2015/6/13 東北大学大学院文学研究科
システム現象学の試みオートポイエーシス
東洋大学文学部哲学科・哲学専攻
河本英夫
どのような事象を問うのか体験的事象領域――現れ(フッサール)、存在(ハイデガー)、メルロ=ポンティ(身体)、内在的活動(アンリ)、超越(レヴィナス)等々に対して、創発、出現、出来、事象化等々の領域を扱う。哲学史のなかでは、個体(スピノザ)、モナド(ライプニッツ)等々で指標される「単位体」の論理的仕組みではなく、個体化、モナド化の仕組みを問うものである。システムの出現の事象と仕組みが問われる。科学的には1960年代からさまざまな機構や仕組みが考案された自己組織化やオートポイエーシスに対応する事象の解明の試みである。哲学史の上では、ホワイトヘッドの『過程と実在』、ドゥルーズ『差異と反復』をどのようなかたちで継承するかにかかわる。事象の個体化では、意識そのものも生成のプロセスに巻き込まれるために、意識の活用の仕方もいくつかの工夫が必要となる。それどころか意識そのものの個体化、すなわち意識の出現が問われる。シェリングの自然哲学が主題としたテーマである。自然とは意識の先験的過去である。
展開可能性1
出現や創発を問うことは、事象の可変可能性を問うことであり、どこに変化の可能性が含まれるかを事象内に潜在化したあり方として、捉えていくことになる。つまり知覚は真理条件を確保するという課題に応えた認知のモードであり、知覚可能性の範囲まで拡張した事象の捉え方が必要となる。知覚は相当に信用が置けるが、限定されすぎている。これは視点を換え、観点を換え、解釈を換えるようなことではない。変化の可能性までを見込んだ知覚世界を、事象に換えて、「現実性」と呼ぶことにする。このとき経験の可能性が問題になるのではなく、経験の拡張の可能性が問われることになる。古典期の人間の理性の本来性は、理性の展開可能性に置き換えることになる。
ヒトデ(放射性動物5本足)とイカ(頭足類)の間には、圧縮と伸長だけで変換回路はあるか。こうした変異を病気だとは言わない。(遺伝子的には、大きな違いがあると予想される。)整数次元は、次元を尽くすか。少数次元(3,53次元、2,89次元)を入れた環境設計は可能である。健康維持とりわけ神経系で制御される健康維持のためには、一定程度の複雑な環境に触れていて方が良い。生体はこうした複雑さの度合いを踏んでおり、そこにどのように対応できているのか。複雑さの度合いを拡張しておくこと(内在的な選択性を高めておくこと)
非整数次元1
非整数次元2
展開可能性3(知覚の可能性)
展開可能性4(時間経験の隙間)
フッサールの時間論では、感覚の起動開始への気づきである「原印象」(聞こえ始めた何か)と、そこからの持続的な保持である「把持」(一般には過去把持と呼ばれているが過去という意味はない)、さらに次にやってくるものへと経験を開く「予示」の三つの働きが一組になっている。この三つの働きが、「今」という場所での経験になっている。この持続的保持に一定時間が必要であることを、リベットが見出している。個人差はあるが、平均的に0.5秒である。この保持が事象の現出を可能にしている。ところで意識を本性的な流れだとすると(フッサールはこの意識流を「絶対的意識」だと呼んだ)、「今」はたとえ広がりのあるものであっても、流れのさなかで「ここ」という指定を同時に行っているのでなければ、過去や未来を予期的に区別しながらみずからの経験を特定できないはずである。「ここ」という経験の場所の指定は、時間軸での現在の位置指定とは異なっている。時間軸上での配置は、本人の想起や観察者にしか起きないことであり、進行する経験のさなかにあるものは、まさに進行の途上に「ここ」という位置の指定を行っている。この場面が、時間経験の個体化の行為である。故荒川修作の言葉をもじれば、「時間意識のランディング・サイト」とでも呼ぶべきものである。その行為の意識的な認定が、「今」である。そのため「今」は意味でもなければ、時間軸上の配置でもない。この個体化の行為に含まれる働きとしての三要素が、先の三つ一組であった。
展開可能性5(時間経験の隙間続)
こうした位置指定は、意識の行為として行われているのであって、意識的認識で起きていることではない。音が聞こえると同時に「ここ」という位置指定を行っている。さらに保持(過去把持)をつうじた事象の現出にさいして、意識はおのずと現出するものと現出しないもの、さらには現出させないものの区別を、意図せず行為として行っているはずである。原印象で捉えられたものが、すべて事象として現出するのではない。その区別は、意識がおのずと行っていることである。これも意識の行為である。意識はみずから知ることなく多くのことを行っている。この区別の境界が断続的に変動すると、妙な声が聞こえたり、自分の思考が漏れ出てしまうという経験の感触が出現する。あるいはメロディーを聞くさいのように、新たに聞こえてくるものとすでに聞こえたものを断続的に組織化しながら事象の形成を繰り返しているはずである。そうでなければメロディーとして聞こえるはずがない。その繰り返しの組織化を行っている働きに相当するものをフッサールに見出そうとすると、「原意識」となる。これがフッサールにとっての意識の「基底」である。こうした組織化の働きが、短期記憶を形成している。原意識に変容が生じれば、行為する自己と理解して自己が分離したり(解離性障害)、事象の不成立(緊張性幻覚)が生じる。
展開可能性6(意識の行為)意識は、当然のことながら知ること以上に多くのことを行っているはずである。たとえば(1)意識は注意の分散の場所として働く。(2)意識は感覚的な要素の範囲をみずから規定している、すなわちみずからの境界をおのずと決めている。(3)意識は反射反応を避けるように、みずから自身の内部に選択肢を作り出す。(4)意識は、集中‐解除の度合いを調整できる。(5)意識はみずからの変化を感じることができないために、意識そのものの変化を世界の変化として捉えてしまう。(6)意識は、みずからの起きる変化を、みずからの同一性が確保されるように、おのずと組織化する。この組織化の成果が意識の「自己」である。これらは今後も項目としては増えていくと思われるが、とりあえず精神病理で必要な限りの事項を列挙したものである。意識を知ることだけではなく、それじたいを行為として働きの分析を行うことが必要となる。認知的還元ではなく、行為的還元が必要となる。
総力戦
