カフカ システムの日常 『プロセス(審判)』をめぐって
意識にはさまざまな世界が浸透している。意識はみずからの作動によって自己の境界をひき、さまざまな浸透する世界を自己の環境へと区分している。目覚めきった意識は、みずからの境界を自覚的に区切り、その境界がどこにあるのか気にも留めない。
目覚めつつあるとき、意識はみずからの境界そのものをぼんやりと浮かび上がらせる。半睡半醒の朝には、意識はみずからの境界を自覚的に区切ることができず、夢とも現ともさだかでない浸透する世界がそのまま立ちあらわれてしまう。そのとき境界そのものの経験が成立している。境界そのものにおいて、世界は二重分節する。それはちょうど日の丸の赤い円の淵を疾走しつづけるときの光景に似ている。走り続けることで眼前の光景が、赤と白に二重化する。海岸線の列車は、走り続けることで海と陸を切り分け、滑走するモーターボートは、走り続けることで空と海を切り分ける。境界において世界には内部も外部もなく、裏も表もない。両者が裏合わせに重なっているというのは、二重分節化した世界を観望している観察者の言い分である。むしろ意識は作動しつづけることで、世界を二重に分節する。
ヨーゼフ・Kは三十歳の誕生日の朝、陳瀧とした意識のなかで突如逮描されていた。逮捕の内容も執行人の素性もさだかではない。何一つ悪いことをした憶えもないのである。しかも執行人のなかには、ヨーゼフ・Kの勤務先である銀行の下級職員とおぼしき人物が三人いる。奇妙な逮捕である。拘束もなく、取り調べもなく、いつものように銀行に出かけていくのは自由である。意識の境界にあって銀行の業務主任である世界と逮捕された世界が二重分節している。逮捕された世界は境界にあって分節しているだけで、まだ作動していない。これはまさに境界の経験であって、いまだ浸透でもなく、相互浸透でもない。拘束がないのはむしろ自明のことである。銀行員である日常システムに、訴訟システムが二重に重なっているというのではない。二つのシステムの重なりあいという視点は、後に形成されていく訴訟システムを、あらかじめ前提しているにすぎなくなる。しかも日常のシステムは、重ね描きの基盤になるほど確固としたものではない。日々の行為を反復することで、かろうじて同一性を維持しているだけである。とりわけ行為からいつも自己意識がはずれてしまうヨーゼフ・Kにとって、日常システムはいつ変貌してもおかしくないのである。行為から自己意識がはずれるというのは、意図した行為を行いながら、自己意識がそこからずれつづけ、果てはみずからの意図した行為を、自己意識が裏切ってしまう緊張状態を意味する。そのためヨーゼフ・Kは、いつもざわめくようにして日々の日常を作り出さなければならなかった。
『プロセスDer Prozess 』(過程、訴訟)と題されたこの作品は、半睡半醒の境界の経験からはじまる。目覚めきった意識にとって、訴訟システムは曖昧な気がかりを残すだけの環境に区分されている。だが二重分節した二つのシステムがともに作動を開始し、作動する二つのシステムの間を経験が行き来し始めるとき、そこに相互浸透が生じる。日常システムに浸透している訴訟システムが作動を開始し、経験は二つのシステムの間をまるで強いられているように移行しつづける。このとき日常システムと訴訟システムの間で相互浸透が生じているだけではなく、相互浸透する二つのシステムの浸透の度合いもまた変化していく。相互浸透の境界変動が繰り返され、やがて一方のシステムが他方のシステムの隅々にまで境界を引き直し、ついには相互浸透が消滅するまでの過程、それが『プロセス』である。
この作品の発表当初より、章立ての異同についてさまざまな提案がなされ、削除された箇所のつながりについても議論があった。たしかに各章には必然的なつながりがなく、叙述は枝分かれしシステム分化を行う生成プロセスのように描かれている。章立てはまざれもなくリゾーム状である。そのためしばしばカフカの長編は終ることができない。終章の主人公ヨーゼフ・Kの処刑の場面は、一見すると終ることのできない作品を無理やり終らせるための構成上の技法であるように見える。主人公を消滅させるのが、最も手っ取り早い方法だからである。だがこの作品は実のところ終章以前に半ば必然的に終っているのである。
