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二重性の変奏

河本英夫

 過ぎ行く瞬間がある。その瞬間にしか捉えられない事がある。鳥取の兵庫側県境の海岸沿いは、海岸から小高い山が切り立っている。この山沿いは、海沿いと言っても同じである。つまり延々と続く海面から立ち上がる絶壁である。この絶壁を上下動を伴って蛇行するように山道が続く。現在この道路は舗装されていて、かろうじて一台の車が通ることができる。鳥取郊外から城之崎まで続くこの道路は、小高い山の起伏に合わせて何度も峠越えのような眺望が開ける。眼下に広がる海と、くっきりと境界をもつ山のまるで切り取られたような風景である。峠は、越えてきたものの余韻と、一挙に開けていくものの際限のなさを含んでいる。一歩下りにかかると、この際限のない明け開けが、まるで画面が切り替わるように消えていく。消え去るものは、瞬間の余韻を残す。ドライブでの風景は、逆走してみれば再現できる。だがただ一度だけという瞬間は、現実の経験のなかには無数にある。瞬間は、まさにそれが瞬間であり、再現不可能であることによって、時間を越え出てしまう。瞬間は時間の断面ではない。むしろ時間のなかに属さないのである。そこを超えると風景が一変する地点がある。だから通り過ぎる瞬間に、超えていくものの抵抗感と局面の不連続な転換の印象がある。風景のこの転換点にあるのが、敷居である。[1]伝統的には、敷居はヒポクラテスの分利(クリーゼ)に近いのだろう。病状の局面が変わる地点がある。後にクリーゼは、クリティーク(批評)に継承される。敷居が社会的、制度的な負荷を帯びているとき、敷居を越えることは一種の通過儀礼となる。
 キュビエという博物学者がいる。ラマルクと同時代のフランス人で、当時のフランスアカデミーの中心的な人物だった。動物の各部分の機能的なつながりの規則を見出した人で、発掘された骨を一本見れば、その動物がどんな全貌なのか自分は描くことができると豪語していた。その確信に満ちた勢いに、ヘーゲルでさえ驚嘆している。その挙句、骨の一本から、およそ存在しそうもない動物まで描いた。骨格と内臓のつながりの基本形さえつかんでしまえば、ごく一部の断片から全体像を描くことはできる。この手順を逆にしてみる。およそ輪郭をつかんだ対象の一部に、全貌を凝縮させてみるのである。すると断片のなかに、全貌の輪郭についての直観と感性の一切を含ませるように、断片を切り取ることができる。言語的な表現では、これは換喩に相当する。恒常的に赤い帽子を被っている女の子全体を「赤頭巾」と呼ぶようなものである。
ところでこの部分-全体関係で働いている断片の切り取りを、生成状態にある全体で行ってみる。昆虫の変態のような場面で、それぞれ全体を閉じ込めるように断片を切り取るのである。全体像は次々と変わるのだから、それぞれの断片は同じ全体の異なる切り取りではない。むしろ変貌する全体のそのつどの切り取りは、ほとんど不連続な配置を作り出す。部分-全体の配置関係を一切残さないまま、にもかかわらずそれらは生成するものを暗示する不連続な配置である。この事態を生成する全体について語っても、不連続な断片である星座のような配置について語っても、本当のところいずれも片手落ちである。不連続な断片だけの接続で作動する経験はある。そのさい作動そのものを予感することはあるが、それでも経験は断片を進む。瞬間も、不連続な断片の配置も、ベンヤミンに固有のものである。
 少し論理的に言い換えてみる。生まれるもの、生まれ続けるもの、生まれてしまったもの間には、時制の違い以上のものがある。生まれるものは、生まれ行くためのすべての条件をみずからに備えている。生まれ続けるものは、生まれることの形をそのつど示す。生まれてしまったものは、前史の痕跡をみずから刻印する。生まれるものの表現は、生まれ出て行く可能性を予感として示し、生まれ続けるものの表現は、表現自体が一種の生成であり変化であり、また生まれてしまったものの表現は、思い起こすことのできない過去を描かれたものの一歩内奥に示唆している。