認知のコードは、真/偽である。真偽を区別しながら進行するシステムが、認知システムである。物を正しく認知できているかどうかが、認知システムの課題となる。行為のコードは、成功/失敗であり、すべての実践的行為は、このコードを用いており、行為システムの課題は、成功裏に行為を遂行することである。この行為の破綻が、精神疾患である。制作のコードは、前進/停滞であり、より良く行為できるか、そうでないかが問われる。制作システムの課題は、自分の能力の拡張であり、より能力を発揮しやすくすることである。1)これらの三つは、伝統的に、真、善、美と呼ばれてきたものである。2)行為のコードでは、物のかかわりが課題となる場合に、うまく触ることができたかどうか(成功/失敗)が基本であり、触ったものが何であるかは、行為と同時に進行する派生的な出来事である。3)リハビリで課題になるのは、行為のコードと制作のコードである。認知を媒介的手段として、どのように活用するのか。
能力の形成
脳神経系の高次機能障害に「半側無視」がある。多くは左半側の視野をおのずと欠落させる。食事にさいして、右側の御飯だけを食べ左側に置かれているものを食べようとしない。またそれを不自然なことだと感じている様子がない。時計の絵をかかせると、0時から6時までの右側は描くが、左側は書き残しとなる。部屋から出ていく時、右側通路に曲がるが、左側に回ることはない。これらは体験的世界の変容であって、見方や捉え方を変えれば、訂正できるものではない。ひとたび体験的世界での変容が起きれば、視点の変更は効かない。帰ろうと思っても帰ることはできず、また健常者が任意にそこに行って帰る、ということはできない。体験的変容に対応するためには、事象の形成すなわち能力の形成が必要となる。
認知的問いと行為的問い1
リハビリの最終的な課題は、行為能力の回復であり、行為能力の拡張である。スポンジを押し当てたとき、うまく感じ取れているかどうか(成功/失敗)が最初の課題であり、それがどのような硬さのスポンジであるか(認知的判別)は、末端の派生的な課題である。接触課題は、身体内感の形成にかかわっている。そのため内感の度合いの違いを誘導するための課題である。緊張や力感の度合いを調整するための課題である。麻痺側では、多くの場合オン・オフのような両極の働きしかできない。中間の度合いがない。そのため動作はとてもぎこちないものになる。度合いは、感じ取ることができるかどうか(成功/失敗)であり、認知的に知ることではない。自己触知やましてや知覚を誘導してはいけない。知覚は、人間の場合、特殊な直観と連動しており、すべての感覚質の彼方におのずと届いてしまう。ここには極限化が含まれており、運動と連動する回路がない。動物の知覚は、特定の感覚質の前景化とそれ以外の感覚質の背景化のことで、それぞれにとって最も重要な感覚質を前景化することである。
認知的問いと行為的問い2
行為・動作では、多くの空間内の指標を活用する。空間的指標は、行為・動作の制御変数を多くすることである。歩行のような動作での指標は、動作の目標でも基準でもない。2メートル先の位置指標は、動作を組織化し、起動するための制御変数のことである。それに対して、6歩で歩くこともできれば10歩で歩くこともできる。空間指標に対して、身体はそれに対応するために、つねに複数のモードを備えている。動作と空間指標の間には、一対一対応がない。動作の指示(内的指示と外的指示)立位姿勢で後ろに体重が残ってしまっているとき、「重心を前に出して」という指示が、外的指示である。患者は重心を前に出すことがどうすることなのかが分からない。それに対して、「右足の親指に力を入れて」、「視線を二メートル先に」というような指示が、内的指示である。内的指示は、個々の患者のある局面に固有にしか行うことができず、一般に本人にはそれが重心を前に出すことなのかどうかはわからない。これに対して、外的指示は何が言われているかは理解できるが、どうすることなのかが分からない。
行為能力の形成1
行為能力の形成は、個々の行為のなかでしか起こらない。だが能力の形成は、一体どのようなものか。1+1=2が出来るようになった時、それだけができるのではなく、およそ類似した演算であれば、同じように「できる」という確信のようなものが出現する。できるという確信には、個々の行為を実行するだけではなく、そうした行為を実行することはどのようなことかという理解が伴っている。たまたま答えがあったのではなく、答えが合うとはどうするのかについての理解がある。これを「行為的理解」と呼んでおく。個々の行為と、個々の行為がある変数の値に相当するという感触に近いのかもしれない。現実の行為の場面では、他様にもできるが、今はこのようにしている、という感触に近い。一杯一杯ではなく、「今回はこうしている」という選択可能性の感触に近い。行為に選択肢があり、行為と行為者に隙間があるという感触である。行為能力の形成は、つねにプロセスのさなかにある。
自己組織「システム」(プロセスの意義)
可能態‐現実態は、多くの場合、行く先が決まっている場合の変化を記述していくための仕組みだが、行き先が決まらない場合には、この対関係を持ち込むことができない。何が起きるか分からないが、なお進行しつづけるプロセスが広範にあることになる。可能態‐現実態に限定を付けなければならない。プロセスのさなかで新たな事態が出現したとき、そしてそれが別様でもありえたが、そのようになっているときには、プロセスの開始条件と新たに出現した事態の間には、下位ー上位関係がない。基本的には階層的な現実性が成立していない。要素と組織、組織と器官のような階層関係は、手段‐目的関係になっていない。プロセスがもっとも基本的な現実性の要素だと考えて、プロセスだけからなる世界を考えてみる。プロセスは感じ取られているが、知覚はできない。そこからどの程度の現実性の豊かさ(あるいは豊かさの可能性)を導きうるかを考察するのが、自己組織哲学となる。この哲学は現実性をどのように説明するかにかかわっているのではなく、現実はどのように豊かでありうるかの考察にかかわる。これは真/偽, 成功/失敗、ではなく前進/停滞にかかわる。真、善ではなく、制作にかかわることになる。経験の場面を、制作、実践的行為、認識の順に配置することになる。プロセスは、次のプロセスに接続する。この接続点には、選択肢がある。選択肢のない場合は、プロセスに言い換えても言葉の言い換えに留まる(自由落下)。
自己組織「システム」(プロセスのゆくへ)
