メタモルフォーゼ-日々新たな自己になるために 1
河本英夫
エコーは響く。響きは振動でも伝達でも共振でもない。ギリシャ神話に登場する最大のおしゃべり女がエコーである。際限のない噂話と、話に付けられた尾鰭、背鰭は、饒舌ではあっても響きではない。ただ騒々しいだけだ。この騒々しさは、ユノー女神の怒りをかう。その挙げ句エコーは舌を切られてしまい、言葉の語尾を繰り返すことしかできなくなる。生身のエコーの誕生である。まるで語の選択の軸が壊れた失語症患者のようである。言葉を失ったとき愛が生まれる。エコーは絶世の美男子ナルシスに懸想する。みずからの写し以外誰にも関心をよせないナルシスは、向けられた愛に気づく様子もない。そのため憔悴しきったエコーは、森にこもり衰弱しつづけ、やがて消滅する。身体という構造の消滅をつうじて、はじめて現存するものがある。それが、森に叫びかけたとき、何度も語尾を反復する木霊である。エコーは、みずからの消滅をつうじて響きとなる。[1] 響きは魂の原初形態である。というのも可視的ではない内面性が、出現するように感じられるからである。
木槌で岩を叩く。鈍い音がする。岩は振動している。だが振動はいまだ響きではない。音はすべて振動運動であるが、振動するだけでは響くことはできない。鐘の音のように、振動がみずからへと振動しなければならない。流れ行く川のなかに、突如大きな盛り上がりが生じ、まるで水鳥のように進行方向をすばやく移動していくことがある。一回だけ生じる波のように、この起伏は水面を移動し、下流へと向い、靄のようにどこかに消えていく。単独の遊走者であるこのソリトンは、動きの伝達である。動きの伝達は川の流れにささえられ、流れのなかで突如生じた満ち足りた剰余であり、剰余の伝達である。[2] だが伝達されるだけのものはいまだ響きではない。どのように満ち足りていようと、伝達の連鎖や交換の連鎖は、いまだみずからへと再帰する響きになってはいない。
単独のものだけが遊走することができる。遊走するものは、みずからの痕跡をどこにも残してはならない。だが初めてはばたく小鳥のように、遊走者は未知のものの予感のなかに自足している。自足しているものは、ぎっしりとつまった砂のように、響くことができない。奇妙なことだが欠如感に自足していても、響くことはできないのである。見果てぬ夢、極限の一歩向こう、到達不可能な極地への憧憬は、際限なく欠如しつづけることに自足している。本当のところ欠如への自足は、そのことによってすでに救済されており、もはや響く必要もない。響くためには、繰り返しみずからが再生する隙間が必要であり、みずからが流動していなければならない。
響きはひとたびそれが響きとなれば、落ちた小石が湖に同心円状に波紋を広げるように、無方位に伝達される。だが伝達されるものは響きの余韻であって、響きはみずからに響き続ける。つまり響きの伝達は、響きのおこなう同時産物であり、響きはいわば響くことなしに伝わる。だがこの伝達を副産物だと考えるわけにはいかない。というのもいまだ主産物と副産物の区別はどこにも現れていないからである。響くものは、みずからに響き、同時に他へと伝わる。小鳥の羽の振動は、ただ振動をつづけているだけではない。振動が振動を呼び起こすようになったとき、振動は大気のなかのひとまとまりの自己を形成し、同時にみずから大気へと漂う。大気へのはばたきは、振動の再帰の同時産物である。響きがみずからへと響くようになったとき、振動は響くことなくおのずと他へと伝達される。音がすでに聞かれた音であるように、響きは、伝達されてしまった響きである。だから響きは、感覚の原初形態でもある。というのも感覚は、それじたいひとつの活動であることが、同時に振動に呼応することだからである。
対向する音叉は共鳴する。振動が伝達され、別の場所での振動となる。伝達された振動が、それぞれ振動しているだけであって、通常これを共鳴と呼ぶ。本当は伝達された振動それぞれが、ただ振動しているだけである。むろん振動の伝達は続いている。だがどこまでもそれぞれの振動は、それぞれの振動である。同時的な振動が、シンクロニシティと呼ばれる。星の迷走が災いに共鳴し、地鳴りが雪に共鳴し、量子の角速度は、他の量子の角速度に共鳴する。だが共鳴は響きではない。
一切のつながりがないと思えるところに共鳴が生じることがある。 深夜天啓のように「今火事が起こる」という想念が浮かぶ。翌日の報道で、この天啓の到来と同じ時刻にわずか10Km先で実際に火事が起こったことを知る。ただ心のなかで思うことが、同時に現実に起こってしまう。そのため思うことさえ禁じるという、強い抑圧が働くことがある。フロイトが、観念の万能と名づけた原始心性である。言語という記号と、物理的な出来事との間には本来なんのつながりもない。すくなくとも因果的なつながりはない。だが共鳴はしばしば起こる。類似するものは類似するものを呼び起こすという古来からの鉄則にしたがって、共鳴はいたるところに出現する。断ち切ることのできない原始心性の余韻が響くのである。
響くものは、森や鐘ばかりではない。静けささえ響く。静寂の響きである。音量の欠如である静けさえ響くことがある。一定量のざわめきが一瞬完全に消えることによって、静けさにたたずみ、その瞬間躊躇にも似たすわりの悪さを感じることがある。静けさへの気づきにともなう響きである。ないものが、それとしてないことに気づいていく局面で、経験は欠如と欠如の場とを同時に感受している。
この経験領域は、ハイデガーの独壇場である。言葉をそれとして経験するというテーマを掘り下げながら、ハイデガーは、言葉を語るとき、つねにいつも同じ度合いで、ともに語っているものがあることを指摘する。これは本来的な事態で、他に誰もいなくても、語っているはずの一切の対象がなくても、ともに語るものがある。詩人がみずからのもつ言語表現の境界に立ち至って、すべての言葉に対してあきらめの位置まで進んだとき、言語へのあきらめは、このあきらめをつうじてはじめて開示されるものがあるという確かな希望の態度でもある。だからあきらめは拒絶ではない。言語へのあきらめをつうじて、このあきらめのなかにすでに含まれた語りとの関係をもちつづけることであり、語られない余白が、語られないことによって語りとともに響くのである。
ヘーゲルは『自然哲学』で、響きを自然現象の固有のカテゴリーとして取り上げている。 現行の経験科学から見れば、間違いなくマッド・サイエンティストに区分されるヘーゲルの自然記述のなかには、現在の経験科学にいまなお多大な着想をあたえる天才的直感がいたるところに含まれている。なかでも「響き」のカテゴリーの設定は才気が溢れている。[3]響きは反響や騒音と区別される。反響は、森のなかのエコーのように、繰り返しの往復反射であって、響きの一種ではあるが、いまだ響きに必要な、反射することでひとつのまとまりになることができないでいる。騒音は、散逸的な往復反射であり、ざわめきである。ざわめきは拡散しながら、やがて止む。そこでヘーゲルは、響きは振動する物体がみずからのうちで同質であることに関連するという。そのためには物質の固有の凝集状態がなければならない。ここで響きは、二重の産出仕様をもつとされる。 摩擦による振動の開始であり、さらに内に隠れているものが振動に呼応するさいの、弾力性による響きの産出である。響きはみずからのうちに振動を引起こしつづけなければならない。ここにヘーゲルは、 響きに固有の観念性を見出している。
いまひとつの振動が、それじたい振動運動でありながら、みずからの振動へ再帰し、同時に他の振動を引起こしたりする場面を考えてみる。ひとつの運動が、この運動を再帰的に継続しながら同時に他の働きを行ってしまう事態を思い描くことができる。 これは振動が、何重にも自己に関与するというような事態とは別のことである。響きを振動の自己言及だとしたのでは、なにか決定的な局面が落ちてしまうのである。たとえ何重に自己言及が働こうとも、ひとつひとつの再帰の働きのなかに、再帰しながら同時に別のことを行う作動が含まれているのでなければ、響きになることができない。響きは振動が自己関与しながら、そのことをつうじて同時に別様の作動を行う。たとえひとつの振動であっても、それが振動運動を再帰的に継続するだけではなく、同時にそのことをつうじて別様の作動をする。響きで明らかになるのは、ヘーゲルの指摘とは異なり、内面性の発生でも、観念性の形成でもなく、むしろこの二重の作動である。
ダブル・オペレーション(二重作動)