表現を断片もしくは切り取られた風景だとしたとき、生まれるものの断片は、一切の可能性をそこに含むのだから、断片そのものは神話的であり、切り取られた断片は一種の象徴となる。瞬間の全体性が、ベンヤミンのとっての神話の特質である。また生まれ続けるものの断片は、断片自体が移ろい変貌し、過ぎ去った他の断片とただ外的に並置されるので、アレゴリーとなる。アレゴリーは、連続する瞬間の流れのなかに存在する進行である。生まれてしまったものの断片は、内奥に直観される過去が、埋めようのない距離感をもって出現するとき、アウラとなる。断片の批評家であるベンヤミンの基本的な道具立てが、こうして勢揃いする。断片は、つねに何かの断片なのだから、それぞれには独特の直観と感性が働いているに違いない。ここではベンヤミンの思想的な立場にはかかわらない。立場は、いずれにしろつねに粗い要約である。むしろベンヤミンの経験の質にアプローチしたいと思う。瞬間や一回限りの断片の経験は、通常宗教性へとつながる。こうした経験をもてばほとんどのものがそうなる。ところがベンヤミンは、それらを創造性へと接続するのである。

稀なるもの

天啓のように到来するものがある。雷に打たれるように新たに出現する経験がある。新興宗教の開祖の追想録や、芸術家の閃きの回想には、このタイプの経験が頻繁に出現する。既存の経験のどこにも接続点をもたず、既存の経験のどこからも導出することはできない。どのような経験にも回収できないのだが、間違いなく新たな経験である。こうした経験をもっていれば、何が語られているかはすぐに分かる。逆にこうした経験をもっていなければ、およそ意味として察してみるよりない。そうした経験をしてみようと思っても、意識の志向的な努力によっては、そうした経験に進んでいくことはできない。
ところが意味になった途端、既存の経験の意味の違いとして配置される。これは新たな経験ではなく、配置された経験の残滓である。不連続な経験やかけがえのない経験、他のなにものにも回収できない経験は、つねに「あたえられる」ようにやってくる。だがあたえられるというあり方は、すでにその経験を追憶のなかで反省している場面である。確かに瞬間の経験は到来する。だがそれは現象を志向的に構成することに対置された経験なのではない。志向的に現象を構成することは、およそ深呼吸をし、停止した意識のまなざしに起きていることである。ところが瞬間に到来する経験は、一つの経験の出来事であり、経験の形成である。こうしたことは経験の行為のレベルに起きている。一回限りのかけがえのない経験は、通常どのようにしても意味の配置のなかに回収することはできない。この回収できなさが反省的に意味づけられるとき、一切の身の丈を超えた超経験的なものに触れていることを確定することになる。これは反省された宗教的体験に行き着く。類似したタイプの経験を最近ではレヴィナスが語り、話題になった。しかし稀なるものの経験を宗教性へではなく、創造性に接続する場合、いったい何が起きるのか。
不連続な感覚的確信がある。視界全域の光の量が変わるとき、物の見え姿が一挙に理由なく変わるとき、部屋の壁の一面だけから、さらさらと恒常的に水の流れる音が聞こえ始めたとき、身体の運動感が突如変わるとき、こうした変化は何が起きているのか分からなくても変化の確信はある。時間のなかを流れている恒常的変化の経験に、突如変化率が出現したと言ってもよい。無理に分かりやすくすればそう言ってもよい。感覚的確信は、もっとも身近なものであり、経験と距離のない形で出現する。だから確信なのである。
ところが変化率に変動があり、大きな変化率から小さな変化率までおのずと変化率の変化が経験されれば、この近さに変動が及ぶ。遠さ、近さの距離感に変化が生じる。このとき感じ取っている変動する当のものを名指す言葉を、人間は手にしていない。そこでやむなくそれを「強度」と呼んでいる。ドゥルーズの強度は、基本的に作動する感覚経験の変化率のことである。感覚的経験の対象を、近さ、遠さで表現するようになっていれば、その人はすでに強度的な経験を行っている。創造的分裂性の経験を行っているのである。話題になった映画『ビューティフル・マインド』で、ノーベル賞を受賞した主人公のナッシュが、新聞を見ながら複数の特定の単語だけが、突如明るく輝いてしまい、それらの単語をつなぐと暗号解読のように別の意味が出現することに夢中になっているシーンがある。活字のなかに不連続に輝いてしまう単語と、そうでない単語の距離感の変動が生じている。そしてそこから暗号解読が、自分に課せられた使命であると確信し、秘密警察によって要請された任務だと確信する。こうなればもう典型的な分裂性の妄想である。この単語の距離感は、空間的な距離感ではない以上、強度的距離とでも呼ぶ以外にはないのである。[2]
