2010年4月17日 東洋大学白山
神経現象学リハビリテーションの分岐
河本英夫(東洋大学)
2010年2月4日のサントルソでのマスターコース講演で、ペルフェッティはみずからの開発した「認知神経リハ」の歴史的経緯について述べている。そこではペルフェティ自身が意味づけていることと、彼がリハビリの技法として実行してきたこととの間には、いくつもの箇所で隔たりがあることがわかる。この隔たりの箇所は、リハビリの展開にとって分岐点を含む箇所である。一般にみずから開発し、実行してきたこと、すなわち行為として行ってきたことと、それについての言語的記述は食い違うことはごくありふれたことである。しかも開発にかかわる部分は、本人の意図したことと異なることが出現してしまう。これもごく普通のことである。そのため開発者には、つねによき「コーチ」やパートナーが必要となる。しかもそのさいこうした隙間や食い違いを、さらにそこから発展的に展開するためのまたとないチャンスだと捉えるような感性が必要となる。
1 トタール・リコールか
ペルフェッティが1970年代にリハビリの現場で直面し、そこで立てた問題もしくは課題は、以下の三点である。回復どのようにしてなされるか、身体制御はどのようにしてなされるか、行為はどのような仕組か。これらの大問題に対して、固有のアプローチを行うことが、認知神経リハのプログアムのコアになっている。第一の回復については、学習過程こそ回復をもたらすという方針設定となっている。ここから認知への軸足設定が起こる。第二には、制御は情報制御類比的に行われるが、外的情報は運動をプログラムするためにも活用されることを大前提としている。運動は世界を知るために行われているのであり、世界を知ることは運動を引き起こすためのニーズであり、知るというニーズから運動が生まれる、としている。こうした大前提のもとで、エクササイズを組み立てることが、基本方針として設定された。ここでの「知る」は当面、反射的な刺激-反応以外のすべての認知を指すと考えておいてよい。またこうした大前提を一言で要約すれば、「人間とは、知るために運動する生物である」ということになる。第三の行為については、情報構築の作業として、アノーキンをモデルとして設計すべきだとされた。ここで出てくるのが求心性情報であり、何をどのように知覚しているかを仮説として設定するようなエクササイズを行うようになった。それが認知課題であり、そのなかで患者がもつのが「知覚仮説」である。この内実は、どのような知覚をしているか、という点にかかわっている。
それから40年後の現在の治療作業では、いくつかの際立った変更がある、とペルフェッティ自身が述べている。まず、第一に求心性情報の組み立てを情報構築に置き換え、情報構築は、世界もしくは環境との間の対話的な関係形成だという点に力点が置かれるようになった。また知覚仮説に換えて、運動イメージを中心に置くようになった。このことは治療のなかにイメージの活用が大幅に増えたことに関連している。第三に患者自身による言語的記述、患者がどのように自分の身体を捉えているかを積極的に活用するような治療設定に置き換わっていった。
こうした現行の展開にもかかわらず、あるいはまさにこの展開ゆえに、多くの課題と限界をさらに生み出してしまっているというのが実情である。それは同時にペルフェッティ自身が置いている大前提にもかかわるのである。
ペルフェッティの第一の大前提が、身体と精神を一つのユニットとして扱うことであり、ここから身体運動ばかりではなく、認知的要素を積極的に活用するという基本指針が生まれている。(1)だが身体と精神は、異なるユニットであり、複合連動系である。身体と精神は一つのユニットとして扱えるほど単純なものではない。それぞれが固有に形成プロセスをもち、固有の活動の仕方を備えている。これほど自明なことが見えなくなっているのは、ペルフェッティが精神と身体をともに情報という点で扱うことができるという間違った前提を置いているからである。身体は質料性を持つ以上、どのようにしても情報では扱えない。実際、身体についての情報は、身体ではない。(2)情報をどのように構築しようと、情報と運動とは異なるカテゴリーである。情報から運動を導く回路は原則として存在しない。運動についての情報を獲得することと、運動することは別のカテゴリーである。こうしたカテゴリー・ミステイクが起こるのも、身体を情報系として扱えるという大前提を置いているからである。