いま原初的な生命物質を考えてみる。それじたいが一個の活動であるような生命物質であり、自分自身で活動する微小な藻のようなものをイメージする。海流に揺れるのではなく、みずからの活動だけで揺れている。この微小物質は、いまだ空間、時間内に存在してはいない。微小物質は純粋な活動であって、時間、空間から割り当てられた活動状態ではない。むしろかえって時間、空間を形成する活動である。だが位置はある。空間内にないものがどうやって位置をもつのか。空間内にないものを空間的に位置指定することはできない。他の微小物質との関係だけで、位置は決まる。そしてそれ以外の位置はもたない。位置が決まるのは、微小物質間の関係であるとしてみる。この物質間の関係を計量する鳥瞰的な視点を信じられるあいだは、問題はない。だが微小物質の位置の決定は、みずからの活動をつうじて行わなければならない。
つまりこの微小物質は、みずからの活動が、同時に他の微少物質を写し、他の微小物質との関係を形成することでなければならない。活動は、それじたい運動であると同時に、他の微小物体との関係を形成することでもある。あるいはゴリに厳密にしてしまうと、みずからの活動が、すなわち関係化であるという事態が生じている。これは複数の微小物体間の関係から、個々の微小物体の活動が割り当てられるのということではなく、またみずからの活動の延長上に微小物体間の関係が形成されるのでもない。さらに物体間の関係で捉えれば、関係の形成であり、それじたいで捉えれば運動であるという観点の問題に解消できるものでもない。というのもこの二重の活動は、観点を変えて二つの局面をとり出してきたのではないからである。むしろひとつの活動は、響きに現れていたように、それじたい運動の継続でありながら、同時に別様の作動を実行している。これがライプニッツのモナドロジーの出発点で設定された解消できないダブル・オペレーション(二重作動)である。[4] しかもこれは現行の物理学のなかでは、ほとんど捉えそこなってきた問題である。
微小物質の活動は、それじたいで運動を継続することであり、すなわちそれが世界を表象することである。ここには物質固有の働きが、運動と感覚にあるという本質的な直感が働いている。感覚の働きをここで物質に持ち込むことは、擬人主義のそしりを免れない。確かにそうである。だが物質が、他の物質との選択的親和性をもち、他の物体との関係を形成し、さらに類似したものの集合体(モル的なもの)を形成しうることのなかに、すでに感覚の原初形態が含まれていると考えることができる。
運動は、それじたいが少なくても場所に対して変化していくことであり、それは同時に世界を感知することでもある。しかも運動をつうじて変化することは、同時に感知している世界の変化でもあり、感知している世界の変化は、運動の変化でもある。だがこれはいまだ精確な言い方ではない。運動はそれを継続しながら、同時に感知を行うのであり、感知はそれを継続しながら同時に運動を行っている。運動と感知は密接に関連するが、この二重の作動が、一対一に対応する保証はなにもないどころか、むしろおそらくこの対応を破壊する方向へと進む。感知されたものが何であるかにかかわらず、運動はそれとして一貫して運動するだけであり、感知は、それとして運動とは独立に作動する。物質のもつこの二重作動は、この後さまざまな形態であらわれながら、にもかかわらず一度も解消されたことも統合されたこともないのである。
運動と感覚という物固有の二重の働きのうち、感覚を物に込められた働きの一種だとすると物活論が生じる。後期ディドロである。感覚がものに込められた働きのようになれば、 物はみずからに秘めた力能をもちいて、他の物体に関わることになる。活動以前に、活動を担う原理を想定すれば、活動はこの原理からもたらされる派生的帰結にすぎなくなる。ある物質が、睡眠をうながすとする。この物質には、睡眠をもたらす原理が含まれている。それは催眠剤として化学的に特定できる。だがさらにこの催眠剤に睡眠をもたらす原理が含まれると考えるのである。この原理がもっとも広範に、力と呼ばれたものである。これが一八世紀に固有の因果関係の形態であり、笑えない冗談である。というのも少し気を抜くと、同じようなことをしでかしてしまうからである。むしろ感覚とは、物がそれとしてあることの働きであり、物のどこかに含まれた原理ではない。
微小物体の運動は、いまだ空間内の運動ではない。運動が空間内の位置の変化ではないとしたら、この運動の現存は、みずからの前史によってしか特徴づけることができない。空間内の位置の移動が、あらかじめ観察者によって設定された空間内の移動であれば、運動は、位置の相対的差異によって計量できる。だがこうした空間の設定は、あまりに多くの前提をもちこみ過ぎ、またあまりに多くのことを封じてしまう。運動は、空間に即した位置変化に限定され、運動といえば、位置の偏差になってしまう。かりに微小物質が変容したり、新たな質が生成しても、位置の移動からはすべて抜け落ちてしまうのである。そのため運動という活動は、みずからの前史の組み込みによってはじめて、運動の現存となる。運動を継続したそのプロセスの積分が、前史を負うものとしての運動の現存である。こうして運動の現存を表記しようすれば、ライプニッツ・タイプの積分形の表記が登場する。運動量に代えて、ここに力の概念が成立する。この力は、みずからの前史を背負うことはあっても、そののちの活動を決定することはできない。しかもこの力は活動の現存であって、活動をもたらす原理ではありえない。
二重作動は、ものごとが観察者から見たとき、必然的に二つの面をもってしまうというダブル・アスペクトではない。経験科学的測定にしたがえば、運動はそれとして計量され、感覚はそれとして質化される。この両面をどちらか一方に帰着することも、還元することもできない。確かにそうである。だがこうなると運動の測定のネットワークの剰余として感覚が処理され、感覚は、いわば運動にいやおうなく含まれる未決定性として、運動のなかに割り当てられるだけである。 未決定性とは、特定の測定系に依存した測定系以外の事象が介在するという事態の指摘にとどまってしまう。 ダブル・アスペクトは視点の介在によって作り出される。特定の視点から割り当てられた剰余の指摘にとどまるのであり、たとえそれが解消不能なものであっても、視点の外部を指摘しているだけである。
特定の視点からみたとき、視点の剰余が生じるという指摘には、すでにうんざりするほど付き合ってきている。運動を、時刻と位置の指定という観点のもとで規定すれば、状態指定がなされるだけである。ところが動きつづけているものは、特定の状態にとどまってはいない。したがって状態指定を行ったのでは、運動そのものにも、生命の動きにも到達することができない。ベルクソンとその亜流が指摘する、生の汲み尽くしがたさである。こうした立論は、哲学史上「生の形而上学」と呼ばれたものである。[5] ここでは視点とその剰余という二重局面が取り出されている。ある視点からの認知や記述には、それじたいの限界の一歩先、つまり外部を容易に指摘しうる。だから記述的確定とその外部というダブル・アスペクトは、視点とその限界から生じている。現れているのは、視点への自己意識と、それの外部である。
だが問題となっているのは、運動とその剰余との内的関連であり、いかなる必然性もないが密接に連動する事態である。しかもこのとき剰余は、視点によって生じたのではなく、むしろ二重作動によって運動そのものに、いわば張り付いてしまっている。オートポイエーシスでは、この局面がカップリングと呼ばれていた。カップリングは、二重の作動を行うものが、それじたいシステムとなったとき、システム-環境を形成し、必然的にカテゴリーを変えてとる形態である。
二重作動はまた、同じ一つの出来事が二つに分岐して現れるという事態でもない。いま言語とは何かという問いを行ってみる。この問いじたいがすでに言語によって問われている。言語への問いは、すでに言語をもちいることをつうじてしか行うことができない。だから言語を問うということは、すでに言語のうちへと巻き込まれることでしか成立しない。 とすれば問われている当のもののうちにあることによってしか、問いが成り立っていないことになる。これはハイデガーが言語への転回にさいして直面した問題である。[6] 問いと問いの成立が、同じひとつの事柄、言語を介してなされているとき、見かけ上言語は、問いの対象であるとともに、問いそのものを成立させる基盤でもある。問いと問いそのものへの反省が、言語に対してダブル・アスペクトをあたえている。これは対象措定と、そのことへの反省という二重の視点から、生じた事態である。[7]