『プロセス』は一貫した物語性を備えている。章立ての上で、リゾーム状にシステム分化していく叙述が、なぜ一貫した物語性をもちうるのか。そこに相互浸透の謎がある。境界において二重分節した世界が、それじたいの作動によって別々の世界を形成し多数多様体へ向かうのではなく、相互浸透によって相互に貫入し浸透して、内的関係を形成することができる。ちょうどたっぷりと水を含んだスポンジのように、ガラス製の花瓶の表面の色と硬さのように、あるいは免疫システムと体細胞システムのように、異質なものが互いの環境となって浸透している。質を異にし、カテゴリーを異にするものが、それじたいの動きによってみずからの境界を形成しながら連動するとき、相互浸透の生成によって、新たな記述の次元を獲得することができる。統合もなく集約もなく、なお一つの生成を語ることができる。
覚醒した意識は、みずからの作動によって自己の境界を区切る。そのことによって浸透しているもろもろの世界は、日常の環境へと区画される。そのとき意識はそれがなんであるかを知りようがない。というのも環境は、意識みずからが作り出す位相学的外部だからである。ヨーゼフ・Kが巻き込まれていく訴訟のシステムは、無意識の世界をあらわすものだ、潜在的な原罪意識を示すものだ、あるいは東欧で進行しつつあった政治的な秘密組織を陪示するものだというような多様な解釈がなされてきた。そして象徴的な解釈を含めれば、今後も際限なくこうした議論を行うことができる。みずから自身の行為をつうじて環境に区分されたシステムは、自分自身にとってはどのようにしても明らかになりようがない。浸透しているシステムについてどのような解釈を行おうと、すべて幾分か当たっており、すべて幾分かはずれてしまうのはこのためである。問題になるのは、訴訟システムが何を象徴しているかではなく、むしろそこでどのような経験がなされているかである。オートポイエーシスは、この点にねらいを定める。
銀行の業務主任としての覚醒した意識にとって、訴訟システムは漠然とした気がかりを残すだけの浸透した環境にとどまっている。事実なにひとつ拘束されない逮捕なのである。相互浸透の生成プロセスにおいて、劇的な転換が生じるのは二箇所である。訴訟システムが理由にもならないささやかなきっかけによって作動を開始してしまい、システム-環境関係が二つの相互浸透するシステム関係に変換する場面と、二つの相互浸透するシステムのうち一方から他方へと移行できなくなり、相互浸透そのものが消滅する場面である。『プロセス』では、これらの場面はとり立てて言うべきことでもないありふれた日常の一コマとして、通りすぎるように描かれている。
ヨーゼフ・Kは、逮捕された次の日曜日に彼の件でちょっとした審理が行われることを電話で知らされる。審理の日が日曜だと決められたのはKの勤めの妨げにならないようにである。いったい日曜日に出勤する裁判官がいるのだろうか、逮捕しておきながら勤務の都合を優先する裁判所があるのだろうか、と訝しがるのが常識である。せいぜいのところ手の込んだいたずら電話である。ところがヨーゼフ・Kは、これはどうしても行かなければならない、訴訟が始まったのだからこちらもそれに対抗してかからなければならないと即断する。何が起こっているのかもわからず、それどころかほとんど何も起こっていない。にもかかわらず起きていないことに決着をつけようと決断するのである。これは決定的であった。
日常システムに浸透していただけであった訴訟システムが、このヨーゼフ・Kの決心によって動き始めてしまう。訴訟システムに対抗しようとする行為そのものが、訴訟システムを作動させてしまい、訴訟システムと日常システムはここで相互浸透の関係に入る。システムの作動は、どのようなささやかなきっかけによっても開始される。ただの偶然ということもある。ヨーゼフ・Kは行為に対して自己意識を先行させている。行為をつうじて自己の境界を区切る以前に、自己意識によって自己の在り方を定めている。いわばいつも身構えているのであり、予期のうちにしかない出来事を、決断という行為によって確定させでしまうのである。
