方法としてのオートポイエーシス――体系とは異なる仕方で
方法は、定型化された経験の手順であり、その手順を一貫して適応していくことで、通常の経験では見えないものを見えるようにしていく仕組みである。方法の由来は多様である。科学のなかに含まれる方法を抽出し、それを個々の経験の場面に適応するのであれば、「自然主義」となる。科学は生産的な方法的探求の一つであり、そのなかに含まれる方法をあらゆる場面に応用しようとするのである。たとえば実験手続きや帰納法を適用していく。自然科学のなかには、有効な方法が多く、必要に応じてそれを活用することはできる。そしてさらに知への反省そのもののもこうした科学的方法のいずれかを適用してみる。たとえば「反証」という科学的方法の一つを、知そのものの吟味にも活用するのである。伝統的な反省に代えて、方法の自己適用による反省を導入することになる。反省知にまで高められた科学的方法の運用を、「科学主義」という。
20世紀の前半から後半にかけて、「論理実証主義」からポパーによる「反証主義」まで、科学的方法の運用はこうした反省知にまで高められている。これらの方法は、経験から抽出され、それ単独で手順を示すことができるので、方法とはすなわち使い勝手の良い場面ではいつでも運用できる「道具」のことである。人間の身体が物理的な物でもある以上、道具が一定の範囲で生活にも経験にとっても有効であることはむしろ当然である。こうして道具的に活用可能な方法が経験の前景に出てくると、方法の意味合いがとても狭くなってしまう。
たとえば「現象学的還元」も方法のひとつだが、それはどちらかと言えば、意識的経験の制御の仕方のようなものであり、経験のなかに隙間を開いていくような仕方である。事象は、意識にとってはすでにおのずと出現してしまう。眼前の現れは、なぜそうした現れなのかがわからず、別様に変化させようとしてもそれがどうすることなのかも分からない。意識が作動することと現れとは、地続きになってしまっている。いろいろ解釈することによって、現れがこのような現れであることに対して、何かが明らかになるわけではなく、またそれをどうすることもできない。つまり現れに対して解釈をおこなっても、それで何かがさらに分かるようになるわけではない。しかも現れは一切に意識の作為の手前ですでに出現してしまっているので、それを捉えようとすれば、すでに意識の作動とともに出現しているという事態に対して「隙間」を開くよりない。この隙間を開くという働きが、還元の主要な部分である。
意識という働きと現れという地続きになった事象に対して、ともかくも内的に制御できる隙間を開き、その事象のなかに含まれるエッスンスを取り出すような意識的探求が、「内視」である。外的反省に代えて、事象のさなかで事象との隙間を開き、その事象そのものに内的なエッセンスを取り出すのである。
ところが医療現場での報告には、現れのさまざまな変容が語られている。たとえば脳卒中の急性期には、意識が回復して以降、一時的に左側の視野が欠落してしまうことがある。多くの場合左視野がとても見えにくく、「そこに視線を向けてみて」と促すと、腫物に触られるように慌てて話題を変えようとすることが多い。こうした急性期(発症から1月ほど)では、脳神経系の再生と再編が進んでいるはずであるから、意識そのものの働きも変化を経ているに違いない。患者の多くは、視野の変化について語るが、それに同時にともなっているはずの意識そのものの変化について語るものはまずいない。つまり意識の変化は、事象の変化としてしか出現せず、意識が自分の変化を感じ取ることはまずない。
ところでこうした現れそのものの変化は、他人の報告であり、自分自身の意識経験ではないのだから本当のところは何が起きているか分からないのではないか、すくなとも多くの人には事象として経験できていないのではないか、というもっともらしい言い分もただちに出そうである。しかしそうした直接経験があれば、そこで起きていることの内実を掴まえることができる、というようなものではない。直接経験であるから明晰、十全にわかるということではない。たとえばはじめて逆上がりができるようになったとき、あるいははじめて自転車に乗れるようになったとき、さらには反転図形一方の図から他方の図へとまさに移りゆくことそのもののさなかでは、意識にとっても何が起きているかはよくわからない。直接経験であるから十全にわかるという特権性はない。
