文明創発の舞踏――笠井叡氏の講演によせて
(Butoh as civilizational Emergence)
河本英夫(東洋大学)
Hideo Kawamoto (Toyo University)
笠井叡(1943-)は、大学進学を躊躇し延期している時期に、当時まだ無名だった舞踏家の大野一雄に出会い、舞踏の訓練を開始した。笠井叡にとって大野一雄は、異次元の存在だった。笠井叡は、多くの書物を読み、多くの事柄を書き表す著作家としての傾向をもちあわせていた。その点では、舞踏を作り上げたもう一人の巨匠である土方巽によく似た位置にいる。6年間(1979-85)のドイツ留学を経て、シュタイナーを内面化し帰国するが、日本文化のあまりの変化に驚き、また帰国後6年間は日本語で物を考え創作することができず、長期にわたり沈黙したままになる。当初は、「身体神秘学」とでも呼ぶべき、宇宙論と身体論を結合させた議論を展開していたが、帰国後の活動をつうじて「身体生理現象学」と呼んでもよいような独自の身体論を形成している。舞踏のなかでは数少ない哲学的な舞踏家でもある。
はじめに
身体は不思議な領域である。身体はみずから動く。身体についてどのようなイメージを抱き、どのような意図を籠めようと、身体はそれとして作動する。たとえ静止しているように見える場合であっても、身体は速度ゼロの運動を行っている。それに対して言語は、それを起動させなければ動かない。言語を自動運動させるためには、意識的制御を減らし、意識の関与を可能な限り取り除くような、ある種の作為が必要となる。それが自動言語というダダイズムに標榜された言語表現となる。だがそこにも作為の痕跡は残り続ける。身体は、逆にどのように意図と作為を籠めようと、意図や作為から動くことはなく、またそれに相応しい動きを行ってくれるわけではない。意図や作為や思いは、身体の作動にとって「きっかけ」に留まる。
身体は、それじたい動くが、動きのさなかでみずからの動きを感じ取ることができる。運動の感触はある。身体は動くだけではなく、みずからを感じ取る。そのため外から身体運動を観察する人にとって見えている姿と、身体動作は一対一には対応せず、また動きを内的に感じることと、それを外から見ることとは別の事態である。そこに「身体表現」が出現する。見るものにとっての身体の表現と、運動する身体がそれとして表そうとしているもの、あるいはそれとして表現してしまっているものはつねにずれていく。この隙間の間に「意味不明」「不自然」「健常」「常識を超える」「奇跡的出現」等々の度合いを表す言語表現が生まれる。あるいは別様に言い換えれば、言語を用いて埋めなければならないほどの構造的な隙間が、身体動作の外見と内的感触の間にはある。
この二つの事態の間を埋めていくには、宇宙や世界の流動やリズム性が、身体そのものの動きやリズム性に連動したり、共振したりする場面で、「運動での連動」という次元から考えていくか、あるいは声の出現のような内発性が宇宙や世界の動きに呼応すると考えていくか、複数の回路が考えられる。
舞踏家が、言語表現をみずからの課題として課す場合には、独特の色合いを帯びる。舞踏家は表現を身体で行う。しかし言葉による表現に代えて、身体を表現として活用するのではない。さらにやっかいなことは、身体行為と言語は、通常は内的に連動しているとは考えられない。だが言語が交わされ、言語の飛び交う環境内で、身体も身体動作も形成される。だから身体動作と言語の間には密接な関連はあるはずなのだが、それを関連付ける回路は、一つに決まるのか、それとも複数個の回路があるのかは、はっきりしない。この点は、全身が緊張の漲る患者に言葉がどのように届くのか考えてみることで、少し明確になる。
