。そのため歩くごとに自己を形成しつづける以上、二度と同じ一歩を歩くことができない。行為の実行がそのまま自己形成となるところでは、同じ行為の反復がつねに異なる事態となってしまう。行為する自己を比喩的に円で描くと、この円の軌道が回るごとにブレつづけるようなものである。天命反転地は、身体運動の形成を幼児からやり直すことを強いるのである。
身体行為の継続の第三の特徴となるのは、要素的行為の継続がつねに最短距離を進む傾向があることである。身体は物理的な肉体であることを免れることはできない。そのためアリストテレスに倣って「自然は無駄をしない」とも、近代物理学から援用して「自然の最小作用」とも、ルーマンに倣って「複雑性の縮減」とも言ってみたくなる。たとえば車の運転の修得のさいにも無駄な動きが削られて、行為は最短距離で進むようになる。最短距離の回路を進むとき、身体行為の要素単位はひとつひとつが対応自在さを獲得する。重心移動の行為は、歩行にも階段の上がり降りにも自転車に乗るさいにも、自在に対応できる。行為はそれとして一貫して作動を継続するよう接続しているのであって、環境内の個物に対応して形成されるのではない。これが要素的行為と入力、出力とが対応しなくなる理由のひとつである。要素的行為と対象との間に一対一対応がなくなるのは、懐疑的反省によって対応関係を断ち切っているからではない。行為システムの本性上、作動の必然として一対一対応はなくなる。そうでなければ自然で自在な行為はできない。天命反転地に数時間滞在すれば、この自在さの獲得が別様の回路で動き始めていることがわかる。
このことから派生する身体行為の継続の第四の特徴は、自在さの性格にかかわる。要素的行為の形成には、行為そのものの自在さの獲得が必要となる。重心移動の行為は、行為間の接続によってなだらかで自在なものとなる。だがここには知識の形成にみられる分析と総合の高度化に類似したものはなにひとつ見られない。身体行為の形成を、認知的な知識の形成に類比させて考えることはできない。むしろ行為は何者でもないが何者でもありうるという原型的個物へと向かって形成され、それによって自在な対応が可能となっている。この事態を言葉で語ることは容易ではない。というのも言葉に含まれた知識の統合とは、別のことを言葉で表現しようとしているからである。
身体行為の継続の第五の特徴となるのは、要素的行為が行為間の接続と環境への対応という二重の働きを要請されていることである。いまブレーキの踏み方、アクセルの踏み方、クラッチの切り方をひとつひとつ身につけてみる。それぞれの機器への対応を修得するが、それぞれの行為の間の接続は、行為システムの形成過程を経て変容していく。行為システムの形成過程に組み込まれないものは、おそらく要素的行為としては残ることができない。身体の要素的行為は、行為の継続を行うことと認知的に対象にかかわることの二重の働きをつねに行わなくてはならない。このとき行為の継続で形成されているシステムの境界と、認知的に判別されるシステムの境界は、繰り返しズレを含む。
さらに第六に身体の形成と感覚・知覚の形成は、それぞれに形成のプロセスを進むが、密接に連動してもいる。この連動を、オートポイエーシス構想では、カップリングと呼んでいる。カップリングは、相互作用でも相互基づけでもない。それぞれのシステム(身体システムと心的システム)のそれぞれは、それぞれ固有に形成回路をもっている。それはオートポイエティックなシステムの本性である。だが動物的生命体において、それぞれが単独で作動することはない。比喩的に言えば、2つのシステムは相互に決定関係のない媒介変数を提供しあっている状態である。奈義の龍安寺が活用するものこそ、このカップリングの形成である。
こうしてみるとアラカワ+ギンズが何を形成してきたのかがわかる。身体と感覚・知覚の形成を促すような場所を作品として提示したのである。これらは観賞しようと思えば、観賞することはできる。そこで行われることはほとんどが伝統的な解釈である。しかしひとたび作品に踏み込み、作品に入り込めば、否応なく経験が形成され、作品から出てくれば、別の経験をもって出てくるような場所を設定したのである。
4 奈義の龍安寺の謎
