1 二重作動(ダブル・オペレーション)
オートポイエーシスは、当初マトゥラーナ、ヴァレラによって提起されたシステム論の最新形である。だが提起された機構には数々の謎が含まれている。それは機構の不備というより機構の定式化の限界にかかわる謎であり、その地点で複数の選択が生じてしまう謎である。そのためこの定式化がどこか理解できないか、そもそも理解ということとすれ違ってしまう感触をあたえることもある。だがオートポイエーシスの外形は、極めて単純である。それはオートポイエーシスの定義的構想からは予想もできないほど、単純な形をしている。入り組んだ仕掛け人形の仕掛けだけをひっくり返して取り出すと、あっけないほどの単純さに驚くことがある。この驚きの場面にどこか似かよった印象がある。おのずと生成するシステムであるオートポイエーシスの外形には、いくつかの必要条件となる前段階がある。
たとえば水溶液内で、なんらかの理由で結晶化が突如開始されたとする。これは相転移の一つである。というのも溶液内の分子が一定の配列を取ったとき、そこから結晶化が始まることも、再度分子が離散していくこともある。そのため論理的確率でどちらが起きてもおかしくないとき、どちらか一方に決まるさいには、たとえそれが偶然によるものであっても相転移となる。ひとたび結晶化のプロセスが進行すれば、通常継続的に結晶化が進行する。このとき結晶化のプロセスが次のプロセスの開始条件となるような事態が生じている。生成プロセスが次の生成プロセスの開始条件となるように接続した生成プロセスの連鎖というのが、オートポイエーシスの前世代である自己組織化の最小必要条件の定式化である。
オートポイエーシスの外形
この定式化には、運動の継続の機構が含まれている。それはあるプロセスが次のプロセスの開始条件となるという場面である。生成プロセスをデジタル的な要素単位として設定できるのは、あらゆる行為には、中断すると別のものになってしまうようなひとまとまりの単位があるからである。たとえばまばたきを途中で止めてみる。するとそれはまばたきの途中ではなく、たんなる顰め面になる。中断したのでは別のものになるひとまとまりの単位が、作動の単位である。おそらくこれは単純な落下運動にも拡張可能である。[1]
生成プロセスは、同時に結晶を析出する。結晶は生成プロセスの継続からみたとき、プロセスの継続の外へと析出される。生成プロセスの継続という運動と、それに付帯する物質が分離する。この事例をマクロにみると、結晶化は生成プロセスから結晶を作り出す産出過程のように見える。ところがミクロに見れば、生成プロセスが次の生成プロセスに接続することに同時並行して生じる事態が、結晶の析出である。結晶そのものは、プロセスの接続の副産物だと言ってもよいし、同時産物だと言ってもよい。だがここにはプロセスが継続するなかで、このプロセスの継続とはおのずと異質な過程が同時に出現し、進行していることがわかる。この局面が二重作動である。作動は持続の単位である。そして持続の延長上に時間が獲得される。運動と物質の間の相互に外的になっていく二重作動が、オートポイエーシスの外形に含まれる第一の機構である。
二重作動を現行の化学反応式で書き表すことは無理である。二重作動は、作動の継続がおのずと同時に他なるものへとなっていくための必要条件であり、現実が多様化するさい、個物に分岐が生じるときにはどこかに二重作動が見出されるはずである。二重作動は、ある行為を行うことが、同時に別のことを実行していることであり、みずから自身を差異化するような、それじたいの差異化とは異質な作動である。また生成プロセスから結晶が生じるような場面は、伝統的には産出的因果と呼ばれる。産出的因果は知覚できないし、原因‐結果の繋がりに必然性を見出すこともできない。マッチを擦って火がつく場面を想定してみる。運動が火に転換している。これが産出的因果である。プロセスと結晶は質を異にし、質の異なるものの間の変換を知覚する能力を人間はもち合わせてはいないのである。実際水溶液から結晶が析出してくる場面を知覚することはできるが、透明な水溶液中から物質が出現してくるプロセスそのものを知覚することはできない。これは空間内にないものが突如空間に出現するプロセスを、知覚することができないのと同じである。出現した結果を空間内に判別することはできる。だが空間を横断するプロセスそのものを知覚することはできない。そのため生成プロセスから結晶が生じても、生成プロセスは現実に進行したが、それとは別の理由で結晶が生じたという可能性を最後まで払拭できない。実のところヒュームが『人間本性論』でしきりに懐疑を向けた産出的因果は、二重作動を因果関係になぞらえて無理に定式化したものである。
オートポイエーシスの外形に含まれる第二の機構は、プロセスの継続をつうじて析出された物質が、再度生成プロセスに関与する場面である。通常フィードバックと呼ばれる。プロセスの継続から廃棄され、外的になった物質が再度プロセスに関与するさいには、外的になったものとの因果関係が形成される。これが再帰的相互作用と呼ばれる。その場合生成プロセスの速度が加速したり減速したりする。またこの物質が自己触媒と呼ばれる。ところが析出した物質が、すべてフィードバックループを描いてプロセスに関与しているのではない。物質の一部だけが関与しているのかもしれない。通常は特異な反応特性をもつものだけが触媒となる。とするとプロセスから析出された物質のどの部分であれ、次にみずからを生み出したプロセスに関与するものと、そうでないものとの区別が、プロセスの継続という点でおのずと出現する。プロセスから見れば、プロセスの継続をつうじて同時に物質間におのずと区別を行っていることになる。また物質からみればプロセスへと再度関与し、プロセスへと巻き込まれていくものと、プロセスとはまったく疎遠なものとに分岐する。この分岐は認識による区分でもなければ、運動一般に適用される差異化でもない。運動に対して外的になった物質が再度運動にかかわるさいおのずと進行してしまう分岐である。
