自己組織化と進化
――理論内部の隙間をどう考えるか
河本英夫(東洋大学文学部)
理論構成したとき、理論内部に隙間の残る構想がある。「自然選択」もその一つである。ダーウィンが隙間を隙間のまま残して定式化したために、進化論は拡大可能で修正可能なプログラムとなっている。だがこうした拡大や修正は、通常の演繹理論とは異なる内実をもつ。こうした隙間がどのような理論の特殊性と固有性をもたらすのかを明示するためにも、自己組織化との距離感を見定めておきたいと思う。[1]
1創発の必要条件---自己組織化と自然選択
進化には、いずれにしろ新たな質の出現が含まれる。これは一般には、創発と呼ばれる。だが創発は、たんに新たな質が出現することではない。酸素と水素が化合して水ができるさいにも、見かけ上新たな質が出現する。化学的な化合では、大多数の産物が特定の物質に決まる。この場合、化合以前の要素にすでに化合後に出現するすべての性質が含まれていると主張することはできる。では条件を変えて、水と過酸化水素水が半々できる場合はどうか。かりにほとんどの場合、これらの産物が半々できるのであれば、そうなるように当初の要素の性質に、産物として出現するすべてのものが潜在的(先在的に)含まれていると考えることができる。するとどのように多様な新たな産物ができる場合であれ、ほぼ必然的にできるのであれば、それを創発だといっても、決定論的プロセスだといっても、それぞれに言い分はあり、いずれも成立する。つまり創発だと呼ぶ特段の理由はない。新たな質の出現も、新たに出現する性質の多様性も、ただちには創発のメルクマールにはならない。
ここ10年での最大の新種化合物の出現は、やはりカーボンナノチューブとフラーレンである。[2]フラーレンの大量合成法は、かつて街燈として使われていたアーク放電を用いる。アークランプの陰極に大量の炭素の塊が出現し、ここにサッカボールを小型にしたようなフラーレンが大量に形成される。ところが同じ陰極にはフラーレンだけではなく、中空のチューブ状になった物体も大量に形成されていたのである。これがカーボンナノチューブと呼ばれる結晶である。大量合成の場面で異なるのは、触媒となる金属(たとえば鉄、ニッケル)を介した反応の回路を進むか、この触媒を介さない回路を進むかの違いのようである。だがアーク放電で作った場合は、フラーレンとカーボンナノチューブは、同じ陰極にでき、ともに金属の触媒を介さなくてもできる。
一般的にイメージすれば、炭素の結晶がつながっていくさい、半径方向(垂直方向)の形成速度と、軸方向(横方向)の形成速度が同じであれば、形成の結果は球形になり、それに対して軸方向の形成速度が著しく大きければ、棒状になる。問題は、この形成速度の違いが何によって生じるのかである。いまのところこの点については、まだよくわかっていない。しかしこの条件が工学的に明示できるのであれば、このカーボンナノチューブもフラーレンも、物性としては興味深いものであっても、創発ではない。このことを裏返せば、本来の創発は、工学的な制御のなかに収まるのであれば、それを創発とは呼ばない。創発の起こる工学的系は、制御できないことの別名である。
かりにカーボンナノチューブとフラーレンが相互に移行するような場合には、それぞれの物質構造には、可変性をもたらすような変数が含まれていることになる。変数が出現し、その変数が値を変化させながらおのずと状態を変えるとき、初期条件から産物に向かうこととは異なる事態が出現する。初期条件から、特定の状態に向かうという線型性が壊れるだけではない。どのように初期条件からの状態推移を詳細に詰めてみても、直前の事態に対して、不連続な飛躍があるようにしか組み立てることはできない。変数が変化し状態を変えるとき、この系は変数の変化に応じてさまざまに移り変わる一つの位相平面を形成してしまう。そのため直前の事態から、この位相そのものをどのようにしても導くことはできない。つまりそれまでにはない変数の出現が、創発の必要条件だと考えられる。変数そのものの出現は、既存の変数の値の変動とは性格が異なる。