経験そのものが形成されるさいには、意識からはほとんど何が起きているのかがわからない。そのときには意識はわかるという働きとは異なることを実行し、みずからを形成するように作動しているからである。私にはある種の感覚的な変化が起き、ひとたび起きれば、自分自身にとってもよくわからない状態に移行してしまうことがある。何度か身体を回転させている間に、突然視界の光の量が一挙に5倍程度になり、すべての音が止み、風景が舞台の書き割りのようになってしまう。こんなことが起きれば、元の状態に戻そうと思っても元に戻るものではない。ともかくも早く家に帰り、眠れるだけ眠るだけである。現れには、不連続と言ってよいほどの変化の可能性があり、それは視点や観点の切り替えのようなものでは到底覆うことはできない。こうした意識の変化そのものは、そうした状態に入ろうと思っても意識の志向性をつうじて入っていくことはできず、ひとたび入ってしまえば元に戻ろうと思っても戻ることはできない。
経験の可能性の条件を吟味し調べるのではなく、経験そのものを拡張していくための条件を吟味し検討するためには、道具立ての選定から行わなければならない。意識でさえみずからの活動の範囲を変えるという位置から検討を加えなければならない。そうなると現象学の道具立ても大幅に拡張しておかなければならない。方法としての経験の仕方を取り出していかなければならないが、それを完備したかたちで提示できるのかどうか不明である。
経験そのものが変化していくとき、意識はその変化を傍観することはできず、少なくとも変化のプロセスのさなかに巻き込まれていく。そうした場面でかつ有効にプロセスに巻き込まれていくような意識の制御の仕方はあるのだろうか。かりにうまくそれを取り出すことができれば、なんらかの意識の制御にかかわる手続きが、方法として取り出せることになる。つまり意識は、いまだ多くの自己制御の仕方を学んでいないというのが実情である。
1 プロセス
いまビーカー内の水溶液から、何らかの理由で結晶化のプロセスが始まった場面を考えてみる。しばらくの間このプロセスは続き、ビーカー内の底に反応産物が析出し、やがて停止する。このとき化学反応式では、反応する化学物質と生成した物質が両端に置かれ、間を矢印で結ぶ方式で表される。出発点と最終産物が取り出され、それらが自動的に進行するプロセスであるかのように描かれている。しかし結晶化は、しばらくおのずと引き続くプロセスであり、こうした反応式にはプロセスが持続的に継続する事態は、どこにも表現されていない。出発点と到達点を指定し、そこに自動的に進行する事態を読み取ることは、アリストテレスと近代科学に共通の特質である。どのような事案であれ、それを到達点との関連で捉えることが、アリストテレスの構想の主要な特質である。また目的への到達をあらかじめ出発点で確保しておくことが、決定論である。エネルギー保存則という大法則があるが、変化の出発点と最終点では、何かが保存される、という確信にもとづいて限界法則として設定された熱力学第一法則である。この保存されるものが、「力」であり、後に「エネルギー」と改称されることになった。しかしその変化のプロセスの内部では、何が起きているのかを語る仕組みはない。マッチを擦れば、摩擦をつうじて火が付くこともあれば、マッチそのものが途中で折れてしまうこともあり、煙が出てはいるが火が付かないこともある。変化のプロセスには多くの事態が生じうるが、出発点と到達点では、エネルギーの保存則が成り立っているはずである。つまり科学法則は、この場合には一種の粗い要約であり、規定すべきものをうまく規定することのできない「過少決定」でしかない。
そこで進行し続けるプロセスを単位にとってみる。このプロセスは次のプロセスに接続する。その場合には、結晶化という事態は、「プロセスが次のプロセスの開始条件となるように接続したプロセスの連鎖」というように設定される。これはおのずと進行する事態を表現している。自己組織化の基本的な定式化にはこうした設定がどこかに含まれることになる。こうした作業を進めながら、システム構想の配置を行ったのが、『オートポイエーシス――第三世代システム』(1995年)である。
しかしこれだけでは足りていない。各プロセスでは、次のプロセスの開始条件となるとともに、プロセスの外に結晶する物質を排出しているはずである。すると個々のプロセスは、次のプロセスに接続する回路と結晶を外に排出する回路の二つが同時に進行していることになる。この場合には、プロセスの継続は結晶を産出するように進んでいるのではない。結晶は、プロセスの継続の副産物として外に排出されるが、どのような意味でもプロセスの継続の目標や目的あるいは到達点ではない。この点でアリストテレスや近代科学とは異なる仕組みとして考えていかなければならない。近代科学は、ある意味で結果に必然的に到達するように出発点を定めている仕組みのことであり、そのことを機械論と呼んでいるが、結果への到達を必然化したもので、アリストテレスの一つの変容態でもある。
