000102.jpg


01.jpg
02.jpg
03.jpg
04.jpg
05.jpg

k003.jpg

トワイライト・アイランド―-佐渡周遊

河本英夫

 佐渡は東京23区の1,6倍の面積があり、人口も10万人程度である。かりに島流しになってもそこで生きていくことができるだけではなく、この地で新たな活動を繰り広げることができる。日本最古の歴史書でもある『古事記』の国生み神話には、大八島の7番目として登場し、『日本書紀』の同じ神話には「億岐州」(隠岐)と「佐度州」(佐渡)が双子として、5番目に登場している。奈良時代にはすでに佐渡は一国と認定され、「流刑地」の一つに定められていた。行政的には、鎌倉時代以降、本間氏が守護代として佐渡を支配していたが、1589年(天正17年)に上杉景勝の侵攻を受けて滅亡し、上杉の支配地となった。その後徳川幕府の直轄地となる。現代的に言えば、「経済特区」の指定であり、長崎や大阪とともに指定されている。
島流しは否応のない新天地への強制赴任に近い。畑作も水田も漁場も佐渡の人口を支えるには十分である。そこにはすでに生き延びてきたものの知恵があり、新たに流入してくるものの対応の心得も備わっていたに違いない。だがそれでも島に特有の「陰り」はある。金鉱山で浮かれるほど栄えた往時があり、栄華がある。そして過行くものの姿を残響のように残しながら、新たな社会生活の模索は続く。これは裏合わせになった「憂鬱と努力した明るさ」でもある。人の移動は当初より島という地形条件で限定されている。新たな流入も流出も限られたものである。それでもなお限られた選択のなかで模索は続く。

本文へ→

contents_border_ft.png

k003.jpg

水の夢

河本英夫(文学部)

要旨:2020年3月中旬に、屋久島に訪れ、標高500メートル以上のところにある屋久杉を見学した。屋久島じたいは、亜熱帯性の気候であり、大量に雨が降る。標高500メートル以上のところは、亜寒帯に近い。そこに独特の生態系が形成されている。屋久島で起きる水の循環にうまく適合するように杉が生育している。世界でも稀に見る長寿の杉が出現している。
 水の循環という点では、生命体そのものも水の循環を内的に活用している。水が無ければ、体内での生化学反応は起きない。水そのものが、内的活動を支え、この水の動きをうまく巻き込むように作り上げられているのが、生命体である。その意味で、水は多くのイメージを生み、作品にもなってきた。それを取り出して分析してみた。映画監督タルコフスキーの作品では、水は「原イメージ」となっている。

本文へ→

contents_border_ft.png

k003.jpg

システムと科学の哲学

河本英夫

 人間の本質は、心ではなく顔である。顔こそもっとも大切なものである。良い心ではなく、良い顔を作ることが哲学の課題である。何故か。写真を見ると、実物より三割落ちたとか、二割上がったとかという感想をしばしばもつ。数年前の写真を見ると、自分はこんな顔をしているのかと驚くこともしばしばある。ところで三割落ちる前や、二割上がる前の掛け値なしの現物をどうやってみたのだろう。数年前の写真の顔に違和感を抱く場合に、現在の現物の顔をどうやってみたのだろう。鏡で見たのか。鏡は、顔の二次元的切り取りであり、三面鏡を用いても二次元的切り取りを三つ繋いだだけである。自分の素顔の全貌は見えないはずである。だが見えないからといって分からないわけではない。むしろ自分の顔は、見えなくてもどんな顔であるかどこかで確信している。この顔の確信はどこからやってくるのか。

本文へ→

contents_border_ft.png

k003.jpg

身体-空間の現れ

河本英夫

 眼前に広がる空間は、体験的生とともに出現している空間である。この事態は、生きることと空間を直接関連づけている。だがそれだけではなく、逆に体験的生と空間を一つの系としては捉えることも、記述することもできないことを暗に示唆している。生きることは、まぎれもなく生きていることであり、それとして語るよりない。呼吸し、移動し、時として飲み、食べ、糞をし、生きている活動である。この延長上からはどのようにしても空間らしきものは出てこない。逆に空間に世界性を帯びさせ、世界性をもつ空間を捉えたとしても、そのことの延長上からは生きていることへと接続することはできない。つまり世界内で生きているという事態は、本来どのようにそれに接近しようとしても、ありえない事柄である。世界の側から進むと、生はつねに一個の不連続点でしかない。生と空間もしくは広がりの間には、どのようにしても埋めることのできない裂け目がある。裂け目を含む生と空間の隙間を、たとえば相互内属、相互浸透、カップリングのような言葉で被覆しても、そのことによっては何一つ解消されないような深さが残る。体験されている空間にも、この裂け目の痕跡は残っているに違いない。このことは、体験から出発する限り、空間もしくは広がりは、つねに別様でありうるだけではなく、際限のない深さをもってしまうことを意味する。また逆に十分に予想されることだが、体験的生はそれとして確定できないだけではなく、それじたい多くの可能性を含んで生成する。

