環境概念とエコ・フィロソフィー
河本英夫
環境は、曖昧で豊かな概念である。本来環境は、システム(人、物、組織体、生命等)を取り巻いているものであり、システムとともにある。そのため環境とは自然界一般のことではない。こうした環境概念が、ヨーロッパ思想の中に明示的に出てくるのは、ダーウィンの進化論での「生存条件の集合」という意味での「環境」あたりからである。生物は、世界一般の内を生きているのではない。世界一般、自然一般は、いわば対象認識において成立している概念的な装置である。それは生存や生活と切り離されることで、はじめて成立する装置である。
生命体は環境の中に存在する。それは石が空間の中の特定の位置にあるということとは異なる。環境は一様でもなければ、生命体とは独立に存在するものでもない。しかも環境は個々の生命体に固有であり、少なくとも個々の種に固有である。こうした環境概念は、ユクスキュルによって見出された。生命体は、それに固有の環境世界をもつ。だがこうした環境はどのようにして詳細に規定されるのか。そのなかに生きてすでに生存している環境は、対象として知るような世界でも、対象としての事物でもない。だがかりにそれを制御しようとするのであれば、なんらかの工夫とともに基本的な仕組みを知る以外にはない。全貌の明るみに出ることのない事態をできるだけ明確に取り出す探求の仕組みは、哲学そのものの課題でもある。その工夫の一つが現象学であり、類似した経験の仕組みをもつ各種の東洋思想である。ここでは東洋思想として、道教と、道元による禅宗(曹洞宗)を取り上げる。それらは物事の「おのずとそうあるものの働き」を見出す経験の仕方を開発しようとしていた。こうした性格をもつ世界が、自然と言う語に託されて語られていた。そして環境が、誰にとってもすでにそれの生とともに成立している自然性をもつ以上、環境とこの種の自然記述との間には、内的なつながりがある。
さらにこれに対して、人間の経験の中にあるもう一つの仕組みを取り上げる。それは制作である。ここに環境にかかわる問題の根の深さがある。というのも制作は、つねに身の丈を超え出てしまうという特質をもつからである。しかも制作は、東洋、西洋を問わず現に進行している文明の特質でもある。この制作のなかに含まれる事態に、いまだ活用できていない選択肢がある。その可能性と展開のための現実化の回路を探し出すことは、エコ・フィロソフィーの重要な課題の一つである。そこからさらに、環境そのもの、人間の文明を一つのシステムだと考えたときに、どのような構想が可能かを考察する。基本的には、1960年代以降の自己組織化の議論を環境に応用して考えてみる。この部分での基本的な議論は、動的平衡系の最先端系である「二重安定性」と自己組織化の高次系である「ハイパーサイクル」である。
1 みずからそれとしてあるもの
中国の道教では、「無為自然」が実践的行為の基本的な軸として設定されている。この実践哲学の基本は、天の道に従うことであり、道を外さないことである。「王は地にのっとり、地は天にのっとり、天は道にのっとり、道は自然にのっとる。」この場合の自然は、「みずからそのようにあること」を意味する。その点では、この自然は、大自然のことではない。だが繰り返し自然界は比喩として、記述に用いられてもいる。むしろ大自然をおのずとそうさせている本性、力、仕組みが、ここでの自然であり、それは大自然そのものだと言っても、心の本性だと言っても、道教の場合には、同じになる。人間も大自然も、みなこの大宇宙の原理に従って存在すると言われる。万物はいずれも大宇宙のなかに存在し、その宇宙の「みずからそのようにある」道理にしたがって、人は人として存在し、山は山として存在する。人として存在する力、山として存在する力、これらは同じ宇宙の道によるのである。
これらは時として、タオイズムとして物理学がそこに構想のモデルを見出すようなアイディがあるとみなされた。それがタオ自然学であり、一般にはニューサイエンスと呼ばれたものである。[1]カプラは、タオイズムをはじめとする東洋思想のなかに、最先端物理学で明らかになったさまざまな論理的カテゴリーが含まれていることを主張した。タオイズムには、万物は一体で、相互に関連しているという根本的な合一性の構想がある。あらゆるものごとを、宇宙全体のなかで相互に関連し合っている不可分な部分だと考え、同じ究極の実在がさまざまな形をとって現れたものにすぎない、と考えたのである。こうした構想は、素粒子物理学でも、類似した思考法となってという。少なくとも、タオイズムでは、世界は実体的個体から組み立てられるようなものではない。
