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フィヒテ

河本英夫

フィヒテが『知識学』を構想したとき、理論哲学と実践哲学の共通の出発点を見出すこと、ならびに哲学の開始を告げる出発点となる場面を基礎付け構想によって、とりわけ主観性による反省的基礎付けによって見出すことをみずからに課している。手続的には批判哲学の手法を継承し、批判的基礎付けを行いながら、同時におよそ知識が成立しうるための根拠を、主体性の自由の確保と言う課題から導き出そうとしている。最終根拠を設定し、そこからさまざまな原理を順次導出する独断論ではなく、それに対置される批判的方法を取ることを宣言し、またどこまでも人間の自由が確保される基盤の設定が課題とされている。
この場合基礎付けられる主体のさまざまな能力に対して、出発点に根源的な「活動性」が置かれている。精神の活動性そのものは、哲学者のみがもつのではなく、人間である限り、そして人間の本性が自由である限り、誰であれ備えた特質である。この活動性から哲学へ進むためには、およそ知ということが成立しうるための固有の原理が必要になる。活動性からさまざまな哲学の原理が導かれるのであれば、それは独断論に逆戻りしてしまう。そのため活動性がなんらかの形で維持され、活動性を含んだ形で、当初の知の成立する根拠が解明されねばならない。この解明は意識においてすでに前提されてしまっているものの解明であり、活動性から根拠が導かれるわけではない。そしてその根拠は、後の理論的、哲学的な展開の論理的前提でもなければならない。すると活動性を含んだ形で解明される原則は、それ自体は認識論的哲学内部の原理ではない。それ以降の認識論的な議論は、この原理に基礎を置くが、この原理自体はいまだ認識論のなかに配置することはできない。しかしこの原理の設定の仕方は、批判的というみずからの前提を問うようなものでなければならない。とすれば理論的に哲学することに先立って、哲学の方法で一切の哲学が基礎を置く原理を導かねばならないことになる。この場合の哲学するとは、原則カントを継承することであり、その意味に限定される。この事態が知識学の方法的特質を規定している。
もちろん精神の活動性は、当然のことながら哲学以外の定式化も可能である。実証的に行うこともできれば、人間論という枠のなかで主として心理学的に行うこともできる。それらを定式化すれば、批判哲学以外の形で設定を行うことになり、それは十分可能である。当面哲学は、そうした試みは哲学以外の課題だと無視してよい。だがいずれにしろ哲学に先立って批判哲学の方法で哲学が前提にする原理を求めるのであれば、人間精神の活動性を哲学へと接続するための固有の原理が求められていることになる。するとその原理は、哲学を行うための出発点の場所を確保するようなものであり、その場所の確保の仕方が哲学的であるようなものとなる。その原理は、およそ知を問題にし、知にかかわる限りではすでに前提されているような原理であろう。『全知識学の基礎』で設定されている課題は、明白であるように思われる。だが課題は明確であるのに、それに対する実行の仕方はそれほど明確でもなく、実行の手順が一つに決まるとも思えないような課題は存在する。問題が明確になったとき、すでにその問題は九割がた解決しているという言明は、現実的で、経験的な問題については妥当なものである。だが知の出発点にかかわる問題では、課題は明確であっても、何一つ解決していないという事態はある。フィヒテはおそらくそうした問題にかかわっている。とすれば知識学を経験の基礎学だとし、知というものにかかわるさいにつねにすでに実行されてしまっている場面をそれとして取り出す作業は可能であり、別様の機構を用いて現在なお知識学を構想することはできる。むしろ知識学は、構想し形成すべきものであって、論じるものではない。活動の哲学は、これから制作されるのである。
そのさい原理の導出に要請されるのは、誰にとってもそうであるところの論証の手順を踏むこと、ならびにそれが可能的経験にまで及ぶ普遍性をもつことであり、これらは学の要請である。学であるためには、それらを満たさなければ恣意性が大きくなりすぎる。そのためには論理的論証の仕方を工夫しなければならないが、論証の仕方以前に、論証ということで何を行えばそれを行ったことになるのかが問われる。これらの要請を満たしながら原理の導出は、一通りに決まるのか、あるいは原理の導出が哲学の基礎をあたえるという課題について可能性を尽くしているのかという問題が生じる。課題の内容は哲学以前のものであるが、課題の形式は哲学内部のものである。そしてここには知識の成立と学の成立の違いが生じる。学の成立が、知識一般の可能性を限定するように成立したのではないということの保証をどこかで手にするのでなければ、たんに学として整合的な学に過ぎなくなってしまう。
