感覚の精神病理
河本英夫
こころの働きのなかでは感覚は末端に位置する。言語的認知や思考に比べ、こころの能動的な働きの中心にあるようには思えない。しかも怒りを抑えるというように思考によって感情の働きを制御するように動かすことができるが、感覚の制御はほとんど困難である。眼前のゴムの葉の緑を、赤だと思い込むことはでき、またそう想起することもできるが、作為的に赤い葉を眼前に知覚することはできない。すくなくとも感覚的経験は、自己意識以前の経験である。このため感覚は受動的であると言われ、それ自体経験の源泉ではあるが、自覚的な意識にとっての末端にすぎないというのが通念である。意識の特質を自覚的制御可能性に置いたときには、この主張は半ば必然である。
色相互の区別は、三万五千程度可能であると言われる。万のオーダーでの色調の区別を行うことができるらしい。ところがこれらの色に言葉を当てようとすると、ただちに困惑する。私が色の名称を持ち出すことができるのは、せいぜい五十どまりである。言語に比べて感覚は圧倒的に多様である。色の感覚的経験と言語的経験は、分析性についてオーダーが異なる。とすれば言語は感覚を分節するように使用されてはおらず、感覚の経験の回路と言語的回路は別個の回路だと考えたほうがよい。おそらく感覚による情報処理系と言語・記号による情報処理系とは、独立である。
音については、物理的には一定範囲の周波数の振動を音として知覚している。ところがひとたび隣家のモーター音が耳に付きはじめるや、持続的に聞こえるようになる。そのことで不眠症になる人もいる。感覚はそれとして形成されることによって、経験の境界を形づくる。みずからそれとして経験の境界を形成している。
だから感覚は経験の末端に位置するようにみえながら、経験の境界の変動をもたらし、そのため感覚に変化が生じれば、自我や思考にいっさい変化がなくても、世界はまるでひっくり返ったように感じられることがある。言語的な思考の届きにくい経験の末端にあって、経験の境界を形成するのだから、この境界形成は本来制御が効かず、またひとたび変化が生じたさいには、それを表現する言葉が圧倒的に不足している。経験の境界をみずから形成する以上、伝統的な記述様式にしたがえば感覚は受動的であるよりむしろ能動的である。だが感覚にはほとんどの場合自覚的な制御が効かないのだから、むしろ能動-受動とは別のカテゴリーに相当する事態が生じている。そのため感覚で生じている事態を考察するさいに、能動-受動というカテゴリーでの記述は、ほとんど不適切になる。
1 感覚のシステム
音や色のような感覚がそれとして形成されたとき、そのことによって経験には感知しうるものと感知しえないものの境界が形づくられる。CDレコードは、従来音として感知される範囲の周波数の振動しか収録してこなかった。ところが音として形成されないが感受されている周波数の領域がある。コンサートホールで聞く音とCDレコードで聞く音の違いはここから生じる。感受された振動のうち音がそれとして形成されることによって、感知されるものと感知されないものの境界が形成される。これを感覚とその環境との区分と呼んでおく。
感知されるものの境界は一定ではない。体調により変動する。また個人差も大きい。フロイトとユングの決別の場面がある。議論がかみ合わず、収集がつかないでいると、ユングがしばらく経ったら爆発音がしますよという。フロイトが怪訝そうに聞いている。とするとほどなく爆発音がしたのである。フロイトに驚きと困惑の入り混じった表情が浮かぶ。 決別の最終場面である。ごく常識的に解すれば、ユングは多数の人には聞こえない振動が聞こえていた可能性が高い。あるいはユングがこの予言によって著しい緊迫感を作り出し、 他の人には聞こえない音をフロイトに感知させたかもしれない。これも可能性が高い。