重力や光は、行為の形成にとってつねにすでに内的であり、形成された自己にとっては内部も外部もないというように浸透しているからである。重力と運動系は、おそらくひとつの系に統合できず、光と色や形の記述は、ひとつの系に統合できない。こうして重力や光は、語られることもなく自明な浸透する環境となっていた。この自明となった自己の境界そのものを、再度作りかえる場を形成したのが、「奈義の龍安寺・建築する身体」である。奈義町の山並みを背景として、突如斜めになった巨大な円筒が出現する。この巨大な円筒形のなかに京都の龍安寺の庭園が射影され造形されている。円筒形のなかから龍安寺を経験するのである。平面の庭園が、円に写像されることは、面と円の関係からみて不可能である。かりに平面の庭園を円に写し取ったとしたら、庭園は環境のなかに場所を占めることができず、環境内の区画をもつこともできない。庭園は際限なく続く円環となって、そのことによって庭園はそれじたいで存在する。
庭園を巡る知覚は、横倒しに突き出て並ぶ龍安寺の庭石から、弧を描く土塀の屋根を経て、湾曲する地面へ、さらに反対方向の横倒しに突き出た庭石を経て、再度弧となった天空をへて、ぐるぐると回る。知覚はみずから切り閉じることによって、切り閉じた円形の空間のうちに存在するのである。通常知覚の特性によって、知覚は知覚対象に対してただちに鳥瞰的な視点を獲得することができる。眼前に広がる風景を、ヘリコプターから見た風景へと転換することができる。この鳥瞰的な視点の移動を円環の活用によって封じ、知覚がみずから自身で切り閉じる空間形成そのものを実行させるのである。これは知覚がそれとして成立する現場そのものであり、この奇妙な円筒形のなかで、肉の内から繰り返し懐かしさが染み出してくるのは、知覚がそれとして成立する場面へと引き戻されているからである。これを母体内への胎内回帰という精神分析じみた用語で語るわけにはいかない。すでに忘れ去ってしまった場所が問題になっているのではなく、そこで再度生まれていくことが要請されているからである。
しかもこの巨大な円筒は斜めに設置されているために、このなかでは重力に対して安定した姿勢をとることのできる地点は、どこにも存在しない。身体行為にとって静止点がないのである。静止点がない場所で形成される身体性は、形成された途端に、形成された場所とはずれている。そのため再度形成が開始されねばならない。しかもこの形成には当然ながら終わりがない。つまりほとんどの前提を欠いたところから知覚と身体行為とをやり直さなければならない。一切の前提を欠き知覚を純粋に行為として実行し、知覚が原初的な動きとしてある場所を、アラカワ+ギンズは「遍在する場」と呼んでいる。見かけ上、上下も左右も存在しないところから、再度身体を形成しなければならないのである。
円筒形のなかに造形された龍安寺以外の地の部分は、帯状に赤と緑で塗り分けられている。赤と緑は、絶対に混ざり合うことのない色であり、中間色を見出すこともできない。ウィトゲンシュタインが言うように、人は赤緑を見ることも、考えることができないのである。赤緑を見たことがあるという人は、通常茶色を思い描いている。赤と緑が隣接すれば、通常は感覚のなかで衝突が起こる。この衝突も終わることがない。色彩の感覚では、地の部分に衝突を配したために、円筒形に湾曲した龍安寺のくすんだ土の色も苔のくすんだミドリも、不思議に安心感と穏やかさがある。
この巨大な円筒の両端の一方は光を透過し、他方は光が射し込むことはない。一方からしか光が入らないため、筒の中の明るさは、入光する一方の端から連続的になだらかな変化がある。奥行きに向けて、少しずつ暗くなっていくのである。光への感度が、場所によって変わるために知覚の形成の条件を、連続的に変化させていることになる。こうした経験は、一方の窓から光の差し込むような部屋の描かれた絵画にも出現する。フェルメールの「青のターバンを巻く娘」という絵は、ターバンの一方から光が当たり、半分は影になっている。その影のなかには薄青、深い青、暗い青となだらかな傾斜がある。光の量に応じて、色合いそのものが変化し、それとともに感知される情感がなだらかに変わっていく。
