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発達のリセット

河本英夫

システムはみずからと環境とのかかわりを組織化し、かつみずからを組織化する。この組織化の段階的なモードの切り替えが、発達と呼ばれる。発達は、加齢による成熟プロセスでも、学習による知識の蓄積でもない。だがこの事態をどのようにイメージしておけばよいのだろう。認知科学、情報科学であれば、環境情報の獲得がシステムの組織化を促し、その後システムはより高度な環境とのかかわりを形成する。いわばらせん的に組織化の水準を切り上げていく。本当にこんなことなのだろうか。このらせん軌道は、上に行くほど大きな円を描くのか、先細りになるのか。これはたんなる図柄の問題ではない。「子どもはみな天才であり、発達は可能性の消滅である」という言明と、「理性は発達の最終段階として世界内での自己の最高の組織化であり、最高の可能性の発現である」という言明は、どの時代でも両立する。「人間は、動物界の例外として無限の可能性に開かれている」という言明と「人間ほど可能性から見放された存在はない」という言明も両立する。いったい何が起きているのか。
脳・神経系を基本にして人間の発達を考えようとすると、自閉症児の対人関係不全に見られるように、成熟プロセスの各段階で対人関係不全はかたちを変えながら持続する。脳・神経系が多並行分散系の性質をもちあわせる以上、他の部位の成熟プロセスに応じて、発達障害はかたちを変えるだけであって、それ自体が解消したり、全体的な統合に組み込まれたりはしない。逆に部分的障害があっても、発達は固有に可能である。だが言葉で語るほど、発達には際限のない回路の可能性があるわけではない。
学習過程のなかで、人は物の見方を学ぶ。新たな学説が生まれれば、別の見方を学ぶ。物の見方程度では、ひとたび習得してもいつ捨てても良く、場合によればそんな見方など無かったことにしてもよい。必要に応じて切り替えることのできる物の見方など、一時的に気に入ったジャケットのように、明日捨てることもできれば、明後日燃えるゴミの袋から再度拾いなおしてもよい。学習のうち、たんなる知的装飾の獲得と、発達にまで及ぶ知的エクササイズとは、はっきり分かれる。自然言語は、ひとたび身につければ、身につける以前の段階にもはや帰ることはできない。自転車に乗ることができるようになれば、乗れる以前の段階にもはや戻ることはできない。知的発達は、ほとんどの場合学習を介して進行するが、学習から知的発達が導かれるのではない。発達には、非可逆性が含まれる。
重要な哲学や思想のほとんどは、学ぶだけでは足りていない。むしろそれらは忘れることによってはじめて身に付く。忘れることによって、はじめて記憶に落ち、組織化のための素材となる。このことは哲学や思想を語り終えた途端に、それを否定することではない。否定に否定を重ね描くことではなく、ただ内的に習得するために忘れるのである。この場面での本当の大問題は、学習の仕方に含まれる知の獲得プロセスの仕組みと、能力の組織化としての発達の仕組みが、おそらくまったく異なっているのではないかという点である。それらはたんに地続であったり、循環的に相互強化されるようなものではなく、むしろ折り合いの悪い配置にあるのではないかと想定している。そのことの延長上で、多くの学習課題は発達課題の傍らを通り過ぎているのではないかと想定できるのである。

1 何が獲得されるのか

ごく月並みな風景を思い浮かべてみる。赤ん坊は寝返りを打てる頃から、床が平らであるか、わずかに傾いているのか、凸凹があるのかを察するようになる。斜面の傾きが何であるかを知ることなく、身体に受容された微妙な違いは感じ取られているはずである。身体とともに感じ取られている認知は、触覚的に世界の違いに触れ、自分自身の感じ取りの違いに気づく。多くの場合不快の度合いに気づくのである。気づくことは、意識によって知ることではない。不快や痛みは、すでに感じ取られているのであって、意識を介して知る以前のことである。上体を起せて維持でき、体幹に頭の重さを乗せることができるようになると、手が空き自由度が生じる。特定の姿勢に対しての眼の移動も可能になる。五ヶ月目頃から、顔に多大に関心を示し、人ばかりではなくサルの顔にも細かな注意が向く。この時期、個々のサルの顔の違いを見分けられるようである。ところがほどなくサルの顔は、サル一般の顔になってしまい、顔にはあまり関心を示さなくなる。[1]注意は、世界とかかわる実践的能力であり、知覚的に知ることとは別のことである。注意は現実をそれとして成立させ、成立した現実が何であるかを知るのが知覚である。こうした注意-感覚系の特定化、焦点化の時期を「敏感期」と呼んでいる。また手が空けば何でも掴んでは投げたり、周囲のものにぶつけたりしている。ガラガラだけではなく、周囲で掴めるものはなんでも掴んではぶつけるのである。このなかに音のするもの、飛び散るもの、つぶれるもののような出現する出来事のモードの違いが感じ取られていく。
