000102.jpg


01.jpg
02.jpg
03.jpg
04.jpg
05.jpg

k002.jpg

フィードバックの罠

困惑するような事態が生じたとき、行為主体はそこに変化をもたらそうとする。ここでの問題の焦点は、行為をともなう変化である。自己言及の項の不眠の場合が、そうである。認知を介して行為をともなう事態の対処が、事態そのものを深刻化させる。そこに固有のシステムの作動がみられる。事態への対処の仕方がさらに事態を深刻化させる機構は、ワツラヴィクによって繰り返し記述されている。(1)変化をもたらすよう良かれと思って行った行為が、何一つ事態を変えることができず、さらに事態を悪くしてしまうのである。これは観察者が作為的にしでかしてしまったものではなく、認知をつうじた打開策が、実のところ変えなければならない局面をさらに深刻なものとするのである。ここにシステムのやっかいな特質が表れる。
ワツラヴィックは、ベイトソンと同様集合論(群論)と論理階型理論を用いて、集合の要素が変換するだけの第一次変化と、集合そのもののあり方を変えていく第二次変化を区分する。集合に群論の機構を導入しているために、要素が置き換わっても群の機構そのものが変化しない事態を想定することができた。かりにどのような変化が生じようともそれが第一次変化であれば、群が維持されてしまい、たとえそれが涙ぐましい努力であっても第二次変化をもたらすことができない。(2)
そこで変化させる必要のある問題はどのようにして生じるか。この機構が問われる。問題とは、対応そのものによって行為のネットワークのなかに作り出されてしまったものである。ここでは群論が比喩として用いられている。群論と言っても初歩的なものである。たとえばじゃんけんで異なる手が出れば、第三の手に移るという規則を作っておけば、じゃんけんの三つの手は群を成す。要素間の関係が、再度集合の要素にもどるとき、群が成立している。ワツラヴィックが焦点にしたのは、困難を解決しようとして問題を生み出してしまう機構である。このことを変化をもたらしても事態が変化しない、閉じた群に喩えたのである。
第一に生じた問題を、問題ではないと言って否定し、見かけ上の解決を得ようとするとき、つまり何らかの異なる行為が必要なときに、否認によって見かけ上の解決を得てしまう混乱である。この対処は、多くの場合困難の先送りであり、先送りされた困難はますます解きにくくなってしまう。防衛機構のなかでの否認の役割は、重要なものである。フロイトでは、無意識の欲求が意識に昇ることを抑える抑圧として意味づけられている。これをワツラヴィックは、システムの自己維持を図る行為に拡大している。別段難しい事が言われているのではない。かつてレインが描いた「共謀」のように、偽装された自己を相互承認することによってフィードバックする増幅回路が働き、そのまま安定してしまう場合である。(3)
ヨーロッパに笑えない笑い話がある。薄暗い街灯のしたで、落としたお金を探している男がいる。そこを通りかかった警官が事情を聞き、いっしょになって丹念に隈なく探す。だがいくら探してもお金は見つからない。とうとう警官は、落とした場所はどこですかと尋ねる。男はずっと向こうの暗がりで落としたのだが、暗すぎて探せないので、街灯の下で探していたのだと答える。これが笑えないのは、実際よく起こるからである。問題が生じている場面は別にありながら、そしてそのことを知りながら、 手っ取り早く対処できるところで、無駄な手を打つのである。
テネシー・ウイリアムズの『欲望という名の電車』では、主人公のブランチの偽装の維持に、妹ステラとその夫スタンリーがしばし協力する。(4)偽装であることに全員が気づきながら、偽装を維持するのである。良家の出自と美貌と教養を偽装するブランチと、ことさら粗暴であることを偽装するスタンリーは、ことあるごとに衝突する。偽装とは他人向けの自己の像に、作為的に自己を合致させることである。ブランチの妹ステラは、もめごとが起こるたびに、二人のなかに入って泣き騒ぐだけである。この泣き騒ぎが、かろうじて偽装の維持を支えている。ブランチがかつて高校教師時代に、教え子を誘惑し高校を首になったこと、男であれば誰彼となく言い寄りつづけたことが次第に明るみに出て、偽装の維持が困難になる。ブランチは、マイアミの金持ちがやがて私を迎えに来ると言いつづけるのである。この偽装のシステムの要になっているのは、控えめでもっとも目立たない妹ステラであることがわかる。ある日精神病院の医師と看護婦がブランチを迎えにやってくる。妹ステラは、マイアミからのお迎えだと言って送り出す。作品はここで終わりである。医師を呼んだのはステラ以外に考えられない。偽装の維持が困難になったとき、ステラがシステムの「相転移」を断行したのである。
