三 疾走しつづけるもの―カップリングの活用
1 終わりを終わりつつけるもの
すでに終わっているものは、どこまでも終わりを終わりつづけなければならない。終わりを終わりつづける行為は、あらかじめ設定された終局へと向かうことではなく、また終局を繰り返し回避しながら、終わることの儀式を可能な限り引き伸ばしていくことでもない。終わりを終わりつづけることは、ひとつの際限のない行為であり、純粋な動きである。これは人や街や社会へと背を向けたまま、何かに導かれるよう進みつづける宿命とも、あらゆる生の営みに頓挫したまま、ただ前に進むことだけが残された道であるという自意識の説得とも無縁である。
終わりを終わりつづけることは、極限の経験ではない。それはどこまでもそこに向かいつづけるものの、ついに到達することのできない極限に立ちつくすことではない。極限ではあらゆる行為は単純なものであり、ひとつの要約としてみえてしまう。というのも極限は、際限のない同じ問いの繰り返しをつうじて、あらゆる回答にたいして異を唱えうる救済された疑問の場だからである。
だから終わりを終わりつづけることは、ひとつの確かな生の営みであり、この時作品の開始も結末も一つの偶然でしかない。そのためたとえどのような偶然で開始されようと、理由や根拠もなければ、作為や唐突さもない。「結局…おればバカだ。結局・・・やらなくちゃならないならやるべきだ。」「結局」という終わりの位置から、「やるべきだ」という選択が生まれる。だが何をするわけでもなく、何に向かって行うわけでもない。気がつけば、終わりを終わりつづけることを開始しているのであり、ここにはいっさいの理由を欠いた自然さと純粋な動きの開始だけがある。それと同じように「二〇世紀の暮れ方」、仕事を終えた「白痴の家の電話が鳴る。」ある終わりの場所から、開始を告げる電話が鳴る。終わりを終わりつづけることは、否応なく死へと向かうことではなく、死にあらがいつづけることでもない。終わりを終わりつづけるものにとって、死はここでもまた一つの偶然でしかない。事故でもよければ、強制的な中断でもよく、警官による射殺でもよいし、<蟻>のように「夕暮れの太陽へと向かうひたすらな情熱」でもよい。
終わりを終わりつづける行為は、死へと向かう衝動と見まがうはどである。車を盗み、警官を撃ち殺し、女から金を盗み、女を口説きつづけるミシェル(ベルモンド)の一連の行為は、ただ死にたがっているだけのようにみえる。作品の製作にいきづまり、蝉のように草を刈り、キャディーのかたわらひたすら本を読み、日常のなかにいて不可解な形而上学を語りつづけることによって列車で刑場へと連れていかれ、生と死の縁である海辺の窓辺に立ちすくむ<蟻>も、ただ死の本能へと向かいつづけるようにみえる。だが終わりを終わりつづけるものにとって、死とは終わる行為の象徴でもなければ行為を駆り立てる動機でもない。むしろ現実の死はいつも突然であり、しかもすべてあらかじめそうなるかのような自然さをもった突然である。ミシェルは屈託も躊躇もなく終わりを終わりつづけ、<蟻>は終わってしまう一歩手前でなおもがくように終わりを終わりつづける。それはただひたすらな純粋な動きである。
そのため死についての数多くのモノローグは、ことごとく過剰さを持ち合わせてしまう。「死は光への歩みだ/死の縁に行った者、それに似たところに行った者には分かる。」語りはどこまでも、行為を極限へと射影してしまう。そのため語りと行為のあいだにズレが生じるのはむしろ自明のことだ。ゴタールは、映像と語りとのあいだに、差異につぐ差異をつくりだしたのではない。語りは語りそのものの本性上、映像からのズレを学んでしまう。だからこのズレを一つの技術として、積極的に活用することができる。終わりを終わりつづけるものにとって、語ることは、そうするしかないようなどこか無理やりな要約に似てしまう。しかもこの語ることの無理やりさには行為の反復を一点に凝縮するような、はじけるほどの強烈な動きが閉じ込められる。ゴダールは、このことを本能的にかぎとっていただけではなく、表現の技法として繰り返しもちいている。つまり語りは語りの系列だけを形成し、映像は映像の系列だけを形成し、音は音の系列だけを形成するのである。作動する映像と語りはどのようにしても和解できないだけでなく、むしろそれをひとつの積極抑な表現の技法として活用したのである。