もっとも簡単な例で言えば、自転車に乗る練習をするとき、自転車の乗り方を知ってから、あるいは自転車に乗る乗り方が分かったから、乗れるようになるわけではない。逆に自転車にすでに乗ることのできる人が、自分の乗り方を克明に書き出し、書きだしたことに合わせて乗ろうとすれば必ず転ぶ。(3)身体について本人が言語で詳細に語ることは、セラピストあるいはドクターにとっての手掛かりにはなる。それはセラピストやドクターにとっての手掛かりであり、有能なセラピストは患者の言葉の端々から、病態の焦点を捉えて、介入する位置を特定していく。だが患者が自分の身体ついて言語的に語ることは、患者自身にとって病態の改善につながっているのか。たとえば離人性身体を抱えたアンネ・ラウは、強い内省力で、自分自身について克明に記述している。その一部は、ブランケンブルクによる病態分析につながっている。その結実が名著『自明性の喪失』である。これは病態分析としては、20世紀の後半に出された最高水準のものである。だがこうした内省的な自己分析をつうじて、アンネ・ラウ自身の病態が改善した兆候はまったくない。「どうすればよいか分かっているのです。でもダメなのです。」この最後の言葉を残して、アンネ・ラウは自殺してしまう。木村敏の『自覚の精神病理』でも類似した症例で、患者を自殺させてしまっている。
ペルフェッティの第二の大前提が、環境情報と神経の情報には変換関係があるとしている点である。環境情報を知ればそれが中枢性情報に変換され、世界内での運動につながるという大前提を置いている。こんなことを言っている科学者、医学者は現代には一人もいない。(1)最低限、環境の複雑さの度合いと、生命(身体)の複雑さの度合い、中枢神経系の複雑さの度合いは、次元を異にしており、相互に変換関係のあるような系ではない。脳が世界より広いのは当たり前のことで、次元が違うのだから、広さを計るメジャーメント(測度)が異なる。中枢性神経システムにとって、環境情報は自分自身を調整するための手掛かりにしかならない。また中枢性神経は自前で情報を作りだすことができ、そのため幻覚も幻聴もでる。
またこうした議論のなかには、(2)環境情報の創発、生命の創発、中枢性神経の創発の仕組みがまったく異なるにもかかわらず、それらが語られることもなく傍らを通り過ぎられている。中枢神経系は自己創発する。この創発の仕組みをモデル化しているのが、オートポイエーシである。中枢神経系は疾患にさいして自己治癒する。だがそれは身体にとっても個体にとっても望ましい方向で進むわけではない。中枢神経系はそれじたいの組織化のプログラムにしたがって創発する。それを身体や環境へと適合的に再編する作業がリハビリである。
少なくても、ペルフェッティには1960年代から行われた自己組織化や複雑系の議論がまったく欠けてしまっている。ベイトソンの情報科学は、いまだ創発性を含まない。差異化が進めば、ある局面を越えると身体は再編され、中枢神経系も再編される。この再編は不連続に起こる。患者の状態が突然変わるのはこのためである。この再編の仕組みがベイトソンにはないのである。
ペルフェッティの第三の大前提が、「世界を知るために、身体は運動する」という健常者にとってもごく一部でしか当てはまらない事態を、過度に一般化していることである。(1)この定式化は論理的にも不十分である。それは論理の問題だけではなく、治療設定にもそのままつながっている。つまり治療設定を狭く設定しすぎている。世界を知らなくても、身体はみずからの本性で運動しようとしている。運動することは身体の本性であり、この運動の方向設定や運動遂行の手掛かりのために、世界のさまざまな事柄を活用する。つまり「身体はみずから運動し、同時に世界を知ることをさまざまな仕方で活用する」という事態は、十分成立している。また世界を知ることはできても、身体は運動しないことはしばしばある。アリストテレスの観照テオリアは、身体を動かさず世界を知る働きである。世界に対して中立性、中庸性を確保して、世界を知ることがテオリアである。これはヨーロッパの知性のモデルとなっている。つまり「世界を知っても、身体は別段運動しない」ということも十分に成立する。すなわち知ることは、運動につながるわけではなく、頭だけよくなって体操はからっきしということは、ごくありふれたことである。さらに足の裏の触覚のように、足の裏で細かく地面を捉えようとすれば、まさにそれによって足は動かなくなる。触覚は歩行に必要な手掛かりさえ得られれば良く、それ以外のことはおのずと無視するのでなければ、運動につながっていくことができない。この自然的無視は決定的に重要である。