プロセスは、傍らにいて感じ取る場合には、「差異化」となる。感じ取られたプロセスの感触は、強度(緊急性の度合い、ドゥルーズ)を基調とする。強度はほとんどの場合身体行為を相関項とする。差異化をプロセスとして再編する。プロセスの場合には、認知するもの(とりわけ意識)がそこに巻き込まれることを主要な場面とする。意識は、みずからに起きる変化をそれとして感じることはできない。また意識はどのような変化がみずからに起きようと、変化の結果を知りうるが、変化そのものは感触として感じられるだけであって、それを知ることはできない。意識の変化は、事物の情態性の変化(トレマ期)、コンテキストの変化(アポフェニー期)、世界の変化(アポカリプス期)として現れてしまう。意識の知る働きそのものを還元して、意識の行為として何が起きているかを考察する仕組みが必要となる。(現象学の手直しが必要となる)ことに還元の内実を換えなければならない。体験的プロセスのさなかで隙間を開くことに力点を置く。
自己組織システム3
神経系を事例にとると、事態は一挙に複雑になる。神経システムを生命の基本的な本性を含んだシステムだと考えると、システムの仕組みから考案しなければならない。神経システムは、外界に適応しようとしてはおらず、神経系の生き残りだけで作動する。にもかかわらず神経システムによる身体制御は、外界に適応する。したがって神経システムの再生のためには、環境設定だけでは足りておらず、視点を二重にしなければならない。ひとたび破損した神経系を再生させるためには、環境に適応させようとすることは神経システムの本性に適っていない。
自己組織システム4(視点)
生命システムで生じていることは、飛行機で生じていることに似ている。パイロットは外界に出ることは許されず、計器に示された数値をコントロールするという機能しか行わない。パイロットの仕事は、計器のさまざまな数値を読み、あらかじめ決められた航路ないし、計器から導かれる航路にしたがって、進路を確定していくことである。パイロットが機外に降り立つと、夜間の見事な飛行や着陸を友人からほめられて当惑する。・・・というのもパイロットの仕事は、観察者が記述し表そうとしている行為とはまるで異なっているからである。外的視点と内的視点の変換不可能性(理解可能性が破綻する、解釈学の限界)クジャクのメスは、オスの羽の目の数が140以上のオスに求愛する。しかし目の数を数えているはずがない。カメレオンは、自分の身体色を環境に似せて変えるが、環境の色と自分の体色を比較照合して変えているはずがない。神経系にとっての健康は、観察者が見たときと、システムそのものにとっての事態が別れてくる。ニューロンの総量は、基本的には年齢とともに減少し続けており、機能的特定化の方向に向かう。特定機能化することは、神経系の対応可能性を狭くし続けることである。
自己組織システム5(プロセス)
家を建てる場合を想定する。13人づつの職人からなる二組の集団をつくる。一方の集団には、見取り図、設計図、レイアウトその他の必要なものはすべて揃え、棟梁を指定して、棟梁の指示通りに作業を進める。・・・もう一方の13人の集団には見取り図も設計図もレイアウトもなく、ただ職人相互が相互の配置だけでどう行動するかが決まっている。職人たちは当初偶然特定の配置につく。配置についた途端、動きが開始される。こうしたやり方でも家はできる。アリやハチが、巣を作るさいに、あらかじめ談合して設計図を見て作っているとは考えられない。目的が決まった時、それを実現するためには、目的に向かうような目的合理的行為で形成されているとは限らない。まったく別の回路で形成されている可能性があり、プロセスの連動から作られている可能性が高い。溶液中で結晶が形成されるとき、溶液内の生成プロセスは継続するが、一つ一つの生成プロセスは、結晶を作ろうとして、作っているのではない。生命の生成プロセスは、目的(結果)に向かうように進行しているとは考えにくいが、にもかかわらず結果は合致する。
オートポイエーシス1
オート(自己)+ポイエーシス(制作)というギリシャ語からの造語で、マトゥラーナによって作られた。神経システムをモデルとして、後に生命システム一般に拡張された。ヴァレラは独自の展開を試み、社会学者ルーマンも独自の展開を試みた。つまりどこに力点を置くかによって相当に異なるシステム論として展開できたのである。カワモトもまたまったく異なる展開を行った。
オートポイエーシス2(200年聖歌)
オートポイエーシス3(ヴァレラ)
オートポイエーシス4システムの拡張:
システムとは、行為もしくはプロセスを基本単位とするネットワークであり、おのずと作動しつづけることが、同時に現実性の出現につながるような設定が可能となる。つまり新たな変数の出現を内在化させている。システムの特徴は、問題への直接解決ではなく、システムの作動が同時に問題の解消となるような間接的効果を主要な手法とする。意識の努力に換えて、気付いた時にはおのずと問題解消が実現するような仕組みとする。システム・デザインは現在の哲学の別名であり、哲学がいまだ有効に扱えていない課題への対応を試みる投機である。
オートポイエーシス(定義)5
オートポイエーシス・システムとは、構成素が構成素を産出するという産出(変形および破壊)過程のネットワークとして、有機的に構成(単位体として規定)されたシステムである。このとき構成素は次のような特徴をもつ。(1)変換と相互作用をつうじて、自己を産出するプロセス(関係)のネットワーク、絶えず再生産し実現する。(2)ネットワーク(システム)を空間内に具体的単位体として構成し、またその空間内において構成素は、ネットワークが実現する位相領域を特定することによってみずからが存在する。(マトゥラーナ、ヴァレラ、1980)質料性をもつ持続可能なシステムの必要条件を示している。
オートポイエーシス模式図
図の説明1
システムはプロセスのネットワークであり、それじたいを観察によって提示することはできない。プロセスからある現実性のまとまりが出現する。そのまとまりのある単位を構成素という。このまとまりは、質料性によって規定される。システムと構成素の間の関係が、産出的因果となる。産出的因果には、原因=結果という定式化が当てはまらない。過飽和の霧から雨滴が出現することに似ている。構成素は、観察できるものでなければならない。(経験科学との接続可能性の要請)この構成素がプロセスを再起動させる。この再起動が起きない構成素は、ただの老廃物もしくは糞になる。システムと構成素の間の循環が上の円環でSichと呼んでいる。この円環は純粋に産出的循環であり、いまだ特定の空間を占めない。下の円環は、構成素のまとまりのようなものであり、循環性はないが、接続関係はある。ここをSelbstと呼んでおり、構成素の接続関係で、特定の空間を指定する。この空間は、つねに位相空間である。オタマジャクシがカエルになるさいには、Selbstを自分で破壊し、再度組み立てる。もはやオタマジャクシでもなくまだカエルでもないプロセスがある。
図の説明2A