終わりを終わりつづけるものにとって、どのような行為の選択をしようと、すべては等価な行為の要素である。制限速度を無視して前の車を追い抜き、安宿の鍵を拝借して女の部屋に入り込み、街路を歩くフランス女のスカートをめくり、さらに新たに車を盗み替えようと、それぞれの行為には当為も禁止もない。ミシェルは逸脱しつづけるアウトローとしてアモルフでどのような形ももたないものとして描かれているのではない。無法の行為であれば、チンビラ・ギャング映画よりも、周到に用意された銀行強盗や大掛かりな爆破事件を用いたほうがよい。また無定形な自己を描くのであれば、音だけを基調にして曖昧でアモルフな表情の映像を断片化して配列したはうがよい。むしろ終わりを終わりつづけるものは、昼日中交通規則にそって走りつづける大多数の車を蹴散らしながら、先触れのけたたましい信号音を発して、疾走していく消防車やパトカーに似ている。他の車をのけぞらせ、脇へと追いやりながら、ただ一人疾走しつづけるものである。これを合法と不法の境界を、自由と宿命の境界を、規則と逸脱との境界を疾走しつづけること、というわけにはいかない。疾走しつづけるものは、ただその行為をつうじてみずからの境界を産出しつづけるだけであり、その境界がなんであるか知りようがない。追憶をもたない以上、自己の境界の軌跡を振り返って見ることもしない。それがミシェル(ジャン・ポール・ベルモント)の快感であり、作品の快感である。
終わりを終わりつづけるものを軸にした二つの作品『勝手にしやがれ』と『右側に気をつけろ』は、それぞれ固有の速度をもつ。ミシェルは回りの者をとまどわせるはどの快速の疾走者であり、<蟻>は遅速でもつれてゆくばかりである。疾走者のあらゆる行為は、速度が維持されることだけで連接している。このとき速度を維持することのできる行為は、どのようなものでも接続可能である。速度さえ維持できれば、ショットは自在に分断可能になる。作品の経験はもはや意味によって連接しているのではない。意味とは作動する経験を、一つの時点での静止画像に投影したものにすぎない。だから意味はつねに粗い要約である。
ゴダールは、しばしば意味の流れを切断し、切り替え、断片化し、それぞれのショットの直接性だけを配置しつづけると言われる。あるいはそのつどデコンストラクションを繰り返しつづけると言い替えてもよい。そしてそこに意味の堆積を断ち切る戦略的映画監督のイメージが作り出される。だが作品にどのような意図を込めようと、作品は作動する経験そのものの持続によって形成されるのであり、込められた意図と無関係になってしまうこともあれば、その意図が全編にわたって染み込んでいることも、かろうじて作品総体のきつかけになっていることもある。
作品は意味のつながりで連接するのではない。速度を維持し同じ速度を組続することのできるショットであれば、自在に接続可能である。ゴダールはそのようにして作品の経験は作動しうることを繰り返し示し続けている。これは経験のあらたな接続の技法であり、ゴダールは作品というシステムのあらたな作動様式を開発したのである。これを反物語とも、脱物語ともいうわけにはいかない。しかも各場面に導入される音は、場面の意味ではなく場面のもつ速度に対応して導入されている。意味の流れの切断、切り替え、断片化は、こうしたシステムの作動様式の一つの結果にすぎない。断片の直接性の配置は、要約済みの物語の提供を拒みながらなおそれを待ち焦がれている観客にとって、いつも期待を裏切る衝撃として機能しているだけである。