このとき現実に起こりうることを、いくつか想定してみる。いまカーボンナノチューブとフラーレンとが、どちらかがほんのわずかでも多く生成するようになれば、どちらか一方の生成物が支配的になる。本来等量でできてもおかしくないものが、どちらか一方に傾く場合は、そこに未決定な触れ幅があることになる。この場合ゆらぎは、現実の生成物の配分の未決定さを決めているだけであり、そこから特定のものが支配的になる仕組みが、安定化の機構である。さらにいまなんらかの環境条件との関連で、どちらか一方がより多く産物を維持する場面を想定する。このとき環境条件との関連で、どちらかが自己維持に有利・不利という場面が出現する。これは変化する産物のなかでの生き残りに似ている。この生き残りを仕組みとして描こうとすれば、産物の「自然選択」となる。
ここでダーウィン進化の仕組みを初歩的に考え直してみる。一定数の個体集団を考える。事態を単純にするために有性生殖集団で考えてみる。有性生殖で子孫を残すさいの遺伝的変異によって、同じ親から生まれる個体の間には、微小な差異がある。また個体集団で生き残る可能性は、一定数を限度とし、いくぶんかは次の子孫を残す前に死滅する。この二条件を基礎的条件として、生き残る集団の平均的な形質を考えると、母集団の形質の中央値は少しずつ変化していく。以下これの繰り返しである。仕組みは極めて単純である。各個体にランダムな差異が生じる。ランダムなもののうち一定数は生き残れない。生き残るのものの形質の平均中央値は、おのずと変わる。ところでどう変わるのか。物理的に考える限り、平均的形質に収斂するものの比率が、増大する方向へと変化する。自然選択は、おのずと類似したものが増える方向で推移する。
かりにランダムな変異が数多く出現し、そのなかからなんらかの理由で特定のものだけに絞られてくる。そうしたイメージで変異と創発を捉えてしまうと、まるでランダムさがあれば、なにか新たな事態が生まれるようなイメージになる。だがランダムな変異は、どのような物理的系にも当てはまる一般的な特質であって、特別な事情がない限り、系の安定をもたらしているだけである。さらに世代ごとの微小変異と生き残りを導入すれば、系全体で類似したものの比率が増えていくことは、ほぼ間違いない。同じ環境条件が設定されていれば、時間経過とともに系の標準化が起こる。これは最適化と呼ばれるものである。だがそれは環境条件との関連での指標であり、系そのもののでは均質化である。自然選択は、一般に創発の仕組みはもたない。むしろそれは創発の可能性を消す仕組みである。
そこで環境条件を少し変化させて、変化する環境条件での生き残りを考えようとすると、変化した条件への対応が問われる。たとえば捕食者の捕食技法が強力になり、そこから逃れる術をより備えたものは、より多く生き残るというようになる。しかしこれは系内の個体間の争いをベースにした自然選択ではなく、環境条件の変化への対応の幅が問題なっている。捕食者はどんどん強力になり、それから逃れる術もどんどん巧妙になる。いわゆる「軍拡競争」である。軍拡競争の結果、生物はおのずと巧妙な仕組みと機構を形成するようになった、というのがそのさいに言い分である。このタイプの議論が繰り返し主張するのは、進化的創発ではなく、生物の巧妙な作りが、いわば機械論的な選択の仕組みで出現したことである。[3]しかもそこで扱えるのは、変数の出現ではなく、既存変数の値の変動だけである。そのため見事なほどの数学的定式化を行うこともできる。[4]
全般的にみて、進化論と呼ばれるものに、大別して二つの課題が課せられていることがわかる。夥しいほどの自然界の生物的多様性の出現の条件を求めるという課題と、現にある個々の生物的仕組みの巧妙さが、一切の創造論とは独立に、機械的、科学的に立論できるという課題である。前者が極めて入り組んだかたちにまで進んでいく進化領域での自己組織化の機構であり、後者が総称としての「適応論」である。[5]この二つの課題は、かみ合わないまま実際際限のない論争を引き起こしてきた。これらの論争では、見かけ上進化の仕組みを争点として論じているように見える。たとえば爆発的な創造期と多くのなだらかな停滞時期との組み合わせを指定する「断続平衡説」と、微小な変異の蓄積を主張する漸進説との争いに見えたり、共生による真核細胞の形成のような、適応-不適応の二分法コードを越えた事態の指摘と、その場合でもなお適合するものだけが生き残るという適応の事態を争うもののように見えるのである。だが実は、多くの場合それぞれは別個の説明課題をもち、別個の説明責任をみずからに課している。いわば新たなものがどのようにして出現するかという課題と、出現したものの合目的性がどのような意味で合理的、機械的かという課題とが並置されたまま、議論が進行している。