システムは行為そのものによって作動する。行為にどのような意図を込めたかにはかかわりがない。訴訟に対抗しようという意図は、まさにその意図を込めた行為そのものによって、訴訟システムを作動させてしまう。これを自己意識の側からみれば、自己意識によって意図したことを、行為が否応なく裏切ってしまうことになる。こうした事態はかつて不条理だと呼ばれた。これはぽっかりと想起されたある観念を打ち消そうと必死になっているうちに、観念そのものが肥大化していく場面に似ている。行為が反省的な意識を裏切り、反省的な意識の行為が、それじたいを裏切ることは自己意識に本来的なものである。だが現実に生じていることは、自己意識に満ちた観察者が、システムの作動を半ば必然的に誤解してしまうという事実である。
『プロセス』では、身近かに登場する女たちとの関わりが断続的に各章にちりばめられて描かれている。女たちとの関わりには共通の特徴が見られる。一週に一度は訪ねてベッドを共にしている酒場勤めのユルザとの関係も、何かの口実を見つけて関わりをもちたいとたくらんでいる隣室のビュルストナー嬢との関係も、弁護士の看護婦兼情婦であるレーニとの関係も、どこか作為的なのである。ヨーゼフ・Kの女たちに対する大袈裟な情熱的行為と発話にもかかわらず、それこそ作為である。深夜にビュルストナー嬢を待ちかまえて、顔面全体にキスをあびせたり、弁護士に依顕に行きながら、レーニといちゃつくだけに終るなど、見かけ上ヨーゼフ・Kは騒々しいほどに行動的である。行為に対して、いつも自己意識がはずれてしまう以上、あらゆる行為が作為にみちた騒々しさを帯びている。みずからの行為に対して自己意識がはずれてしまう場合、通常人間は緊張感をただよわせている。行為を意図的に行いながら、身構えて行為そのものに距離をとろうとしているため、行為に対して自己意識がずれつづけてしまう。これは行為を行いながら、ふと気が抜けてしまうことではない。たとえば現に生じている事態を理解しようと行為しながら、理解と同時に自己主張しようとして、自己意識が身構えている場面に似ている。だが日常システムのうちでは、その程度のことはすべて許容されるはずである。少々変わった人、どこかギクシャクした緊張感の抜けない人、不健全なほどただひたすら元気一杯の人と理解されるだけである。だが訴訟システムとの相互浸透にあっては、相互浸透そのものをある方向にどんどんと追い込んでしまう。もちろんシステムの作動を見誤るってしまう自己意識(観察者)は、そのことに気づくことができないのである。相互浸透する経験において、行為は自在にかたちを変えなければならない。それぞれのシステムにおいて反復可能なように行為できる自在さが必要になる。そのことによって経験はみずからの境界を突破しながら、新たな領域へと自在にかたちを変えていく。だが行為するごとに自己意識がはずれてしまうヨーゼフ・Kにとって、自己意識そのものが相互浸透の外に出てしまう。あれほど活動的でありながら、経験の形態は何一つ変わらないのである。そのため自己意識(観察者)は相互浸透する事態をまったく理解できないまま、ついに存在する場所をもてなくなる。
動きはじめた訴訟システムは、ヨーゼフ・Kの行為によってしだいに境界を変える。この作品が丹念に措いているのは、境界変動のプロセスである。それはおよそ次のようなものである。日曜日の朝、町はずれの建物へと出かけていき、ヨーゼフ・Kがドアを開けるとすでに裁判は開始されていた。裁判所は日常システムとはへだたった空間に設定されている。そこでヨーゼフ・Kは突如演壇に立ち、訴訟に問われていることの不当性に対して、この訴訟は私が訴訟手続きとして認めたときにのみ訴訟手続きになるのだと、場違いな大演説を開始する。誰も聞いてはいない。憤慨しながら裁判所を後にして、それでもヨーゼフ・Kは軽い解放感を感じ取っている。
次の週の間、ヨーゼフ・Kは裁判所からの連絡を待ちつづけている。拒否しようとしている訴訟システムからの連絡を自分で待ちつづけているのである。だが連絡はなかった。通知がないので、日曜日になると今度は自分で出かけて行ったのである。訴訟システムは自覚的に自分で動かすものになっているのである。裁判所のなかを歩くうちに、船に酔ったように身体感覚が変化しはじめる。廊下に多数の被告たちが深刻に沈黙しながら並んでいる。出口を教えられても動こうとしない被告たちである。二度目の裁判所への来訪から帰ろうとすると、すでに出口では強い抵抗感が生じる。訴訟システムのうちを作動することによって、ヨーゼフ・Kは意図せずみずからの訴訟システムの構造構築を行っていることがわかる。