終わりを終わりつづけることを軸に据えた作品は、独特の物語性をもつ。作品はどこで開始されてもよく、どこで終わることもできる。意味上いつも終わりつづけているものが描かれるのだから、この物語性は開始することの機構も、終結することの機構も含まず、ただ作動を繰り返すことができればよい。ただ作品の経験の作動のなかに、終わることの予感のようなものは含まれている。ミシェルが口説きつづけていたアメリカからの留学生パトリシア(ジーン・セバーグ)が、パリ警察の刑事からあの男は殺人犯だと聞かされ、今度あったら密告するようにと諭されて以降、作品の作動の速度は加速する。窓を落ちる小さな水滴が、なにかのきっかけで一つになり一挙に急速に落ち始めるのに似ている。それまでなにひとつ了解がなく、たがいに自分のことしか語らず、それでも会話というものは成立するという不思議な作動をしていた二人が、たがいに他を加速しつづけるような共作動を開始してしまう。切れたような逃避行である。この作品の作動の速度の変化は、なにかが終わるという予感を抱かせる。事実作品はこの後ストーリーの急速な展開をみせ、収束感のないまま終わる。同じようにして『右側に気をつけろ』では、あれほどあがきつづけていた<蟻>の行為が同じ一点をグルグル回るように急速に減速し、語りはリフレインばかりを繰り返す。海辺の窓からさしこむ夕日がいつまでも鈍く赤い。そして途切れるようにして作品は終わる。
さらに『勝手にしやがれ』では、速度を維持しながら作動するショットの間に予感のようにして動きを引き寄せていく発話を織り込んでいる。物語る発話行為は本来、会話者の間でのそこに居合わせないものについての語りであり、その場の状況と切り離されたものについての語りである。それ以外の発話は直接的なコミュニケーションである。ところがこの物語的発話の内容が、作動する経験に予感のようなものをひきおこす。登場人物の物語的発話をつうじて、作動の経験を繰り返し二重化していく。これは予言とは異なる。おもしろ半分につぶやいた駄ジャレが、予期しないまま動きをひきよせていくのである。ミシェルがパトリシアを口説きながら、一つの新聞記事を語って聞かせる。「バスの車掌が一人の女の子の気をひくために、五百万盗んだんだ。男は金持ちの興業主になりすましてたんだな。連中は一緒に南仏へ行った。三日で五百万フランの散財だ。それでも男は気を落とさなかった。『あれは盗んだ金だ。俺はやくざだ。でもお前を愛してるぜ』ってね。女が男を見捨てなかったのはイカスじやないか。「私もよ』って女は言ったんだ。連中はパリに帰って来た・・。バシリーの別荘へ押し込んでとっつかまった。女のほうは見張りをやってたんだ…・。いい女じやないか。」どこにでもころがっている口説きの常套句のようにみえる。だがこれが終わりを終わりつづけるものの語る行為として、作品の一ショットに据えられると、総統する行為の予感として位置づいてしまう。この予感は予感という行為の本性と同じように、半ばあたり、半ばはずれるのである。
2 映像 音 語り
物語は、それがどのようなものであれ基本的に「開始」と「移行」と「終わり」をもつ。このあっけにとられるほどの単純な規定のもとに、あらゆる作品は試行錯誤する。始まりはどのようにして始まることができ、終わりはどのようにして終わることができ、そして移行はどのようにして作動しうるか、というようにである。『勝手にしやがれ』は、終わりを終わりつづけるものを軸にすることで、純粋な動きを描くという異種の物語への回路を提示することができた。ところが終わりを終わりつづけるものと対照的に、始まりを始めつづけるものを描くこともできるはずである。そしてただ移行するだけのものも。『右側に気をつけろ』は、物語の「開始」と「移行」と「終わり」という、ひびわれのように小さく空いた裂け目を描写力の腕力でバラバラにはぐしてしまう。だから『右側に気をつけろ』は『勝手にしやがれ』の複雑な応用編なのである。
ゴダールはこの作品で「開始」と「移行」と「終わり」というそれぞれの場面を、独立したショットの系列に割り振ってしまう。始まり以前を繰り返し始めつづけるミユージシヤンによる作曲の風景、作成した映画を夕方までに首都に届けるためにただ移行するだけの白痴殿下、おそらくなにひとつまっとうな成果を残せないまま、終わってしまう一歩手前で終わりを終わりつづけている<蟻>を、オムニバスのように独立したショットの系列にしたのである。始まりはどこまでも始まりつづけるだけであり、終わりはどこまでも終わりつづけるだけである。そしてそれらを自在に連接している。