言語と身体行為の出現の場所にかかわるような大きな仮説を置いたとしても、その仮説からどの程度の事柄が展開可能性をもって明るみに出るのかははっきりしない。言語にみられるリズム性と身体動作のリズム性を比較しても、リズム性という対比項を持ち出して、無理やりに議論する形にならざるをえない、というような予想はただちに生じる。というのも身体動作のリズム性と言語のリズム性は、まったく別の事態だからである。両者の関係をなんらかの動きから導く以外にないことははっきりしている。この点で笠井叡は、一つの道筋を示している。それが講演のテーマとなった「声の出現」である。声は人間が身体とともに作り出す振動である。この振動に、環境にみられる振動との連動や、身体動作との連動が含まれており、さらに言語への道筋が出てくる。声の出現は、言語の起源と身体動作の起源をともに考察していくものである。あるいは言語がそれとして言語となり、身体動作がそれとして身体動作になるような分岐の場面へと繰り替えし回帰していくことである。
笠井叡にとって、身体はみずからに成り行くものであり、その生成プロセスには宇宙史的、文明史的な履歴が関与している。そこにはいくつかの基本的な枠組みといえるほどの建て付けがあると考えられる。
1 基本的な建て付け
笠井叡には、基本的な欲求とでも呼ぶべきものがある。「超越欲求」とでも呼ぶべきものである。物事を認識するさいに、個体の固有性に迫るのではなく、個体について「つねに身の丈を超えたところから語りだしてしまう」という欲求である。ところがこれは神学の方向へは進まない。あるいは神秘主義の方向へとは進まない。笠井叡にとっては、神は最大の犯罪者であり、最大の「自己嫌悪するもの」である。神はみずからを自己嫌悪するというのである。神はかりに世界を創造したとして、創造をやめて休養を取ることができるのかという。超越欲求とは、身の丈をこえたものへと進んでしまうという動きがおのずと起きることである。超越したものとして設定された当のものに視点を移動させたり、みずからをそこに仮託することではない。超越者への信仰は、笠井叡にとってまったく筋違いである。
超越するものを感じ取るさいには、感覚的確信をともなった敏感感応性が働く。敏感感応性は、多くの精神病理学的モードをもつが、いずれの場合にも感覚的確信であるために、経験のなかでみずからを距離化できない。敏感感応性は、訂正不可能という幼児性向を残している。そのモードの一つがドアの向こうや厚手のカーテンの背後や自分自身の後ろに人の気配を感じる「実体的意識性」である。大人でこうした性向が繰り返し出現すれば病的である。また敏感感応性は、そこに自足すれば固着となる。笠井叡はこうした超越者への固着を内在した神秘主義へとは進まない。感覚的確信が問題になるのではなく、どこまでもみずからを超えたものへと触れ出ていく運動が基本となり、初期には運動から宇宙生成を論じ、後期には運動が認識につながっていく回路の一つが「声」であるとして、そこを進んでいく。この超越欲求には、本人からすれば、相応の理由があり、敗戦や戦後に自分なりの決着を付けるというある種の同時代的な課題をみずからに課しているということであった。おそらく時代的な制約に本人の資質が重なったのだと思われる。
また笠井叡には、運動が物を作るという確信的な大前提がある。心臓が血流を生み出すのではなく、血流の運動こそ心臓を形成する、という仕組みを多用する。この事態は、実は現在の「自己組織化」だけではなく、オートポイエーシスの基本にも組み込まれている。宇宙にはそれに相応しいエネルギーの流動や振動がある。それが物を作り出す。作り出された物が運動の外に排出される場合が、結晶形成のような場面である。ところが外に排出された物質が、さらに運動を維持させ、運動の継続に資するようになるとオートポイエーシスとなる。ここでは運動と物の相互循環が形成されている。その自動的な循環とともに同時に形成されていくのが、「個体」であり「個体の自己」である。この物を介して運動が起動する場面は、物でなくても運動の特定のモードでも良い。この部分を入れておかないと、「個体化」「個物化」をうまく語れないままになる。
笠井叡の場合には、この個体化は仕組みとしては導入されておらず、むしろ宇宙生成史からの配置として語られることになる。個体化が語られない理由はよく分からないが、おそらく身体そのものの自己超越の感触を前景に出すためだと思われる。たとえば言語であれば、発声は、エネルギーを作り出す仕組みである。現実の音になる場合には、そこに純粋に動きがある。この事態を体感する仕組みが、あの音を発しながら音を消し、空気の動きだけにしていく場面である。いま「あ」の音を発しながら、音を消し空気の動きだけにしてみる。それが「音」を生み出す活動である。この活動の感触の場面にまで回帰する作業が、現象学では「還元」に相当し、意図せず笠井叡によって「身体生理現象学」が実行されたのである。