しかもさらに問題になるのは、この二つの課題に同時に答えることは、どうやら困難ではないかという見通しが立つことである。創発は、新たな変数の出現を必要条件とする。それはシステムとしての変貌であって、生命システムの存在可能性の拡張である。変数そのものが出現することは、特定の形態や形質に標準化しないことであり、そこで出現する生命機能が特定の環境条件と最適化しないことである。このことと、環境条件との関連で生物の巧妙さがおのずと形成されてくるという主張の間には、どうしても折り合えない点が生じる。一般的に言えば、生命体はみずからの可能性に向かって自己創発する仕組みを備えている。そうでなければこれほどの夥しい種の出現は考えようがない。だがそれはシステム固有に備わった特質であり、環境条件との関連で生じたものではない。逆に生存を維持するものは、結果として環境条件に適合しているものとして説明することは、いくらでもできる。だがそのことを認めても、環境条件への適応をつうじて、そうした生命機能が出現したのか、それとは独立に出現したのかを決めることはできない。
一般的に考え直すと、自然選択の仕組みに前提されている働きや能力は、生存を維持できるほどの食料を確保する能力、主として外的を避けるための防衛能力、そして子孫を絶やさないための繁殖能力である。少なくてもこの三つがあれば、適者になることができる。だがここにはたとえば眼の仕組みに由来するような認知能力は直接含まれてはいない。また内分泌的な個体の身体調整能力も含まれてはいない。人間になぞらえて比喩的に言うと、ひたすら旺盛に飲み食いでき、逃げるための身のこなしがうまく、精力絶倫であれば、自然選択の仕組みでは適者になることができる。だがこの三つの能力から、有機体の複雑さ、巧妙さを導くことはほとんど困難である。かりに認知能力のなかで、敵を捉えることができず、ただちに捕食者につかまってしまうようなものは適者ではないと主張することはできる。視覚が弱って、眼前の物体に身体をぶつけ続けて死んでしまうようであれば、それも適者ではない。どのような理由であれ、死に絶えるものは適者になりようがない。逆にいえば、生き残ることを満たせば、さまざまな適応の可能性があることにはなるが、それにとどまっている。つまり自然選択は、適者についての最も大外での条件を設定しているにすぎないことになる。その条件を満たさなければ適者になりようがないが、条件を満たすことが、特定のデザインやさまざまな生命機能とつながる道筋はもたないのである。
すると自然選択は、大外での条件を指定しているだけであるため、その内部にさまざまな発見を導くだけの隙間がある。たとえばコウモリは超音波を発して、反射してくる超音波で物の配置を捕らえて、洞窟の暗闇を飛びまわっている。だが集団をなしているコウモリでは、他のコウモリの発する超音波と混線しないような仕組みを備えているに違いない。また孔雀のメスは、オス羽の目の数が一四〇個以上の個体に求愛するが、個々の目の数を数えているはずもなく、別の仕組みを用いて判別していると予想される。もっと単純な指標を用いているはずである。[6]だがこうしたことの解明は、それぞれの動物世界の固有性を明らかにすることであっても、生き残りから直接導かれるようなものではなく、またそれによって結果として生き残ったと言い換えても、なにかがよりよくわかるようになるわではない。つまりただ生き残るためであれば、別の選択肢もありうるし、生き残りに適合的なもっとよい選択肢の可能性はつねに提示できるからである。実際ドーキンスの洞察力のある記述のほとんどは、自然選択を取り外しても、まさにこの隙間によってそのまま成立している。こうした事情のために、自然選択がもちだされる場所は、つねに他の主張を導入できる場所でもある。しかも自然選択以上にもっと外側の主張さえ持ち出せる。キリスト教原理主義が終わりようがないのは、このためである。