フィヒテの知識学の基本原則は、一面哲学そのものの限界にかかわっている。対象としてみれば、哲学と哲学でないものの境界にあり、それ故知識学なのである。そのためこの学の遂行は一面出発点に置かれている根源的な「活動性」からのさまざまな能力の導出が、基礎付け構想の出発点の導出と両立しうるのかという問題が生じる。これは哲学の内部の課題である。つまり課題と論証法が整合であるかという問題であり、最低限不整合ではないという保証である。テクニカルな課題に限定すれば、活動の内実と論証的な論理が整合的であるかどうかにある。論理は、基本的にそれ自体言語的で、言語のエッセンスあるいは概念のエッセンスにかかわっている。ところが精神の活動には、感情や感覚が含まれており、これらと論理とを整合させることは通常困難である。精神の活動をたんに論理を用いて表現したのであれば、この論理にはすでに多くの剰余が纏いついているのだから、哲学的論証に相応しいものではなく、むしろ比較的論理的に描かれた文学になってしまう可能性がある。そうでないとしてなお精神の活動と論理は、どの程度の密接な対応関係があるのかという問題は残り続けている。しかも論証的解明は、事象-根拠関係で事柄を配置する。批判的な方法に従う限り、そうした配置を行うことは、哲学することとほぼ同義である。だが精神の活動が、事象-根拠関係にしたがっている保証はどこにあるのか。事象-根拠関係は、哲学内部の哲学のための概念的関係である。はたしてこの哲学固有の論理的関係は、知識学ではどこまで維持できるのか。
哲学の出発点は、誰にとっても自明な事柄だとフィヒテは言う。これは論証の出発点の特質である。論証は基本的に記述の問題であり、一般に論じられる事柄と一対一対応はしていない。とすると事柄と論証方法の間にはどの程度の整合性があるのかという問題が残る。『全知識学の基礎』の原理設定についての叙述の大部分は、この問題にかかわっている。ところが知識学の叙述である限り、論証のなかに哲学ではすまない問題が、断続的に入り込んでしまう。そのことがこの議論を不透明にし、限りなく難解にしている。

解明的論証は、何を論証しているのか

知識学の出発点をなす第一原則は、端的で無制約的で、絶対的な原理であり、その限りで証明されることも、規定されることもできないとフィヒテはいう。それが名称として「事行」と呼ばれるが、事行は意識の事実でもなければ、意識によって知ることもできない。むしろ意識の根底にあって、意識を可能にするものである。事行は意識によって知ることができない以上、事実として取り出され確定されるのではなく、意識がそれとしてあることのなかに意識の基礎として、必然的なものとして認められねばならないということになる。
一般にカント的な基礎づけの仕方によって、意識がそれとしてあることの前提を、場所的、次元的な配置として設定することはできる。そしてこの段階ですでに問題が生じている。意識がそれとしてあることの前提となる原理は、カント的には必要条件に留まる。必要条件から、意識を導くことはできない。それ故一切の独断論が、事柄の機構上封じられている。そのことのちょうど裏面で、論理的必要条件では、意識がそれとしてあるという事態(原事実)に一対一対応しないのだから、別の必要条件の可能性もあり、必要条件の未確定性が生じてしまう。つまりここで知識学の原則が立てられようと、カント的な批判的方法にしたがいながら、カント的な意識に内在する原則ではないものが、求められていることになる。しかも論証上、事行を人間的知識の基礎として端的に考えなければならない場合に、なんらかの手掛かりを必要とするが、その手掛かりは一般論理学が正当であると認められる場合の規則であることになる。だが一般論理学は、意識のなかでの規則であり、それを手掛かりにすることはすでになんらかの循環を犯していることになる。この循環の性格が問題となる。というのも基礎づけ可能性のなかでの正当化のための論理的循環が問題になっているわけではないからである。