こうしてみると自己触媒を自己言及的だと定式化することが、ひどく荒っぽい扱いであることがわかる。本来同じ自己に自己が関与する事態は一度も起きていない以上、自己言及は事態を見誤る近似であった。事実どのようなものであれ自己関与においては、関与が生じるさいにおのずと同時に関与するものと、そうでないものの区分が進行する。そのため自己関与をつうじて自己そのものが変化する。
ここでは物質のプロセスへの再帰的相互作用と、物質の区別という異なる作動が同時進行していることがわかる。これは二重作動の発展的な形態である。プロセスは、作動を継続しながらおのずと区別を行うのであり、作動の継続が「すなわち」区別であるという事態が出現している。この「すなわち」の関係は、論理的な前提‐帰結、原因‐結果、条件‐派生のようないかなるカテゴリーにも帰着することができない。異なる事態が「すなわち」の関係で接続される場面では、事柄はつねに二重になり、それによって作り出される世界はつねに二重化する。この二重化は、認識論的な主観性から見れば、質の異なる出来事が同時に進行していることである。たとえてみればみずからの行っていることが、つねに同時に別様のことを実行しているのに近い。こうした喩えしか出せないところが、現状の経験の限界である。
さらにオートポイエーシスの外形の第三の機構になるのは、生成プロセスの継続が、どこかで出発点付近にあるプロセスの開始条件になる場面である。このときプロセスの継続は一貫した円環的回路を形成し、自動的に進行する反復的な生成過程となっている。自己組織化の最小必要条件である、生成プロセスが次の生成プロセスの開始条件になるように接続しただけの生成プロセスの連鎖では、いまだ生成プロセスはただ線型に並んでいるだけである。たとえば生成プロセスを矢印で書いてみる。矢印の先端から次の矢印を書く。こうして矢印の先端と次の矢印の末端がわずかに重なりながら、どこまでも矢印を進めてみる。だがこれは自動的に進行するプロセスではあっても、それじたいで自己と呼べるほどのまとまりをもたない。つまりみずからで組織化を行うプロセスではあっても、自己を形成しはしない。ところが円環的な生成プロセスの連鎖が形成されると、途端に事情が変わる。前へ前へと進んでいた矢印が大きく円を描いてどこかの矢印の末端に接続する。そうなると自己組織化の過程に突如不連続な飛躍が生じる。そこにプロセスの継続をつうじて、おのずと自己と呼ぶべき閉域が形成される。
この局面に相応しいのは、反復のみられる化学反応である。やはりベロウゾフ・ジャボチンスキー反応が好便である。何種類かの溶質と試薬を攪拌すると、溶液の色が、赤、青、赤、青と周期的に変わる。この反応の骨子だけを取り出すと、硫酸性溶液のなかでマロン酸が酸化していく過程で、触媒として入っているセリウム・イオンが三価と四価の間を往復する。これが溶液の色の変化となって現れる。[2]この往復にはどこかで繰り返し出発点へと戻るような周期回路が出現している。円環的プロセスの形成はおのずと閉域を形成する以上、いたるところに不連続性を生じさせる。また閉域とその外は写像変換が効かず、いたるところに非対称性を出現させる。
ドゥルーズは、円環を閉じた秩序として批判を加え続けている。[3]それは円環のイメージをアリストテレスの永久運動で設定しているからである。天体の運行のように出発点も終わりもなく、手段と目的とが合致しているものは、アリストテレスでは永久運動となる。ひとたび円環が形成されれば、それは自動継続する秩序である。こうしたイメージで円環を設定しているためにドゥルーズはおりに触れ円環を批判する。類似した主張がカオス理論の言う「秩序の制圧」にもみられる。ところがこの円環は、解除することもでき、また再度立ち上げることもできる。しかも無数の円環が内部を交差させながら無数の不連続性と非対称性を形成することもできる。
この段階で二重作動は、再度新たに多様な局面に入る。円環的なプロセスでは、作動の自動継続がすなわち自己の形成である。これは行為の継続がおのずと自己を形成している場面にも見られる。初めて自転車に乗ることができるようになったとき、ただ闇雲に行為の継続を図っていただけでも、そのことによって新たな身体体制は形成される。ここが行為の継続がすなわち自己を形成する場面である。行為の継続は、ただ継続が実行されているだけであるのに、繰り返し自己を形成する。つまり初めて歩き始めた幼児のように、歩くことがそのつど自己の形成になっているために、二度と同じ一歩を歩くことができないのである。
これは差異化によって次々と差異が作り出されるという概念操作に近い事実を言っているのではない。むしろ歩くごとに自己を形成しているため、そのつどおのずと退路を断っているのに近い。またこれは同じ基準、同じ情感、同じ情動にしたがって自動運動を繰り返すことで、進行に進行を重ねても自動的に閉鎖性が出現する、というのとも異なる。一般に感情は、同じ動きを繰り返す。これを反復という。感情は、何に向かうわけでもなく、またその運動には終わりがない。目的も到達点もさらには運動の理由もなく、しかも運動をいくら繰り返しても別のものになることはできない。感情はどこまで行っても感情である。達成することのできない運動は、ヨーロッパの伝統から見れば、一種の欠如態である。この反復は、反復そのものをつうじて感覚や思考のような別のものになることができない。反復するごとにそれじたいは微妙に差異化していくが、この差異化をいくら繰り返しても、感情は別のものになれないのである。