本文へ→

contents_border_ft.png

k003.jpg

青のエコ・フィロソフィー――ネモフィラの斜面

河本英夫

 薄い青の花は少ない。バラには、赤いバラ、ピンクのバラ、黒っぽいバラとさまざまな彩色があるが、青いバラはない。人工的に作ることはできるようだが、ほとんど見かけることはない。桜にも薄いピンクや白い桜はあるが、青の桜はない。アヤメのように濃い群青色はあるが、薄い青はほとんど見かけることはない。藤の花は、紫がかっており、棚から垂れ下がるように舞い降りている。
薄い青は、生存上有利ではないのかとも思う。花は一時的に咲き、やがて枯れて一面花びらの下に、緑の葉が出てくる。葉は光合成を行う栄養代謝の器官である。そうなると青い花は、ごく短期間出現して、やがて緑の葉に変わっていく。生存上、青の個体はほとんど理由がない。

本文へ→

contents_border_ft.png

k003.jpg

環境-アート・フェスティヴァル

河本英夫

 2017年7月下旬から9月上旬にかけて石巻牡鹿半島を会場として、アート・フェスティヴァル(REBORN ART Festival 2017)が、音楽プロデューサー小林武史を実行委員長として開催された。いくつかの偶然が重なって、私はこのアート・フェスにかかわることになった。もともと夏の音楽ライヴとして毎年行われていたが、音楽だけであれば、一晩の宴を過ごして、それでひとつのイヴェントとなる。だがそれでは、地域の特性を存分に発揮するところまではいかず、もともと音楽ライヴはどこでやってもよい。山形でも仙台でもよい。参加してくれる人たちの多くは、首都圏からの移動者である。そこで今年から石巻の牡鹿半島に、環境に合わせてアート作品を展示し、石巻の食材を新たに料理のメニューに加えて、音楽とアート展示と食事を含めたフェスティヴァルが企画された。人の動きが作りだせれば、地域起こしにもなり、場合によっては新たな起業にもなりうる。
今回はそのための開始である。初回だから万遍なくうまくいくというわけではない。現地の気候にも左右される。野外活動の難しい所である。それどころか2017年の夏は例外的なほど奇妙な夏である。だがこうした企てを何度も繰り返していれば、そこから多くの企画も生まれる。そうした思いを籠めて、開始されたフェスティヴァルである。これを実行するための一般社団法人も設立され、文化庁からの補助金の受け皿も準備され実行されている。

本文へ→

contents_border_ft.png

k003.psd

生命システムの論理

河本英夫

 ベイトソンの議論のなかに、学習レベルの構想がある。本人は階層的に学習能力の形成だとみなしていた議論である。これは形成される能力が順次別種になるような仕組みになっていて、実は学習理論ではない。むしろ生命の基本的論理に届かせようとしている。ここでは四種の学習能力が挙げられている。情報に対する反応が一定している場合が、「ゼロ学習」と呼ばれ、繰り返しあたえられる刺激に対して、精確に正しい反応をする場合や、慣れとともにある刺激に対しては反応しなくなり、反応パターンの内容にほとんど経験が関与しない場合のように、機械的な定型パターンの形成になる場面である。

本文へ→

contents_border_ft.png

k003.jpg

Ⅱ 環境科学を学ぶ

 今日の環境問題にかかわるさいに、文明の形態あるいは人間の生活形態を変えなければならないという主張は、繰り返しうんざりするほど述べられてきた。だがどの方向へと、どのように変えていくのかは、それほど明白ではなく、またどのような構想がもっとも有効であるかも吟味されているわけではない。生活を禁欲的に浪費型ではない方向に進めることも、あの懐かしいトンボやホタルの飛び交う自然を回復することも、汚染された湖沼を回復することも貴重な活動である。植林を行い緑地面積を拡張し、あるいは燃費の良い動力機関に代替していくことも重要な選択である。そしてそれらはほとんど、今日の環境問題のパースペクティブのなかに配置された見慣れた選択肢である。基本的動向として、破壊されたものの回復と、環境負荷の低減が座標軸となっている。そのとき次のような疑問がわく。現状での選択肢は十分に提示されているのか、あるいは選択肢の座標軸は十分に開かれたものであるのか。そして問題解決手法として、破壊されたものがあれば回復する、あるいは負荷が大きければ減らすという、いわば対症療法的な対応は、十分な展開見通しをもつのかという点である。