感覚が経験の源泉になっているからと言って、感覚と物理的原因を関連づけることは、著しい困難がともなう。感覚は幻聴のように物理的原因がなくても形成される。そうだとすると物理的原因がはっきりしている場合でも、この物理的原因によって感覚がもたらされたのか、物理的原因があってもそれとは独立に感覚が形成されたのかを区別するための経験科学的手段がないことになる。そのためかりに両者に対応関係が見出されても、この対応関係をつうじて感覚が成立したのかどうかは不明なままにとどまらざるをえない。
それ以上にまったく対応がないことがしばしばある。ゲーテが記述している一面の雪野原での夕暮れにみえる鮮やかな緑である。夕暮れの赤みがかった光と一面の雪の白しかないにもかかわらず、鮮やかな緑が見えてくる。[1] 色の場合は、補色や残像補色がともなうために物理的原因と感覚の間の対応関係が見出せないことは多い。感覚は一貫して継続して形成されるが、物理的原因や言語のような他のものに関連づけて解明されることはありそうにない。してみると感覚はそれじたいみずからで経験の境界を形成し、またそれは変動するのだから、みずから自身を形成し続けるよう作動を継続しているだけである。とすればこれらに能動-受動のようなカテゴリーを持ち込むことは、そもそもカテゴリー・ミステイクなのである。というのも感覚は何かを受け取る働きではなく、みずからで境界を区切る働きであり、それは円を描くようにみずからの作動を継続しているだけであって、能動-受動の表れ出ている線状性に類似したものをまるで持ち合わせていないからである。これがここでの主張の第一の点である。そのため固有の分析が必要となる。
感覚のうち、臭覚には極端な変化が出現する。薬物常用者だったある医学生が、ある日犬になる夢を見て、目覚めるとすべてのものに臭いがはっきりと判別されたという。幸せな水の臭い、麗しい石の臭いのように、水や石まで臭いを判別できたのである。それどころか二十人の人を顔を見るのではなく、臭いで区別できたらしい。しかもそれぞれの人の恐怖や満足の度合い、性的な状態まで犬のように臭いで嗅ぎ取ることができた。さらに道路や店も臭いで判別していた。こうした状態が三週間ほど続き、この臭いの感覚は一挙に消え去ってしまう。このとき失ったものの大きさの感慨から、文明をつうじて人類が失ってきたものに思いをいたすことになる。[2]
他の誰にも感じれれないのに、自分だけが自分の匂いがするという「自己臭」の訴えは激増している。身体感覚の変容と連動している場合もあるが、神経症性の不調に連動していることが多いようである。親しい異性と離れ離れになった女性が、やけくそになって男なら誰でもよいと考えるようになり、恒常的に性的な臭いを発散するようになったとか、几帳面でひ弱な大学生が、甘えて育った祖母を亡くし、卒業まじかに夢精してのち、永遠に消えない持続的に発散するものが体を取り巻くようななったとかである。前者は希望にそう結婚をして臭いが消え、後者は九年後にいろいろな条件が重なって自殺した。いずれも生活史上の欠落を埋めるように、自己臭が発生している。これらの自己臭は、他人から嗅がれているという点に臭いの息苦しさがともなっている。[3]
神経症的な自己臭に比べると、分裂症の自己臭は、感覚全般の亢進と変容にともなわれている。自分の臭いは五十メートル先まで届いてしまい、スーツを着てネクタイをしめていると自分の臭いがつらいと言う。自己臭は他人に嗅がれてしまう不安より、自分とって息苦しいのである。それから三年後自己臭は完全に消え、代って宇宙との交信、世界救済妄想が出現するようになる。
