システム的リハビリテーション
――セラピストのためのシステム現象学
Systemic Rehabilitation
河本英夫(東洋大学)
要旨
壊れた身体や脳が再生するさいには、創発や再生や発達のような事象を適合的に扱うことのできる知の枠組みが必要となる。1960年代からはっきりとしたかたちで出現してきた「自己組織化」の構想は、その最適なものである。1970年代には、自己組織化の最先端版である「オートポイエーシス」の構想が出現し、さらに局面が変わってくる。それらの内実を検討しながら、リハビリテーションの現場で固有に生じる事象について検討を加えていく。リハビリとは、行為能力の再生の作業であり、行為の能力の拡張を含むことから、本来健常者にも活用することができるものである。リハビリテーションにとって緊要なのは、情報科学でも認知科学でもなく、システム的な構想である。
キーワード
二重作動(double operation) 自己組織化(self-organizing) ハイパーサイクル(hyper―cycle) オートポイエーシス(autopoiesis)
1 自己組織化の特性
自己組織化の基本的な事柄は、第一にごくわずかの原因から大きな結果が生じることである。事柄としては、「ほんのわずかのきっかけでやがてまったく局面が変わってしまうような場面」である。局所的な変化が系(システム)を巻き込み、系そのものの作動によって、系そのものが新たな局面へとおのずと進んでしまう。こうした当初のごくわずかの変化が、物理的には「揺らぎ」と呼ばれる。たとえば水が小さな滝のように落ちてきて下の石に当たって左右に分かれるとする。水が左右に分かれる確率的頻度は、1/2ずつになるように設定しておく。実際に行ってみると、水が半々に分かれて落ちることはなく、1;9程度の分離した別れ方をする。これは左右どちら側でもそうなるのである。これはたんに水の落下のような事態であっても、プロセスの履歴が関与することによっている。前のプロセスが次のプロセスの動向になんらかの影響を与えてしまう。自己組織化にとっては、こうした事態があるために内部に未決定の領域が含まれている。
揺らぎ 揺らぎが含まれることが、系が創発しうることの条件である。「揺らぎ」はそこから展開可能性があるという予感や予期のようなものであり、一般的には患者の身体動作のなかに「動く可能性のある個所」として感じられる。治療的介入の最初の場面で、ともかくも動く余地のある場所を探し出さなければならない。なんらかの理由でまったく動かない身体部位は当然ある。その理由を探したり、その理由と思われるものを解除しようと努力することは、多くの場合筋違いである。それらはほとんどの場合、患者本人の自己治癒の最大の努力によって動かないようなっていることが多く、それを解除しようとすると、さらに患者本人の防衛反応を引き起こしてしまう。
動く可能性の大きな箇所を探し出し、そこに介入することは、患者本人の選択肢を広げていくことである。どこか身体に感じられる違いがわかることであり、それはたんなる情報ではない。たとえば麻痺した右足の出方に違いが感じ取れるとき、その差異は動作とは独立の情報ではない。少なくとも高次認知で言われる「情報」とは異なる。サイバネティクス、情報科学でベイトソンが定式化した「差異を作り出す差異」としての情報は、基本的には認知科学的な情報であり、なんらかの信号やサインを受け取ることであり、認知概念である。これに対して身体行為とともに受け取られる情報は実践概念であり、行為制御のための調整要因である。それを活用して行為の制御、調整が行われる。たとえば逆にまったく動かない身体部位は、たとえ情報を獲得しようとも動かないままに留まる。とすると身体行為を行うことが、同時に差異の感じ取りであるような「情報」が問題になっている。
ある身体部位に動作の選択肢が含まれるようになると、そこが自己変数化する。自己変数化したもののなかで、自分で変数の値を選べることが、たとえささやかであっても「自己制御」である。動く可能性のある部位(部分)が、別の仕組みに連動して次々と別の部位のプロセスを引き起こす場合が、自己組織化である。そしてそうした連動を引き起こす最大のポイントに最初から介入するような着眼や勘は、一般に「名人芸」と呼ばれる。名人芸は科学化されなければならないが、多くの場合、それは簡単に科学化できない。というのもそこで引き起こされるのは、プロセスの連動であって、身体部位の部分間の関係ではないからである。プロセスのさなかで起動する部位の集合が変化していく。
