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システム的介入の最近接領域

河本英夫

一般に「損傷」とは、それまで維持していた「機能性」が喪失されることである。機能性は、身体各部位からみれば目的に相当し、これによって人間はその部位の意味内実を判別することができる。だが身体部位もしくは特定器官群に対応する機能は自明なものではない。手の指がなければ、足の指を活用し訓練して、足の指で鉛筆やボールペンを握り、字を書くことができるようになる。両手、片足がなく、足が一本であっても、水泳の泳ぎはできるようになる。身体をうまく折りたたみ、腹部に水を溜め込むようにして全身で溜め込んだ水を押し出し、それと同時に残った1本の足で水を蹴るのである。身体は、足があれば歩行でき、頭があれば思考でき、意識があれば認知できるというように器官-機能対応で考えられがちだが、器官と機能の間には大きな隙間がある。むしろ各器官は、ほどよいタイミングでの訓練をつうじて機能を形成するというのが実情である。また器官群の部分的欠損によって機能が喪失することもあれば、喪失しないこともある。器官群は、一応過不足なく揃っていても、発達障害に多く見られるように機能が出現してこないことがある。器官群と機能は、相互に宙吊りの関係にある。各部位の軽微損傷によって、機能不全状態になることはある。その場合には、機能性は維持されている。しかし維持されている機能性は、本人の最善の自己治癒努力によって出現した病態でもある。それが病態のもつ安定性である。そのことは治療的介入にとっての障害ともなり、壁ともなる。