また二重に進行している事態を人間の言語を用いて表現することは容易ではない。人間の言語に典型的な線型性によって、二重に進行する事態は、簡単に解きほぐせなくなっている。ここからプロセスにかかわる事象は、二重に進行する事態として考察することが必要になる。この場面で、自己組織化で必要とされる基本的な事態として、「二重作動」という設定を行うことになった。こうした二重作動のモードはかなり多くあり、それぞれに固有の作動のモードとして設定できると思われた。この作業とまとめて行ったのが、『メタモルフォーゼ――オートポイエーシスの核心』(2002年)である。この論理系がうまく設定できれば、弁証法のような言語に無理をかけた記述の様式は不要となる。実は弁証法は、言語的認識の限界にかかわっているのであって、事象そのものの在り方にあまり届いていないと感じられた。人間の言語は、プロセスのさなかにある事象を記述するために適合的なものではない。この点では、弁証法もオートポイエーシスも同じ見解である。ところが弁証法は、言語に無理をかけても新たな表現方法で記述するという方向に進んでいるように見える。つまり言語の限界に言語的な改変で対応していることになる。だがそこで表現されることは、基本的には言語の限界であって、そこで捉えようとしている事象そのものではない。
言語的判断でプロセスを捉える場合には、ある時点での事象の認識は、必ず事象そのものの一面しか捉えることができない。しかしそこから漏れてしまうものを言語的な「否定形」では捉えることができるわけではない。そのことの理由は、否定形が補集合しか捉えることはできず、あまりにも多くのことを含んでしまうことに関連している。運動の弁証法的な記述のなかに現れる「物はある時点である位置を占め、かつ占めない」というとき、占めないという内容には、位置移動も質変化も起滅も含まれる。物はある時点である位置を占め、かつ消滅するというのも、「占めない」という内容には含まれてしまう。肯定形と否定形の間には、多くの隙間がありすぎて、事象そのものを指定するには粗すぎるのである。これに対してオートポイエーシスの展開で主要に論理形式として取り出されるのは、二重作動のさまざまなモードである。こうした点で、オートポイエーシスは、アリストテレス(近代科学)ともヘーゲル的弁証法とも異なる進み方を模索していることになる。
プロセスの捉えかたについて、論理的な否定性を用いないという点では、ドゥルーズの差異の哲学とオートポイエーシスは、共同戦線を形成する。運動や動きは、判断的な認識や言語的記述以前の感覚的確信であるとする点でも同じ考え方をしている。動いているものと静止しているものの区別、生きているものとそうでないものの区別は、ある種の感覚的確信であり、この確信は認識するものの行為と地続きであるとする点も共有している。変化率に直面したとき、それを観察によって捉えるという事態は、特殊な条件下でしか起こらない。背後に急速に迫ってくるトラックの音が聞こえたとき、あと何秒で自分のところまでそのトラックがやってくるかというような認識によって、その音を聞くのではない。むしろ接近の度合いの感じ取りから、道路の端に身を移動させたり、少しだけ道路の端の方に移動したり、身体一つ分だけ身をかわしたりする。変化率は感覚経験としては、緊急性の度合いとして感じ取られており、それに応じた身体的対応は気が付けばすでに行われている。この緊急性の度合いを示すものが「強度」である。感覚を目一杯開いて、運動や動きを感じ取っている経験が前景に出てくる。否定性のような言語的判断は、この場合には出現してくる場所さえない。生きていることと地続きになっている感覚的行為をつうじて同時に経験している事象が、ドゥルーズの設定しているテーマである。
しかしプロセスのなかでは、プロセスの接続点で異なる回路で出現するものがあり、またプロセスのさなかに巻き込まれてしまうような事象もある。その場面では運動や動きを感じ取る感覚や意識さえ変わって行くことがある。その場合にはさらに道具立てを変えていかなければならない。感覚そのものは、不連続に変化する。差異化のなかには、多くのモードが含まれている。とりわけ誰にとっても新たな能力が形成されるさいには、何が起きているかが分からない場面を通過していく。そして哲学にとって最大の課題の一つが能力そのものを拡張することであり、それを認識の条件という局面に仮託して語れば、「経験の可能性の条件」の探求に代えて、「経験の可能性の拡張の条件」を求めるような企てが、前景に出てくる。これこそ新たに自己を形成することであり、オート(自己)ポイエーシス(制作)なのである。
