触覚性マルチチュード
河本英夫
世界のなかに境界線が走り、その両側が非対称になるだけではなく、本性的に対立する場合、つまり利害でも価値観のうえでも感情的にも和解できないギャップが生じる場合、そこに闘争が生じる。だがテクニカルに対処できる対立であれば、どのような闘争が行われようと、実質的にテクニカルな対処は進んでしまう。そのとき対立はおのずと局面を変えるが、それが闘争の成果なのか、闘争とは独立に進行した事態なのかを本性的に判別できない。この本性的な判別できなさを抱え込んでいる場所が、システムである。システム的対処の特質は、コスト・パフォーマンスがよいことである。システムの作動は、対立するものの争点をずらし、現実性の局面を変え、固着対立であると思えた事態を変容させ、まるですべてを水に流すように見かけ上解消してしまう。この見かけ上の解消を、矛盾の先送りと言っても、矛盾の自動化と言っても、さらには矛盾の内在化と言っても、そのことによってシステムの現実に変化が及ぶわけではない。システムの現実には、先送りも自動化も内在化も含まれている。つまりシステムの多重作動には、すでにマルチチュードが備わっている。
だがこのシステム複合は、「帝国」のようなマクロ連結態を形成するのではなく、多重に内外を区分し、領域を交錯するネットワークである。それらの外観が「帝国」と呼ばれようと「世界システム」と呼ばれようと、名称にかかわらず実質的には、システム複合である。生産経済の約二〇倍の規模をもつ金融経済も、金融経済という独立かつ単独のマクロ・システムがあるのではない。現に在るのはストック・マーケット、ストック・先物マーケット、外為マーケット、商品マーケット、商品先物マーケット等であり、石油の値段を釣り上げているのはこの商品先物マーケットである。巨大な資金そのものは、それが投資され各マーケットで作動するのでなければ、ただの紙くずである。そのためマルチチュードは「帝国」への対抗軸ではなく、実はシステムそのものの特質へとすでに移行しており、本性的に発見的補助線である「帝国」そのものも、潜在的にはマルチチュードの仕組みを備えている。
マーケットそのものを運営する企業の買収統合は続き、新たなマーケットも誕生している。日本がすでに経済一流ではないと言われたのは、こうした金融のネットワークについてである。こうしたすでに多重化したシステムは、作動の予期をつうじて相互の連動によって変動幅を巨大にすることもあれば、極端な変動を次々と補償し、そうした変動をかき消してしまうこともある。おそらくこうしたシステムを前にして、ネグリはそれでは現実を過度にうまく説明したにすぎないと言うと思われる。ルーマンのシステム論への批判もそれを基点にしている。そしてその批判は勇み足だと思えるほど過度に当たっている。つまり記述された個々の事柄とは別に、どこかで最も重要な点を突いているというように当たっているのである。
マルチチュードの基本的イメージをあたえているのは、ドゥルーズ、ガタリが提起していたリゾームであり、塊茎であり、多数多様体である。当初統合体、確定され安定した階層、骨格の明確な構造に抗して設定されたこうした多数多様体は、鮮烈で可能性に富んだイメージをあたえた。いたるところに隙間があり、新たな領土を形成し、あらゆる方位へと延びていくことのできる植物性のイメージが基本にある。だがこうしたイメージは、くっきりと思い浮かべることのできるほど視覚的なものであり、隙間を見出し、塊根の伸びていく先々の脆さ、危うさ、自己組織化的に立ち上がる領土の兆しまで、視覚的イメージのなかに浮かんでくる。ルーマンのシステム論も原システム(社会システム)からの分節に次ぐ分節を行うかたちをとり、それじたい多重性をもつネットワークだが、やはり視覚的なものである。異なるのは、分子的なもの、モル的なものの二重に分岐する流動に力点を置くか、胚発生に近い世界の分節に力点を置くかのようにも見える。だがおそらく基本的には、ネグリはいずれにも不満なのだと思われる。