奈義の龍安寺には細かな工夫とは別に、建物総体として生じる大きな謎がある。
第一には、以下のような事態である。いま細胞を顕微鏡を用いて克明に描いてみる。細胞の図柄は、顕微鏡の精度を上げれば、どんどん詳細に描くことができる。ところが細胞は、自分で活動しており、自分で自分自身を形成し、自分を維持している。かりに細胞が、自分の姿を自分で見ることができれば、顕微鏡で描かれた自分の姿に、似ても似つかぬものを見出し、驚くであろう。活動し、行為するもののあり方は、それを外から描いたものとはまったく異なっている。だがこの異なっているという事態には、内的なものと外的なものとの変換関係がいまだ維持されている。変換関係があるから、両者が異なっていても、それとして安定している。この事態は、すでにヘーゲルで出現していたものである。ヘーゲルでは、物事の当事者と観察者では、物事を異なる事態として捉えている。観察者は、そのことを知っており、それによって観察者の経験は、当事主体の経験を取り込んで、新たな経験へとなっていける。これに対して、当事主体の経験は、観察者の視点に組み込むことができないとする「立場の主張」は、さまざまな形で出現している。実存主義や、自我論を中心にする現象学は、こうした立場を表明している。この場合でも、当事主体と観察者の視点の変換関係は残っている。それが残っているからこそ、当事主体は観察者に組み込めないという主張になってくる。この場合は、観察者か当事主体のいずれかを拠点にするというような議論である。ところがこの局面でさらにまったく別様な事態が生じる。マトゥラーナの卓抜な比喩を借りれば、以下のようなことである。
生命システムで生じていることは、飛行機で生じていることに似ている。パイロットは外界に出ることは許されず、計器に示された数値をコントロールするという機能しか行わない。パイロットの仕事は、計器のさまざまな数値を読み、あらかじめ決められた航路ないし、計器から導かれる航路にしたがって、進路を確定していくことである。パイロットが機外に降り立つと、夜間の見事な飛行や着陸を友人からほめられて当惑する。というのもパイロットが行ったことと言えば計器の読みを一定限度内に維持することであり、そこでの仕事は友人(観察者)が記述し表そうとしている行為とはまるで異なっているからである。[5]
ここで起きていることは、内的な経験と、外から見た図柄とをなんらかの形で関連づけ、統一するような第三の視点が、一切取れないことを意味する。変換関係が効かないことは、起きている事態が視点の間の変換関係ではないことである。変換関係には、少なくても変換関係をささえるなんらかの「まなざし」の座が残っている。それを伝統的には「超越論的主観性」と呼んできた前史がある。変換関係が効かないことの理由は、現に行われていることが行為のレベルに関わっていること、またこの行為の調整に、「まなざし」での変換関係が関与していないことを意味する。行為のなかには、基本的に認知と運動が含まれている。両者が連動する場面が、「二重作動」であった。幼少期からの発達過程のなかで、認知と運動は連動可能なようにすでに調整されている。この延長上で大人になれば、認知のなかで、認知からの制御が可能なように、認知のもとに行為のモードを組み込むのが普通である。
ところが本来二重作動には、認知からの運動の制御ばかりではない。運動のさなかでの認知の形成による、運動適合的な認知の連動形成も広い裾野をもって進行している。これは鉄棒ではじめて逆上がりができるようになったとき、あるいははじめて自転車に乗ることができるようになったとき、できるという感じがどういうものがつかめるような場面である。また認知の形成も身体運動の形成もそれぞれ独立に進むが、当面どのように連動を形成してよいかわからないまま、二つの異なる形成プロセスが進行してしまうことがある。行為のさなかでの二重作動の形成モードを形式的に取り出せば、この三つが基本的なモードになる。内的視点と外的視点の転換関係や、それに類似したものが成立するのは、このなかで認知のなかに身体運動の制御を組み込むモードの場合だけである。奈義の龍安寺の引き起こすことは、おそらくこの三つのモード全域にかかわっている。内的視点と外的視点の変換関係が効かなくなるとき、本来視点の間の変換関係が問題になっているのではなく、行為の形成にかかわる場面で、行為の調整の選択の有効性が、どのようにしても予感できない事態が起きてしまっている。