ところで感覚的確信の対象が、確信であるにもかかわらず、経験にとっての、あるいは経験の全域にとっての、限りない遠さとして捉えられたとき、それがアウラである。おそらくここには確信的な近さを、対象の距離感に転換するための「投射」の原理は一切関与していない。投射は、内的な感情のひずみを、外的な対象の見え姿に変換する働きであり、感情のひずみを別のひずみに置き換えて、認知の対象とする機構である。フロイトは投射の機構に四種類の仕組みを設定することで、神経症性の妄想の基本的な機構を組み立てることができた。[3]たぶんこうした投射の仕組みは関与していない。
アウラを感じるためには、感覚的確信が同時に無限なものへの直観に伴われていなければならない。無限なものへとつながる直観を抱えたまま、不連続な変化を感じ取るのである。無限なものは無形であってよい。感覚は、無形な無限なものを直接感知することはできない。また知覚は見えないものを捉えることはできない。だが直観は無形な無限性に触れ、見えないものに直接到達することができる。対象の遠さは、この無限性に触れることからやってくる。瞬間の確信が、一足飛びに無限性へと触れるために、一切の動きを超えた対象の遠さの直観に転換されている。だが一切の動きを停止させ、この停止に閉じ込められたものが、無限遠点に映し出されると考えるわけにはいかない。こう考えたとき、逆に無限性が経験を支え、経験の根拠となり、果ては世界の根拠となる。ここから宗教性へはわずか一歩である。ここでは無限性という根拠のもとで、保証され確保された情感が、パッション(受苦)として、経験の全域を浸すことができるからである。強度性の運動を、直観の対象へと投影する仕方はある。ちなみに強度の変動である変化率を、対象の近さ-遠さに変換してみる。アウラは、運動性の強度が直観をつうじて対象の遠さとして出現したものである。これが創造性につながるのは、触れている無限なものの生成と、対象の強度的距離が変動することによる。
ベンヤミンが最大の労力を費やして手掛けたロマン主義に、無限なものに触れていくための様々な技法があった。そうした技法の最大のものがシュレーゲルの「イロニー」である。これは皮肉や揚げ足取りではない。イロニーは形式の秩序性を破壊し、創造へと向かうさいに無限性に触れる。[4]すでに七、八年前になるが、少年戦争アニメの傑作『エヴァンゲリオン』が異様な盛り上がりをみせていた頃、登場人物はまったく同じで、ストーリーが次々と変わる劇画が制作された。お笑いをまぶしたもの、ただのナンセンスのボケを含めて、別立ての展開を構想するサブストーリーがいくつも制作された。物語は、つねに別様でありえ、別の展開が現実の作品の際限ない裾野を示している。こうしたサブストーリーがイロニーの典型である。形式や特定方向へと向かいがちな感情の方向を解除し、とりわけ深刻になりがちな作品の趨勢を転換し、それ自体は作品の作品になることによって同時に無限性への予感をもつことができる。そこに生じるのは、特定の対象をもたない空笑に似た笑いである。冷笑や嘲りや、ましてや思い出し笑いではない。既定の感情の一切を解除してしまったあとに残る、対象も傾向性もない笑いである。一切の規則性が解除され、気負いも力感も消えてなお、自分自身で形成回路へと入って行くその場所に出現するのが、この笑いである。