再度視覚に戻る。赤い面が知覚されたとき、この赤の面はそれとして区分されている。他の緑の葉や茶色の土くれと区別されて示差的に赤の面である以前に、赤の面はそれとしてみずからをひとまとまりのものとして区分している。ここでのこころの働きがオートレファレンス(自動言及性、自動的自己関与)である。 形成された単位がそれとしてあることに、このオートレファレンスが作動している。[4] これはみずからを限定してそれとしてあるというように言ってもよいし、反省的に形成された単位をとらえる以前に、それとしてみずからを区分するといってもよい。感知された単位が、赤い面としてみずから区分されたものとなるとき、この赤い面は表象となっている。ここで赤い面とその剰余が生じる。この剰余はそれとして区別された単位の剰余であり、この区別の成立には、つねに剰余の感知がともなう。それとしてある赤い面にとっては、 この剰余は表情であり、気配である。不気味さ、疎ましさ、身近さ、親しみ等の気配であり雰囲気である。感覚知覚には、知覚されているものと雰囲気や気配のような剰余との区分が含まれていて、にもかかわらず通常は一体となっている。しかも物と気配は一般に相互に他方を欠くことができないが、可分である。
オートファレンスは、認知の要素単位がそれとしてみずからを区分することである。眼前に一面の赤を置く。一面の赤がそれとして区分されたとき、赤い面とその表情に区分されている。だが一面の赤がそれとして区分されたとき、表情と赤い面に区分されてもよい。 ものとその剰余は、ひっくり返ってもよいし、またひっくり返りうるのである。オートレファレンスは、みずからをそれとして限定し、自己と環境を自覚的に区分することであるが、この自己は赤い面と表情のどちらでもありうる。表情が自己で区分された環境が赤い面であってもよい。これがここでの第二の主張点である。
いま誰かの顔を思い浮かべる。嬉しそうな顔、悲しそうな顔を思い浮かべる。嬉しそうな顔から嬉しさを差し引いてみる。顔が残る。逆に嬉しそうな顔から、嬉しさを残して顔を差し引いてみる。これは不可能であるように思える。そうだとすると先の事態も事情が変わる。嬉しそうな顔から嬉しさを引き抜く。顔から表情を引き抜いているように見える。だが嬉しい表情だけが引き抜かれたのであって、まじめそうな表情は残る。嬉しそうな表情は取り去ることができるが、表情一般は取り去ることができない。カテゴリーとしての認知の単位と表情は可分的だが一方を取り除くことはできない。
このとき顔に表情があるという知覚と、表情に顔があるという知覚は論理的には対等に成立するように思える。顔に表情が張り付いているのと、表情に顔が張り付いているのとでは、いずれも可能である。この反転が可能になっているところに、オートレファレンスの特質がある。だがこのときこの反転が起こると、感覚されているものの距離感が変わる。場面を少し変えてみる。風景一面に日の丸の旗がはためいている。白の地に赤の無数の円がはためいている。これを逆転させてみる。赤い地に白の円の無数の旗が、 まるで無数の眼のように眼前にはためいている。色遠近を用いて、逆転させてみる。そうすると感覚されているものの距離感が変わる。色遠近だけではなく、なじみやすさの度合いが変化する。物理的距離には変化がないが、感覚されているものの距離感の変化はある。 これを「情態的距離」と呼んでおく。情態的距離とは、なじみやすさ、慣れにくさの度合いである。
2情態性と強度
ハイデガーの情態性は不安を基調とし、自己理解の回路になっている。気分や気配のようにいわば自己の現存の環境を取り巻く、自己と世界との間をなしている。ところがこれらは物知覚の剰余として、つねに感知され物に色合いや彩をあたえている。したがって感覚の場面で物の剰余として感知されているものを、一般に情態性と拡大することができる。この議論の進め方には、哲学史上の注釈が必要である。情態性を物知覚の感覚的剰余だとしたとき、この段階ではただちに人間を取り巻く雰囲気へと拡大することはできない。ところが現存在分析に特有な手法は、この情態性を人間の自己了解の基層にすえるために、いまば人間の自己を取り巻く雰囲気へと拡大していく。これらの立論の仕方を共有するものは、広く「人間学派」と総称されている。[5]