また物事を観察者の位置から対象として捉えるのではなく、むしろ物事へのかかわりの組織化こそが、それじたい観察である、ということになる。このかかわりの組織化、もしくは観察に相互作用が内在するという思想が、タオイズムにはある。このことは、量子力学の観測問題であきらかになった。対象とは、観察するという働きが測定誤差の範囲に収まるという特殊な条件下で起きることであり、そうした特殊条件を外してしまえば、相互作用しないものはないことになる。つまり観察も一つの相互作用である。そしてこれを詰めていくと、観察することと観察されるものとの区別が消滅するところまで、経験を追い込むことができる。ここにタオイズムの特質がある。
また対立するものの相補性も際立っている。タオイズムでは、悪に打ち勝って、純粋な善に到達するというような発想にはならない。絶対善や純粋善は、人間の理想的な目標だともみなされることはない。善と悪は、相互に対立するのみならず、相補的でもある。それらは両極端に表れる事象であって、むしろ相互が密接に関連し、ダイナミズムを形成する。こうした相補性は、単独の概念には限界があることを意味し、量子力学のなかにも類似した、位置と運動の相補性が現れているという。
タオイズムの世界には、部分の全体への密接なかかわり、個々の要素の相互作用、主-客未分化、見かけ上対立に見えるもの相互の相補性というような、およそ古典物理学では見落とされていたさまざまな概念が、潜在的ながら含まれていたことはまちがいない。それらを取りだしたとき、いくぶんかはアナロジーや無理なこじつけに見えることは、避けようがない。そもそもそうしたアナロジーのレベルを見出すことが、カプラを初めとするニュサーエンエンスの特質だからである。
荘子の述べた小話には、体系構想とは別に含みの多いものがいくつもある。それらは寓意もしくは寓話となって、体系の内容を理解するとは別の仕方で多くの示唆をもたらしてくれる。また寓話のかたちでしか語りようのないことがある。寓話とは、それ単独で成立する小宇宙であり、他の形では語りようのないものの語りであり、そのためたとえ見かけが小話であっても、まさに寓話は小話を超え出てしまう。
たとえば全身に穴の開いていない渾沌の話がある。[2]二人の客をもてなしたお礼に、それらの客から、普通の人のように穴を開けてあげようという申し出を受ける。おそらく客の善意による申し出であり、さらには断る理由もないということでその申し出を受ける。そして客たちは渾沌に毎日一個ずつの穴をあけ、七日目に普通の人並みの穴が開いた所で、渾沌は死んでしまう。この小話は、無為自然でなければ死に到るほどの結末が生じることを示唆しているように見える。だがそう理解してしまうには、含みが多すぎる。
この場面で、どこに作為が働いているのかを考えてみる。多くの人には七つの穴が開いている。これが自然状態である。これに似せることは、本来別段作為ではないはずである。穴の開いていない渾沌に穴を開けてあげるのであれば、普通に考えれば自然状態に近づくはずである。だが渾沌は死んでしまう。すると外から開けることに無理があるのか。多くの人にとっては、感覚器にふさわしい穴がおのずと開いている。だがこのおのずと穴が開くというプロセスとは異なり、外から穴を作っていくことに無理があるのか。そうだとすると通常の外科手術は、すべて無効になってしまう。そうだとすれば単に外から穴を開けるのか、内からおのずと開くのかという二分法の選択が行われているのではないはずである。内から世界へと開かれていくために穴を開けるという場合、すでに内外が、外の観察者から区分されている。外にいるものは、穴がなく塞がっていることを世界へとつながっていくことができないことだと思いみなしてしまう。だが穴の空いていないものは、自分自身が内だとは感じてはおらず、世界へとつながっていないとも感じていないはずである。というのもいまだ渾沌は、外を知らないからである。また穴を開けることを、内から外へとつながっていくことだとも感じていないはずである。この事態のギャップを埋めることができないまま、穴を開けてしまうことに作為がある、と考えることができる。
つまりこの事実は、無為自然が何であるかについて、より立ち入った内実を告げている。同じ状態と呼ばれるものでも、それがそれじたいにおいて形成される場合と、外から介入して同じ事態を作り出す場合には、外的な見せかけが同じであっても現実の事態は異なってくる。またそれは外的に事態を捉えるか、内的に事態を捉えるかという視点の問題でもない。というのも内的に捉えることがその場合何をすることなのかについて、渾沌は知らないはずだからである。無為自然は、視点の選択の問題ではない。無為自然の基本は、(1)そのものの本性に従った働きを引き出すことが必要であり、(2)その場合に、外から行うことができるのは、本性的な働きにきっかけをあたえたり、この働きの補助になるような介入をすることである。この働きを促進しないような介入は、いずれにしろ外的である。(3)その場合、外からの視点を内に入れるのではなく、むしろ視点そのものが出現してくるようなプロセスを開始させることが課題になっている。