生まれる個体がどの程度の変異幅で異なっていくかは、自然選択内在的な機構の整備の問題である。ここには確率的偶然や餌の確保だけではなく、雌雄選択が働く。この仕組みも相当詳細に調べることができる。これは個体変異の変動の機構を遺伝的偶然以上にさらに詳細にするためのものである。有性生殖動物の場合、基本的にメスがオスを選ぶ。メスの側が生殖にコストをともなうため、選別を行うのである。そして選ばれるオスのタイプが限定されれば、オスの平均形質の中央値は収斂してくるはずである。ここ10年の雌雄選択の理論で、もっとも際立っていたのが、「ハンディキャップ理論」である。[7] これは大鹿のツノやクジャクの羽のようにどうみても生存に有利だとは思えない形質が、雌雄選択の場面で有効に機能していることを骨子としている。この場合、それらの形質が見栄えがするのでメスがそれを選ぶと言ったのでは擬人法になってしまう。そこで生存に不利なほどの形質(ハンディキャップ)を備えてもなお生存していることは、メスによって生存率の高いオスだと選択されるというのである。この説明の仕方は、雌雄選択だではなく、あらゆる局面に大胆に拡張された。生存に不利だと思えるものも、まさにハンデをものともしない力強さだと捕食者によって認定されて、生存適合的形質になるというのである。隙間に導入される付加的説明機構は、しばしば過度につじつまが合いすぎるという性質がある。
不思議なことに、自然選択は発見力のある隙間を指定したために、いまなお威力を持ち続けているが、その枠のもとで発見した事実は、自然選択の仕組みからはどのようにしても導くことはできない。これは直接的には理論構想の不備が、まさに不備であることによって発見をもたらし続け、見出された事実は、理論構想とは異なる事態を指示し続けるようなものである。事柄で言えば、提示された機構とそこから推論された問いとの間に、導出関係がなく、問いへの解明は当初の機構とはつねにすれ違っていく。こうした特殊な理論構想を作り上げてしまったために、ダーウィン自身は毎日のように発見し続けなければならなかったし、その延長上で見出されたことは、理論構想を展開することにつながらなかったのである。初歩的な事態を確認する。「適者生存」という語は、循環的定義ではない。生存するもののうちにおのずと適者が出現するという仕組みには、「おのずと出現する」という機構に、いくらでも新たな事実や事態を導入できる隙間がある。この隙間を見出し、隙間を含んだまま理論的定式化を行ったために、適者生存は、探究を方向づける統制原理となった。この方向付けは、本来必ずしも適者への探究を促すものではないが、得られた成果は間違いなく適者の限定として記述されるのである。
2 心の創発の難題
心のありかたについては、経験科学的には直接証明できない。心を直接調べる手続きが存在しないのである。もちろん脳の作動部位を指定することはできる。現時点では、主として心が働くと思われる脳の発火部位を調べているために、脳・神経科学的な解明は心の働きを知ることへの手掛かり程度のものである。それでもデータは随分詳細にはなった。認知進化学という産声をあげたばかりの科学がある。[8]認知能力を系統的な由来から調査するものである。こうした探究の仕方は、ダーウィンの『人間の由来』にも『人及び動物の表情について』にも含まれている。
眼のような認知器官の形成については、器官形成の系列として相当細かな調査ができている。具体的に眼の進化的形成についてみてみる。眼の専門家は世界にかなりの数いて、それぞれ形成史を論じている。そのなかから基本的な眼のパターンだと思われるものを取り出してみる。眼の出現は、何度か異なる回路で試みられた生命史の果敢な挑戦なのである。[9]
光は、地球にもたらされるもっとも豊かな資源であり、この資源の活用は世界を見るというような認知的活動から始まったのではない。植物は光をエネルギー源として活用しているが、動物にとっては光の活用範囲は当初から限定されている。クラゲには、すでに眼点のような器官がある。眼点は黒い色素からなる感光面のような小さなくぼみである。光への反応をあげるために、光を集約していく器官が、原始的なレンズである。クラゲのほとんどはまだレンズをもたない。眼点が複数個でき、それらが集まってやがて眼の前史となる。これはごく一般的な推測である。クラゲの感覚器には、すでに重力、触覚、化学物質、圧力、温度などを感知する受容器表面が形成されているが、眼の形成はずっと遅れる。光を感じとるだけでは、眼という器官の三分の一の働きしかしていない。光を感じ取り、そこから像を結ぶまでの仕組みが出来上がってはじめて眼となる。クラゲの段階でかりに光への応答が生存価値をもつとすれば、敵から逃れるさいに、敵を察知することがいくぶんか早くなるぐらいである。逃げ足が速くなるためには、この光への反応から運動機能につながる回路が準備されていなくてはならない。
