ソーム
「ソーム」とは、私個人が設定した用語である。遺伝情報である「ゲノム」と言語記号情報である「ミーム」との間には身体行為をともなう膨大な情報がある。農耕も職人技も身体表現も、ともに身体行為をつうじて伝承されていく。言葉自体は、体細胞的という語(ソマティック)から採ってある。この領域でも、単純な身体行為の部分は、どんどんとロボットに置き換えられていく。コンビニで売られているおにぎりはロボットが握っている。自動車の製造のかなりの部分もロボットが行っている。外科手術の切断、縫合もロボットが行っている。というのも人間の身体を切り取り切断するとき、ロボットであれば同じ強さで実行することができるからである。私自身の開腹手術も、ロボットがやってくれた。単純な動きはほとんどロボットがやってくれる。ところが陶芸のように、この一作、この一品のような制作はほとんどまだロボットに置き換えることはできない。制作物の「個体化」にはいまだロボットでは届かない。ながらくそう思われてきた。ところが個体の特性を詳細なところで分析する技能がAIにはあるために、遺跡や古い絵画の修復や模造にAIが用いられるようになった。そして遺跡のクローン展示が実際に可能となり、実物の感触まで再現できるようになった。クローン展示は、事実以上に現実的である。
身体表現にみられるように、それまでになかった新たな身体の表現モードに踏むこむようなことは、いまだロボットには無理であろう。いわゆる創発的な事象であり、いまだないものを生み出す行為である。そこには情報の延長上ではすまない事態があると予想される。だがそれも時間の問題だとも思える。
三つの事柄 そこには大別して、第一に情報と身体を含む運動との関係にかかわり、情報と運動は、情報から制御された範囲内で運動が行われるわけではないことにかかわっている。おそらく情報と運動は、一対一に対応するようなものではなく、ここには別個の仕組みを導入しなければならない。そのことは情報の取得の回路が、既存の情報の組み合わせと分析から得られるのではなく、むしろ身体行為とともに習得されることにかかわっている。映像のような視覚情報からデータを得るのではなく、触覚性の感触から身体行為をともなうデータが得られることによっている。センサー+モーターとはまったく異なる仕組みで運動とともにある知は形成される。第二に、触覚の固有性にかかわる問題があり、触覚は情報を細かく細分化して捉えるというよりも、可能な限り余分なデータを、「情報化」しないということで成立している。歩行時の足の裏の感触を思い起こしてみればよいが、余分なデータを無視することで、自然な歩行が可能となる。足の裏でいちいち地面を細かく情報化したのでは、足を一歩進めることさえ難しくなる。足の裏で行っていることは、いくつかの視覚像から共通の特徴を取り出すような捨象(抽象)ではなく、歩行に不要な余分なデータを情報化しない、という仕組みであり、認知科学では「無視」と呼ばれる高度な働きである。人工知能は、こうした「無視」のような基本的な能力はまだ身に付けていないように思える。そもそも視覚と触覚では情報の性質が異なる。触覚は、有効に行為に連動できる範囲内で、データを情報化する。つまりデータと情報の間に隙間があり、その隙間を有効に活用する仕組みがある。第三に身体を含む行為をつうじて現実を変えてしまうことにともなう課題であり、人間そのものがホモ・サピエンスとは別様になってしまう場面である。人間の能力の形成は、多くの場合身体行為とともに行われているが、新たな能力が形成されたさいには、それはどのようなかたちで情報化されるのかという問題である。端的に言えば、身体は神経系の創発に対してどこまで対応の幅があるのかという問題である。人間を情報ネットワークの複合だと考えたとき、神経系情報ネットワーク、免疫系情報ネットワーク、遺伝系情報ネットワーク、体細胞系情報ネットワークの4種があり、それらは固有に情報系を作り、別個の情報系として作動している。臓器の作動をホルモン等の濃度の調整で司っているのが、肝臓である。AIロボットは、およそ神経系に類似した仕組みで成り立っている。神経系だけでの制御で行えば、およそ人間の頭で可能だと予想されるものは、やがて実現される。ところが免疫や体細胞はまったく異なる情報系を活用している。