この問いのもとで言語をどのように問い詰めても、言語の全貌が明るみにでることはない。だが言語がそれとしてみずから語るという局面まで移行すれば、言語はみずからを開示すると同時に、みずからを隠すのである。というのも言語がそれとして現れることが、つねにそれが呼び出される問いへの呼応を超え出てしまうからである。その結果言語がおのずと現れるとともに、みずからの由来をことごとく断ち切ってしまう。この局面はすでに二重作動に入っている。というのも言語がそれとしてみずからを表すことが、そのことによって同時にみずからを境界づけることだからである。ダブル・アスペクトからダブル・オペレーションへの移行には、視点依存的な認識から行為への変更がともなっている。この変更とともに、境界、作動、環境、自己、さらには意識、認識の意味さえことごとく一変するのである。
ダブル・アスペクトのもうひとつの典型例が、シニフィアン-シニフィエの分節に見られる。海という語には、umiという音のまとまりと、ひろびろとした一面の青を喚起する意味とが含まれている。だが音のまとまりと意味という質的にまったく異なるものが、何故接続しているのかと問うたとき、答えに窮するだけではなく、そもそも問いになっているのかという疑問が湧く。事実そうした接続はすでに起こってしまっているのであり、接続の生じる理由がいまさら必要とされているとも思えないのである。だがこの接続は、別段必然性のあるものでもなければ、この接続の生成のさいの十分なきっかけがあるとも思えない。こうした事態をソシュールは「対応恣意性」と呼んだ。音のまとまりがシニフィアンであり、意味がシニフィエである。[8]
精神疾患にしばしば見られるように、言語新作においては、特定の意味が張り付いているとみなせないものがある。医師にとって意味不明なだけではない。そもそも何かが意味されているとはみなせないようなものである。ここからシニフィエなきシニフィアンというラカンによる変容が生じる。このときシニフィアンは当初の音のまとまりではなく、すでに別のものになっている。もはや意味が介在しない以上、シニフィアンにはそれが語であるための最低限の要素が必要となる。おそらくラカンは意味以前のイメージのまとまりのようなものを想定している。だが発話行為という点で見れば、語の発話がひとまとまりとなる最低限の要素でよいはずである。意味の延長上に意味以前のシニフィアンを持ち出すことに代えて、語の発話の一定の勢いや語調があれば、発話行為はひとまとまりになることができる。この一定の勢いや語調を指標するものこそ、ガタリや花村誠一の指摘する強度である。[9]
ちなみにドウルーズ/ガタリの指摘する二重分節は、シニフィアン-シニフィエの分節とも、さらにここでの主題である二重作動とも、事柄上別のものである。どちらかと言えば、それはアリストテレスの質料-形相体制の変容形であって、質料が固有の質料-形相を備えた実質であり、さらに形相はそれとして質料-形相を備えた実質であるとして、質料と形相の一切の対応関係を断ち切ってしまうのである。[10]
シニフィアンとシニフィエのダブル・アスペクトの問題は、おそらく感覚質の間の接続という、より一般的な問題の派生系である。音は感覚質として、他の質に解消することもできなければ、他の質との関連で一義的に規定することもできない。たとえば音を、色や形に還元することはできない。そもそも質とはそうしたものである。また音をなんらかの特定の色や形と結びつける必然性はどこにも見当たらない。にもかかわらずなんらかの結びつきを形成しうる。ショパンの曲を聞きながら、 理由のない確信で、クレーの「さえずり機械」の青と接続することはできる。[11] この接続には、必然性も十分な理由もない。だから逆に新たな接続の回路を次々と見出していくこともできる。この感覚質のうちに、イメージのまとまりの凝集態である意味を導入したとき、音と意味の間の対応恣意性は、ほぼ自明なものとなる。
個物のなかには、ほぼ例外なく複数の質が含まれている。ゴムの緑の葉には、フットボールの平面形であるあの形と、緑の色が含まれている。これらがつながる必然性は本来どこにもない。ちなみにゴムの葉を想起しながら、形だけを残して、緑の色を一〇センチだけ上方に浮かび上がらせてみる。形と色は分離可能なのである。だがそのとき上方に浮かび上がらせた緑の色はどんな形をしているのだろうか。感覚質を分析的に分離してみれば、必然的にダブル・アスペクトが生じる。感覚質はそれとして単独で取り出すことができ、理由のない仕方で他の感覚質とつながっているからである。だがこの場合、複数の質の相互の外面性を捉える視点の同一性を欠くことができない。ちなみに複数の質の新たな接続様式を形成しようとすれば、この視点の同一性をあっさりと放棄して、行為へと入っていかなければならない。
知覚の反転図形というものがある。平面状に九本の実線で立方体を描いたとき、どの面が前面にせり出してくるかで、二つの図形が見える。場合によっては、この図形がくるくると入れ替わる。これはダブル・アスペクトでさえない。同じ遠近法という視野のなかにありつづけることで対象である図形が反転しているだけであり、そのため図形が反転することはあっても、どちらかの図形しか現れることはできず、そのつどの知覚で図形はつねにひとつである。
物質の二重作動を見るためには、衝突を取り上げるのが好便である。衝突の特性は、物質が運動のなかに入れられ、この運動のなかで相互に接触することである。ヘーゲルはここでも特異な洞察力を示している。ここでのヘーゲルの議論の要点は、接触のなかに物質の観念性一般が始まっていることを明らかにすることである。この観念性はこの段階では、内面性の形成というかたちで議論されている。この内面は、それ自体で存在すると思われていたものが、実は単独存在ではないとするところにある。このことは規定された事柄が、じつのところ関係態のうちにあり、それを内化していく推移を描くことで、自覚的な個体の形成がなされるという自然哲学の全般的な課題に沿ったものであり、この課題に沿う議論の進展が、同時に成果ともなる。
たとえば何かの物質に接触して、そこから力を受け、そのことによってそのものとひとつになることが、柔軟性であり、まさにこの柔軟性は、物体の拡散した、自己の外部にある力の克服である。 力が自分のうちにもどるので、力を再び回復することである、と言われる。これが内面性の形成の原初形態になっている。内面性とは、他者がみずからのうちにあることである。この内面性の物理学的な表象が、力である。この力は、物質そのものの構成で設定された引力と斥力とは異なる。むしろ内在力というようなもので、そうした力をイメージする限りでは、見かけ上いわゆる物活論風の議論の仕方に似てきてしまう。ヘーゲル自身、運動量のことを力と呼んでいるが、運動量は力の一形態であることがただちに分かる。つまり運動量は、物体間の接触抜きでそれ単独でも成立しうるからである。
この力は、後に万有引力に引き継がれるが、萌芽的にしろ接触によらない作用として、出現している。ここに活動性としての物の固有の力が成立する。この力は、二つの物質が接触しないで、作用することを可能にしているはずである。でなければ落下でみられるみずから自身の外へと向かっていく地球の「中心への努力」が生じないことになる。ここで遠隔作用というオカルト的な事態が、紛れもない現実となる。
この力の概念の顛末については記しておこう。活動としての力は、磁気や電気といったヘーゲルの時代に新たに見出されつつあった探求領域でも、さらには革新されつつあった生命領域でも、同じように追い求められている。その挙句生命力、磁気力、電気力が今日ではほとんど想像できないほどの現実感をもって追求されたのである。こうしたなかで磁気力と電気力の間の相互の転換がシュリングによって見出され、エールステッドによって定式化されている。[12] 他方引力、斥力という力は、論理的にはより強い引力や斥力に対して、本性を転換しうる。つまり引力が斥力となり、斥力が引力となる。引力と斥力が転換するものであれば、共通の力という表象が生じる。この共通の力は、磁気、電気、生命を通底する普遍的なものとなり、同時に個々の力が発現するさいのいわば媒体となった。ライプニッツの力は、ここに吸収されたのである。
この場面での力のイメージが『精神現象学』の悟性の項で、活用されている。そこでは力は、発現するひとつの極であると同時に、この発現を可能にする媒体でもある。そのため悟性(科学的思考)は、超感覚的な普遍的なものを、ものの内面として見出し、ものの内面と意識との間に、現象という、それとして分離された領域が成立する。この普遍的なものが法則となり、法則は不安定な現象の彼岸に位置し、普遍性を備えた第一の法則となり、逆に不安定な現象は解消されうる区別として、異質なものが同質なものに転化するという第二の法則として捉えられることになる。[13]
