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サイコパス・ハーフ・エクストラ
――社会的病理

河本英夫

 サイコパス(精神病質)は、いまだ精神医学的な規定も明確になっていない病態である。犯罪者のなかにも一定頻度で含まれているが、犯罪者であるからサイコパスであるわけではない。逆にサイコパスだから犯罪者というわけでもない。だがいくつかの理由からサイコパスは、なんのためらいもなく、またいささか唐突に、犯罪に踏み込んでしまう。また人格障害(社会的適応障害)ではあるが、明確に責任能力はある。犯罪そのもののもみ消しも画策する程度には、犯罪もしくは犯罪状態への対応能力はある。
 ロバート・D・ヘアは、心裡家として刑務所で面談を行ううちに、奇妙な犯罪者の一群がいることに気づくようになった。そして統計的に多くの精神疾患の症例を集めて、そこからいくつかの特徴的な指標を取り出したのである。それによってサイコパスの輪郭は、かなり明らかになった。ところがヘアの資料は、すでに犯罪者と認定されているものから多くのデータを収集しており、サイコパスのなかでも特異な一群の症例を扱っている印象を受ける。この病態は、多くの症例から詳細な分析を行わねばならない。というのもサイコパスは犯罪にかわかる頻度が高く、かつ周囲の人が犯罪に巻き込まれる頻度も高い以上、できる限り多くの人に理解可能なレベルまで病態に届かせなければならないからである。たとえばヘアの記述に以下のようなものがある。

 レイ(仮称)は、私ばかりか誰をも欺く信じられない才能をもっていた。おしゃべりがうまく、嘘もかんたんにつき、それがあまりに流暢だったり素直だったりするので、ときにはもっとも経験豊かで猜疑心の強い刑務所職員でさえいっとき警戒を解いてしまうほどだった。私が会ったときには、前科がいっぱいあり(あとでわかったことだが、その後も前科がふえつづけた)、成人してからの人生の半分以上を刑務所で過ごし、しかもその犯罪の多くは凶暴なものだった。それでも彼は、更生する用意があることを私や私などより経験豊かな人たちに納得させ、打ち込めるものを見つけたので犯罪に対する興味が完全に薄れたと信じこませた。レイは果てしなく、のらくらと、あらゆることについて嘘をついた。嘘と矛盾する点をファイルに見つけてそれを指摘しても、彼は少しも悪びれなかった。あっさりと話題を変え、まったくちがう方向に話をもっていった。

 こういう風に描かれると、ただのおしゃべりで嘘つきで、ペテン師のように読めてしまう。そして誰しも身近にもそうした人がいる、と思い起こされる。ただしそのとき思い起こされているのは、ほとんどサイコパスではない。サイコパスの難しさは、一つ一つの特徴を取り出すとその程度の人間なら身の回りにもいると思い当たることである。そしてそれによって理解しやすい人間類型へと接続して、誰しもわかった気になれるのである。そして特徴として取り出されるものを列挙すると、「口達者で皮相的」「自己中心的で傲慢」「共感能力の欠如」「ずるくごまかしがうまい」「浅い感情」衝動的」「行動のコンロールが苦手」「責任感の欠如」「反社会的行動」というような項目が並ぶ。しかしこれらは問題成人ではあるが、別段一定頻度で出現する問題成人であるようにも見える。
先のヘアの文章で、こうしたレイのような人物も、自分の言葉を最初から疑っているような人を相手なら、もはや欺くような話はしなくなるであろう、と推測できる。むしろ警戒するはずである。またその程度の能力は備えている。いつも同じようなパターンで話すような「妄想様」人間ではない。にもかかわらず自分の話術のなかに簡単に相手を巻き込めるという自信と自負は、人並み外れたものがある。多くの場合、この自信と自負は隠されているが、最終的に本人を支えているのは、現実社会のなかで配置できないままになっている本人自身の由来の不明な「プライド」である。
 また何度も犯罪を繰り返すのは、違法・不法であることの感触を自分でもつことができないことに由来している。ある特定の行為が犯罪であるという感触がないのである。ただし逮捕・拘束されれば、これが「犯罪」なのだと身をもって知ることになる。だがそのつどの行為のなかでは、違法・不法の感触がないようである。違法行為の何が違法行為なのか、どこが違法行為なのかについての感触がほとんど機能していないようなのである。
 人格障害(社会的適応障害)であっても、皆犯罪者になるわけではない。犯罪者にならないように、それぞれの個々人で気を配って、つねづね注意しているいくつかの要点となる項目を持ち合わせているとも考えられる。その内容は個々人で異なるのだろうが、過度の自己防衛に進んでしまう者も多い。つまり自分で社会から身を引くのである。ところがサイコパスのほとんどは人懐こく、自分で社会に出てきては問題を起こし、不思議なことだがそれが自分自身に由来するものだとは気付くことができない。問題が自分にあると感じていることはほとんどない。これは反省能力がないのではない。むしろ反省能力は、余分なぽどもちあわせている。いつも自分の行ったことを別様に説明して見せるからである。ところが自分自身についての社会的行為のネットワークの感触がまるでないかのようである。
 サイコパスは、全般的に人懐っこく、いろいろと出回って多くの人に会ったり、人間に関心がありそうに見えるが、他人のことはまったく理解できている様子がない。相手が自分に合わせてくれるだろうという限りない自負が見え隠れする。そして相手が自分に合わせてくれるように言葉によって仕向けるのである。あまりにも自信に満ち堂々としているために、その言葉を全体として疑うことは難しい。
 全体的には、異系発達(発達障害系)の何かが欠落している人間類型にもっとも近い。それは見かけ上特殊な経験から固有の世界を作り上げているような魅力ある人間に見える。それが何なのか知ろうとすると、ほとんどこの人物のペースに巻き込まれてしまう。よくよくこの人物を見てみると、通常何かがあってもよい所に、まったく何もないのである。欠落という感触が最も近いのである。そして本人がそのことに気づいている様子がまったくないのである。ところが欠落にも度合いがあり、何度試みても同じところが欠落している。形成能力の不在という圧倒的な欠落感がある。欠落にも度合いがあり、その意味では「強度性」をもつ。ところがこの強度は欠落という事象に対応しているために、「ゼロの強度」あるいは「負の強度」となる。
一般にサイコパスは多弁・多言であり、次々と言葉を繰り出すことに限りない快感を感じているようにも見える。そのときの言語はその場限りだということ以上に、閉じた二人称関係を形成することに向けられている。多くの人のいるなかでは、この言葉はまったく通じない。言葉で固有の人間関係を作り、それは第三者や公的第三機関(裁判所、警察その他)のいる状況下では、まったく通じないのである。固有の二人称関係に独特な固有化が働き、それは三人称関係では箸にも棒にもかからないほどの馬鹿馬鹿しいことであったりする。ところがサイコパスは、かりに裁判所の証言台であっても、自分の言葉が通じると思っているのであり、それ以外の言葉を持ち合わせていないのである。そしてそれを聞き取れず、理解できない裁判所の方がおかしいと本当に思っているようなのである。サイコパスの必要条件のなかには、二人称を基本とする閉鎖関係を形成することで、第三者関係との落差を作り出すことが含まれている。
 サイコパス人間には、由来が不明で、しかも何によっても取り換えの効かない「プライド」が含まれていることが多い。このプライドの由来によって、多くの微妙なモードの違いが出る。たとえば母親に十分な愛情を注がれていない(自己愛性人格障害)こともあろうし、社会内で正当な評価を受けていない(反社会性人格障害)ということに由来にする場合もある。あるいは自分自身はパーフェクトであるという理由のない信念に陥っている場合(極限神経症)もある。こうなると妄想様の傾向がでるが、そこで語られる世界は往々にして過度に一貫して自足したものとなる。
 そしてさらにもっとも厄介な点だが、二人称関係の言語で形成したことで、言葉の向けられる相手を、犯罪の一部に巻き込むということが、作為なしに起きる。気づけば二人称関係の相手を犯罪に向かうように仕向けており、それによってさらにこの二人称関係を強化している。もともとサイコパスは、合法不法の区分への感度がほとんどない。そして自分の言葉をつうじて、この合法不法の区分が見かけ上解除されている領域に周囲の者を誘導するのである。このとき二人称関係では、何か魅力的で有効で面白そうな企画が語られるが、それを第三者から見れば、それじたいが犯罪であったり、ほとんどありえない話であったりする。つまり二人称関係での語りと、そのことの三人称での事実関係に翻訳の効かないほどのギャップを作り出し、サイコパスはそれを活用するすべを本能的によく知っているように見える。
 ここで考察するのは、二つの典型的な事例である。一つはニュースとなって繰り返し報道された事件にかかわり、もう一つは私自身が直接経験し、一時的にそのなかに巻き込まれていた事件にかかわる。いずれもサイコパスの亜型に属しており、かなり複雑な対応能力を備えた者たちである。二人とも技術的能力を持ち合わせており、高度な知識を駆使することもできる。だが何か生活上の充実感を別のところに向けているようなのである。