たとえば感覚・知覚では、ヒトデ(放射性動物)とイカ(頭足類)とはまったく異なって見える。ネオダーウィニストであれば、何度も遺伝子の突然変異が起きなければ、両者の間には移り行きはない、ということになるのであろう。アリストテレスやキュビエでは、両者の間には原則移り行きはない。ヒトデの口は、砂浜の方にあり、海水面から見えているのはヒトデの背である。そこで口と背を反対方向に引っ張り(伸長)、5本の足を口の方に折り曲げて、5本の足にそれぞれ中央での切れ目を入れる。このオペレーションは、基本的に力学の範囲内で行ってあり、伸長と圧縮と折り曲げを用いている。すると力学的なオペレーションだけで、ヒトデとイカは変換可能であることになる。つまり座標軸に変換関係を入れておけば、ヒトデとイカは同じ位置に映し出すことができる。ヒトデとイカが、感覚・知覚をつうじて直接同じものに見えることなない。これを現在の知覚の限界だと考えるのである。知覚は相当に信用のおける能力ではあるが、それでも多くの限界に制約されている。知覚そのものの形成がなければ、ヒトデとイカが同類に見えることはないのである。そのためには知覚そのものの形成が課題となる。
哲学は特定の領域をもたない。逆にあらゆる領域に哲学的な探求を導入することもできる。法学には法哲学があり、経営学には経営哲学があり、言語学には言語哲学がある。すると哲学は科学、社会的行為、芸術的制作のような典型的な経験のモードの場面で、固有の領域を形成してきたのである。それが真、善、美という領域である。ところがこれは大まかな区分であり、たとえばリハビリのような領域では、人間再生のための企てがなされ、精神医学では人間の経験の可変性の幅を更新していくような企てがなされている。つまり真、善、美とは異なる探求領域が存在していることになる。たとえばカントの『判断力批判』の前半では美的判断が扱われ、後半では有機体論が扱われている。しかしこれは同じカテゴリー領域に属しているのだろうか。真、善、美以外にも、聖、健康、能力の形成、発達というような事象は、異なるカテゴリー領域だと考えられる。そうなるとそれぞれにおいて哲学的探求は道具立てを更新しながら進むよりないと考えられる。
2 オートポイエーシス
オートポイエーシスは、個体化のプロセスを示したものである。機構全体としては、個体の出現の仕組みである。すでに成立している個体がどのような特徴をもつのかではない。むしろ世界内におのずと不連続点が出現してくる仕組みを示している。もちろんそれが何であるかを知りようがない。知るとは異なる仕組みで出現してくる個体の内実を語ろうとしているのである。
生命は個体の典型例である。しかし地球上以外に生命体が存在する場合には、地球と同じ条件で生命体が存在するとは考えられない。少なくともDNA-タンパク質系で形成されている可能性は低い。その場合には、いったい生命の最低限の必要条件は何かという問いが生じる。素材はいくらでもあり、置き換えることができる。そのため素材とは独立に設定できる原理が求められる。それが「形相」(アリストテレス)もしくは「形式」(カント)である。オートポイエーシスの場合、それを個体化のプロセスだとしたのである。その意義は小さくはない。
たとえばカントが『判断力批判』で取り上げた有機体の3条件がある。(1)部分は相互に原因ともなり結果ともなるようにして、一まとまりの全体となっている。(2)個々の部分は、それぞれ全体との関係をもつ。この2条件では、実は腕時計のような精密機械にも当てはまっている。そこで第三の条件が付け足される。(3)各部分が損傷したとき、それを自分で治す。時計が壊れたとき、それを自分で修復するような時計は存在しない。そうするとこの第三の特徴こそ、有機体を特徴づけるものとなる。カントの議論のなかで、個体そのものの論理的条件を考察したのは、おそらくこの部分だけである。論理的な可能性の条件(必要条件)から考察するカントの議論は、本性上振れ幅の少ない議論であり、危ない箇所を限定していく議論である。それが「批判」という理性による理性の自己吟味の作業である。しかしこの3条件についても、(1)部分の集合そのものはどのようにして決まったのか、部分はつねに総体が原因とも結果ともなるようにして繋がっているのか、すなわちローカル集合が時に応じて形成されては、また別様のローカル集合が形成されるというように、集合の再編が起きる可能性はないのか、(2)部分と全体が繋がるというのは、どのようなカテゴリーなのか、こうしたカテゴリーは悟性のカテゴリーのなかにはなく、また論理関係として定式化するためには、包含関係以外の論理関係が必要になるはずである。(3)損傷したときに自分で治せるのであれば、損傷がなくても現にある部分を作り変えていくほどの変化をもたらす潜在的形成能力が備わっていることになる。かりにそれを積極的に認めれば、個々の個体は種の限界を自動的に超え出てしまうほどの可変性の可能性をもつことになる。しかしカントがそれを認めることができるとはとても思えない。