リハビリ リハビリの領域で、イタリア発の「認知運動療法」というのがある。現在では「認知神経リハビリテーション」と名称変更している。カルロ・ペルフェッティという稀な才能によって創始されたリハビリの技法のひとつである。ペルフェッティは脳神経系の疾患を、「情報の不備」「情報の欠損」「情報の混乱」だとして、情報機能を再生させることが治癒につながると考えていた。たしかに脳梗塞や脳内出血にともなう麻痺には、自分の身体を感じ取れない、身体の感覚がない、というような感覚情報の欠損がある。身体感覚が細かくならないために、動作の制御に細かさが回復されず、力を籠めるところと力を抜くところの身体感覚の分節が起きない。麻痺はそもそも感覚の欠落である。そのためこうした身体情報の再生を行うことは、治療方針としては斬新で本質を突いていたのである。身体を詳細に感じるためには、身体そのものの情報機能を高める必要がある。そのときこのタイプの情報の内容にぴったりする定義をあたえるために、ペルフェッティはベイトソンから概念を借り、「情報とは差異を作り出す差異」だとする構想を使った。
病態 ところが情報の欠損と言われる病態には、いくつものモードの違いがあった。
(1)高次脳欠損――半側無視と呼ばれる病態が多くの脳神経系の損傷にはみられる。多くの場合、左側の視野が消えて、まったく見えにくくなってしまう。そこに注意を向けるように促すと、腫れ物に触られるように、慌ててやり方を変えようとする。ご飯を食べるときテーブルにまっすぐに座って食べると正中線から見て右側の食材には箸を付けるが、左側にあるおかずには、まるでそれがないかのように見向きもしない。おかずを右側に置きなおすと、ごく自然のようにそれを食べる。鏡を見て髭を剃ると顔面の半分だけ髭を剃り、後の半分は剃り残しになる。
視覚だけの問題ではない。掌を下にして二の腕の左側に触ると感覚がないが、右側に触るとはっきりと感じ取れる。今度は掌を上にして腕の左側に触ると先ほどは感覚があった個所に感覚がなくなる。逆に先ほど感触がなかった箇所では感覚が戻っている。おそらく身体と身体をともなう感覚、ならびに意識にとっても、正中線は決定的に重要であり、前後に移動する運動にとっては、最も不可欠な条件の一つが「正中線」である。その半分を無視することの生命主体の利点は、意識を維持するための負荷を減免する、ということかと思われる。というのも重度の片麻痺の急性期には、一月ほど左側視野が欠落することがあり、その後回復するにつれて、左側の視野も回復されてくる、という症例報告がいくつもある。視野の形成は、運動能力の形成と深くつながっており、視野は環境情報をとらえるために出現してきたのではない。半側無視が安定化してしまうと、ドアを出ようとすると左側が見えないために、ほとんどの場合右側に曲がっていく。そうすると歩行は右回転になる。場合によっては、デパートの地下の食料品売り場で、時計回りにぐるぐる回るだけで地下街から出られなくなることもある。
明らかに視覚にも欠損が及んでいるが、通常こうした疾患は、視覚の回復だけでは行うことができない。身体動作に左側を参加させ、左右をともに参加させるように動作訓練を行う。情報機能の欠損ではあるが、身体動作を含んだ認知的な訓練を行わなければならない。身体とともにある情報は、身体動作の訓練をつうじて回復させることが、鉄則である。ことに運動能力の獲得とともに形成されてきた認知能力は、たんなる情報機能ではない。
(2)失行症――身体行為能力は十分にありながら、動作のなかに奇妙な事態が紛れ込むもので、ことに道具の使用については奇妙なものが多い。靴磨きのブラシで、頭の髪の毛をなぜたり、歯ブラシで洋服のホコリをとったりする。道具と行為の間のミスマッチが多くみられる。だがこのミスマッチは、本人にとって危険な範囲の行為ではなく、やってはいけない範囲のことでもない。基本的な身体動作は十分にできるが、手首の関節や肘の関節の使い方がわからない例が多い。関節は動くのだが、それがどうすることなのか、微妙な調整はどのようにすることなのかがわからないようである。また歩行のような動作では、全般的にまっすぐに歩く、歩行速度を一定にするというような点に難がある。