1 ユースケ・K

 日常生活では、言語的に交流し、対話できる世界と、個々人が自分でイメージしてもっている世界とは、かなり大きな落差があり断絶がある。イメージとして持ち合わせており、他人に語っても簡単には理解できないと思える世界は、個々人の経験では、その個人を維持するために欠くことのできないものがいくつかある。幼いころの情景で、思い起こそうとすれば何度も思い起こすことのできるようなくっきりとした情景もある。こうした情景は、一般に「原風景」と呼ばれる。またなにかのきっかけで心が不安定になったときに、なにか特定のイメージが出現して、こころの安定を支えるようなイメージもある。精神分析医のラカンは、こうした働きをするイメージのことを「対象a」と呼んだ。ラカンは、糞、まなざし、乳房、声をそうしたイメージの類型として挙げているが、内実は個々人によって大幅に異なり、圧倒的に多様さがあると思える。こうした多様なイメージのいずれかを各人がもっている場合、それは自分自身の分身のようなかたちで各人の心の安定に連動している。
こうしたイメージからなる世界は、「想像界」と呼ばれる。これらは語りのなかでコミュニケーションとして部分的に共有され、継承されるネットワークのなかに組み込まれて発信される。言語的語りの連鎖そのものは、象徴界と呼ばれ、言語・記号からなる世界である。各人の語りのなかには、コミュニケーションとして応答できるものと、どうみてもその人の固有世界が語られていて、特異な不連続点になっているような語りとは区別され、また受け取った側でも区別することができる。一般的に言えば、受け取り手からみて、どうみても理解しにくい何かが語られてしまったおり、他の人にとっては「まったくどうでもよいような」内容が語られてしまうことがある。それは本人にとっては抜き差しならない語りなのだが、通常の言語的コミュニケーションのなかに巻き込まれ埋もれてしまう。
 エドガー・アラン・ポーの探偵小説のなかに、「盗まれた手紙」という短編がある。ポーは探偵小説の基本形をほとんど作り出した作家である。この作品では、王妃の重要な手紙が大臣に盗まれてしまい、その手紙が公開されれば、王にとっても重大な危機が生じることになる。そこで警視総監に依頼して、密かにその手紙を盗んだ大臣から取り返してもらうことにする。依頼を受けた警視総監は、大臣の留守の日を狙って、ことごとく家探しを行い、夜盗を装って路上で大臣を襲い、身に付けて隠し持っていないか徹底的に調べ上げる。しかし盗まれた手紙は出てこない。そこで警視総監は、友人の名探偵ヂュパンに手紙を取り返してくれるように依頼する。デュパンは大臣宅を訪れ、その居間のレター掛けに半分破いてあり、捨てるのを思いとどまったような手紙を発見する。それこそ「盗まれた手紙」だとデュパンは直観する。そしてその日は暇乞いをして、再度大臣宅を訪れ、その手紙を取り返してきて、警視総監に手渡し、法外の報酬を受け取るのである。
この作品には、いくつもの奇妙な点があるが、その一つは徹底的に家探しをした警視総監が、この半分破り捨てた手紙を見落としているはずがない、という点である。警視総監は、大勢の部下を連れて複数回家探しを行っており、当然半分破った手紙を見ているはずである。これはどうしたことなのか。警視総監が取り戻すように依頼されたのは、重要な手紙であり、それが公になれば重大な危機が生じると聞かされた手紙である。おそらく警視総監は、その半ば破られた手紙は見ていたのであろうし、それが聞かされていた重要な手紙だとはとても思えないほどの内容の手紙だったのである。こうした手紙が、想像界の基本であり、本人にとってはとても大切だが、一般的に見ればほとんど重要さがないのである。そしてこうした各人にとってだけ重要なイメージが、一般的なネットワークのなかに紛れ込んでしまうと、容易には見分けがつかない、という事態が起きる。つまり事態の重要さが一挙に消えてしまう。
ネットワークの出来事は、次のネットワークの動きに接続できるものであれば、なんであれネットワークのなかに潜り込んでしまう。そこには重要なものもどうでもよいものも、さらには個人的にかけがえのないものも多くの人に共有されるものも、ほとんど区別がなくなり、次の動きへと進んでしまう。そこでは警視総監にとっての手紙と王妃にとっての手紙の区別は、基本的には消滅する。そのため手紙そのものが見えなくなってしまう。
もう一つこの作品で不思議なのは、手紙が大臣に盗まれたのは、王妃の部屋の中だという点である。どうしておめおめと自分の手紙を盗まれてしまうのか。大臣は別の自分の手紙を置き、王妃の手紙を持ち去ってしまう。そのとき王妃は「それは私の手紙だ」と騒ぎを起こすこともできたはずである。ところがその王妃の部屋には、たまたま王が居合わせたのである。王の眼があり、騒ぎを起こすことがはばかられるような環境条件が整っていた。それはそうなのであろう。だが一般的に考え直すと、王から見れば大臣が自分の手紙を置き、王妃の手紙を持ち去ったのは、情報の内実が少々変化しただけで、別段とがめだてをするほどのことではなかったのである。ところが王妃個人にとっては、その自分の手紙は絶対に他によって置き換えの効かないようなものだった。情報内容が少々更新されただけという受け止めと、他によっては置き換えが効かないという受け止めの間には大きな落差がある。王にとっては盗まれるという事態が出現しておらず、王妃にとっては途方もない事態が強行されるという緊急事態の出現となる。そうしたなかで、盗まれる行為を留めることができなかった、というのが実情に近いのであろう。
ところでこの落差を読み切っていたものは、それをさまざまなかたちで活用することができる。王に王妃がなにか秘密の隠し事をしていると告げ口をすることもできれば、王妃に法外な謝礼を要求し手紙を引き渡すこともできる。もちろん王妃がもっとも困るように徹底的に手紙を隠してしまうこともできる。その場合には、王妃-大臣の二人称関係をどのようにしても公的な三人称関係に接続できないようにしてしまうのである。そのことによって大臣に固有の充実感があれば、大臣は典型的なサイコパスである。そして大臣の盗んだ手紙の隠し方は、こうした予想を裏付ける。三人称的なまなざしからは、見えないように隠すのである。隠されるべき手紙は、大臣の家のレター掛けに、捨ててしまうことを思いとどまっただけの「晒された手紙」になっており、まさにそのことによって三人称的なまなざしからは見えないのである。ところがこの三人称的まなざしからは隠されているという事態に敏感に反応して、それを逆手に取るものが出現する。それが探偵デュパンである。このときデュパンと大臣は、二人称の関係となる。そのことがデュパンと大臣が、ツイン・ペアだと呼ばれる理由である。大臣は、サイコパスであっても一騒動を起こしただけで、結局のところ何一つ得ておらず、むしろ場合によっては犯罪者である。ところがデュパンは、手紙をもとの所有者に戻しただけで、多額の報酬を受け取っている。サイコパスは、犯罪傾向が強く、しかもほとんど利益にならないことをまるで本人の資質であるかのようにしでかす。そしてそれを読みきっているものは、それを逆手に取るチャンスをすでに手にしているのである。実際には、大臣は騒ぎを起こしただけで何一つ利益を得ておらず、ある意味で素人を騙す詐欺である。すなわち白サギである。ところがそれを見切っているデュパンは、詐欺師を騙す詐欺師であり、黒サギである。