カントは成立した個体を前にして、個体であるための必要条件を分析している。ところが個体そのものの出現、個体の形成という問題では、別様の論理を用いなければならない。少なくても部分の集合の形成は、要素になるものと要素にならないものをなんらかの仕組みで決めなければならない。その場合、要素と要素でないものを振り分ける高度の原理を持ち込むことなく、それを実行できなければならない。かりにそうした原理を持ち込むなら、あらかじめ個体を担う原理がすでに設定されてしまっていることになる。また要素は、ほとんどの場合、一定期間で摩耗し壊れてしまう。別段部分が損傷しなくても、自動的に一定期間で壊れるのである。すると断続的に要素を補充していく仕組みも必要である。
これらの内容を組み込んで、オートポイエーシスの定義で定式化されたものを図示すると下の図のようになる。ここでの定式化の仕方の特徴は、システムの本体を、プロセスのネットワークだとしていることである。つまり人間の眼に見えるようなものではなく、また特定の空間内に描けば、プロセスの影しか描けないような設定なのである。こうしたプロセスのネットワークから特定の事物が形成される。この場面は、過飽和状態の一面の霧から水滴が一滴析出してくるような場面と同じである。何故、いつ、どこでそうした水滴が出現したのかについては答えようがない。しかし現に起きることである。一般的には、この部分は「産出的因果」と呼ばれるもので、これじたいは産出関係を因果関係になぞらえて命名した誤った名称であるが、産出的因果はどのような解明に対しても、限界を含む。というにも産出は因果的関係ではなく、そこには質変化や起滅が含まれているからである。
しかしこれだけではいまだシステムの要素だとは言えない。産出された要素が、自分自身を生み出したプロセスのネットワーク(システム)を再起動させなければならない。事物的要素が自分自身を生み出したネットワークを再起動させるかどうかが、要素がシステムの構成素になることができるかどうかの分岐点になっている。そのことをつうじて自動的にシステムの要素の範囲が決まる。それによって産出的プロセスとその後の再起動のプロセスのさなかで、おのずと要素の集合が決まる。そこがこのシステムでの個体化の要なのである。
次に空間の問題がある。人間の知は、空間内に事象を描くという視覚と空間に圧倒的に制約されて成立している。空間に配置をあたえ、図柄を描き、それが何であるかを知るということを基本的な手続きとして成立している。そのため空間内に配置できないもの、空間内で形をとることの手前にあるものは、とても捉えにくくなっている。変えなければならないのは、視覚的空間であり、また視覚そのものである。
システム(プロセスのネットワーク)は、いまだ空間内にはない。それの産出する事物をつうじて空間が形成されてくる。事物の張り出す広がりによって、空間の内実が決まる。これは位相空間の設定に似てくる。事物の関係が固有空間を張り出すのであって、あらかじめ設定された空間のなかに事物が出現してくるのではない。こうして張り出された領域が、図の下の自己(Selbst)に相当する。ところがカエルのような両生類は、この自己さえも組み替えてオタマジャクシからカエルに成っていく。ということは生の途上で、みずからの住まう空間そのものを変えてしまうシステムもある。この部分が、オートポイエーシスが圧倒的に多様な応用領域をもつ理由になっている。また機械的に特定の領域で理論の応用のような記述がなされる理由になっている。ここから社会学者のルーマンが、膨大な記述的システム論を展開することになった。しかしこのシステムの機構が、記述という点で威力を発揮するのはシステムの出現と再編の局面であり、システムの自己維持や自己正当化にはこのシステムの機構以外にも、いくらでも説明記述に活用できるものはある。おそらくルーマンの使ったシステム的記述のモデルケースは、法システムであり、しかも実定法以降の法システムである。法はまさにそれが法としてセットアップされることによって法であり、それ以外には法の開始を説明したり、法を根拠づけたりするものは何もない。法はまさにそれが法として設定されることで、特定の固有領域を形成する。