二重作動 自己組織化の場合には、一般にプロセスに独特の性格が生じる。プロセスがコンピュータのディスプレイで示される点の移動のようなものでない限り、プロセスはなんらかの質料性をもつ。身体であったり、物であったり、もっと軽い空気のようなものであったりする。身体はプロセスのさなかで、それじたいで「運動しながら」同時に「動いている自分を感じ取って」いる。運動を行うことが、同時に運動する身体の体感を感じ取っている。それらは二重に進行し、つねに伴っている。体感的感じ取りが、一般に情報と呼ばれているが、情報から運動が導かれたり、運動とは独立に情報が認知されたりすることはありえないことである。このことを身体行為の「二重作動」と呼んでおく。運動する身体とそこで感じ取られている情報は、同じプロセスのなかでの二重作動の関係である。ところが人間の言語は、線型(主語+述語+目的語+補語)であるために、こうした二重作動の事態をうまく表現することに、ははなはだ不適当である。ということは身体を含めた人間の経験は、人間の言語ではうまく表現できないことになる。ある意味で人間の言語は、底なしの深さのある不出来さを含んでいる。こんな言語でなければ、人間の経験はもう少し躍動的で生き生きとしているはずなのだが、ひとたび言語が出来てしまうと、誰にとってもいやおうがない形で言語の習得は行われてしまう。この不出来な言語を誰しも拒否することはできない。ということはリハビリテーションにおいて、通常の認識を用いてはいけないことになる。
この点で見ると認知神経リハビリテーションでのスポンジを用いた「接触課題」は、典型的な二重作動の課題である。手でスポンジを押す場合には、前方に運動圧力がかかっており、最低限運動志向性が働いている。そうすると接触が行われるさいには、手でスポンジの硬さを知るさいに、同時に運動の調整がなされていることになる。強く押しすぎればスポンジの硬さを判別できず、緩く押しすぎてもスポンジの硬さを判別することはできない。触覚には運動が内在する。あるいは触覚的認知と運動は内的に連動している。これは視覚的認知と運動が外で接続している事態と際立った対照をなしている。触覚的な課題を、視覚的な知覚をモデルにして捉えることはできない。触覚的な認知では、認知から運動を導いているのではなく、運動から認知が出現しているのでもない。運動の調整とともに、認知が遂行されている。これを異なる硬さの3種類のスポンジで実行することは、運動の微妙な調整とともに、認知を細かくする訓練がなされていることになる。
認知課題を実行することは、同時に意識下で運動の滑らかな調整を遂行することである。ペルフェッティが発案したもののなかで、このスポンジを活用した認知課題は、奇跡的なほどうまく設定されている。運動と認知が二重に進行するさいには、認知が前景化することによって、運動の調整が意識下で自然性を獲得する。そしてこうした事態は、しばしば認知が行われれば運動ができるようになると広範に誤解されてきたのである。起きていることは二重作動であって、認知か運動かを競うようなものではなく、また認知から運動を導くようなものではない。そのためこうした課題はどの硬さのスポンジかを当てるようなクイズとして行われているのではない。
カップリング 身体動作には、通常は一まとまりの単位がある。眼の瞬きも、歩行も途中で中断したのでは、動作とは別のものになってしまうような動作の単位がある。この単位の繰り返しが動作である。そのため動作とは空間内の移動のことではなく、空間は動作にとって、外的な座標軸である。基本的には、動作はその動作の部分集合を自分自身で組織化し、使える限りの部分集合を活用して、それをつうじておのずと組織化される。ここには空間的な指標は基本的には活用されていない。
ところが動作を特定のパターンや方向に自分自身で制御しようとすれば、環境内の指標を活用することになる。特定の位置にある目印を活用してその方向に歩いたり、壁と並行に床に引いてある直線に合わせて、まっすぐな歩行を作ろうと制御のための指標として環境内の指標を活用しようとする。環境内の指標は、行為の制御のための有効な変数である。
場所の移動とともに活用している指標もある。運動のさなかで活用している調整要因として活用できる変数がある。それがギブソンが明らかにした、「光学的流動」(オプティカル・フロー)である。長い壁伝いを歩いてみる。横目で壁の過ぎ去り方を捉えてみる。速度を上げれば、壁は速く過ぎ去り、また壁から離れるように歩けば、壁の過ぎ去り方のモードが変わる。光学的流動は、移動の速度や移動の方向調整に活用されている。
ギブソン自身は明確に区別しなかったが、方向を調整し、速度が維持されている場合には、光学的流動は変化として知覚されている。ところが移動しながらの速度そのものの変化や方向そのものの変化の場合には、光学的流動は、変化率として感知されている。変化率に対しては、知覚以前に身体行為で対応してしまう、というのが生物の特性である。