こうした自然本来の働きを見出すためには、どのようにすればよいのか。こうした働きに気づくためには、日常の生活の中だけでは、およそ困難になっている。というのも多くの人は俗世の利害の中で生きざるをえず、また感情に左右されて物事を見ているからである。そのため自然本来の働きは、なんらかの訓練を課さなければ見えてこない事態である。こうした訓練の一つが、座禅である。
道元の開始した「曹洞宗」は、禅宗のなかでは日本でもっとも広まっており、また各種善問答でもよく知られている。手順を大まかに追跡すると、呼吸法を用いて意識の働きを遅くしていく。1分間に2、3回程度の呼吸数まで落としていく。すると意識が活発に動いている状態から、半ば眠った状態に近づくことができる。あるいは心の境界がくっきりと浮かびあがるような局面に到達する。このとき意識の働きを中立化している。この場面で、意識によって物事を制約しながら捉えることに換えて、おのずとまざまざと事象が立ち現われてくるようになる。この場面での認識が、自然本来のあり方を捉えるものだと考えるのである。それを道元は、心身脱落と呼ぶ。意識を中立化してしまえば、人間の通常の認識も現実の一つの解釈に過ぎなくなる。そこから物事の実相を捉えようとする。
類似した経験の誘導は、アリストテレスにも現象学にも見られる。万学の祖と呼ばれるアリストテレスは、観照という手法を強調する。アリストテレスは心穏やかな状態で、心を中庸に保ち、その位置から自然の関係性を捉えることを主にしていた。これが観照と呼ばれる。観照は、利害関係から離れ、感情も穏やかな状態で、自然を見ることである。そのためアリストテレスの自然には、環境という意味合いのものはないが、あらゆる自然物はそれじたいでみずからの本性、すなわち固有性をもち、この固有性を見出すことが学問の課題となっている。たとえば物の本性は、それが向かっていく目的にある。物体の本性は地球の中心であり、物は本性に従って下に落下する、というような捉え方をするのである。そのものの本性をそれが向かおうとする目的にあると考え、目的から見た物のおのずとあるあり方を捉えようとしたのである。これは観察者の感情価値から中立になることであり、物事のおのずと成りゆくありかたを捉えようとしたものである。
さらに現象学は、徹底して、意識という働きのなかですでに起きてしまっている事態を解明しようとする。体験レベルで起きてしまっていることには、すでに意識の本性が関与してしまっている。生きられた体験は、すでに体験された生であり、体験された世界である。ところで体験世界はすでに生きていることと地続きになっている以上、生きていることと世界には隙間がなく、それが何であるかを認識によって知る以前に、そうなっている世界がある。つまり認識する以前にすでに成立している世界に対しては、意識と世界との間には隙間がない。隙間のない事態の典型例が、眼前に現れた現象である。この隙間のない経験に、隙間を開く操作が、「現象学的還元」と呼ばれる。[3]こうした操作を介して、体験レベルの世界を記述する手法が現象学である。現象学では、意識を中立化するだけではなく、中立化の段階ですでに意識がそれじたい一つの行為として、実行してしまっている働きが問われる。
たとえばリンゴという種の本性を知ろうとすれば、通常はできるだけ多くのリンゴを世界中から集めてきて、分析をかけ、共通の性質を知ろうとする。その共通性質を取りだす方法が帰納である。ところで色も形も異なるさまざまなリンゴを集めてくるさいには、梨やミカンは除いているはずである。すると集めてきて調べるに先だって、リンゴが何であるかをよく知っていることになる。この場面で働いているのが、「本質直観」であり、この直観は生存をかけたほどの直観である。こうした直観は、なぜあるものがリンゴであり、梨ではないとわかるのかと、問われても答えようがなく、にもかかわらず区別の行為はすでに実行できてしまっている。