こうした仕組み(メカニズム)は、個体化の仕組み、しかも二重個体化の仕組みを示している。それはおのずと個体化する。外的な制作者による産物でもなければ、みずからが主体的に個体化したものでもない。カントの有機体論では、(1)部分は、相互に原因にもなり結果にもなって、一まとまりの全体を形成する、(2)各部分はそれぞれ全体との関係をもつ[原型的関係](骨を1本見るだけでも全体をイメージできる)、(3)破損した部分は、一切の制作者に依存せず、みずから部分を自己制作する、を特徴とする。これは形成完了後の個体性の必要条件でもある。ここから個体化をプロセスとして再度設定しなおすことが必要となる。部分の集合の範囲がどのようにして決まっているのか。何かが集合の範囲をあらかじめ決めていれば、原個体性がどこかに前提されてしまう。たんに個体化が偶然起きるだけであれば、個体の維持にかかわる新たな原理が出現してこなければならない。(観念論とも経験論とも異なる回路が必要となる。)産出的循環から、継起的におのずと個体化が進行する仕組みが、同時に要素の範囲を決めていかなければならない。
図の説明2B
産出的働き(私=自我)が、(私=自我)を作り、作る働きも私であり、作られたものも私である。作る働きと作られたものが、同一であるという場面で設定されたのが、フィヒテの「事行」(『全知識学の基礎』原則論)である。事行は、無限後退を避け、にもかかわらず出発点が確保されるための苦心作である。そうしておかなければあまりにも多くの出発点が出現してしまうのである。このとき任意性に付きまとわれて困るのは、基礎づけ哲学だけで、それ以外には誰も困りはしない。拠点を築くことは、哲学の必要条件ではない。現実に可能な豊かさを示すためには、拠点ではなく、どのようにして経験は動き、変わりうるかを示すことが必要となる。一般に、芸術的制作を考えれば、作るものと作られた作品は同一となることはほとんどない。そのため事行は特殊な前提のもとでしか成立しない。事行は、『全知識学の基礎』以降の知識学では、語られなくなる。産出されたもの>産出するものの場合、産出的作動の継続産出されたもの<産出するものの場合、古典期の理神論(スピノザは例外)
図の説明3
マトゥラーナ、ヴァレラ二人の定式化は、上の自己しか定式化していない。社会学者ルーマンは、下の自己を基本的に活用した。上の自己は、自明の前提である。ただし下の自己は、時として全面的に組み替えられる。ルーマンの場合には、個体化がすでに機能的に安定した場面だけを扱っている。すでにある機能システムをオートポイエーシス用語で言いかえている。記述的システム論の膨大な体系を築き上げた。マトゥラーナ、ヴァレラの定式化は、本人たちの構想したことをうまく定式化できていない。制作的な体験的行為場面では、これはごく普通のことである。フッサールも本質直観の定式化を誤り、ギブソンもアフォーダンスの定式化を誤っている。言語的定式化を意味として理解するのではなく、それに対応する経験を行うことが必要となる。言語と経験の間には、オーダで三ケタの隔たりがある。本は捨てるために読む。つまりこうした構想は、作り変えて前に進まなければ意味がない。
図の説明4
こうした模式図を頭に入れて、それをすでに現実化した事象に応用して、記述の仕方を変えることは、このシステム構想の本意ではない。またもっとも優れた活用法でもない。個体化の仕組みは、理解‐応用という学習の習い性を超えてしまう。オートポイエーシスへの最大の誤解は、「どう使ったらよいかがわからない」という疑問にある。そうした疑問を持つ人は、理解して道具的に利用したいのである。つまり経験の仕方が狭いために、どうにもならない。ある場所に行ってみる。その場所に佇み、その場所のプロセスのさなかで、何から立ち上がってくる。それが継起性をもてば、自己組織化の局面に来ており、そこに個体性があればオートポイエーシスの局面に来ている。つまり個体性の出現に遭遇しなければならない。オートポイエーシスはおのずと個体性が出現し、現実性が成立するための仕組みであり、その場面を捉えなければ、オートポイエーシスではない。こうした経験のあり方が、オートポイエーシスの方法である。(方法1)
図の説明5
たとえば鳥の羽は、当初体温調節のために出現し、機能的に安定化(個体化)する。それがどこかの段階で、飛ぶための器官に組み替えられていく。すると意識は、当初何のために出現して、どのように変化してきたのかを問うような「意識の起源史」が可能となる。意識はおそらく集中-解除にかかわる度合いの調整の場として出現し、人間の言語によって歪な変形を受け(作用性の線型化)、ユダヤ教によって極限の一歩先を自己の境界として変形し、ソクラテスによって知ることと知ることの限界に特化し、デカルトの反省によって反省型が安定した、と考えられる。その後シェリングの「みずから自身を直観するためにみずから客体となる」という制作的な働きが提起されたり、クオリア(自己感触)が提示されたりもしたが、意識は現時点では「知るという働きの過剰現前化」のままである。19世紀初頭に統合失調症が明確な形で出現してくるが、そのさいの意識変容は何が起きたのかよく分からない。出現の仕組みと機能変容の出現を解き明かすような作業が、オートポイエーシスの方法的場所(方法2)となる。たとえば意識が意識であることによってまさに思い起こせない過去(先験的過去)を行為として事象化する。個体は、それ固有の先験的過去をもつ。
問題の由来
生命の四特徴自律性
個体性境界の自己決定
入出力の不在
最初の3つの規定と最後の一つの規定は、整合的ではない。領域化と境界の形成(内部も外部もない)強度と測度
発生的説明溶液中から、結晶が析出するさい、結晶を副産物だと考えてみる。化学反応式は、誤った表記を行っている。生成プロセスは継続し、その途上に副産物が析出する。「生成プロセスが次の生成プロセスの開始条件になるようにして接続した生成プロセスのネットワーク」というように定式化すると、各生成プロセスは、次の生成プロセスに接続することと、結晶を外に排出するという二重の作動を行っていることになる。結晶は、生成プロセスの排出物(糞)である。この排出物を、生成プロセスの継続の調整要因として、循環関係様に組み込んだとき、オートポイエーシスが出現する。
定義の変更
