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ディメンショナル・リセット

河本英夫

要旨
 人工知能の予想を超えた進展によって、リハビリは新たな局面に入っている。そうした歴史的局面で、個々のセラピストにとって、多くの試行錯誤が必要だと思われる。身体と病理と治療的介入の場面で、それぞれに現状で課題だと思われるものを考察する。

キーワード 人工知能 システム的機構 システム的病理 抑制 選択

The conditions of the therapeutic rehabilitation are contained in a new aspect of affairs through the progress and expansion of the artificial intelligence beyond our expectation. On such a historical phase, it seems that many trials and errors are required for each therapist. I consider in this paper what are concepted and considered as subjects in the present conditions concerning the humane body, systemic mechanism, systemic pathology, and therapeutic intervention.

Keyword Artificial intelligence Systemic mechanism Systematic pathology Body control


 情報科学と人工知能の急速な進展によって、リハビリの現場にはそう遠くない時期に大きな変化が起きる。それは個々の変化というほどの微風ではなく、気が付いたら何もかも世界が変わってしまっていた、というほどの局面の転換である。本来「激震」と呼べるほどの変化は、歴史の後でしか気づくことができない。「わかる」とは、終わった後の位置を占めることである。その意味で「わかる」とは、進行し続ける現実に対して「すでに手遅れになる」ことでもある。だが今回の変化は、どうにも事情が異なる。この局面変化が見えやすいのは、外的環境の異様なほどの変化が、人間の知的領域、現実の行為的領域に浸透してしまい、農業、職人仕事、一切の鉱工業生産、そして日常の生活の細部までを変え続けるほどのものだからである。
第一に「知覚の更新」という場面がある。コンピュータの解像度が上り、人間の眼では見えないものをくっきりと映し出すようになった。人間の眼は、人間の生存にふさわしく作られており、生にとっての有効性と同時に、生にとって(とりわけ運動にとって)有効性がほとんどないものは「見ないように」作られている。これが知覚の限界である。こうした限界はコンピュータには無縁である。内視鏡の画像を分析する場合でも、おそらく人間の眼ではみえないものまで解析するようになる。脳損傷の画像は、コンピュータであればどう見るのかを参照し、コンピュータの「意見を聞く」という局面がほどなくやってくる。将棋のプロ棋士が、自分自身の棋譜をコンピュータに見てもらう時代にすでに入っている。参照すべき枠が一つ増えただけでも、まったく局面が変わってしまうことがある。
第二に「ビッグデータの活用」という問題がある。人間の記憶は、多くの事象を捨て去ることで成立している。コンピュータにはそもそもこの仕組みがない。膨大な既存のデータを活用することは、そもそも人間の知性には不向きである。ビッグデータはデータ量が多いことを意味するのではない。むしろどんなささやかなデータであっても捨てることなく、レファレンスにかけるという人間にはない特殊な能力である。コンピュータのデータ処理は、この点ではいつも参照すべき異質な知なのである。ビッグデータを有効に活用できるセラピストとそうでない人は、言葉が通じないほどの隔たりが生まれると予想される。
第三におそらくこのデータは、患者の臨床外の様子まで映し出すようになる。臨床という限定された場面で、患者がある緊張と集中という限定場面で、一時的に良くなることはある。家庭に帰れば、またもとの状態に戻るということを繰り返していることも多い。臨床とは患者に能力の形成を促す固有の場所であると同時に、日常から切断された特異な空間でもある。そこから地続きに日常につながっていくことは容易ではない。臨床と日常をつなぐ場面に実は多くの選択肢がある。車イスの方が有効な生活であれば、車イス生活になっていくことはごく自然なことである。それによって歩行能力を放棄することもあれば、歩行能力を改善しながらなお主要には車イス生活というような場面まで選択が広くなるはずである。機器の改善は、その程度の細かさにまで及ぶと予想される。それだけではない。身体は活動態であり、それとして活動することで維持されるが、時間経過とともに成長も老化もある。障碍者の体力の目減りによって、障害ではなかった事象がおのずと本人にとっての障害にまで変化していくことがある。障害の経年変化は測定誤差に収まるような小さな変数ではない。経年変化は病態そのものに小さくない影響を及ぼしてしまう。それをどのように組み込むかも別建ての課題となる。そうした歴史的局面変化のなかで、現在思い浮かぶことを記しておきたい。