またここでは運動の継続がおのずと自己を形成するのであって、概念的に自己を自己に関連づけているのではない。カントの内的目的では、自己が自己に関連づけられるような機構が考えられている。カントでは第一に、部分はその現実的存在および形式に関して全体に関連することによってのみ可能となり、第二にすべての部分が互いにそれぞれの形式の原因にもなり結果にもなるという具合に結合して、統一された全体性を形成する――こう定式化されている。これは部分-全体関係にしたがう概念規定である。一読して分かることだが、ここには運動の継続の機構が欠けている。そのため部分と全体との概念規定から閉域を設定していることになる。これに対してオートポイエーシスの第三局面では運動の継続が、すなわち自己が自己に関連づけられる機構となっている。カントに欠けているのは、有機体に見られる運動の継続の機構である。
またこの局面では、作動を継続することがすなわち境界を区切ることである。円を描くように走り続けてみる。走り続けることが、同時に境界を区切ることである。走り止めばこの境界は消滅する。運動の継続が同時に境界の形成でもある。しかもこの境界は、円を描いて走り続けるたびに変動する。この境界の変動は、カオス理論で描くのが相応しい。カオス理論は、たとえば雨が樋を伝って落ちるさい、一定流量で落ちないことを明らかにしている。雨は樋の端であるとき大量に落ち、またしばらく溜まり、そしてまた大量に落ちるということを繰り返している。こうしたタイプの非周期的、非規則的な変動が、境界を形成するたびに起きていると予想される。
オートポイエーシスの外形の第四の機構になるのは、円環をなすプロセスのそれぞれにおいて産出される物質が、一定の関係をなす場合である。それぞれのプロセスでは、次のプロセスの開始条件となるとともにプロセスの外に物質を産出している。これは第一段階の機構である。これらの物質が、物質間の親和性、位置、配置によって擬似恒常的な関係を形成する。そしてこの恒常的な関係が、かえってプロセスの継続を支えることになるのが第四段階である。ここでは運動と物質との間の相互に他方を支える循環的な関係が出現している。ここでは二重作動は循環的関係に変貌している。運動が物質を産出し、物質は再度運動を作り出す。たったそれだけのことである。この場合、物質間の恒常的関係が構造と呼ばれる。この構造は緩やかなもので、構造の一部の要素が変異した物質的要素に置き換わってもよく、要素間の関係に組換えが起きても良い。ただしそれにも限度がある。この限度を決めるのが、作動の継続である。どのように変異した物質的要素であろうとみずからを産出したプロセスを再度作動させることができるという点がそれである。この段階が原始的な細胞である。ここで最小限のオートポイエーシスが出現している。
現実の細胞の形成にともなう物理的生成過程としては、おそらく物質の塊が境界を形成して、内外の区分を行う段階がある。この場合内外の浸透圧の違いを利用して、膜の境界の内側に集中的に様々な物質が取り込まれる。これらの物質がなんらかの代謝過程を行うようになったと想定される。[4]その場合でも代謝過程のなかで構造は形成される。当初の膜は、構造を形成するための素材の集積に必要だったであろう。この塊が成長しようとすれば、膜そのものを拡大しなければならない。そのさい膜が一貫して拡大されるためには構造の内的拡大が必要になると予想される。
オートポイエーシスの外形の第五の機構となるのは、円環的プロセスの各段階で産出された物質が、物質的な親和性によって外界の認知を行うようになる場面である。物質はみずからを産出したプロセスを再度作動させるだけではない。それぞれの固有性によって構造を形成するとともに、構造外の物質を感知する。システムの作動を継続するとともに、作動のなかで外界を感知するようになる。この場合物質の働きに、作動の継続と感知という二重作動が出現している。これは免疫システムや神経システムで実現されている。
この場合典型的に、次の問題が生じる。システムの作動に変化が起きたとする。たとえば特定の免疫細胞が一挙に増大したとする。これは通常外界の異物を感知してそこに変化が生じたと考える場面である。ところがシステムはそれじたいで作動を継続しているのであるから、作動の継続だけでも変化しうる。かりに特定の免疫細胞が一挙に増大したとして、それが外界の異物の感知によって生じたのか、外界の異物は確かに存在するが、それとは独立にシステムそれじたいの作動によって変化が生じたのかを区別することができなくなってしまう。ここでは二重作動が、内在的な未決定性を引き起こしてしまう。神経の場合も同じことが起こる。窓の外の風景を見て、眼を閉じて先の風景を想起する。もう一度窓の外の風景を見る。このとき見えている風景は、外界の感知によって見えているのか、想起によって見えているのかを最終的には区別できないはずである。
それとともにシステムの作動を伴わない感知はなく、感知にはシステムの作動が同時に関与していることになる。つまり感知を行うことは、それじたい一種の運動であり、運動することが一種の感知であるということが起こる。運動と感知が二重に進行し、これを統合することも一方から他方を導くこともできない。この段階の個体を、ライプニッツはモナドと呼んでいた。[5]