物の剰余としての雰囲気が、人間を取り巻く自己の雰囲気へと拡大できるためには、三つの回路を想定しうる。第一に通常は隠蔽されている身体感覚そのものが前景化するようにして、自己の領域が取り出されてこなければならない。自己了解に変異をもたらすためには、物の剰余である情態に変異が起こるだけではなく、まさにそれと連動して自己の身体感覚に変容が生じているはずである。物の感覚が疎遠になっていくと同時に、みずからの身体も疎遠になっていくような場合である。この場合情態性は物の剰余であることから切り離され、身体感覚の変容した自己の全般的雰囲気となっている。 これは現存在分析の精神病理学的考察が繰り返し用いた回路である。
第二に物の剰余が物とは独立な位置を占め、物の位置に物の剰余が置き換わることによって、この剰余は全般的な雰囲気となる。このとき物の剰余である雰囲気が、物の位置を占め全般的な第一義的感覚質となる。知覚以前に、雰囲気が直感的に感覚されており、雰囲気の感知から物が意味づけられる。恒常的に維持される雰囲気に閉ざされることによって、あらゆる物はこの雰囲気の彩を帯びてしまい、それぞれの物に固有の情態性の変化がなくなる。何を見ても寂しげな雰囲気で見えたり、苛立たしげな雰囲気で見えたりする場合である。これも精神病理学的分析に多用された。
第三に物知覚にみられる情態性の感知を、自己意識によって区分された自己の雰囲気へと関連づけることで、この情態性を自己の了解へと活用する。自己意識以前に感覚によって感知された情態性を、自己意識によって区分された自己へと連結するために、物の雰囲気は物から切り離され、もっぱら自己の雰囲気となり、これを介して自己了解が行われることになる。ハイデガーが行ったのは、この第三の回路である。感覚は自己了解以前の経験であり、経験の自己を連続的に形成する活動であるが、これを自己意識によって区切られた、いわゆる「作り付けの自己」へと回収するために、異様なほどの自己へのこだわりが生まれる。感覚的な経験を、自己意識のレベルの自己の了解に結び付けるところに、そもそもの無理がある。この無理を押し通すところが、 「実存」という経験領域である。[6] ハイデガーについてのこの事態の指摘が、ここでの第三の主張点である。
ハイデガーは情態性の基調を不安もしくは恐れに置いた。不安や恐れを介してみずからの実存に目覚め、そのことで現存在はみずからの自己了解を手にするからである。不安や恐れは自己了解のきっかけとなっている。というのも不安や恐れは、自己意識の自己を揺さ振り、この自己の境界変動を促すからである。だが一般に物の剰余が、物そのものの収まりのなさをもたらすところでは、自己了解のきっかけとなることができる。不安ではなく、収まりのなさであれば、自己了解のきっかけとなりうるのである。不安や恐れという自己意識に変化をもたらし、自己了解にきっかけをあたえるカテゴリーのみならず、現に感覚知覚によって成立してしまう情態性を取り出すことができる。感覚のもつ情態性のモードを自己意識の自己と直接結びつけることに代えて、自己了解以前に現にみずから産出している情態性のモードを取り出すことができる。
こうして情態性のモードと呼ぶべき、カテゴリーが成立する。それらは大別して、メランコリー、熱狂(マニー)、崇高、アイロニー、ポテンツである。これらは実存カテゴリーというより、了解以前の感覚的作動のもつカテゴリーである。つまり自己了解以前に、感覚によって自己を形成しているのである。
メランコリーは、物の雰囲気がいつも切りちじめられて現われる。スローモション映画のなかで、一人だけスローモーションのままにし、他のすべてを通常の速度に戻す。この一人だけから見えている世界では、物の拡大が起こる。これは情態を平均値以下に押え込んでいるために生じる。情態性の変動幅を気がついたときには、一定の範囲へと押さえているのであり、これが定型的モードとなると「構造的メランコリー」と呼ばれる。熱狂は、興奮をともない、みずから自身を破壊するほどの一種の衝動性のような昂揚感をもつ。物とは対応しないほどの昂揚感のなかで、しばしば無敵である感触を伴う。だがこの無敵は、すべての敵より勝っているのではなく、むしろ敵がいないのである。崇高は、自己の雰囲気がいつも自分の身の丈を超えでてしまう感触であり、超越的なものに触れているというより、自己がいつも身の丈を超えでてしまう感覚のうちに浸される。ところがこれが対象認識と結びつくと、直接的に超越者を感覚的に確信できる。ポテンツは、みずからの内でいつも何かが沸き上がる感覚であり、つねに生まれ起こっているというという感覚である。いつもみずからを更新し、みずからが新たに形成されていく感覚である。