より簡明にしてみる。奈義の龍安寺は、ひとたび中に入れば、短時間で次々と経験が変わっていく。ところが通常は、どこかに変わらない知覚の要素が残っている。天命反転地は、身体の運動感を変化させるが、ヘリコプターの上から見たような空間的な全体像は残っている。この空間的な全体像があるからこそ、身体運動感の変化の配置をあたえることができる。ところが奈義で起こることは極端である。身体運動感も、色感覚も、空間性も、身体の重さも何一つ維持されているものがない。これは特定の活動の変化の配置が効かないことだけを意味するのではない。むしろ人間のそれぞれの活動の変化は、カップリングしながら変化しているが、このカップリングの安定する調整の予感がまったくないのである。「切り閉じ」は、経験が変化するなかで、変化の途上に個体性、単位性が出現するための機構である。ところがカップリングの変化の終わりのなさのなかで、切り閉じの働きさえ解除してしまうような事態が出現する。とすると不思議なことだが、さまざまな感覚の切り閉じが完結しないように、カップリングした活動がそれぞれ変化していることになる。だが切り閉じが成立しなければ、本当のところ知覚のランディング・サイトする場所がないことになる。ランディングは起きても、安定したサイト(場所)を占めることはできない。「まなざし」の特徴が、どこかに場所を占めることである。だから降り立つと言われる。降り立つ行為は、必ず起こる。これはアラカワ+ギンズの大発見の一つであり、現象学とは異なる回路を開くものである。ところがランディングが起きても、特定の場所に一時的に安定するランディング・サイトにならないことはあるのである。ここが「まなざし」のもとでの変換関係が効かなくなる場面である。
既存の認知能力を形成してきたものにとって、奈義の龍安寺で形成されてきたことは、既存の認知能力の拡張でも、多様化でもない。天命反転地では、いまだ再度認知と身体運動を形成しなおすところがあった。それは「まなざし」での変換関係が維持されているからであり、そのさいの変換関係のもとで起きていることが多様化であった。ところが「まなざし」のもとでの変換関係とは異なる事態が進行していたのである。
さらに第二の問題がある。ここでもひとつの比喩的な事例を挙げる。
まず私たちが二つの家をつくりたいと思っているとしよう。この目的のためにそれぞれ13人の職人から成る二つのグループを雇い入れる。一方のグループでは、一人の職人をリーダーに指名し、彼に、壁、水道、電線配置、窓のレイアウトを示した設計図と、完成時からみて必要な注意が記された資料を手渡しておく。職人たちは設計図を頭に入れ、リーダーの指示に従って家をつくり、設計図と資料という第二次記述によって記された最終状態にしだいに近づいていく。もう一歩のグループでは、リーダーを指名せず、出発点に職人を配置し、それぞれの職人にごく身近な指令だけを含んだ同じ本を手渡す。この指令には、家、管、窓のような単語は含まれておらず、つくられる予定の家の見取図や設計図も含まれてはいない。そこに含まれるのは、職人がさまざまな位置や関係が変化するなかで、なにをなすべきかの指示だけである。
これらの本がすべてまったく同じであっても、職人はさまざまな指示を読み取り応用する。というのも彼らは異なる位置から出発し、異なった変化の道筋をとるからである。両方の場合とも、最終結果は同じであり家ができる。しかし一方のグループの職人は、最初から最終結果を知っていて組み立てるのに対し、もう一方の職人は彼らが何をつくっているかを知らないし、それが完成されたときでさえ、それをつくろうと思っていたわけではないのである。[6]