そこで「世界を知ったために、身体は運動できなくなる」という事態も十分に成立していることがわかる。この場合、治療設定を誤ると、まさに治療的介入によって身体は動けなくなってしまう。実際、認知課題はペルフェティの想定するように、「知ることから運動が導かれる」というような仕組みになってはいない。ペルフェッティは、みずから開発した治療技法を誤って解釈している。それはごくありふれたことである。(2)知るというときに、知覚やイメージのような高次認知能力をベースにしていることがわかる。知覚は距離を取って知る働きである。知られたものは対象として特定される。対象として特定した情報が運動を促進するのは、頭頂連合野疾患のようなごく一部の病態だけである。ペルフェティは現象学を学び損なってしまった。さらに日本の認知運動療法は、感覚、知覚の区別もわからず、ただ言葉を振り回している。それはペルフェッティがばらまいた路上の石を何でもよいから拾っては投げている、というのに近い。言葉ではなく、経験が重要である。
総じて、認知課題は、ペルフェッティの説明しているようなことは行っておらず、かりに行っているとすれば、認知課題はすでにして代償治療になってしまっている。認知課題の要点は、選択に直面し、そのなかで解答へと向けて、みずからを組織化することである。そのため知覚仮説は、知覚でも運動イメージでもなく、解答へと向けた組織化のためのネットワークである。この組織化のなさかに、神経系の再編、再生がなされる。接触課題は、知覚するための課題ではない。触覚には運動が内在している。また空間課題は、身体の運動とともに同時に認知が出現する仕組みであり、身体の運動が同時に知である局面を通過させるための課題である。
いくつかの要点について、分岐の内実を確認する。
(1) 認知は、認知的細分化、認知的特定化をもたらす以上、介入した箇所しか改善しない。
これは山鳥重たちの認知治療チームでも、繰り返し確認されている。ある意味で、こうした反省さえできなかった実情が、認知神経リハにはある。知ることの本性にしたがって、たとえば指に認知をむければ、指の動きしか改善しない。身体の動きは個々の部分の動きではないはずである。だが認知は認知的特定化の本性にしたがって、細分特定化の方向でしか進まない。つまり認知的治療は、その介入によって改善された事態を、同時により広域の身体の動きに接続する治療設定とコミでなければ、行き止まり回路を進んでいることになる。認知的介入は、<介入ポイント+広域的再組織化>が一組となる。身体の細分化は、精確に誤った治療指針である。身体を細分化したのでは、身体の認知が細かくなるだけであって、身体そのものは回復されはしない。
(2)知覚やイメージのような高次認知能力だけではなく、現象学が設定するような、より体験レベルの知が必要となる。しかも問題は、現象学自体にもある。中枢性障害者は、通常の体験世界を生きてはいない。このとき体験と生の間の隔たりは、計量できないほど大ききことがわかる。体験と生の隔たりを埋めるような現象学はいまだ形成されてもおらず、実行されてもない。つまり現象学を学び、応用するだけではなく、セラピスト自身が現象学を実行できなければならない。今のところ世界で、経験の運動としての現象学を実行できるのは人見眞理だけである。つまり自分で病気になるほどの追い込みが必要である。しかし本当に病気になってはいけない。体験レベルの身体にとって必要な事象は、身体内感(存在感、位置感、相互対照)、身体力感(運動しなくても動いている何かの感じ)、身体強度(緊張度を指標とする変動感)であり、この身体強度の変動に共振する経験の技法(強度の共振)は欠くことができない。
(3)現象学は、意識による探求の学であるが、その点での限界もある。身体に関するものは、意識に昇らないことを基本にしているからである。しかも意識に昇らない分だけ身体の自然性は増大する。年柄年中、下半身が意識されていれば、それだけで変態である。意識の届かない自然性を考察するには、システムの機構を補助的に導入しなければならない。ここにシステム論の学習が必須となるが、これを提供する仕組みが現行の認知神経リハにはない。
しかも中枢性障害者では、意識も変容している可能性が高い。これを<代償意識>と呼んでおく。代償意識には、多くのモードがあると予想されるが、いまだ分析できていない。意識経験の活用は、よほど習熟しないかぎり、害の方が大きい。意識経験の活用は途方もない課題であり、現象学そのものの改変を迫る可能性を秘めている。