それは以下の事情による。論理学と知識学は、領域と次元においてそもそも異なっている。フィヒテ自身が明言するように、知識学が論理学を基礎づけることはあっても、論理学が知識学を基礎づけることはありえない。にもかかわらず知識学の証明に、論理学が活用されるのであれば、基礎づけられるものが、自分の基礎を証明するというような基礎づけ証明の循環が起きているようにもみえる。フィヒテ自身そう述べている。ところがそれが証明の循環だと規定できるのは、論理学的な論証のなかにおいてだけである。論理学と知識学は、同じ論理的規則のもとにはない。そのためこの循環を論理的規則のなかだけに閉じ込めることはできない。この循環は、いったいどのような循環のなのかは、いまだ問題である。少なくても知識学において起きる循環と、知識学と論理学との間で起きる循環と、論理学としても定式化でき、論理学を組み込んだ場面で起きる論証の循環とは、それぞれまったく異なっている。そしてこの三つの循環が区別されることなく知識学の三原則の設定に組み込まれてしまっているために、ほぐせないほどの難解さが生じているようにみえる。そしてそれをほぐしてみようと思う。
知識学の循環  知識学の循環は、人間精神の本性を活動性だとしたところから始まっている。活動性をそれとして端的に取り出すことは、いまだ哲学の課題ではないが、知識学にとっては問われるべき問題である。活動性は、どのようにして取り出されているのか。ここでも活動性は端的に前提されるのではなく、批判的に取り出されてこなければならない。活動性をそれとして取り出すさいには、捨象がなされなければならない。というのも活動性がそれとして認識されるのであれば、すでに表象されており、この表象することも活動の派生的形式なのだから、表象として活動を捉えることはできないのである。活動性は、それ以外のものの捨象によって取り出される。ところがこの捨象も活動の派生的形式である。すると活動は、自分自身を見出すために自分の活動の一部を用いて見出していることになる。とするとここで知識学の循環が生じている。この知識学の循環は、基礎づけの循環や、正当化の循環ではなく、自分自身を見出すような発見的循環であることがわかる。ところがこの場面で捨象だけではなく、捨象してなおそれじたいを直観するような活動が含まれていなければならない。この直観が、みずからを本質的に洞察するようなものである限り、もはや感覚的直感ではなく、カテゴリー的直観となるであろう。哲学史的な前史との関連では、これは知的直観に相当する。この直観は、知識学の原則を確立するうえで実のところつねに使われているはずである。というのも活動性について語るさいには、それがたんなる比喩でないとすれば、こうした循環のなかで順次見出されるべき活動性が語られているはずだからである。知識学の発見的循環に必要とされるのは、捨象と、本来対象でないものを対象として捉える直観であり、フィヒテ自身の自分の構想への一般向け説明である「知識学の概念について」でもはっきりしないまま断片で語られている。この場面ではいまだ反省は必要ではない。
この事態を規則との関連で別様に考えてみる。思惟は規則にしたがって行われる。ところがこの規則は、活動性から導かれるはずである。すると規則を見出す活動は、活動が自分の規則を活動をつうじて作り出していくか、活動の規則を活動が発見するかのいずれかである。だがいずれにしろ知識学の循環が成り立っていることは、フィヒテにとって明白なことであったに違いない。この循環は活動性をもとに精神の働きを語る場面では、あらゆる場面で行われており、この発見的循環を主として用いても、知識学は形成できる。実際自己回帰的活動と後に呼ばれるものは、こうしたタイプの発見的循環であり、『新方法による知識学』の冒頭では、この循環を用いて議論が進められている。活動を直観するさいには、活動のなさかで活動を直観する以上、自己回帰的で、発見的な活動を作動させている。かりに現象学が、方法的な立場ではなく、経験の基礎学であろうとするなら、活動の直観を現象学的に解明することができる。この発見的な循環は、反省的な循環ではない。反省的な循環は、活動を規定しようとすることから生じる循環であり、活動の限定的規定にかかわる。反省は、論理に依拠する循環の場面で出現するが、規則を見出すような循環では反省が主題の導きの糸になっているわけではない。後期知識学も原則この発見的循環によって発見的解明が進められる。