背後から加速しながら自動車が近づいてくるとき、緊急性の度合いは誰であれ感じ取ることができる。感覚は、変化率の大きさ(強さの度合い)を感じ取り、ともかくも身体運動で対応してしまう。それは感覚-運動野の働きである。動作の再生にとって、変化率に繰り返し触れさせることは大切なことである。たとえば患側の腕の上げ下ろしの訓練を行うさいに、動きが感じ取れるほどゆっくりと挙げ、次には腕の上げ下げをうまく感じることができないほどの速度で挙げてみる。これを繰り返すのである。意識で捉えることができるほどの速度と意識下で実行してしまっているほどの速度で交互に反復してみる。同じ動作の繰り返しでは、神経はただちに反応することを止めてしまう。それを解除するための訓練の工夫が必要となる。
変化率の大きさは「強度」として、フッサールやベルクソンやフロイトが同時代に課題設定していた。20世紀の初めころの、ひとつの共通の課題設定だったのである。それを20世紀の後半にドゥルーズが活用することになった。このドゥルーズの「強度」概念を臨床の現場から、明確な体験的行為として読み取ったのが、精神科医の花村誠一である。花村は1980年代の半ばには、強度の概念をただ一人臨床との関係で掴んでいた。そしてしばしば起きることだが、周囲には花村の理解を追理解できるものは、一人もいなかったのである。
しかしこうした指標が有効に活用できるのは、認知と身体行為の連動が有効に作動している場合だけである。こうした認知と運動の有効な連動可能性を、「健常」だと呼んでいる。脳損傷や整形疾患では、こうした連動可能性がどこかで壊れたり、変化したりすると考えてよい。歩行能力が失われていれば、光学的流動をうまく活用することはできない。
認知と身体行為は、カップリングの関係にある。カップリングは緩やかな連動で、連動の緊密さの度合いも変化する。歩行がやっとやっとの段階まで回復した局面で、カップリングも回復してくる。初期の段階では、壁が突然どんどんと過ぎ去るように動いたり、床の横線がどんどん過ぎ去るように感じられるような局面を通過することがある。これは認知と身体行為の間のカップリングの回復の一場面であり、認知-身体行為複合系の再組織化の段階に来ている。
環境情報 ちなみに最晩年のギブソンが定式化した「アフォーダンス」という概念は、定義の仕方からみて誤っている。ギブソン自身が行っていることをうまく定式化できていないのである。これは行為にかかわっている概念を定式化するさいには、しばしば起きることである。言語と行為はとても相性が悪い。よほど気を付けていないと、言語的定式化は、言語に引きずられてしまう。そして「行為機会をあたえる環境情報」というような誤った定義を行ってしまったのである。ギブソン自身の行っていることを精確に定式化すると、「行為選択に手掛かりをあたえる環境情報」だとすべきだった。眼前にイスがある。イスに座ろうと動作を起動することもできれば、そのままぶつからないように通り過ぎることもあり、イスの手前で引き返すこともできる。環境情報は、行為選択に重要な手掛かりをあたえているが、環境情報に合わせて行為が行われるのではない。環境情報は行為制御に大きな手掛かりとなる。典型的には走り幅跳びの踏切板までの距離は、身体体勢の制御に多くの手掛かりをあたえているのである。
学習は、多くの場合言葉とともに行われる。しかし言葉によって学習が行われるのではない。言葉を学ぶと、言葉の意味から事態を解釈しようとする。これによってただ誤ったことを覚えこみ、物事を誤って解釈するのである。そうなると行為とは何の関係もない局面まで進んでしまう。ただ言葉のなかだけの解釈を行っているのである。「アフォーダンス」という言葉についても同じことが起きた。
内感の欠損 脳神経系の疾患では、身体そのものの感じ取りである内感が欠落してしまうことがある。足が在るように感じられない、歩行を行っても歩行した感じがない。内感は、それがなくても済む限り、起動しない。足の裏の感覚であっても、歩行に必要な限りでの内感の感じ取りはあるが、歩行調整に必要でなければ、内感は起動されない。これは認知的コストを下げるために生命体に備わる仕組みであり、基本的には「無視」である。ところが必要な内感が起動しないままになることがある。内感は、必要なときにはおのずと起動するようになっているのが健常状態である。ところが内感がまったく失われてしまうことがある。足を動かそうにもどうにも動かない、足を動かすことがどうすることなのかが分からない、足を動かしたつもりなのにまったく動いていない、足は動いたはずなのに動いた感じがしない、足は動いたが何が起きたのかがわからない、足は動いたが自分の感じていたこととはまったく別のことが起きたと感じられる等々の場面が何度も起きる。これが「麻痺」である。内感領域は、基本的には「現象学的な能力」であって、感情はその末端の働きである。ペルフェッティがどうして快不快や感情だけを現象学的な領域だとしたのかはよくわからない。身体をそれとして感じている触覚性内感に対応するヨーロッパの言語がないことも事実である。固有感覚とはかなり異なる。ペルフェッティ自身の研究室で二人だけで話したとき、「内感」を何度も伝えようとしたが、うまく伝わらなかった。その意味で、ペルフェッティの卓抜した治療法は、高次認知に方向づけられており、認知と行為との隔たりが大きいのが実情である。