(4)認知的治療は、おのずと代償行為を誘導する可能性につねに直面している。片麻痺患者で言葉が比較的自由に使えれば、動かない身体に換えて、言葉で自己表現しようとする。際限なく話すだけではなく、セラピストを言語的な不毛対話に巻き込もうともする。それは障害に向き合うことに換えて、活用できるところを最大限に活用するという適応戦略の一種でもある。しかもときとしてセラピストは積極的にそれに応戦してもいる。これは装具を付ける、代償運動を行うことと同じで、それじたいで代償機能である。ただし代償機能のなかに、発達のためにはそこを潜らなければならない「必要悪としての代償行為」もある(右麻痺傾向、左麻痺傾向)。代償行為を、発展的な展開に巻き込むための治療戦略は、必ずあると予想される。だがそのための問い自体が、うまく立てられていない。つまり治療現場では、つねに治療は代償行為を引き起こすことを見込んで、治療設定されなければならない。
(5)身体の再組織化のためには、認知的に細分特定化された要素の寄せ集め、健常者と比べて欠けているところを継ぎ足すような仕方では、神経システムは再生しない。欠けているパーツを継ぎ足すことが有効なのは、コンピュータの故障の場合であり、神経はそうした仕組みではできあがっていない。患者本人の自己形成の場面で、ある局面での発達をリスタートするように設定するような、治療デザインが必要となる。必要なのは、何が欠けているかではなく、どこから再組織化すればよいかである。
2 発達のための基礎知識
自己の形成 発達するシステムに典型的な指標を取りだすことができる。その一つが「自己」である。この自己という指標は、ただ観察されるだけの外的指標であってはならず、システムそのものの経験のさなかで形成され維持され、それじたいが経験を支えるものでなければならない。自己は、自我でも主観でもない。また反省的に認識されたものでもない。事実、言語的、反省的、意識的に捉えられる以前の自己の分析をめぐっては、精神分析に多くの前例がある。このとき重要な手掛かりとされたのが自己感である。自分自身を一つの漠然としたまとまりとして感じるというときの「このもの」という感じであり、自分よりも広く、自我よりももっと広い。しかもこのものの感じである自己感は、つねに同じモードではない。電車に乗り遅れそうで、突然走りだしたとき、必死で階段を昇る自分自身を感じ取ることができる。それは電車に間に合いたいと願っている私でもなければ、間に合うように次は階段を三段飛ばそうと選択しようとしている自分でもない。必死でそれとして全身で集中を行っている自己は、意図や選択を行う主体ではない。また夕暮れに窓際で、じっと佇み、なにを思うのでもなくぼんやりしているときにも、自己を感じることができる。何かを実行するような主体がいっさい解除されても、なおそれとして感じられる自己である。これはそうした状態に浸りきろうとしている自己陶酔の主体でもなければ、忙しかった一週間を追想し、のんびりと全身から力を抜き、いわば引き算で到達されるようなリラックスした自我でもない。この程度のことであれば、ゆったりと一時の休日を堪能している自我である。この場面では、むしろ持続感が基調となる。なにかが持続しており、この持続しているもののまとまりは感じ取れているが、持続している何かに実体的な内実があるのではない。そこにはまた経験の動きに対しての感じ取りや気づきがある。
だがこの「自己」の変遷を追跡しようとすると、自己そのものの働きに視点を置く機能的な議論がほとんどである。自己というとき、経験のプロセスさなかで何が起き、そのなかで自己がどのように感じ取られているかを、活動のモードの分析として取り出す議論には、いまだいたっていない。だがそれでも詳細な議論はなされている。このタイプの発達のモデルとしては、精神分析医のスターンの議論が代表であり、これじたいはとても良くできた議論である。ここでの段階的プロセスは、「新生自己感」(生後二カ月頃)、「中核的自己感」(二カ月から六カ月)、「主体的自己感」(七カ月から九カ月)、そして「言語的自己感」(言語習得前後以降)である。ここでは身体動作の形成を主要に追跡したいと思う。そのため言語的自己感を省略する。
