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アラカワの方法

河本英夫(東洋大学文学部)

The Method of ARAKAWA
Hideo Kawamoto (Department of Literature, Toyo University, Tokyo)

はじめに
 方法とは現に実行される経験の作動のごく一部を抽出したものである。そのため現実をきわめて単純化したものである。経験は方法にしたがって作動するのではなく、また方法は現実の行為を方向付ける統制原理でさえない。方法は現実のプロセスと同時並行する経験の手掛かりでしかなく、場合によっては経験を動かすための予期である。この同時並行のプロセスという感覚を身につけることは簡単ではない。だが経験の多くはそうした同時並行するプロセスのネットワークである。実は、この同時並行的な経験の作動を多用したところに、アラカワの方法の特質がある。

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三 疾走しつづけるもの―カップリングの活用

1 終わりを終わりつつけるもの

 すでに終わっているものは、どこまでも終わりを終わりつづけなければならない。終わりを終わりつづける行為は、あらかじめ設定された終局へと向かうことではなく、また終局を繰り返し回避しながら、終わることの儀式を可能な限り引き伸ばしていくことでもない。終わりを終わりつづけることは、ひとつの際限のない行為であり、純粋な動きである。これは人や街や社会へと背を向けたまま、何かに導かれるよう進みつづける宿命とも、あらゆる生の営みに頓挫したまま、ただ前に進むことだけが残された道であるという自意識の説得とも無縁である。

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サイコパス・ハーフ・エクストラ
――社会的病理

河本英夫

 サイコパス(精神病質)は、いまだ精神医学的な規定も明確になっていない病態である。犯罪者のなかにも一定頻度で含まれているが、犯罪者であるからサイコパスであるわけではない。逆にサイコパスだから犯罪者というわけでもない。だがいくつかの理由からサイコパスは、なんのためらいもなく、またいささか唐突に、犯罪に踏み込んでしまう。また人格障害(社会的適応障害)ではあるが、明確に責任能力はある。犯罪そのもののもみ消しも画策する程度には、犯罪もしくは犯罪状態への対応能力はある。
 ロバート・D・ヘアは、心裡家として刑務所で面談を行ううちに、奇妙な犯罪者の一群がいることに気づくようになった。そして統計的に多くの精神疾患の症例を集めて、そこからいくつかの特徴的な指標を取り出したのである。それによってサイコパスの輪郭は、かなり明らかになった。ところがヘアの資料は、すでに犯罪者と認定されているものから多くのデータを収集しており、サイコパスのなかでも特異な一群の症例を扱っている印象を受ける。この病態は、多くの症例から詳細な分析を行わねばならない。というのもサイコパスは犯罪にかわかる頻度が高く、かつ周囲の人が犯罪に巻き込まれる頻度も高い以上、できる限り多くの人に理解可能なレベルまで病態に届かせなければならないからである。たとえばヘアの記述に以下のようなものがある。

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システム的リハビリテーション
――セラピストのためのシステム現象学

Systemic Rehabilitation

河本英夫(東洋大学)

要旨

 壊れた身体や脳が再生するさいには、創発や再生や発達のような事象を適合的に扱うことのできる知の枠組みが必要となる。1960年代からはっきりとしたかたちで出現してきた「自己組織化」の構想は、その最適なものである。1970年代には、自己組織化の最先端版である「オートポイエーシス」の構想が出現し、さらに局面が変わってくる。それらの内実を検討しながら、リハビリテーションの現場で固有に生じる事象について検討を加えていく。リハビリとは、行為能力の再生の作業であり、行為の能力の拡張を含むことから、本来健常者にも活用することができるものである。リハビリテーションにとって緊要なのは、情報科学でも認知科学でもなく、システム的な構想である。

キーワード
二重作動(double operation)  自己組織化(self-organizing) ハイパーサイクル(hyper―cycle) オートポイエーシス(autopoiesis)