この場面では、典型的に二つの難題が生じていることがわかる。第一に発見的循環を、循環の構造のように取り出し、その構造を外から観望すると、およそ行われている事態が容易にわかってしまう。だがそこで理解したこと、わかったことと、循環のさなかで実行されることは、もはやいかなる接点ももたないのである。循環的な活動の継続によってささえられている発見的解明において実際に生起することは、その事態を外から観望することに類似したものはなにもないように不連続になる。言ってみれば内的視点と外的視点の変換関係が消滅する。そのため外的視点から内的視点へと視点を移動させるようにしては、循環のうちへと入っていくことはできない。そのさいに生じるのは、起きている構造の理解がなにもわかったことにならないという事態である。第二にこの発見的循環では、捨象を行い、活動そのものに直観を向けることができるほどの隙間はある。あるいは直観を向けることができるほどの隙間を開くことができる。この隙間の開き方が現象学的還元に似ている。だが通常隙間を開けば、事象そのものはいくぶんか変容するはずである。この変容にもかかわらず事象を精確に捉えているという保証は、直観の確信以外にはないように思われる。
さて実際知識学を構想するにあたっての最も主要な経験の作動は、この発見的循環である。『全知識学の基礎』でもこの発見的循環は用いられている。そうでなければ意識から活動そのものを取り出すことさえできず、意識と活動を関連づけることさえできない。だがおよそ信じられないことだが、この循環から『全知識学の基礎』の三原則がでてきたのではないのである。とすると全知識学の三原則は、いったいどのようにして導かれたのか。またそれは何をしたことになるのか。少なくても後に自己回帰的活動を語るとき、活動がすでにそれとしてイメージされている。それが活動の自己であり、ここに繰り返し回帰して直観的な発見を行っている。この自己そのものはいったいどのようなもので、それを捉えるとはどのようなことかという問が生じる。この問に同時に回答をあたえるように、活動を捉えるとはどういうことかを示唆するような原則が必要となる。おそらく『全知識学の基礎』の三原則は、こうした問題にかかわっている。
ちなみにこの発見的循環は、意識の活動に含まれる体験レベルの活動性をそれとして取り出そうとするさいには、必ず起こる。そのためこの循環を体験的な発見的循環と呼んでおきたい。体験レベルの活動性を取り出すのは、やはり体験レベルの活動性であり、そのためこの活動性は、つねにみずから自身を発見し続けなければならない。純粋に知の対象となることはありえず、にもかかわらずどこかで分かっている事象は、本当のところ体験レベルの活動がかかわっている。世界内存在の世界や、存在者と区別される存在は、こうした事象である。このときこれらを捉えていくまなざしは、発見的循環のなかで、こうした事象を何度も発見しなおすのであり、それ以外にはこうした事象とのかかわり方はないように思える。すなわち発見的循環のなかで見出されるものを対象的な事象として理解したり、配置的に理解することは、すでに誤解である。というのも世界や存在にかかわることは、それにかかわる自己をつねに形成し続けることだからである。この事態を別様に言うこともできる。世界や存在は、意識がそれとしてあることとともに出現しており、意識がそれとしてあることに相即する事態である。こうした事態を意識内の意識の直接性に訴えて解明することは、おそらくただのカテゴリー・ミステイクである。
精神の活動性のうち、意識がそれとしてあることを活動性が端的にもたらすとすれば、活動性のなかで特殊な活動性に注目することになる。それが定立活動である。これは対象措定や対象構成にみられるような定立活動ではない。だが後にそれらを可能にする活動をつうじて、最初の定立活動が行われているはずである。この定立活動は、意識がそれとしてあるということを可能にしている。それとしてある意識がそこからの帰結であるような活動態が自我と呼ばれ、この自我はいまだ主観でも主体でもないが、およそ知というものが成立する際の前提になっている。自我とは、「それ自身によって基礎づけられた自由の作用であり、絶対的に開始する働きであり、新しい作用の産出、無からの創造」のようなものである。
ところで意識がそれとしてあることの前提を意識そのもののうちに、どのように隈なく探しても、定立活動を見出すことはできない。意識の自己反省によっては、意識がそうあることの前提をみずからのうちに見出すことはできないはずである。意識はすでにそれとして意識であるのだから、どのように意識の直接性に訴えて内視しようと、意識がそうあることの根拠は意識からは見えないはずである。通常の意識の自己反省をつうじては、どのようにしても定立活動を見出すことはできないように思われる。フィヒテ自身、事行は経験のなかに現れないと言っている。もちろん現れないからたんなる仮説であるということにはならない。