そして言語の獲得以前の身体を「地球身体」、母語獲得によって形成される身体を「民族身体」と呼び、さらに記憶の固有性によって形成される身体が「個人身体」と呼ばれる。そうなると「宇宙身体」も想定することができ、これは受胎以前の身体の可能性の状態である。こんなふうに外側に生成史を設定しておくことで、個体には、宇宙身体、地球身体、民族身体、記憶による個体身体が層のように折り重なっていることになる。こうした議論の立て方は、初期の「身体神秘学」から一貫して維持されており、身体運動が生み出される背景的な設計となっている。
さらに笠井叡の場合、宇宙の振動やエネルギーの流れと身体運動のリズムには、連動や共振が起きる。これは個体間であれば、カップリングと呼ぶべきことである。ただし、連動や共振というのは、実はそう簡単に起きることではない。大掛かりな前提も必要である。シュタイナーにも類似した議論が出てくる。
シュタイナーの構想の骨子は、自然界を、物質、エーテル、アストラル体の交叉として捉えることである。エーテルは、希薄化する気体であり、アストラル体は「世界霊」とでも呼ぶべきもので、動物と人間にしかなく、いっさいの意識的働きがなくても、おのずと足が前に出てくれるような場面で働いている。ある意味で、感覚-情動連動態である。
シュタイナーの場合、物質的な作用では、双極性がある。つまり一つの物質は、他のなにかと「一つになるわけではないが、不可欠の対関係」を形成する。電気や磁力のように二つの相反的な極が拮抗する仕組みを到る所に見出すのである。このあたりはゲーテ自然学やシェリング自然手哲学の後継者である。これに付帯して、さらに外惑星と内惑星という対概念が組み込まれる。内惑星は植物の生殖過程に作用し、植物の成長と世代の継続にかかわる働きは、月、水星、金星からくる。外惑星は動物や人間に適した栄養の備給にかかわっており、食べ物に含まれる火星、木星、土星から来た力を活用する。
また生命プロセスは、対立する二つの流れの合流点で生じるが、それらの流れにはそれぞれの担い手がある。シリカは宇宙からの栄養の流れがそれに乗って下りてくる乗り物であり、石灰岩は地上の流れが宇宙からの流れに出会うためにそれに乗って運ばれてくるエスカレーターである。色と光はシリカと関係があり、運動と音はカルシウムと関係がある。シリカは宇宙がそれを通して地中に注ぎ込み、また吐き出していく、夏と冬の流れの触媒となる。他方、石灰は春・秋の作用の触媒となり、それを保持し、適切なときに本流に戻す。シュタイナーは農業論でもこんなところまで行ってしまう。こうした直観がどこから生じるのかはよく分からないが、ドイツ各地の農民に実際講義して伝達していた。
これらは流体的働きの不均衡動力学とでも呼ぶべき性格を備えている。物質循環よりも、流動性の要素的なバランスを優先する。要素的なバランスのなかで最も生産性の高い状態を作りだすことに力点が置かれている。
こうした議論を背景としながら、身体の運動は、宇宙の流動や振動と共振する。そこに身体表現が出現するが、身体表現はそれとして固有化しなければならない。この固有化のところに、発声が関与し、その延長上に言語表現が出現すると考えられる。もちろん声の出現から言語の成立した後の言語表現まで、一貫して筋道が付くわけではない。そこに言語表現の固有化の幅も含まれている。ここに名人芸とも呼べる、さまざまな語りが出現してくるのである。
2 身体表現の言語
舞踏家には、独特の言語表現が出現する。どうしてこんな言語が出現してくるのかが不明なまま、出現してしまう。言語表現としても、特異なモードを作り出した3名の舞踏家を取り出してみる。経験と言語の隙間をどのように活用しているのかに焦点を絞りながら考察する。それぞれに固有の身体動作の位相を映し出している。