システムが分岐し、領域化し、そしてそこに制御関係が生まれれば、階層関係が出現する。この階層は上の層が下の層を包摂するようなものではないので、階層といってもそれぞれの層にはずれが含まれており、各階層は固有の作動原理と機構を備えている。しかも制御関係はテクニカルな対応を基本にしているので、かりに過酷な労働条件が生まれ、不本意な労働内容であっても、労働条件をテクニカルに緩和し、内容の選択肢をテクニカルに増大させることができる。つまり見かけ上不満は個々の層で解消可能である。雇用格差も賃金格差も、テクニカルに対応可能なほどの選択肢は、階層間に備わっている。
そのときなお解消不可能な問題は何かという問いが生じる。弁証法を放棄しても、否定性を放棄しても、なお階級闘争が残り続けるというとき、個別の問題解決のことではなく、なにか根本的な階層間の解消できないずれがあるに違いない。つまりそれぞれの階層でテクニカルな対処を行っても何一つ変わらない現実がある場合にのみ、この階級闘争と呼ばれるものの内実は明らかになるに違いない。それは資本と労働者、システムと要素的個体の階層的なズレのことではない。この程度のシステム的なずれでは、たとえ危機的に見えようとも、問題と思われるものはおしなべてシステム的に解除できる。
ではいったい何が階層関係を形成し、和解できないほどの階層を形作り、その果てに終わりようにない階級闘争を必要とするのか。動きをつうじた自己組織化によっても解消されず、そもそも動きのなかに現れてこないような次元に、そうした問題はあるに違いない。それはおよそ以下のようなことではないかと、私は推察している。
みずから自身の可能性と能力を日々の生産のなかで拡張しようとするもの、それゆえ現在の自動化するシステムのなかではこうした機会さえ奪われていくが故に、つねに何かに対して戦いを挑まざるをえないものと、他方みずからの可能性の拡張などという事態が何を意味しているのかさえ理解できず、そうした可能性が眼前にあったとしてもそれに気づくことなく自動化のプロセスにみずから巻き込まれ、あらゆる企てがすでに自足へと向かって営まれているもの、この両者の間には、おそらく和解できないほどの隔たりがある。いわば現象的には、現状に自足できず、つねに戦いを挑まざるをえないもの、他方そうした試みさえ理解不能であり、意図せず自動化のプロセスに参加し、かつそれを無自覚に支え、しかも自足できないものの行為機会をおのずと奪っているもの、この両者に分かれてくる。
みずからの能力の拡張は、労働や制作を含めたどのような現実のプロセスにも同時にともなっているが、にもかかわらずそれじたいは事実としては現れては来ず、現れの世界から見ればつねに潜在性にとどまっている。この潜在的なものの拡張にかかわるような働きは、現実の隙間にも、現実の多重性の間にも現れ出ることはない。こうした潜在性の拡張を含むような場面に世界の境界線が引かれるとき、そこでの課題は、現実の利害の対立や法的・政治的人権の擁護にとどまるものではない。労働者がみずからの能力を高め、みずからの可能性を拡張しようとすることは、いまだ基本的人権には書き込まれていない人権そのものの成立の条件でもある。それは生の可能性を拡張するような生政治学と結びつくが、現れない現実が持続的な焦点になる以上、いわば経験のなかで同時に個々人によって気付かれる以外にはない。これは生政治学の特質である。能力の拡張は、つねに身体とともに気付かれるだけであって、まさにそうした現実がある。この領域は、欲求や本能や感情のように、ただ感じ取られ、まぎれもない生の現実ではあるが、視覚的に現れることはない。基本的には触覚的空間の現実である。この領域から人間、および世界へとつながっていく現実を描こうとしたのがスピノザである。
触覚的空間のイメージを感じ取ってみよう。私が呼吸をし、隣人がその排気の一部を吸い、隣人の排気の一部をさらに私が吸う。この隣人との距離が十分に近ければ、呼吸している空気のかなりの部分は、呼気、排気の出し入れをつうじて密に共有している。生きているということは、ごく近くに生存するだけで、唇を使わなくてもディープ・キスをしていることである。これは触覚的世界の基本である。触覚的世界は、性器結合以外にも多くの見えざる仕方でネットワークを形成し、密な間接性、知覚以前の運動態、発見のたびにさらになにかが見えてくる底なしの潜在性を基調とする。たとえば相手の動作を真似る場合、相手の動作は視覚的に判別できるが、真似た自分の動作を視覚的に確認しているのではない。だがそれがなんであるかはよくわかっており、その動作が相手の動作と類似したものであることは、見て知るとは別の仕方でよくわかっている。