いくつか歴史的な前史について述べておきたい。産出関係を活用する点では、フィヒテの自我論に少々だが似通った仕組みがある。フィヒテは、一切の知識の源泉から知識の出現を解明し、カントに残っている認識する知と実践的な知の分離を克服するという課題のもとで、知の出発点の設定を行おうとしている。それが『全知識学の基礎』の「原則論」で企てられたことである。そこに「自我」(私)が置かれるが、自我は独特の働きである。つまり「自分自身をセットアップする働き」なのである。ここが産出関係が導入されている場面である。セットアップする働き(定立とか措定とか訳されている)が作動して、セットアップされたものも自我である。ここで産出する働きと産出されたものが同一であるという事態が生じる。これが「事行」と呼ばれるものである。どうして産出する働きと産出された自我を同一にしておかなければならないのか。この場面を同一にしておかなければ、基礎づけ基礎の同一性にあまりにも多くの任意性が生じてしまう。この部分が、基礎づけの要請から出ていることは間違いがない。
類似した構想は、初期の自然哲学期のシェリングにも見られる。「精神」の導入に当たって、精神とは、「みずから自身を直観するために、みずから客体になる」という働きとして設定されている。これは定義のように導入されるが、芸術的制作として考えることができる。作品を制作する。ここに産出的働きが含まれている。作品において、自分自身を直観するのである。ところが芸術作品で、自分自身を余すことなく作品に籠めることはできない。そのため客体化するものは精神の一部であり、自分自身の一部しか直観できないことになる。精神は産出する働きであるが、その働きと産出された作品との間には、不均衡状態が残り続ける。つまり産出する働きと産物の間では、同一性は成立せず、事象としては根源的不均衡状態が設定されていることになる。この不均衡状態を有効に活用すれば、不均衡動力学に進むことができる。そこから絶対的産出活動とそれの阻止という不均衡動力学までは容易に移行できる。それが自然哲学全域の基本的な構想をあたえている。しかしこうした仕組みは、どこまでもアナログ的設定であり、根源的産出力から阻止を経て、現実の個物が出現するという構想になる。これに対して、オートポイエーシスの機構は、デジタル的に設定されており、解析力や展開力の点で、オーダーが一段階異なっている。
オートポイエーシスは、個体化のプロセスの定式化であるが、個体化を完了した後の局面では世界内の一個の不連続点になる。そうすると観察者から見たとき、世界内に多くの不連続点が散在しているような外観となる。しかしこれはシステムの外から、複数個のシステムを観望した眺望的な見え姿である。人間の意識が、つねに観察者にもなりうるという能力を備えている以上、オートポイエーシスの存在論は観察された個体の併存のようになる。そしてこうした視点こそ、観察者の視点だとして繰り返し括弧に入れなければならないものであった。観察者の視点で物事を捉えることは、少しでも気を抜いてしまえば意識の本性上避けようがない。それは認識という事態にとっての必要悪でもある。そして外から観望するさいに、個々の個体の配置をあたえるような空間を前提しているのである。この空間さえ括弧入れしてしまわなければならない。こうしてかりにオートポイエーシスにとって「体系」(システム)ということがあるにしても、知にとっての全体図というようなものではなくなる。しかも各システムは、それぞれのシステムの作動によって固有の空間を形作り、それらは時として交叉していたり、内部の一部を共有したまま連動しているような図柄となる。喩えてみれば以下の図のようになる。
そしてこうした図柄さえ括弧に入れて、プロセスのさなかに繰り返し戻っていくことが必要となる。こうした事態を、システム的還元と呼んできた。最低限、それぞれの円環の動きのなかで、他の円環がどのように見えているかを考えてみてほしい。そしてさらにみずからの円環がそれとして出現してくる局面を想起してみてほしい。それがオートポイエーシスの経験なのである。