オートポイエーシスの外形には、以上の五段階が含まれている。第一に生成プロセスの継続と物質の産出の同時進行であり、第二に生成プロセスの進行とそれに関与する物質そのものの区別であり、第三に生成プロセスの連鎖がプロセスのどこかに回帰することをつうじて、プロセスの継続と閉域の形成が同時に進行することであり、第四に産出的なプロセスの継続と、歳出された要素からの構造の形成であり、第五にプロセスの継続と産出された物質による感知の機能の出現である。こうした外形の規定は少々入り組んでいるものの、経験に一切の無理を課すことなく行うことができる。それが外形ということの特徴でもある。オートポイエーシスの外形とは、五段階の二重作動の複合体である。外形としてみれば、オートポイエーシスはたんに二重作動の複合体にすぎず、どちらかと言えば平明で単純な姿をしている。二重作動の複合体の細部は、実験的にいくらでも詰めることができ、また細かな争点を競って細部を明確にすることもできる。またさらに高次の二重作動形態は、派生的にいくらでも導くことができる。それはすべて経験科学の課題である。ただそれだけのことである。外形についてこうしたコンパクトな規定ができるのであれば、マトゥラーナ、ヴァレラによって定式化され、ルーマンによって普遍化され、さらに今日なお展開され続けている、あの構想の不透明さはいったいどこからやってきたのか。
謎はどこから
このシステムの構想の謎を取り出してみる。そこには外形から導き出すことができるものと、外形そのものの限界にかかわってしまうものが含まれている。ちなみにオートポイエーシスの最新の定式化は、次のようなものである。「オートポイエーシス・システムとは、反復的に要素を産出するという産出(変形および破壊)過程のネットワークとして、有機的に構成(単位体として規定)されたシステムである。(1)反復的に産出された要素が変換と相互作用をつうじて、要素そのものを産出するプロセス(関係)のネットワークをさらに作動させたとき、この要素をシステムの構成素という。構成素はシステムをさらに作動させることによって、システムの構成素であり、システムの作動をつうじてシステムの要素の範囲(自己=Sich)が定まる。(2)構成素の系列が、産出的作動と構成素間の運動や物性をつうじて閉域をなしたとき、そのことによってネットワーク(システム)は具体的単位体となり、固有領域を形成し位相化する。このとき連続的に形成される閉域(自己=Selbst)によって張り出された空間が、システムの位相空間であり、システムにとっての空間である。」[6]
まず信じられないのが、この定式化の外形が、先の二重作動の複合体になるという事実である。起きていることは、おそらく表から見た図柄を透視画を見るように裏から見る、ということではなさそうである。あるいは靴下を裏返してみるということでもなさそうである。そうなると外形という設定のどこかに無理がきていると予想される。それにしてもこの定式化は悪文である。人間の書く文だとは思えないほどの悪文である。たぶんこの悪文を引き受けなければならないほどの事情が内在していると思われる。それをほぐしてみようと思う。
第一に結晶化の場合、生成プロセスの接続は運動であり、析出される結晶は物質である。運動の継続の回路と、物質化は異なる事態である。しかもどちらか一方を他方へと解消することはできない。これは基本的には、運動と物は相互にいっさい還元が効かないことに由来する。運動をとらえようとすれば、この運動は何かの運動である以外にはない。この何かは運動の前提ではあっても、運動のなかに組み込むことも解消することもできない。もちろん逆に運動を物性に還元することはできない。直線運動と円運動の違いを物性の違いから説明することはできそうにない。運動と物質の繋がりは偶然的である。落下運動の場合、ミカンが落ちても棚からボタ餅が落ちても、運動に本質的な変化はなく、また物性から特定される運動もまずない。その点で運動と物質は相互に外的だが、相互に他を不可欠とする。そうすると逆に物質の特性と運動の特性を任意に接続することのできる余地が残されていることがわかる。相互に決定性のないものに任意のつながりを想定することはでき、これは赤、青、黄に逆円錐、球、台形を対応させるようなものである。そのため円運動を行うことのできる物質は、天体に固有の物性をもち、地上の落下運動を行うことのできる物体は、天上の物体とは異なる物性をもつと主張することもできる。実際ヘーゲルが自然哲学でそうした主張をしている。アリストテレスの枠組みをヘーゲルはそのまま活用しているように見えるが、実のところヘーゲルが活用しているのは、運動と物質の間の相互外在性である。相互に外在するものを任意に接続することによって、奇妙ではあるが反証しようのない記述をヘーゲルは作り上げている。少なくとも否定はできそうにない。つまり肯定も否定もできない広大な領域がある。ここが第一の謎の発生場面である。運動と物性との関連の任意性のなかに放り出されているために、何がまともな議論で何が奇妙なものであるのか、にわかには判定できない事態が起こる。もとより現行の経験科学と整合的かどうかは、いかなる判断基準にもならない。
ちなみに二重化という事態は、歴史上繰り返し問題になってきた。絶対者の現れという問題を立ててみる。絶対者は、それ自体でまるごと現れることはできない。絶対者の現れは無限の絶対者自身が作り出したひとつの有限の自己表現である。そのため絶対者とその表現は統合されることはありえず、また絶対者はそれとしてすべて現れることはないのだから、絶対者の表現はやむことがない。つまり統合されることもなく、やむこともない二重化が進行することになる。ロマン主義の時代にみられた二重化の定式化のひとつであり、これをメニングハウスが『無限の二重化』と呼んだ。[7]この二重化は、絶対者という極限的存在に依存している。これに対してここでの二重作動は、どのようにささやかであっても世界のいたるところに二重化が進行することを主張している。しかもそれは世界の多様化をもたらす基本なのである。