これらはごくありふれた発達の場面を描いているように見える。だがこうした事実のなかにも、すでに多くの事柄が含まれている。第一に平らであることや水平であることは、身体の姿勢や触覚的感触とともに習得されている。このなかに身体とともに習得される幾何学がある。幾何学の基本概念は、制作行為のなかで形成されていく。平らな面を作り出すことは、そのことの極限的な位置に「平面」というある種の理念の獲得が見られる。凸凹を何回もならし一様性を作り出すなかに、現実には実現できないがある種の極限的な一様性が捉えられている。これは制作行為のなかで出現していく理念性の獲得であり、フッサールが『危機書』で語ったものである。ところが制作されたもののなかで育てば、身体的感触とともに一様性の体感的イメージの獲得がなされる。この体感的イメージは、意味と呼べるほど明確なものではないが、にもかかわらずより一様なものとそうでないことを体感的に区別できることのなかにすでに含まれている。洞穴のようなものであれ建築物のなかで育つことをつうじて、体感される幾何学の主要な萌芽がある。大雑把な話にならざるをえないが、建築によって獲得され身体的に体得される幾何学(約50万年前と推定)は、人類史で見れば言語獲得(約10万年前)に大幅に先立つものであり、各人の発達のさなかで体験レベルで組み込まれていく。この体験レベルの文化的な形成物は、遺伝とも言語記号的堆積物(ミーム)とも異なる仕方で、発達のなかに組み込まれ継承される。これは分類すれば一種の獲得形質だが、発達のなかに組み込まれるために否応のない文化的な伝承態となっている。極限的な体感的イメージの獲得は、五感の形成とともに同時に獲得される能力であり、文化的に獲得される非可逆性である。この極限的一様性のような理念性は、約2500年前というごく最近になってプラトンが「イデア」と言い換えることになった。そこではこうした能力は、感覚印象を越える本性的な直観力というローカルな言語記号的概念になってしまった。ここからは理念的意味はただの「ミーム」である。発達で個体の身体に組み込まれる文化的成果の機構は、第三の人類進化のモードであり、こうした成果の一覧は、いまだほとんど解明されていない。
次に注意の焦点化は簡単に獲得できるようなものではない。幼児が、同じ物をしばらく見続けるためには、眼球動作だけではなく、焦点化の働きが必要となる。これは探索行動が始まることとは別のことである。対象が何であるかを探索することの手前で、ある場所に位置を占め続けるという「まなざす行為」がある。あるいはまなざす行為は、もっとも基本的には、場所を指定する行為だと言ったほうがよいかもしれない。このことをアラカワ+ギンズは、「ランディング」だと呼んだ。[2]この事態は、あまりにも根本的なものを突いたために何が語られているかが当初よくわからなかった。物の位置を指定する働きと、それが何であるかを知る働きは独立であり、注意の焦点化には位置を指定し、占める働きが前提となっている。このことがはっきりしてきたのは、「バリトン病」という奇妙な病気が明らかになって以降である。[3]患者の眼前にスプーンを見せると、それがスプーンであることは判る。言語的にそれを指示することもできる。しかしそれがどこにあるのかがわからないのである。これは物の位置はわかるが、その位置のところまでうまく手を伸ばすことができない病態とは異なる。位置に身体動作をうまく合わせることができないのは、小脳性疾患に近い。小脳は、アサファルトから芝生に入り込んだとき、おのずと足の踏ん張り方を変えているような場面で作動している。この小脳の働きの欠損ではなく、位置そのものがわからないのである。こうした病態には、理解はできるが経験できないという体験的世界の変容が含まれている。
位置を知る働きは、頭頂葉を主にした背側の回路であり、物が何であるかを知るのは、頭頂葉の腹側回路である。頭頂葉のニューロンは、一般に一つのニューロンで複数の感覚刺激に対応することが知られている。そのため連合野の中心を担っている。このうちの一方の位置を指定する働きに欠損が生じており、本来統合されているものの一方が解除されているために、「解離性障害」となる。視覚的な位置がまったくわからなくなっても、聴覚性の位置同定が残っている場合もあり、この場合は聴覚側から空間イメージを作っていく治療手順になりそうである。位置指定は、聴覚を含めてまなざすことの行為的な働きである。もっとも空間的な位置指定ができないとき、物の配置の関係が組織化できないのか、方向が指定できないのか、距離覚を調整できないのか、いくつもの欠損の局面がありそうである。
位置を指定するという働きをつうじて、当初注意が焦点化すると考えられる。まなざすことは探索行動の手前で、それじたい行為として作動しており、まなざす先を指定する行為である。このときまなざされるものが何であるかを知る必要はない。知ることは注意が向いた後に起こることであり、注意が向くためには位置の指定が起こらなければならない。母親の視線の向きを察して、赤ん坊がそこに視線を向けることを、共同注意という。共同注意の場面では、幼児が母親の見ているものを同じように見ているはずはなく、少なくても同じ対象を知覚しようとしているのではない。そうではなく視線を向けるという行為を同期させているのである。こうした共同注意がうまく起動しない場面では、位置指定という行為能力から作っていかなければならない。この能力を作るという場面が、発達に相当する。