この事例のなかで第一のプログラムにしたがって作動しているのが、直観であり、思考である。この第一のプログラムは、言語の文法や数学に典型的にみられ、結果からみた必然性を表している。通常数学的法則は、必然的な世界を表しているように思われている。ところが結果が合うように結果から組み立てたものが数学的法則であり、逆に言えば見かけ上の必然性は、手順を逆転しただけの思い込みである。そして現時点で人間が持ち合わせているプログラムは、こうした第一のプログラムだけなのである。直観には、明らかに線型性が入る。ここから向こうへ進み、線的な方向性をもつのが直観である。また思考は言語からの制約が大きく、言語に典型的な線型性(主語+動詞+目的語+目的補語のように線的につながったもの)が入り込んでいる。線型性は、第二のプログラムとは容易に折れ合うことはできない。カントが、直観なき概念は空虚であり、概念なき直観は盲目であるというとき、直観と概念的思考が現実性を形成する基本だと捉えていることがわかる。直観と概念だけでは、いずれにしろ第一のプログラムの適合的な事態しか捉えることしかできそうにない。
第二のプログラムにしたがうと予想されるのが、感覚であり、身体である。これらの形成を論じるために手掛かりをあたえていたのが、オートポイエーシスの機構であった。このとき大まかには、以下のような予想を立てることができる。第二のプログラムは、開始条件が偶然によって指定され、動きの継続だけを指定している。また動きの結果得られたものは、動きの継続の副産物である。そのとき第一のプログラムは、第二のプログラムを観察者の視点に射影したものだと考えることができる。空中に動き続けている円環をイメージしてほしい。そこに上から光を当てて、地面に影を落としてみる。落ちた影には動きはなく、線型性が出現しているはずである。だがこうした射影可能性がなければ、現在の人間の認知能力では、そもそも第二のプログラムを考えることさえできないし、第二のプログラムの意味さえ理解できない。この射影関係は、人間が現在手にしているプログラムとは別のものがどこかにあるはずだという予感に対応して成立している。つまり経験の可能性を拡張することができるという予感に対応して、射影関係の意味を理解している。射影できるという場面では、基本的に理解可能性が優先されている。
ところが奈義の龍安寺で起こることは、この射影の可能性を断ち切ってしまったのである。理由ははっきりしている。「奈義の龍安寺」では、現実の認知と行為の形成がすでに進行してしまい、部分的にしろ第二のプログラムが作動している。また経験はその進行のさなかにある。射影するためには、射影の定点もしくは射影の予感可能性がどこかで確保されていなければならない。作動が予感を上回り、予感以上の速度で進行する緊急事態は、現実に存在し、また経験を形成することが、その経験をわかることを凌駕するような場面はある。わかるという了解点において、経験の形成がすでに進行しているのである。そのとき人は、みずからに起こることがなんであるかを知りようがない。知るということが無効になるような、緊急の場が存在する。こうした場では、この場所で形成されるものと、直観で捉えているものは、どのようにしても配置をあたえることができない。それが現在の人間の能力の限界である。この限界を、人間の永遠の限界だと取るか、経験の可能性を拡張するまたとない好機だと考えるかは、態度的な選択である。あるいはそうした場面で、継続可能なようにみずから経験を形成すること、ならびにそうした行為にみずから入っていくことと、わからなさの手前に立ち尽くし、わからないとは一体なんなのかと自省することも、態度的な選択である。だが態度的な選択以前に進行している、経験の形成の原事実がある。この原事実の出現の場こそ、奈義の龍安寺であった。
注
1、荒川修作/マドリン・ギンズ『建築する身体――人間を超えていくために』(河本英夫訳、春秋社、2004年)第二章。
2、荒川修作/マドリン・ギンズ『意味のメカニズム』(瀧口修造・林紀一郎訳、ギャラリー高木、1979年)第八章。
3、荒川修作/マドリン・ギンズ『死なないために』(三浦雅士訳、リブロポート、1988年)
4、メルロ=ポンティ『見えるものと見えないもの』(滝浦静雄・木田元訳、みすず書房、1989年)「研究ノート」参照。
5、マトゥラーナ、ヴァレラ『オートポイエーシス――生命システムとは何か』(河本英夫訳、国文社、1991年)231ページ。
6、同上、235-6ページ。