こうした無限性には、実のところ部分-全体関係はどこにも残っていない。あるいは無限性が出現する途端、対象化される全体性はもはや問題にならない。ここでは表現を無限性の自己限定だと言うわけにもいかない。無限なものが、みずからを限定して可視的な表現となる場合、無限なものは限定されたものに丸ごとみずからの全貌を示すことはできない。そのため逆に無限なものは表現を止めることもできない。無限なものと、それが限定された表現の間の終わることのない二重性がこれである。この二重性もロマン主義のなかにあった。[5]無限なものから出発する限り、部分-全体関係を維持して、こうした二重性を二重性のまま継続することができる。ところが作品の断片が、それ自体自壊することによって、あるいは自壊することをつうじて無限に触れる場合、自壊という変化のなかに兆しのように無限性の内奥が顔を出すだけである。作品という個体は、終わることのない個体の自壊のなかで、無限性とかすかにつながる。
表現が作品という個体に完結するとき、逆に完結しそうもないものが完結していることになる。自壊することをつうじて無限性へとつながるのであれば、作品は本来完結しようがないはずである。完結するはずのないものが完結するところには、固有の強度が出現する。この強度性が、ちょうど一周回った同じ位置の対極点のように、無限性と二重性をなしている。強度性が変動を始め、度合いを低める瞬間に無限性が感知されるように、強度と無限性は一回転して裏返しでつながっている。こうした苦し紛れの言い方をしないと言い表せないような事柄が、ロマン主義には含まれている。そのため容易なことでは決着がつかないのである。
若き日のベンヤミンは、この強度をヘルダーリンの詩に感じ取っている。詩人は、しばしば同じ主題を細部を変更しながら、何度も繰り返し歌うことがある。ヘルダーリンの「詩人の勇気」と「臆心」も、前に書いた詩をたまたま忘れてしまい、書いておかなければならないという気掛かりだけが残り、この気掛かりを満たすように書き上げたとき、実はほとんどの内実は、忘れてしまった詩にすでに含まれていたというタイプの二つの詩である。そして両者に含まれる微妙な違いこそ、批評が扱うテーマである。この議論のなかで、強度は作品と生、精神と生、言語と生、あるいは直観と精神、質料と形式のようにおよそ質をことにするものが同一性へと転換してしまうところに感知されている。[6]質の異なるものは色と形のように部分-全体関係に入ることはできないが、密接にあるいは緩やかに連動している。この連動を分析的に言い表す言葉を人間は持ち合わせていない。そのためここでも苦し紛れの表現になる。連動の度合いは変化するので、強度性の度合いも変化する。この変動の極点で、質の異なるものが一つになるような地点がある。言葉の置き換えが利かないと感じられ、言葉を支え、言葉によって表されているものと、言葉との距離感が一切感じられない場所である。あるいは言葉が何かを表しているのではなく、言葉をつうじて何かを理解するのでもなく、言葉がひとつの啓示であるように内容を過不足なく感知させる地点がある。こうした言葉を含むからこそ、詩だと言いたくなる言葉がある。ベンヤミンは、こうした特殊な言葉に突き当たる特有の感度を備えていた。

断片的情景

読後に完結感が感じられない小説がある。到りついた終結に対して、描かれてきた場面に収まりの悪いものが多すぎる場合と、描かれてきた場面の推移からみて、到りつく終結がおよそ釣り合わない場合である。カフカにはいずれの小説も複数ある。そしてそうした収まりの悪さを積極的に理解してみる。物語にとって完結感がないことは、作品の完成度と独立の問題だと考えてみるのである。これは物語の完結性に異を唱え、作品を意図的に脱領域化する戦略的離脱とはなんの関係もない。およそ物語批判とは、無縁なところで完結性と完成度を分離するのである。作品は場面からなる。いくつかの場面がくっきりと浮かび上がるように、それぞれの場面を断片的に配置してみる。心理描写は余分な解説である。この余分な解説が不要なほど場面だけを描く。それらの場面をストーリでつないだとき、ストーリには間違いなく無理がくる。この無理をそのまま維持し、断片の推移だけを取り出してみる。アレゴリーで行われていることを、そのまま情景に拡大するのである。