新生自己感の特徴の一つは、眼と眼が合い始めることであり、運動にパターンと言えるほどのものが出現し始める。いわば個体の組織化がはっきりと方向性をもちはじめている。それ以前に周囲の活動性、複雑性、配置のような気配や特性を感知でき始めている。生後一月で、すでに生きているものと幾何学模様は明確に区別できる。また親の表情の違いにも気づくようになる。認知的には、臭いの区別ができるようになり、母親とそれ以外の乳房の区別ができる。首を回すことが少しできるようになり、人の声に注意を向けることができるようになると同時に、声とただの物音の区別ができるようなる。一説には左右対称を、上下対称よりも長く見続けているようである。生後三週間程度で、自分の口に入れたおしゃぶりと、それと同形のおしゃぶりを脇に置いておくと、口にしたおしゃぶりの方を長く見ていた、という報告がある。また光の強さや音の強さには、どこかに対応関係があることに気づき始める。また舌をだしたり、口を開けたりする動作で、周囲の人の真似をすることができるようになる。生きているものとただの人形の区別もはっきりできるようになる。さらに輪郭や形ははっきりと捉えられるようになる。これらでは、原初のなにかを感じわけ、それに対する応答に、ある種のパターンが生まれてきつつある段階である。もとより自己というようなくっきりとしたまとまりはなく、また何かへと向かうほどの能動性もない。
次に「中核自己感」と呼ばれる局面は、そのつどの動作に「自分自身から」という能動性が出現する場面が特徴となる。自分で身体を動かして、物を取りに行く場面や、快-不快の区別がはっきりするだけではなく、過度にみずからの状態を強調するように泣き叫んだりもする。身体も大きくなり声帯も太くなる以上、泣き方にも、度合いが生じるようになる。それらをつうじて自分の情動の違いに自分で気づくようになる。また身体がひとつのまとまりだと感じられるようになり、随意的に、半随意的に動かしやすい身体部位とそうでない部位の違いがはっきりするようになる。
こうした中核的自己感が形成されてくると、主要な関心は、乳房や母親の呼び掛けから、一転外の物事に急速に移行する。無生物に対する興味が急速に増大する。手を動かすと同時に、もっていく手の先に視線を向けるような手と眼の間の協働関係が形成されるようになる。面白いと感じられるものに対しては、繰り返しの動作が見られ、また快-不快の軸のなかに、最適刺激範囲が形成されるようになる。動作は、ただ反射的に動いている局面から、動作の手前で欲求の発動のような意志の感覚が生じてくる。双子の実験で、指を吸っている腕を徐々に引き離すと腕に抵抗が生じる。同じオペレーションを双子のもう一方で行うと、ただ見ているだけであるのに、腕には抵抗感はないが、頭を動かし、指が引き抜かれないことに相当する動作を行う、という報告がある。この場合、双子という特殊性があるが、外から向けられるオペレーションに対して、どう振る舞うかについての予期が成立している。その場合、因果的推理のような動作にとっての初頭の関係は理解され始めている。つまり何かを行ったとき、その結果がどうなるのかという対応関係での予期が成立している。
「主体的自己感」では、見かけ上主観性の感覚が生じる。何かが起きているとき、何が起きているかだけではなく、何故そうなったのか、どのようにしてそうなったのかについての感覚が生じる。これは高次の知的操作ではなく、物事の関連性の感触であり、感覚である。直線と曲線では、曲線の方を長く見ており、静止しているものと動いているものとでは、動いているもののほうを長く見ている。主体ということのなかで飛び切り重要だと思えるのは、選択性の獲得である。また注意の向く先を共有するという「共同注意」が出現する。
こうした特徴は、今後もどんどん詳細になるに違いない。それを大まかな特徴で整理し、輪郭を明示するために、段階的に新生、中核、主体というような形容詞を付けて区分しているというのが実情に近い。実際、自己の大半は、活動の結果形成されたものであり、それとして感じ取られていることによって、それがまさに自己となる。これらの各段階で、意識がどのように関与しているかははっきりしない。
自己というとき、この自己の述語を考えてみる。意識の述語は自覚的に知ることであり、生命の述語は生きることである。こういう主語と述語が同語反復的になることは、基本用語の場合はやむをえない。魂の述語は、体験することである。この場合には、主語と述語は少し性格を異にしている。それは「魂」そのものが何を指しているかを確定しにくいが、にもかかわらずなしですますわけにはいかないことに関連している。それでは自己は何をしているのか。これを個々の機能性とは異なるレベルで取り出せれば、自己という語の輪郭ははっきりしてくる。そして自己の述語を、みずからを組織化することだとしてみる。このとき組織化という働きに必要とされる必要条件を取り出すのである。すると、この組織化のモードと段階にいくつかの明確な局面があることを指示していることになる。