個体の出現のさいに、同時に位相空間が決まっていく仕組みは、空間の形成を視覚的な配置ではなく、物性と運動から導く点で、デカルトやライプニットの構想と多くの類似点をもつことになった。しかし個体化のプロセスを構想するといくつか解決しなければならない課題が生じた。いま円を描き続けるように走り続ける。これによって閉域が形成され、内と外が分かれる。内から外に向かうさいにも、外から内に向かうさいにも、どこかで円と交叉しなければならない。その意味で円を描くように走り続けることは、内外の区分を行っているということになることは間違いない。このやり方は、スペンサー・ブラウンの代数学でも同じように算法を組み立てることができる。ところで円によって、二つの領域に区分されているが、どちらが内でどちらが外なのだろう。内外の区分が行われていることは間違いない。通常は円で囲まれている側が内で、円の余白を外だと考えがちだが、しかしそれは常識的な思い込みか、視点移動をすでに暗に使っている。円の余白を内だとしてもそうした生命体を構想することは可能である。つまり中空の穴の周辺に部材を形成した生命体は、中空の外が生命体の実質となる。また視点移動を使って内と外を決めている場合には、さらに視点を移動させれば内と外は逆転する。現実的な事物が、視点移動によって内と外を区分しているはずがない。それでは単なる見方の問題に過ぎなくなる。ここに何か実質的な働きがなければ、内と外が実際に決まってこなくなる。この問いに、私はかなりの期間、回答できないまま悩まされることになった。実際には、2000年前後から、2007年あたりまでこの問題には、うまく対応できていなかった。
幾何学や位相空間論を活用したのでは、この問題には有効に応えることはできない。つまり視点移動になってしまうのである。この問題の解決は、リハビリの研究を続けていたことが大きなきっかけとなった。「触覚」こそ、この内外を決めるさいに決定的に効いてくると考えはじめるようになった。物の物性からして物が他の物体に接触するさいには、他の物体を感じ取り、衝突を自分自身で感じ取っているはずである。この両者に含まれる「感じ取る」という語は、とりあえず同じ語を使うしかないが、まったく内容が異なる。身体で物に触るとき、物の手触りの感触(物の触覚的認知)と、物に触っている手そのものの感触(身体内感)はまったく異なっているが、それらは二重に作動して、内外の現実を形成する。物体でもこうしたことが起こり内的に感じ取られた感触は蓄積され、やがて金属疲労のような破壊にまで至ることがある。このあたりから視覚的な認知に代えて、触覚を前景に出した議論を構想するようになった。脳神経系の損傷による疾患(脳卒中、脳血栓、脳梗塞等)では、自分自身の身体の感触が消えてしまっていることがほとんどである。その場合には自然な動きは容易には回復されない。内外の分岐は、境界を引くだけではなく、触覚性の働きを導入しなければならない。
振り返ってみると、生命というとき、本能、衝動、欲動、情動、感情、情感・・・と並べることができるような内発的な活動から生命の本質を考察していく流れは、相当に根強いものがあった。ショーペンハウアーやメルードビランさらにはフロイトやラカンに至る系譜で、生命の本質はこうした本能や衝動に由来するものだとされている。こうした生命の内発性を基本にして構想する場合にはすでに内発的な活動を捉えている。
ところがオートポイエーシスやカオス理論は、運動から生命の出現を捉えようとしている。内発性が問題になる場合には、内が決まってこなければならない。そのため運動から生命の出現を捉える場合には、最初に境界の設定がカテゴリーとして重要になる。細胞膜のように内外の落差を生み出すのである。そのとき内と外を決める仕組みが触覚性のものだとすると、物性のなかに選択的認知(触覚的差異化)と内感の差異化が生まれてこなければならない。この内的な差異化のなかで生まれてくるのが、衝動や欲望のような内的活動の感じ取りである、ということになる。他方触覚的認知は、物の触知のさいに、前方への運動を内在化しているので、感覚と運動がともに作動しながら実行されている。こうしたこととから「認知行為」というカテゴリーを設定し、内感を実践的調整能力だと区分していくような構想を立ち上げたのである。この作業を行ったのが、『システム現象学』(2006年)である。もっともこの着作の段階では、触覚についていまだ明確な議論は出来ていない。これ以降触覚をベースにした議論が、私のなかでは不可欠な部分となっている。
個体が出現したとき、個体にはある種の閉鎖性がある。自分自身を世界内の一個の不連続点へと形成していくのが、個体化のプロセスである。開放性ではなく閉鎖性のあり方が問題となり、開放性と閉鎖性の区別そのものを別のかたちへと展開することが問題となる。そこで個体(自己)と環境との関係は当初より、難題だと覚悟を決めなければならない。しかも事情に応じて、自己と環境との間には、いくつものカテゴリーがあるに違いない。いくつかのカテゴリーに絞って検討してみる。