道元の場合、意識を中立化して物事を捉えるさいに、現に見えてみるものを括弧入れして捉えていくような、独特の方法が含まれている。それが否定の多用であり、現実の実相を見るために方法的に活用されている。「生と死とは、一でもないが、別でもない。別でもないが、合致しているのでもない。合致しているのでもないが、雑多でもない。それゆえに、生にも働きの全体が現れる場合に、さまざまの事象が存在し、同様に死にも働きの全体が現れる場合に、さまざまの事象が存在する。」こうした否定の連鎖をつうじて捉えようとしているのが、全体としての働きであり、「全機現」である。[4]この全機現を捉えるために、意識の働きを中立化したのである。また現実から身を引き離すために、「山は流れ、川は留まる」というような特異な現実否定を活用したのである。
こうした事態を、科学的な生理学に活用し、道元の生命への洞察が、生理学的な生命観でも生かしうると考えていたのが、戦前の生理学者橋田邦彦であり、彼は戦時中の文部大臣を務めている。生命の本質は、この全機にあり、活動の現れから活動そのものを行為としての直観で捉えることが必要だと考えていた。[5]こうして捉えられるのが、おのずとそのようにある自然である。環境と呼ばれるものの特質は、理性的に知る、分析的に知る以前にそれとともにすでに生きてしまっているものである。そのため、この体験レベルにかかわる事象という点では、こうした自然こそ、今日「環境」と呼んでいるものに類似したものである。
2 みずからを越えていくもの
科学技術は、通説によれば、自然を改変し、人工の自然を作り出し、自然そのものを破壊してきた。そしてその背後に、キリスト教の階層的自然観と、ベーコンによる実験的制御が取り挙げられる。キリスト教の階層的自然観では、神が頂点にあり、その現実的な姿である精霊がその下位に、そしてその下に理性をもつ人間がいて、さらにその下に動植物、自然物が配置されることになる。この場合、自然は人間の下位に置かれ、人間は自然を制御、利用すべきものとなる。これが東洋的自然観とまったく異なると言われる。だがキリスト教自然観のもとでは、自然への制御と同時に、自然への責任も明示されている。そのため自然保護への関心も自覚も、東洋よりも強いと考えられる。
実際、日本は戦後の高度成長期には、世界有数の公害大国であった。このとき西洋から取り入れた科学技術の成果は、存分に人間や企業が享受し、他面工場からの廃水や有害物質の廃棄に対しては、母なる自然の浄化力に任せるという、誠に都合のよい使い分けが生じていた。現時点で歴史的に見れば、そうした事態に近いことが、日本において起きていたのではないかと言われる。この場合、自然に対する責任は、キリスト教文化圏の方が明確でかつ強力だと考えられる。
とすると問題は、西洋的自然観か東洋的自然観のどちらを選択するのか、というところには本来ないという予想が立つ。つまり西洋的自然観に換えて、東洋的自然観を取れば、問題が解決する、ということではないと思われる。キリスト教的自然観のもとで、ベーコンはアリストテレスの自然構想に換えて、自然の実験的制御を強調したと言われている。そして「知は力なり」と語り、知とは単に知ることではなく、現実的な実行力であり威力であることを宣言した。そのさいにも自然の何であるかを知らなければならない。そのさいにベーコンが推奨した科学的方法が「帰納法」である。だがベーコン自身が語るように、自然を征服するためには、自然に従わなければならないのであり、この自然への従属を抜きにしては自然の征服は不可能である。[6]自然に従うことの回路を見出し、その回路の中でどのようにすれば自然が制御できるのかを構想するのである。そのためいわばベーコンの言う「自然の制御」とは、まさに自然の規則を見出し、それに適合し、それに巻き込まれることによって自然を制御するようなものであった。とするとこうした合理的制御そのものが、自然観として不合理だということにはならない。今日の環境問題の根っこにあるのは、こうした自然観レベルのことではないと考えることができる。
むしろ物を作るという制作一般の中に、環境にかかわる大問題があると考えられる。人間学のゲーレンによれば、物を作ることをつうじて同時に人間に出現した事態は、以下の二つである。[7](1)負担免除(機能代替)。たとえば手作業をスコップに置き換えることで、身体的負担を軽くしている。身体的作業の一部を、道具(制作物)へと移譲、代替する。このさい身体の働きも認知の働きも変化する。道具は、身体の外に出た身体類似物であるため、身体の動きはその範囲での身体体勢を常態とするようになる。さらに棒をつうじて地面の起伏を確認しながら歩くとき、手で感じ取っているのは、地面の凹凸であって、棒の振動ではない。棒をつうじて棒の先の地面を直接知るのであって、いわば道具は、認知の場面では認知の媒体としてそれじたいが透明となり、道具の先で環境を直接知覚する。これは認知の手段を一挙に拡大することを意味する。(2)過剰代替――たとえばスコップでの作業能力は、手の作業能力を大幅に上回り、コンピュータは計算能力だけでみれば、人間の計算能力を大幅に上回る。このとき(a)制作された道具の機能性に身体そのものが背伸びするように適応しなければならない。(b )そのため道具は身体の延長上ではなく、道具の機能性に応じて、身体そのものの作り変えがおのずと進行する。つまり道具の制作とともに人間はもはや身の丈にとどまることができなくなってしまっている。道具とともにある身体は、道具の機能性に特化して形成された身体であり、道具の機能水準に否応なく適合させられている身体である。