各個人が成熟プロセスのさなかで、環境との関係を組織化するなかで獲得する知能のモードについては、ピアジェに詳細な観察報告がある。ピアジェ自身は、後に発達心理学を図式化してしまい、そのもとでの説明を延々と続けることになった。だがもともと詳細な観察では群を抜いていた。知能の出現を、幼児の動作の形成のなかに克明に観察した記録が、ピアジェの『知能の出現』にある。[4]この著作でのピアジェの観察は徹底している。知能の出現にかかわる不思議さがでているのである。対象となるのは原則一歳前後までの幼児の動作である。幼児は、周囲の物を叩いたり、擦ったり、ぶつけたりしている。ガラガラと呼ばれるおもちゃでよくやっていることである。こうしたなかに、細かな動作の形成を観察しつづけるのである。一つのものでぶつける動作が出現すると、他の物体でも同じようにぶつける動作を行う。物にかかわる動作は、栄養を取り入れる動作の延長上に配置されており、ピアジェはそれを「同化行動」と呼ぶ。視覚は、光を取り入れる栄養獲得動作だという。極端に言えば、見ることは光を食べることである。個々の動作は、一つの物体について起こると、ただちにあらゆる物体に対して試みられる。それが「一般化」と呼ばれる。物をぶつける動作のさいにも、身体動作の組織化があリ、調整が起こる。調整は、物にかかわると同化行動とともに、身体動作の側で起きる。ピアジェの説明原理は、この「同化」と「調整」であり、そこにさらに動作の反復にともなう「一般化」や動作が滑らかになっていくさいの「組織化」が加わる。ピアジェの発達心理学の基本線は、この四つの基本概念でほとんどすべてを覆うことができる。そしてそれぞれの概念のもとに膨大な細目が見出されるのである。物をぶつける動作は、物の特質を知ろうとすることではないので、物に対しての探索動作ではない。むしろ身体運動のなかにこの物を巻き込んでいくので、同化行動である。同化行動の延長上で、どのようにして探索行動が始まるのか。
 まず物とかかわる動作のなかで、なにか関心や注意の向く事態が偶然生じる。手にもった物をなにかのきっかけで落としてしまう。物の落下は、手を放す、落下する、物が床に接触して、さまざまなかたちで転ぶという一連のプロセスである。これらのプロセスのどこに関心が惹かれるのかはよくわからないが、ともかく落下という事象を見出すと、何度でもやっている。しかも物を手の上で滑らし、手の傾きを変えたりして、さまざまな物体を落とす。反復行動のなかに、同じこと、類似したことを再現してみるだけではなく、少しずつ条件を変えてみるような場面で、特定の事象に注意が向いている。注意ははっきりとした意識がなくても働いている。そして次の段階では、鉛筆のような長細い物体を幼児に渡し、空いた穴に差し込むような動作を誘導してみる。これは動作の組織化がかなり進まないと実行できない。最初渡されると、渡された状態のまま、ともかく穴にさして行く。尖った方を下向きにして渡されると、そのまま穴にもっていき、削ってない丸い側を下向きにして渡されても、そのまま穴にもっていって差し込むのである。ところがひょんなことで、渡された鉛筆をそのままではなく、ひっくり返して尖った側を下にして穴に差し込む動作が起きる。一度起きれば、どのように渡されても尖った側を下にして穴に差し込むようになる。しかもそれ以前の動作がまるでなかったかのように、おのずと尖った側を下にして差し込む。熟慮し、尖った側を下にすることを覚えたのではなく、視点を変えたのでもない。ただ何かを見出しており、ひとたび見出せば、そうするのがまるで自然であるかのようにそうするのである。
ピアジェは、この局面を探索行動の開始だとみている。この動作には、すでに選択肢が入っている。だが動作に選択肢が入るだけであれば、物を落下させるさいに、手の傾きを変えて落とす場面でも入っていた。物体はさまざまな落ち方をし、さまざまな転がり方をする。しかし手の傾きと落ち方や転がり方に有意な関連があるわけではない。動作の選択性のもとでは、物の状態を変更させることができる。だが物を特定の状態に置くことにまだ到達していない。物を手放して起きるさまざまな落下や転がり方は、目新しさや新規さに満ちており、床に落ちて予想外の転がり方に興味をもつことはある。だが鉛筆の向きを変える動作は、物性への触感的、視覚的感じ取りが含まれている。その感じ取りによる物の制御が含まれている。この感じ取りと物の制御の局面が、知能に相当する。それまでになかった動作が出現し、物の性質の感じ取りが特定の制御行動を生み出している。これは能力が形成されたのであって、それまでの能力の延長上にはない。
つまり物の性質でいえば、物の同化行動のもとで、なにかを発見したのであり、制御行動や調整行動でいえば、その発見に対応するような物の制御の仕方を自分で開発したのである。この場合の発見や開発は、たまたま一度そうした動作を行ったとき、削ってある側を下にしたときと、削ってない側を下にしたときとでは、なにかが違うという「差異の感じ取り」は最低限あったと推測される。この差異の内実が何であるかを知る必要はなく、また実際幼児がそうした内実を見極めて動作を行っているということは現実にありえないことである。高度な判断をともなう認知が要求されているわけではない。だが違うという感触と、その感触とともにどのようにすればよいかという行動の感触をもっているはずである。