このショットの分断によって、物語の三要素を拡大銃にかけ、それらを独立の動きそのものとして取り出したために、そこにあらゆる詩的語りを導入することが可能になっている。時間的な流れのなかにある、「開始」と「移行」と「終わり」は、この時間の流れから断ち切られて、ただ開始するだけの動きとして、移行する動きとして、終わりつづける動きとしてある。この時間的な流れから断ち切られた純粋な効きの力感に、詩的な語りが呼び込まれている。物語のもっとも基本的な要素が解体されても、なお作品は作動しうる。これはどのようにして可能になるのか。
物語の三要素は本来明確な区切りをもたず、意図的に区別しない限り、なだらかに接続している。→般の物語において、どこまでが始まりで、どこからが終わりだという区別が存在するわけではない。それらを別のショットの系列に区分したとき、ミユージシャンに託して描かれている「始まり」は、潜在的な可能性となって「移行」にも、「終わり」にも含まれている。「移行」にも繰り返し「始まり」の余韻が残りつづけ、「終わり」にあってさえ、再生のように「始まり」は宿りつづける。「移行」のショットの系列からみれば、そのショットの系列のつくりだす境界にたいして、「始まり」は内部も外部もないというように浸透しており、「終わり」の系列からみれば、この系列のつくりだすショットの境界にたいして、やはり「始まり」は内部も外部もないというように浸透している。そのため終わりを終わりつづける<蟻>にとって、「始まり」は再生の予感、誕生への回帰のように浸透している。作品の最終場面で生と死を区切る窓辺にたたずみ、終わりが終わりに近づく予感のなかで、ひょつとしてこれは<蟻>にとっての再生の始まりではないかと感じさせる場面がある。終わりを終わりつづけることに、始まりを始めつづけることが、全面的に漫透している。
「始まり」と「移行」と「終わり」を別系列のショットに区分したとき、それらは相互に浸透しあっている。そのためある系列にあたえられた語りは、そのまま他の系列へと浸透していくことができる。「言葉になるよりも以前に蘇生している創造/変身の神秘に関わりをもつもの/反抗を超えて、和解を超えて。」「時の古層からの創造/無の世界ではわずかな創造も奇跡となる。」「記憶にある無の世界では、さきやかな愛の振動さえ受難におとらず神秘的だった。」これらは始まりを始めつづけるものたちに託された語りであるが、そのまま終わりを終わりつづける<蟻>に漢透している。ミユージシャンたちはこれらの言葉を生きており、<犠>は遠い記憶として、あるいはひょつとしてやってくるかもしれない予感として感知している。「始まり」と「移行」と「終わり」の相互浸透が、ショットの系列の間の連接を支えている第一の理由である。
この作品は見かけ上三人の主人公、作曲するリタ・ミツコ、映画の製作でもっとも大変だというフィルムの運搬を行うだけの白痴殿下、たださわぎあがくだけの(壊)を別系列の物語に仕上げているようにみえる。しかしどのように人物のアップを写そうとも、メガネやギターや小型飛行機の窓ガラスにカメラの焦点をあわせる映像にとって、ほんとうのところ人物は物の環境でしかない。ここでは人物を物のような直接性で撮っているのではない。意味を剥き出しにし、意味を剥ぎ取った物の直接性で人物を措いているのではない。映像の焦点は、物に向けられている。物に焦点を向け、物がそれとして存在することの物の地平のように人物を撮っている。物にしみこむように、人間がなだらかに裾野のように広がっているだけだ。物がそれとして存在することの環境が人間である。物の位置から物そのものの存在をとらえると、物にたいして人間は環境となり、物に漠透している。ゴダールの映像がきわだった直接性をもつのは、このためである。だから主人公で系列をつくることはただちに挫折する。光の満ち溢れる青空は、ミュージシャンたちも機内の白痴殿下も<蟻>をも環境とすることができる。空にたいして、作他の行為も、機内の老婆との会話も、<蟻>の独白も等価な環境となって漠透している。そのため主人公の閤のショットの移行は無理のない範囲で自在に行うことができる。これがショットの系列の間の連接を支える第二の理由である。