情態性は、感知されるか感知されないかの二分法におさまらない。情態性そのものが、慣れやすさや慣れにくさで変動するからである。したがって情態的距離は変動しうる。そのため情態性のモードとして取り出しうるのは、情態性の変動が一定パターンに収まっている場合だけである。さらに情態性が一定の度合いで変動するとき、別の概念が必要とされる。みずから自身が変化し、みずからを差異化するとき、それが強度である。強度と情態性の配置にかかわるこの立論が、ここでの第四の主張点である。
いまある地点を20km/hで加速しながら通り過ぎる車と、同じ20km/hで減速しながら通り過ぎる車を想定する。同じ位置を同じ速度で通り過ぎていく車であるのに、雰囲気や気配はまるで異なる。この雰囲気や気配をそれとして感覚知覚できるようにしてみる。
急性精神病で、壁に頭をぶつけ続けるような同じ行為を日がな一日繰返したり、同じ語の発話を繰り返す「常同症」というのがある。「私は赤い、赤い、赤い、赤い、…」というような語の反復を行う。同じ語の反復のなかにも、声の大きさの違いや、速度感の違いがある。だがここでは同じ語が反復されているだけであるから、ここで感じ取られている気配のなかの変化には、何か固有の指標を導入しなければならない。気配や雰囲気のなかに固有に変化するものがあり、それを特定の概念で名づけようとすると、それ自体を意味づける用語で語るわけにはいかない。赤いという語を用いているものの、語の意味論的内実である色の赤を意味しているとは考えにくい。色の赤を何度もダメを押すように語っているのではない。またakaというただの音のまとまりを機械的に繰返しているのでもない。しかし語の紛れもない反復のなかに、音量や勢いの変化として現われる確実な変化がある。ここで変化している当のものを指標する何かを設定しようとすると、「強度」いう概念に突き当たる。先ほどの気配や雰囲気で、そのなかに変化が含まれているとき、それを「強度」だと呼ぶのである。強度はそれ自体で内的に変化し続けていく、度合いである。
強度の概念は、同じ大きさの火でも火の強さの違いがあるという場合に用いられていた。 ドウンス・スコウトスでは、外延量で表わすことができない違いを表わすためにこの概念が用いられている。量で表わすことができない度合いとして、何かを用いて表わす以外にはない。そのため内包量だと呼ばれる。[7] カントが、引力と斥力を用いてこの二力の均衡関係から物質を構成しようとしたとき、体積が同じでも重さの異なる物質を説明しなければならなくなっている。そのとき物質のつまり具合の度合いで密度を説明しようとしている。引力と斥力の均衡関係だけでは、密度を説明することができない。そこでここでも強度が持ち出される。強度の度合いの違いで、密度を説明しようとしている。[8]
ところが密度は、水1、鉄5、水銀12のように離散量をとる。このとき強度が離散量をとるという事態を強度の概念そのものから引き出すことができないのである。これはヘーゲルがカントに向けた批判である。強度の概念から、強度が何故離散値で現われるのかを説明することができない。[9] これは一般に空間、時間、強度のような理論概念が連続量であるにもかかわらず、何故物が離散的であるのかという問いと同じ問題に起源をもつ。強度という概念は、用いなくてもすむなら用いないほうが良いのであって、とすれば限界概念としてしか残らないはずである。この限界概念を動きの感知を手掛かりに再度呼び戻したのが、ベルクソンである。