第二に生成プロセスから産出された物質が、生成プロセスに関与することによって生成プロセスに巻き込まれると同時に物質に区別が生じる場合、この巻き込みで起きていることはただの循環ではない。巻き込まれることが同時に、巻き込まれるものとそうでないものとの区別なのだから、巻き込みによってはじめて巻き込み運動を行っている当のものがそのつど決まる。これはあらかじめ確定された自己が運動の循環に巻き込まれていく場合とは異なる。ハイデガーが言語への問いを発するとき、この問いそのものも言語で行われているのだから、言語の本質について語ろうとすれば言語の内へと巻き込まれていく以外にはないという循環の定式化を行っている。[8]この場合主体が循環に巻き込まれるのである。確保された自己である主体が循環に巻き込まれ、循環のなかで経験が進んでいく。ところが巻き込み運動によってはじめて自己が形成される場合には、こうした解釈学的循環の一歩先で生じる事態が問題になっている。巻き込まれていく運動のなかで形成されるものが、自己(Sich)の由来である。このとき巻き込み運動とともに自己が形成されるのだから、自己の形成はつねにプロセスを経たあとに行われる。プロセスのなかにある経験は、どのように直観を働かせようとも、つねにすでにみずからの行為に遅れてしまう。どのような直観であれ、経験の行為に遅れてしまう。[9]これはシェリングの言う「先験的過去」の拡大であり、たとえ知的直観であっても行為には遅れるはずである。ここが第二の謎の発生場面である。
第三にプロセスの継続が、どこかで出発点付近にあるプロセスの開始条件になったとする。このときプロセスの継続は一貫した円環的回路を形成し、自動的に進行する反復的な生成過程となっている。円環的な生成プロセスの連鎖が形成されると、自己組織化の過程に突如不連続な飛躍が生じる。そこにプロセスの継続をつうじて、おのずと自己と呼ぶべき閉域が形成される。この閉域の形成をつうじて、まず観察者と、形成された自己とに、同じ事態に対して異なった対応が生じる。この自己の環境に酸素濃度の濃い場所があったとする。そしてこの自己が変化を開始したとする。この場合観察者は、酸素高濃度地帯とこの変化を関連付けて変化を説明することになる。ところがこの自己はよほどのことがない限り、自分自身と酸素高濃度地帯とを関連づけるような視点をとることはない。つまりこの自己は、観察者が判別しているようなこととは別のことを行っている可能性が出てくる。実際、より高次の細胞が高酸素地帯を避けて移動するさいにも、自分自身と高酸素地帯を関連づけて対応しているとは考えにくい。さらに、高次の擬態昆虫が環境の色と自分の肌の色を較べて調整しているとは考えにくい。ここが観察者(für uns)と当事主体(für es)の違いであり、外的視点と内的視点の違いである。ここまではヘーゲルが繰り返し用いている枠組みなので、あまり大きな問題はない。
ところで次にこの違いそのものは、観察者あるいは外的視点において判別され捉えられている違いである。違いそのものの認定は、あくまで観察者が行っている。だからこの違いを、観察者の枠組みのなかへ組み込み不可能なものとして位置づけていることになる。これを観察者の枠組みに生じた矛盾だと考えればヘーゲルに戻り、これを手掛かりにしてさらに認識が進む。ところがこの違いが観察者の枠組みと関連づけることができないようなものであるとしたらどうなるのか。それじたいで起きていることは、認識されていることとはつねに別様であればどうなるのか。これは、認識されていることは本当はつねに別の認識を必要とするかもしれないという懐疑的反省とは異なる。その典型的な事例が、先にも挙げた建築の隠喩である。一三人の職人を集め、設計図も見取り図もレイアウトもなく、職人が偶然ついた配置場所から相互にどう行為するかだけを決めておく。その場合でも家はできるし、職人たちはいつ家ができたかを知ることなく家はできている。この事例に含まれるプログラムを、既存の枠組みの剰余として配置し、矛盾や齟齬を認めて、さらに先に進んでいくというわけにはいかない。この回路に一歩踏み出してみる。そうすると認識がつねに訂正されるだけではなく、またこの訂正が終わりをもたないのでもなく、まったく別様に経験を拡大することを迫られる。つまりそれを認識することは、経験そのものの新たな形成であるような場面に直面する。こうした場面で出現しているのが、そのものにとって(fur sich)である。ここまで来ると認識の訂正ではすまず、経験の拡大という認識にとっての任意性が出現してしまう。ここが第三の謎の発生場面である。この場面でどうすればよいのかについて確たる解答があるわけではない。このとき経験の作動にひとつのメルクマールを提供するのが、オートポイエーシスの機構であった。
第四の段階でプロセスの集合であるシステムとシステムの構造が明確に区分されて出現していた。プロセスの集合は、通常機能や働きと呼ばれ、物質の集合は定常的な関係があるとき構造と呼ばれる。システムの境界は、このためつねに二重化する。脳の境界と活動する意識の境界は異なり、細胞の活動の境界と細胞膜とは異なり、視覚の境界と眼の境界は異なる。機能的自己(Sich)と構造的自己(Selbst)はつねに位相差を含む。機能はみずからで位相空間を形成する。そのため通常の空間内にみることができない。思考という機能が見えないだけではなく、消化や循環という機能も見えない。これに対して構造は構造の要素の占める空間内に判別できる。胃や心臓は空間内に判別できる。また胃潰瘍で胃を切り取った人は、ひととき胃が構造的空白となるが、周辺の器官を作り変えて胃の代用品を作り出していく。つまり構造は組換え可能である。とすると機能から組み立てていくシステム論が成立することがわかる。ルーマンがこの回路を採用し、支払いを単位とする経済システム、コミュニケーションを単位とする社会システム等の機能システム全般を導入し、システム論を普遍化することができた。