1 機能性の出現と機能の損傷

 身体は、自動的に特定の機能性を獲得するようにはできていない。また同じ器官群が、異なる機能性を獲得することがある。人間の場合には、機能の獲得が発達上大幅に遅れるために、ほとんどの段階、本来新たな機能の獲得は起こりうる。このとき身体は一つの潜在性に留まり、潜在性を維持し続けることが人間の身体の特性でもある。歩行が獲得されるまでに1年間を要するというのは、潜在性に留まる器官が過度に長期に及ぶことである。1年間の間何が起きているのかよく分からない。またほとんど器官群は同じでも、異なる機能性を形成することがある。同じような器官群でも、そこにさらに機能の変化を認めることができる。一例として、鳥の「飛ぶ機能」を取り上げる。飛ぶための羽は、当初は鳥の体温調整機能として出現し、その器官の可動域を広げて活用していくうちに、たまたま飛べるようになったというのが実情であろう。これは機能転換によって新たな機能が出現した事例である。この事態は意識の場合に顕著である。
こうした機能転換は、意識の場合にも見られる。意識は当初、体温維持や活動の維持のような活動の恒常性を補助的にささえるために出現してきたと考えるのが第一のポイントである。冬山で遭難して、眠ってしまうとそのまま低体温で死亡してしまうことが多く、冬山では眠ってはいけないと言われる。眠らない限り、体温の低下に対しては、多くの対応策があり、意識とはそうした補助的な選択肢を広げておくための機能的な装置であったと思える。このことは感覚反応のさいに、注意の分散を行うための隙間を開くための装置だと考えることもできる。そしてその後意識が、反射反応に対してそれを遅らせる遅延装置へと変容してきている。どこかの機能が前景に出ると、それによって他の機能領域が相対的に縮小されて、意識のそのものの感触が変貌してしまうのである。その後意識には、物の制作をつうじて、尖った槍やまっすぐな棒、薄い切片のような現実には実現されていないが、制作行為の予期として働く、ある種の理念性の確保とそこに向けた行為の誘導という機能が付加される。このとき意識は、見かけ上人間の行為そのものを統合的に誘導する装置として、さらには現実の自然界にはない理念性という超越へと向かう機能が出現してくる。時期的には、ホモ・サピエンスが登場して後、約10年後であり、その時期に石器、棒にある種の極限性が含まれるような制作物が出現してくる。その後5万年程度経過して、言語を獲得するが言語の獲得による意識の変貌は大きすぎて、何が起きたのかを突き止めることは容易ではない。少なくとも記憶の機能は格段に向上し、コミュニケーションの細かさは別次元になってしまうが、それによってそれまで持ち合わせていた多くの心的な働きは後景化して別様に変容したのであろう。その後ユダヤ思想に見られるような経験の極限の一歩先を感触として掴む機能が付加される。いわゆる絶対超越に触れていくという感触である。ごく最近に起きた変化は、意識の自己言及性すなわち意識の意識である「自己意識」という機能性の獲得が生じ、意識じたいの強固なまとまりを獲得するようになる。
ひとたび機能転換が起きれば、機能に適合的に起動部位は再編される。この起動部位の一つに損傷が生じた場合、機能維持のためにいままで活用していなかった部位が代替的に組み込まれたり、残存している部位を過活用したりして、機能維持がおのずと図られる。ひとたび機能が獲得されれば、器官群の一部の脱落があっても、また一部が損傷しても機能の維持のために、器官集合は可能な限りの調整を行っているはずである。たとえば胃潰瘍で胃を切り取っても、十二指腸の末端辺りが機能変化を起こし、「消化」という機能性の維持が行われる。こうした機能代替と機能性の維持は、多くが18世紀末から19世紀初頭にかけて明らかになってきた。それは一部の器官が破損すれば、隣接する部位で機能代替が起きることであり、一部が肥大すれば、隣接する部位が縮小することであり、共通の機能に貢献し、それを高度化するように各部位が連動して共通の特徴を帯びるようになるというような事態である。