当然の事だが、舞台は先ず個体の死の検証から始まる、あやとりは同時にそこにある謎のくらがりでおこなわれるだろう。今宵、謹製8番にも及ぶタフタのドレスは殆ど打ちとめられると云う。そこに軟骨のフォルムを包んで見ようと云う。この日本で捕れた唯一の光の剥製の後頭部をすげ、頭に籾の死の箸をつけ、足にキッドの靴はいて。
(「剥製の後頭部を持つ舞踏家に寄せる」『銀河革命』現代思潮新社、2004年)
屋根から転げ落ちたとき、口に碍子をくわえていた。これだけの理由で故郷を追放された男の、あの風呂敷を握った掌の事を考えると、途端に真黒こげになってしまう。
(土方巽「犬の静脈に嫉妬することから」『全集』1)168頁
どこから取り出しても、たとえ署名がなくても、土方巽の文章は、それとして彼のものだということはわかる。比類がなく、真似をしようとすれば、二番煎じ以下に落ち込んでしまう。これが空前絶後の文章だと呼ばれる理由である。語と語の隔たりと繋がりが、文のリズム性で接続され、世界はくっきりとした動作の連鎖でなっている。世界や人間を名詞から語るのではなく、動作から語る。その動作の連なりはリズム性と速度から成る。だから土方巽の言葉や文章は、「動作音楽」なのだ。動作を基調とする動作の情景をつないでいく。それをリズム感と速度に適合的になるように語の音イメージを基調として整形していく。意味とはたんなる副産物である。
こうした文章に直面すると、人間はいまだ言語の活用について多くのことを学べていないという思いが付きまとう。土方巽の文章は、その意味で実験であり、またそのための手引きなのである。こうした言語は、場面の強さと音楽性だけで接続しているのだから、広義の「強度性」だけでつながっている。たとえば経験が作動の範囲を狭め、必死で自分自身を追い求め、みずからの経験の弾力のなさに住みつき、みずから弾力を失っていく時に、こうした文章は、当人にとって別様の回路に触れていく可能性に満ちている。そのとき分かろうとするのではなく、音楽のように言葉に体験を連動させることになる。
大野一雄から別の文章を取り出してみる。
魚が一匹入ってきた。魚が一匹入ってきたことによって、ぐらりと変わってきた。それだけの違いです。魚が入ってきたおかげで、関係が、死が生を照らしているように、生が死を照らしているように、生がいきいきと。さあ、そういうなかで自由にやってごらんなさい、内的に。
(大野一雄『稽古の言葉』フィルムアート社、1996年)17ページ
こうした体験は、配置すれば相対的な位置は比較的はっきりしている。物とのかかわりで、眼は通常見る器官であり、観るというようにしか活用されていない。おのずと見る、意識の能作を減らして可能な限り受動的に見る、見えるがままに観る、というように意識の側の志向性を減らしても、やはり観るという行為は続いている。そうすると観るということとは異なる仕方で物にかかわるのでわることが必要とされる。「眼は光によって光へと形成される」(ゲーテ)や、「眼は光を食べる」(ピアジェ)は、観るということの成立場面を描き、観るという行為の出現場面を描いている。そうした場面を残しながら、なお観ることが成立して後も、観ることとは異なる行為で物とかかわることが、大野一雄の文章によって示唆されている。
比喩的に言えば、眼で触覚的に物とかかわることだと言っても良い。それは視覚を身体とともにある触覚として活用することである。バラの棘を見ても眼が痛いわけではない。だが目が痛いという次元でバラを観るのである。また体験の次元では、観ることがひとつの行為であり、生きることだと言っても良い。観て分かるのではなく、観ることがそれとともに生きることだという次元で、観るのである。
この経験のレベルは、配置としては分かるものの、簡単に実行出来はしない。その次元は誰にとってもすでに実行されてしまっているのであるが、同時に志向的に観ることによって、もはや回復できなくなっている次元である。そうした次元を認識のなかの配置によって捉えるのではなく、そうした次元を体験として実行する回路を探し出す。これが舞踏としての観ることである。こうした次元は、物や世界や他者を理解して配置するのではなく、また他者の自己理解を誘導するのではなく、たとえば患者とのかかわりが別の体験の次元に届くようにかかわることの内実を示している、と考えてもよい。臨床上のかかわりのなかで、こうした体験の次元にふとした瞬間に触れることは、多くの人が経験していることだと思う。