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12月19日(土) 白山

システム的抑制――人間再生の壁

河本英夫

 機能性の出現とともに、機能はそれじたいの自己維持のために、さまざまな仕組みを活用する。肉食動物は、肉食という機能性のために強い顎、短い腸、強くて丈夫な足等々の各器官上の特徴を統合するように働く。機能性(働き)の維持は、生命体の本性であり、いっさいの手段を活用して、その維持を行っているように見える。ところが機能のもとに配置された器官や部位に損傷が生じた場合、機能性そのものは活用できる仕組みのいっさいを活用して、自己維持を図っているようにみえる。そのことが損傷時に多大な負荷をもたらす。
 生命の最大で不可欠の機能は、「食べること」と「産むこと」であり、原核細胞のようにただ図体が大きくなってくびれて二つに分かれる場合も、産むことの原初的なモードである。認知機能の基本的な働きのモードを、ピアジェは「同化」と「調整」だと考えてきた。そこから「眼は光を食べている」という名言が生じる。機能性の出現立に、どの程度の働きが関与しているのかは、いまだよく分からない。
 抑制的制御は、各局面での機能性そのものの成立に不可分に関与する。そのためほとんどの抑制の仕組みは、生にとってあるいは個体であることにとって「積極的で有効な働き」を行っている。そこには何重にも編み込まれた複雑な制御の仕組みが関与していると考えられる。この積極的な働きが、損傷や解体からの回復の場面においては、突破しにくい壁となる。そこで抑制によるシステムそのものの機構を考察しながら、どのような回路が可能となるかを検討する。

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ディメンショナル・リセット

河本英夫

要旨
 人工知能の予想を超えた進展によって、リハビリは新たな局面に入っている。そうした歴史的局面で、個々のセラピストにとって、多くの試行錯誤が必要だと思われる。身体と病理と治療的介入の場面で、それぞれに現状で課題だと思われるものを考察する。

キーワード 人工知能 システム的機構 システム的病理 抑制 選択

The conditions of the therapeutic rehabilitation are contained in a new aspect of affairs through the progress and expansion of the artificial intelligence beyond our expectation. On such a historical phase, it seems that many trials and errors are required for each therapist. I consider in this paper what are concepted and considered as subjects in the present conditions concerning the humane body, systemic mechanism, systemic pathology, and therapeutic intervention.

Keyword Artificial intelligence Systemic mechanism Systematic pathology Body control

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システム的介入の最近接領域

河本英夫

一般に「損傷」とは、それまで維持していた「機能性」が喪失されることである。機能性は、身体各部位からみれば目的に相当し、これによって人間はその部位の意味内実を判別することができる。だが身体部位もしくは特定器官群に対応する機能は自明なものではない。手の指がなければ、足の指を活用し訓練して、足の指で鉛筆やボールペンを握り、字を書くことができるようになる。両手、片足がなく、足が一本であっても、水泳の泳ぎはできるようになる。身体をうまく折りたたみ、腹部に水を溜め込むようにして全身で溜め込んだ水を押し出し、それと同時に残った1本の足で水を蹴るのである。身体は、足があれば歩行でき、頭があれば思考でき、意識があれば認知できるというように器官-機能対応で考えられがちだが、器官と機能の間には大きな隙間がある。むしろ各器官は、ほどよいタイミングでの訓練をつうじて機能を形成するというのが実情である。また器官群の部分的欠損によって機能が喪失することもあれば、喪失しないこともある。器官群は、一応過不足なく揃っていても、発達障害に多く見られるように機能が出現してこないことがある。器官群と機能は、相互に宙吊りの関係にある。各部位の軽微損傷によって、機能不全状態になることはある。その場合には、機能性は維持されている。しかし維持されている機能性は、本人の最善の自己治癒努力によって出現した病態でもある。それが病態のもつ安定性である。そのことは治療的介入にとっての障害ともなり、壁ともなる。

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文明創発の舞踏――笠井叡氏の講演によせて
(Butoh as civilizational Emergence)

河本英夫(東洋大学)
Hideo Kawamoto (Toyo University)

 笠井叡(1943-)は、大学進学を躊躇し延期している時期に、当時まだ無名だった舞踏家の大野一雄に出会い、舞踏の訓練を開始した。笠井叡にとって大野一雄は、異次元の存在だった。笠井叡は、多くの書物を読み、多くの事柄を書き表す著作家としての傾向をもちあわせていた。その点では、舞踏を作り上げたもう一人の巨匠である土方巽によく似た位置にいる。6年間(1979-85)のドイツ留学を経て、シュタイナーを内面化し帰国するが、日本文化のあまりの変化に驚き、また帰国後6年間は日本語で物を考え創作することができず、長期にわたり沈黙したままになる。当初は、「身体神秘学」とでも呼ぶべき、宇宙論と身体論を結合させた議論を展開していたが、帰国後の活動をつうじて「身体生理現象学」と呼んでもよいような独自の身体論を形成している。舞踏のなかでは数少ない哲学的な舞踏家でもある。