動きを状態指定を行うように記述したのでは、かならず剰余が残る。動いているものは、 特定の状態にとどまらないから動いているのであって、動きの感知は、主として聴覚-身体運動系でなされており、これを視覚的な記述の系で状態記述しても、剰余が残るのは避けようがない。動いているものは、動きについての空間的記述からみたとき、この剰余をなくすことはできない。[10] この議論をちょうど逆転させてみる。動きを作り出し、動きの外延量をもたらすものの外延として現われることのできないものを強度だと読み替えてみる。この場合強度は、もはや状態記述の剰余ではなく、強度によって外延量がもたらされ、強度そのものはみずから内的に差異化するだけであって、この差異化の結果を、観察者は量として記述することになる。こうなると強度はものの剰余ではなく、むしろ物こそ強度の派生態になる。こうして外延のあるところすべて強度が作動している以上、これは一種の強度の形而上学となる。ドウルーズの行った選択は、およそこうしたものである。この議論は一種の形而上学を形成する以上、哲学の選択肢のひとつにとどまっている。強度の作動によって外延がもたらされる以上、強度は見かけ上、現実化するものの可能態の位置を占める。[11]
だがこれでは感覚の経験科学に接続することができない。あまねく存在する強度を感覚の変動の特定の事態と結びつけることができないからである。先の常同症の例では、意味の変化でもなく、物理的な叫びの変化でもない変容が感知されていた。この変化は触覚的に感知されるもので、それを視覚や聴覚に分散しながら表現していく以外にはない。この強度の変化を、疾病の度合いに対応づけるよう、果敢な挑戦をおこなったのが、鬼才花村誠一である。常同症の言語的、身体的行為の変化に共振するように、花村はみずからの行為を変化させることができ、しかもおそらく世界でただひとり、変化の度合いで疾病の度合いと種類を判別できるのである。[12]
個々の感覚知覚の場面で、物と強度との関係が反転することがある。強度はひとたび感知できるようになると、物の剰余としての強度ではなく、強度の感知から物を推定するような裏返しが生じる。物とその剰余がひっくり返り、物の位置に強度が来て、強度に対応する物が捜し求められることになる。このとき感覚に完全な裏返りが生じる。ちょうど類似した雰囲気から、物事を任意に対応づけていくような、知覚的認知の任意のつながりが生み出されてしまう。この場合かりに同じ強度の感知を、ひん曲がったスプーン、ネズミ講、風に揺れる東京タワー、パラドックス、無際限性に感じ取るなら、これらは任意に連結されてしまう。しかも連想ゲームのような物事のかすかなつながりを見出すこととは異なり、確信に満ちた揺らぎようのない連結が獲得される。誰にも理解できないような事物や物事の連結が、自在にしかも確信をもって形成される。この事態の指摘がここでの第五の主張点である。
これはある意味で見事な分裂性の妄想である。だがこの妄想は、巨大な体系を形成するようなパラノイア性妄想とはまったく異質なものである。形成された体系によって妄想が同時に支えられていくというのではなく、感覚的直感によって確立され、当初より疑いようもなく、訂正されることもなく、また感覚的確信の範囲を超えて体系化されることも少ない。[13] 感覚は連続的にみずからの境界を形成し続けるために、なにかのきっかけでこうした裏返しが、頻繁に起こるのである。
3 感覚質の間
いま緑のゴムの葉を考えてみる。緑という色と葉の形には、それらが結びつかなければならない必然性はない。そもそも形と色は異なる感覚質であり、感覚質相互の間には、共通の座標軸を設定することもできず、また中間項もない。アリストテレスによれば、質とは共通の全体のなかに包摂できないもののことである。色と形の間の中間項を見出そうとすると、奇妙な感覚にとらわれる。ないものを必死に探しだそうとするような座り所のない場所という感覚である。