システムの安定回路が形成されれば、意識による抑圧を介さなくとも、システム的否認が成立してしまう。システムの安定回路を形成する行為そのものが、同時に一つの否認になるのだから、この回路の形成を意図的な否認の結果なのか、否認がこの回路の派生現象なのかを問うことに意味がなくなる。いわば意識による否認とは独立の事態を指している。それがシステム的否認である。
第二に実際には存在しないような困難について変化させようと努力し問題を作り出してしまう場合がある。これは行為しなくてすむか、しないほうがよいのに行為がなされる場合である。だがなぜ行為がなされてしまうのか。しなくても良いこと、しない方が良いことが何故なされてしまうのか。超自我から恒常的に使命感のようなものがあたえられるというわけにはいかない。また行為主体は行為した方がよいと思い込んでいただけであるというわけにもいかない。この思い込みを解いただけでは、そこのことで行為が止むわけではないからである。ここにもシステムの作動が介在している。
システムがひとたび作動を開始し、作動することによって維持されているシステムでは、作動には理由も根拠もない。ただ作動しているのである。こうしたシステムではなにも困難はなくても、対処がなされてしまう。平凡な日々の生活に満足しながら、それでも何か別の生活があるはずだとうすうす感じているだけでも、システムは作動を開始する。そしてここからドロップ・アウトや抑鬱、引きこもり、アルコール・薬物常用を招くことがあり、これらの作り出された困難な現実は、前にも増してドロップ・アウトや抑鬱を魅力的なものにしてしまう。ここではシステムの増幅回路が作動している。
このタイプの典型が、カフカの『審判』に見られる。(5)主人公のヨーゼフ・Kはある朝逮捕される。拘束も取り調べもない奇妙な逮捕である。勤め先の銀行に出かけるのは自由である。職場の下級職員とおぼしき人物が、三人見張り役になっているだけの逮捕である。職場にかかってきた電話で、次の日曜日に、逮捕の件で審理が行われることを知らされる。日曜日に設定されたのは、仕事の妨げにならないようにである。逮捕しておいて被告の仕事の都合を優先する裁判所があるのだろうか。日曜日に出勤する裁判官がいるのだろうか。通常はただのいたずら電話で無視してしまうはずである。実際逮捕されてといっても、日常は何も変化はなく、しかもなにも起こっていないのである。 にもかかわらずヨーゼフ・Kは、この呼び出しには応じなければならない、戦いが始まっている以上、応戦しなければならないと決心する。何も起こっていないことに決着を着けようと決心するのである。この決心の結果、ヨーゼフ・Kは、もはや二度と日常に戻ってくることができなくなった。
さらに第三に筋違いの対応を含む場合で、第一次変化が必要なときに、第二次変化を求めたり、第二次変化が必要なときに第一次変化を求めたりする、対応の錯誤の場合である。前者の例が不眠の場合であり、嫉妬もそうである。嫉妬を抑えようとする努力が、ますます嫉妬を増大させてしまい、変化させたつもりがなにひとつ変化しないのである。後者の例としては、具体的な手だて、たとえば絵を描くとか、ピアノをひくとかが必要な時に、人格の変化や人生観の変化を要求してしまう場合である。これは変化への希望にどのように力を込めようと、変化する当のものとすれ違ってしまう。ネコにトイレのしつけを覚えさせようとしてできない場合に、ネコに向かって努力が足りないと非難する事態に似ている。笑えない話だが、ある少女が五匹のネコを飼い、そのうち二匹がトイレのしつけを覚えられなかったために、努力が足りないといって餌をあたえず、餓死させた実例がある。ワツラヴィックはこれらが階層関係を混同するパラドックスを引起こすと考えている。(6)だが起こっていることは、パラドックのような論理的錯誤ではない。必要とされているのは、システムの作動のあり方を変えることだけだからである。