情報があらかじめ多くの人から見られることを想定し、すべてはあらかじめ見られることのなかで成立するようなネットワークのなかでは、見るものと見られるものの区別が消滅してしまう。「盗まれた手紙」は、どんどんと他人や他のアドレスに委譲され、そのプロセスのなかで、当初の由来は消えてしまう。つまりそれが盗まれたものなのか、取り戻すべきものなのか、あるいはただ忘れられてよいものかの由来による区別は、跡形もなく消えてしまう。そうだとするとこうしたネットワークのなかでは、心の在り方も別様のものになっていくに違いない。
 ラカンのなかには、想像界、象徴界と並んで、もう一つ現実界というのがある。身体を含む物質的世界である。通常この現実界は、ネットワークのなかには出現してこないが、ネットワークの環境としてつねにともなっている。そして実際には、ネットワークのなかにいる限り、こうした現実界はどんどんと軽くなってしまう。いわば測定誤差の範囲に留まる。つまり実際には何が起きているのかはっきりした理解も自覚もないまま、そこに込められた情報とは不釣り合いなほどのことが起きる。ネットワークのなかでは、想像界は象徴界と区別しがたいほど混ざり合い、情報のなかに多くの襞のような事柄が含まれてしまう。そうした未分化な混合態となった世界を、「ネット界」と呼んでおこうと思う。ネット界では、独特の生活感と情感が生み出され、予想外の事案が生じることにもなる。
想像界というのは、ある意味で心の信用であり信頼である。ところがネット界は、そもそもの成り立ちからして、匿名性や任意性に満たされているために、信用や信頼には不向きな仕組みになっている。
 他人のパソコンに入り込み、そのパソコンから勝手にメッセージが送られるように仕組まれたウイルスがある。このウイルスに感染したパソコンは、所有者が知らないままに勝手に意図しないメールを送信してしまう。登録されたメールの送信元は、当然ウイルスに感染したパソコンである。それを利用してひとしきり騒ぎを起こして、その騒ぎを傍らで覗きみするように楽しむ者たちがいる。
たとえば放火して見物人に紛れ込んで騒ぎを面白がったり、競馬で当てた万馬券の資金を路上で拾ったと交番に届け出て、それによって起きる騒ぎを楽しむものは、一定頻度で出現する。人騒がせな事件を起こす者たち(愉快犯)は、どの時代にも少数だがいたと思われる。また他人の名前を使って郵便物を郵送し、騒動が起きることを傍らで楽しむものもいたと思われる。前者では、たとえボヤであっても実行行為者として自分自身が関与し、自分が引き起こしたことを傍観者となって楽しんでいる。また後者では、送り付けられた者と、知らないあいだに送付者になっているものとの間で話がつうじれば、こうしたイタズラをするのは、きっと「あの男」だというような犯人探しが始まり、最後は「暇な奴だ」ということで、落としどころが見えてしまうような話である。最近大学内でも定期試験の前になると、特定の送付先アドレスを指定して、試験問題をあらかじめ送付するようにという怪メールが送り付けられてくることがある。その後ただちに教務から、そうしたメールには反応しないようにという警告メールが続くことが多い。いずれも犯人は、事件を楽しむとともに、どこかで犯人である自分を探してほしいという思いが含まれている。
 ところがウイルスに感染したために自分のパソコンから「強迫メール」が流れている場合、このウイルスを流した者は、誰がウイルスによる遠隔操作での発信者になるかを知ることができない。ウイルスがどのパソコンに感染したかをあらかじめ特定することはできないのである。また不特定多数のパソコンに感染する可能性は高く、次々とこうした遠隔操作発信者が出現してしまう。しかも当初のウイルスを流したものは、自分のパソコンも、ウイルスを垂れ流すように遠隔操作をされていたと強弁できるので、理論上は事件の開始点である「犯人」は特定できない。かりに犯人だと指定されても、ネットワークの特質から、自分も被害者の一人だと言い続ければ、論理的にはそれを突き崩すのは難しい。ネットワークでは、開始点を際限なく遡ることができ、またひとたびネットワーク上に垂れ流されたウイルスは、意図せず任意のパソコンに紛れ込むので、任意の人が「犯人」になる仕組みを備えている。
 テクニカルには、「アイシス・エクゼ」と呼ばれるウイルスに感染したパソコンは、定期的にネット掲示板「したらば掲示板」を確認するオペレーションを行う。そこで遠隔操作を行おうとするものが、この掲示板に実行させたい命令を書き込むと、感染したパソコンがこれを確認した後、自動的に命令内容を実行する、というタイプのものである。しかもウイルスが人工的に制作された場合、ウイルスの完成時には制作履歴を消すか、制作したパソコンとは異なるパソコンで通信を行うことができるので、誰が作ったかを追跡することが難しい。
 こうして重大性や緊急性の認識がないまま、「ある人物」が遠隔操作ウイルスを垂れ流して、事件が起きた。ウイルスに感染した複数のパソコンから、横浜の小学校を襲撃するという予告が発信され、引き続き大阪市の商店街無差別殺人、日本航空の旅客機破壊、東京都でのイベント会場での大量殺人、東京都の幼稚園襲撃、アイドルグループの襲撃、携帯電話販売店襲撃、伊勢神宮破壊のようなメールが、東京都の大学生、大阪府の男性、愛知県の男性、福岡県の男性、神奈川県の男性、三重県の男性を発信元として届いたのである。送り付けられた側は、安全確認のために大騒ぎになり、警察に届け出ることになる。法システムでは明確な犯罪名が付き、「威力業務妨害」と「ハイジャック防止法違反」「脅迫」という三種類の罪名で、計七件の犯罪が立件され、それぞれの脅迫メールの直近の発信元である人たちが、緊急逮捕ということになった。当然のことながら逮捕された人たちは、身に覚えのないことばかりである。
カフカの『審判』では、ある朝目覚めると、突然自分が逮捕されていたことに気づく。罪名も拘束もない逮捕であり、見張り役は付いているが、勤務先に行くのも自由である。つまり奇妙な逮捕であり、見張り役だと見えているのは、おそらく路上を行き交う通行人である。主人公のヨーゼフ・Kには、何が問われて逮捕されたかが分からない。しかもその逮捕によって何一つ現実の変化はない。しかしこのパソコンウイルス事件では罪状の明確な逮捕によって、四人もの人が拘束された。ヨーゼフ・Kと同様に、まったく身に覚えのない逮捕であり、しかもおよそ自分の関知しない罪状まで付いている。罪だけがどこかから自分に降りかかってきて、拘束を受けているのである。この四名の人たちは、やがて誤認逮捕であることがあきらかになり拘束を解かれた。だがこの場合、警察は大失態であり、パソコン犯罪の対応では素人であることが改めて明るみにでることになった。
 誤認逮捕された人たちのパソコンの受信記録を遡って「真犯人」を探しだすことは論理的に無理である。すでにネットワーク上を流れているウイルスの大元を探し出すことはできない。大気中のインフルエンザ・ウイルスが誰から出たものか特定できないことと同じである。ネットワーク上の遠隔操作だけであれば、永遠に真犯人を特定することはできない。
 こうして遠隔操作ウイルスを流して騒ぎを起こしたものは、まるでゲームのように警察を挑発し、さらにネットワークから出て、さまざまな犯人の痕跡を、江の島や東京都と山梨と埼玉の県境の雲鳥山山頂のような現実社会にあえて残すことになった。ことに江の島では、猫の首輪にSDメモリーカードを仕込み、その映像まで流している。それらの痕跡を手掛かりに、警察は逮捕に踏み切った。犯人は、ユースケ・K(片山祐輔被告)である。これは現実に起きた事件であり、2013年2月10日に警視庁を中心とする合同捜査本部は、ユースケ・Kの逮捕に踏み切ったのである。だがネットワーク犯罪の特質やネットワークそのものの特質が、際立ってくるのはその後である。