こうして考えてみると、機能システムにはそもそもそれが成立した時点で、機能の維持に対して大幅な可塑性があり、また損傷に対して、一貫した自己維持の仕組みを備えていることがわかる。疾患とは、損傷後の自己維持の努力の結果、安定化している状態であり、それはある意味で最善の結果が病態であることになる。つまり病態は、みずから安定化しようとしている。これが「システム的抑制」である。システム的抑制には、もう一つ別の面がある。
ひとたび機能が出現した場合、機能系では、コスト引き下げが決定的である。不要な働きを抑制し、必要な時だけ起動できなければならない。そこには「選択的起動」という仕組みがあるに違いない。たとえば免疫が、自分自身の身体の一部を外敵だと認定して攻撃を開始すれば「自己免疫疾患」となる。身体が必要に対応せず、一定頻度で動きが出てしまえば「多動性障害」となる。各機能は、起動することもできれば起動しないこともあるという選択性をもたなければならない。
 また一般的には生命とは、放置すれば一挙に進んでしまう反応を可能な限り遅らせる「遅延の機構」の一式である。反応できる作動のモードを抑止しながら制御し、必要に応じてそれを解除して活用する場面に見ることができる。これもコスト削減のモードである。そのとき体細胞系戦略、神経系戦略、免疫的戦略、遺伝的戦略は、それぞれ異なっていると考えられる。体細胞系には、循環器系、呼吸器系、消化器系という主要三機能系が分化してくる。

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複合的ハイパーサイクルの模式図

機能そのものが維持されていて、不全状態になっている場合と、機能そのものが解除されていて、再度ありあわせの部材によって機能そのものを創発させなければならない場合は、まったく異なった事態であることがわかる。しかもありあわせの現状で、システムがうまく機能しないのであれば、再度一から機能そのものを立ち上げたほうがよいという場面もありうる。こうした事態を視覚的にわかりやすくするためには、アイゲンのハイパーサイクルを事例として、もしくは比喩として活用するのが良い。
 機能の出現は、起動部位集合から見たとき、比喩的にはハイパーサイクルの出現に最も近い。各部位は、ただ動いているだけなのに、サイクル総体が起動すれば、おのずと機能の維持に参加している。各部分サイクルはそれ固有の作動を行っているだけであり、破損すれば停止するが、にもかかわらずハイパーサイクルはそれを飛ばして作動を維持することができる。また各サイクルの集合そのものを変えることもできる。一部の部位に損傷が生じた場合、それを飛ばしてハイパーサイクルを維持する場合には、滑らかさに欠けてどこか無理が来ていることがあり、代替部位を参加させて、変形した形で機能が維持される場合には、余分な動きが入り込んでいるように感じられる。あるいは機能そのものが停止する場合(歩行の停止その他)が、おのずと出現する。
機能不全は、ハイパーサイクルで例えれば、いくつかの部分サイクルが損傷しても、なお全体のサイクルが維持されている状態であり、機能解除は、いくつかの部分サイクルの損傷によって、全体サイクルが起動しない状態だと考えられる。ハイパーサイクルは二重性で描かれているが、これはさらに三重、四重になっていることもある。
 またたとえばInが別のハイパーサイクルの一つの要素サイクルになっていることもある。同じ物質が機能系を異にして作動する場合である。たとえばサイトカインは免疫疫システムの機能恒常性の維持機能を行うと同時に、生理機能を担っている。