ヨーゼフ・Kの日常システムのなかに、訴訟システムが広く境界をひきはじめるのは、銀行の事務所のがらくた置場で、苔刑を目撃してからである。答で打たれているのは、ヨーゼフ・Kの監視役になっている二人であり、しかもそうなったのはKが彼らのことを予審判事の前で非難したからである。訴訟システムは、空間的な異界として町はずれに存在するのではなく、日常の細部にまで浸透し境界をひき始めている。ヨーゼフ・Kが訴訟にかけられていることは多くの人が知るようになり、彼自身も一種の説明もつかない満足感を覚えながら、知人たちにこの訴訟のことを話したのである。訴訟を受け入れるかどうかの選択が消滅し、もはや訴訟システムに踏み入る必要もないほど、訴訟システムは日常システムの内部に境界をひいている。ヨーゼフ・Kは日常システムのなかにいて、同時に訴訟システムのうちで行為するようになる。
この場面でもなおヨーゼフ・Kは訴訟システムに対抗しようとする。だが対抗の場所は、自分は無罪だと自分自身に言い聞かせるという自己意識のなかだけである。日常システムにすっかり浸透した訴訟システムに対して、なお観察者の位置を取りつづけることが、唯一の対抗手段だと誤解してしまう。観察者は当初よりシステムの作動を誤解していた。だがそれにも増して、この誤解のうちへ引き龍もることが訴訟への対抗手段だと自覚するのである。
訴訟対策のために、歴代の教判官の肖像画を措いてきた絵措きを訪れ、ヨーゼフ・Kは訴訟システムの作動の機構について情報を得る。だが観察者でしかないヨーゼフ・Kは、おそらくそれを誤解してしまう。絵描きによれば、無罪を勝ち取るためには、三種類のモードがある。本当の無罪と、見せかけの無罪と、先のばしである。これによって訴訟システムがどのように作動するかが、ヨーゼフ・Kにも読者にもはじあてはっきりしてくる。もちろん訴訟システムの本体は何もわからず、最終的に誰が動かしているのかもわからない。おそらく裁判官にもわからないのである。
本当の無罪宣告の場合は、告訴ばかりか訴訟も、いや無罪宣告までも取り消されるのである。無罪宣告まで消滅した本当の無罪とは、もはや無罪でさえない。言ってみれば訴訟システムそのものの消滅である。これに対してみせかけの無罪は、無罪の証明がなされ無罪宜告が行われたとしても、裁判所から家に帰った途端に再逮捕されることもあれば、裁判のことをほとんど忘れた頃になって、再逮捕されることもある。そして再度訴訟を始めなければならない。みせかけの無罪はこれの繰り返しであり、無罪証明と再逮捕とを一つの単位として、これを反復していく。また先のばしは担当裁判官に繰り返し接触をもつことで、裁判を下級段階でずるずるとひき伸ばしてしまうことである。これは恒常的に裁判にかかったまま、変化を最小限にとどめることの反復である。
訴訟システムの作動様式は、オートポイエーシス一般の磯構と同様、同じ要素単位の反復的産出である。しかも反復的産出の継続は、有罪判決を避けると同時に、無罪判決も避けている。有罪か無罪かが確定すれば、訴訟は終わる。その件について訴訟システムは停止する。だが有罪でも無罪でもない以上、これらの要素単位の反復的産出こそ、訴訟システムの境界を形成しているのである。ここでもまたシステムは産出的作動をつうじて自己の境界を形成する。
後に聖堂で僧侶に会ったさい、有名すぎる寓話「掟の門」が語られる。数多くの解釈者を苦しめてきた話である。田舎から掟の門に入ろうと出てきた男が、門番に今は入れられないと追い帰され、実力行使で入ったとしても次々と同じような門が待ちかまえていると聞かされる。そこで男はひきさがって何度も同じ門で、門番に入れてくれるように頼み込む。だがすべて拒否されて、そのまま死にたえる物語である。これを掟の門に入ることを希望しながら、潜在的にみずから自身に入ることを禁じた男の話だと考えるわけにはいかない。実力行使で入らないまでも、田舎に帰ることはできるからである。たとえ希望を潜在的な意識が裏切ることだと解釈しても、自己意識内部の分裂を示しているにすぎなくなる。
「掟の門」のここまでの話は、実は訴訟システムと同じ傲横をもっている。一つの門を無罪証明のように通過したとしても、また次の門で同じことを反復しなければならない。これは無罪と再逮緒の繰り返しと同じである。かりに男が選択したように最初の門を避けるのであれば、際限なく門の手前にとどまりつづけなければならない。これは先のばしと同じ事態である。訴訟や掟の作動の機構は、同一要素を反復し、際限なくそれを繰り返す。しかもこの反復によってだけ訴訟や掟として存在するのである。