これ以降のピアジェの分析は、象徴的な対象認知のほうへ向かっていく。それは認知の必然性を示しているというより、一歳前後の年齢段階で言語的音声が身についていく時期にあたるからである。身体動作とはまったく異なった音声言語システムが創発の時期に達し、身体動作が異なったカップリングの局面に入ってしまい、人間の認知-行為システムはまったく異なったシステムへと変貌を遂げる。
ただしごくわずかでも感覚のバンドが異なれば、こうした定常発達の場面とは異なる場面に進んでしまう。それが自閉症スペクトル症状に見られる。自閉症の多くに見られる共通の特徴は、感覚のバンドが異なることである。ある場合には、健常者以上に感覚のバンドが広く、ある場合には、健常者がまったく反応しないものに反応する。ある患者では、靴下を履くと、トゲが刺すように痛いという。圧覚のバンドが異なっているか、靴下と足との間の選択肢のなさへの感度が異なっているか、いくつか要因は考えられる。身体がしっくりと収まっていられる環境は、通常の住居環境ではなく、ソファーとソファーの隙間であったり、牛がつながれている大型クリップ風の鎖のなかであったりする(グランディン)。このタイプの人は、特殊能力をもつことが多い。また情報刺激の取捨選択、とりわけ情報刺激を捨てるという感覚の作動がうまく形成されない。[5]
また感覚反応しているとき、どこに反応しているかが不明な場合がある。たとえばテディ・ベアをしきりに抱きかかえている場合、この人形のかわいさ、愛らしさに反応しているのであれば、ごく月並みなことである。しかしこの人形の毛の柔らかさの度合いに反応しているだけであれば、人形を抱きかかえることには別の理由があることになる。すると対象物のどこに反応しているかで、その点だけでそのものを捉えている可能性が出てくる。さまざまな人形の愛らしさの共通性ではなく、ただ毛の柔らかさだけがそのものの固有性を指標していることがある。この場合、対象物の他の一切の内実にはほとんど無関心である。注意が特異的になるのは、特異感覚反応以外のものはほとんど捨象されるからである。
しかしこのことの延長上に、本質直感がうまく形成されない可能性が出てくる。感覚が特異なものに焦点化してしまえば、類似するものを系列化できない。図を参照してほしい。[6]人の顔の図柄3枚と髭つき五角形の幾何学図形を並べたとき、「仲間はずれはどれか」という問いは、類似したものを追跡できれば(追視)、おのずと決まるように思える。だがそれができないことがある。類型的な直感が形成されるにくいか、注意が図柄の意味とは別のものに向いている可能性がある。図柄ではなく、髭や髷だけに注意が向いている場合は、図柄の類別へと向かうことができない。



本質直観は、類種的な判別を可能にする。個々のリンゴを見ながらリンゴ一般を直感してしまう。この知覚の場面では、個々の感覚質に同時に直観がともなっている。リンゴという種の直観は、一切の感覚質には解消されない。だからそれを通常意味だと言うが、意味の内実は最終的には経験的に決定することはできない。だがそれが何であるかをよく知っているのである。経験科学者であれば、リングの本性を知るためには、できるだけ多種多様のリングを集めてきて、そこから共通性を引き出す手順によって、リンゴの本性を知ることができる。この手順が帰納と呼ばれる。だがさまざまなリンゴを集めてくる段階で、ナシやカキは除外しているはずである。ということは調べてみる以前に、リンゴが何であるかはよく知っていることになる。この調べてみる以前によく知っている場面で作動しているのが本質直感であり、これは生存を賭けたほどの知である。生きているものとただの人形の区別は教えられなくてもわかり、爬虫類と魚の区別も教えられないてもわかる。世界には原初的な秩序がある。これがなければ環境とかかわるさいの組織化の手掛かりさえ手にできないことになる。本質直観は、おそらく種ということの本性に含まれている直観であり、本質直感の形成はヒトが人間という固有の種になることである。そして重度自閉症以上の重い発達障害には、この本質直感が形成されないままであるあることが多い。
これに対処する一つの仕方が、言語の類別機能を活用することである。これは聴覚の類別機能が起動できる場合である。言語を物を表示する外示機能としてではなく、また意味の連なりを形成する表現機能としてでもなく、世界のなかに何か原初の類別(シバリ)があることを体験的に習得するために言語を活用する。実際には先の図の左の3つに対して、繰り返し「顔」という語を語り、右側のものに「五角形」という語を繰り返し用いるのである。ここでは類別の違いさえ感じ取れればよく、顔や五角形が何であるかを知る必要はない。音の類似性から、何度も世界の類型的な区分を作っていくだけである。言語にはすでに意味的な区分(種と類)が入り込んでいるので、顔の系列と五角形の区分の導入には有意に効果がある。やや場面は異なるが、生まれながらの全盲の人でも、視覚的な言語は身につき、しかも一度も見たことがないはずの色に関する言語も十分習得される。無色という語も習得できる。[7]これは言語が、表示、表現機能としてではなく、経験を類別する機能として組織化に手掛かりをあたえている事例である。ちなみに生得的に全盲の人は、まさに全盲であることによって、「見えない」という経験をもったことがないのである。