個々の行為の変化が必要とされるところに、人格の変化が求められてしまう場合は、システムの作動を引き起こさなければならない場面で、行為の姿勢を問題にしてしまっている。問題に対して処方がすれ違っているだけである。これが起こりやすいのは多くの場合システムの作動の機構がうまく見えていないからである。ネコにトイレのしつけを覚えさせるさいには、ひとつひとつの動作の矯正が必要であり、ネコの努力不足を非難してもすれ違っているのである。この場合いくら非難を繰返してもなにひとつ事態に変化はない。
困難に対処するための行為がさらに困難を引起こしている場合、こうした事態をただちに「反復」という用語のもとに包摂するわけにはいかない。たしかに困難は反復されている。フロイトの1912年から19年の著作では繰り返し「反復脅迫」が論じられている。治療に取りかかりある程度進捗すると壁にあたり、また当初の症状が出てしまう。 症状自体を変化させようと治療を試み、 患者も同意しているにもかかわらず、同じ症状が現れるのである。快/不快の原則によれば、症状の不快を避け快を求めるはずである。にもかかわらず患者は不快であるはずの症状を繰り返してしまう。 だから「快感原則の彼岸」なのである。不快な症状の反復は快感原則を越えており、1920年以降のフロイトはおそらくこれを「死の本能」に呼び変えている。
反復脅迫を心的システムの基本骨格のなかに導入してしまうと、ただちに精神分析の構想に齟齬が生じてくる。生の本能のみならず死の本能を見出し、それを共存させている点が問題なのではない。反復脅迫によって、個体の心的システムの形成史という構図そのものが維持できなくなる。口唇期、肛門期を経てやがて心理的なさまざまな力が形成され、性の欲動の限定が働く。さらに去勢コンプレックスを経て性差を否応なく引き受け、やがて自体愛的なものから対象への愛が形成され、男性では性的欲動が性器領域に統合され、女性では情愛的な要素と肉感的要素の結合が必要になる。心的な力は本能的欲動と対立する統御された意識となり、無意識を部分的に含んで自我を形成する。さらに人格領域総体は、自我、超自我、エスの三力域へと形成され区分される。こうした個体発生の形成史が精神分析の基礎にある。ところが反復強迫を基本にすえると個体発生を組み立てられなくなる。心的システムは形成過程を経ることが基本なのではなく、反復を続けることが基本となってしまう。人格の形成史という基本前提を取り除けば、いったい治療とはどの基準に照らして行うことなのかという疑問が生じてしまう。(7)
反復脅迫は、現実の分析治療の場面では、患者の抵抗のことである。治療的介入への抵抗である。フロイトは、患者の抵抗に繰り返し悩まされている。最初期の催眠療法から、精神分析を樹立するさいにも、抵抗を理由に催眠療法を断念している。(8)催眠療法の断念は、一般に治療中に患者の示す医師への愛情、つまり転移に気づいたことだとされている。だが同時期の論文で、患者の示す抵抗が予想外に大きいかったことがわかる。
患者の抵抗は、システム論からみれば、むしろありふれたことである。疾患が患者自身の一つの治癒の試みである以上、疾患というかたちでシステムはある安定状態を確保している。だからこの安定状態への介入は、システムの自己維持によって妨げられてしまう。システム論的なこの解釈はおよそ「死の本能」とは無縁であり、システムの作動の一貫した継続が見られるだけになる。
ワツラヴィックは変化を引起こすことを、治療の基本にしている。起きないでいる変化を引起こすのである。このため自分で治したノイローゼ患者、自殺未遂者、犯人の暴走を防ぐコツを心得た警官等と話し合っている。ところが得られた結末は、変化を起こし問題を解決する能力は、それを明確にする能力と反比例することであった。うまく語れた処方は、まさにそのことによってうまく行っていないのである。問題の焦点は、変化をもたらすことをどのように自覚するかではなく、何を行えば変わってしまっているかである。突如別の場面へと連れて行くように、安定したフィードバックの機構に裂け目をいれるのである。これは成功した催眠誘導に見られるトランス状態に近いものだとされている。