細胞内のタンパク質は一定の構造をなしているが、平均一〇〇日程度で消費され新たなタンパク質に取って代わられる。このときまがい物のタンパク質が作られても、このタンパク質がシステムの機能を維持するのであれば、システムの要素になることができる。物質的要素は、それぞれ独立の個別的な単位であり、二重作動の一方として生じる物質が運動の継続に寄与するかどうかで、物質にはつねに選択が働いている。この選択には生成プロセスから必然的に同じ物質が作り出される保証がなにもないことがわかる。つまり物質は任意の変化を帯びて良い。この変化のなかで作動の継続に資するものは、どのように異様な物質であっても、システムの作動に巻き込まれ、システムの新たな物質的な要素となる。だがこれが構造の要素として一定の要素間の関係を形成するかどうかは微妙である。ここには要素を繰り返し作り出すというシステムの本性によって、構造が組み変わってしまう可能性が含まれている。かりに既存の構造に接続できない要素が形成され、この要素の系列が新たに作り出されていけば、構造は全面的に組み変わってしまう。しかも生成プロセスの円環的接続には、いくつかの余分なプロセスが介在することもでき、また脱落することもできる。そのことによってシステムの作動のモードが変化することがある。システム全体が構造を組替えるとき、それがメタモルフォーゼである。
オタマジャクシがカエルになるさい、内臓系の働きさえ組替えている。排出される尿のなかの窒素を含む化合物の種類が異なってくるからである。システムの機能的な活動が維持されたまま、つまり自己(Sich)の連続的形成が維持されたまま、みずからの構造を全面的に組替えてしまう。無理やり言語表記すれば、みずからの活動を続けながらみずから別のものになる。このとき半分オタマジャクシで半分カエルという段階を通過するはずである。どうしてこんな危険なことをわざわざするのかと思えるほどである。川の水にほんのわずかの反応性物質が混入していただけでも、ただちに見慣れない異形が形成されるはずである。だがこうした回路に入り込んでしまうことが、システムの本性なのである。半分オタマジャクシで半分カエルという表記は、もはやないオタマジャクシとまだないカエルに関連づけて、かろうじて起きている事態を語ろうとしたものである。その場面でもシステムの作動は続いている。このシステムの作動をどの空間で捉えれば、捉えたことになるのだろう。これが第四の謎の発生場面である。
第五に荘子に渾沌の話がある。眼も耳も口もなく、およそ体に穴の開いていない男の話である。渾沌は、二人の客をもてなしたお礼に、この二人から体に穴をあけてもらう。七つ目の穴があいたところで渾沌は死んでしまう。ここからひとに無理やり穴を開けると、そのひとは死んでしまう、だから無為自然こそ重要だという主張が出てくる。だが渾沌はたんに穴をあけたから死んだのではない。渾沌に穴を開けた二人には、すでに穴が開いているのであり、穴のない渾沌は不自然だということで、渾沌に穴を開けようとしたのである。とすると穴のあけ方が問題である。つまりみずから自身でみずからに穴をあけるものは死なないはずである。
ところがこの場合、内から外に向かって穴を開けているのではない。穴があいていない状態の渾沌は、それを内からだと知ることはできない。いまだ外を見ることのできない渾沌にとって、自分が内であることを知りようがないからである。そのため穴をあけたとしても、それが内から外へと開いていくことだとは知らずに、それを行っているはずである。つまり渾沌の外にいる観察者からみて、内と外とがつながるように穴があけられると見えることは、渾沌自身にとっては別のことを実行していることになる。この段階で観察者から捉えている事態と、当人が行っていることが食い違っているだけではなく、両者を関連づけることもできないことがわかる。
みずからの行為をつうじて、みずからに穴をあけるとき、行為するものにとっては、いまだ内部も外部もない。穴をあけることをつうじて初めて内部と外部が生じ、それによって内部と外部との交流が生じる。穴とはまさにそこにないことによって、みずからの内を形成する境界のことである。こうして内部も外部もないものが、みずからの境界を形成することで、初めて内部と外部とを形成する。こうなると行為の基本形は、みずからの行為の継続をつうじて、そのつど自己を形成することになる。
開いた穴からは、光も空気も入ってくる。だから外につながるのである。だが穴を開ける行為そのものは、入ってくる光に対していわば垂直である。つまりこの行為じたいは真闇で行われる。みずからの行為をつうじてみずからを形成するものは、連続的に閉域を形成する。この閉鎖性では実のところ、伝統的な意味での開放性と閉鎖性の区別そのものが消滅する。