本文へ→

contents_border_ft.png

k003.jpg

身体・重力・光・空気――舞踏物理学へ向けて

河本英夫

 身体の形成に重力は内的である。重力は地球の中心が引きつける力のことだけではない。万物は引き合うのだから、身体の各所は引き合い、また環境と引き合っている。地球が物を引っ張る引力は、概算で重力の内実の1/10程度であろう。この重力でさえ、一切の慣性運動系のなかに組み込むことはできない。そのため重力は単独の固有な作用であり、光と同様、全貌を露にするには困難がある。見ることに内的な光を還元するのが容易でないのと同様、身体の形成プロセスに内的な重力を還元することは容易でない。宇宙空間で身体が落ちていかなくても身体は重さをもつ。動こうとすればそのことによってただちに慣性質料が生じる。動いた途端重さが出現するもの、それが重力である。だが慣性速度0であっても本来重さがある。存在者は、まさに存在者であることによって重力をもち、重力に浸透されている。ただちに思い当たる重力の現われは、身体が消すことのできない不透明さをもつことである。身体の不透明さこそ、重力の最初の現われである。

本文へ→

contents_border_ft.png

k003.jpg

鉄の途

河本英夫

 出雲は、縄文時代、古墳時代の文化的な代表地区の一つである。朝鮮半島を経て、大陸の文化は断続的に入り、独自の産業を形成していた。大和朝廷による全国統一のさいにも、出雲には独特の配慮が見られる。歴史の詳細を確定できない時代だが、現在にも残存するいくつかの資料から、出雲のイメージを描いてみる。産業の中心にあるのは、製鉄である。タタラ製鉄という語で示された製鉄業は、砂鉄から作られた独特の工法をもつ。『出雲風土記』に出てくる「片目の赤鬼」のイメージから、高温に触れる作業をやっていたものがいたということは推測できる。しかも製鉄のような多くの人数を要する作業を賄うためには、生産基盤や働くものの生活を支えるほどの農業技術が準備されていなければならない。また製鉄法から見て、広大な森林が必要である。奥出雲には相当に大きな経済圏が出来上がっていたとみるのが適当である。この製鉄は当時の世界水準で見ても水準が高かった。『延喜式』には、税を鉄の塊で納める記述もあり、豊富な生産量があったことがうかがわれる。

本文へ→

contents_border_ft.png

k003.jpg

道志村記
――持続可能な村の選択と決断

河本英夫

道志村は、80年一貫して「村」を続けている。平成の大合併にも、ただ村であり続けている。取り立てて、何かの産業があるわけではなく、資源があるわけでもない。位置は丹沢山系の裏であり、富士の裾野の手前であり、富士吉田に通じている。中央線大月駅から入ると、いろは坂のようなくねった山道が続いている。車は少ない。そうした情報が行き渡っているのか、オートバイが異様に多い。彼らのネットワークもあるのだろう。オートバイ族が集まっている。公共交通もわずかであり、一日2便のバスがあるだけである。柳田國男が道志村を訪れたのは、明治44年5月12日であり、都留市から道坂峠を越えて入村している。林業を盛んにすることが必要であるという報告書を出している。農林水産省に勤務していた柳田は、業務の必要から多くの土地を歩いている。

本文へ→

contents_border_ft.png

k003.jpg

浮遊する島

河本英夫

 島は疑似閉鎖系であり、天然の閉鎖系である。歩けばただちに果てに当たる。果ての先は海である。果てを歩き続ければ、出発点に戻る。あてどなく歩き続けても、出発点に戻る。どこかに向かっていくわけではない。どこかに向かいながらも気が付けば、到達目標の周囲をぐるぐる回っていることはしばしば起きる。それはカフカの『城』である。閉鎖系は、むしろ自動的な動きの成果であり、結果である。これを環境のモデルとしたい。

本文へ→

contents_border_ft.png