遅延と静止
河本英夫
無限に大きいものは、洞窟のマンモスのように動くことができない。隙間のないものには動きのための余白がない。全身乾ききったタオルは微動する余地がなく、渇きを感受することもできない。感受することは一種の運動であり、運動は触れることであって、微動しない物は、回りを取り巻く大気にさえ触れることができない。干上がって裏返しになった縁側のコガネムシは、内部に流動するものがない。流動の喪失にも形はあり、折れ曲がって天を指す手足はある。立ったまま干からびるコガネムシがあれば、立ち枯れコガネムシと呼ぶのだろうか。立ち枯れニンゲンは、確かに存在する。ニンゲンは人間のなかの植物性の一部を指している。干上がって立っているものは、重力に抗することを知っている。重力のなかに留まり、重力に自足するという運動はある。それはきっと激しすぎる運動だから、しかも空間運動ではないのだから、人間の眼からはうまく見ることができない。押しつぶされ平面となったシダの化石は、詰まりすぎて動くことができない。過密にも度合いはあり、過疎にも度合いはある。過密すぎるものは響く余白がなく、過疎すぎるものは響きを伝えるための余剰がない。
無限に大きいものは、宇宙大に広がったコマのように回転運動することができる。余白のないものにも円運動はあり、渦巻きはある。隕石が落下しても、柿の実が落ちても、木っ端が舞っても、小さな渦巻き運動をしている。これがデカルトの執拗な直観である。物体は地球の重力中心に向かって落下しているというのは、人間らしい粗い要約である。渦巻きは収縮することもできれば、膨張することもできる。無限に大きいままの収縮や膨張もある。だから一点が次の瞬間に無限大になることもある。これを世界の寝返りと呼ぼう。膨張が適度なスケールで起こると、瞬時無限に大きいものの一断層を垣間見ることができる。これは昏い風が自分を脱ぎ捨てていく速度である。
乾ききったタオルも光には陰を作ることができる。みずからで陰るものは、そのことによって存在する。光を遮りみずからで透明な明るさと陰りを区分するものは、それによって物となる。物とはこの区分する運動のことである。陰りは、起伏に満ち乾いたタオルの折れ曲がった裏側のことではない。それはたんに物の裏側であり、自分自身の影である。物の縁はどんなに明るく輝いていても、すでに光を遮っている。だから輝きとは光の裏側のことだ。透明なガラスにも物の縁はある。透明であることに限りがきている。陰りとは、明るさから見た限りのことである。それが質料という最後の運動であり、物の微笑みである。このなかに立ち留まると、水の臭いのする声が聞こえることがある。それが乾ききったタオルのきしみである。反射によって、物の縁が際限なく輝くことはある。だが反射されたものが明るいのであって、反射することじたいは真闇である。陰りとは反真理や非真理の隠喩ではなく、物の存在の兆しのことである。反射の明るさのなかに含まれた度合いが強度である。これは明るい、暗いではない。同じ明るさのなかに強さの度合いがある。最近困ったことに、この同じ明るさのなかの強さの度合いが感受できるようになった。白内障が半ばまで進んだと医者は言う。
立ち枯れたコガネムシは、すでに骨だけになっている。外骨格の形がくっきりと金色に輝いている。骨が外側にあるものは、内から立ち枯れ最後に骨だけになる。世界が受肉することがあるなら、受肉の最終形態は受骨である。受肉の現象学にならって、受骨の現象学はありうる。立ち枯れコゲネムシにも受骨するものの本性があり、それを直観することはできる。脊椎動物の骨は内にあるという主張は、差異を強調する博物学の粗いミスである。脊椎から垂直に幾重にも伸びたあばら骨は、内臓を包んでいる。内骨格も外骨格も内臓から見てともに外である。だからあばらの受骨は、内臓感覚の遅延である。脊椎動物の頭蓋骨も外骨格であり、そのうちに脳を包んでいる。頭蓋骨を強く打つと、脳が振動してバシャバシャと内壁に五〇回ほど衝突する。脳の受骨の直観を、骨相学がすでに実行している。骨相学は、受骨の現象学である。
立ち枯れた骨にも痒みはある。体の芯からもぞもぞするような痒みである。骨の痒い年齢は一生に数回ある。走るたびに骨が伸び、疾走するたびに骨が硬くなり、そして散歩するたびに路上に骨が転ぶ。だが皮膚のように掻くことはできない。同じように感覚にも感情にも直観にも思考にも概念にも、痒みはある。痒みは質料の揺れであり、質料の収まりのなさである。感覚の痒みは境界の不定となり、感情の痒みは運動の残余となり、直観の痒みは経験の昏さとなり、そして思考の痒みは内破する揺らぎと感じられる。だからそれは皮膚よりももっと強く掻くことができ、痒みも乾燥すると思想だと勘違いすることができる。内臓から大量の出血があるとき、畳や家具を汚してはいけないと口を塞いで血液を体内に留めると、血液が骨に浸透して骨がピンク色に輝くという。ピンク色に輝く骨を燃やすと青く炎が立つ。