いま意識であることが、一つの活動であるとすれば、それは一つの行為となり、この行為は精神の活動そのものである。活動性と意識がそれとしてあることの関係は、活動性が意識を貫いていると考えることも、活動性が意識の存在をもたらしていると考えることも、活動性が意識そのものへと形態化すると考えることも、この段階ではさまざまな選択肢がありうる。フィヒテの場合、現実には産出的活動が、産物としての意識をもたらした、あるいは活動が制約を受け限定を受けて現実の内容を得たというイメージに近いのであろう。ところがどのような選択肢を採ろうと、次の意識の事実によってそれらの選択梓は消えてしまう。すなわち意識がそれとして存在することをもたらす活動性は、どのような回路であっても、意識の存在のなかに消失し、意識からは見ることができない。すると活動性と意識がそれとしてあることの現実の関係は、意識にとっては問うことができない。あるいは問うことができるほどの隙間がない。この隙間のなさが定立活動の特質である。
この事態を観察者から言い換えれば、活動性とそこから隙間なくもたらされた自我は、同じ一つのものであり、それこそ事行であることになる。活動性と自我は、両者の間に隙間がないという意味で同一であり、この同一性はそれ以上ほぐせないという性格をもつ。これによって活動性を自我に端的に置き換えることができ、自我は、みずからを定立するという定式化が成立する。自我は、それ自身定立する活動として、みずからを定立する。この隙間のなさという同一性が、論理学的な証明との接続を保証している。定立活動じたいは循環ではない。活動によってもたらされた自我の存在という事態を、もたらされた自我から引き出しているのではない。これでは導出の循環であり、導出の機構と、それを捉える認識の手順を混同しなければ、循環の見せ掛けさえ起こらない。どこまでも批判的な手続きによって、活動を捉えようとすれば、批判という手続きの限界において成立している事態を語ることになる。
この隙間のなさは、それを捉えようとすれば、それに対してはつねに外的な視点しか取れないような隙間のなさである。捉えたと思ったとき、つねにすでにそれに対して外的に捉えてしまっているような事態があり、それ以外に選択のないような事態がある。この隙間のなさは、次のように言い換えることもできる。意識は何かを知る。しかし意識はどうして何かを知ることができるのか。これが知識学の次元での典型的な問の立て方である。知識学はこんな問を立てるのである。これに対して意識は本来活動であるからと答えたとする。これは答えになっていたり、意識が知ることの根拠の解明になっているのだろうか。意識は、意識だから知るのだという回答は、ただの同語反復である。これに対して意識は、活動だから知るのだというのは、活動の内実を意識からしか知りようがなければ、ワンクッションを置いた同語反復となる。観察者から見た事態は、いずれにしろ同語反復である。この同語反復が結果から見た事態の一つの側面であるように、活動から語ることはできる。それが、自我はみずからを定立する活動であるという定式化であり、ここには活動と活動からもたらされたものとの隙間のなさが出現している。少なくとも知識学の原則の設定で起きていることは、カント的な反省を行っているのでも、発見的循環を遂行しているのでもない。
一般的に考え直せば、活動と存在との関連について、活動は連続的に活動し続けているのであり、活動に制限がかかって存在になるという定式化が普通であろう。一般動力学の定立方式ではそうなり、活動に、制限する活動が関与して、その産物が存在となるという定式化は、カントの『自然科学の形而上学的基礎』を手本にすれば、かなり容易に導くことができる。シェリングの自然哲学で採用されたのは、こうしたやり方である。そのさい活動を直接直観し、直観する活動がそれじたい対象となるというような産出的直観を要請せざるをえない。知的直観を、カテゴリー的、形相的直観だと規定するのではなく、さらに対象産出的直観にまで拡大すれば、こうしたことは可能であり、この段階では論理との結びつきよりも、芸術的制作との結びつきが強くなる。だがこの仕方は、自然的対象を必要条件から演繹的に構成する作業と類比的に活動を想定し、そこから存在を構成するようなものである。どこまでも類比的な構成であって、少なくても批判的な方法によるのではない。