この後普遍的な力について、さまざまな領域に転換して発現するさいにも転換のなかに保存されるものであることが見出されている。転換のさなかで力は保存されるのであり、これが今日で言う「エネルギーの保存則」であって、当初「力の保存」と呼ばれていた。こうして保存が発見されるに及んで、力は別の概念に代替可能な概念となり、力に残りつづける主体的な作用という色濃く染み付いた意味合いを払拭するために、ギリシャ語から借用して、用語をエネルギーに変えたのである。それ以降力という語は、ただの比喩となり、時に応じて老人の固有の活動(老人力)や、外からやってくる力となった。
物質の接触での抵抗について、ヘーゲルはいくつか微妙なことを語っている。抵抗はまさに物質である。 抵抗が行うことは物質的である。逆に言うと、抵抗をする限りで物質的なのである。 これは物質の本性が、他のものの勝手放題にはならず、そのため一定の場所を占めることに端的に現れている。他のものの侵襲に対して、押し返すことによって物質は一定幅の場所を占める。つまり抵抗することは物質の本性であり、抵抗がなければ物質ではない。この物質の特性は、近所の家のブロック塀に頭をぶつけてみればただちに理解できる。
これはカントが『自然科学の形而上学的原理』で、引力以前に他のものを押し返す斥力を設定した理由でもある。しかもカントは斥力という押し返す本性があるから、物質を認知できるのだとも考えている。この抵抗は運動とは独立に規定できる。ところが「抵抗は二つの物体の運動である。規定された運動と規定された抵抗とは同じものである。」とも言われる。ここでは運動量の伝達でみられるような、一方の運動量の増大は、他方の運動量の減少と対応するという事態をイメージすることができる。この二つの「抵抗」は、同じ抵抗という語であってもまったく異なったことを語っている。物がそれとしてあることに本来的な抵抗と、他のものとの衝突のなかでの抵抗である。だから本性上これらの二つの抵抗をひとつの事態として扱うことができない。そうだとすると運動と抵抗との関係を、一義的変換関係のもとに置くことができない。というのも運動をつうじての衝突が、一義的な抵抗に変換されることはありえないからである。おそらくヘーゲルは、みずから言語化できない気配としてこの事態に気づいているように見える。
この事態は、抵抗が物の抵抗であることによって生じている。運動量によって表記される抵抗によっては尽くされない抵抗が残る。つまりここではっきりしてきているのは、物体相互の関係によって規定される抵抗と、その物が物としてあることの固有の抵抗の間には、ギャップがあるということである。同じ箇所で「観念的要因はただ部分的にのみ実在的な要因に変わることができるのであって、全面的には代わることができない。同様に、実在的要因は全面的には観念的要因には代わることができない。」と言う。 ここでの観念的要因は、物質の活動性であり、 実在的要因は、質量や運動である。とすると内面化されうる活動性と、質量や運動のような実在量との変換関係には、一義的代替関係がないことがわかる。分かりやすく言うと、運動量は、質量と運動にいくらづつ配分されねばならないかは決定しようがない。たとえば運動量12のものは、質量と運動の組み合わせのうち2x6、3x4、4x3、6x2のいずれもありうるのである。以上が衝突での議論のあらましである。ここからいくつかの帰結を引き出すことができる。
(1)物と抵抗の間で示されたギャップは、運動の側から言えば、衝突のさなかに運動が継続することによって、衝突と運動の間では一義的変換関係が効かないことを意味している。これが今日の内部観測問題の出発点にある。衝突しながら、衝突しているものはなお運動を続けている。これが衝突のさいの二重作動である。この事実は、松野孝一郎の執拗な分裂的直感によって強調された。[14] 運動系だけの記述によっては、運動と衝突の剰余を処理することができない。それどころか運動系に転換できない衝突に残る固有性をファクターとして導入してこなければならなくなる。ヘーゲルの指摘する物の抵抗と物体間の作用とのあいだにあるギャップが、運動の側から見られたとき、今日内部観測問題になる。
ちなみにデカルトでは、放っておけばただ動きつづける慣性運動と衝突の伝達を介した運動とは、運動の起源がそもそも異なるので、これらを独立のものとして扱う以外にはない。これに対してニュートンでは、運動が指定され、衝突を介した場合は、慣性運動に衝突による運動が足し合わされるので、運動一元論になる。いずれの場合も二重作動は、もはや主題として現れてくることができず、デカルトでは運動と衝突は独立の系として、ニュートンでは、衝突は運動系の派生的事態となる。[15]
(2)こうしてヘーゲルが内面的と言うものの内実が、どこに力点を持つかがわかってくる。少なくても作用性が内面化されるという、物活論風の議論ではすまない。またたんに対他的関係が、含まれるということでもない。対他的関係が含まれるということが何を言っているかが問題になっているからである。これはむしろ物体間の関係とそれ自体がもつ固有性のあいだにギャップが残り続け、対他的関係とそれを含む自己とのあいだにギャップが残り続けることを意味していると思われる。つまり複数の物体の間の関係と、それを特定の物質に固有化したときに、両者の間に一義的変換関係がないことを意味する。この事態はさまざまな局面で言い換えが可能である。 (a)対他的であることを獲得した途端、物はそれ単独でも対他的である。ところがそれ単独で対他的であることと、現実の他の物体との対他的関係の両者で、一義的変換関係が効かないことが、 内面性の意味だと考えることができる。(b)また内面化ということでイメージされるさいの物の境界は、他の物体に対して排除的である否応のない物固有の境界であるが、この境界の内へと対他関係が入ってきたとき、対他関係で指定される自己の境界と否応なく物であることに含まれる自己の境界にはギャップが含まれると言い換えることもできる。そしてこれがヘーゲルの言う観念性一般の発生であるように思える。ここでは内面性や観念性の発生を、否応のないギャップを抱え込むことだと解釈している。対他性や境界の規定に、ギャップが生じ二重になる。 これはダブル・アスペクトの指摘である。このダブル・アスペクトは、物が対他関係にあると同時に、それとして一個のもので在り続けるという二重作動を、いわば観察者からの規定関係に組みなおしたとき、転換されて生じたものである。
(3)このときさらにかりに何かが内面化されるとして、何が内面化されるのかを考えてみる。事実としてはこの場面がすでにプロセスである。内面化というのはギャップ一般の発生である。(a)衝突のさいの相手の運動が内面化されるのであれば、物体はいわば内面化ということで運動の剰余を含むことになる。というのも受け取った運動は、物質がそれを受け取る限り、運動の継承だけではなく、物がそれとしてあることに影響をあたえ、わずかなりとも物性に変化をもたらすからである。だから衝突と物体の抵抗の間にはギャップがある。この運動の剰余は、後の落下運動で、自己の外の中心へと向かって、自己から出て行くさいの駆動力となるものである。それが運動の剰余であれば、これは欲望もしくは情動の起源となりうるものである。これは情動から意志、さらに思考へと向かう蓄積発展的な回路へと繋がりうる。(b)また衝突における他者との接触が内面化されるのであれば、自己がみずからによって形成する境界が主題となる。接触によって形成される境界とそのものが固有に形成する境界のあいだにギャップがある。これは感覚の起源となりうるものであって、この場合継続的に境界は変動していき、感覚から意志、 魂、思考はすべて異なる境界を形成する純然たる多平行分散系となる。(c)また他との関係と、自己がそれとしてあることのギャップが内面化されるのであれば、この場合未決定性そのものが内面化されることになる。これは無意識の起源となりうるものである。衝突の場面でおよそこれだけの選択肢がありうる。そしてヘーゲルは文章表面上は、(a)の選択に近いと考えられる。