圧縮され平面になったものにも、限りなく表面に近い無限の深さがある。この深さのなかに一切は折りたたまれていて、無数の襞を形作っている。折りたたまれて襞となったものは、質料の記憶である。この襞はきっかけに応じて縫い目のように両側に開いていく。あるいはサボテンのように節目ごとに二股に分かれていく。小さなひとつの区画に全長三メートルもの二重の鎖が織り込まれ、折りたたまれたまま平面になっている。限りなく冗漫なものにも襞をもたせるもことはでき、それだけの理由で襞は世界の秘密になっている。
いま世界のどのような運動であれ、速度を限りなく遅くしてみる。身体の速度を遅くし、呼吸の速度を遅くし、心臓の鼓動を遅くし、固有の意識の速度を遅くして、止まる寸前まで遅くする。そうすると意識の境界がくっきりと浮かび上がる。意識が虚空のなかにぽっかりと浮かんで、意識の流れが透けて見える。一万メートル上空から積乱雲を下方に見ると、スローモションのように雲のでこぼこが繰り返される。意識も限りなく遅延させると川のように流れたりはしない。でこぼこの起伏が次々と移り行くだけである。質料性のないものにも重さはあり、重さのあるものには、臭いと形がある。
遅延するものには、動きの予感がある。何万年も何千年も遅延するものがあり、動きの予感も先送りされる。ドレスデン郊外のバスタイの岩壁は、その上に立つたびに崩壊の予感に浸される。観光名所となっているのだから崩壊などありえないと分かっていても、上に立つたびに間違いなく崩壊の予感はやってくる。だから名所なのである。長崎時津の鯖腐らせ岩は、見ている間にやがて崩れるだろうという予感に満ちている。今か今かと待つうちに、手に持つ鯖が腐ってしまう。崩れるのは鯖であり、鯖腐らせ岩は何万年もただ崩れる予感のうちにある。榛名神社内奥の烏帽子岩は、内奥社殿に被さったまま何万年も経ている。崩壊の予感の下に尾根を縦走する山の民がやすらい、やがて社殿が建立される。フォーアロマーナの三本の石柱は二千年の崩壊途上が、なお途上であり続けることの証である。他のいっさいが崩壊しても、なお崩壊途上にあり続けることが歴史の徴である。
写真は動きを切り取る。切り取ることで動きの剰余が生じる。これは形式論理的な自明性であり、外から遠回しに当たる若葉マークの認識である。天児牛大の肉体の躍動は、写真という切り取りから生じたものではない。切り取りによる剰余は、すべての被写体に生じるのであり、路上を走る車を切り取っても、切り取りの剰余はある。停止して見える車の動きの予感と、この肉体の躍動は別のものである。躍動は静止においても出現する。
しかもこの肉体の躍動はしばしば誤解を呼ぶ。山海塾の舞台がしばしば主題とする情動の動きと見誤るからである。身体に閉じ込められた運動の剰余は、独特の運動回路をもつ。情動の自動運動と生存に直結した身体予期反応である。それらの別名を自己触発と、恐れ、喜び、悲しみのような感情という。自己触発は、理由もなく目的もなく終わることもなく、気がつけばただ開始されている運動である。この運動は欠如態として、ただそれじたいで継続する。つまり十全態と対置しようのない欠如態である。しかもそれじたい現われとなることはできず、志向的直観をつうじて明るみに出ることもない。だが身体に閉じこめられることによって、おのずと身体に浸透する。天児牛大の肉体の躍動には、浸透した情動が紛れもなく漂う。だがこの特質は、山海塾の誰もが備えた内発的運動である。身体が場所の移動を停止し、一切の空間運動が止んで、そのことによって浮かび上がってくるのがこの情動運動である。これは予期運動となって動きの予感としてある。本性上動くものが、動きの手前にあり続けることである。だから停止とは遅延した微動のことである。
だがこの静止像は、すでに遅延を通り越している。通り越された遅延には舞台の上での運動よりなお躍動する運動があり、そこにはこれほど動きについて語ってきてなお触れていない運動がある。それがこの肉体の躍動であり、直観から隠されてしまったままのこの写真の内実である。
遅延を通り越した静止は、果敢な選択である。それは一切の動物がもはや思い起こすことのできなくなった遠い記憶でもある。静止するものは、みずからを形成することによって変化する。この自己形成運動は、経験の形成にも感覚の形成にも、みずからの構造部材の形成にも隈なく広がっている。動物では身体の運動とともに、身体は形成される。だが身体の運動が身体を形成するのではない。身体の運動は、つねに同時に(immer zugleich)身体の形成である。運動とともに形成運動が進行する。身体の運動をどのように細かく分析しようとも、この肉体の形成は明るみにでることはない。しかも情動にまして明るみにでないのであり、これは生命の最内奥である。詩人の芦田みゆきが『木契状の記号』で、この形成感覚に肉薄している。
静止したまま自己形成する肉体は、光を呼吸し、渡る風を食べる。これは植物が行っていることと同じである。ヘルダーやゲーテが直観したこの形成力を意味として理解するのではなく、感受するためにはかなりの修練がいる。だからこの写真は、見ることの形成のエクササイズなのである。