1 身体

 身体そのものが何であるかは、一義的には決まらない。ロボットの身体が身体ではないと言えず、植物の樹木や茎を身体ではないと言えない以上、原理的にも決めようがない。身体は過度に未決定である。身体は何であるかという問いに対して身体が決まるのではなく、身体は何になりうるかという問いに対して、身体は像を結ぼうとする。この像が完結することはない。この決まらなさの度合いと、個々人にとっての自分の身体の「やむをえなさ」の隔たりが大きすぎる。誰にとっても、自分の身体は任意に取り換えることはできない。ほとんどの人にとっては、自分の身体と一生付き合い、一生ひきずっていくしかない。論理的には身体の可能性には際限がなく、事実的には個々人にとってこれ以外にはないという否応のなさが、身体の現実である。この隔たりの大きさによって、臨床はつねに多すぎる選択肢に直面していくことになる。これを裏返せば、患者と一緒に楽しい時間をただ過ごしても、それはそれで臨床であることになる。過度の選択肢は、過度の裁量と裏合わせである。
動物の身体の本性は、「みずから動く」ことである。このみずから動くことの仕組みは、「力学」的にも、「動力学」的にも考案することができる。力学は、運動と相互作用だけから事物を組み立てる原理的な構想である。相互作用の基本は、作用・反作用である。ここまで事象を絞り込むことの利点は、できるだけ簡素な原理からどこまで複雑な世界の現実に届かせることができるかであり、力学はつねに「挑戦」なのである。その意味で力学は哲学に近い。力学だけから、体操選手のようにバック宙を行うロボットまで制作できている。ボストン・ダイナミクス社のこうしたロボットは、身体に別様の選択肢を提示し続けている。
これに対して動力学は、相反的な2力から事象を構成していくものであり、「構成論」的である。眼前の物体が、引力と斥力の均衡で構成されていると考える。これを起動力と抑制力に置き換えてみる。そこから身体を起動する要素と抑制する要素の組み合わせで考え、動作はこれらの不均衡状態で起きると考えていく。動作の細かさを形成していくさいの主要な要因となるのは、抑制する仕組みである。起動力と抑制力の不均衡状態には、隙間があり、この隙間には不均衡状態を調整するための多くのファクターが出現してくる。それらのうち最も強力な調整要因が身体内感であり、身体内感は未知の動作に踏み込むたびに新たに形成され、本人にとって出現する。歩行訓練中に歩行速度の変化を起こさせることは、身体内感の呼び出しに確実に寄与する。またこうした起動力と抑制力の不均衡状態では、患者本人はできるだけ早く不安定状態を狭めようとするために、動作のなかに選択的制御を可能とするような変数が欠けてしまう。この選択的な変数を回復させることが、動作の回復につながる。ここに踏み込んだのが、村部義哉である。
生命体が環境内で生き延びていくさいに、形成してきたのが「感覚」であり「五感」である。五感は、進化の最大の成果であり、動作の制御に活用されてきた。最大の機能性は、生命体にとって危険なものを事前に察知してそれを避けることと、餌を探しだすことである。外的障害を避けることは、認知機能の最大の仕事の一つだが、これはいまだリハビリの現場では、有効に活用されているようには見えない。右分回し歩行の人を、右壁沿いに歩行させれば、おのずと外的障害を避ける認知の本性を活用することはできる。少なくとも右分回し歩行の人は困難に直面し、そこで選択肢を獲得していく。月成亮輔の治療技法に含まれているのは、こうした外的障害を避けるという本能的な感覚の働きを活用していくことである。アーティスト大崎晴地の「障害を組み直す」シリーズの作品は、ここにかかっている。
外的障害に対して選択肢を拓くことは、実はほとんど見落とされてきた。ほとんどの場合、認知を対象にかかわる志向的な働きとして活用してきたためである。他方、志向的に「それとはかかわらない」「それを志向的に避ける」方向での活用は、ほとんど試みて来なかったのが実情である。こうしてみると「人間の行為」をどの局面でどのように活用するかは、すべて課題として開かれている。
五感と身体内感の連動は、繰り返し形成され、そのつど確保していくしかない。五感のなかで触覚だけは特殊な位置を占め、物に触る知覚が、自分自身を感じる内感と連動して起動する。ここでは知覚と内感の連動が二重に進行する。動作もそれとして起動しながら、動作の内感をともない、二重に進行する。この二重性をどのように活用していくかについては、多くは今後の課題でもある。
動作の細かさは、関節の多さによって決まっている。人間の場合200か所以上の関節によって、人体は作られている。関節こそ多くの選択肢を含み、またそれとして多くの無理がかかる場所でもある。関節を介して、動きの連鎖が作られていくというのが、理学療法の基本的な人間像である。これに対してペルフェッティは、身体は情報の「受容器表面」だという基本的な人間像を対置した。情報制御の欠損・障害が、そのまま病態だと考えたのである。内発的な痛みも、情報の不整合だと考え、一貫した「情報人間像」を作り出している。ところが麻痺は、情報そのものの「純粋欠落態」であるため、実際のところ配置のしようがない病態でもある。麻痺は情報の向こう側という事象である。
これらに対して、現象学が対置できたのは、基本的には内感領域である。それとともに情報に、大別すると「測度」(量として捉えることができる)と「強度」(度合いとして区別できるが量に落とせない)の区別があり、また区別しなければなければないという点が、強調点である。学習はほとんど強度から進み、後に測度に転化される。これらはただの人間観のように見えるが、病態仮説を設定するさいに内的に効いてきてしまう。そのため考え方、見方に留まることができない。つまり人間像は、つねに更新するつもりで引き受け、練り直す以外にはないのである。