これらはいずれも観察を主たる手掛かりとして、段階的な知能、運動、それにともなう個体性の内実の形成を捉えたものである。こうした局面から推測することには限度があり、現時点で本当に知りたいのは、組織化そのものの仕組みである。
3 発達のモデルの変更
(1)発達が一つの自己組織化である限り、発達には未決定変数が含まれることになる。そのとき発達の条件を可能な限り明示できたとしても、新たな変数の出現のような事態をあらかじめ網羅的に確定することはできない。発達の機構として実行可能なのは、発達の条件を可能な限り提示することだけである。
そこには発達の屋台骨を支えるような基幹的な条件(構造の軸)、発達のさまざまな多様性の可能性をささえる分岐の条件(境界の軸)、発達が行き止まりの回路につながっていくような夥しいほどの代償条件(プロセスの軸)、こうした条件間のバランスにかかわる調整条件(カップリングの軸)等々のモードの異なるいくつかの軸を判別することができる。もとより能力の展開が見られそうな場面で、それがまさに一時的に能力の展開を支えているにもかかわらず、それが次の展開可能性を封じてしまうような局面はいくつもあるに違いない。単純に考えても、たとえば視覚の過度の発達は、触覚性の働きを抑制するであろうし、論理的言語能力の過度の発達は感情のきめ細かさの形成を抑制するであろう。こうした事態が含まれているために、システムの発達にとっての条件が、どのような軸に相当するのか、一つの条件がつねに同じ軸に配置されたまま作動するのかは、細かな見極めが必要となる。
(2)脳の構造的配置のような仕組みは、多くの場合、発生的に規定されている。記憶を司る海馬や感覚運動野や言語野の脳内の位置のような構造的分化は、ほとんど遺伝的、発生的に規定されている。問題は、そうした構造的配置のもとで、機能的配置がどうなるかである。機能性の出現は、それ自体固有の問題である。また機能性の多様化は構造的基盤がなければ出現しないが、逆に構造的基盤によって決定されはしない。すると脳科学的な配置とそこでの分子生物学や生化学的な分子レベルの解明とは別に、システム的な機構の考察を欠くことができない。構造的な配置とは異なるレベルにあるシステムの機構が、発達の可能性を含んでいる。
(3)機能性の分化のさいに、神経系じたいの生存適応戦略がある。生存戦略はニューロンが他のニューロンと接続することによって作動を継続することだけで規定されている。これじたいはオートポイエーシスの公準にしたがっている。作動の継続に関与するネットワークの要素の範囲は、作動の継続だけによって規定される。機能的な神経ネットワークの形成は、新たな回路が確定していくことであり、ここで起きることは「切り絵型」形成である。端子と端子が接続して回路網を形成する場合とは異なり、主要な回路が決まるとその周辺には回路予備網と呼ぶべき未決定なニューロンネットワークが広く残る。この部分が、ニューロンの損傷が起きたとき、神経可塑性の可能性を保証していると考えられる。機能性のネットワークはおそらく恒常的に複数個形成されるが、認知系の場合、作動の速度差によって、主要なもの、付帯的なもののような区分が生じる。また運動系の場合には、実際の出力の選択肢の多さによって、主要なもの、付帯的なものが決まる。つまり認知の作動回路は、認知コストの削減の方向に主要、副次の区分が進行し、動作運動の作動回路は、多様度の増大の方向に区分が進む。
(4)新たな機能性の獲得は、一般に関数の比喩で語れば、新たな変数の出現する事態に喩えることができる。それは神経ネットワークでは新たな回路が形成されることと同じだが、新たな変数の獲得は、既存のネットワークの再編を含むと考えられる。この再編は、独立機能領域を新たに領域化する場合には、既存の機能領域とのカップリング関係を再編し、また既存領域の高次化の場面では、既存の機能領域の再組織化を含む。逆上がりができなかったものができるようになる場合には、獲得された新たな動作に対して、既存の動作領域の再編が起こるが、その動作を何度か繰り返すことのなかに、必要な要素的動作の最小限の集合がおのずと形成される。そのことが同時に既存の要素的動作の集合に対して、集合化の自由度を上げる。新たな機能性の獲得は、それじたいが自由度の高い状態ではなく、むしろ既存のものの再編や領域化の自由度を高める。