こうしてみると発達障害に対応するためには、最低限どうしても三つのことが必要となる。これは同時に発達のための必要条件でもある。これらは認知運動療法での発達障害の治療現場から取り出してきたもので、相当確度が高いと予想している。第一に体験レベルでの体感的差異の気づきであり、第二に行為の選択性の出現であり。第三に「世界内のしばり」と呼ぶべき、本質直感の形成である。第一の条件では、重度の脳性麻痺患者であっても、身体をもつかぎり重さをもつ。頭を支えるだけの姿勢が取れなければ、頭は限りなく重い。つまり限定できる重さになっていない。寝たきりであれば、この頭の重さをそれとして感じ取ったことがないはずである。この場合、頭を体幹に乗せるようにして、頭の重さの差異を感じ取ることができれば、身体がここにある、というもっとも原初的な身体内感を手にすることができる。言葉で語れば簡単そうに見えるが、こうした動作を行うためにも、セラピストには天才的な才能が必要となる。寝たきり老人と異なり、重度の発達障害者は頭の重さをいまだ一度も感じ取ったことがないのである。支えをあたえながら、重さの経験を作り出していかなければならないが、他の身体部位を支えながら、頭だけはごくわずかのかの自由度が残るようにして、この自由度のなかで障害者はみずからの重さを感じ取るのである。この場合セラピストは、水に浮かべた障害者にとっての水そのもののようになることが必要である。こうした身体内感の差異が感じ取れ取れなければ、およそ経験の違いを獲得する回路が形成されないままになる。身体に内的に感じ取られる差異は、対象世界に判別される五角形と六角形のような区別ではなく、重さの感じ取りとして、度合いとしての差異である。
認知科学、脳神経科学では、こうした身体内感は、現状では体性感覚に分類されると思われる。体性感覚は触覚的な感覚のことで、人間では触覚的知覚(第一体性感覚野)と便意、尿意のような生理的感触(第二体性感覚野)に区分されているのが現状である。[8]では姿勢の違いを感じ取る身体的感触は、どうなるのか。身体のもつ不透明な感触はどうなるのか。痺れた足がここにあるという感じがないという場合の「ここにある」という感触はどうなるのか。体性感覚の分析は、おそらく始まったばかりであり、しかも現行の脳の発火部位の指定というような粗っぽい測定方法では、うまく対応できないのではないかと予想している。
第二に、行為は選択性を作りださなければならない。手にもったボールを握っているこのもできれば、離すこともできる。足を踏み出すこともできれば踏み出さないこともできる。これが実行可能にならなければ行為は形成されない。行為には「しない」という選択性がある。自動的、突発的に動いてしまう手足の多動を、行為とは言わない。幼少期片麻痺の児童は、患側の手にボールを握らせると、自分で離すことができない。健側の手をそこに向けて、ボールを患側の手から奪い取って放り投げるのである。この場合、握るという動作と握らないという動作がなだらかに両極化していかない。選択性を獲得できない身体は、かりに治療課題に対応してその場で患側を使うことがあったとしても、ひとたび自宅に帰ればもはやその手を使うことはないであろう。身体を動かすということが何であるかが感じ取れないままになるのである。
行為は、風邪にかかる場合のように、身に降りかかることではない。予防行為には、結果として成功も失敗もあるが、風邪にかかることじたいには、成功も失敗もない。結果として成功も失敗もある場面では、身体行為に選択的制御が必要となる。この選択性こそ、行為の組織化を促すのである。発達障害の治療の基本には、どのような小さな場面でも「選択性に直面する」という事態が含まれている。環境情報-運動系の線型記述は、ロボットにしか当てはまらないのである。
第三に世界内のしばりは、最初の秩序とも呼ぶべきものであり、これはみずからと環境との関連の組織化のための手掛かりである。認知運動療法のピサのグループが、発達障害に対応するさいに行っている治療法である。本質直感が形成されていれば、たとえば幼児を横たわらせ、片足を折り曲げた姿勢を取らせて、その姿勢の状態で、いくつかの足の格好を図柄化したものを見せて、自分の足の姿勢がどの図柄の格好に対応するのかという課題を課すことができる。幼児は、自分の姿勢の全貌を見たことがないはずである。もちろん鏡で見て知るようなことも起きていない。だが自分の取っている足の格好の全貌が何であるかを、見なくてもよく知っているのである。本質直感は、知覚の手前にあって、類型的なイメージ直感であり、見て知るとは別の仕方でよく知っている行為的直観である。これによって次の動作に踏み出すさいの「予期」が可能になってくる。