2 病理

 脳神経系の障害には、システムの特質が良く出る。一般に脳の一部に障害が起きたとき、脳神経系は自分が生き延びるために、最大限の対応をしている。これを一般に「システムの自己治癒の努力」と呼んでおく。たとえば脳の障害の映像があり、障害部位の詳細から病態にあたりをつける。ところがこの映像には、自己治癒の努力が映っているとは考えにくい。将来的には分からないが、現在の映像化の技術では、脳神経系の物体は映すことはできるが、自己治癒という活動を映すことは難しい。損傷部位から多くのノイズが出ないように、その部位の活動を抑制し、活動の低下を対側の活動へと移し、機能的に賄えるところを賄ってしまうはずである。それは総体として、人間個体に都合よく自己治癒が行われるわけではない。脳神経系は、それじたいの生存を賭けて自己治癒を行っているだけである。このことが病態を複雑化し、同じような脳神経系の損傷部位でも、個々人で病態に圧倒的な違いが生まれてしまう。ここに「システム的病理」が必要となる。体細胞的な疾患とは異なり、脳神経系の部分的損傷は、それぞれ独特の自己治癒の仕組みを備えているにちがいない。
 病理のレベルをどこに設定するかは、大問題である。たとえば「伸張」「放散」「原始的運動スキーマの出現」等々は、病理の末端に広くみられる兆候であり、広範にみられる以上、個々の患者の固有の病理に届いていない。片麻痺の場合には、左右を非対称に交互に作動させることができない。右側を動かそうとすれば、左側に緊張が出るとか、通常は歩行を妨げるような挙動が出てしまう。そこでまずこの病理が出てしまうシステム的機構を仮定する。たとえば「身体が左右交互に非対称に作動するのであれば、一方の半側の活性化にさいして、他方の半側の抑制が起きているはずである」というのが病態の基礎にあると考えてみる。これが「システム的機構」の一事例となる。そしてこれが同時に病態仮説の基礎になるのである。半側の損傷によって、抑制の仕組みが解除されてしまうと、左右の交互性を活用できず、右足を出そうとして左肩が前に出てしまうような挙動が出現する。
どのレベルに「システム的機構」を設定するかは、病態の全般的な重さ、軽さの度合いに依存しており、あらゆる場面に持ち出すことのできる「システム的機構」は、おそらく存在しない。というのも障害が局所的であれば、この局所に固有のシステムの対応が作動しているからである。システム的機構の設定は、病態仮説を組み立てるさいの前提となる「科学的な見通し」のことであり、前に進むさいの「踏み切り板」に相当する。こうした病態仮説をそれぞれの病態で見出し、そこから各患者の病態の固有性に届かせようとするような試みは、今後あらゆる場面で必要となる。
 こうした局面に主題的に踏み出したのが、唐沢彰太『臨床はとまらない』である。ここでの臨床の組み立ては、(1)システム的機構のレベル設定を行い、これによって検査のターゲットを決める。(2)個々の患者の病態まで届かせるための検査手続きの粘り強い精査、これによって欠損もしくは障害の部位もしくは局面を特定する。(3)そこから改善へ向けて、課題を設定して手技を行う。こうした組み立てによって、従来の病理を一段階詳細にするところまで、独力で進んだ。このときこうした検査手続きによって、疾患部位周辺の動き、感じ取り、制御、調整を一つ一つチェックしていく中で、本人にとってもどこが疾患で、どこが課題になっていくかの病覚を細分化する同時に、個々の患者の病態のネックになっている部位もしくは局面を細分化していく手続きである。これによって漠然と捉えられていた「失行症」や「触覚性消去現象」の内実が、相当にキメ細かくなってきた。
 失行症は、一般に「道具に対してどのようにすればよいのかがわからない」「個々の身体の動きはできるのに道具使用のような少し高度な動作が実行できない」というような特徴として語られることが多い。病態の意味内実としてはそのとおりである。ただしこれらはDSM評価基準に似て、いずれも病態全般の「目安」である。こうした患者のどこに疾患が見られるのか。病態についての言語的理解ができたと思ったら、それで停止になってしまう。「わかる」ということは、終わっているということでもある。そこで全般的な「目安」となる理解をカッコに入れる。そこから問いを立てる。いったい何が起きているのか。どうやって調べればよいのか。病態とは、個々の患者の固有性に届くということが本来性であり、そのときにもなお「わからない」ことに満ちていることが多い。治療者がわかるということは、治療者だけのために行われていることである。