運動の継続をつうじて横へ横へと進んでいく穴を開ける作業を行うと、上方から光がそそいでくる。運動の方向性について、横へ進むことが上方へと通じる。このタイプのトリックをエッシャーが多用している。内側をどんどん進んで行くとおのずと外側に出ているというような場合も、さらに進めば内に戻る。循環性のあるものを、見かけ上線型の組み合わせ(前‐後、上‐下)で捉えると、前はすなわち後ろであり、上はすなわち下であり、内はすなわち外であるというような、論理的パラドクスを際限なく作為的に作り出すことができる。これ自体は現在では見え透いた技法である。というのも内から外へ、外から内へというとき、内外を観望する観察者からは何が起きているかをすべて対象化することができるからである。イメージを追加してみる。いま靴下に手を入れ先端をもって引き抜き、裏と表を半分だけひっくり返す。裏表が半分同居した図柄が生じる。同じようにして人間の口から手を入れ、十二指腸の末端をつかんで内臓をすべて表に出し、ひっくり返してしまう。このとき人間はどんな形をしているのだろう。内蔵が表に出て、手足はそのままの奇妙な人間の図柄が得られる。これらはすべて個物総体が観望された場面で描かれている。
問題になるのは、個物が観望され、内外が見分けられている対象ではなく、個物そのものを形成するものが、同時に個物の外へと出て行く場面である。内外の区別を行ったとき、この区別を観望する位置からは、内も外も知りうる。だから外から眺めた姿と、内から眺めた姿は異なっていることは容易に知りうる。そのため逆に外から捉えた視点を括弧に入れ、視点を内化することは容易である。これは毎日の日常でも、相手の身になって考えるというあり方で常日頃行われている。外から眺めた相手の状態ではなく、相手そのものの位置からどう見えているかを問うことは困難ではない。ところが内から外に出て行くさい、外が何であるかを知らず、内に対置される外があることを知らないものが外に出て行くときには、いったい何が起きるか。初めて形成される経験は、それによって経験を形成しているのであって、この経験を観望する視点をいまだもつことができない。部屋の窓から外の風景を見て、おもむろに外に出て行くような行為は、すでに窓の内外の区分を外から観望したことがある場合だけである。みずからの行為をつうじてはじめて内外を区分するものは、外が何であるかを知りようがない。にもかかわらず区分をつうじておのずと出て行ってしまうことが起こる。それがみずからで穴を開ける行為である。
現時点でこれに近い経験をするためには、荒川修作の作り出した岐阜の養老天命反転地の前庭にある「極限で似るものたち」が好便である。外見は小高い山のような塊である。内部は無数の仕掛けが設定されていて、上下がひっくり返ったり、進めど進めど元に戻ってしまったり、登ることはできるが降りることはできない迷路であったりする。これらの身体運動をつうじて経験は確実に形成されている。ふとした弾みでまるで迷うように外に出てしまう。そのときこの建物の外形を見ることになる。内部で形成したものと、外観で見るものとがあまりにも食い違いすぎ、ひと時収拾がつかない。経験を形成することと、その外形との間はどのようにしても対応づけが効かない。[10]
また次のような場面を想定する。当初オートポイエーシスを定式化したマトゥラーナ、ヴァレラに、先のオートポイエーシスの外形を提示し、あなた方の行ったことはこうした二重作動の複合体を、難しく語っただけですよと言ってみる。ヴァレラは死んだが、幸いマトゥラーナはまだ生きていて、彼らの寿命を縮めない程度の配慮をして言ってみるのである。おそらく彼らは何が言われているのかと当惑し、言われている内容をほとんど理解できないであろう。そしてこう言うであろう。それは私たちのやったこととは何の関係もないと。しかもこれは正しい主張なのである。この理解できなさは、構想を作り出したものが何故そういう構想になったのかがわからないという、分からなさではない。むしろ内外をまるごと見極めることができず、そのため内外の対応が付くということが何であるかが分からないのである。これが第五の謎の発生場面である。彼らの定式化したものとオートポイエーシスの外形が、内外の関係にあるのかどうか、そのことの最終的な保証は実は何もない。
現実のシステムは、それが作動を継続するものであり、それじたいでシステムになっていくのであれば、それを一義的に定式化することはできない。それだけではなくその全貌が何であるかを知ることもできない。それ自体で自己を形成しつづけるものを全面的に対象化することはできない。個体の全貌を外から眺め、個体の内外を見渡すことができないのは、そのためである。そこで行為するものをそれじたいで内的に直観するように描いてきたのが、オートポイエーシスである。だが行為するものはみずからを十全に直感することはできない。自転車に足を掛けて乗りながら、この行為そのものを十全には直観できないはずである。認識によっては届きようのない事態を、届きようのない限界点で描こうとしたのが、オートポイエーシスである。[11]この事態をひっくり返して裏側から描くと、そこに含まれている二重作動を何重にも取り出す作業になる。[12]現実には限界点において内的直感によって捉えられたものの必要条件を幾重にも組み合わせて、ここでのオートポイエーシスの外形を作り上げている。対象化しえない事態を、統合できなさに転化する技法が二重作動である。このときオートポイエーシスに含まれる自己産出性が、そのまま多様性の出現の機構となっているのである。
ダブル・アスペクト
このタイプの議論には、いくつか注釈が必要である。あらかじめ余分な誤解を取り除いておきたい。これは二重作動を既存の概念の派生体として配置しないためのささやかな配慮である。二重作動は、ものごとが観察者から見たとき、必然的に二つの面をもってしまうというダブル・アスペクトではない。経験科学的測定にしたがえば、運動はそれとして計量され、感覚はそれとして質化される。この両面をどちらか一方に帰着することも、還元することもできない。確かにそうである。だがこうなると測定のネットワークの剰余として感覚が処理され、感覚は、いわば運動にいやおうなく含まれる未決定性として、運動のなかに割り当てられるだけである。 未決定性とは、特定の測定系に依存した測定系以外の事象が介在するという事態の指摘にとどまってしまう。ダブル・アスペクトは視点の介在によって作り出される。特定の視点から割り当てられた剰余の指摘にとどまるのであり、たとえそれが解消不能なものであっても、視点の外部を指摘しているだけである。