カフカの基本的な情景として、「事務室や公文書保管室、住み古されて黴臭い薄暗い部屋部屋」をベンヤミンは取り出している。これは経験が謎のなかに巻き込まれていくさいの基本的な情景である。ある朝目覚めたら逮捕されている『審判』の部屋も、やってきたにもかかわらず城への連絡が取れないまま投宿している安宿の部屋も、およそそうしたものである。そしてただひたすら行為だけが描かれる。カフカの人物たちは、ときとして拍手する。その拍手は、蒸気ハンマーのようである。登場人物の情景は、いずれも年季を終えたのに未熟であり、消耗しきっているのにようやく長い途についたばかりである。しばしば出てくる人物の姿は、うなだれたものである。作品の全般的な情勢は、救済の語られる神話のさらにそれ以前に踏み込むことである。
いま断片となった風景に微妙な変更を加えてみる。カフカの好きな断片に、「掟の門前」の話がある。『田舎医者』で小話に作り上げ、『審判』で作品の転換点に組み込んでいる。ある男が一生の終わりに近づき、一生の思い出にと掟の門の前にやってくる。ところが門番に今は入れないので、帰れと言われる。そのまま引き下がるわけにもいかず、門の前で野宿し、翌日また門を訪れる。そうするとまた今は入れないので、帰れと言われる。何度かこんなことを繰り返し、そのつど追い返されるので、ある日門番に聞いてみる。門のなかに入ると何があるのかと。そうすると門番は答える。門を入れば、次の門があるだけだと。そこでさらに聞いてみる。最後の門の先には何があるのかと。門番は答える。門に最後はない。そこですごすご引き下がって疲れ果ててしまう。衰弱しきった男の様子を見に、門番が近づいてくる。そこで最後の力を振り絞って聞いてみる。長い間門前にいるが、自分以外には誰一人門に入ろうとしてやってくるものはいない。何故なのかと。門番は答える。これはお前のためだけの門だからだ。すべての体力も精神力も使い果たし、もはや言葉を発する気力さえなくし、男は寿命の最後の一滴を使うように聞いてみる。門番、あなたは私のためだけに門の前にいるのか?
この話のどの場面もことごとく解説をつけたくなる誘惑に駆られてしまう。それが場面の本性である。こうした場面をいくつか書き、ストーリがおのずと生まれるまで待ってみる。そしてストーリの進展に合わせて場面を埋め込むように配置するのである。そうすると印象深い場面の振る舞いと情景の飛び石のような羅列が出来上がる。ところが場面は別のストーリのなかにも配置できるのだから、単独でも成立する。このとき場面は、単独での喚起力とストーリに配置されたときのストーリの剰余としての二重の喚起力をもつことになる。すると二重の喚起力を備えた場面を随意に取り出していく作業は、作品の制作の立ち上がりの場面を捉えることになる。ベンヤミンのカフカ論は、そうした場面の切り取りから成り立っている。
ところで先の「掟の門」という話の記述は、カフカが用いたものから、こっそり作為的に二箇所変更してある。話の本筋にはほとんどかかわらないように、二箇所変えておいたのである。後にさまざまになされる解釈の一部を場面に組み込んでしまったと言っても、場面に別の含みを持たせたと言っても、ほとんど言い訳にしかならない。そのままでは含みの多すぎる場面を少し変えてみたかったというのが、正直なところである。第一の変更箇所は、すべての門のさきには何があるのかという男の問いである。そして門には終わりがないという門番の回答である。これは門の前にいようと、門のなかに入ろうと、本当は何も変化がないことを暗示するための変更である。掟の門前まで行き引き返すことを繰り返すことと、門のなかに入っても、また次の門が待ち構えていることを繰り返すことは、本当は同じことなのである。門のなかに入ることが、いったい何に入ったことになるかがわからないのだから、門のなかに入らなくても入っても何一つ変化はないことになる。
掟の門の話を奇妙だと思わせるのは、入れない門であれば、門の外見だけを見て男はさっさと田舎に帰れればよいではないかという疑問である。男はそうしてよかったはずである。観光地には中に入れない立派な門がいくらでもある。立派な門だけを見て、皆田舎に帰るのである。ところが入れない門だからこそ、入ろうという必死さが男の奇妙さになっている。ここから門に対しての両義性が生まれる。この両義性は、入ろうという希望と、入ることが禁じられているという両面価値性である。しかも入ってもまた次の門が待ち構えているだけであれば、門に入らなくてもデッドロック、入ってもデッドロックという二重塞がりのダブル・バインドだという解釈が生まれてくる。[7]