映像にはきわだった二つの要素がある。光と重力である。光は画面の奥手に光源を置き、手前を陰にするように配置される。森の開けたさきから光はさしこみ、生と死の境の窓の奥から光はさしこむ。他方重力は映像によって直接写し取ることができない。だがドイツの森とイタリアの湖のあいだを低空飛行の飛行機から写し取った地上の映像は、カメラの位置がそのまま重力を感じさせる。ゴルフ場の芝生から木々の若葉をへて上空の光のなかヘカメラが移動して行くとき、この視点の移動に重力が感得できる。
ここでは光は粒子でも波動でもなく、可視的な明るさであり、闇とは可視的な陰りである。これはゲーテがもちいた光と闇の意味である。重力は万有引力定数によって表される力の度合いのことではなく、身体がそれとして不透明さをもちつづける根済的な身体感覚のことである。だから人は空中に浮遊する夢を見つづける。光と重力は物ではない。だが作用といえるほビ対象化できるものでもない。光と重力は、ただ触覚的な感知によって触知されるだけであり、人間の感覚に距離をとりようのないほど漫透している。光と重力は空間内に満ちみちているというのでもない。むしろこれらの触知されるひろがりを空間という。ゴダールの映像はこの形なくひろがる根源的感覚に触れている。映像が物体も人間も含まず、一筋の飛行機雲だけの青空であっても、充満という感覚に浸されているのはこのためである。遠近法を獲得してしまった近代絵画は、アンリ・ルソーやゴッホのような例外を除き、遠近法の稜線の外を空白にせざるをえない。そのためひどく隙間の多い画像になる。方法的に制御される空間は算困である。だが逆に方法的制御なしでは、大半の企ては失敗する。ゴダールの映像は、光と重力に触れることによって、ただひたすら全面充満している。だからここに得意のギャグやジョークがもちこまれれば、騒々しいほどだ。
映像に光と重力の二要素を多用することによって、映像にたいして音や語りが自在な津透の関係にはいる。音や語りからみれば、光と重力はそれらが作動する場のようなものだからだ。音はそれらが始原から沸き上がって行くとき、いつも重力にあらがい、重力のしこりを残したまま、次の音に連接される。だから重さのないものにも量の限度はある。光はすべての動きの媒体であり、死さえも光への歩みとなる。光からみれば、音は奥行きに置かれた光源へと向かって沸き上がり、言葉は光のなかから染み出してくる黙示のようなものだ。字幕を介して言葉を読むなら、文字は太陽の黒点のようなものだ。
音は、いつも始まりの始まりから発するものの、音はそれじたいによって一つの系列を作り、他のものを環境とする。ミュージシャンの作曲音によって、ミユージシャン自身も環境に区分される。産出された音は、それにどのような意図を込めたかには関わりがないからである。ミュージシャンの一人の「今、乗れている」というつぶやきが、かすかにそれらを繋いでいる。音が音をひきおこし、音の系列を形成すると、音はミュージシャンも白痴殿下も<蟻>をも環境とする。だから音の作動のなかで、ミユージシャンのショットから<蟻>のショットヘ移行することは自在である。音の起源はミユージシャンショットの系列に託されているものの、ひとたびそれとして産出されれば、映像と語りのすべてを環境とする。
さらに言葉にも同じことが当てはまっている。語りの言葉はあたうかぎり詩的趣味に訴えて、語りの系列を作っている。言葉が本歌取りかどうかには大きな問題はない。言葉が無理なく次の言葉をひきおこすよう、一定の凝縮度とテンションを維持できれば、どのような語りの言葉も等価である。どのような言葉の意味も、コミュニケーションの連鎖のなかでそのつどの言明の産出行為をつうじて形成される。だから確定した意味など存在しようもなく、本歌取りで変容させるべき意味も存在しない。語りの産出をつうじて意味がわずかなりとも確定していくだけである。この言葉の系列にたいして、どの映像も環境に区分される。「自由になれ、形態から、宿命、偶然、夢から、そして自分自身から。」創造的な産出にまつわるこの語りは、ショート・パンツからお尻のはみだした後ろ姿にも、キャディーをやる<蟻>のうつろな表情にも、若葉の背後に抜けるようにひろがる青空にも対応させることができる。言葉のもつ対応の自在さは、言葉の産出プロセスから見る限り、映像や音をみずからの環境に区分してしまうことによっている。