緑のゴムの葉の知覚は、形と色を別々に認知し、それらを重ね描くようなものではない。 あるいは形を知覚し、そこに緑色を塗っていくというようなものでもない。絵を描くとき、 形を書き、そこに緑色を塗る。だが緑の葉の知覚には、作画で行われるようなプロセスをなにも見出すことはできない。色と形はなにひとつ共通項をもたないにもかかわらず、密接に関連する。これらの色と形は、内的関係にある。内的関係というのは、二つの物事の間になにも必然性がなく、より強固な第三の軸に配置することもできないが、他の関係に置き換えてより事態が明確になることはありえない関係である。こうした内的関係を、かつてウイトゲンシュタインは、言明の二重否定形式でとらえていた。「他によって置き換えられるわけではない」というような形式で示していたのである。ところが言明で形式化される以前に、事柄として質間の関係を問いうるのである。
いま緑の葉から、葉の形と緑色を分離させてみる。五センチだけ色を形から浮き上がらせてみる。形を残して、色を五センチ浮かび上がらせてみると、このとき色はどんな形をしているのか。形から浮かび上がらせた色が、特定の形をもつはずはない。だが葉から切り離した余韻のようなものは残っている。これは密接な関連にあるが、なにも必然的関連のないものを、無理やり引き離してみるやりかたである。そうすると逆に関連がないように見えていたものに、新たな関連を見出す企ても行うことができるはずである。たとえば母音A、 E、 I、 O、 Uを形に対応づけたらどのようなものになるのか。試みに三角形、平行四辺形、台形、三角錐、円を対応づけてみる。ただちに落ち着くとは思えないが、試行錯誤の結果、なんらかの対応関係が見えてくるかもしれない。さらに図形の対応関係が決まったとき、それぞれの図形に対応する色を考えてみることができる。
感覚質の間の関係で、精神病理にとってもっとも重要なのは、五感と身体感覚との連動である。身体感覚は触覚的な不透明さをもって、どのような行為にも付きまとっているが、 主題的にせり出してくることはない。つまり五感に対して身体は、ほとんどの場合不透明は地平をなすばかりか、身体が知覚の行為に伴っているはずであるのに、身体の変容は知覚そのもののなかに表れ出ることはない。上空を飛び去っていくヘリコプターを、眼で追跡するとき、この追跡に相応しい身体体制の変化を行っているはずであるが、知覚に表れ出るのは移動していくヘリコプターだけであって、身体体制の変容は隠蔽されている。(知覚と身体との相互隠蔽)[14] 駅で平行して停車している反対方向に向かう列車に乗っているとき、窓から見ていると自分の乗った列車が徐々に動きはじめ、隣の列車とどんどんずれていく経験をすることがある。 隣の列車の端まで進んだとき、突如動いていたのは隣の列車で、自分の列車は停止したままであったことに気づくことがある。このとき移動感のなかにいた身体が突如停止へと引き戻され、この場合知覚によって不要な身体体制が引起こされていたことに気づく。(知覚と身体との相即) ただしこちらはヴァーチャル・リアリティで過度に頻用されている。
音と身体感覚は密接に関連している。すくなくとも音と身体の方向感覚の形成は内的である。背後からやってくるトラックの音でただちに、身体の位置を変化させているからである。また口腔感覚変容と身体感覚の変容も連動している。テレンバッハは、口腔感覚の変化を三つのタイプで示している。第一に臭いと味ははっきりしなくなり、一過的に臭いは完全になくなることが体験される。これは身体感覚の希薄化をともない、まるで自分の身体ではないかのように身体が表れ出てしまう。本来隠蔽されていたはずの身体が知覚野に表れ出るが、まるで他人事のような身体感覚となる。感覚全般の薄れとともに行為のなかに、身体の違和感が前面化する。だがこの違和感は、身体感覚の薄れとして感覚される。第二に周りの雰囲気をいやな臭いが満たしているとするものである。物の臭いではなく、臭いだけが単独で周りを満たしてしまう。この段階で雰囲気は物との関連を離れ、むしろ雰囲気だけが支配的になる。第三に身体感覚の変容が、 口腔感覚の変容として訴えられるものがある。自分の体が蛆で一杯になっていると思ったり、体が蛆に食い尽くされると訴えたりする。[15]