入ってきた魚とともにリズム的に行為することが、同時に一つの治療効果であるように行為することができれば、花村誠一の言う「強度の共振」となる。ただしこの場合には、強度の変動に対しての「敏感感応」が必要であり、強度性を運動のリズム性へと変換するだけの芸術的な訓練が必要となる。
土方巽が、文章を動作の情景を基調とした一つの音楽として作り出したときには、文章そのものは、身体表現とも意識的な主体とも並行する独立の領域を形成していた。この領域を形成するさいに多用されたのが、「強度性」である。ところが大野一雄が描き、それによって指示している体験的次元を、実行しようとすると半ば必然的に強度性の経験が現前してしまうというのが実情である。「強度」は、比喩的にはカレーライスの味を「三角形」というように、論理規則や言語規則や意味とは別個に固有の連動性を作り出す「感覚-運動領域」であり、そこには緊張度や運動性の速度感等々が含まれている。「理解する」とは別の仕方で体験領域に接続することが、ここで試みられることである。
さらに笠井叡からも取り出してみる。
魚にとっての水圧、水温の違い、また海流は、一種の触覚的な音楽体験のようなもので、この感覚の働きで、魚は海の生命的な動きと一つになって生きています。そこでは「魚が海を感じている」のではなく、「海が魚を通して、海自身を感じている」と言うべきでしょう。まるで魚が「海という生命」の感覚器官であるかのように。
(笠井叡『カラダという書物』書肆山田、2011年)34頁
この文章には、笠井叡固有の「超越欲求」がごく自然な形で現れている。体験を世界もしくは環境へと開くと、意識の自己制御を解除して、身体とともに世界や環境へとつながっていく回路が前景にでる。そのとき世界や環境をみずからで組織化するものだと考えると、意識的主体は、その組織化をともに担うものとなる。その場面をパラフレーズすると、みずからが組織化の一部を担うように世界や環境は、みずからを組織化するということになる。このことは意識的主体にとっても、リセットの場所とリセットの仕組みを示している。感覚することは、運動ともにある一つの行為なので、まさにそれによって自己のリセットを行う。こうした体験の場所は、心のリセットにとって、感覚や感情の外在化へと進み、制御変数をさらに増やしていくことにつながる。それは行為主体から見れば一つのイメージなのだが、みずからの形成とともに環境や宇宙そのものが形成されていくイメージなのである。そして母音の出現のように、身体行為とともにある場所を指定することで、心のリセットにとっての局面を示しているのである。
舞踏家の言葉は、つねに身体とともにある行為と結びついている。それは多くの場合身体行為そのものを形成する場所でもあるので、舞踏にとって不可欠の場所である。そしてそれは言語ならびに言語的意味が出現する場所でもある。このことは精神医学的な再生にとってつねに付帯的に示唆をあたえ続ける場所でもある。というのも声の出現から語りを誘導し、声という運動のモードの形成を促すことで、「自己」そのものを作り替えていく可能性が開かれるからである。声には、心の歪みが身体の緊張として現れてしまうような場面もあれば、心の拘束が経験の速度の変換を制約してしまっている場面もある。またただ反復的に同じ語を語り続ける場面もある。そうした場面にあって、笠井叡の試みは、声の出現からリセットを開始するという豊かな可能性の場所を提示しているのである。
参考文献
大野一雄『稽古の言葉』(フィルムアート社、1996年)
笠井叡『天使論』(現代思潮社、1976年)
笠井叡『精霊舞踏』(現代思潮社、1977年)
笠井叡『神々の黄昏』(現代思潮社、1979年)
笠井叡『銀河革命』(写真集、2004年、現代思潮新社)
笠井叡『カラダという書物』(書肆山田、2011年)
笠井叡『カラダと生命』(書肆山田、2016年)
笠井叡『透明迷宮』(写真集、平凡社、2016年)
土方巽『全集I,II』(河出書房新社、2005年)