こうした議論の立て方は、どこかに胡散臭さを伴う。それは主として、物質に関する事柄が、起源の名目で過度に人間の前史に配置されていることから生じている。こうした事態は、認識とはいずれにしろ人間の認識であって、この人間の認識の残滓をどこかに引きずらざるをえないという、言い訳がましい理由付けを持ち出しても解消されはしない。実のところ物体で生じているような二重作動を描くための言葉が、圧倒的に不足しているというのが実情である。そもそも特定のものや局面だけを指標するという言語の本性からして、二重作動を直接言い当てるような言葉は存在しない。うまく届く言葉がないのである。そのためうまく届く言葉がないという気配が分かりながら、そこに無理やりに言葉が当てられているという印象がどうしても残ってしまう。これが胡散臭さのなかに含まれたやむをえなさの理由である。
ヘーゲルが衝突を分析したさい、間違いなく二重作動に気づき、きわめて不十分な仕方でそれを語っている印象を受ける。そしてそのことはヘーゲルの議論の立て方にも関連している。認識が何かを認識するさい、何らかの規定をあたえなければならない。だがこれは、いつも未決定の剰余を含みこんでしまう。そのため逆に認識はさらに進展していくことができる。これが弁証法的進展の骨子にあるものである。このとき規定とその剰余というダブル・アスペクトが繰り返し出現してくる。
だが現実の行為の場面では、たとえそれが物質であっても、何かを実行することは、その行為の継続と同時に、行為をつうじて別のことを実行しているのである。いまだそれじたいで形成した自己が出現していない物の段階にあって、この行為の継続と、それの行うことは、同時的な二重作動であり、どちらかが剰余であったりはしない。
ところが実際みずから自身で自己を形成する以前の物の自己を語ろうとすれば、観察者(für uns)から捉えた物を再度その物の位置から(für es)語りなおさなければならない。ここに観察者から当事主体への視点の移動がある。この視点の移動をともなって語られる自己は、どこまでも観察者から割り当てられた自己の規定を引きずっている。これがダブル・アスペクトを不可避としていたのである。
プロセス
プロセスは本来法廷用語であり、裁判の進行を意味する。行き先が決まらない事態に、ひとつひとつ議論を積み上げて、いずれにしろ最後に決定を下さなければならない。どのような議論を積み上げようと、決定は議論の延長上から出てくることはできない。過程を断ち切る行為は、一面では少なくとも一方の前史の一切を無効にする行為であり、他面では前史から導くことのできない局面へと移行することである。そのためプロセスには、飛躍的生成がともなう。これは伝統的には産出的因果と呼ばれたものである。飛躍的生成がともなう過程を、プロセスと呼ぶことにする。そのためプロセスは過程を経ること一般の名称ではなく、そのうちに質的な変化が含まれていなければならない。
産出的因果ではダブル・オペレーションは、一段階込み入った機構となる。いま二つの木片が衝突し、摩擦によって火がつく場面を想定する。灰の塊を二つ作り強く衝突させても、火はつかず分子が飛び散るだけであるから、火がつく必然はない。そのため産出的因果は、規則化することができない。それどころか運動の延長上には、形式論理的にみれば分子が飛び散るような運動だけが成立しており、運動の延長上に火がつくという事態を引き出すことはできない。しかも産出的因果は、観察することもできない。運動と火の発生という異なるカテゴリーの間の移行を観察する知覚能力を、人間は持ち合わせていないからである。ここでかろうじて言えることは、強い木の衝突は、ときとして火の発生につながることがあるという事態だけである。 こうして産出的因果への懐疑が開始され、木の衝突と火の発生の接続は、習慣によって連結されているように見ているだけだという結論がだされる。これがヒューム懐疑であり、現在の因果関係の議論はおおむねこれに依存している。
火が付くのは、事実起こることである。もちろん必然性はない。必然性がないからといって、習慣でそう思い込んでいるだけだというのは、問いを別様にすりかえているだけである。事実起こるものには、現実の十分な理由がある。この十分な理由を、必然性のない認識のモードの問いへ帰着することはできない。産出的因果への分析的懐疑は、懐疑の特質を組み込んだものとなる。つまり木を衝突させて火がついたとき、木の衝突から火が生じたのか、木の衝突はあるが、それ以外の理由で火がついたのかを決定することができないというのがそれである。だがこの隙間は、自己組織化にとっては欠くことのできないものである。木の衝突からは、火の発生を導くことはできない。だから逆にこの間に別様の機構が介在する。
産出的因果は必然性のないプロセスであり、ひとたび火がつけば、たとえ摩擦を停止しても火は燃え続ける。この事態は因果関係で指標される以上のものを含んでいる。原因の停止があっても、結果は一方的に継続するからである。とすれば産出的因果は、因果関係のカテゴリーのひとつのタイプではなく、むしろプロセスの一局面なのである。ここでは過程は別のサイクルへと入り、相転移に類似した事態が生じる。このときひとたび火がつけば、それまでの摩擦の継続という過程を度外視して火は燃え続ける以上、プロセスでは相転移が生じるところで、みずからの前史を断ち切ってしまう。いかなる前史をもとうとも、この前史はすべて無効となる。プロセスとはみずからの前史を無効としつづける過程のことである。プロセスで相転移が生じれば、そのつど生成過程を一からやりなおさなければならない。この事態の懐疑的側面が、摩擦はあるが他の理由で火が付いたのかもしれないという、過程の間のギャップの指摘であった。
いま火がつく場面を想定する。摩擦運動による熱の蓄積が一定程度まですすむと、物性の固有性を介して、分子は振動するだけではなく、新たな化学的結合可能状態へと入っていく。運動はそれとして継続しながら、にもかかわらず別の作動を開始していく。ここの瞬間的場面が、二重作動である。だがひとたび火が付けば、火の進行は独自の回路ですすむのだから、見かけ上この火の進行のなかに、二重作動はかき消されてしまう。相転移の生じる場面では、おそらくまぎれもなく二重作動が含まれているが、それはただちに別様の作動へと繰り込まれてしまうのである。
この相転移にいたる場面を機構としてみてみる。摩擦運動の継続が一定の熱として蓄積されるところに、外延的運動が内包量(熱)へと転化される事態が含まれているはずである。測定される外延量に対して、ただ単に内包量を対置することは、近代科学的には許容されないことである。だがプロセスでは、この変換を認めざるをえない。このとき外延量と内包量の間の変換に、二重作動で見られた異質なもののあいだの内的関係が再度主題となって登場している。外延量から見たとき、内包量はつねに未決定な剰余となっており、ここでさらにこれらの両者の間の内的関係が問われているからである。だがひとたび火が燃え続ければ、火の強さは放出される熱量によって計ることができる。そのとき摩擦運動から火への転換過程は、もはやどこにも主題として残らなくなる。
内包量(強度)は、一般に物性では物質の凝集度に関連している。同じ火の大きさであっても、火の強さは異なる。この強さの度合いを表わすのが強度である。同様に物質の体積が同じであっても重量は異なる。密度が異なるのである。密度の違いは、物質の凝集度の違いであり、カントはそれを強度だと呼んだ。引力、斥力という相反する二力の組み合わせを用いて、自然現象を構成的に説明する仕方を、ダイナミクス(動力学)と呼ぶ。後期のニュートンにこの構想が見られ、カントが『自然科学の形而上学的原理』で精密な基礎づけをあたえている。引力と斥力の均衡点で、物質は離散するのでもなく凝縮するのでもなく、釣り合い状態にある。この均衡点が、物体の外延的な広がりを決めている。だから物質の体積を導くことはできる。だが同じ体積内の凝集の度合いを導くことができない。そこで強度を用いて、密度の違いを説明することになる。密度の違いは、カントの場合、引力と斥力の強さの度合いから導かれている。これらの違いによって、ぎっしりとつまった物質や隙間だらけの物質が生じることになる。[16] 問題はこの先である。
物質の凝集度の違いとして、密度が設定されたとき、基本的には、密度は連続量で変化してもおかしくない。ところが密度は、水1、鉄5、水銀12のように離散量でしか現れてこない。物性の違いで、凝集度には非連続性が生じる。この非連続性を強度の概念から導くことはできない。これはヘーゲルがカントに向けた批判である。[17] 強度の概念からは、 ただちにそれが離散的量で現れる事態を導くことはできない。