2 学習と発達

自然な成熟プロセス以外の発達には、ほとんどの場合、学習がともなっている。学習と発達の関係を可能な限り明確にしておきたい。発達は、スキルとしての知的技法を修得することではない。このスキルの習得と同時に獲得されるある種の「能力」の領域にかかわる。そのため現状の能力の基礎をどのように詳細に分析しても、発達課題の傍らを取りすぎていくだけである。生物学的、生態学的な基礎的規則を取り出すことは、生理学、運動学、心理学の課題ではあっても、そこで解明された規則は、発達の規則ではない。というのも変化する可能性をもたないものは、発達の範囲を制約しているだけであって、発達とは別の事柄を論じているからである。幼児のキック運動の形成をどのように詳細に解明しても、それじたいは足の運動の生物学的規則が詳細になり、現状の機能を説明しているだけである。その規則の延長上で「何になりうるか」という場面まで構想を拡張しておかなければならない。そしてこれは難しい課題にかかわっていることがわかる。人間の知識は、現状を説明することに適合的であり、自閉症のような欠損を手掛かりにした場合でも、現状の多数派を説明的に批判することに適合的である。可能性の幅まで見込んで人間の知を構想することは、知の性格上ほとんど難題になってしまっている。だからこそ踏み込んでみる意義はある。一般に可能性について明確に語ることは、果たしてできるのだろうか。あるいは可能性そのものを定式化することは可能なのだろうか。可能性とはそもそも輪郭が決定していないことである。現実は、可能性としては別様でありうる。しかしこの可能性の幅を明示するように語ることはできるのだろうか。
人間の言語のなかで「可能性」という語ほど、曖昧なまま放置されてきた語はない。だが曖昧なまま放置しておいた方が良い事情もあったに違いない。可能性という語は、第一に論理的な可能性の場面では、現実と対比される。「今日は雨が降る可能性があった」という文は、現実には降らなかったが、雨が降る可能性はあったという程度の内容である。実際の現実に対して、可能な現実という様相の場面での可能性である。現実は別様でもありえた、異なる現実の世界がありうるという場合の「えた」「うる」に相当するモードである。そのため現実性-可能性という対関係での可能性である。
第二にできるという場面であり、「私は自転車に乗ることができる」「私は車の運転ができる」というような場合の「実行性」である。多くの場合、「知る」に対置されて、「自転車の乗り方を知っている」「車の運転の仕方を知っている」とは異なる現実の局面を指す。この現実の局面は、人間の知の固有性を示唆する。「できないが知っている」は、生存可能性から見て意味をなさないだけではなく、通常余分で時として有害でもある。泳げないが泳ぎ方は知っている、自転車には乗れないが乗り方は知っている、問題は解けないが、解き方は知っている、というような事態は、人間にしか起こらないからである。もっとも極端な場合には、歩くことはできないが歩き方は知っているというふうになる。ところでこの場合の「知っている」というのは、いったい何を知っているのだろう。この場面では、認知的知識-実効的行為の対関係が成立しており、この関係のなかでの実行性が可能性に相当する。いわば「知る」に対して、「できる」という領域である。
第三に予期のなかで捉えられた「可能的経験」である。これは現にいま現実のなかに起きていることの延長上で想定され、予期される可能性の範囲である。この可能性の範囲の上限は、論理的不可能さである。そのため不可能でないものという二重否定が、この事態の大外での条件である。だが不可能でないものの範囲には、あまりにも多くの事態が含まれている。現行の経験の延長上で想定内にあるものと、不可能でないものの間には広大な隔たりがある。たとえば意識は別様でありうる。これは論理的に不可能ではない。だが学習の延長上に、意識が別様でありうる状態に到達することは一般にはできない。意味として理解できるが、経験できないことは、可能的経験の範囲から、とりあえず除外してよい。これは経験の遂行-経験の予期の対関係での可能性である。
 学習と発達にとって決定的なのは、この第三の可能性という語に含まれた、二種類の能力の形成のモードである。足し算のような規則習得の場合、2,3の事例を解いてみれば、あとは類似した事例であれば、まずすべて解けるだろうという予期が成立する。この予期に対応するのは、やればできるだろうという事態であり、またそのことの実行可能性を支える能力である。2,3の事例を解くことは、解くことの可能性を形成する。つまり能力が形成されたのである。最初に例題を解き、一つ一つの局面をたどたどしく通過していくいときには、試行錯誤が含まれている。こうした手順をいくつか反復的に経ていくと、規則にしたがうさいに、規則にしたがうこととともに、規則にしたがうとはどうすることなのかの原初的な理解が獲得される。すなわち規則からはずれることの可能性も獲得される。規則に合わせられないことと、規則から逸脱することは別のことである。この原初的な理解が、能力への気づきである。この理解が生じたとき、規則習得の行為とは異なる場面で規則運用がなされる。しかもこの移行はすみやかに起こる。人間の経験の基本線は、ある経験を行うと同時に、その延長上に「可能的経験」の領域が形成されることである。あるいはある経験の獲得は経験の可能性の獲得でもある。こうした事態があるために、カント哲学の「経験の可能性の条件」という発想が成立している。だがカントは可能性を論理的外延と考えたために、類似した経験の無限集合というような可能性の範囲を考えてしまった。つまり質的に類似した経験だけを定型化することになった。