光や重力は、眼の形成や身体の形成に決定的に効いており、眼や身体にとって不可分である。ゲーテは、眼は光によって光へと形成されると言い、ピアジェは、眼は光を食べると言う。こうした環境条件は、とても情報とは呼べず、情報を読み出すような仕方でシステムと環境はかかわっているのではない。感覚の形成に関与するものは、全般的にそうした傾向をもつ。光、重力、湿度、位置のような環境要件は、身体と身体行為の形成に決定的である。そこでこれらを基本的に、「浸透」というシステム-環境のモードだと規定した。浸透は、システムから見れば、自分自身の延長上にはどのようにしても届かないが、にもかかわらずそれを欠くことができない。これはレヴィナスの言う「他者」である。しかしそれを他者として扱わないで、光、重力、臭い、位置のようなそれぞれにおいて、どのようなかかわりなのかを細かく分析する仕組みを考えたのである。たとえば頭の重さを感じ分けることができなければ乳児は首がすわるようにはならない。重さの感じ取りの細かさが消えてしまうと、滑らかな歩行ができなくなってしまう。軽度脳卒中のような中枢性の疾患では、歩行を制御するさいの身体の重さの感じ取りが細かくならない。位置の指定という感覚の働きが欠落すると、歩行能力はあるのに移動はできないという事態が生じる。人見眞理は、それをランディングサイト喪失群だと呼んだ。
さらに水中で泳ぐさいの身体動作と水のような関係を、「相即」というモードで規定した。泳ぎのモードによって、捉えている水の特性が異なってくるからである。横泳ぎでは、身体の周りに水の動きを作り出し、その動きに身体を乗せて泳ぐような動作である。それに対してクロールでは、水をたたき、水のもつ反発性に働きかけて泳ぐような動作である。環境のなかのどういう特性に対応して動作がなさせるかは、動作のモードに依存している。この動作のモードと特定の環境特性との関係を、相即だと呼んだのである。
そして環境の側がそれとしてシステムの特質をもてば、複数個のシステムが連動するモードとなる。これはオートポイエーシスで規定する「カップリング」である。カップリングは、相互に決定関係のない媒介変数を提供し合っているシステム間の連動状態のことで、とても弱い関係である。また連動の強さも、相当大幅に変化する。各国政府の金利は、中央銀行が決めている。日銀とかニューヨーク連銀の決定会合で決めてある。ほとんどの場合、景気短観という三か月程度の景気動向を聞き取りで調査して、景気が減速傾向にあれば、金利を下げ、景気が過熱気味であれば金利を上げて景気調整を行っている。ところが実際に各種指標の連動関係を調べてみると、金利の動向と失業率が連動していることがわかる。意図して行っている景気調整とは異なり、実質的な連動関係にあるような変数がある。この局面がカップリングである。
この場合失業率が下がりそうになれば、金利を上げて失業率の低下を止め、失業率が上がりそうになると金利を下げて失業率の上昇を止める。つまり中央銀行の金利設定は、一定の失業率を維持する方向で動いている。金利の操作的なオペレーションと失業率の間では、明らかに連動関係がある。この場合労働市場では、同じ給料であればより良い仕事のできる人たちの比率を高め、同じ仕事であればより安く働く人たちの比率を高める方向でのインセンティヴが働く。つまり労働分配率の上昇を抑える方向で働いている。しかしこれは失業率が一定の範囲にある場合だけであり、全般的には4-8%の失業率の場面である。それ以下の失業率では、待てば仕事がある状態であり、それ以上であれば場合によっては暴動に繋がり、別の事態が起きてしまう。連動関係はごく微妙な範囲でだけ起きて、そこを外れるとカップリンが解除され、別の事態が出現してしまう。
通常連動関係が見いだせないところに新たな連動関係が見つかると、それは一つの発見である。ケプラーの三法則は、そうした仕方で見つけた法則である。こうしてみると新たな連動は今後もまだまだ見つかると予想される。オートポイエーシスのような仕組みで考えていくさいには、新たな道具立てで事態を説明することは目指されているのではない。すでに知られていることを別様な記述方法で語ってみるということが目指されているのではないのである。
経験の仕方を代え、別様のまなざしを獲得して、新たな発見や新たな制作の回路に入ることが課題になっている。そのときの踏み出しの導きの手掛かりとなっているのが、オートポイエーシスの仕組みであり、オートポイエーシスの経験だったのである。
参考文献
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