 逮捕されたユースケ・Kは、すべての犯罪を否認し、自分も被害者の一人だと主張した。すでに誤認逮捕が四人も出ている以上、もう一人誤認逮捕が増えても論理的にはおかしくない。江の島や雲鳥山に残された犯人の痕跡についても、そうした場所に行ったことはあるが、その日時には多くの人が周辺にはおり、また自分がさまざまな証拠をあえて残したという事実はなにもない、という論陣を張った。ウイルス作成そのものでの立件は、証拠不十分で見送られてもおり、この時点では誰が作ったのかはわからないままである。
ユースケ・Kの自宅コンピュータや職場のコンピュータには、犯行に使用された多くのオペレーションの痕跡があり、それらはすべて証拠として、検察から提示された。だがユースケ・K側は、証拠申請にすべて同意している。どのように証拠を積み上げても、犯罪そのものの立証には至らない、という確信がある。
 逮捕後、担当弁護士を含めて複数の弁護士が支援に回り、メディアのなかでも冤罪を基調とした論陣を張るものもあった。保釈後本人も、「意見書」を出し、無罪を訴えた。ユースケ・Kの使用したいくつものパソコンからは、一連の事件にかかわる発信の痕跡があり、かりに真犯人が別にいるのであれば、その真犯人がユースケ・Kの触ったパソコンにことごとく遠隔操作処理をすることは無理だというのが検察側の主張である。だがユースケ・Kは、USBメモリーで作業をおこなっており、ネットカフェのパソコンもUSBメモリーで作業を行っている。このUSBメモリーがウイルスに感染していれば、ユースケ・Kの触ったパソコンにはことごとく一連の事件の痕跡は残る。そのためそれは犯行の特定になるような証拠にはならない。ユースケ・Kの主張は一貫しており、いずれも「ありうること」を述べている。
 ネットワークのなかでの出来事について、それが現実になんであったかという認定を行うさいに、つねに複数の現実と対応してしまう。どのようなストーリを描いても、どのストーリが現実に起きたことなのかを特定することは困難である。原則サブストーリはいくつも可能であり、しかも新たなサブストーリをさらに作り出すこともできる。ネットワークのなかに紛れ込んだ情報は、たとえそれに署名があったとしても、実質的に匿名化されており、また意図的に匿名化するためのソフトもある。そのため新たなサブストーリを形成するように語ることはでき、それは現実にはただの嘘であっても、一貫したネットワーク内の事実として語ることはできる。ここでは語りと騙りの区別は、原則なくなってしまう。担当弁護士もメディアの一部も、後に後悔を込めて語るように、ただ「完全に騙されていた」ということが起きるのである。だがユースケ・Kは、ありうるサブストーリを一貫して語っていただけなのである。
その語りの動機は、主に自己防衛と自己正当化であるので、それにふさわしいストーリは、むしろ過度に一貫してくる。そのことをユースケ・K自身は、後に「サイコパス」だと呼んだ。サイコパスは、現実のさなかにより多くの選択肢を開き、より多くの可能性を提示する場合には、限りなく有効な回路である。それは機能化されネット界に組み込まれた想像界の回路でもある。そこではどのように匿名化されたものであっても、やはりどこかに想像界に固有の感情価を帯びている。こうした局面では、たとえ病的な「虚言壁」であっても有効な活用の回路を見いだせれば、無類の「創造性」にもつながりうる。だがそうした創造性の出現の場所は、つねに同時に虚偽と騙りの可能な場所でもある。そのことを最大限に活用して、ユースケ・Kは自分の無罪を現実界のなかで語り、発信し続けたのである。
サイコパスのプロセスは、隠しておきたいことをおのずと隠し、見せたい事象を誇大に語り続けることであり、その結果サブストーリがおのずと出来上がる。この段階では、現実と虚構の区別が行われず、本人には嘘を語っている意識はない。つまり真偽の区別はなく、現実のなかに別の現実を語りだしているだけである。これによって実際の現実は軽くなりすぎてしまう。そのことが現実界のなかで、周囲の人からは理解にしにくい言動を発動させてしまう。実はこの場合、このサイコパスのプロセスは、妄想類型の言動のパターンと同型になる。心の維持のために、「何か」を実行すると、行動異常という現実界での明確な事実となる。この行動異常にはさまざまなパターンがあり、一般には盗癖、虚言癖に類似したものが出現する。ネット界は、こうした妄想類型に適した領域であり、いつでもそうした回路に入っていくことができる。
ネットワーク上での複数のサブストーリはそれだけでみれば等価である。多くのサブストーリのなかで、特定のサブストーリが現実に起きたことだと言うためには、さらに何かが付け加わらなければならない。またかりによいサブストーリを着想したという感触と自負があれば、匿名化された情報のなかで、自分自身を告知するような誘惑にもかられる。これらは情報ネットワークに空いた穴のようなもので、ネット界が現実界に繋がっていく回路である。情報ネット界は、オペレーションがオペレーションに回付するだけの世界であり、一貫してそれだけを行うことができる。それによって情報ネット界は、つねに「ただ言ってみただけ」という性格が付きまとう。現実界との対応では、複数個可能であり、それがこの事件の場合の検察にとっての壁であった。ネット界での情報によって形成された「現実」と実際に起きている現実の落差を作り出し、つねに二重の現実が可能であるように組み立てられている。
だがユースケ・Kは、さらにダメ押しになるような出来事を求めてしまった。ユースケ・Kが公判のために東京地裁に出頭しているとき、「真犯人」を自称するものから、「私こそ、真犯人である」というメールが、いくつかの宛先に届けられたのである(2014年5月16日)。それはユースケ・Kが自分で実行できない時間帯に発信されている。そしてその発信元は、荒川河川敷に埋められたスマホであり、そのスマホにユースケ・KのDNAが付着していたのである。自作自演の真犯人メールを送り、それを埋める現場も目撃されていることで、ユースケ・Kは現実界で、消すことのできない証拠を押さえられてしまったことになる。
どうしてこうした見え透いたことを行ったのか。ネット界では、情報のオペレーションと現実とは一対一対応をしないので、本来「真犯人」はいない。それを論拠として、自分は犯人ではないと言い続けていたはずである。ところが現実の世界には、真犯人はどこかにいる。この自称真犯人からのメール送付の偽装は、ネット界での「真犯人はいない」という論拠に本来抵触する。ネット界と現実界の対応のなさのもとでは真犯人はいないが、自分以外にはっきりとした真犯人がいるということを示そうとしてしまった。いわば勇み足をやらかしたのである。そこには論理的齟齬が含まれている。
この事実が認定され、決定的なミスが明らかになると、ユースケ・Kは態度を一変させた。すべての犯罪は自分が行ったことだという自白をしたのである。この自白こそ、情報ネット界の任意性と匿名性を断ち切り、終わらせるものであった。自白とは、情報ネット界の限界にあって、動かすことのできない社会的現実である。数日後、ユースケ・Kは、ウイルスの制作過程を自白するようになった。本人にしか知りえない事実が確認されたのである。
そしてネットワーク上でにぎやかにやり取りされていたこの事件は、波打ち際の水が引くように、またたくまにネット界から姿を消すことになった。その後も「真犯人」を自称するメールが何度か流れたが、すでに誰も相手にしない。事実もはやサブストーリを書き込む余地のない事案になったのである。
 ネット界は、サブストーリを作成するためには都合よく出来た世界である。そのサブストーリの内実が、個々人の経験の境界を広げ、新たな経験の可能性に誘導するのであれば、サブストーリそのものの価値で評価されるはずである。そうした経験の可能性を拡張するのでなければ、多くは膨大なゴミ情報に留まる。
 ユースケ・Kがどこで「サイコパス」という語を記憶したのかはわからない。それなりの家庭で育ち、非正規ではあるがコンピュータソフト会社で働くこともできている。それでもそうしたユースケ・Kの現実は、ユースケ・Kにとっては不当な扱いであったはずである。そしてそうした本人から見て不当な扱いをするものたちの視線に広くさらされた日常であったと思われる。他者に直接語りかける二人称関係の手前に留まって、ウイルスを任意に流し、それに反応したものが、ユースケ・Kとの二人称関係に入ることになるが、相手はほとんど事情が分からず、起きていることの全貌を知りうるのは、ユースケ・Kだけである。こうしたサイコパスに広く見られる関係を、ユースケ・Kはコンピュータ・ウイルスの感染によって作り出したのである。