ここにも触覚的な世界がまるで視覚空間の見えざる裾野のように広がっている。触覚で形成される世界は、視覚的な多重性とは異質なものであり、身体のほとんどは触覚的世界に属している。そしてより良い呼吸のしかた、より良い真似のしかたがあるように、より良く生きるための政治学があり、より良く生きるための触覚的闘争があるに違いない。こうした触覚的世界を手放さないで持ちこたえることは容易ではないが、ネグリのなかでは明示化されない気合いや気負いのようなものとして初期から今日にいたるまで残り続けている。この位置から見ると、多くの世界論、あるいは第一級の方向づけや見通しでさえ、なにか評論家の言説のように見えてしまう。触覚的世界を言説の潜在性として含ませるためには、どこまでも現場にとどまり、現場の泥臭さを逆手に取って活用するのが手っ取り早い。他方それでは世界論にも、世界構想にも容易には届くことができない。
こうした触覚的世界の多重性を構想するために、ネグリがそれにもっともふさわしい道具立てをもっていたとはとても思えない。モル的なもの、分子的なものの二重の分岐も、塊茎もさらにはマルチチュードそのものも過度に視覚化されている。これでは視覚イメージに合わせて隙間を指定し、新たな領土の予感を喚起し、新たな組み合わせを指定するだけにとどまってしまう。だがそれでは潜在性と呼ばれる能力そのものの拡張がなされないのである。触覚的世界は、基本的に内外の区分からなる。外に区分されたものにさらに内外の区分が生じ、内に区分されたものにもさらに内外の区分が生じる。原則これの繰り返しである。内外の境界線を交差させる多重なネットワークこそ、触覚的システム複合である。そのためひとたび引かれた境界線で外的な敵だと思えた物のなかに、やがて自分自身が見出されることもあり、内的な闘争主体だと思われていたもののなかに、まさに敵の本質が内在化していたことに気づくということさえ起きる。このとき境界線が新たに引き直され、内外の区分が更新される。こうした触覚的内外区分の多重交差のイメージをあたえていたのが、オートポイエーシスのエッセンスである。だがルーマンはそれを道具的、記述的なたんなるモデルとして活用して、過度に視覚化してしまったというのが実情である。視覚化されたものは、ただちに説明モデルとなり、何度か応用記述がなされて、展開可能性がなければそれで終わりである。ネグリ自身が、発見的な補助線として導入した、「構成的権力」も「帝国」もそこからの展開可能性がなければ、ただの説明モデルになってしまう。つまりほどなく、「そんなことを言っても」という位置へと移行してしまう。
ちなみに身体を扱うさいに、分子的なもの、集合状モル的なものの二重分岐を活用できて、それがぴったりと当てはまるのは、おそらくドゥルーズ、ガタリが典型事例として活用した、統合失調症・緊張病様態だけである。緊張病様態では、身体は機械状になり、運動の度合いの変動だけになって、数的な比例関係で変動が生じ、足が二倍、腕が四倍、体幹が八倍になるような強さの度合いの変動が起こる。このときむしろ身体は点状の機械であり、この機械の特有さは、すでに内部も外部もないことである。ところが統合失調症・離人様態、妄想様態、夢幻様態では、身体の内外の区分の変動が起きている。集合状モル的なものがそれじたいとして領域化し、継続的な作動のモードをみずからに獲得したとき、機械状運動は、内外区分の境界線を区切る作動へと変貌する。正確に言えば、こうした作動が領域を失い、変動の度合いだけになったものが緊張病様態である。身体の変動を考えるさい、緊張病様態は特異な例外である。花村誠一の複雑な統合失調症ダイアグラムにいまだ書き込めていないのは、こうした身体の作動のモードの変換である。