2 神経系の自己組織化

 神経系は、当初ニューロンがともかくも形成され、そこから機能化することによって、機能化しないニューロンが減少することで形成される。ニューロンの総数では、母体内の五か月目ぐらいが最大量で、それ以降は減っていく。それに対して、ニューロン間の接続を形成するシナプスは、胎生8週目ぐらいから誕生後2歳程度まで増えて、さらに同時に胎生16週目から10歳ぐらいにかけて、断続的に神経回路網の再編成が起きる。
 この神経回路網の再編には、明確なモードがある。
(1)神経経路網は、当初複数の機能的回路をもつ。たとえば手を動かすときに、その機能に対応する回路は複数ある。これは機能的特定化がいまだ起きていないことを意味する。たとえば1歳程度では、ジャンケンのチョキは周囲の指が一緒に動いてしまい、チョキのかたちがうまくできないことが多い。機能未分化から機能的特定化の方向へ、神経網の再編が生じている。未熟期では、神経系と筋細胞は、複数の神経が一つの筋細胞と接続している。ところが神経系の再編をつうじてその回路網が特定される。このとき複数の回路のうち、特定の回路だけが顕在化し、他の回路は潜在化される、という可能性は、ほとんど成立していない。大脳前頭葉の一部では成立するかもしれない。
(2)神経回路網の再編では、臨界期があり、それぞれの機能に対して、臨界期の時期を過ぎると、もはや再編が起きない。たとえば言語は、生後12年ぐらいが臨界期であり、その時期を過ぎると言語の習得(発語の修得)は行われない。
(3)この再編には、二つの仕組みが関与している。一つは回路網の配線が変わるというものであり、余剰となっている神経回路網が除去されるというものである。この抑制的回路網の除去の分子メカニズムはいまだよく分かっていない。神経細胞のアポトーシスが関与している可能性はある。もう一つは情報の受け渡しのモードがかわるもので、興奮性グルタミン酸とGABA(ガンマアミノ酪酸)があり、GABAは幼少期には興奮性であるが、再編期には抑制性として働くことが知られている。
機能性の分化のさいに、神経系じたいの生存適応戦略がある。生存戦略はニューロンが他のニューロンと接続することによって作動を継続することだけで規定されている。機能的な神経ネットワークの形成は、新たな回路が確定していくことであり、ここで起きることは「切り絵型」形成である。端子と端子が接続して回路網を形成する場合とは異なり、主要な回路が決まるとその周辺には回路予備網と呼ぶべき未決定なニューロンネットワークが広く残る可能性がある。この部分が、ニューロンの損傷が起きたとき、神経可塑性の可能性を保証していると考えられる。ただし脳内の出血、梗塞のような場合には、この潜在的ネットワークを含めて、機能停止してしまうと予想される。
機能性のネットワークはおそらく恒常的に複数個形成されるが、認知系の場合、作動の速度差によって、主要なもの、付帯的なもののような区分が生じる。また運動系の場合には、実際の出力の選択肢の多さによって、主要なもの、付帯的なものが決まる。つまり認知の作動回路は、認知コストの削減の方向に主要、副次の区分が進行し、動作運動の作動回路は、多様度の増大の方向に区分が進む。ただしこれは生後10歳ぐらいまでで、それ以降はコスト削減を基調とする。
そこに多くの代償機構が出現する。(a)本来並行的である二つのシステムのうち、一方の作動速度もしくは作動の駆動要素が一方のシステムによって規定され、他方はただ従属するだけになる。この場合には、一方のシステムの作動可能性の範囲に、他方のシステムが配置されるだけになり、過剰展開と過小展開が現実の形となる。たとえば言語系のシステムと感覚のシステムで、言語からしか経験が展開しないのであれば、言語に対応する感覚的な経験しか分節しなくなる。(システムの従属) (b)一つのシステムが現実の多くを制御できるようになると、他のカップリングしているシステムを実質的に解除してしまう。つまりなんらかの連動関係は残るものの、他のシステムの作動・展開を実質的に無関心的なものとしてしまう。あるいはそうした連動モードになるように、特定のシステムだけを機能強化してしまう。
1)脳神経系の損傷では、その部位近傍からの情報は、半ば不可避的にノイズを含む。そのノイズをブロックするようにして機能抑制が起きる。骨折、関節疾患でも、その部位を動かさなくなることと類似的である。損傷部位のブロックと同様に、その部位の機能を別の部位で補うような機能代替は、同時に急速に進む。だが体細胞、骨格系の損傷とは異なり、自然治癒はないと考えられる。神経系の自発的再生は、ほとんど考えられない。
2)既存の神経系回路のブロックの破損――手を前に出そうとして肘を伸ばそうとしたら、方が前に出てしまうような場合には、動作の起動部位回路の変容が起きてしまう。動作順序の組み立てができないか、一部回路が切断されている可能性がある。
3)損傷部位の機能を隣接する部位を活用して、あるいは脳対側を活用して、対応しようとすることによって、損傷部位の抑え込みを行う。これは通常訓練を行えば、脳対側での代用が進行し、脳のレベルで機能変換を行うことを意味する。(そのため脳対側を非活性化して訓練を行うやり方を採る人もいる。)
4)神経系の再生をめざして機能的訓練を行い、新たな神経回路が形成されるさいには、(1)すでに形成されていて、潜在的な活動に留まっている回路を浮かび上がらせ、現実化する、これは損傷範囲がごく局所的な場合のみ可能である。(2)新たな神経回路の形成にさいして、損傷時は複雑な回路が形成されると予想される。利用可能な隣接回路を探し出すが特定の機能だけが形成されることはない。歩行時に手が動いてしまうとか、頭に力が入るとか、動作バランスの維持に動作にほぼ不要な動作単位が入り込むことが起こる。(3)特定の機能を再度形成しようとすれば、機能特定は残存する神経回路網をさらに減少させることで実行することになると予想される。