オートポイエーシス・システムとは、反復的に要素を産出するという産出(変形および破壊)過程のネットワークとして、有機的に構成(単位体として規定)されたシステムである。(1)反復的に産出された要素が変換と相互作用をつうじて、要素そのものを産出するプロセス(関係)のネットワークをさらに作動させたとき、この要素をシステムの構成素と言う。構成素はシステムをさらに作動させることによって、システムの構成素であり、システムの作動をつうじてシステムの要素の範囲(自己=Sich)が定まる。(2)構成素の系列が、産出的作動と構成素間の運動や物性をつうじて閉域をなしたとき、そのことによってネットワーク(システム)は具体的単位体となり、固有領域を形成し、位相化する。このとき連続的に形成される閉域(自己=Selbst)によって張り出された空間が、システムの位相空間であり、システムにとっての空間である。(2000年、再定式化by河本)意味を取ろうとするのではなく、その場面の現場を経験することが必要である。
システム
一般の創発システムは作動することによってそのつど集合を決める。要素の集合は連続的に変化する。継続的に作動可能な要素を人工的に導入することで、システムの作動モードと構造を変えることができる。たとえば植物性廃棄物を肥料に変えるサイクルが出現すれば、車の車体をすべて合成樹脂に換えた方がよい。境界の感覚は、主体とも主観とも異なる。境界は、内部でも外部でもない。境界の分析によって、東洋知の大半は、認知科学的分析へと転換できる。唯識ではなく唯行。知るとは異なる行為知へ(知識から賢明へ)
創発の由来1
オートポイエーシスは、作動の継続だけが必要条件であり、構成素は大幅に代わってよい。両生類の変態では、作動の継続だけで、構造的部材を組み替えている。新たな構成素の出現はつねに可能状態にある。時として、新たな構成素群(既存のネットワークに収まらない)が部分的ネットを作ることがある。心的システムでの妄想、生態での新たなニッチの出現、発生での異形成は、新たなネットの出現である。このネット間の関連は一般にカップリングと呼ばれる。カップリングは、複数の作動するネットワークが相互に決定関係のない媒介変数を提供し合っている関係である。
創発の由来2
内外を区分することは境界の出現である。オートポイエーシスの場合、作動を続けることが「すなわち」内外の区分の出現であり、それによってはじめて内部と外部が出現する。そのためこの境界は、界面ではない。界面は、観察者が外から二つのものの接点を見ている。界面での相互作用が問題になるのではなく、境界そのものの出現が課題となる。境界で起きることは、境界の形成であると同時に、境界とは別様の機能性を出現させることである。比喩的に語ってみる。円を描くように走り続ける。ただ走り続けるのである。そのことが同時に内外の区分を行う。これが二重作動の基本形となる。
システムの境界
システムー環境
個体が出現したとき、個体はつねに世界内の不連続点である。そのとき個体と環境との関係を捉えることは、容易な課題ではない。個体化とは世界内に不連続な落差を生む仕組みでもあるから、個体化するものは世界内存在ではありえない。そこに独特の多くのカテゴリーが出現してくると考えられる。新たな事態に直面したとき、いっさいの既存のカテゴリーを括弧入れして(現象学的還元1)、その場所で何が起きるかを経験のなかで出現してくるまで待ち、そこから隙間を開くようにして記述していく(現象学的還元2)。しかもプロセスのさなかにあるもの特有の還元(システム的還元)が必要となる。つまり意識からはもはや捉えることはできず、行為のさなかに含まれている事象の考察が必要となる。(方法3)
相即相即:
競泳のアスリートが競技を終えた後、ゆったりと横泳ぎしていることがある。このとき水の流れを身体の周囲に作り出し、この流れに身体の動きを乗せている。競技用のクロールは、水の粘着性に働きかけて、自分の身体の方を動かし、蹴り足は水の反発性に働きかけている。身体の運動をつうじて同時に環境特性に働きかけている。身体運動とともに、環境特性に関与する場面が、相即(コーヒレント)である。身体運動をつうじてそれまで気づかれていなかった環境特性を発見すること
浸透
自分自身を形成することが、同時に環境を受容しているような事態—重力や光や空気(湿度)この場合感覚(器)の形成そのものに関与している環境があることになる。重力を受け取ろうとして受け取ることはない。すでに受け取ることができているが、受け取りの身体モードは、それを感じ取る度合い、感じ取りのモードによって変化する。空気を呼吸しようとして、受容しているのではない。空気の受容は、生きていることとともにすでに行われてしまっている。それの受容が生きていることと地続きにすでに成立している場面が、「レヴィナスの他者」である。
二重作動1
いま円を描くように走り続ける。本人はただ走り続けているだけである。しかしそれによって同時に、世界は二つに分かれ、内外が出現してくる。内外の出現は、本人の行為の意図とも、行為の成果ともかかわりがない。一切の目的論とも機械論ともかかわりがなく、行為は、それが遂行されれば、世界内になにかそれ以上の事態をおのずと出現させてしまう。この場面では、オートポイエーシスの最大の功績は、こうした行為遂行が同時に別様に何かを出現させる仕組みにあると感じられた。(『メタモルフォーゼ―オートポイエーシスの核心』2002年、青土社)これによってドゥルーズの差異化とは異なる仕組みで、世界の多様化を解き明かし、ドゥルーズと協同して、ヘーゲルの言語的記述から出てくる弁証法を無効にすることができると確信したのである。この著作は、10年経っても理解されている様子はないが、しかし本は良く売れている。つまり分からずに読まれている。二重作動は、後に障碍者のリハビリで、人見眞理が「デュアル・エクササイズ」として設定することになった。
二重作動2
閉域の形成だけでは、どちらが内でどちらが外かは決まらない。境界の形成は、世界を二つに分けるだけであって、どちらが内と外かを決めることはない。そこに触覚的認知が関与する。異なる二種類の細胞をばらばらにして混ぜると、一方の種の細胞が内側に集まり、他方はその周囲を取り巻くようになる。この場合にも、運動だけではなく、触覚性認知が働いている。この場面が、二重作動であり、二重作動はひとつの運動、一つの動作が、それとは独立な事態を出現させる場面で起きている。それは世界が多様化するさいの基本的な仕組みである。触覚性力覚はすべて二重作動である。二重作動の仕組みを事象の出現の基本様式として、事象そのものの成り立ちの考察に接続することができる。(方法4)
二重作動3