どのような生産的労働にも身体がともなうが、触覚的世界を描こうとすれば、描くことの本性上大幅に視覚化する以外にはないので、ずいぶんと工夫が必要である。眼前に椅子がある。この椅子は視覚的に捉えられている。ではどうやればこれを触覚的に捉えることができるのか。紙でも布でもよいので椅子を包んでみるのである。この包んだ感触が触覚的知覚である。触覚はそこになにかがあるということを感じ取る存在論的な感覚であり、それが何であるかを知る対象知覚ではない。そこに何かがあると感じ取ることは、新たに内外区分を行うことであり、すでに外に区分されたものを知る場面では、知覚になっている。触覚的闘争での現実性は、対象がなんであるかを知ることではなく、また意表を突くような視点の際立つ説明を行うことでもない。むしろそこになにかがあると感じ取ることであり、それを手掛かりにどのように行為しうるかにむしろ力点がある。これこそ触覚的存在論である。そこでさらに大きな風呂敷で東京を包み、世界を包んでみる。そのとき感じ取れるものを基本にして、さらに内外区分を縦横に進めてみるのである。このなにかを手掛かりとして、自分自身の経験を動かしそれを変え、また世界とのかかわりの組織化の仕方を変えていくこと、これこそ触覚的闘争である。
内外区分を行うとき、まさに境界線が引かれることで内外に次元の違いが出現する。この次元の落差によって、融和、和解、独立、対立、闘争のようなさまざまなモードが生じる。また次元の違いによって潜在性の度合(強度)が出現する。能力の形成、可能性の拡張を否応のないものとするのは、この潜在性の度合いである。こうした触覚性の構想がネグリの課題により適合的なものであったことは、今日になってはじめてわかることである。つまりネグリは、みずからの課題にふさわしい構想イメージをもたないまま走り始め、そして走り続けたのである。
ネグリがガタリから情報を得ていたと思われるラボルトの病院では、患者に演劇を行わせたり、音楽を演奏させたりしている。体性感覚、触覚性力覚を活用しながら神経系を再組織化することは身体に物理的、生理的損傷がない限り、つねに有効であり続けている。あるいはそうしない限り、治療だと思われているものが、実は治療に逆行することもしばしばである。患者をいたわり、患者にとって見かけ上やさしい環境設定、治療設定では、むしろ自己治癒能力の減退さえ引き起こすことがあり、さらには視聴覚的知覚の安定を求めることは、まさにそのことによって世界ならびに世界とのかかわりの組織化が過度に硬直し、潜在性の減退につながっていく可能性がある。
身近な問題に引きうつしてみる。環境問題についての情報は、日々夥しいほど流れている。そして情報レベルの知識としては地球全域に空白がないほど埋め尽くされている。つまりおよそ知識としてはわかっている問題である。しかも同様に夥しいほどの環境保護団体があり、ミクロな地域活動、教育活動を続けている。コミューナルな活動の場も、選択的に参加できるほどに展開されている。だがなにかが欠落していると感じられるのである。それを一言で言い当てるのは難しいが、そのなかの重要な要素が触覚的感度である。地球の裏側やアフリカの窮状については知識としてはわかっている。そこに感情を投入して痛みと苦しみを感じ取ることもできる。だが自分自身の経験を動かし、経験を変えていき、自分自身の潜在性の度合いを変えていくほどの行為機会として受け取ることは難しい。
どのような身体の現場にも、給与支払いとは無縁の生産があり、環境保護とは無縁の環境内生存の工夫があり、情報とは無縁の知恵がある。自動化されて流れていく日々の視聴覚経験のなかで欠落してしまうのは、この経験を動かすほどの場所を触覚的に感じ取ることである。そのためには、自動化される流れのなかで、おのずと閉じていくという感覚をもつこと、みずからを世界の不連続点とするように世界とのかかわりを組織化することが必要である。またそのためには、みずからに受容する躊躇と葛藤への触覚的感度が必要となる。意識とは躊躇の別名である。近代の経験は、夥しいほど再生産される知識(知ること)とは裏腹に、行為機会の可能性についてよほど狭いものになっているようである。
(かわもとひでお/システム・デザイン)