ヨーゼフ・Kは、おそらくこのことを誤解している。訴訟が終るということは、無罪証明も消滅するのだからシステムそのものが停止することであり、すでに日常をすっかり浸しているシステムの停止は、ヨーゼフ・K自身の消滅である。だがシステムの作動の外へとはずれていくヨーゼフ・Kの自己意識は、このことに思い到ることができない。絵描きの言うことは役に立たないと思うだけであり、僧侶にはただすれちがうだけの屁理屈を返すだけである。システムの作動を理解しない観察者の問いは、立てられた途端にすれちがってしまう。
相互浸透の形成プロセスに、もう一つの大きな変化が生じるのは、訴訟システムが銀行業務のすべてに浸透してしまい、日常システムの隅々にまで境界をひいて、もはや日常システムの固有領域が消滅したときである。二つのシステムを行き来していた経験は、もはや帰るべきシステムを失う。これは訴訟システムに絡め取られ、終身刑のようにそこから別のシステムへと出られなくなったことを意味するのではない。また意図した希望に反して、システムから出ようと思えば出られるのに、出ようとしないことを意味しているのではない。これでは格子なき監獄であり、これも自己意識内部の分裂にすぎない。どのように訴訟システムから出ようと意図しようとも、意図した行為すべてがそのシステムの一貫した作動となってしまうように、行為そのものによって意図せずシステムの境界をひき直してしまったのである。意図する自己意識と、意図された行為とが別の位相に分離してしまい、この段階で分裂そのものが完成する。そのためヨーゼフ・Kにとっては、世界中が自分を駆り立てているように感じられる。
銀行の業務で、取り引き相手のイタリー人に美術上の旧跡をいくつか案内するよう命じられたとき、ヨーゼフ・Kは、この業務命令さえ仕組まれているように感じる。ひとたび銀行の業務室から離れてしまえば、もはや戻るべき場所がないという予感をもっている。そして事実そうなったのである。イタリー人に会いに聖堂に出かけると、待っていたのは、あの「掟の門」を語る僧侶だけであった。ひとしきり「掟の門」をめぐって議論をした揚句、ヨーゼフ・Kは銀行に帰ろうとする。僧侶は去ろうとするKに何かって、「裁判所はあなたに何も求めはしない。あなたが来れば迎え、行くならば去らせるだけだ」と言う。過度に含みをもたせようとするこの言葉の現実的な内容は、ヨーゼフ・Kは「掟の門」の男と同様、来ることもできず、去るべき場所もないということである。帰るのは自由だが、もはや帰るべき場所がないのである。ヨーゼフ・Kの自己意識は、こうして作動すべき一切の場所を失ったのである。相互浸透の境界変動を描く『プロセス』は、事実上ここで終っている。
自己意識は本来観察ということを行う行為である。だがいずれにしろ観察はきわめて限定された行為である。造形や創作に較べて、心的システムの自己言及的作動によって制約された行為は、本来的な限界を含んでいる。しかも自己意識からの観察は、事柄の外へ出てしまうというそれじたいの本性によって、本来錯誤を含んだものになる。そこではシステムの作動の経験を行う前に、経験の観点だけが問題になる。言ってみれば水につかる前に畳の上でだけ泳ぎの訓練をし、泳ぎというものについて理解した気になるのと同じである。自己意識がたとえそれじたい行為であったとしても、自己意識による観察はみずからの行為に遅れ、またみずからの行為を観望することによって、自分自身からへだたってしまう。この本性によって自己意識からの観察には、機構上の錯誤が含まれる。この錯誤を消滅させることはできない。
しかしこの観察にともなう錯誤を括弧に入れ、システムの作動そのものに経験をそわせ、この経験を記述することはできる。そうなったとき観察はそれじたい作動する行為となり、記述は一種の運動となる。さまざまなシステムをかたちを変えながら自在に作動し、作動する経験を記述するとき、この経験の行為は「観察システム」になっている。観察システムは、それぞれのシステムにおいて固有の経験をしながら、そのことをつうじて括弧に入れなければならない観察者からの規定を確定し、システムの作動そのものを記述しようとする。括弧に入れなければならない観察者からの規定は、心的システム、社会システム、経済システム、細胞システム、神経システム等々のそれぞれにおいて異なっており、またそれぞれの経験科学の歴史的段階によっても異なっている。観察システムは、それぞれの固有の経験をつうじて、あらためてシステムそのものの境界をひき直さなければならない。観察システムは、こうした作動としてのみある。