さらにいえば、活動と存在との関連では、活動そのものは全面的に存在と合致することはなく、存在はひとたび存在すれば永続的に存在するものでもなく、むしろ活動と存在との間には、相互にそれぞれを活動させるような活動の循環があると考えることもできる。これは動力学的な前提を一切置かず、にもかかわらず活動と存在とを同時に活動状態におくような機構となる。このとき存在はみずからをもたらした活動をさらに活動させることをつうじて、存在となりつづける。この機構を示すのが、オートポイエーシスであった。このやり方は、全面的に機構を対象化する以上、経験科学的定式化と接続可能である。このとき、活動そのものをそれとして取り出すことはいかにして可能かという問題を設定すると、再度認識論へと戻り、さらにこの活動がこの問の設定とその後の解明に内在しているとすると知識学に戻る。
知識学の証明の循環  ところが知識学では、批判的な方法を採るさいに、意識がそれとしてあることの前提であり、かつ意識にとっての事実にはなりえない事態を、事行だとしていた。そうするとこの議論には、意識にとって対象化可能な、活動性の産出的な仕組みを一方では暗にもちながら、他方では意識の直接性に訴えて、その活動が意識に内在し、意識にとっては見えないことをもちいて、対象化可能な事態をこっそりと意識の内在的事態に重ねていることになる。そうでなければ起きている事態を理解することもできない。隙間のない事態について分かるというのは、そうした視点の間の外的な移動を行うことである。とすると意識の直接性に訴えてみずからには見えないみずからの基礎を端的に指示することと、それを理解可能な機構として暗に想定することとのと間には必然性はなく、視点の外的な移動をともなっていることがわかる。ここに知識学と証明に用いられる論理学との間の循環が必要とされる。対象化可能な事態をイメージしながら、それを意識の直接的な事実として語るさいには、視点の移動さいに移動する二つのものの間に相互の外面性があり、この外面性を論理的論証をつうじて同時に埋めなければならない。知識学の原則の導出と、論理規則との間には、アナロジー以上の循環が成り立っている。
哲学の出発点となる論理的規則と精神の活動の規則は、論証の筋道では相互補完的である。第一原則では、自我の存在が導かれるが、そのとき手掛かりとなるのは、A=Aである。これは同一律であるが、ここに含まれている判断の形式的可能性の条件をXとして取り出す。AはBである、AはCである等の判断の基礎にあるのが、このXである。Xは判断を行う活動であり、Xは一切の論証の前提であり、それ自体は証明の対象とはならない。ここから自我は自我であるという形式性は、間違いなく成立する。この段階では、この自我という語の位置には、何をもってきてもよい。等号の形式性だけが確保されればよいのである。だがXはAなしには成立せず、AはXが定立されていることと同じように、Aも紛れもなく定立されている。Aは特定の主語である必要はないが、なんらかの知の対象である。なんらかの知の対象があるということによってしかXは成立せず、Xが定立されれば、同じようにAも定立されている。よって自我はある。ここで起きていることは、循環ではない。批判的な方法にしたがい、経験が成立していなければ、その経験の根拠は成立しておらず、逆に経験が成立していれば、根拠も成立しているという「根拠の形而上学」が述べられているだけである。一般的に経験が成立したとして、その根拠も成立していることは、まったく保証されていない。だが批判的解明では、それを前提しなければ、何を解明しているのかがわからなくなる。
他方A=Aの判断は一種の活動であり、この活動の根拠となるのがXであり、能動性そのものの純粋な特性である。活動から見れば、「自我はある」は、「自我は自己自身を定立する」と同じである。こうして自我は、活動するものであると同時に、活動の産物である。このとき活動と事が同じ一つの事態になるので、これが「事行」のひとつの表れである。自己自身を存在するものとして定立することを本質とするのが、主観になぞらえて、名前をあたえておけば、それが「絶対的主観」である。主観の本性は、対象を捉えることであり、自分自身を定立するような主観は、およそ異なる本性だとすれば、確かに別の名称が必要になる。この場合別の名称を、主観-客観の枠組みの延長上であたえているだけで、絶対的主観によって、構成的に議論が進められてはいない。