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二重性の変奏

河本英夫

 過ぎ行く瞬間がある。その瞬間にしか捉えられない事がある。鳥取の兵庫側県境の海岸沿いは、海岸から小高い山が切り立っている。この山沿いは、海沿いと言っても同じである。つまり延々と続く海面から立ち上がる絶壁である。この絶壁を上下動を伴って蛇行するように山道が続く。現在この道路は舗装されていて、かろうじて一台の車が通ることができる。鳥取郊外から城之崎まで続くこの道路は、小高い山の起伏に合わせて何度も峠越えのような眺望が開ける。眼下に広がる海と、くっきりと境界をもつ山のまるで切り取られたような風景である。峠は、越えてきたものの余韻と、一挙に開けていくものの際限のなさを含んでいる。一歩下りにかかると、この際限のない明け開けが、まるで画面が切り替わるように消えていく。消え去るものは、瞬間の余韻を残す。ドライブでの風景は、逆走してみれば再現できる。だがただ一度だけという瞬間は、現実の経験のなかには無数にある。瞬間は、まさにそれが瞬間であり、再現不可能であることによって、時間を越え出てしまう。瞬間は時間の断面ではない。むしろ時間のなかに属さないのである。そこを超えると風景が一変する地点がある。だから通り過ぎる瞬間に、超えていくものの抵抗感と局面の不連続な転換の印象がある。風景のこの転換点にあるのが、敷居である。[1]伝統的には、敷居はヒポクラテスの分利(クリーゼ)に近いのだろう。病状の局面が変わる地点がある。後にクリーゼは、クリティーク(批評)に継承される。敷居が社会的、制度的な負荷を帯びているとき、敷居を越えることは一種の通過儀礼となる。

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7 重力・光・空気――舞踏物理学

身体の形成に重力は内的である。重力は地球の中心が引きつける力のことだけではない。万物は引き合うのだから、身体の各所は引き合い、また環境と引き合っている。地球が物を引っ張る引力は、概算で重力の内実の1/10程度であろう。この重力でさえ、一切の慣性運動系のなかに組み込むことはできない。そのため重力は単独の固有な作用であり、光と同様、全貌を露にするには困難がある。見ることに内的な光を還元するのが容易でないのと同様、身体の形成プロセスに内的な重力を還元することは容易でない。宇宙空間で身体が落ちていかなくても身体は重さをもつ。動こうとすればそのことによってただちに慣性質料が生じる。動いた途端重さが出現するもの、それが重力である。だが慣性速度0であっても本来重さがある。存在者は、まさに存在者であることによって重力をもち、重力に浸透されている。ただちに思い当たる重力の現われは、身体が消すことのできない不透明さをもつことである。身体の不透明さこそ、重力の最初の現われである。

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臨床美術の可能性
――日々新たに目覚めるために

河本英夫(東洋大学文学部)

 人間が再生していく現場では、神経系の再形成と再編が必要とされる。この再編に制作行為をかかわらせることによって、独特の治療効果をもたらすことは、理論的にも、経験の仕組みからも肯定されると予想される。しかしながら、神経系の形成はある種の創発を含む以上、論理学や機械論的物理学のように、ある前提を設定すれば、そこから必然的に治療効果が生まれる、というような性格のものではない。創発を内在する科学は、どこかに生成プロセスに飛躍を含む以上、決定論的なものではない。それだけではなくおよそ確定した基礎的理論の上に、応用領域が形成されるようなものではない。また基礎法則の上にさらに詳細な派生規則が積み上がるようなものでもない。
むしろ人間の能力の回復、再生、創出に向けたプロジェクトは、神経システムが多並行分散系であることに応じて、多様な企てがそれぞれの現場での前線を形成しながら、同心円的に拡大していくような企てである。ある現場での試みが隣接領域にも適用され、類比的な企てのネットワークが、徐々に拡大していくような試みの総称となる。比喩的に言えば、それは類比(アナロジー)の連鎖のようなものに近い。臨床美術の展開は、おそらくこうした拡大する同心円的なネットワークとして進んで行くと考えられる。
そもそもリハビリ系の学問に基礎的な規則は見当たらない。それはこうした技法が、理論ではなく、個々の治療事例の緩やかなネットワークになるからであり、理論という名称を使うにしても、「半理論」にしかならないことによっている。「片麻痺」と呼ばれるごくありふれた病態がある。街中でも近所の道路でもしばしば患者の苦しそうな歩行を見かけることがある。しかし右片麻痺と左片麻痺では、まるで異なった病態である。片麻痺とは、病態の疾病分類的な総称のことであり、治療過程で個々の病態は細分化される。個々の理論は、現場での治療行為の手掛かりを提供するにすぎず、応用のための基礎理論ではありえない。また治療過程は、促通技法のような「テクニック」ではない。患者に絵をかかせる場合には、患者はまさにみずから絵を描くのであって、テクニックに合わせて描画するのではない。ここでは、臨床美術で要請されるエクササイズの内実を吟味し、臨床美術が何を行う企てであるのかについて検討を行う。