もとより心的システムの延長上に形成された観察システムがそれじたい神経システムや細胞システムになり、純粋にそれらとして産出的作動を行うことはできない。ただそれらの作動に経験をそわせ、それを記述することはできる。ここに観察システムの両義性が含まれている。観察システムはいずれにしろ観察という行為しか行えないが、それでもなおシステムの作動を記述することができる。また精神の産出的行為である作品形成は、みずからの産出的作動によって境界を形成するが、その境界がなんであるのかを知りようがない。作品形成は純粋な産出行為であり、そのことによって同時に作品そのものの境界を産出しているからである。これはちょうど訴訟システムの作動が、その内部の誰にとっても不明なのと同じである。観察システムは、作品の作動に経験をそわせ、この境界を自覚的に浮かび上がらせることができる。ここにも観察システムの両義性が含まれている。観察システムは観察という限定された行為しか行わないことによって、はじめてシステムの境界を自覚的に明示するのである。
「観察システム」を一般的に「参与観察」や「観察の観察」というようなただの言葉で規定しても無駄である。「観察システム」をあらかじめ規定しておきたいという希望は、行為に先立って自己意識のなかだけで「自己」を決めておくという、自己意識と同じ選択をしていることになる。かりにそうしたとしても「参与」や「観察の観察」が、システムの作動上何を意味しているかを再度規定しなければならず、そうなればこの場合この規定そのものも観察によってなされている以上、これらの「観察」上の意味について再度語らなければならない。そしてそれをさらにシステムの作動に照らして、規定しなければならない。こうして「掟の門」の男と同様、際限のない先のばしが生じるだけである。ヨーゼフ・Kが画家から、訴訟の対策として見せかけの無罪と先のばししかないと聞かされたとき、それらのシステムの作動の内へと入り、そこで何が起こり、みずからの行為によって何を形成してしまうのかを経験してみるという選択肢があったはずである。観察システムにとってここまでは可能なはずである。そしてほどよい偶然にめぐまれれば、システムのうちを作動する行為をつうじて、システムの境界を繰り返しひき直し、システムの構造さえ組み換えることもできるはずである。反復的に作動可能なように行為を継続することによって、システムの境界をひき直し、システムの構造さえ組み換えるとき、それは精神の行為となっている。だがそのとき新たにひき直した境界がなんであるかは、自分自身にとっては不明である。だがこれらはヨーゼフ・Kがみずからの行為によって固有に行わなければならない。「掟の門」の後半は、次のようになっている。最初の門をついに入ることのできない男が、死ぬまぎわに門番に尋ねる。長い間、門の前で待ちつづけているが、自分以外誰一人として、この門に入ろうとやって来ないのはなぜか。門番は答える。「この門はお前のためだけの門だからだ」。行為の選択は誰のものでもなく、ただ自分自身に対して開かれているだけである。
ヨーゼフ・Kの自己意識は、自己意識の極限を具現している。自己意識が錯誤を含みながら行為するにもかかわらず、その行為する自己意識からさらに観察する自己意識がはずれてしまうのである。こうなれば自己意識はもはやどこにも存在の場をもたない以上、日々の日常においても、まるで戦争映画やホームドラマのように、さわぎわめきつづけなければ自己を維持することができない。だがそれは何も産出しない行為である。
終章で処刑場に連れて行かれ、横倒しにされた胸の上を、フロックコートを着た男二人が短剣をたがいに手から手へと手渡にして往復させているのを下から見上げながら、ヨーゼフ・Kはそれを奪って自分の胸に突き刺すのが義務だろうと感じている。ヨーゼフ・Kは自分の死に対してさえ、観察者でありつづけてしまう。作動の場をもたない自己意識は、みずからの消滅を義務として受け入れたのである。こうして三一歳の誕生日の前日、みずからの場をどこにももたない観察者は、みずからの行為によって消滅した。あとにはシステムの作動だけが残されている。