さらにゲーレンから離れて、制作とともに進行する現実の理念化もしくは理念の現実化というプロセスがある。平らな面を作ろうとして、何度も凸凹を均していく作業を行っても、簡単に平面は実現できはしない。微妙な起伏を含めれば、物理的に平面を作ることはほぼ絶望的に困難である。しかし「平ら」が何であるかはその作業のなかで捉えられている。この捉えられているものを単独で取り出すと、それが「平ら」の意味となり、制作作業のなかで、実現できないがそれとして知られているものとして成立している。これはフッサールが『危機書』で鮮明に描いたことである。そして意味だけの世界を単独で構造化し、記号のネットワークとして取り出したものが、幾何学である。幾何学が、制作、測定の行為を母体にして生まれてきたことは、フッサールの言う通りである。
幾何学の前史には、現実の極限状態を感覚的な事実の一歩先で捉えているという事態が成り立っている。現に実現されてはいないが、それがなんであるかをよく知っているというかたちで、いわば行為に組み込まれた意味の世界が出現している。この意味は制作行為にとっては、行為を方向付ける予期として働く。さらに幾何学の手前の意味の出現によって、現実のなかでの生活をつうじて、意味は身体行為とともに獲得される。たとえば平らが何であるかは、言語的な意味の習得に先立って、身体とともに体験をつうじて理解されている。たとえばデコボコの床で眠っているとき、よりなめらかであること、より平らであることが何であるかは、身体とともに体験され理解されているのであって、眼で見てはじめて知るようなことではない。制作レベルに固有の現実が成立している。そしてこの制作とともに出現した内容は、個々の経験の延長上にはなく、むしろ経験にとってある種の超越性を帯びるのである。
制作は、東洋でも西洋でも、いわば言語の制作に先立ち、それとして起動し、進行していることである。これによって意識の自覚や反省とは別に、人間の身体と動作は変化し、文明は身の丈に留まることができなくなっている。そして人間の文明にはこの「つねに身の丈を越えていく」という事態が組み込まれているために、つねに制御不可能な事態が含まれてしまう。環境を変えるだけではなく、環境内につねに身の丈を超えたものが配置されるという仕組みになっている。これは人間の欲望を抑えるようなことでは解消できない事態である。見かけ上、東洋的自然観では太刀打ちできない事態だとも思える。
そのとき本当はどこに問題があるのかを考えてみる。(1)この文明の速度もしくは文明に伴う自然条件の変化の速度が、人間の対応速度を超え出てしまうこと、たとえば北極の氷が溶け出して、水位が上がり、島の海岸線が上昇することがあったとしても、それがたとえば100年で10㎝程度であれば、それへの対応可能性は十分に残されている。(2)身の丈を超えて起きている事態は、固有のシステムとなっている。それが制作のシステムである。このシステムの制御は、意識からも身体からも困難で、また人間社会の規約や規則を変えれば対応可能ということでもない。むしろ問題解決は、システム固有のレベルで構想されなければならない。つまり制作には、制作レベルでの問題解決が必要とされる。(3)身の丈を超える事態は、それだけで再生産可能な回路にはなっていない。再生産可能性のためには独特の工夫が必要であり、またそれはシステムの仕組みに適っていなければならない。
3 システム
システムという語は、本来ドイツ観念論で多用された語である。1800年代の初めに、シェリングの著作に登場する。それ以前のフランス啓蒙期の百科全書では、網羅的な要素の集合の意味で、システムは活用されていた。このシステムの意味が、ドイツ観念論で一新される。そのときどのようなシステムが構想された場合であっても、部分間の関係と統合性、全体として生成するもの、多階層的な組織化という三つの特質が、共通に含まれている。つまりシステムの構想は、哲学の中心近くにつねにあり、それをどのように構想するかが問われ続けてきたのである。この時期には自己組織化の基本的な着想が多く出現している。ただしシステムの構想は、今日もはや総体的な知識に力点は置かれてはおらず、また知ることが優先されるのでもない。むしろ現在では、システム構想は、局所的創発、多並行分散、多元的なものの連動に、力点が置かれている。その意味で、システム・デザインは、つねに哲学の中心課題であったのであり、それは今日より実践課題へと向けて構想されている。