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2010年4月17日 東洋大学白山

神経現象学リハビリテーションの分岐

河本英夫(東洋大学)

2010年2月4日のサントルソでのマスターコース講演で、ペルフェッティはみずからの開発した「認知神経リハ」の歴史的経緯について述べている。そこではペルフェティ自身が意味づけていることと、彼がリハビリの技法として実行してきたこととの間には、いくつもの箇所で隔たりがあることがわかる。この隔たりの箇所は、リハビリの展開にとって分岐点を含む箇所である。一般にみずから開発し、実行してきたこと、すなわち行為として行ってきたことと、それについての言語的記述は食い違うことはごくありふれたことである。しかも開発にかかわる部分は、本人の意図したことと異なることが出現してしまう。これもごく普通のことである。そのため開発者には、つねによき「コーチ」やパートナーが必要となる。しかもそのさいこうした隙間や食い違いを、さらにそこから発展的に展開するためのまたとないチャンスだと捉えるような感性が必要となる。

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触覚性マルチチュード

河本英夫

世界のなかに境界線が走り、その両側が非対称になるだけではなく、本性的に対立する場合、つまり利害でも価値観のうえでも感情的にも和解できないギャップが生じる場合、そこに闘争が生じる。だがテクニカルに対処できる対立であれば、どのような闘争が行われようと、実質的にテクニカルな対処は進んでしまう。そのとき対立はおのずと局面を変えるが、それが闘争の成果なのか、闘争とは独立に進行した事態なのかを本性的に判別できない。この本性的な判別できなさを抱え込んでいる場所が、システムである。システム的対処の特質は、コスト・パフォーマンスがよいことである。システムの作動は、対立するものの争点をずらし、現実性の局面を変え、固着対立であると思えた事態を変容させ、まるですべてを水に流すように見かけ上解消してしまう。この見かけ上の解消を、矛盾の先送りと言っても、矛盾の自動化と言っても、さらには矛盾の内在化と言っても、そのことによってシステムの現実に変化が及ぶわけではない。システムの現実には、先送りも自動化も内在化も含まれている。つまりシステムの多重作動には、すでにマルチチュードが備わっている。

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精神療法はどこへ向かっているのか

河本英夫(東洋大学文学部)

 新宮一成さんの今回の議論は、感情・情動の記憶の組織化の問題にかかわっているように見える。そしてそこで出現する固有に組織化される「知」にかかわっているように見える。1960年代から多くの領域でかつ広範に展開された自己組織化の議論をつうじて、私や花村誠一さんは、「システム的精神病理」が成立するだろうという予想を抱いていた。同時期に故ブランケンブルクやチョムピも類似した構想を手掛けていたのである。こうした流れは、精神分析に導入されることはほとんどなかった。唯一、十川幸司さんの精神分析のシステム的再編を除いて、見るべきほどの展開を見せてこなかったのである。精神分析には、構造論的な言語モデルと生物学的な還元主義という二つの大きな柱がある。ところが自己組織化やそれの発展形であるオートポイエーシスの議論が示したのは、システムは固有にみずからを形成し、同時にそれとしてみずからをモデルとして仕上げていくという仕組みのもとで、多種多様な展開の可能性の回路がありうるという事態である。構造論的な一つのモデルに集約するのではなく、むしろそれじたいで展開可能性のあるモデル設定とともに、患者や治療者の経験そのものを形成するような仕組みを構想しようとしていたのである。

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