階層的な比喩で語れば、より上位層が形成されることによって、下位層の再編の自由度が上がり、また集合化の自由度が上がる。これはたとえば人間の能力が高次になれば、直接、より自由度の高い能力が形成されるのではなく、むしろその手前の層の再編の自由度を上げることになる。階層の比喩で言えば、より上位層の形成は、下位層の再編の自由度を上げると同時に、上位層そのものは下位層に対して不要なほどの自由度を獲得する。たとえば歩行訓練のさいには、ともかくも歩行することが、歩行の要素的動作単位の編成の自由度を獲得することに資する。
ここでの発想は、ボトム・アップやトップ・ダウンというような線型の仕組みを取らないことである。歩行というマクロ動作の実行は、本来歩行の要素単位の接続に自由度をもたせると同時に、マクロ層の下位層からの制約性を断ち切っていく。そのため逆にしばしばマクロ動作そのものが維持されるように下位層の自由度を活用するのではなく、むしろこのマクロ層の維持に下位層を従属させるように作動する。こうして代償動作が恒常化される。代償動作はマクロな上位層によって確保される下位層の自由度を活用せず、むしろ画一化するだけである。
そのさいに必要とされるのが抑制である。抑制は、ほっておけばおのずと進行する事態に遅れと選択の幅を作ることであり、個々の動作は速度に対して別様でありうる。また動作の個々の要素単位は別様でもありうる。この別様性はマクロな動作の場面では、「ある動作」はしないという自由度であり、それ以外のものでも接続可能だという自由度である。つまりマクロ動作遂行のさなかでの別様性を獲得することが必要で、要素的動作をいくら改善してもそれは別のことを実行していることになる。こうしたことは認知でも起こり、ひとたび知覚や知覚的意味を獲得すれば、直接意味を取るようにして感覚質の経験は一足飛びに捨象される。機能的には、これは認知のコスト削減である。
(5)二重作動の形成 手を上に伸ばす動作の場合には、手の運動と同時にそれが距離の計測になっていたり、手の向かう先の位置の指定になっていたりする。この事態を距離の計測や位置の指定のために腕の運動を活用するというように理解してしまうと、アリストテレス的な目的論となる。目的論は形成された後の結果を、あらかじの方向づけに活用するような動作である。つまり目的論は、あらかじめ向かう先が決まっていなければならない。だがともかくも手を伸ばしながら、そのことが同時に距離の計測になっているのだというような身体動作と認知の二重性の獲得が必要となる。二重作動は、身体のあらゆる場面で、一つの動作が同時に一つの世界内での知でもあるという局面を指定している。身体とともに世界内にあることが、多様性を獲得していく。そのさいの要となっている仕組みが、二重作動である。こうした二重作動は、連合野のずっと手前で、身体運動が同時に別様の機能を発生させるような事態に対応する領域があるに違いない。現在の脳神経科学では、なんらかの活動に対応させて発火部位を調べているのが実情である。ところが二重作動が起きている局面は、特定の運動や特定の認知機能が個々独立に作動しているわけではない。すると現行の調査方に工夫を加えなければ、二重作動の現実を調べることができないままになる。二重作動の図式は以下である。
身体運動―気づき(調整)――イメージ(予期)
・・・遂行的認知の出現――別様の感触
(6)こうした二重作動の延長上で、認知では認知と同時に認知の枠のようなもの、動作では動作と同時に動作の図式のようなものが、個々の経験とともに同時に形成されていくことがわかる。こうした認知の枠や動作の図式は、一面では認知や動作の自明性、自然性を獲得することに寄与する。他方それは個々の認知や動作に選択肢を獲得させる。経験の反復のなかに、個々の経験に留まらない、経験の可能性というようなものが形成される。これが「できる」とか「可能性」とか呼ばれるものである。
経験の反復―経験の別様性、他でありうることの感じ取りと予期(調整能力)
・・・・経験の可能性(できること、自動化されていること、おのずと進行していること)