こうした二重塞がりは、実は頻繁に起きていることである。銀行に融資の申し込みに行けば、何度も追い返され、ひとたび手続きを開始すれば、また次の手続きが待ち構えている。それどころかベンヤミンのようにジャーナリストとして原稿を切り売りするものは、締め切りの間際に原稿を出してはつき返され、原稿を出してもまた次の締め切りがくる。これの繰り返しである。門をひとつくぐるように締め切りを越えていっても、さらには次の門が待ち構えている。これはごく普通のことではないのか。
入ることも入らないことも、同じように困難が待ち構えている。だがそのとき問題はそこにはないことがわかる。入っても入らなくても何一つ変化がないことがある。このとき掟の一切解除されてしまう。掟をくぐっても、くぐらなくても同じだからである。だが掟が解除されてなお、行為は反復されることがある。この反復は掟によって生じたのではない。掟の一切が解除され、制約も動機もなく反復される経験がある。この行為の反復は、たとえきっかけがなくてもおのずと別様の経験へと移行していくことができる。掟をいっさい解除してなお自動的に行為を反復し、自在に形を変える経験がある。それがオートポイエーシスの経験であり、経験の変貌がメタモルフォーゼである。こうした経験に届かせるために、この部分を変更したのである。
もう一つの変更点は、最後の箇所である。掟の門が男のためだけの門であれば、この門は男にとっての私的な運命である。ここで男は、門番に聞く。門番、あなたは私のためだけの門番なのか。門番は、この問いには答えないし、答えてもおそらく答えにはならないだろう。他の誰にとっても意味はないが、自分自身にとってだけ運命であるような経験は確かにある。時としてそこから秘教が生まれる。だがこの秘教の出現には、共同体に対置されたかけがえのない「私」という極端な要約が含まれている。共同体の個々人は、誰にも共有されない、異なる同じような運命を抱えていてもおかしくない。「私」に秘教的な体験が生じるなら、他の人にも秘境的な体験が起きていてもおかしくない。そこが省略されて、すべては共同体と私の落差に帰着される。こうして共同体との偏差が、虚構された私の固有性になる。だが秘教の出現には、誰かが必ず立ち会っている。もちろん立ち会う気など毛頭ないにもかかわらず、おのずと立ち会っているのである。この立ち会っているものから経験は進展する。ただやってくる人を一生追い返すだけの門番は、いったい何をしているのか。これは男にとっても、門番にとっても、答えようのない問いである。こうした微妙な変化がイロニーであり、作品の作品を形成することである。作品の作品が可能な地点で、なお作品を解釈することが批評という作業である。
掟の門は、『審判』のなかでは、職場である銀行内で居場所をなくしたヨーゼフ・Kが融資のための相談で、取引先のものと会うために銀行を出て行く場面で活用されている。このときヨーゼフ・Kは、ひとたび銀行から出て行けばもはや戻る場所はないと感じ取っている。指定された場所に出かけていくと、そこに「掟の門」の語る僧侶が待ち構えている。そしてこの話が語られるのである。先に変更した「掟の門」は、なおこの段階でも別様の経験の可能性があることを暗に示すものである。にもかかわらずヨーゼフ・Kは、掟の門の話に、筋違いの反論ばかりする。この情景が問題なのであり、この作品全体の謎と解答の凝縮した場所である。ヨーゼフ・Kは、際限のない言葉と際限のない自己主張を維持している。だがもはや現実との接点はどこにもなく、戻るべき場所がないのである。話の変更はこの情景を際立たせるものである。おそらくベンヤミンも機会と時間的な余裕があれば、こうした話の変更は実行できたはずである。