ゴダールの言う「『右側に気をつけろ』は三度見る必要がある」というのは、ほんとうである。音の位置に視点をいれて、そこから映像や言葉をみる。あるいは映像の位置に視点をいれて、そこから音や言葉をみる。さらに言葉の位置から、映像や音をみる。この三種の作業でゴダールの経験がどのように作動しているかがつかめるはずである。このことによって感覚の間の相互の浸透関係とショットの切り替えの自在さを、作動する経験としてつかむことができるはずである。音と映像と言葉という、基本的にいっさいの必然的関係を欠いた、三種のシステムがたがいに他を環境とするように、作動しつづけている。この三種の相互浸透のあいだを、疾走しつづけるゴダールの経験が作動している。相互浸透している経験をつぎつぎと切り替えて行く作品の作動のなかに、動きと光と重力が前景となり媒体となって脈打っていることがわかる。これらはいまなおどのような経験知によっても解明されることのない根源的感覚であり、『右側に気をつけろ』はショットの系列の作動をつうじて、これらに触れつづけているのである。この作品は物語の三要素と音、映像、語りという作品の三要素との二重の相互浸透をもちいて、ショットを自在に切り替えながら、なお一つの作品としてまとまりうることの可能性を示しつづけているのである。
これらの作品を見終わると、身体に運動の後のような余韻が残っていることがわかる。この運動の残響は、作品を動くゴダールの疾走の響きではない。全身の局所のタガが緩み、いたる局所が締まりなくフライングしている感覚に近い。これはいったいなにに由来するのか。おそらく以下のようなことである。感覚質は、基本的に相互につながる必然性をもたない。しかも二つの感覚質を貫く第三項は存在しない。第三項が介在することなく、それぞれが密接に接続するところが、カップリングである。カップリングには強い連動から弱い連動まで、連動の度合いに開閉がある。ゴダールの作品には、ぴったりと一致する音、映像、語りの接続と、無理に解釈しない限りつながらないものまで連動の度合いにばらつきがある。このばらつきを直観的に感知しているのである。
すこしトレーニングしてみる。いまフォットボールを押しつぶしたようなゴムの葉っぱをイメージする。緑の色のついた変形楕円の葉っぱである。緑の色と変形楕円が結びつく必然はどこにもない。試みに変形楕円の形だけを残して、色を一〇cm上方に持ち上げてみる。知覚の操作によって可能なはずである。とすると色と形は分離可能である。しかも色と形を結びつけるとき、絵を描くときのようにまず形を描き、そこに緑の色を塗るようにして、ゴムの葉っぱの色と形を重ねているはずはない。色と形のつながりを、現象学に倣って「原連合」と呼んでも、そのことで特段に何かがわかったような気もしない。つまり別々のものを主観の構成能でつないでいるとは思えないのである。そうした経験領域の接続が問題になっている。質の異なるものの接続は、知覚以前の感覚に属しており、つながる理由もないのに現にすでにつながっている。このつながりを支えるものを、現在の経験知には見出すことができない。すくなくても外延量として取り出しうるものではない。そこでこれを強度(内包量)と呼ぶことにする。強度は、感覚が相互につながるさいの運動感と連動している。というのも感覚相互は、それぞれ独立の認知機能をもつが、それぞれの認知機能で接続することはありえないからである。色の認知が、この認知機能によって特定の形とつながることは考えられない。感覚質が相互に接続するさいには、感覚のもつ運動感を引き起こす理由がここにある。ゴダールの作品は、カップリングの経験を修得するさいの格好の題材なのである。
3 発話