環境問題に関連して、新たなシステムの機構として、ここでは二つだけを取り上げておきたい。環境そのものも、ある種の自己組織化し、自己維持するシステムである。そこでも新たな機構が見いだされている。また環境関連問題にかんしても、多元的なものの連動を構想するモデルが必要になる。
A 生成プロセスでの複合的なモードについては、「二重安定性」という仕組みが今日明らかになっている。[8]これは、(a)同じ要素から成るシステムでも異なるプロセスを取る変化のモードがある場面と、(b)複合的な要素のなかである要素が起動するまでに周辺条件が整うことが必要であるような入り組んだ作動のモードがある。
(a)実際に、オランダのベルエ湖の富栄養化過程で観察された事例で、一般的には湖水リン濃度が増大すれば、湖水表面の植物の割合は低下する。リン濃度を急激に上げた場合には、ある段階で植物は激減するが、逆にリン濃度を徐々に下げた場合には、別の経路を通って植物量が徐々に減少する。これは可逆過程になっておらず、水質汚濁と環境修復には別の回路を取らなければならないことを意味する。(図1) (b)同じように池の水の透明性について、湖のアオコの増殖のような場面では相転位が含まれる。アオコの量(単位体積あたりの密度)が臨界点である「ある量」を超えると、水質が一挙に濁る。そして自律回復は困難になる。ところがコイの放流その他でアオコを減らしたとき、この「ある量」よりずっと小さい値にまで戻さないと透明化のプロセスには入らない。また富栄養物質の増加に応じて、植物プランクトンは漸次的に増加するが、一定量のプランクトン残存下では富栄養物質を減らしても、しばらくはプランクトンは増える。つまりバイオマスは、二つの安定状態の極をもつ。(図2)
同じように牛の放牧によって草の量が激減したとき、牛の数を減らしても牧草が回復しないことはよくある。三日月耕法によって水と肥料を蓄え、農地の状態を変えることで回復することも知られている。これらの事例のなかに含まれている事態を二重安定性という。
二重安定性をもつ系は、定状だと見えているもののなかに、一定幅を内蔵した修復機構があること、この修復機構には、系の複数の状態を規定する変数があり、この変数の変動経路によって系の状態は選択される。この場合、特定の状態の回復というより、回復するための手順やプロセスの設定が重要になる。生態環境の修復というとき、たんに元に戻すことはできない。むしろどの変数を有効に変動させるかが問われる。安定性を支える変数が少なくとも2個以上になっているのだから、どの変数をまず変えるかで、次の変数の変わり方が決まる。
一般に自律回復が困難になる臨界点を見極めることは、難しい。そのことが環境問題を難しくしている。つまり過度の憂慮と過度の楽観が両立する。ところが二重安定性の限界付近では、数学的に相転移の起こる場面に、特有のカオスの乱れのような状態が出現する。ここでは複雑さが混乱に代わるような波形が出現する。つまりカオス力学による数学的な近似から、臨界点の予測が可能になると考えられる。
歴史的に見れば、二重安定性に類似した機構は、シェリングの自然哲学で用いられていた。たとえば剛体を動力学的に説明するさいには、引力と斥力という、二種類の相反する原理の均衡をもちいる。だがシェリングが捉えようとしていた物体の基本は、渦巻きであり竜巻である。こられはかりに安定している場合であっても、不均衡状態が同形に繰り返し作り出されると、シェリングは考えた。安定した剛体であっても、つねに不均衡状態にあり、その不均衡状態が同形に繰り返し産出されると考えたのである。[9]この場合、動的な不均衡状態とそれの反復的産出という二つの異なる原理で、見かけ上の剛体を説明している。相反的ではない異なる二つの原理が、密接に連動することが、二重安定性の特質である。
B ハイパーサイクルの機構――自己組織化の典型。自己組織化の仕組みは、どこかに創発が含まれている。だが各要素のなかにはない新たな性質が出現するだけでは十分ではない。たとえば酸素と水素から水が出現する場合には、水には酸素にも水素にもなかった新たな性質が出現している。だがこの場合ほとんどの確率で水が出現する以上、水の性質は酸素と水素に潜在的に含まれていたと言ったとしても、論理的には整合的である。その場合には、創発にはならない。弁証法の典型的な事例となっている化学的化合は、今日の創発的システムの事例にはならない。むしろ自己組織化のプロセスの必要条件となるのは、「新たな変数」の出現である。しかもこの変数は本来変動範囲があらかじめ決まるようなものではない。