最初の眼といえるものは、軟体動物に広く見られるもので、一つの眼で視覚像を成立させる単眼である。単眼には大別して三種類の仕組みが区別できる。一般に光を集め、焦点を絞るための仕組みがあれば、光情報を捉えることができる。それが眼と呼べるかどうかは別にして、光情報を捉える器官にはなっている。もっとも眼がないまま皮膚光覚で光情報を捉えているものも節足棒物には多いので、視覚像をえることは、眼の前史だと考えておいた方がよいかもしれない。
第一にオウムガイにみられるレンズを用いない眼(原始眼)である。レンズがなくても眼は成立する。いったいのどのようにしてか。レンズは光を集める器官だから、別の仕組みで光を調整できればよい。つまり光を通すスリットをごく小さな穴にして、穴の先に像を結ぶような感光面を置くのである。田舎の家屋には木でできた雨戸が残っている。そこに小さな節穴が開いており、雨上がりの朝は、そこから光が差し込んで、壁に光の円を作り出していた。この光の円の位置に感光面があれば、十分眼として機能する。この小さな穴の大きさを調整できれば瞳孔の開閉になるが、瞳孔の開閉ができなくても、光の量は大まかな調整はできる。たとえばこの穴の向きを変えて、つまり光の対しての身体の向きを変えることで、光量を調整するのである。だがこの方式には、一般に大きな限界がある。光を多く取り入れれば、すべては明るくなって像はボケてしまい、光量を少なくすれば全面薄暗くなってしまうからである。
そこで第二の仕組みとして反射光を用いる仕組みを備えた眼が出現する。光を集めるさいに反射光を活用するのである。衛星放送のパラボラアンテナは、凹面の器と焦点の位置に置かれた眼からなっている。凹面の器は、場合によっては家庭用の中華なべを用いてもよい。光を集めて焦点を作りだせればよいからである。この凹面とレンズの組み合わせがいくつかのタイプに分かれる。この場合にも、かならずしもレンズは必要ない。凹面で集めて、網膜(感光面)に直接焼き付けても像はできる。そこで凹面そのものに直接網膜が備わった窩眼、凹面の部分と網膜部分の分離した反射眼、そして凹面で集めた光をレンズに通すタイプに分かれる。基本となるのは凹面で光を集めて焦点を結ばせる方式で、これじたいは反射望遠にはすべて組み込まれている仕組みである。
第三の仕組みが球状のカメラのような眼を備えたもので、巻貝に多くみられる。瞳孔を通る光を虹光によって調整している。この球状カメラ眼が脊椎動物に広く継承され、眼の標準装備になった。だがここにも多くの細かな仕組みの違いがある。魚の眼はほとんど球形であり、球状のレンズでは周辺を通過する光と、中心部分を通過する光とでは、異なったところに焦点を結んでしまう。これが球面収差と呼ばれるものである。実際現在用いられているカメラは、扁平の凸面レンズをいくつか重ねており、中心部と端とが同じ位置に焦点を結ぶように工夫されている。だが魚の眼のレンズは、ほぼ球形である。焼き魚を食べるさいに確認してほしい。とすればなにか特殊な工夫があるに違いない。どうしたらよいのだろう。球形の眼は、今日の調査では、さまざまな屈折率の異なる物質からつくられているようである。つまり不均一レンズを用いている。中心を通るほど光の屈折率を大きくし、進行速度が遅くなるような素材で眼ができていて、周辺ではほとんど屈折せず速度も維持され、中心近くを通る光は、速度が遅くなって、網膜に同時に到達するように作られている。
陸上動物の眼は、空気が希薄な媒質であるため、眼の表面で光の大きな屈折が起きてしまう。そこで屈折を調節するための角膜が大きな役割を果たしている。ここからさきの進化史には像を鮮明にするためのさまざまで詳細な仕組みが見出される。おもなやり方は、角膜とレンズの形状を変えたり、レンズの位置を変えることで、焦点を合わせるのである。実際眼球周辺の筋肉を使ってレンズのかたちを変えるものや、カメラのようにレンズの位置をずらして結像を調整している。人間のなかにも眼球周辺の筋肉を使って、出目金デメキンのように眼球を前に出せる人がいる。ただしこの場合はデメキン状態で物がうまく見えているとは思えない。また眼球が細い枝のような筋肉の末端についていて、眼球そのものを四方、八方に移動させることのできるものがいる。この場合には、レンズの向きを変えているのである。