3 最近接領域

こうしたシステムの仕組みを念頭に置き、治療介入について考えてみる。システムになんらかの変化が生じ、それが本人の能力の形成につながるような介入の範囲を「最近接領域」と呼んでおく。能力の形成は、それまでできなかったことができるようになること、一度形成されれば元に戻らないこと(不可逆性)、新たに形成された状態での改善があることの3点が必要条件となる。
 ヴィゴツキーの発達の最近接領域の定式化は、以下のようなものである。「本人一人ではできないが、教員、療法士の手助けがあれば実行でき、やがて一人でもできるようになる能力の形成領域」のことである。「未来の発達水準」とも呼ばれる。最近接領域は、学習の可能な幅を決め、リハビリが行為能力の形成を目指すものである限り、治療的介入で有効な幅を決めている。ここにはいくつもの大前提がある。
1) ヴィゴツキーが、最近接領域の概念を提示したとき、最近接領域の幅を考察するさいには、あらかじめ平均的な定常発達が、暗に外側に想定されている。鉄棒の逆上がりができるようになった子供に、突然大車輪を教えることはできず、習得可能でもない。学習の順序があるというのは事実であるが、その幅を決めるさいには、個体の条件があり、また平均的な定常発達をあらかじめ前提できないことが多い。逆上がりが楽々とできるようになれば、次は蹴上がりを習得できる段階に来ているが、実際には蹴上がりができるようになる人もいれば、できないままになる人もいる。最近接領域の幅は、個体差が関与する。
 それと同時に、外側に置かれている定常発達があらかじめ前提できないような病態がある。それが発達障害で、発達障害の難しさは、次にどの能力が形成されていくか、どの能力が形成可能であるかについて、個体差が大きすぎて、探りを入れていくしかない。軽度発達障害であっても、特定の能力の習得は、他の能力の形成を代替し、むしろ妨げていくという仕組みがあり、これがアスペルガーのような機能代替症状を生むと考えられる。
2)特定の能力の形成は、つねに過形成と隣り合わせであり、視知覚が過形成されれば、触覚性の感度が抑制されるという仕組みは、一般的なものである。最近接領域は、次の能力の形成に繋がらなければ、一つの壁を作っていることと同じになる。そのためには能力の形成は変数の出現のようなものである。
3)能力の形成のプログラムと呼ぶべき物はあるのか。現在人間が活用しているプログラムは、狭すぎるのではないかと思われる。少なくても最近接領域で起きる能力の形成は、少しずつ能力を形成していくようなものではなく、また部分的要素が蓄積されて全体が形成されるようなものでもない。
比喩的なイメージでつねに念頭に置きたいものがある。

家を建てる場合を想定する。13人ずつの職人からなる二組の集団をつくる。一方の集団には、見取り図、設計図、レイアウトその他の必要なものはすべて揃え、棟梁を指定して、棟梁の指示通りに作業を進める。・・・もう一方の13人の集団には見取り図も設計図もレイアウトもなく、ただ職人相互が相互の配置だけでどう行動するかが決まっている。職人たちは当初偶然特定の配置につく。配置についた途端、動きが開始される。こうしたやり方でも家はできる。アリやハチが、巣を作るさいに、あらかじめ談合して設計図を見て作っているとは考えられない。目的が決まった時、それを実現するためには、目的に向かうような目的合理的行為で形成されているとは限らない。まったく別の回路で形成されている可能性があり、プロセスの連動から作られている可能性が高い。
 まず目的という発想が狭すぎる。初期条件を整えれば、目的に到達できるということも狭すぎる。なにかの動作の形成が、副産物のように機能性(歩行、道具使用等々)の形成になればベストである。
4) 能力の形成は、システムの作動に新たな制御変数が入るようなもので、とてもまだできそうもないという状態から、何とか一度できるようになり、二度三度できるようになったら感触を掴み、その後楽々と実行でき、どうしてこれがそれまで難しく思えたのかが不思議なほどである、というような最近接領域内のプロセスがある。最近接領域内のプロセスは相当に多様であると考えることができる。たとえば蹴上がりが出来てもおかしくない人でなかなかできない場合には、周囲からの手助けの仕方も異なるはずである。最近接領域内でのプロセスの分析は、いまだ実行されていない。
[参照]ピアジェが幼児の能力の形成を論じたとき、以下のような議論をしていた。「能力の形成」は、本人にとってもよく分からないプロセスを通過する場面を含んでいる。
ピアジェの子供の発達の記述で示唆をあたえるのは、第六段階と区分されものである。第六段階は、内的知能と呼ぶものの出現の段階で、鉛筆を渡して穴に入れる動作を行わせているとき、削っていない側の方を手前にして渡すと受け取った状態のまま穴に入れているが、やがてどこかの段階で鉛筆をひっくり返して穴に入れる動作が出現する。ひとたびこうした動作を発見すると、それ以前の動作がまるでなかったかのように、鉛筆の細い側を下にして穴に入れるようになる。物へのかかわりの変更が出現しており、物の性質への探索が、動作のかかわりの選択肢とともに出現する。この段階では物への探索行動が開始されているので、第三次循環行動だと呼ばれる。不連続な事態が生じているのは、この場面である。物とのかかわりに選択性が生じるのであれば、この選択の遂行とともに、この選択に応じた「能力」の形成が見られる。それとともに選択に直面するさいの行為に、いわゆる調整能力が芽生えるような局面に来ている。しかもひとたび獲得されたら元に戻ることがどうすることなかがわからなくなる。
5)能力の形成の必要条件と呼ぶべきものがある。当初の新たな行為は、どのようにしたらできるようになったかがわからない状態を通過する。これは無人称で起きる。一人称も三人称も狭すぎる。無人称は、何が起きたのか分からないが、ともかくできたという段階である。そこからこんな感じという感触が感じ取られる。この感じ取りは、身体内感領域であり、調整能力の形成である。行為や動作の反復が必要なのは、この調整能力をさまざまな場面で形成するためである。力の抜きかたを習得するのもこの場面である。そこからより良い動作と、あまりうまくない動作の区分等々が生まれる。その後一連の動作のなかで、動作の選択(起動)、移行、終わりというような区分が本人に生じてくる。開始と終わりは、変化率であり、移行は変化である。
6)最近接領域での訓練は、当初保護者、支援者、あるいは療法士が介在して行う場合でも、やがて一人で実行可能である、ということが前提になっている。ところが中途損傷の場合には、治療者が付けば実行可能だが、一人になれば「やらない」もしくは「できない」ことが多い。これには多くの理由があるに違いない。