2 ある詐欺師S

 2013年3月末より、国際金融コーディネーターを自称するS(川崎市在住)を相手に民事訴訟を続けてきた。裁判長は、Sの公判先延ばしに痺れを切らし、2014年1月21日の第八回公判で「証人尋問」を行うと宣言した。原告、被告とも一般に自分に都合のよいように嘘を言う可能性がある。代理人である弁護士はできるだけ虚偽の主張をしないようにしているはずである。それでも嘘が紛れ込むことがある。またそれはやむをえないことである。それに対して、証人尋問は、「嘘は言わない」という宣誓を行ったうえで、担当弁護士、相手側弁護士さらに裁判長の質問に答えるのである。証人尋問を行うと裁判所が決定するさいには、裁判所の判断は事前にほとんど決まっていると言われている。判断は決まっているのだが、最後の確認のようにして、証人尋問を行うのである。民事訴訟の約半数は証人尋問を行うようである。私の側の弁護士である小西のり子(仮名)弁護士は、十数年に及ぶ弁護士キャリアのなかで、証人尋問まで行ったのは過去3回しかないと語ってもいた。
 事実、Sはそれまでの公判では、一切の証拠書類は出さず、「自分がなぜ訴えられているのかが分からない」というようなとぼけたことを書面で出していた。要するに裁判にかかわる気がないという風情だったのである。S本人が出した当初の書面も、お笑い頭の体操のような文面で、裁判所の忍耐も限度に近いと思われた。

「所詮、証拠として提出されているもの、合意書に基づき発行された。原告から振り込まれた金額を遥かに超えた銀行信用状を無駄にしたのは、原告の一存と思われても仕方の無い事実」(2013年8月22日付け・S準備書面)