これらに対して複眼は、一つの眼の器官のなかに「個眼」と呼ばれる小さなたくさんの眼からなっている。トンボの眼が典型で、この方式は甲殻類、昆虫に広く見られる。一つ一つの個眼は眼の機能だけではなく、むしろ分布した個眼の間を光がとおりぬけることで屈折率を調整している。眼球内の個眼の密度に勾配をつけて、中央の光の速度を遅くし、全体としてまとまった像をつくる仕組みである。
複眼で連立像を形成する場合には、それぞれの個眼は独立にそれぞれの方向の環境を小さな像にむすび、それらをジグソーパズルのように結び合わせて全体像ができあがると言われている。これは連立像眼と呼ばれるもので、部分を寄せ集めて全体を形づくるという発想がベースにある。しかし部分像を作って、それをパズルのようにまとめていくためには、それぞれ個別の像を形成する以上に、はるかに精密で複雑な神経システムがあるに違いない。こうしたシステムを前提にして眼の仕組みを考えてしまうと、本当は解くべき問題の大半があらかじめ前提されてしまっていることがわかる。人間の眼でも、両眼で別々の視野を捉え、それを統一像になるように統合しているが、片眼を閉じても世界は半分になるわけではなく、眼の調整には高度なシステムが出来上がっていることが多い。
これとは別に重複眼という仕組みも知られている。それぞれの個眼は独立ではなく、個眼に入ってきた光は重ねあわされて、最終的に一つの位置にまとまってから像となる。この光をまとめる仕組みの代表が密度勾配である。だが密度勾配以外にも別の仕組みがあり、それぞれの個眼の内壁が鏡となって、反射する光の向きを変え、全体として一つの位置に焦点を結ぶようにしたものもいる。カンブリア紀初期に出現し、またたくまに世界を制覇したのが三葉虫である。三葉虫が眼を備えていたことははっきりしており、複数のレンズを重ねて遠くも近くも焦点を合わせることのできるような眼であったと言われている。
こうして眼の仕組みを見てくると、これらは系列的に発展してきたものではなく、何度か異なる回路で進んできたと考えるのが妥当な線だと思える。大別しても四種類、細かく分ければ八種類もの眼の仕組みがあることがわかる。これらの分岐やそれぞれの改良のプロセスを直接生存に結びつけて説明することは当然のことながら難しい。こうした調査と議論の立て方は、ある器官の構造-機能連関を系統的に調べるものであり、認知器官のなかでも機能がほぼ判明しているものについて、構造の変化を配置していくのである。機能がおよそ判明していれば、系譜をたどることができる。だが意識のように機能の全貌が明らかにならないものに対しては、このやり方を取ることができない。
心の働きのうち、意識の出現の仕組みが現状では最大の難題の一つである。[10]意識の出現は、一つの創発であるが、創発以前の状態をどのようにしても知ることのできない特殊性をもつ。この創発は、不連続な飛躍を経るだけではなく、飛躍以前の状態が一切解消されるために、遡行という手続きによっては、みずからの由来を問うことができないという特殊事情が絡んでいるようにみえる。また意識の働きの全貌がよく分からないことも探究を難しくしている。そこで内観的に取り出される意識の特質を調べてみる。ヘーゲルは『精神現象学――意識の経験の学』の序文で意識の命題を掲げ、意識の機能を、(1)みずからと対象とを区別すること、(2)みずからが区別した対象にかかわることの二点を挙げた。またフッサールは、現象学を開始する以前の『論理学研究』で、意識を三つの機能性で特徴づけている。それがさまざまな活動が折り合わされている場所であり、内的に気づかれていることであり、なにかへと向かう志向性である。内的に気づかれているさいの内感的感触部分が、しばらく前までクオリアと呼ばれていたものである。