二重作動のような仕組みは、言語的に記述しようとすると、言語の線型性に妨げられて、うまく記述できないことがわかる。ここから人間の言語は、人間の経験にとって疎遠で、妨害的であるという結論となる。人間が発明したもののうち、言語は出来の悪いものの代表であり、こうした言語を用いているために、人間の経験は狭くなっている、と感じられる。そこである行為を行いながら、行為目的とも行為の結果とも異なるかたちで、プロセスのさなかにあって同時に別様に出現してしまう事態を何とかして語る仕組みが作れないかと試行錯誤した。それが『システム現象学』(2006年、新曜社)である。そのとき妨害になっているのは、言語だけではなく、線型に作動する視覚中心の意識(ノエシス-ノエマ・タイプ)でもあった。なんとかこの意識を別様に活用するために創発的体験の場面を繰り返し描こうとしたのである。初めて逆上がりができるようになった時、初めて自転車に乗れるようになった時、意識にとっては何が起きているかがわからない。そこにシステムの機構を補助機構として導入しながら、出来る限りプロセス内在的な経験を追跡できる仕組みを考案した。(方法3)内感領域を広範に導入したことになる。内感は、主として調整能力であり、行為の制御にとって不可欠である。
二重作動4
二重作動の典型は、実は触覚性経験である。触覚は、何かに触るさいに、同時に内在的な前方運動への運動や圧の調整を伴っていなければならず、その感触がなければならない。舌や鼻も類似しており、視覚がベースとなって組み立てられてきた人間の知識は、どこかで根本的な誤解をしていると感じられた。そこで触覚性の働きを明示して、そこから組み立てられる知と方法の再編が必要であると感じられた。(2010『臨床するオートポイエーシス』青土社)、その途中、記憶、発達ドライヴ、動作、能力そのもののような仕組みをさらに展開しておく必要があった。(2014『損傷したシステムはいかに創発・再生するか』新曜社)たとえば身体の重さは通常感じ取られていない。にもかかわらずエレベーターの起動時、停止時には体重が出現する。そうすると科学的重さ(60キログラム)と感じられている重さは対応関係も変換関係もない。内的なものと外的なものの間に変換関係がなければ、科学的データは成立せず、なんらかの現象学を残さざるをえない。(方法5)個体の内的感じ取りはどのようなものか。
諸々1
プログラムシステムの作動のプログラムは、通常の規則に従うものだけではない。規則の代表は、数学的関数と文法であるが、これに適合的なのは、思考、直観(知覚)、物体の運動ぐらいであり、感覚、身体、感情のようなものは、別の規則の枠内で作動する。この別枠の規則が、数学や文法形式では近似的にしか表記できない。ただちに応用、実用化できるアイディアを探して、使ってみるという発想は、選択肢を狭く設定しすぎている。プログラムが別様である可能性はつねに残る。つまりパラダイムを変えるのではなく、経験の仕方そのものを拡張する必要が生じる。
諸々2
意識の行為意識は知るとは異なるかたちで多くのことを実行している。たとえば(1)意識は注意の分散の場所として働く。(2)意識は感覚的な要素の範囲をみずから規定している、すなわちみずからの境界をおのずと決めている。(3)意識は反射反応を避けるように、みずから自身の内部に選択肢を作り出す。(4)意識は、集中‐解除の度合いを調整できる。(5)意識はみずからの変化を感じることができないために、意識そのものの変化を世界の変化として捉えてしまう。(6)意識は、みずからの起きる変化を、みずからの同一性が確保されるように、おのずと組織化する。この組織化の成果が意識の「自己」である。これらは今後も項目としては増えていくと思われるが、とりあえず精神病理で必要な限りの事項を列挙したものである。
諸々3 身体1身体 器官なき身体
ドゥルーズ、ガタリの言う「器官なき身体」のような身体の解釈を変える概念を持ち出すことは得策ではない。こうした概念は、どちらかといえば、身体の全体的イメージを代え、身体にかかわる言説を組み替え、解釈をただ全面的に更新しようとする戦略的試みである。それによれば.身体は、そもそも死に向かうような到達点へ向かうものではない。死は身体に起こることだが、身体そのものが向かおうとする目的でも到達点でもない。死は、身体にとってほとんど偶然的な事態である。また身体は、そもそも何かに役立つように形成されていくのではない。役に立つのは、身体の二次的な機能形成によるものである。身体は、それとしてみずからを消尽するだけである。これが器官なき身体の内実である。おそらくドゥルーズ、ガタリは、身体についての言説に染みついた機能性や目的性を一切解除するという戦略的な位置から、こうした「器官なき身体」を構想している。問題は、ここからの展開可能性である。
諸々3身体2
身体は運動体であるが、内的感じ取られ、イメージ的に方向づけられ、感触としての輪郭をもつ。意識と異なり制御変数が多すぎるほどである。それじたい外的指標と内的感触が対応しないほどの落差を作り出す器官でもあり、言語や知とは異なる機能系であり、言語や知を習得するようにしては、身体は形成されはせず、また動作は動作からしか形成されない。この点で能動-受動の反転は起こらない。メルロ=ポンティは、触覚の特性から語らなければならない場面で、眼差しを身体レベルに引き下ろすように語っている。そのためほとんどが比喩となる。動作には、受動、自動、被動、能動のように動きの感触に細かな区分が生じる。アスリートの走りは、腿が高く上がり、大きく足を回転させているように見えるが、アスリート自身は足が飛び石を伝うように真下に落ちるだけだと言う。動作の見え姿と、動作の感触にはギャップがあるだけではなく、変換関係がない。変換関係のないものが一つのまとまりがある場合が、カップリングである。最晩年のメルロ=ポンティは、これをキアズマ(異種交叉)だと語った。
カップリング1
異なる複数のシステムが連動していて、それぞれが固有に作動している状態が、カップリングである。双方のシステムから見れば、相互に決定関係のない媒介変数を提供し合っている作動状態である。どこを連動させるかによってシステムの作動状態に変化を及ぼすことができる。分離しないままになっている作動状態を別のシステムに分離させることをデカップリングという。コメの生産のためには、水田周辺の水の管理や下草、山間部の管理を行わなければならないが、それを農民が総体として行っている。これを水田でのコメの耕作と、生態系維持活動に分離して、別個に経済評価を行うことがデカップリングの事例である。カップリングは、連動の強さの度合いを変えることができ、その度合いの変更によって、現実性の可変性の幅を考察することができる。(方法6)
カップリング2A