かりに困惑のフィードバックが、意識的な努力によって生じているなら、まさにみずからの行為がこのフィードバックを作動させている。このような困惑の円環は、行為の選択を限定し、徒労に終わる努力のなかに爆発寸前の状態で立ちすくむことを余儀なくするかもしれない。だがこの困惑は、どちらかといえば神経症・ヒステリーの系譜に属すのである。
ダブル・バインドが発表された当初、この理論がラッセルの階型理論をもとにして組み立てられていたことから、ただちにコンビニエンスな理解がなされた。(9)個々の言明が、言明の集合を代表象するクラスそのものと食い違ってしまう場合である。母親が子供に向かって、うんざりするほどの説教の後「おまえのためだけを考えて、言っているんだよ」と言ったとする。ところがその言葉の内実が、母親自身に都合のよいようにしてくれればよいという場合はいくらでもある。言葉の意味論的内容と語用論的内実とが、食い違ってしまうのである。一過性の発話であれば、奇妙な話だということでやり過ごしてしまうことがほとんどである。ところが恒常的にこの食い違いが含まれればどうなるのか。子供に向ける言葉の集合総体が、一貫して子供のことではなく、自分自身のことや自分自身のために語っている場合がそれにあたる。事実このタイプの人間は存在する。このとき子供に向けられた言葉の集合と、集合総体であるクラスが機能上齟齬を来している。これが当初のベイトソンの認定である。この事態をラッセルのパラドックスと類比的に考えようとしている。だがこの類比はとてもうまくいったとは思えない。
要素の集合であるクラスは、要素のメンバーになることができるか。かりにメンバーになることができるとすると、自分自身をメンバーとはしない集合を考えたさい、このクラスをメンバーの一員にすれば、自分自身がメンバーの一員となり、自分自身をメンバーにしないことに抵触し、逆にクラスをメンバーの一員だとしなければ、メンバーでないものは、この集合の一員になるのだから、そのことによってメンバーとなる。だがそれがメンバーの一員になった途端、自分自身をメンバーとはしないのだから、定義に違反してしまう。論理的にはいずれの選択肢をとっても塞がっていることになる。これは形式上、意図した行為の結果が、意図そのものを裏切ることに似ている。だがこれは比喩にとどまっている。問題はどこまでも集合論的な論理形式ではなく、行為をつうじて事態の局面を変えることでる。
かりにダブル・バインドという事態のなかに論理的パラドックスが含まれていようと、論理的パラドックスがダブル・バインドの引起こす困惑の理由になっているとは考えにくいのである。両面的価値感情にさらされるなかで、思考がパターン化されにくく、脆弱性を帯びることは確かにある。思考による構造構築がなされにくく、思考の産出に不連続、切断、逸脱が起こりやすくなっていることは想定できる。思考の構造構築が脆弱であるために、疾病を招きやすいということはある。しかし脆弱であることは、構造構築の不備であり、構造の欠損ではあっても、論理的パラドックスとは独立であり、別問題である。論理的パラドックスの形成には、高次の思考能力と反省力が前提されている。反省がないところにパラドックスは生じないからである。脆弱性ではこの反省能力の変形、解体が問題になっている。反省能力が解体し、なお行為が必要とされているのである。
困惑のフィードバックは、実際行為をつうじて行為の変更が必要な局面で、認知によって事態の打開を図ろうとするさいに出現していた。この認知が、変更しなければならない局面を、さらに複雑で入り組んだものにしていたのである。オートポイエーシスから引き出される行為の定式化は、以下のものである。継続的に作動可能なよう行為せよ、みずから自身を新たに形成するよう行為せよ。

contents_border_ft.png