個々の知覚と記憶との適合性に欠損があるか、身体ならびに道具使用で最適性の幅に変動が及んでいるのか、動作の選択性の幅が健常状態とからみて変化しているのか、いろいろな可能性が考えられる。基礎的な動作はできるが、道具使用のように少し複雑になると、動作の組織化がうまくできない。
こうした場面では、指の動きとかでどこかの部位を細かく動かす訓練を行うとか、簡単な道具使用で関節の使い方に細かい注意を向ける練習を行うとか、動作を細かく制御する訓練を行う。
(3)整形疾患――整形疾患で最大の障害は、「痛み」がでることである。「疲れ」は「休みなさい」というアラームであり、それ以上追い込まないようにという警報情報である。それでは「痛み」とはどのような情報なのか。ペルフェッティは神経内科医らしく、痛みとは情報の混乱だと定義した。これは内発性の痛みを念頭に置いたものである。整形疾患の場合、身体を動かせば痛みが出る。そのためそこをかばうことで、身体運動に制約が出る。痛みが出ない範囲が、身体動作の可動域となる。因みに脳を切り取っても痛みはない。
脊椎損傷の場合には、より事態が込み入っている。損傷部位より下の身体には基本的には感覚がない。車いす生活になることが多いが、頭脳はほとんど機能維持されていて、車イスに乗ったまま事務的な仕事や高度な知的作業も行うことができる。しかし損傷部位より下には基本的に感覚がないため、尿意、便意がなく、下半身では寒さを感じることもなくまた床擦や靴擦も感じることができず、皮膚が広範囲に炎症を起こしても、本人にはまるで感じられていない。細菌による感染症によって死に至ることがままある。損傷部位以上と以下とでは、ほとんど人間らしさを維持している場合と、およそ人間とはかけ離れた生活になることのギャップが大きく、年数を経るにしたがって、このギャップは大きくなる。患者本人は、このギャップの拡大にたじろぐことが多い。
(4)片麻痺――脳の半側が損傷されることで、右半身、もしくは左半身に麻痺が出て、右片麻痺、左片麻痺と呼ばれるが、左右の損傷の違いで、病態にかなりの違いが出る。発達障碍児の治療では特段の才能を発揮した理学療法士の人見眞理が、多くの治療例をもとに整理している。右脳損傷による左麻痺傾向には、身体部位間の関係はおおむね感じ取れているが、身体の全体像が右側周辺に輪郭を持ち、動作はパターン化されていることが多い。自分自身で動こうと希望しているように見えるが、実際には外から指示されたことに応えていることが多い。行為の選択は、自分で実行することは難しい。そのため母親などの周囲の人の指示をまちそれに合わせている様子が多い。なんらかの課題に直面すると、一定の既得の動作パターンを強引に適用しようとする。これに対して、左脳損傷による右麻痺傾向の場合には、身体部位間の関係性がうまく掴めていない。また課題に直面すると、それに身体で対応するよりも、むしろどうすることなのかを理解しようとする。身体動作よりも知で理解しようとして、簡単な問いでも緊張を高めていることが多い。
これらの情報は、さしあたりAIやロボットとは異なる仕組みで作動する情報系である。AIロボットでは、センサーとモーターは別個に作られる。感覚運動情報と運動の実行系は別個に作られている。ところが有機体の場合、情報-運動連動系は当初より、運動の形成に資するように形成され、運動可能性が情報の範囲を決めている。たとえばサッカー選手が空いたスペースにパスを出す場合、蹴ることのできる範囲でしか、空いたスペースは見えない。行為の可能性が、知覚の限界を設定している。しかしAIロボットの知覚と運動はまったく別様である。知覚は知覚で形成され、運動との連動は二次的に形成される。この別様さを人間がどこまでうまく「共生」できるかが課題となる。