連動しているものの力点を変える。各国の中央銀行は、過去三か月の景況感のデーターから、金利を決めている。景気が過熱しそうになると金利を上げて過熱を冷まし、景気が減速しそうであれば金利を下げて、景気を下支えすることになる。金利変動は、多くの場合景況感のデーターと連動させて操作されている。ここで金利を失業率に連動させてみる。失業率が下がり雇用環境がずっと改善しそうになると、金利を上げて失業率があまり下がらないようにする。失業率が上がり、雇用環境が悪化すると金利を下げて、景気刺激を行うように連動させてみる。この場合、中央銀行の金利操作は、失業率に連動させ、失業率を一定範囲内に維持するように操作されている。労働市場の個々人にとっては、同じ賃金であればさらに良い仕事ができる人たちの集合が増える方向に働き、同じ仕事であればもっと安い賃金で仕事を引き受けることのできる人たちの集合が増える方向に働くであろう。このことは労働分配率が急速に上がることを避け、個々人にさらに良い仕事をするように動機付けることにつながる。
カップリング2B
つまり賃金の総量の伸びを抑制し、仕事にさらに工夫を行うことを要求していることになる。金利の変動が直接効果をあたえているわけでないが、失業率が一定範囲内に維持される労働市場では、派生的に固有の動きが出てくる。この場合には、どの程度の範囲の失業率であればこうした仕組みが機能するのかが、同時に問題になってくる。失業率が、15%を超えたり、逆に2%を下回るような場合には、こうした労働市場での効果はそのまま維持されることはなく、まったく別の動きが出てしまう。デモや暴動が起きたり、逆に失業保険を有効に活用するような動きが出てもおかしくないのである。そうだとすると、カップリングのような緩い連動関係では、一方のシステムの条件が変わると、連動関係そのものが解消してしまうことがあるに違いない。カップリングは、とても緩い関係であり、その緩さをさまざまなかたちで活用することができる。
カップリング3(作品制作)(方法7)
学際的研究1
オートポイエーシスの一般的定式化を、さまざまな領域に適用する。公式(法則)の適応、記述的定式化を競う手法であり、記述のための道具立てを変えていく方式である。ルーマンの場合には、こうした一般システム記述の方法を開発した。同じ仕組みを多領域に応用するという一般的な手法にしたがう。この場合の要点は、(1)二分法コードの形成(記述システムの分化)、法/不法(法システム)、真/偽(科学システム)、内在/超越(宗教)のように各システムに固有のコードを見出すこと、(2)コードのもとで形成されるプログラムを生成プロセスにあるものとして解明することである。二分法コードは、言語の肯定・否定や、法システムでの有罪・無罪のような両極化を活用している。その中間にも多くの事柄があり、各法の接続にも選択肢がある。
学際的研究2A
領域化(分化)がなされ、それが安定してくれば、システムの内外区分が生じるので、二分法コードが適用可能になるが、領域化そのものはどのようにして生じるのか。たとえば保険のシステムはどのようにして創発するのか、というようなことが問題になる。現場でシステムが立ちあがってくるさいのその立ち上がりの経験を、プロセスとして考察する。システムの立ち上がりの固有性をどう考えるか。たとえば保険システムの出現で考えてみる。保険はリスクに対しての備えであり、リスクへの補償の負担を、多くの参加者で分担する仕組みである。これはかなり多くの参加者がなければ、成立しないシステムである。こうした参加者は、どこから出現してくるのか。いまインド洋からアフリカの南端を回り、ヨーロッパへと至る貿易船を想定する。この船が無事にイギリスに到達するかどうかを巡って、イギリス人特有のトトカルチョが密かに行われていたとする。無事にたどり着けば、成功に賭けたものが分配金を受け取り、無事にたどり着かなければ、失敗に賭けたものが分配金を受けとる。掛け金が多くなると、リターンも多くなるので、この貿易船の持ち主には、こうしたトトカルチョが行われているという事実を知られてはいけない。
学際的研究2B
こうしたトトカルチョの参加者のなかに、こっそりと貿易船の船主が入り込み、失敗する側に相応の金額を賭けておくと、たとえ船がたどり着かず失敗したとしても、補償を手にすることができる。成功すれば、その掛け金は掛け捨てであるが、それを必要経費だと考えるのである。参加者が多くなければ、少額の保険で十分な額のリターンを得ることはできない。おそらく保険がシステムとして成立する前史に、こうした場面があったのではないかと予想される。ここから保険システムの成立までは、わずかの変化と条件付けだけで到達するのである。保険システムが出来上がってしまえば、個体化の完了であり、加入条件が、このシステムの境界を決める。こうした場面に見られるように、何かが出現してくるプロセスを追跡し、そこにそのシステムに含まれる偶然性、あるいは別様の選択肢がどの程度あるかを示して見せる作業が、出現のプロセスである。
神経系の再生に向かうリハビリ1
脳卒中、脳梗塞の患者は、多くの場合半身麻痺となる。一般に片麻痺と呼ばれ、130万人程度の患者がいると言われている。半身麻痺のために、麻痺している身体の運動を回復させようとする運動機能回復が行われる。しかし病的な症状は半身麻痺であるが、疾患の座は脳神経系である。したがって運動機能回復には、本来同時に神経系の再生を促すような治療が必要となる。(これは相当に難しい課題であり、痴呆、アルツハイマーの頻度を下げるような治療技法や日常訓練の開発が求められる。)また片麻痺の急性期には、麻痺側に働きかけると、破損部位からのノイズの出力を抑え、対側健側部位で補おうとする、強固な抑制の機構が作動する。つまり運動機能回復は、破損部位を抑えることと、代替機能回路の形成が自動的に進む仕組みを活用している。ネズミの人工的片麻痺実験では、破損部位を作り、麻酔を解くと、ただちに歩行を始める。破損実験以前と同じように歩くことができる。しかし人間の場合には、片麻痺後に健常歩行はほとんど不可能となる。人間の脳は、左右分担をして動作を形成している可能性が高い。左脳で、動作の順序を制御し、右脳で空間的位置の制御を行うように、左右脳で分担制御している可能性が高い。人間の動作は圧倒的に多様になりうるが、半側脳だけでは動作の制御は難しい。
神経系の再生に向かうリハビリ2
脳神経系の再生は、特定の機能回路を担うようには形成されない。神経系は自分自身で生き残ること(ニューロンの連動の形成)で生き残ろうとするが、結果としてそれが特定機能回路を形成することになったとしても、この機能回路に向かって形成されたのではない。神経系の形成と機能形成の間にはかなり広い隙間がある。動かない手を詳細に動くようにしようとすれば、細かく手を動かす訓練をするよりは、患側の手で物に触る訓練をしたほうが良い。物に触るとき、本人は物にうまく触ろうとするが、そのとき運動速度や触る圧の調整が行われている。意識的な経験では、現れないように行為能力の形成が必要となる。触覚性感覚の活用:触覚は、視覚や聴覚の比べて、機能分化していないにもかかわらず物の肌理や滑らかさについては、2500‐3000程度の度合いの区分ができるようである。