自己組織化の定式化は、「個々のプロセスは次のプロセスの開始条件となるようにして接続するプロセスの総体」である。これはプロセスの維持から組み立てられたシステムの定義である。このプロセスのなかに出発点のプロセスに回帰するように閉じていくものが出現したとき、それが自己増殖系となる。定義としては、生成プロセスの連鎖が、出発点に回帰したとき、そこに自動的に進行しながらかつ個体性をもつシステムが出現する。このプロセスには、同時に並行する複数のプロセスが関与することが一般的である。生成プロセスが繰り返されながら、かつ一定の構造が維持されている場合が、渦巻きや竜巻のような「散逸構造」である。これはプリゴジンによって明らかされた。
複数個のシステムが連動している典型例が、アイゲン、シュスターによって発案された「ハイパーサイクル」である。[9]発想の基本は、自己触媒システムである。生成プロセスが進行するさい、生成プロセスの産物がみずからを産出する生成プロセスの調整因子となる。ここではシステムの自己が二重に機能分化している。物質でみれば、自己とは、生成プロセスによってもたらされるシステムの本体であり、また生成プロセスの触媒機能である。生成プロセスでみれば、産物の産出であり、産出した産物をつうじての速度調整である。
自己触媒ループのより複雑な機構は、生成プロセスの産物が、次の生成プロセスを触媒し、次の生成プロセスの産物が、次の次の生成プロセスを触媒するように連鎖していき、一つの大きなループをなす場合である。これはより高次の組織化であり、新たな階層段階である。ある生成プロセスの生成産物が次の生成プロセスの触媒となり、こうして順次生成プロセスを触媒することによって、ある段階の生成プロセスの産物が、最初の生成プロセスの触媒になったとき、そこに複合的なサイクルが形成される。(図3)これがハイパーサイクルである。典型例は、生命体のタンパク系とDNA系ではこうしたハイパーサイクルが成立していると考えられている。
ハイパーサイクルは、(1)個々のサイクルはつねに代替可能であり、また複数個の並行作動するシステムの設定が可能である。エネルギー源として、化石燃料だけではなく、風車、水車、大陽光、地熱のように代替エネルギー源の複数化は機能サイクルを複数化することである。ただし次のサイクルに接続できないエネルギー源は、おのずと消えていく。(2)また連動するサイクルの系列を増やすこともできる。たとえば二酸化炭素の化学固定ができれば、二酸化炭素を排出する各企業のシステムの端末に化学固定技術を付加することによって、二酸化炭素を有効利用できる。(3)相互に触媒になるシステムであれば、触媒部分に調整機能を持たせることで、システム全体の作動を調整することができる。(4)触媒的な連動のないシステムでは、触媒となるサイクルを導入することが重要となる。それがたとえば環境関連の税システムである。経済‐税システムは、システムの作動を二重化するさいにつねに配慮されるべきものである。(5)ハイパーサイクルは、複数のシステムが「共生」状態にあるためのもっとも典型的なモデルケースをあたえる。しかもこの共生関係は作動することによって維持されるために、さまざまな選択肢を入れることができる。つまり選択性を含んだ共生となる。
これらは、ヘーゲルのように要素の統合でもなく、また弁証法のように、あらかじめ新たな性質の出現を目的とする必要もない。むしろ要素はそれ固有に存在し、同時にそれらは動きのなかで、個としての働きと、全体にとっての代替可能な部分という働きを行う。また新たな性質は、システムの作動のなかでおのずと生じるのであって、それは創発と呼ばれるべきものである。
システムとは、一般的に意識的な制約をかけることなく、おのずと進行するシステムの作動をつうじて、意図した結果を間接的にうるための装置である。速度調整も、方向調整もいずれもシステムの動きのなかで行われる。その組み立てのもっとも選択肢の多いシステムが、ハイパーサイクルである。