 これに関連して、伝統的な学習のジレンマと呼ばれるものがある。学習を知的操作能力の形成だと考えると、そもそもそうした形成能力がなければ、学習は成立しない。しかしそうした能力があるのであれば、わざわざ学習によって誘導する必要もないはずである。能力がなければそもそも、学習することさえできないが、能力があれば、わざわざ学習は必要がない。この見通しは古くから抱かれており、自由放任の論拠ともなっている。また無作為的な治療の前提ともなっている。治るほどの能力があれば、環境内にほっておけば治るという、およそ現実離れした大前提である。このタイプの問題の形式化は、何かを語っているように見えながら、言語的に表現されたことほど、重要で深刻なことが語られているわけではない。学習のなかに、能力そのものの形成のような発達の部分が含まれているだけである。この能力をあらかじめ前提される学習の構造的な基礎だと考えると、先ほどのようなジレンマが生じる。しかし人間の場合、能力は生得的に備わった基礎のように考えることはできない。むしろ能力は、開発し、組織化し、展開し、具体化するのでなければ、たんなる形式的可能性である。そして能力の形成こそ、それにふさわしい学習が必要になる。一切の学習以前に想定される生得的能力は、人間の場合決定的でも全面的でもなく、学習をつうじてどの程度の能力を形成できるかがポイントになる。後に展開可能な能力があらかじめ備わっているはずだ、という生得性の主張は、言語能力が遺伝的に決定される、数学的能力も遺伝的に決定されるというような主張につながりやすい。能力の基盤という発想はどこまでも構造主義的である。
 もう一つの決定的なモードは、たとえば自転車に乗れるようになるさいに、重心の位置取り、重心移動、体勢感覚の移行の感じ取り、足を自転車の反対側へ運び、自転車の傾きを中央に戻し身体を重力に垂直にバランスを取るような複雑な動作である。これはかなり複雑な動作であり、成功裏に遂行されるまで試行錯誤が必要となる。だが2,3度成功裏に遂行される手順を踏んで数日立てば、あの当初の困難さがどこかに行ってしまったように苦もなくスムースに乗れるようになっていることに気づく。このときすでに「行為図式」が形成されている。行為図式が形成されてしまえば、個々の動作はまったく別のものになる。試行錯誤の一つ一つの身体手順から、健常者であれば通常おのずと行為図式が形成されてしまう。この局面が、行為の実行可能性の予期である。この可能性に対応させて、実は意味的に「行為図式」を語っているだけである。動作の習得の局面と、その先の行為図式の形成の局面は、身体行為の組織化の段階が異なる。しかもこの段階の移行もきわめて速やかに起こる。
 この事態の派生形として、団体行動のなかで、行為の予期が異なる回路で提供されることがある。つまり誰かができれば、やがて皆ができるようになるような雰囲気が形成される場面での「できる」という事態がある。この場合は一人出来るようになれば、多くの人にとってはなんとなくどうすればよいかがわかる場面である。体操競技でも難度の高い新たな技が開発されれば、やがては多くの人が模倣し、できるようになるだろうと感じられる。この可能性の場面は、相互行為からの学習をつうじた能力の形成にかかわっている。このことを極端に延長してみると、誰か一人少なくとも1回だけでもできれば、いずれは皆できるようになるだろうという意味での可能性があることがわかる。誰かが実行したとき、その経験の内実は直ちに変わる。そして誰にとっても、自分ではじめて踏み出した経験をもつことができるのである。
 これらに関連して、ヴィゴツキーの「最近接領域」理論にもさらに細かな区分が必要であることがわかる。[9]ヴィゴツキーの最近接領域は、現時点では実行できないが、親や教師の助があればできるようになる可能性の範囲のことである。定義としてはそう設定されているが、定義の本性上、これが「伸び白」にかかわるもっとも外側の規定であることは避けようがない。実質的には、半ば成功し半ば失敗する局面、半ば正解となり半ば誤謬となる局面のことである。ほとんど成功や正解の見込みのない事象は通常時期尚早と呼ばれ、これと対極的にほとんどの場合成功、正解できてしまう事象は、もう終っている課題である。ここに成熟プロセスのタイミングの問題がある。だがタイミングの幅は相当大きい。母語の習得であれば、一歳半から一二歳ぐらいまでで、一二歳を過ぎてしまえば、さすがに言語はもはや身につかないようである。[10]これを「臨界期」という。臨界期のなかで、なお課題に直面できる時期が「最近接領域」である。だがこの局面は、かりにあるにしろ、速やかに通り過ぎられていくはずである。というのも成功もしくは正解した事例を2,3度反復的に重ねれば、原則「できる」という局面に移行するからである。最近接領域は、組織化の分岐点のような場面であり、ここではたんに成功すること、正解を出すことが要求されているのではない。一度も失敗もなく、間違いのない学習を、ほんとうに学習だというのだろうか。失敗や間違いは能力の形成には欠くことができないが、そこに成功と失敗の違いの感触、正解と間違いの違いの感触が獲得されていなければ、能力の組織化へと進んでいくことができない。