4 最近接領域(能力の形成可能領域)の発見

 最近接領域は、治療者のセンスと技能との相関によってしか決まらない部分があるために、一義的には決まらない。つまり最近接領域は、各セラプストが発見しなければならない。しかしおよその目安はある。最近接領域の必要条件については、(1)可動域の幅があり、反応できるだけの余地がある、(2)本人自身にとっての選択肢があり、その選択をつうじてなにか動作に異なる感触が生まれる、(3)選択肢のなかに、媒介変数とでも呼ぶべき、新たな制御モードが獲得される、(4)認知的には歩けるようになりたい、もっとスムースに移動できるようになりたいという希望とそれに対応する予期に対して、何かまったく別のことが起きた、という感触をともなう。本人の視野に配置できないことが起きたという感触があること等である。
1)ともかくも本人が、自分のなかに、何かの変化があったと感じることができ、観察者からみたとき、本人が反応しているとわかる領域を探り当てる。この本人の反応のなかに、拒否(恐怖感、詐病的痛み、不安等々)が含まれているかどうかを感じ取っていく。
認知能力を誘導する場合には、患者があらかじめ予期のなかで、こんなことをやらせようとしているというように、本人の視野のなかに課題が収まるものと、視野外に設定される課題を交互に組み合わせる。視野のなかにある課題は、本人にとって配置可能であり、やり過ごすことができ、その場合には経験は動かない。経験の拡張に向けての課題が必要となる。
動作の拡張を行うとき、他動的に動かす場合には、受動(無理に動かされている)、被動(おのずと動かされている)、自動(自然に動いている)、自発(自分で動かそうとしている)、能動(動きを自分で制御している)等々のモードの区別を行う。また動きに本人の選択性(途中で止めることができるかどうか、速度の変化を付けられるかどうか等々)があるかどうかを感じ取っていく。これらは動作する自分にどの程度隙間が開けているかを示している。つまり調整能力の出現の幅を示している。
さらになにが起きたのかがわからないプロセス(三人称でも一人称でもなく、無人称)を通過しているかどうかを感じ取る。
こうした探りを入れた事態であっても、システムの自己維持の範囲に留まっている限り、能力の形成はなく、それまでやれていた範囲内に本人自身によって配置されて、システムの自己維持に組み込まれていく。見かけ上良くなったと言っても、本人の視野の範囲内に留まっている限り、システムの自己安定化の仕組みに組み込まれてしまっている。つまり「良くなった」という自己満足のなかにある。ただし高齢者の場合、満足が大切なものではないとは言えない。
際立った改善が見込めるはずのところで停滞している場合には、多くの場合、変化率の経験が必要である。変化率への身体の対応は、一義的に決まっておらず予期のなかにもない。にもかかわらずなんとか対応しなければならない。
2)機能性が維持されており、しかもどこかの部位で大きな障害があることによって、機能性の起動が難しい場合には、その損傷した部位の修復では足りていないことが多い。過緊張、拘縮は過度の防衛反応の一つだと考えることもでき、防衛しているものを無理にこじ開けるようなことは得策ではない。またその場合には不要な痛みを引き起こすこともある。過度の防衛は、みずからを行為にとっての選択肢のない状態、あるいは選択肢の過少状態に置くことと同じである。そのため、どこかに選択肢をもたせることが、最近接領域の課題となる。そのときにはその部位の連動する別のサイクルに介入して、別のサイクルから動かしてみる。