現在日本では、「持続可能性」プロジェクトを官民をあげて取り組んでいる。そのさい探究テーマを明示するために、私たちのプロジェクトでは、三つの維持すべきシステムを設定している。地球システム、社会システム、人間システムである。そして地球温暖化対策、社会的な環境教育、人間の価値観の再考をめぐって多くの研究者が参加している。だがこの三つのシステムは、探求テーマ領域の設定であって、システムそのものが固有に連動するサイクルではない。たとえば地球システム維持のための対応要請がなされれば、社会システム、人間システムにとっては外的制約としてしか出現しない。地球にやさしい消費行動を採り、電力節約のための消費行動を採ろうということになる。この場合、人間の意識的な努力に訴えるのである。各システムには、相互の触媒関係がない。そのためシステムの外に設定される目標に向かっていわばシステムの作動を半強制的に制約することになる。この外的目標は、人間システムにとっては基本的に抑制的であり、それだけでは持続的な環境対策とはならない。地球温暖化対策は、企業にとってみれば、一つのビジネス・チャンスだが、代替サイクルの置き換えに留まる。
これに対して、人間生活のなかに異なる価値の導入を行ってみる。利便性、快適性以外の価値を導入し、新たな選択肢を設定してみる。たとえば第二次成長期以降、誰であれ、自分自身の能力、健康、生命維持のためのリハビリが必要となる。そのために必要とされる環境デザインを行ってみる。こうした新たな価値をもつ環境設定が有意に実行できれば、一面では新たな価値をもつ環境の創出として、それじたい一つのビジネス・チャンスとなり、他面ではおのずと二酸化炭素の排出を減らす以上、それじたいで新たなハイパーサイクルの一要素となることができる。端的に言えば、エレベーターやエスカレータ以上に、面白く、個々人の能力の開発につながり、かつ健康にも良い階段を、オールタナティヴとして作ることができればよいのである。こうした場面で、個々のサイクルは二重の働きをしている。一つは能力開発のための環境であり、もう一つは低二酸化炭素型の生活のなかの選択肢である。こういう二重の機能をもつサイクルを新たに導入していくことができれば、価値の創出の面で、ビジネス・チャンスとなり、それが同時に二酸化炭素削減におのずと寄与するような仕組みを構想することができる。
たとえばニューヨーク在住の建築家荒川修作が作り出したような「天命反転住宅」を構想してみる。(図4)これは人間の潜在的なままに留まっている能力を引き出すための環境デザインである。こうした新たな選択肢を導入することをつうじて、副次的同時に二酸化炭素消費削減に寄与するのであれば、複数のシステムの連動が形成される。またこの新たな価値の導入は抑制的ではなく、同時に小規模なさまざまなビジネス・チャンスを提供する。ハイパーサイクルが提示するのは、そうした副次的連動効果をもつサイクルの創造であり、アイディアの活用である。
注
1、F. Capra, The Tao of Physics, 1975, esp.III, also see, D.J. Bohm, Fragmentation and Wholeness, 1976, The Van Leer Jerusalem Foundation.
2、The Texts of Taoism, Dover Publications, Inc. New York, pp.266-7.
3, E. Husserl, Ideas; general introduction to pure phenomenology, London: Allen&Unwin, 1931.
4、Shobogenzo, Numata Center for Buddhist Translation and Research,2008,pp.355-7.
5、Kunihiko Hashida, The Life as all Functions, Tokyo, Kyodoishoshuppan, 1977, esp.25-39.Sciences as Action, Tokyo, Iwanamishoten, 1935.
6、rf. K. Sakamoto, Bacon, Tokyo, Kodannsha, 1981.
7、A.Gehlen, Der Mensch: seine Natur und seine Stellung in der Welt, Athenäum Verlag,1971.
8、Takashi Amamiya, “Ecological environmental problems as complex systems,” Kagaku, (Iwanamishoten)Vol.76 No.10,pp.1047-52.
9、M. Eigen, P. Schuster, ”The Hypercycle,” in: Die Naturwissenschaften, 64,341-69(1978).