火が付く場面では、強度の変化があるはずであり、この強度の変化は、摩擦運動と強度との変換関係をつうじて生じているはずである。この局面が、プロセスに含まれる最大の課題である。 こうした事態をつぶさに見るために事例を代える。プロセスには、産出的因果を欠くことができない。必然性はないがまぎれもなく事実起こる変化である。結晶形成での産出的因果を考えてみる。溶液中の溶質は、ランダムな流動状態にある。結晶生成は、自己組織化の典型的事例を提供するので、要点を確認しておく。結晶生成は、溶質が一定の配置をとったとき、スタートする。溶液内の分子がランダムな運動のなかで、たまたま近傍に特定の位置で配置したとき、結晶化は始まる。だが同じ配列から、分子が再度溶液中にバラバラに離散していくこともある。この分岐点は論理的には半々であり、事実的には分子間の親和性に依存する。そのため自己組織化の開始条件を、 ギリギリにつめても偶然性が残る。つまり自己組織化は、初期条件の範囲を確定できないプロセスであり、にもかかわらず開始されてしまう。産出的因果での飛躍は、この初期条件の範囲が確定できないことに言い換えることができる。これが自己組織化と決定論的カオスとの最大に違いである。決定論的カオスの場合、初期条件が決定できなければ、 かえって初期条件の微妙な違いへの依存性も問題にできなくなる。(初期条件の範囲の未決定性)
ひとたび結晶形成が開始されれば、この生成過程は、自動的、反復的に継続する。ここが「生成過程が、生成過程の開始条件となる」と表記される、自己組織化の進行過程である。この過程は次の過程に開始条件をあたえるが、どのように進行するかを決定するものではない。だから自己組織化なのである。そのためしばしば、生成プロセスが偶然停止することもある。ただし「生成過程が、生成過程の開始条件となる」という文を、生成過程の自己言及的表記だと、荒い要約によって理解するわけにはいかない。言語表記上にあらわれる言語間の関係が問題になっているわけではないからである。進行しつづける生成過程が次の生成過程の開始のきっかけとなり、さらにそれは次の生成過程に対しても同じように関与することが述べられているのであって、表記の言語形式が問題になってはいない。そのためこの文は、自己組織化の記述的確定を示しているのではない。およそ記述上の制約が問われているのではないのである。(継続的進行の非制約性)
このとき生成プロセスに対して、生成産物は、生成過程の外に排出される。生成過程は、それとして継続されるが、そこから作り出される産物は、産出的因果に典型的なように、生成過程の継続からの飛躍を含み、生成過程のネットワークにとって、産物は外的である。 そのため産物は、たとえそれが真珠のような美しさに満ちていても、生成過程のネットワークが生み出す糞であり、時として堆積した糞によって次の作動が妨げられることがある。(生成過程と産物の相互外在)
このことから自己組織化とカオスのもうひとつの違いが明らかになる。自己組織化は、探求領域の本性上、運動と物性の両者にかかわる。物性をひきずっているために、はなはだしい微細な運動の分岐を語ることができないし、またその必要もない。物性のもつ融通の効かなさによって、細かな運動の分岐は解消されてしまうからである。自己組織化でみられる生成過程の継続と、そこから産出される物質は、相互に外的になっていた。自己組織化では、この相互の外面性の形成は避けようがない。このことが逆に、物性を度外視して、運動の軌跡だけの詳細な分析を可能にしている。この可能性に依存しているのが、カオス分析である。
カオス分析は、カオス的軌道の描くものが、本来何の軌道なのかについて、最終的に決定することができない。生命の活動の軌跡なのか、惑星の運動の軌跡なのか、コーヒカップの運動の軌跡なのかを、カオス内部からは決定することはできない。カオスの示す、非規則的で、非周期的な軌道が、当初より物性に対して外面的であるため、この非決定性を解消することはできない。この非決定性を逆手に取って、自在で既存のオーダーを更新するほどの詳細な運動の軌跡の解明に成功したのが、カオス理論である。そのためカオス理論は、物の変化を扱うさい物をいわば質点状にして、変化だけを問題にする。そのことでカオス的な軌道に物性がどのように関与しているかについては、おそらくちょうど逆転した回答をあたえると予想される。非周期的で、非規則的な挙動こそ、質点状にブラック・ボックスとなった物性そのものの特質だとするのである。
少々脇道にそれてみる。カオス理論からの自己組織化への典型的な異論に次のようなものがある。自己組織化においては、ひとたびランダムな状態から秩序が形成されたとして、その秩序はそのまま維持されてしまう。結晶が形成されれば、結晶は平衡構造として、そのまま安定してしまう。 これでは「秩序の制圧」ではないのか、というのがカオス理論からのもっともな言い分である。[18] 渦や積乱雲のような、動き続けることではじめて維持される散逸構造の場合も、部分の流動は継続しているが、動きそのもののなかに見出される構造は維持されている。形成された秩序は、いはば動きそのものに対して外的であるため、秩序の制圧は、避けようがないのではないか。これももっともな言い分である。これに対してカオス理論の持ち出すのが、概括的な周期性があらわれ、見かけ上の秩序が成立しても、そこからおのずと再度無秩序状態に突入し、既存の秩序を破壊しながら、さらに別の状態へと向かっていく事態である。この領域で天性の才能を示し続ける津田一郎たちが発見した、いわゆる「カオス的遍歴」である。[19]
物性を伴う変化では、こうした自在さは現れることができない。遍歴にふさわしい自在さは、本来単独の遊走者(質点)に似つかわしいのであって、物性をともないながらの変化では、まったく別のモードが必要とされる。ひとたびある秩序が形成されたとして、それが全体として組み替えられていくためには、ひとたび形成された自己がさらに別の自己へと変わっていく事態が組み込まれなければならない。これがメタモルフォーゼである。カオス理論が提起する秩序からの自壊を機構として立ち上げるためには、自己組織化にとどまることができず、さらに大掛かりな機構が必要である。
自己組織化には以上のような特徴があるが、問題は、ひとつの生成過程が次の生成過程へと継続すると同時に、産物をみずからの外へと押し出すダブル・オペレーションである。 産物をみずからの外に出すことによって、生成過程が継続するのであれば、熱力学的には繰り返し廃熱を外に出しつづけるようなものである。この場合廃熱の廃棄が、何故生成過程の継続なのかがわからなくなる。逆に生成過程の継続が、繰り返し糞を外へと廃棄し続けることであれば、結晶生成があまりにも生命になぞらえすぎる。いまだ生成プロセスの継続が連続的に閉じていく内そのものを形成していないからである。この場面で問題になるのは、どこまでも生成過程の継続が、同時に産物を外に廃棄しているという事態だからである。
だがここにはすでに芸術的制作に類似したものが現れている。芸術的制作では、作り出された作品は、つねに制作行為の継続の副産物であり、行為の継続のプロセスの外へと廃棄されたものである。この廃棄は、ときとして制作するものの意図を裏切り、何故こんなものになってしまたかがわからないという困惑を呼び起こすこともあれば、作られた産物を介して意図とは無関係な別様の回路へと進んでしまうこともある。作品が副産物であるのは、制作者の自己がすでに形成され、作品の制作とともに自己そのものが継起的に形成されつづけているからである。結晶形成の生成過程の連鎖には、いまだこうした自己が形成されていない。したがって本来生成過程の連鎖と結晶のどちらが主産物、副産物であるかは決定しようがない。にもかかわらず生成過程の継続に対して、産物が外的になるという事態は、この段階ですでに生じているのである。
この局面は、実際多くの派生的な応用可能性をもっている。生成過程の同時産物であるものが、他のネットワークから見れば、まったく別様に捉えられてしまう。たとえばただの郵便配達人が、あて先どおりに郵便を配り、配達先の住人と少し話をしただけで、張り込んでいた警察に麻薬の運び屋だと勘違いされる。職務上の氏名の確認が、他のネットワークに組み込まれると、取引上の密談がなされていることになる。行為の産物は行為の意図とは無関係に、行為の継続の外へと廃棄され、この産物は他のネットワークのなかで、およそ予想を越えた事態へと変貌する。生成過程と産物は、同時的出来事であるため、本当のところ郵便配達人なのか、麻薬の運びやなのか決定することができない。生命の形成過程で独立に形成され、独立に生産を行っていたタンパク質と核酸の間の情報機能の委譲が生じるとき、おそらく類似した事態が生じている。タンパク質の生産の回路の産物が、核酸系ではまったくの別の意味で活用される。タンパク質-核酸連合系という高次の情報産出系の形成は、たぶん誤解から始まったのである。生命が太陽系の第三番目の惑星にきざして以降、良い解釈とはつねに良く誤解することである。