 唐沢彰太の組み立ては独特である。失行症の患者に対して、「何ができ、何ができないか」を調べていくのである。治療者があるポーズを取り、それを模倣してもらう。少し複雑なポーズだと模倣ができなくなる。模倣ができれば、そのさいのイメージを活用して道具使用の動作を組織化することができる。ポーズを見る能力はある。だから知覚の障害ではない。知覚はでき、個別の運動もでき、にもかかわらず態勢の組織化には至らない。「何であるかはわかっても、それがどうするのかがわからない」という事態である。
ここからさらに病態を調べていくのである。ポーズを真似てもらい、ポーズに少し変化を入れる。たとえば肘の曲がりを大きくしてみる。それを真似てもらう。そしてどの関節を動かしましたかと問う。ここからさきには病態の度合いによって、大きく違いが出る。「どの関節を動かしたのか」という問いが、何が問われているかがわからない、どの関節かという問いは理解できても、どう答えたらよいのかわからない(解答への道筋が見えない)、どの関節かを特定することができない、関節を特定できても、そこをどうしたのかがわからない。こんなふうにして病態の特定を行っていく。この病態の特定が、本人自身の治療的な細分化とつながっている点が、ここでの検査の実質である。
 この著作で述べられている「触覚性消去現象」には、興味深い点が多かった。身体の左右の情報に時間的な落差や判明性の違いが生じて、まっすぐに座ることができないような病態である。一般には左右バランスをとることができない。見かけ上は、半側無視にも似た症状も出る。しかし左右それぞれの別個の情報はうまく捉えることができる。ここから左右バランスを取るさいには、左右の情報をバランス制御へと組織化することができなければならならず、左右の情報からそのつど正中線を形成していかなければならないと考えていくのである。
このとき、病態仮説としては、左右の情報をバランス制御へと接続していくことができないこと、システム的な機構として、正中線は左右情報の対照から形成されるという仕組みが設定されているように見える。そして一方の情報がうまく活用できないときには、見かけ上半側無視になる、というように理解することができる。
だがここでは、別のシステム的な機構の導入も可能である。身体の左右の情報から正中線が形成されると考えるのではなく、正中線は移動(はいずり、歩行等々)のさいに、身体の左右を交互に活用し、まっすぐな移動や、まっすぐから外れる移動を行うさいに、「最短性」や「最小作用」というような運動の要請から、正中線が形成されると考えていくことはできる。正中線は、認知から形成されるのではなく、運動の要請と身体の左右交互性から形成される独立変数だと考えていくのである。視野の正中線は、視野が手前から向こうへと広がり、奥行きを可能にする「ノエシス-ノエマ」に匹敵し、左右に視界が広がるさいに、運動の可能性を条件づけると考えていくのである。そうすると病態仮説としては、半側無視は、正中線は維持されていて、正中線をもとに認知のなかの半分を消し、意識の負担を軽減する病理であると考えることができる。無視はひとつの代償であり、何かを維持するために積極的に放棄する病理である。そのためかなり構造安定化した病理である。意識で焦点化したときに、視界の半分が自動的に無視されることになり、焦点化しなければうっすらとした視界のなかで物の判別もできる。
他方、触覚性消去現象は身体の交互性を制御できず、見かけ上本人にとっては中心線が失われてしまい、座位のような静止状態であっても、運動への予備条件を整えることのできない病理だと考えることができる。この場合、身体の一方の側の情報が活用できる可能性が低くなると、見かけ上は半側無視に類似してくる。ここでのポイントはおそらく運動とともに形成され独立変数になっている正中線と、身体制御のためにそのつど必要な中心線を分けておくことである。これは唐沢彰太自身にとっても、有利な変更だと思われる。
システム的機構とそこから導かれる病態仮説は、臨床にとってはつねに前に進むための手掛かりであり、それを介さなければ臨床的な介入が細かくならないというのが実情である。そこでは仮設の真偽ではなく、それをもとに前進できるかどうかが問われる。