こうした論証は、論理形式を引き合いにして活動(X)ともっとも原初の知(A)との関連を視覚化しながら、論理規則の前提として活動を充当し、活動の視覚的、対象的現れとして、論理規則の成立を手掛かりとしながら、自我の活動を規則として定式化している。ここでみられる循環は、もっとも普遍的な論理規則のもとに活動の働きを見出し、活動の形式的な現われを、論理規則になぞらえて定式化するという、活動と論理の間の相互補完である。これも根拠づけの循環とは異なるが、活動と論理というおよそ類似したところのないものを、相互に他方を手引きとしてそれぞれ意味づけていくという手順になっている。こうした論証が成功しているのかどうかとは独立に、活動が論理のどこに介在し、活動の定式化が論理になぞらえられることで、活動そのものが論理に一つの現実の現れとなることを理解することはできる。これによって意識の対象となる哲学の論理と、知識学の原則が、形式性において相互を外的に照らしあうことで補完的に位置づけられ、それによって知識学の原則の形式的定式をうるとともに、哲学に整合的に接合可能な知識学の定式化を哲学の前提として確保したことになる。
ただしこの論証が成功しているかどうかは別問題である。というのも意識の対象である論理規則と並行的に、ただ精神の活動が想定されているだけである可能性があり、この場合活動の解明は、論理規則と外的でただ平行関係だけだとも言えるからである。というのも先のXは、判断作用の活動性のことであり、確かにそれは精神の活動性の一つだが、この事例から最初の定立活動を類比的に推定することは無理だからである。論証でなされていることは、活動性と論理的な事象に同一性があるという隙間のなさの前提から、活動性一般となんらかの論理的事象に対応関係があることを用いた自我の証明だからである。とすれば一切の哲学の前提だと自称される知識学の原則は、哲学に平行し、哲学に対して別の言い方での規則を提示しただけに留まってしまう。この事態は、少なくとも別様の知識学が可能であることを示唆している。また『全知識学の基礎』の三原則が、知識学の展開にとっては、不連続な特異点である可能性も示唆している。
知識学内の解明的循環  フィヒテ自身は、批判哲学を形式的に採用して知識学を実行するという意向と姿勢から、論理は知識学の規則を前提とし、知識学の原則を導くさいに、この原則によって基礎づけられる論理を用いて導出したのでは、循環論証になると考えている。そしてこれは循環に巻き込まれるような反省を実行することだと考えている。実はこれは基礎づけ構想の誤解である。実際の証明では、フィヒテの想定したような循環は起きておらず、相互補完という別の事態が起きていた。知識学の原則がどのように定式化されようと、精神の活動は論理に内的に関与するが、活動の規則そのものは論理学と並置される知識学の形式的枠に留まるように思える。論理的前提を設定するのは、批判哲学の手法である。そのためフィヒテは、批判哲学の前提を解明したと考えている。だがこれはおそらく論理的前提ではなく、活動性という新たな領域を見出すための批判哲学になぞらえた論証である。というのも一般的に言えば、活動の本来の複雑さに対して、根拠-事象関係はほとんど有効ではないからである。活動のなかには直観や感覚や感情も含まれる。これらが根拠-事象関係で配置できるとはとても思えない。自我はひとたび定立されれば、それ以降の哲学の論証的解明に用いることができるが、自我の定立そのものは、複数の仕方が可能であり、その定立の仕方は、自我を定立して後の論証的解明とは独立である。これは一般的に言えば、基本的なカテゴリーを設定して後の論証的解明と、カテゴリーの設定そのものの論証的解明は、原則独立であることの一つの事例にすぎないだろう。
そのことは第二原則でさらにはっきりする。第二原則は、第一原則への反省から定式化されており、第二原則の定式化において、論理学は反省的な論理学となり、精神の活動のうち反省がもっとも優位となる。実際第二原則では、-Aが出現する。-A nicht=Aを手掛かりにして、A=Aに反対定立(entgegensetzen)される。反対定立は、A=Aから導かれることはないが、それに制約されて行われる。ところが-Aは自我でないものであるから、自我のなかからは出てこない。-Aは、「絶対的活動」によってAに反対定立される。この活動は、自己定立の働きに制約されているが、それがどのように働くかは無制約的である。この反立されているものが非我である。非我は対象としてみれば、フィヒテ自身が言うように無である。活動のなかには、自己定立と、それに質料上制約された反立があることになる。反立では厳密には、活動と活動の産物が端的に等しくなるという事行は成立しているようには見えない。というのも自我の定立活動になぞらえて、非我の定立活動を考えようとすると、活動と存在との間の隙間のなさは維持できず、非我の非に相当する媒介性が生じるからである。絶対的活動がどのようなものであれ、非我を端的に定立することは無理である。非我は、自我に反省的に対置されているが、非我じたいは定立活動だけで成立したものではなく、むしろ原初的な否定の働きを含む。反対定立のさいの反対は否定の働きを含むが、それでもなお定立の働きでもあり、否定的な定立である。