生成過程の産物が、自分の生成過程に関与するようになることがある。いわゆる触媒機能である。この機能では、二重作動は、分析しなくても判明なほどはっきりと現れている。反応測度を調節する酵素が、酵素そのものを生み出した反応を調節する場合を考えてみる。A-Xという反応で、産物であるXがこの反応じたいを調節するのである。これは自己触媒と呼ばれるものである。この自己はいまだ観察者によって特定されたもので、みずから自身で形成したものではない。だから自己触媒というのは、物性についてのダブル・アスペクトの指摘である。酵素の働きは、みずからを生み出した化学的な反応へのみずから自身の関与である。 多くの場合反応測度を減少させるので、フィード・バックと呼ばれる。酵素は、反応産物として形成されるが、みずからの産出過程をそれじたいで制御する。形成されたものが、みずからの形成プロセスに関与するようになるとき、物質がそれとしてあることとは別に、みずからを生み出す反応に関与してしまう。触媒は、現存することで、みずからの産出に対して、少なくとも速度にたいしていわば選択性を獲得する。
この事態は、通常X=F(x)と表わされた。Xの現存にXそのものが関与するというのである。そしてこれが自己言及という名のもとに一括されてきたのである。[20] だがこの規定の仕方、さらにはこの表記じたいが、あまりにも多くのことを脱落させてしまう。ここでの二重作動は、さまざまな形で言いかえることができる。この物質は、産出され現存する。重さをもち溶液内で運動を継続している。だがこのようにして現存することが、同時にみずからの現存の選択肢をもつことである。この選択肢は、産出する生成過程へ関与することによってなされる。あるいは酵素の現存は、すでにみずからによって調整されたものである。とするとこの物質の現存は、調整するものであると同時に調整されたものである。二重作動が、はっきりと区分されて成立しているために、こうしたあっけないほどの特質として現れてしまう。
原初の生命システムでは、RNAを情報、機能の中心としていただろうという「RNAワールド」説が、現在支配的である。RNAは、みずから自身情報の担い手でなければならず、しかもみずからの情報の複製を触媒しなければならない。繊毛虫のテトラヒメナのリボソームRNA前駆体に含まれる不要部分のイントロンが、タンパク質なしで切り出されることが分かっている。RNAは、不要部分の切断と必要部分の再結合を自分で触媒していたのである。原初のRNAのように機能がここまで分化して、二重作動が役割分担されるようになれば、あとは機能分析に対応する部位を解析するという実務作業を行うことができる。[21]
触媒機能をもつ生成過程の継続が、ひょんなことで異物を産出してしまうことがある。瓢箪よりこまである。生成過程の継続は、それはそれとして一貫して作動しているが、その作動は環境のなかで行われるよりない。この環境の影響は、強度の変換にみられたように一義的決定関係も必然性もないが、つねに外圧になっている。ひとたび異物が形成され、なにか妙なものだと思っている間もなく、その異物の方が生成過程の促進に有効に寄与することがある。異物とは当初、既存のしがらみから解き放たれた無責任なもののことである。無責任男が無責任であることによって、さらに生成過程を高め、環境を含めた系全体の動きを一変させることがある。いわば自己触媒が触媒そのものの形態を次々と切り替えていく場面である。
ここでのポイントは、運動がそれとして形状を変えることではない。運動だけの形状変化であれば、どのように複雑な変化であろうが再度もとに戻ってもおかしくない。事実カオス的遍歴では、何度も無秩序状態が繰り返し現れる。ところが物質的な異物の産出を介して、そこから別経路への生成過程に入ってしまう場合には、無責任男と同様みずからの前史が、いっさい断ち切られてしまう。無責任とは過去を笑うことの別名であり、笑いながら退路を断ち切ることである。そのため無責任は、ノイズとは異なる。ノイズは、当初より秩序の撹乱をねっらた作為的な逸脱にすぎない。無責任男の責任は、責任というかたちではなく、みずからが形成するものによって別の回路で実行されている。つまり無責任男が体を張って示しているのは、過去の責任をとるよりも、より生産的な回路があるという事実である。
異物の産出を介して、生成過程の切り替えが生じれば、すでにプロセスに入っている。何度か異物の産出を繰り返しているうちに、まったく類似性をもたない系に変貌することがある。プロセスが別様のものとなり、さらに別様のものとなることを繰り返すのである。 これは主張時に最寄の駅からの電車に二分乗り遅れただけで、予定した電車にことごことく乗り遅れ、予定地に着いたときには五時間の差になることに似ている。カオス理論では初期値の違いへの敏感な依存性と言われるものだが、プロセスではひとつひとつの系が切り替わるたびに別様の生成過程を経るために、本来初期値の違いが決定的なのではない。最初の生成過程の切り替わりの段階で、すでに初期値は組み込まれ消えてしまっている。 異物の産出を介したプロセスでは、初期値のいかなる痕跡ものこさないところまで変化が進む。デリヴァティブの基本形がここにある。
結晶形成で、生成過程の産物は、生成過程の外に廃棄されていた。だが廃棄された産物は自己触媒的に調整的な影響をあたえるだけではなく、生成過程の環境となって影響をあたえることがある。そればかりではない。産出された産物が、再度生成過程を作動させるという回路を獲得することがある。プロセスのなかでも最大の変化であり、メタモルフォーゼの第一局面である。産出過程での産物は、産出過程の外に産出される。この外に産出されたものが再度、産出過程を作動させるのである。この段階で、産物が再度みずからを産出したものを作動させるという特殊な事態が生じることがある。
これは定義上ドウルーズ・ガタリが「器官なき身体」と呼んだものと同じである。[22] 器官なき身体は、秩序化に抗しみずからの構造を解体し、それじたい流動化していくものだが、こうした目に付く際立った特徴は、すべて派生的なものであり、どちらかと言えばアイドル系である。というのも組織化された器官をもたないというだけでは、そこからただちに創発は生じはしないからである。脱コード化や脱領土化は時に応じてしばしば起こる事実である。だがどうしてそうしたことが起こるのかと問うてみればよい。むしろ創発を可能にする機構そのものに向かったとき、産出と産物の間の継起的に形成される循環が成立している。この事態は、実のところオートポイエーシスの半分まで形成された段階である。[23] 第一条件となっている、構成素がみずからを産出したシステムそのものを再度作動させる場面に相当する。
ここで語られていることを、産出と産物という語の定義的な循環的組み合わせだと理解するわけにはいかない。起こっているのは、生成過程がある物質を産出し、その物質が生成過程に巻き込まれ、生成過程は動き始めたその物質の動きに巻き込まれて、さらに作動が継続していく事態だからである。マクロに言えば、ある動きの継続が物を巻き込み、巻き込まれた物の運動に、さらに動きが巻き込まれている場面である。
この段階では、生成過程の外に廃棄された産物が、再度生成過程に関与するのだから、この回路が繰り返し形成されることによって、みずからの産物を介した産出的活動の継続がはじめて生じる。もとより産出された産物のうち、そのまま廃棄物となってしまうものが圧倒的に多いが、産物のなかで生成過程をさらに作動させるものが生じるのである。この綱渡りのような作動を繰り返すことで、原初的な自己(Sich)が繰り返し形成される。自己は繰り返し形成されるのであって、どこかに存在したり、幾何学平面上に円で描いたりするようなものではない。