それにしても作品の人物たちの発する言葉は、なぜもこう独白ばかりなのか。言葉が対象とのつながりでも、人称的他者に向けられる会話内での接続でも、必然的なものはなにもないことになると、言葉は言葉だけに接続するようになる。このことは『勝手にしやがれ』ですでにあらわれている。ミシェルとパトリシアのにわかラヴ・ストーリー仕立ての会話は、それぞれが自分のことしか語らないだけではなく、それぞれが自分の言葉に言葉を接続させるようにしか、発話していない。まるでふたつの独白が接触した歯車のように、交互に繰り返される。話がかみ合っていないのではない。かみ合ってはいるがそれぞれが別個の作動をしているのである。会話はたまたま接触している歯車のように交互に繰り返される。だがそれぞれの歯車は、みずからの作動を行っているだけである。
パトリシアが新聞記者に会いにいくために、ここで別れなければならないと言い、ミシェルは自分の車で送ると言う。ミシェルはそのためまた車を盗んで来なければならない。盗んだ車でリボリ通りを走る場面の会話は次のようになっている。「フォードはどうしたの? 売っちゃつた?」「ガレージだ。いいじやないか、俺はおまえといるぜ。」「頭痛がするの。」「寝なくてもいいよ、お前のそばにいたいんだ。」「そんなことじやないのよ、ミシェル。」……「どうして悲しいの?」「どうしてもだ、悲しい。」「馬鹿げてる。」「ほんとに悲しい。」「どうしてほんとに悲しいのよ?……あなたと言った方がいい、あんたと言った方がいい?」/「同じことさ、君なしじゃいられないんだ。」「いられるくせに。」「そうだけど、そうしたくないんだ。見ろよ、タルポだ、みごとだな、二・五リットル。」「あんたって子供よ。」/「なんだって?」/「わかんない」。「勝手にしやがれ』では、密接なように見えて埋まらない溝を含みつづけ、突然合体したかと思えばなおギタシヤクしつづける会話が断続している。それぞれの発話はみずからの言葉に、次の言葉を接続するようにしか作動していない。ミシェルは上の空で「君といたい」の連続である。パトリシアは新聞社のことを気にかけながら、自分に起こる感覚や感情をつぎつぎ表現しているだけである。それでもなお発話は継続する。この不思議な間隔の独自の間合いが、『勝手にしやがれ』から染み出している情感の内実である。
そして作品の最終場面でこの事態は一挙にあきらかになる。刑事に銃で撃たれて路上に横たわったミシェルが俗語で「最低だ」とつぶやく。パトリシアが「なんて言ったの」と聞き返す。駆けつけていた刑事が、ミシェルを密告した「あんたはまったく最低だ、と言いましたよ」という。左手で顔半分を震っていたパトリシアは「最低ってどういうこと」とうめくようにつぶやく。事態はそれぞれに最低であり、同じ「最低」という言葉に突き当たったとき、それぞれが別々のみずからの言葉を語りつづけていたことが露呈してしまう。だが起こつた事態はやはりそれぞれに最低だったのである。
こうした事態は、むしろ異なる周期をもった複数のメトロノームに似ている。それぞれが固有の周期で作動しながら、時としてたまたま同調し、またそれぞれの周期に応じて隔たっていく。そして結末でたまたま同調が起こつてしまう。だがその同調がなにを意味するのか、行為者にはついにわからないまま、同調という事実だけが残ってしまうのである。『右側に気をつけろ』では、この独白という事態はさらに拡大されている。白痴殿下を運ぶ飛行機に乗り合わせた乗客は、ことごとくそれぞれの移動をしている。彼らが発話する言葉は、なにに向かって語られるわけでもなければ、なにを描こうとしているのでもない。ただ言葉が言葉に連接していくだけである。だから見かけ上ファナティカ、夢幻性妄想、憂鬱型妄想、演説狂のような典型例が登場している。だが言葉がプロセスや作動を一瞬の強度へと凝縮してしまい、それをつうじて言葉が言葉にしか接続できないのであれば、語ることには避けがたい極性化がふくまれてしまう。言葉は本性上いつも極端なものしか語れない。その点で言葉はいつもいくぶんか、呪いをふくんでしまう。それと同時に言葉は作動やプロセスを隠蔽してしまう。ゴダールはショットの場の設定をつうじて、この言葉のもつ極性化を浮かび上がらせる。