 こうして「プログラミング」と呼ばれる事態に何が必要かについて、大まかな察しがつく。プログラミングは、普遍関数の設定のようなものではない。原理、原則を身につけそこから具体的な事態を導出するようなものではない。これでは失敗や間違いは、たんなるミスである。また必要条件としての基礎的な要件を確定し、そこから基礎を何度も反復的に活用するようなものではない。基礎として確定されているものは、行為で作動しているプログラムを記述に含まれている論理形式へと翻訳した投射態にすぎない。比喩的にわかりやすく言えば、行為では運動性の認知能力として大脳基底核、小脳が関与しており、運動制御として運動野、補足運動野、認知的情報管理として頭頂連合野が関与している。ところが論理的基礎と呼ばれるものは、これらの働きを大脳皮質のごく一部に投射・縮減したものになってしまう。また学習のなかに含まれる「反省」機能は、ほとんど組織化には効果がない。反省的に自覚することは、一歩踏み出すことに代えて、踏み出さない自分自身を意味づけることである。少なくとも学習のなかに含まれる知的隠喩では、プログラミングの内実をうまく語ることができない。
プログラミングすることになかには、少なくとも訂正能力と調整能力が含まれる。行為には一まとまりの区分がおのずと形成され、それらが連動するが、それぞれの接続の局面では選択肢が入る。これらがスムースに進むのは、ひとつの行為は同時に次の行為の予期を潜在的にもっているからである。フッサールの時間論をパラフレーズすれば、現に行為がそれとして遂行されるさいには、その遂行への気づきと、同時に次の行為への予期が働いている。また慣れた選択とは異なる選択がなされたとき、経験はおのずと自在さを拡張する。慣れた選択肢以外にものに躊躇があれば、その別の選択を繰り返し事前にイメージすることで、行為の予期を形成することができる。心理学でしばしば「想像力の欠如」と呼ばれるものには、多くの場合この予期能力の欠落である。これらを組み込んだプログラムの形式をあたえようとすると、現時点で人間の獲得してきた知的成果ではほとんど間に合っていないことがわかる。なによりもこのプログラミングを考えるためには、人間の言語形式が大幅に妨害になっているようである。人間の本性に達するためには、どこかで人間であることを一時的に括弧入れする必要がある。だがこの括弧入れは、どうやって人間まで帰って来ることができるのかの保証がまったくない括弧入れとなるのかもしれない。


1、ブレイクモア、フリス『脳の学習力』(乾敏郎他訳、岩波書店、二〇〇六年)二章。
2、アラカワ+ギンズの場合、物が何であるかは決まらない構想であるため、知るということのなかに働いている位置を占めるという行為が優先されている。『死ぬのは違法である』(河本英夫、稲垣諭訳、春秋社、二〇〇七年近刊)
3、酒田英夫他『頭頂葉』(医学書院、二〇〇六年)3章。脳機能の働きが、サーキット様に提示され始めており、脳機能部位の特定からわずかずつだが変化が見られる。
4、ピアジェ『知能の誕生』(谷村覚・浜田寿美男訳、ミネルヴァ書房、一九七八年)探索行動の観察、分析、解明の典拠になった仕事で、多く追従者と批判が現在なお続いている。たとえばマーカス『心を生みだす遺伝子』(大隈典子訳、岩波書店、二〇〇五年)参照。
5、たとえばウイング『自閉症スペクトル』(久保紘章他訳、東京書籍、一九九八年)、また小林隆児『自閉症と行動障害』(岩崎学術出版社、二〇〇一年)、山岡恵美「SWの成育歴」(パーソナルデータ)。
6、プッシーニ、ペルフェッティ『子どもの発達と認知運動療法』(宮本省三、沖田一彦監訳、協同医書出版、二〇〇〇年)。顔の図の原型はこの著作から取り出しており、図版の制作は、橋本岳氏による。また模倣動作や自画像を描くような高次動作では、たとえ本質直感が形成されていても、なお別の難題が多く発生してしまう。ヴィゴツキー『子どもの心はつくられる』(菅谷洋一郎監訳、新読書社、二〇〇ニ年)参照。
7、スミス『ことばから心をみる』(今井邦彦訳、岩波書店、二〇〇三年)2章。
8、岩村吉晃『タッチ』(医学書院、二〇〇一年)この時点で、サルでは第五体性感覚野まで明らかになっている。
9、ヴィゴツキー『「発達の最近接領域」の理論』(土井捷三、神谷栄司訳、三学出版、二〇〇三年)。
10、ジャッケンドフ『心のパターン』(水光雅則訳、岩波書店、二〇〇四)パートIII参照。

(かわもとひでお/システム・デザイン)

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