これはどのようにイメージしたらよいのか。活動と事態とが同じ一つのものである事行を厳密にとれば、すでに事行の内実には変化がみられる。もっとも理解しやすいのは、自我がそれとして存在することに同時にともなう事態を、独立に単独で語ったものであるというように理解するのである。定立活動によって定立されたものを、それをその外へ出て、外から存在の外側を語ったものだと理解するのである。かりにこうだとすると第二原則の設定で新たに必要とされた活動は、意識の存在の外へと越えでてそれの外をそれとして語る反省だけになる。だが反省は哲学内部の哲学的機能であり、これはもはや知識学の事行の表現のようには見えない。とすると反省以前に、非我の定立が行われていなければならない。この場合精神の自己定立活動では、自己を定立すると同時に、自己でないものの定立を行っていて、その自己でないものの固有性の規定は、反省によって確保されるという内容になる。
ここで行われていることは、活動が何であるかを活動の側からは知りえない以上、活動の産物を手掛かりに、活動が自我のなかで別様の活動のモードとして現れでたということになろう。そしてそうした方法しか取り得ないのが、知識学の原理の定立であり、そのことの成果は活動のモードの出現から、哲学に必要とされるカテゴリーを導き、哲学に提供することである。そのため非Aの定立活動は、それがどのように語られようとも、それを介してその後導いたさまざまなカテゴリーと独立である。実際非我は、活動に対して静止した存在を考える場面で、すでに思考のなかに出現している。精神の本性が活動であるとき、活動でないものを手掛かりにして考えている以上、自我がみずからを定立する活動であるなら、活動の限定された静止態をすでにともに考えているのである。活動の哲学を設定した時点で、すでに非我は思考のなかでは暗に設定されている、欠くことのできない原理である。そのため―Anicht=Aに相当する活動Yが示唆され、このYは、後に第三原則のなかで、自己定立活動Xをもたらした活動だとされる。活動を意識の事実の根拠として取り出し、さらにその後の意識の事実から別の活動のモードを取り出し、活動の間の関連を根拠づけの配置から行うことは、前提になっている根拠を次々と引き出すという意味で先験的演繹であり、論証的な発見的プロセスである。この論証的な発見的プロセスは、正当化の循環ではない。正当化の循環は、基礎づけ構想という語を誤解した観察者からの言い分である。にもかかわらず先験的な発見的プロセスはすでに論証的な思考の内部におけるプロセスとなっており、一般に先験的構成には必ず含まれているものである。事情がこうであってみれば、かりに活動のさなかで活動を直観するような、活動態の直観だけが遂行されるなら、実際非我はカテゴリーとしては不要になる。そして事実1801年以降の後期知識学ではそうなるのである。
自我と非我は、それの出現の経緯にもかかわらず、後の論証的解明の形式的な枠としては十分にもちいることができ、反省論理学的な哲学内部の解明的証明には存分の威力を発揮する。だが知識学の原則の設定そのものは、本来成功しようもないものを実行している面がある。それは主として、活動から存在がもたらされるという視覚化され、対象化される事態と、意識の事実としてはそれをどのようにしても知りようがないという、二つの事態の間に恣意性が生じざるをえないからである。その恣意性の一つの現れが、論理とのアナロジーを用いた論証的解明であった。知識学の三原則の設定には、少なくとも体験的な発見的循環と、活動と論理との相互補完的なアナロジー、さらには論証的な発見的循環が含まれている。それらはさまざまな形をとって、他の哲学のシステムのなかにも出現している。論証的な発見的な循環だけを前面に出した典型例が、ヘーゲルの論理学である。それぞれの循環は、単独では比較的容易に取り出すこともでき、またそれらから推測して三原則を理解しがちでもある。だが知識学の三原則の設定では、これらの循環の仕組みとは異なることが実行されていたのである。精確に言えば、フィヒテは解答のでない問に踏み込んだのである。

体系展開の循環
ここを書くこと

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