ある全体サイクルの起動にとって防衛的である部位が、別の全体サイクルにとっては比較的起動可能であることは、しばしば起きる。起動/不起動の選択肢がない部位に対しては、選択肢をもたせることのできる範囲が、最近接領域となる。
3)機能そのものが損傷して立ち上がってこない場合、機能性の創発が必要となる。損傷した部位もしくは麻痺した部位をとりあえず勘定に入れず、起動可能な部位だけで動きを作ってみる。片麻痺の場合の分回しが典型で、内感のある部分だけに力を入れて、力学的に足を振り回すのである。内感が欠落している部位については、感覚が戻ってくるまで4,5年かかることもあれば、最後まで戻らないこともある。内感の欠落に対しては、動作のなかで繰り返し、動きの速度を変化させて、自分の身体が動いていることの感覚の違いを感じ取る。機能性の出現は、突然であり、なぜそうしたことが起きるのか本人にも治療者にもわからない。
 分回しが起きるとき、分回ししている患側を壁に沿うように歩行してみる。壁にぶつからないように足を起動させるためには、動作のさなかでの「気づき」が必要となる。動作のさなかでの気づきと、あらかじめぶつからないように注意を向けることとは、別の組み立てになる。歩行の回復は、重心移動のなかでの身体内感の形成であり、意識下での動作の調整能力の形成である。認知を動作のなかで活用することが、遂行的選択を獲得することでもある。
4)認知は、最近接領域にどのような効果をもたらすか。個々人にとって最近接領域の幅は広い方が良い。認知が活用されうるとすると、最近接領域を可能な限り広く取る場面である。行為間比較は、過去の自分の動作を想起することで、現状に対しての制御変数を増やしていく。これは過去の自分と現在の自分を対比しているのではない。また認知行為としては、歩行時の見ている位置を変えながら、位置の指定が行為の制御にどのように有効に関与し続けるかを確認する。さらに動作のさなかでの最大の制御要因が、動作を感じ取り、動きを感じ取り、力を抜いたり入れたりするさいの身体内感の調整機能である。認知は調整能力であり、調整能力をつうじて本人の選択肢を広げることはありうる。認知は、制御要因であり、無駄の多い歩行、不自然な歩行のように機能不全に対しての制御要因となる。機能の創発については、イメージ等での予期として活用した場合でも、そのイメージは静止時に描いた像でしかない。動作のさなかでの調整能力の獲得が必要である。
5)意識もしくは意識経験は何を拡張するか。意識は治療場面では、ほとんどの場合、過度の焦点化として、機能する。最近接領域のなかの経験は、あらかじめ予期のなかに配置されるのであれば、ほとんど効果がない。あらかじめ予期のなかに配置しようとすれば、意識はすでに行為の創発に対して、防衛反応として活用されている。意識による注意の分散を訓練として行う仕組みが、デュアル・タスクである。一つの動作を行うさいに、たとえば足の運びの訓練を行うさいには、手すりや壁に触っている手を動かしながら、訓練を行う。これは動作の制御変数を多くするとともに、意識下でのバランス制御を行う訓練とすることである。また動作の速度を変えることで、意識的な制御のかかる部分とかからない部分の区分と、両者の対照を獲得する。

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