3 治療的介入

脳神経系の損傷の場合、そのつどの現状で患者の最大限の能力を発揮するために、どのようにリセットするかが問われる。課題は、最大限の能力の発揮だけであり、そのために何が必要かをそのつど吟味し、進めていくプロセスとなる。病前の健常状態は、目標ではなく、目指すべき到達点でもない。
そのとき(1)患者本人が制御できない動作では、本人にとっての選択肢があるのかどうか、選択肢が足りていなければ、選択肢を増やすように誘導することが必要となる。現状に対して選択肢を広げるために、別様に現実を捉えることも必要な場面がある。ただし本人の動作を誘導するために認知的な指標を活用することは得策とは思えない。認知的誘導は、知ることや自覚のために行われるのではない。それであれば意識の焦点化を活用していることになる。むしろ身体内感を誘導し、制御変数を増やしていくための手掛かりとして活用することである。
次に(2)動作は多変数関数で成立しているために、特定の筋肉(もしくは局所)に麻痺があっても、他の変数の制御の仕方を変えれば、埋め合わせることはできる。胃を切り取った患者が、12指腸の末端を機能変換させて、胃の代替機能として活用するようなことは、生体では無理なく起きる。この機能変換の幅を支え、機能維持しているネットワークが「有機構成」(オーガニゼーション)と呼ばれる。この場合病理の単位と回復させるべき機能単位がずれてくる。短期であれば、麻痺の回復見込みはない。それを組み込んで再組織化できる動作の有機構成の単位を指定する。麻痺の程度と病態によって、個々人でこの動作の有機構成の範囲は異なってくる。つまり病理の箇所を見定め、そこに介入して改善する以外のやり方は、多くの病態で可能であるに違いない。ここに臨床での「二重課題」が出現する。病態の分析はできる限り詳細であったよい。だがそこから再組織化を促す動作の単位は、リセットや組織化の範囲をどうとるかに依存する。
運動選手のコーチたちには、このことがよくわかっている人たちがたくさんいる。動きの良くないところは、誰にでも見える。伝えれば本人にもわかり、自覚をもって本人は対処しようとする。だからといって改善があるわけではない。たとえばゴルフの選手でスイングが外から回ってしまう場合、腕の出方に注意を向け、インサイド=アウトでスイングを行うように本人も心掛けている。しかしそれでは改善がない場合がある。コーチは、スイングする前足の親指に力を入れてとか、前足の向きを変えてとか、別の箇所の変数を変えようとすることがある。これは再組織化の範囲をどのように取るかの課題設定でもある。
一般に軽度で複雑な病態(たとえば高次脳機能障害)は、分析的な検査では、病態素因を確定することは難しい。マクロにみて欠損は誰にでもわかる。だが分析的に病態素因を特定しようとすると、どうにも難しい病態になる。そのことは検査への対応が、すでにシステム的に複合化しており、この場合病態の単位を設定しなおすことが必要であり、そのことは治療的介入への予期ともなる。
さらに(3)麻痺のある局面では、ともかくも制御のための変数を設定していくことが必要な場面がある。動きを支え、何かを感じ取ることのできるように麻痺の部位にタオルを巻くとか、条件の変更を行い、動作の繰り返しのなかで、ともかくも変数を出現させていくのである。
 その他にも多くの課題があると思われるが、必要なことは手技を学んでそれを適応することではなく、人間観を変え、病理の探求の仕方を変え、再組織化の仕組みを整えていくことであろう。

参考文献
池上高志、石黒浩『人間と機械のあいだ』(講談社、2016年)
唐沢彰太『臨床はとまらない』(協同医書出版社、2016年)
本田慎一郎『豚足に憑依された腕』(協同医書出版社、2017年)

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