 これが実際に裁判所に出された書面である。およそ信じられないような文面であるが、これがサイコパスの頭のカラクリなのである。実際には、Sが香港経由で発行した「信用状」そのものが決済見込みのない、信用のおけない代物であったために問題が生じた。つまり日本の銀行が受け取りを拒否したのである。決済見込みのない信用状は、ただの紙切れである。その紙切れに数字が書き込まれており、それを発行したと言い続けているのである。そして紙切れを受け取らない日本の銀行はおかしい、とまで言っていた。
こうなるともはや妄想様の言語であるが、ここにも都合の良いことだけを言い、それ以外にはまったく注意が向かなくなるという「サイコパス」特有の注意のモードがある。自分に都合の悪いことは、注意が向かず、そうした現実がないことになってしまう。この傾向は、その後もずっと維持されており、何も変わらないでいる。そうした対応を何度か繰り返したあげく、裁判長の忍耐も限度となり、証人尋問となった。だがSの主張は、銀行も受け取らないただの「紙切れ」を自分は実際に発行し、それは本物であり、立派なものだということに留まっている。
この証人尋問もずるずると先延ばしが行われ、2014年7月8日になってようやくSの証人尋問は実現した。私自身への証人尋問は、すでに5月に終わっていた、その5月の公判日にSは、体調不良を理由に欠席し、裁判長はもう一度欠席すれば、条件次第で結審すると宣言した。証人尋問は、担当人弁護士が質問し、それに答え、次に相手方弁護士が質問しそれに答えるものである。各弁護士は30分ずつ時間があたえられており、その範囲内で要点について質問し、それに解答する。質問時間の割り振りは、事案によってかない異なることもある。解答者(原告、被告)がずるずると要を得ない解答を続ければ、ただちに時間切れとなってしまう。そこで質問者である代理人弁護士が、「聞かれたことだけ答えるように」と注意を促すことになる。これはテレビドラマの法廷場面でもよくみかける風景である。ときとして裁判官が、「聞かれたことだけを答えるように」と促すこともある。証人尋問はすべてテープ取りをされていて、すべての発言は証拠として残る。
Sの証人尋問では、S自身が宣誓をして、そしてそこでもさらに嘘八百を言い続けることになった。それは彼の参加するチームである「シンジケート」の動きや影が少しでも垣間見られるような問いに対しては、徹底的に事実を隠すためである。この隠すという操作が、ほとんど自然に出てしまうというプロセスが副次的に進行する。当初からSには公にできない膨大な事実群があった。
シンジケートは、基本的には金融界の末端にいて、たとえば税金逃れ(租税回避)の指南を行い、またそれを代行して実行する金融コーディネーター組織であり、現実には5,6名の小さな集団だと思われる。だが本当のところどの程度の組織化なのかはよく分からない。香港に数名のメンバーがいることは確かであり、日本にも「財務」と称する税金対策や法的な合法性を調整する人物がいるようである。
金融のことだから、ごく少人数で巨額の資金を動かしていることは間違いない。そしてそれも一般人からすれば、信じられないほどの資金を動かしているのである。噂では、リビアのカダフィー大佐は、隠し資産を8兆円程度有しているという話があり、こんな規模の資金を銀行に個人名であずけることは不可能である。とすると銀行に隣接する機関として、銀行シンジケートのような組織ができ、それが資金の維持と管理を行っていてもおかしくない。世界中の資金の溜まるところには、そうした数々の銀行シンジケートがあると思われるが、Sのチームは、それほど大きなチームだとも思えない。本人は、資金難に陥ったJALの救済のための資金提供プロジェクトに自分たちのチームも招待されたというようなことを述べていたが、末席程度には参加していたのかもしれない。そしてその程度の実力は有していたのである。
こうした男が、どうしてのこのこと大学にやってきて、資金提供を申し出ていたのか、いま思い起こしてもよく分からない。ただ大学は、公益法人のため収益業務を行ってはならず、時として基金のかたちで資金が積みあがっていることがある。それは将来校舎の建て替えのために使うというような用途を限定した基金が、大学会計のなかにあり、引当金のようにして積み上げておき、大学に眠ったままになっていることもある。実際にリーマンショックのさいには、いくつかの日本の大手私大で100億円を超える損失が出た、との情報が流れていた。そうした積みあがった資金を利用しようとして大学にやってきていたのかもしれない。大学当局は、当然ながらこの男の身分を疑い、言っていることを疑った。というのもSは、大学の常務理事に対して40億円を大学に寄付すると突然言い出したのである。そして大学は、この男の資金は受け取らないと決めた。いろいろと理由はあったが、犯罪がらみの資金にかかわる可能性を大学は恐れたのである。私はSに何度も「犯罪はダメだ」と念を押した。それでもこの男の犯罪の臭いは、大学では隠せなかった。Sの発言は唐突で常軌を逸している。だが常務の一人は、Sにとても親和性を感じ、関心を示していたことも事実である。
サイコパスは多くの人間からまったく信用されないが、ごく少数の人間だけは限りなく面白いと感じることがあるようである。つまりサイコパスは、特定の人間と二人称関係を築き、その人間との間だけで通じる言葉を作り上げる。それ以外の人には、そうした言葉はまったく通じないのである。一般に、二人称と三人称の間に極端な落差を作り出すのである。これは多くの「振り込め詐欺」でも活用されている言語であるが、Sにはどうしたことか、二人称関係を使って自分の能力を知ってほしいという見込みのない「希望」も感じられた。
私は、当時リハビリの機関を大学に作るように頼まれており、リハビリの研究・実行機関を大学内に立ち上げようとしていた。Sの個人的な訪問リハビリを行っていたリハビリの研究チームの一員である、ある女性に頼まれて、Sと大学の常務理事との面談を設定したのである。通常の会話のなかでの雄弁さとは、比べものにならないほどの少ない言葉数で、Sはぼそぼそと金融の話を行っていた。第三者がいて、機関にかかわる場面でのSの言葉は、信じられないほど精彩を欠き、内容のないものであった。これに対して、二人だけで話すさいの圧倒的な話題と内容の面白さは、これでも同じ人物なのかと思えるほど隔たりがあった。Sと大学とのつながりがなくなって以降、私はどうしたものかと思案に暮れた。
そんなときSが自分で資金を作ってあげると言い始めたのである。いくぶんかの事前の資金を出してくれれば、自分で私のために資金を作ってあげると言い始めた。この資金の提供が、後に大きな事件となる。というのもSの資金提供は、銀行商品の一つである「信用状」を使うというものであった。一般にはなじみのないものであり、貿易にかかわるのでなければ、ほとんどの人には縁のないものである。この信用状は十分な資金をもつ人にしか活用することもできない。しかもそのことはSの裁量のできる資金がどこに置いてあるのかを直接示すことになる。信用状の発行は、つねに両義的である。信用状を発行した銀行には、Sの資金が置いてあることは間違いない。そうでなければ、銀行が決済見込みのない紙切れを送っていることになる。銀行そのものの信用を落とすようなことはできない。そこで信用状の発行は、そこにSの資金が置いてあることを示し、かつ必要に応じて決済できることを示している。
この信用状を悪用する手法を、Sは編み出したのである。貿易にかかわる「レター・オブ・クレジット」という金融商品がある。略称で、LCと呼ばれている。このLCこそSのある種の才能、すなわち悪才を明確に物語っている。悪妻ではなく悪才である。貿易のさいには、売買契約時に買い取り側からクレジットで資金提供を受けることができる。前金のようなものである。買い取り側の資金のおいてある側の主要銀行から、信用状を発行してもらう。その信用状を日本の銀行に送ってもらい、そこで額面の7割とか8割とかの資金提供を受ける。たとえば日本車を販売する貿易会社で中国上海の会社と販売契約を結び、この中国上海の会社から事前に前金として信用状を送ってもらう。この信用状がLCである。その信用状をもとにそれを受け取った銀行から額面の何割かを融資してもらう。これは「輸出前融資」と呼ばれる。これは融資なので本体は借金である。この融資金を元手にして、日本で車を買い入れて、船に乗せ中国上海に送るのである。そのさいに船で送るために「荷積み証明書」BLがでる。そして荷積み証明をもとに、決済請求するのである。買い手側は、荷物を受け取ると発行した信用状に対する決済を行う。そうすると決済されて現金が入ることになるが、それは借金に対する決済であるため決済金として処理される。
この貿易にかかわる信用状をSは、「架空取引」として活用することを思いついたのである。銀行から借り入れを行い、それを決済するのだから、通常の送金とは異なり、海外送金にともなう自動的な国税での税徴収を免れるという話をSはしていた。日本の国税局が、海外からの送金に対して機械的に税徴収していた時代があり、それを免れるために架空取引を活用するというのである。また銀行からの借り入れと荷物が相手側に届くまでには3か月ほどの期間があり、その間は純粋に借金状態であるが、それを活用して資金運用を行うという。こうした話を聞かされれば、もっともな話に聞こえる。しかしこのからくりにはずっと先まで続く奥行きがある。最初に聞かされた時には、もっともな話に聞こえるが、ほとんど実質的内実は語られないままになっていることがやがてわかるのである。
たとえば架空取引を行えば、荷済み証明は出ない。何も貿易で送っていないのだから当然のことである。ところが荷積み証明は、決済条件の一つでもある。とすれば銀行は決済できないことになる。かりに輸出前融資を受けてしまえば、決済されることがないので、ただ借金が残ることになる。かりに銀行融資が行われなければ、必要経費を出しただけで、何一つ資金は得られないことになる。このときSは、多額の額面の信用状を送ったと言い続けることになる。数字の入ったただの紙切れを「送った、送った」と言い続けるのである。これは詐欺行為であるが、ただの詐欺ではない。この詐欺行為には、被害者が加担させられている。そして被害者が加担するのは、中国上海の銀行から送られたLCを日本の銀行が受け取ってしまうからである。
この事態を要件ごとに整理してみる。
一般には輸出を行うさいに時として活用されるLCは、まず輸出契約を結び(自動車、車椅子等々の輸出)、物品を受け取る側(買い手側)が、買い手側の銀行をつうじて信用状(LC)を発行し、それを受け取った売り手側の銀行をつうじて、売り手側が融資を受け(通常額面の6割から8割)、それをもとに輸出品の買い付けを行って、輸出を行う。かりに船便で送れば、荷積み証明書(BL)がでる。この荷積み証明をもとに、銀行に決済請求を行ってもらい、買い手側は輸出物が届いたことを確認して以降、決済を行う。現在の貿易のなかでも、1割程度は、こうしたLCでの取引が行われていると、複数の銀行員が語っている。こうした作業は一人ではできない。
S一味は、この銀行商品の一つであるLCを架空取引の書類を作って、詐欺行為を行っていることになる。
A-1 まず架空取引書類を作る。S一味は、絶対安全確実に資金を提供できると相手を信用させ、架空輸出の書類作成に相手を参加させる。
A-2 この書類をもとに法外な必要経費を相手に払い込ませる。
A-3 そして外国の銀行から、LCを発行させ、日本の相手の銀行に対して発行する。
A-4 日本の銀行は、金融庁の指導もあり、通常は与信の発生するような融資は行わず、決済まで待つことになる。
A-5 これは架空輸出であるため、荷積み証明(BL)は出ず、LCの発行銀行は、当然決済は行わない。
A-6  LCの発行銀行での発行経費は、発行額にもよるが、数万から数十万円である。ところが発行額面は、数千万になる。紙に書いただけの数字だからいくらでも数字は書けるのである。そこでS一味は、額面の12%というような必要経費の設定を行い、その額を振り込ませているので、少額の発行経費との差額、すなわち巨額の資金を騙し取っていることになる。
たとえばS一味は、7000万円の額面のLCが発行されるときには、必要経費として1500万円を必要経費として振り込ませ、LCの銀行での発行経費は上限でも80万円程度なので、1400万円以上を騙し取ることになる。