「無念なり、いかなる宿命か/恋ゆえの無慈悲な女に/我が定めをだれが知る/我が求むるは生か死か」。これが舞台のセリフであれば、役者がうつむきかげんに正面を切り、全身にカを込めて語るところである。だがこれは空港の搭乗カウンターのコンピュータ処理をおこなう事務職員にむかって語られる。もちろんだれも聞いてはいない。こういう言葉はただそうするのが似つかわしいだけである。すくなくとも小さく笑いながら聞き流すことができる。発話では言葉のテンションによって、ショットの速度を調整することができる。このセリフは緊張度をあげたまま、待ち切れないような間延びした持続をつくりだす。
飛行機のなかで、スポーツ紙に興じるビジネスマンと神の死ばかり語る男が隣り合わせで、次のような会話をしている。「当今の個人主義が五月革命に由来するとする説はあやまった解釈だ、真の原因は内在的敗北にある。」「それ軍事雑誌?」「このレンドルの顔、それにこのルコントの顔。」「神はどこに? 答えがほしいのか、殺したのか君と僕とで、我々みんなで殺した。」「戦争がなんです、弾丸もテニスの球もかわらんよ。」/「でもしかしなぜ海を飲み込んだ? だれの許しで地平線を消したのか、地から陽をひきはがして何をした」。ここまでくれば、すでに快速のドタバタである。それぞれがみずからの言葉をみずからに引き継ぎ、円を描くように発話し、一瞬接点ができたと思えばただちに隔たって行く。猛烈に駆け抜けて、相互にただ言ってみただけである。ここではナレーションによる語りの速度より速くなっており、加速した持続をつくりだしている。
白痴殿下は白痴にふさわしく、意味ありげな不明なことを言う。「離陸はつねに悲しいものです…・・・夕暮れがせまろうとして闇が支配し始め、時の呼吸が弱まり、孤独が孤独に耐えられなくなるとき、…異なる時間が重なるときがある、時は垂直に、感情に反転性があるために、存在の反転性が感情化されるのです」。気持ちはわかる、とだけ言うのがふさわしい発話である。たとえ解釈に解釈を重ねたとしても、事態が改善する見込はないからである。この発話は、ナレーションの語りと同じテンションと速度をもっている。
それにしてもなぜこうも人は語らなければならないのか。言葉を越え出て行くために、言葉によって言葉を焼き厚くすと答えても、言葉の系列を閉じさせてその外へと出て行くと答えても、うまく当たっていないように思える。すでに言葉は現実からも人称的他者からも解放されており、その逆も言えるからである。呪いをふくんだ言葉を解毒するためにというわけにもいかない。すでに言葉で正面を切ることが禁じられて久しいからである。人間は言葉ではわかりあえないというのも無効である。発話が次の発話に連接するよう作動するとき、そのことによってここでもまた人間は発話の連鎖の環境になってしまう。つまりわかりあえるとは何かが、すでに難題である。
発話には、次ぎの発話に接続する運動性の作動回路と、行為と意味の分岐線を形成する、運動と認知との分離の地点そのものから出現する回路がある。発話においてつねに行為と意味とが分岐する。この分岐の地点にあって意味が不明なとき、行為と意味との接続を支えている強度が再度出現する。
発話の速度は作品の作動の速度を大幅に規定してしまう。込み合った会話であれば、作品の速度は急速に減速し、ただ言っただけの会話であれば相互に加速しあうように進行する。作品の作動からみれば、発話は各所に配置されたさまざまな周期のメトロノームのようなものだ。光に満ちた大気のなかを無数の透明なメトロノームがみずからの時を刻みつづけている。それぞれが固有の周期で時を刻み、時として同調しまた隔たっていく。この時の刻みのなかを自在に加速や減速を行いながら、疾走しつづける経験が走り抜けて行く。
参考文敵
ゴダール『ゴタール全集1ゴタール全シナリオ集』(一九七〇、竹内書店)
ゴダール『ゴダール全集4ゴタール全エッセイ集」(一九七〇、竹内書店)
ゴダール『ゴダールの決別』(一九九四、寺尾次郎訳、角川書店)
梶原和男『ゴダールの全映画』(一九八三、芳賀書店)
蓮見重彦『シネマの記憶装置』(一九七九、フィルムアート社)