神経心理学的には、個々の経験の反復と同時に、それを遂行する複数の回路のうち、当初最短で実行しうる回路が形成され、この最短の回路のなかで、個別経験とは独立でしかも同時に作動する回路が形成されると考えられる。ここが能力の二重作動と呼ぶべき事態である。個々の経験にとって、この同時に作動する最短回路は、認知にとっても動作にとっても予期として作動し、いわば到達点の位置から個別経験のプロセスに調整機能として関与するように出現する。この調整機能が、一般に「能力」と呼ばれるものである。行為から見れば、行為遂行とともに起動する予期としての働きであり、認知からすれば予期としての類型的把握である。動作にとっては、こうした予期は何物でもないが何にでもなりうる先行的な手引きであり、遂行的行為のさなかでの原型的イメージに近い。この原型的イメージは、身体の図式的な動作のパターンに対応している。またこうした図式とともに、つねに別様に作動しうる選択肢が見出される。これが自己形成につながる。動作の基本は、つねに何にでもなりうる何ものでもないものを形成することであり、ここに出現する特質が自在さである。他方認知にとっては、認知の枠は個々の経験の応用可能性を保証し、類似した経験のさいには、いわば実務的な処理として普遍的な関数と変項の指定を容易にする。
哲学で経験の可能性の条件と呼ばれたものは、こうした認知の枠や動作の図式を、論理関係に翻訳し事象-前提関係へと置き換えるよって、あらかじめ論理的前提だと設定していたのである。その前提のもとで個別経験が成立するという風になり、こうした論理的前提は、個々の経験に対して必要条件として含まれるというのである。
だがこうした論理的設定では多くのことが落ちてしまう。動作の図式のようなそれじたい何物でもないが何にでもなりうるものは、特定化を本性とする。特定化するものはつねに別様にというかたちで作動を行う。こうした論理的前提関係と帰結からでは、ほとんど見えにくい事態が生じる。というのも動作の図式では、這う動作では這い回ることに必要とされるような多様性を越えて、いわば余った状態の自由度をもつ図式が形成されるからである。
(7)動作の形成の基本は、すでに形成された図式をもとに、より選択性の多い図式へと再編することである。歩行できるものは、這うこともできれば、立ち上がることもでき、一歩前に足を出すこともできる。こうしたことが可能なのは、這い回ることになかにすでに這い回ること以上の自由度が獲得されているからであり、その自由度が新たな再編のなかで別様な内容を獲得する。必要性を越える自由度は、当初はしないこと、中途で中断できること、さらには同じ動作も異なる手順で実行できることに含まれている。しかも這い回る動作に含まれている動作の要素的単位は、泳ぐ動作にも組み込まれていく以上、動作の形成は単線的な蓄積向上ではなく、前段階の一つの図式は、歩行や泳ぎのような異なる動作のモードで再編される。要素的動作は新たに再編された図式のなかでそれ以前にはなかった自由度を獲得する。たとえば平泳ぎの動作は、足の蹴りについてはまだまだ別の蹴りのモードがあると考えられる。
(8)システムの機能領域の基本は、多並行分散系である。さまざまな機能領域が分散的、平行的に作動する。感覚と感情のような異なる働きは、本来一つの系に統合されないのだから、カップリングの関係にならざるをえない。カップリングは固有に領域化しているものが、相互に連動する関係である。ただしカップリングする複数のシステムのうち、双方のシステムのいずれも均等に展開可能性をもつことは稀なことだと思われる。一方が主になり、他方が従属するような展開は、システムがもっとも活用しやすいものを活用しながら作動するという、システムの単純な本性に適うものである。すなわち多並行分散系は、いつでも階層関係に転換できる。
そこに多くの代償機構が出現する。(a)本来並行的である二つのシステムのうち、一方の作動速度もしくは作動の駆動要素が一方のシステムによって規定され、他方はただ従属するだけになる。この場合には、一方のシステムの作動可能性の範囲に、他方のシステムが配置されるだけになり、一方の過剰展開と他方の過小展開が現実の形となる。たとえば言語系のシステムと感覚システムで、言語からしか経験が展開しないのであれば、言語に対応する感覚的な経験しか分節しなくなる。(システムの従属) (b)一つのシステムが現実の多くの要素を制御できるようになると、他のカップリングしているシステムを実質的に解除してしまう。つまりなんらかの連動関係は残るものの、他のシステムの作動・展開を実質的に無関心的なものとしてしまう。あるいはそうした連動モードになるように、特定のシステムだけを機能強化してしまう。サヴァン・イディオットのような多くの特殊能力は、カップリングの実質的無効化をともなう。さらに麻痺の場合には、代償機構をむしろ積極的に活用しながらシステムの展開がみられる。それは活用しやすいところから活用するというシステムの本性にかなう。