B-1 かりに架空取引でのLCに対して、受け取り銀行が融資してしまえば、このLCは決済されることはないので、事故が起きる。融資は、LCの受け手、つまり架空取りで商品を送る側に対してなされるので、これはLCの受け手に負債が残ることになる。架空取引の輸出側は、法外な手数料と銀行からの負債を背負い込むことになる。
B-2 この架空取引書類が作られるさいに、LCの受け手は、書類作成におのずと参加させられている。かりにこれが詐欺行為でも、自分で詐欺行為の成立に加担するように手続きが組み立てられている。またそもそもこの架空取引で決済がなされないのは、書類上の形の上では、輸出がなされなかったことによるので、銀行から見れば、輸出がなされず決済は見送られたことになる。つまり融資の決裁が行われないのは、書類上は実際の輸出が行われなかったことによるのであり、事実としてはそもそも輸出が行われないような架空取引がなされていたことになる。書類上の事実関係と、現実との間に二種類の現実性が成立するように仕組まれている。
B-3 銀行は、LCが海外銀行から送られて来れば、それが架空の物か実際の輸出にともなうものかを区別することはできないので、一応そのLCを受け取る。そうなると架空取引であっても、商取引は成立している。こうして商取引は成立し、決済はなされないので、正規の手続きとして、詐欺行為が完了することになる。

C-1 かりにこうした仕組みを明示して、民事訴訟で争えば、民事では、ほとんどの場合、S一味に支払い命令がでる可能性が高いが、S一味は、もち財産の大半を海外に移しているので、日本での強制執行(裁判所からの許可書を取り、強制的に差し押さえる手続き)は不発に終わる。
C-2 こうした場合には、形の上では商取引が成立しているので、刑事事件として警察が被害届を受理することはかなり困難だと考えられる。
現実にこうした事件が、2012年1月から3月にかけて、S一味と千葉の外車販売(株)T社との間で起こり、(株)T社側は、2012年秋に横浜地裁で民事訴訟に訴え、2013年1月にT側の勝訴になっている。このときS一味は、一度も裁判に出頭せず、欠席裁判でT社の勝訴が確定した。しかしそれだけで終わっている。

Sがこうしたことを単独で編み出したとはとても思えない。いくつか貿易がらみの仕事をやった後に、偶然こうした事態が出現し、それを人為的に活用できると味を占めるようになった、というのが実情に近いのだろう。それほどの高知能詐欺師なのである。このときサイコパス人間は、自分の敷いた道の上を必死で歩く被害者を見ているのである。そしてそうしたプロセスに引っかかる人間を見て、自分のプライドが満たされるようなのである。サイコパスは、ほとんどが他人を実質的にハメることを言語行為の基本としており、それによって満足と快を得ることができる。そしてカラクリとして二重の現実性を出現させる場面を活用する。二種類の現実性が出現するように事態を組み立てるのである。
私たちの場合に問題になったのは、スタンドバイ信用状(SBLC)である。スタンドバイ信用状は、現在では、日本の銀行ではほとんど使われておらず、本社、支社間での送金手続きにいくつか活用されているだけである。この事実は複数の銀行員から確認できている。たとえばフィッリピン・トヨタから日本の本社に送金しようとすれば、外貨持ち出しを抑制しようとするフィリッピンの国内法に触れ、多額の税金を取られてしまうので、そのさいには銀行商品であるSBLCを発行し、決済が送金になるという仕組みを活用して、送金が行われている、ということである。SBLCは、ある種の銀行間保証書であり、決済を行うことで送金がなされる。このときSBLCを発行した銀行に追加費用を払えば、決済期限が来てもさらに1年、また1年というように決済を先延ばしすることができる。つまり銀行にとっては、融資したもののいつまで経っても決済がなされない可能性がある。その分だけは厄介な金融商品である。
 ところがS一味は、これも悪用しようとしていた。SBLCの発行では、送られた銀行が受理すること、そして期日までに決済することが必要条件である。S一味は、受け取り銀行の決済請求が通らないような仕組みを考えだしている。概要は以下のようなことである。
A-1 資金の出し手と受け取り手の間に、契約書が交わされる。この契約書の当事者は、S一味の使っている香港のペーパーカンパニーの名称が多い。
 A-2 実際に発行されるSBLCには、中間に第一の受け取り手が設定され、そこから日本の銀行にさらにSBLCが重ねて発行されて、日本の銀行に送られてくる。この第一受け取り手(「第一受益者」と銀行で呼ばれる)も、S一味の使っている香港のペーパーカンパニーである。
 A-3 このSBLCを日本の銀行が受け取ってしまうと、銀行が決済請求をかけても、この請求は、ペーパーカンパニーまでしか届かず、当初の資金の出してまでは届かないことになる。この決済請求は、通常通らない。

 B-1 金融庁の指導によって、こうしたSBLCを受け取らないように、日本の銀行は取り計らってくれるが、そのさいにもSBLCの発行経費として、S一味は多額の費用を事前に振り込ませ、SBLCは発行したと強弁し続ける。ここでもSBLCをクレジットとしてではなく、疑似「空手形」として使っている。決済しようもない紙切れを送った、送ったと言い続けることになる。
 B-2 信用状を決済できないか、決済しないかたちで発行し、それによって資金を送ったと強弁して、それ以前に振り込まれた資金をだまし取るという単純な仕組みを使っている。
B-3 ほとんどの場合、香港の銀行から信用状は発行されており、Sの一味が、組織的犯罪を行っていると考えられる。このSの一味は、香港に数名のメンバーがおり、ロンドンにも数名のメンバーがいると考えられる。また日本には、「財務」(税務)と呼ばれる、実務担当・連絡係のような人物がいるようである。これらのシンジケートのメンバーは、租税回避代行や銀行債権への投資をつうじて、巨額の利益を出しているようで、時として機会を利用して詐欺行為を行っている。