神経系の再生に向かうリハビリ3
統合失調症の場合には、精神の別の統一状態にあると考えられる。つまり意識の統一状態は、複数個あると考えてよい。意識の機能性:統一のモードの設定、境界設定(幻覚、幻聴)、集中‐弛緩の度合い調整、注意の選択の場を開く、というぐらいの意識の機能性を考えておくことができる。意識の境界は、比較的容易に変動する。集中‐弛緩の度合いの変動ができなければ、意識障害となる。ただし統合失調症の場合、一定の緊張状態を容易に解除できない。複雑さの度合いは健常者と変わらないが、別の複雑さのモードになっている。「健康」とは、本人の能力がさらに発揮しやすくなる可能性を含む状態のことであり、たとえ集合量からみて奇妙であったとしても、本人の能力(免疫、運動能力、生活力等々)の発揮しやすさの度合いを健康指標とする。
触覚性変容 介入
触覚は、それを担う特定の器官がない。しかしざらつき、滑らかさの度合いは、2千から3千区別できる。必要が生じれば、細かな細分化が起き、そうでなければ未分化なままに留まり、余分な反応はしない。触覚性の反応は、感じないことであり、感じないことを本性とする。視覚、聴覚のような精密機能はもたないが、精密さとは異なる精確さがある。視覚、聴覚は、機能変容が起きればただちにわかるが、触覚性緊張のようなものは簡単には機能疾患とは認定できない。ベルンの精神科医ルック・チョンピは治療のさいに、スポンジで覆った柔らかい部屋で行っていた。身体の緊張を解き、身体の内感の細かさを回復するには、触覚性の度合いにかかわる介入が必要となる。
証拠に基づく治療
治療現場では、「証拠に基づく治療」ということが、繰り返し言われる。立位ができ、歩行ができ、さらに歩行距離が伸びることは、実際のデーターとして示すことができる。しかしそうしたデーターに合わせるように、行為することはできず、訓練もできない。外からのデーターは、到達した成果についての指標である。それに合わせるようにして訓練を行うことはできない。むしろ個々の形成プロセスを接続していくように訓練を続け、その結果として外的データーに対応する状態に至るというのが実情である。しかも健常状態に近づくためには、いくつもの経路があり、それは個々人の抱えた条件に依存している。活用できる条件を最大限伸ばすようにして、全体的な組織化を行い、欠損のある部分がそこに組み込まれて欠損そのものの内実が変わり、さらにそれを開始条件として、次の形成プロセスを進む。これの繰り返しである。データーとはこうしたプロセスを外から見た目安に過ぎないのである。人間の認知能力からみて、行為の目的は必ず存在する。そのため行為目標に到達することを、個々の訓練の課題だとしがちである。しかしそこに結果として到達するためには、いくつもの回路があり、個々の局面での指示は、本人にとっても選択肢となり、自分自身での制御が獲得され、かつ能力そのものが形成されるように行うことが必要となる。治療結果とプロセスの分離(方法8)
外的指標と内的選択肢1(方法9)
スキーのジャンプでは、飛び出すときは時速90kmほどにもなる競技である。トップ選手でも飛び出すときに後ろに体重が残って飛型がきれいに出ない場合もあり、また飛距離がでないことがある。そのときどう指示するかが問われる。「踏み切りを少し早くしなさい」と言っても、時速90kmの状況である。意識のなかでの制御や心持を早めにという程度では、まったく有効に働かない。八木弘和コーチは、飛び出すとき、たとえば100m先を見ている選手に対して、「100mの10cm先を見るように」という指示を出すと言っている。「早く踏み切れと」と言われても、どうすることなのかがわからず、むしろ緊張が出て逆効果になるような場面では、本人自身のなかにある選択肢を活用する以外にはない。「早く踏み切れ」という指示は、本人にとっての選択肢になっていないのである。この局面で、本人にとっての選択肢を活用するように指示を出す。すると意識の制御とは異なるかたちで、現在の行為に対しての選択肢の幅を開くことができる。
外的指標と内的選択肢2 身体制御
ゴルファーの青木功プロは、他人のスイングを見るのがうまいと言われている。プロの選手でも、スランプの時期は必ずあるらしい。スランプは、かなり高級な感覚であり、状態である。かつてできたことが出来なくなっている状態なので、本人の持っている能力の上限辺りで仕事をし、行為している人にしか起こらない。青木プロは、他のプロからスイングを見てほしいと相談を持ちかけられるようである。そこで、テークバックで手が硬くなっている、というのがわかったとする。そうした局面で「その手が硬くなっているから力を抜け」というのが普通の観察者の指示である。手が硬くなっているのは、プレーヤー本人の必死の工夫の結果起きていることである。そのため、その指示がどうすることかは分からないし、かりに力を抜いてしまえば、さらにスイングが悪化する。プロだから、啓蒙的であったり、教育的であったりするとは思えない。たとえば「前足の親指に少し力を籠める」という指示を出したとする。これは選択肢として活用できていない箇所に選択肢を入れていくやり方である。しかも本人にとっての選択肢となっている。そこに選択肢を入れると、身体動作そのものの制御変数が変わっていく。
外的指標と選択肢3
外的基準(健康状態、必要条件、正規の手続き)との比較で、そこへと向かうような治療、教育、支援は、多くの場合、労力だけはかかるがほとんど事態とすれ違ったものになる。到達目標に向かうことが、最短回路だとは限らない。内的選択肢は、「最近接領域」(ヴィゴツキー)の範囲で設定される。内的プロセスは、次の内的プロセスに接続されるが、その間の選択性をどのようにするかが重要な分岐点となる。(半)自動的選択が進行する場合には、行為的な隙間を開くことが必要となる。(『飽きる力』NHKブックス)
重力を感じ取る
光を感じ取る
まとめ
1)プロセスのさなかでの現実性の出現(継起性、個体性の事象の出現)
2)プロセスとしての事象の出現の仕組み(意識が現に意識であることによって、すでに思い起こせなくなっている先験的過去)
3)システム-環境のカテゴリーの解明、システム的還元
4)二重作動のカテゴリーの整備と事象の成り立ちの考察
5)触覚性事象の解明(意識を視覚モデル[ノエシス-ノエマ系]とは異なる仕組みで語ること
6)カップリングの連動の度合いを変え、事象の可変性の幅を考察する。
7)カップリングを変数の増大としてばかりではなく、カップリングの出現を制作として活用する。
8)プロセスの成果とプロセスの進行の分離
9)外的指標と内的選択肢の分離