特定の視点からみたとき、視点の剰余が生じるというダブル・アスペクトの指摘には、すでにうんざりするほど付き合ってきている。運動を、時刻と位置の指定という観点のもとで規定すれば、状態指定がなされるだけである。ところが動きつづけているものは、特定の状態にとどまってはいない。したがって状態指定を行ったのでは、運動そのものにも、生命の動きにも到達することができない。ベルクソンとその亜流が指摘する、生の汲み尽くしがたさである。こうした立論は、哲学史上「生の形而上学」と呼ばれたものである。[13]ここでは視点とその剰余という二重局面が取り出されている。ある視点からの認知や記述には、それじたいの限界の一歩先、つまり外部を容易に指摘しうる。だから記述的確定とその外部というダブル・アスペクトは、視点とその限界から生じている。現れているのは、視点への自己意識と、それの外部である。
だがオートポイエーシス/二重作動で問題となっているのは、運動とその剰余との「内的関連」である。内的関連とは、いかなる必然性もないが密接に連動するような事態である。しかもこのとき剰余は、視点によって生じたのではなく、むしろ二重作動によって運動そのものに、いわば張り付いてしまっている。オートポイエーシスでは、この局面がカップリングと呼ばれていた。カップリングは、二重の作動を行うものが、一方はシステムとなり他方は環境となってシステム-環境を形成し、必然的にカテゴリーを変えしまう形態である。
ダブル・アスペクトのもうひとつの典型例が、シニフィアン-シニフィエの分節に見られる。海という語には、umiという音のまとまりと、ひろびろとした一面の青を喚起する意味とが含まれている。だが音のまとまりと意味という質的にまったく異なるものが、何故接続しているのかと問うたとき、答えに窮するだけではなく、そもそも問いになっているのかという疑問が湧く。事実そうした接続はすでに起こってしまっているのであり、接続の生じる理由がいまさら必要とされているとも思えないのである。だがこの接続は、別段必然性のあるものでもなければ、この接続の生成のさいの十分なきっかけがあるとも思えない。こうした事態をソシュールは「対応恣意性」と呼んだ。音のまとまりがシニフィアンであり、意味がシニフィエである。[14]
精神疾患にしばしば見られるように、言語新作においては、特定の意味が張り付いているとみなせないものがある。医師にとって意味不明なだけではない。そもそも何かが意味されているとはみなせないようなものである。ここからラカンの言うシニフィエなきシニフィアンが生じる。このときシニフィアンは当初の音のまとまりではなく、すでに別のものになっている。もはや意味が介在しない以上、シニフィアンにはそれが語であるための最低限の要素が必要となる。おそらくラカンは意味以前のイメージのまとまりのようなものを想定している。だが発話行為という点で見れば、それは語の発話がひとまとまりとなる最低限の要素でよいはずである。意味の延長上に意味以前のシニフィアンを持ち出すまでもなく、語の発話の一定の勢いや語調があれば、発話行為はひとまとまりになることができる。この一定の勢いや語調を指標するものこそ、ガタリや花村誠一の指摘する強度である。[15]
シニフィアンとシニフィエのダブル・アスペクトの問題は、おそらく感覚質の間の接続という、より一般的な問題の派生系である。音は感覚質として、他の質に解消することもできなければ、他の質との関連で一義的に規定することもできない。たとえば音を、色や形に還元することはできない。そもそも質とはそうしたものである。また音をなんらかの特定の色や形と結びつける必然性はどこにも見当たらない。にもかかわらずなんらかの結びつきを形成しうる。ショパンの曲を聞きながら、理由のない確信で、クレーの「さえずり機械」の青と接続することはできる。[16]この接続には、必然性も十分な理由もない。だから逆に新たな接続の回路を次々と見出していくこともできる。この感覚質のうちに、イメージのまとまりの凝集態である意味を導入したとき、音と意味の間の対応恣意性は、ほぼ自明なものとなる。
個物のなかには、ほぼ例外なく複数の質が含まれている。ゴムの緑の葉には、フットボールの平面形であるあの形と、緑の色が含まれている。これらがつながる必然性は本来どこにもない。ちなみにゴムの葉を想起しながら、形だけを残して、緑の色を一〇センチだけ上方に浮かび上がらせてみる。形と色は分離可能なのである。だがそのとき上方に浮かび上がらせた緑の色はどんな形をしているのだろうか。感覚質を分析的に分離してみれば、必然的にダブル・アスペクトが生じる。感覚質はそれとして単独で取り出すことができ、理由のない仕方で他の感覚質とつながっているからである。だがこの場合、複数の質相互の外面性を捉える視点の同一性を欠くことができない。ちなみにオートポイエーシスでは複数の質の新たな接続様式を形成しようとすれば、この視点の同一性をあっさりと放棄して、行為へと入っていかなければならない。感覚質の間の繋がりを作り変え、それによって経験をどこまで形成できるのか実行してみる回路に入ってみるのである。たとえば緑の色に代えて音で置き換えたら、楕円に相応しい音は何か。あるいは味で置き換えたらどうなるのか。実際に新たな経験の回路に踏み込んでみるのである。このときダブル・アスペクトから二重作動への移行が何であるかが薄っすらと理解されるはずである。