この段階で二つの注意事項を確認しておきたい。ひとつはこの自己は作動の継続が形成するものであり、観察者から割り当てられた当事主体が、みずからを自己規定したものではない。この自己規定するさいの自己そのものが、どのようにして形成されたかが問われているからである。類似したものとしては、解釈学的循環のなかでの自己の変容がある。先行的な意味理解のなかで解釈の行為は進行する以外にはなく、先行的な理解を手引きとしながら、それを変容させる形で解釈は進むことになる。そのため「つねにすでに別のものへ」がこの行為を指標するスローガンとなる。このとき繰り返し自己は変容しつづけ、経験され追跡された継起的な変容を、この経験の正当化の理由として持ち出すことできる。ところが問題になっているのは、変容しつづける自己そのものがどのようにして形成されたかである。というのも連続的に変化する経験の変容を追跡することのできないような、強い不連続な変化が存在するからである。たとえば分裂圏の経験や、種が変わるようないわゆる大進化がそうである。 こうした強い不連続性に対しては、おそらく「つねにすでに別のものへ」では、まったく太刀打ちできない。強い不連続性を含みような変化には、自己そのものを一から立ち上げていくような形成の回路が必要とされる。いわば自己が変容するのではなく、むしろ自己が産出されるような機構である。ここで問われているのは、そうした機構である。
もうひとつは、この事態の言語表記に循環回路が入るからといって、定常的な閉回路が示されているなどと考えるわけにはいかない点である。言語上の記述的定式化が行われているのではないからである。そんなことをすれば、言語的表記の示す事態を、記述形式の技術の問題にすりかえる初歩的なミスをしでかしているだけである。
この局面で、自己の継起的形成とそのことによって区分される環境との関係が、一変する。多面的な二重作動が発生しているからである。生成過程は産物を介して、みずからをさらに作動させるが、この運動のなかに同時にみずからと環境とを区分する活動が生じている。開かれた循環的な運動は、そのことによって自己(Sich)を形成するとともに、自己と環境とを繰り返し区分する。この段階で二重作動は、作動を継続する活動であると同時に、みずからの境界を形成する活動となる。境界を形成する活動が、物性の固有性から切り離され、みずから自身で継起的に反復される活動となったとき、それが感覚である。ここで感覚は、はじめて境界を形成する活動であって、どのような意味でも主観-客観体制のなかに配置されるようなものではありえない。この局面を詳細にみれば、作動の継続が同時に自己を形成することである、作動の継続がそのことをつうじて同時に感覚することである、作動の継続が自己を形成することであると同時に、感覚することである、作動の継続が自己を形成することであると同時に、自己と環境を区分することである、というような場面を変えた多重の二重作動が働いていることが分かる。
自己を形成しつづける運動が、すなわち境界を形成する活動であるが、運動の継続はこの継続さえ実行できればよく、自己と環境の区分がどのようなものであるかには一切かかわりがない。また境界形成は繰り返し境界を区切るだけであって、結果として運動の継続が実現されても、どのような境界であるかをあらかじめ定めているわけではない。こうして運動と感覚には、一対一対応が機構上消滅する。この事態は、行為と知覚との内的関係を基にするアフォーダンスにとって、理論構成するさいのもっとも基本的な事実である。
さらに産出された産物は、同じものが繰り返し再生産されるとは限らない。この活動を繰り返し継続することのできるものであれば、実のところ何でもよいのであり、産出される異物を介して、それじたいまったく別様なものになってしまう危うさにつねに付きまとわれている。このことは循環的な作動が生半可なことではないことを意味する。生成過程で産出された産物のうち、生成過程へを再度巻き込むことができないのであれば、それはただの廃棄物であり、作動を反復することができない。それはただちに自己(Sich)の停止である。産物の産出は、この点でつねにギャンブルであり、それは次に継続可能かどうか見極めがきかないまま、すでに産出されてしまう。この意味で「暗闇のなかの跳躍」は、身構え覚悟を決めなければ直面できないようのものではなく、すでに日々実行されてしまっているのである。だがこれはあまりにも遠い記憶になってしまっており、想起するための努力が必要となる。すでに忘れてしまった先験的過去を思い起こす工夫こそ、新たに生を始めることであり、それがとりもなおさずメタモルフォ-ゼの課題である。
注
1. オウイディウス『変身物語(上)』(中村善也訳、岩波文庫、一九八一)一一三‐二一。
2. ピート『シンクロニシティ』(菅啓次郎訳、朝日出版社、一九九六)一〇六‐一〇。
3. ヘーゲル『自然哲学上』(加藤尚武訳、岩波書店、一九九八)二九九節。
4. 以下を参照。酒井潔『世界と自我』(創文社、一九八七)第I部。
5. H. Schnädelbach, Philosophie in Deutschland 1831‐1933, Suhrkamp, 1983, 5章。
6. ハイデガー『言葉への途上』(亀山健吉/ヘルムート・グロス訳、創文社、一九九六)一八九‐三三四。
7. 二重の視点から生じた例外的事態が、ダブル・バインドである。ある対象措定に対しての反省的な視点が、抜け道のない二重の塞がりを作る場面で語られている。ある母親が子供に「おまえのためだけを考えているだよ」と言ったとき、この言葉に含まれた含意が、本当は母親のためになるようにしてくれということであったことはよくある。この言葉の理解と、それへの反省がバッティングし、行為の撞着を生む。二重の視点のもとで、それぞれの視点が他方の否定になるとき、ダブル・バインドとなる。
8. 以下を参照。ソシュール『ソシュール講義録注解』(前田英樹訳、法政大学出版局、一九九一)。
9. ガタリ『分裂分析的地図作成法』(宇波彰・吉沢順訳、紀伊国屋書店、一九九八)。ここでガタリは強度を可能な限り、システムの機構で代替する試みを行っている。また花村誠一『精神医学』(共著、青土社、一九九八)。ここでは治療実践との関連、つまり医師と患者の行為的名な治療関係のなかに、強度がまぎれもなく残らざるをえないことを基点にしている。
10. ドウルーズ/ガタリ『千のプラトー』(宇野邦一他訳、河出書房新社、一九九四)六〇‐六三。
11. ブーレーズ『クレーの絵と音楽』(笠羽映子訳、筑摩書房、一九九四)三六。
12. cf.B.Gower,“Speculation in physics: The History and Practice of Naturphilosophie, Studies in History and Philosophy of Science, 3(1972-3)301-355.
13. ヘーゲル『精神現象学』(長谷川宏訳、作品社、一九九八)III章。
14. 松野孝一郎『内部観測』(共著、青土社、一九九七)。当初この問題が提起されたとき、おそらく松野自身は、運動の継続という流動性の連続の意味を込めて語っていたものと思われる。ところが語られてしまっている内容は、まったく別の問題系に届くものであった。
15. 松野孝一郎、パーソナル・メール、1998、8、22付け。
16. カント『自然の形而上学 全集第十巻』(高峰一愚訳、理想社、一九七五)二七二‐八二。
17. 以下を参照。渡辺祐邦「『大論理学』におけるヘーゲルのベルツェリウス批判と度量論の諸問題」『ヘーゲル論理学研究』第三号(一九九七)七‐四三。
18. 金子邦彦、津田一郎『複雑系のカオス的シナリオ』(朝倉書店、一九九七)第一章。
19. 同上、一三九‐一五一。
20. F. Varela,“Autonomy and Autopoiesis”G.Roth et.al.(eds.), Self‐organizing Systems, Campus, 1981, pp.14‐23.
21. 以下を参照。大沢省三、志村令郎『RNAの世界』(講談社、一九九一)、柳川弘志『生命はRNAから始まった』(岩波書店、一九九五)。
22. 「器官なき身体」の定義的規定は、以下を参照。ドウルーズ/ガタリ『アンチ・オイディプス』(市倉宏祐訳、河出書房新社、一九八六)二〇。
23. この点については、河本英夫「オートポイエーシスと認知の機構」『日本ファジィ学会誌』9、5(1997)629‐636を参照。なおオートポイエーシスの基本用語については、出典付きの詳細な事典Encyclopaedia Autopoieticaが作成されている。インターネット上で読むことができる。http://www.informatik.umu.se/ rwhit/EAIntro.html
(かわもとひでお・科学論)