感覚の変容と身体感覚の変容は、独立の事態ではあるが、密接に連動している。この連動の仕方は、因果的でも意味的でもない。感覚の変容があっても、身体感覚の変容を伴わないことはいくらでもあり、また精神分析がしばしば主張するような「罪責感」や「負い目」「過去の痕跡」に関連づけられて両者が連動しているというわけでもないからである。感覚はそれぞれ一貫して作動し、触覚と運動感覚を主とした身体感覚もそれとして一貫して作動している。だが両者はまるで一義的決定関係のない媒介変数を提供しあっているかのように連動している。この事態の指摘がここでの第六の主張点である。この事態を分析するための機構をシステム論では、カップリングと呼んでいる。カップリングは、内的関係を言明形式に帰着するのではなく、むしろシステム間の機構として解明される。感覚質の間の関係は、ようやく解明の手掛かりを得た段階である。
注
1、 ゲーテ「色彩論」『ゲーテ全集14』(木村直司訳、潮出版、一九八〇)三一八ページ以下。
2、 オリバー・サックス『妻を帽子とまちがえた男』(高見幸郎、金沢泰子訳、一九九二、晶文社) 一八章。またヴァン・トラー、ドッド編『香りの感性心理学』(印藤元一訳、一九九四、フレグランスジャーナル社) 第七、八章参照。
3、 足立博 『「におい」の心理学』(一九九五、弘文堂)第七、九章。
4、 この語が最初に登場するのは、数学の形式でである。ギュンターの操作的弁証法で、取り上げられることになった。G. Günther, Beiträge zur Grundlegung einer operationsfähigen Dialektik, B. 2, Felix Meiner Verlag, 1979,S. 251.
5、 宮本忠雄「ビンスワンガー」『異常心理学講座第七巻 精神病理学I』(みすず書房、一九九六)参照。
6、 ハイデガー『存在と時間』(原佑、渡辺次郎訳、一九八〇、中央公論社) 二九、三〇節。
7、 ヨハネス・ドウンス・スコトウス『存在の一義性』(花井一典、山内志朗訳、一九八九、哲学書房) 二二二-三ページ。
8、 カント「自然科学の形而上学的原理」の動力学に対する一般的注 全集第一〇巻所収、参照。なおこの事実についてはヘーゲルは、次のように考察している。「カントは、すでに、数の量規定に対して内包性[=強度]を対置した。すなわち体積が同じでも諸部分が多いとみなす代わりに、数が同じでも空間をふさぐ度が、より強いとみなした。それによって、カントは、いわゆる力動的物理学に基礎をあたえたのである。」(『自然哲学』加藤尚武訳、岩波書店、一九九八)一九七ページ。
9、 渡辺祐邦「『大論理学』におけるヘーゲルのベルツエリウス批判と度量論の諸問題」『ヘーゲル論理学研究』第三号(一九九七)七-四三、参照。
10、 ベルクソン『哲学入門・変化と知覚 思想と動くもの』(河野与一訳、岩波書店、一九九二)
11、 ドウルーズ『差異と反復』(財津理訳、河出書房新社、一九九二)三三四、三四七-六〇ページ。強度そのものはみずから差異化するものであり、それ自体差異であって、量的に表われるものの質的内容を示す。量のなかに含まれる消すことのできない差異である。
12、 花村誠一「分裂病の精神病理学とオートポイエーシス」『精神医学』(青土社、一九九八)参照。
13、 ブランケンブルク『自明性の喪失』(木村敏、岡本通、島弘嗣訳、みすず書房、一九七八)第九章。こうした確信に満ちた現存在様式をブランケンブルクは「過度の自明性への自足」と呼んでいる。病院内で軽い労働を促すと、何もしないことを学ぶことも大変なことだと答えたという。
14、 ヴァイツゼッカー『ゲシュタルトクライス』(木村敏、浜中淑彦訳、一九八四、みすず書房)五九ページ。
15、 テレンバッハ 『味と雰囲気』(宮本忠雄、上田宣子訳、一九八〇、みすず書房) 一四五ページ。