 現在係争中の裁判のなかで問題になったのは、このSBLCである。Sは、決済見込みのない紙切れ「を送った、送った」と自称しているが、実は銀行が受け取っていはいなかった。それは郵便物が相手に届かない場面や郵便物が受け取られず、帰ってきてしまう場面に似ている。
 Sへの訴訟は、もうこの男との縁を切るという区切りの気持ちから開始したものである。それはこれ以上かかわってもまったく埒が明かないという状態で開始したことである。そして2014年7月8日に証人尋問が行われた。ここでもSの過度に一貫した態度が示された。都合の悪いことは、すべて知らないと語り、責任は相手にあると言い続けたのである。この訂正可能性のなさや対応自在さのなさが、サイコパスの特徴でもある。
 Sの送ったSBLCは日本の銀行では、受け取りを拒否されている。その理由のほとんどは、決済見込みがないという点である。Sは、ただの紙切れを「送った、送った」と言い続けている。資金が入らないことの理由は、S自身が署名しなかったからだという点をSは、証人尋問で認めた。それも何度も認めたのである。そして署名できなかったのは、私(河本)が「一任状を取り消したからだ」と言い始めた。署名をするのに、なぜ一任状が必要なのかは不明なままである。一任状がなくても署名はできるのである。ところが、責任は相手にある、という論陣を張り、それが通用すると確信しているようなのである。
 しかも原告代理人の小西のり子弁護士が、このSBLCの決済はどうするのかと聞いたところ、別のSBLCを発行してそれによって受けた融資で、最初のSBLCを決済すると言葉を詰まらせながら語っていた。その場合、実質的に借金を次の借金で返済することになり、いつまでも決済されないことになる。こんな仕組みに付き合うような金融機関はないはずである。そうしたことを裁判所での証人尋問で語っていたのである。
責任を相手に転嫁するというSの主張は、事前に予想されたことである。そこで個々の事案を明示したうえでの委任状であれば出すという通知をSに行っていたことを伝えると、Sは予想外の反論だと狼狽している様子がうかがえた。一任状を取り消すさいに、個々の事案を明示した「委任状」であれば出せるということは、別段委任そのものが取り消されているのではない。ただ委任の形式が異なっただけである。その挙句、Sは裁判所で私に向って、「顔も見たくない」と言った。それも裁判所での「証言」なのである。
ところがそれを受けて、今度は、双方の知り合いであるA氏をつうじて「訴訟を取り下げてくれれば決済は出来る」ということを伝えたが、訴訟の取り上げは行われなかった、と述べた。訴訟の取り下げと決済は、論理的には独立の事態であり、訴訟の取り下げがなくても、資金を送ることはできる。資金が入れば、訴訟は取り下げられる。それがSにはできないのである。理由は、自分の利益になるようなことをやってくれれば、見返りに何かを実行することはできることに限られるという不遜とも思える「原理原則」である。この原理原則を支えるものこそ、Sの「プライド」である。
これには裁判長も唖然としていた。訴訟がつづくということは銀行決済には直接関係がない。訴訟を継続中でも、決済を行い、これで訴訟取り下げを交渉することもできる。何一つ辻褄が合わないことを言っている。誰も理解できないだけではなく、裁判長を前にして、訴訟の取り下げがないことを、決済できないことの理由にしたのである。人間は追い込まれれば、ここまで馬鹿なことを言うのか、という典型例である。ところがSは、精一杯の論陣を張ることができ、これで訴訟には勝てたと考えていたようなのである。
コンテキストの理解不能は、ここでも異系発達の人たちによく似ている。そして自分の主張が通じないことの理由は、おそらく裁判長に求められた。あの裁判長は何もわからない、とSは感じていたのである。
2014年9月30日に東京地裁で判決が言い渡された。Sの全面敗訴である。ところがそれを見て、Sは控訴を決意した。それ以外にはないというように決意したのである。2014年12月25日に控訴審の第1回公判は行われる。とうとう事案は、東京高裁に移されることになった。2013年3月末に東京地裁で民事訴訟を開始したとき、Sは私の自宅に電話をかけ、何度も繰り返し「訴訟を取り下げてほしい」と懇願した。この時期私はこの男の言葉は、まったく当てにならないことをすでによくわかっていた。だからそれに対応することは一切しなかった。その後も双方の知り合いであるA氏をつうじてSは、訴訟を取り下げてほしいと言ってきた。Sの言葉が、法廷で通用するはずもない。Sにとって隠さなければならないことが多すぎることも一因であり、また言葉に論理関係が成り立っていないことも一因である。本人もそのことに気づいている様子で、公では議論や論証をやっていけないのである。それほど避けようとしていた裁判を、自分から控訴したのである。この行為を支えている最後の拠点は、やはり由来の不明なプライドだけである。
 サイコパスは、作為的な言語操作・情報操作によって内外の落差を作り出し、そのことをつうじて事件や犯罪を起こすことにつながる仕組みである。一般に多くの場面で感じられることだが、自分で考え自分で実行したことが、外から見ているとまったく別様に感じとられ理解されていることは、しばしば起きる。自分自身の理解(一人称理解)と第三者の捉えていることが、どうしようもなく隔たっている場合である。通常は、そこに変換関係を見出し、変換関係を入れて、自分の思いとそれが外からどう見えるかを勘案しながら、自分自身を調整し制御する。こうした変換関係が作れない場合が、異系発達には散見される。たとえば一人称・二人称と三人称との間の変換関係の形成の仕方をつうじて、自分の視点の側に三人称での理解を組み込めば妄想様となり、一人称・二人称と三人称の間の調整が付かなければ、適応障害となる。そしてそれを逆用するのがサイコパスである。
問題は、その調整に付かなさを、作為的、人為的に作り出し、二人称での誘導が、三人称ではまったく別のことを実行させてしまう場合である。ここが二重の現実性が出現する場面である。そしてサイコパスは、本人に出現しているこうした調整のなさに、周囲の人間を巻き込むのである。
 サイコパスはしばしば善意の人や、内的な思いを確定しなければ事態が理解できない人あるいは内外の変換関係のできにくい事象で起きる。どのように本人が望もうとまたどのような意図や思いを込めようと必ず、起きてしまう場合には、内的理解と観察者の間のギャップがあるのだから、これは構造的落差になっており、この落差を活用して、起きるのがサイコパスそのものでもある。構造的落差であるために、多くの場合、何が起きたのかがわからないまま事件や犯罪に繋がる。現実に作り出されるのは、こうした仕組みである。
 サイコパスにとって同じような犯罪もしくは犯罪類似体を繰り返すのは、なんらかの基本的な欲求に基づいていると考えられる。サイコパスは特異な人間関係を形成しようとする欲求によって、作り出される。それを実行する人間は、そうした対人関係を形成することで、もっとも充実感があり、また生き生きとしている。それは他に代えがたい無類の歓びなのである。
他人に対してある情報操作を行う。その情報操作は、他者を自分の思うがままに動かし、自分はその外で傍観者になることで、当事者のプロセスを眺め、それが快であるようなのである。それをもたらしているのは、通常ではみえないままになっており、本人にも理由の不明な「プライド」である。もっと評価されてもよい、もっと理解されてもよいという思いは、社会内で多くの人がもつ思いである。ところがそうした思いを機会に応じて実行したい欲求が強く、実際に自分自身の特技(仕事、趣味、副業等)をつうじて、こっそりとしかも確実に行うのである。
テクニカルには、自分の技術を活用する。それがソフト開発であったり、営業で身に付けた口先三寸の誘導であったり、わけのわからない金融用語を織り交ぜた会話であったりする。いずれも自分の仕事のごく近くにあるやり方に多くの粉飾をまぶして実行するのである。それが自分の能力が十分に発揮されることだと当人は感じているのである。
それを道楽として実行する分には、一般に「騒々しい人間」だと思われるだけである。だが他人に実行させる多くの行為が、犯罪にまでつながる。そこが社会的騒動では済まなくなる場所である。犯罪にまでつながるほどのことを周辺の他者に実行させなければ、何かをやった気になれないということはありうることである。しかしある種の隠された自己顕示欲は、犯罪のようなことをしなければ、誰も知らないままに終わるのである。最も多くの人から理解され、周知される仕組みが、犯罪である。警察という国家機関が発表する最大のアナウンス効果が、犯罪抑止なのである。犯罪は、サイコパスの自己表現欲求の最大の手立てであるのかもしれない。
 サイコパスの現実感が、どこで輪郭を結んでいるかが最後の問いである。一般に三人称的な事象は彼らにとってほとんど現実感はない。そのことを指摘されてもただ薄らと何かが言われているとしか理解できない。哲学(現象学)で「志向―充実」と言われるさいの充実がないのである。要するにピント来ない現実を抱えているのである。そのため経験の仕組みが、二次的に異系発達と同じ仕組みになる。そのことは第三者的にみれば、一時的に異なった世界を生きる人というかたちで魅力に思われたりもする。またそれがどこかで「人間」というもののとても解除できそうもない謎にかかわっていることも確かなのである。サイコパスは、ある種の人間の限界にかかわる。この限界点で、自分を犯罪者として律する以外に選択肢を見いだせないものが、サイコパスである。おそらくサイコパスにとって、社会内で引き起こす騒動は、本業の脇にある副業のようなものである。それが簡単に犯罪にまで結びつく。なぜそうなるのか、サイコパスはそのことに思い至ることはなく、またそのことじたいに気づくこともできない。犯罪は繰り返されるが、そのことによってサイコパスの自己調整能力は、一切変化しているようにはみえないのである。

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