断片を微妙に変化させることは、アレゴリーの内容を少し変更することであり、それによって作品が別様に生成してしまうことである。全体が生成し形を変えて、断片のもつ喚起力も、全体と断片の関係も変化していく。これは解釈学的循環に似ているが、解釈学的循環では、部分-全体に同じ形式的関係が維持されている。この形式的関係に変更が及ぶとき、生成する全体との関連が明示されないまま、ただ断片が並ぶような批評が出来上がる。作品は断片の接続だけで進行しうる。だがそれぞれの断片はなんの断片なのかがついにわからないままである。これは物語による秩序化を基本にする神話よりもはるかに前段階に位置づけられる局面である。ベンヤミンの歴史哲学的な配置ではそうなる。断片は、ただ断片と接続するが、そのことは同時に全体性の形成と、断片と全体との関連を切り替えていく。おそらくこれはいまだ人間が言語化できていない二重性の新たな形態である。
だがこれによって思想からみたベンヤミンの外形の特徴となっている、ある種の理解しにくさの由来がいくぶんかはっきりする。ベンヤミンの思想の外形は、一般的に言えばどこまでも神話的であり、どこかで神秘主義的である。複製技術時代において、複製の利かないものの一回性を、一回的だからこそ普遍性をもつと言い、食欲を超えてなお際限なく食べ続けることによってしか食欲の内実を知ることができないと言うとき、人間の経験の限界を超え出てしまう現実に直面している。通常これらは個々人にとって身の丈を超えた運命と感じられる。ところが運命の位置から再編される物語は、物語の内容によってではなく、物語る位置によってすでに救済が約束されている。たとえどのように悲劇的な結末をもつものであっても、悲劇的な教訓を含む。救済が約束され、救済が描かれた現実の外からやってくるものは、おしなべて神話である。神話に対するベンヤミンの止むことのない批判は、おそらくここからやってくる。神話的なものに対するベンヤミンの両面価値性は、神話的なものと神話以前のものという歴史哲学的な配置で捉えるのがわかりやすい。だがこう捉えることは、掟の門前の男を同様、おそらくベンヤミンの作品の手前に留まり続けるのである。


1、メニングハウス『敷居学-ベンヤミンの神話のパッサージュ』(伊藤秀一訳、現代思潮新社、二〇〇〇)。
2、ナサー『ビューティフル・マインド―天才数学者の絶望と奇跡』(塩川優訳、新潮社、二〇〇二)
3、フロイト「自伝的に記述されたパラノイア(妄想性痴呆)の一症例に関する精神分析学的考察」第三章。『症例研究』(小此木啓吾訳、日本教文社、一九八四)
4、シュレーゲル『ロマン派文学論』(山本定祐訳、冨山房、一九七八)
5、メニングハウス『無限の二重化』(伊藤秀一訳、法政大学出版局、一九九二)ことにII、III章参照。
6、ベンヤミン「フリードリッヒ・ヘルダーリンの二つの詩作品」『ドイツ・ロマン主義における芸術批評の概念』(浅井健二郎訳、ちくま学芸文庫、二〇〇一)所収。この翻訳は徹底的に工夫してある。批評の概念に人間の言語の限界をそのまま持ち合わせたような術語を用いるとき、翻訳用語が過不足なく対応することは、ほとんど稀なことである。こうした稀な翻訳の典型になっている。
7、たとえばデリダ『カフカ論-掟の門前をめぐって』(三浦信孝訳、朝日出版社、一九八六)参照。ここでは掟は、ユダヤ教的な絶対超越、あるいは絶対他者の意味合いで理解されている。確かに絶対超越を外してしまえば、人間であることの条件を失うような場面はある。人間であり続けるために、避けがたく要請される規則や法はある。父親殺しの禁止や、近親相姦の禁止も一例である。フロイトが『トーテムとタブー』で取り上げている。だがどのような掟も禁止としてやってくる。それが法につながり、規則につながる。この禁止を迂回し、禁止の手前と余白にさまざまな経験の可能性を開くことはできる。だがこれはどこまでも掟に抗い、掟とともに語られる戦略的迂回になっているように思える。禁止という作為性をもたない掟の代表は、言語そのものである。作品の作品は、掟に対して戦略的迂回ではなく、別立ての作動回路を開くことである。
(かわもとひでお・科学論)

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