機能性の側からもう少し詰めてみる。(1)意識は、みずから感じ取るものだけを知ることができる。すなわち感知可能なものと感知不可能なものの区別をみずからで行う。感知不可能なものは通常「無意識」と呼ばれる領域に区画される。この働きは、意識という場所の設定にかかわっている。(2)さらに意識は、みずからの活動をそれとして感じ取ることができる。それじたいで動いている感触をみずから感じ取るのである。これが「気づき」であり、西田幾多郎が「自覚」と呼んだものである。この働きのうちたとえば眼前に世界が出現すれば、おのずとすでに左右対称になっているような場面で働いているのが、「正中線を引く行為」である。意識は知るだけではなく、知られた世界にすでに含まれてしまっている何らかの行為を行っている。正中線を引く行為は、身体行為と密接に連動しているレベルで起きている。(3)さらに意識は、みずから自身を知ることができる。意識の意識、意識についての意識と呼ばれるもので、伝統的に自己意識と呼ばれてきたものである。実際には意識することを意識するという働きとして出現しており、意識の意識という二重化した存在があるのではない。眼前の花瓶を見ながら見ていることを意識するのである。これが自己意識の働きである。だが音読することを音読することはできず、計算することを計算することはできないのだから、自己意識は何か行為の一断片だけが取り出されている可能性が高い。自己意識と内観的気づきは明確に区別される。(4)意識はみずからを一つのまとまりとして感じることができ、また一まとまりになっているありかた以外には、みずからを感じ取ることができない。解離性障害の場合も、意識は一まとまりだと感じられ、かつなにか思うようにならないと感じられる働きがまとまりの外に感じられる。このまとまりをつける働きのどこかに、ワーキングメモリが関与していると考えられる。(5)意識の内観的手続きによっては、意識はみずからの前史を知ることはできない。意識は出現するか消滅するかであり、意識の混濁はあるが、意識が出現する途上のプロセスは意識にとっては成立しない。意識の出現するプロセスが捉えられるならば、意識はこれほどの難題にはならない。(6)意識は、さまざまな情報に対しての選択的制御、記憶されるものとそうでないものの選択的制御、さらにはみずからの活動への強弱の制御(集中したり、緊張を少し緩めたりという制御)のような働きを備えている。これは対象とかかわっていくさいに出現する基本的なモードであり、焦点化と呼ばれる。ここに働いているのが、注意である。注意と意識をほぼ同義で捉えていたのが、ウイリアム・ジェームズである。注意は現実が何であるかを知る以前に、現実そのものを出現させ特定する。(7)さらに意識はみずから以外のものへとつねに向かっているという働きの感触をともなっている。これが志向性と呼ばれるもので、おもに予期と直観の働き関与していると考えられる。こうした機能性を詳細に列挙しても、意識の働きの全貌を取り出すことは容易ではないという感じは残る。そのことは、意識の働きをイメージ化するさいのモデルがまだ圧倒的に不足していることに起因しているように思える。
注
1、このタイプの考察として、ファリア『選択なしの進化』(池田清彦監訳、工作社、一九九三)参照。
2、たとえば川合知二監修『ナノテクノロジーのすべて』(工業調査会、二〇〇一)参照。
3、ドーキンス『悪魔に仕える牧師』(垂水雄二訳、早川書房、二〇〇四)。
4、たとえば巌佐庸「生物の進化と適応の数理」『シリーズ進化学7』(岩波書店、二〇〇五)一二一-六二頁。
5、適応論の擁護では、ウィリアムズ『生物はなぜ進化するのか』(長谷川真理子訳、草思社、一九九八)
6、生態認知の問題は、際限ない奥行きがある。日高敏隆『動物と人間の世界認識』(筑摩書房、二〇〇三)参照。生命個体の存在が、同時に個体と環境との関係を形成するとき、認知的な環境とのかかわり以前に、すでに存在することによって環境にかかわってしまう底なしの領域があるからである。
7、ザハヴィ『生物進化とハンディキャップ原理』(大貫昌子訳、白揚社、二〇〇一)、またミラー『恋人選びの心』(長谷川真理子訳、岩波書店、二〇〇ニ)ことに第二章。
8、人間の能力を系統比較から解明しようとする企ては、開始されたばかりという印象が強い。乾敏郎、安西祐一郎編『認知発達と進化』(岩波書店、二〇〇一)、松沢哲郎・長谷川寿一編『心の進化』(岩波書店、二〇〇〇)
9、パーカー『眼の誕生』(渡辺政隆、今西康子訳、草思社、二〇〇六)
10、意識を表題もしくは章題とする議論は多いにもかかわらず、まともに意識を論じようとすると、容易には手のつかない実情がある。芋阪直行『意識とは何か』(岩波書店、一九九六)。