片麻痺の人の「分回し」は、麻痺側には股関節周辺の足の内感しかないことに関連している。ともかく内感のあるところを手掛かりに力を入れてみる。すると丸棒を振り回すように足が回ってしまう。それでも歩行になっている限り、ともかくも歩行の回復である。内感の回復は、行為の回復にずっと遅れてしまうのが普通である。行為ができるようになって、内感がもどってくると動作にはおのずと滑らかさが戻ってくる。ただし「分回し」では、力学的には余分な労力がつかわれているので、活用できる認知能力を使ってできるだけ余分な労力を使わないようにすることになる。膝や足先に注意を向けて、できるだけまっすぐに足がでるようにコツをつかむことになるが、健常状態に近づけるのではなく、むしろ現在使える能力のなかで、最大限力を発揮でき、かつ無駄の無さが基本となる。脳神経系の欠損があり、身体内感が欠落しているのに、歩行の外的見え姿だけは健常者に近いというのは、治療方針のただの誤解であり、誤設定である。
身体内感の欠落をいくぶんかでも回復させていくさいに、空間的な指標を活用しているのが、「空間課題」である。閉眼である高さまで腕を上げる。その腕が空間的などの位置に対応するかを確認しながら、身体内感と空間的な指標を関連付けていくのである。これは腕の身体内感を細分化しながら、それが空間的な指標とイメージの上でどのように関連づくかを確認するものである。イメージの活用を積極的に行いながら、身体内感を細かく作っていく作業である。ただしこれがどの程度行為能力の再生に寄与しているかは、症例ごとにかなり大きな違いが出る。
プロセスの連鎖 自己組織化の一般的な定式化は、「プロセスが次のプロセスの開始条件となるように接続したプロセスのネットワーク」である。こうした定式化は、1993年に行ったもので、プロセスそのものや活動は人間の眼には見えないが、もっとも基本となる要素単位であり、それを用いた定式化である。いまビーカ内で結晶化が進行している場面を設定する。断続的にビーカの底に結晶が析出しているところをみると、結晶化のプロセスは続いている。析出した結晶は見えるが、結晶化のプロセスそのものは見えはしない。そこで結晶化のプロセスを想定する。このプロセスは、次のプロセスの開始条件となるように断続的に続く。ところが結晶は、このプロセスの継続の外に出て、ビーカの底に蓄積する。とすると次のプロセスの開始条件になるというプロセスの継続の側と、結晶を外に排出するという側の二重の働きが、分岐しながら進んでいることがわかる。結晶化のプロセスのような単純な系であっても、「二重作動」が出現している。二重作動こそ、世界の多様化の基本となる仕組みである。
歩行という動作で見れば、一歩の歩行が次の歩行の開始条件となるように接続した要素的行為の接続である。速度や緩急やプロセスの接続点での選択肢が含まれている。結晶に相当するのは、そのつどの一歩として確定された動作である。滑らかさや切れが含まれていて、動き出し(変化率)と移動(変化)と静止(変化率)の三要素が含まれている。動き出しに途方もない労力のかかるもの、移動に力が抜けずスムースにいかないもの、静止がうまく行かず、よろけるもの等の違いは、はっきりと判別できる。
一歩の動作という点では、「分回し」でも一歩の動作である。この場合には、この動作が次のプロセスに接続しにくく、また接続の場面に選択肢が少なくなる。次のプロセスに接続するためには、また一から次の一歩というように歩行を作らなければならない。動作に自動性が欠ければ、本来それは動作とは呼べない。動作の継続の場合には、前の動作の姿勢が決定的に効いてくる。その意味では、前の動作を巻き込みながら次の動作が進行するので、この点では結晶形成のような単純な系ではない。析出した結晶が次の結晶化に影響をあたえるような、複雑化した自己組織化のプロセスが、歩行である。
建築の比喩 自己組織化のイメージを作るさいに、決定的な比喩がある。
家を建てる場合を想定する。13人ずつの職人からなる二組の集団をつくる。一方の集団には、見取り図、設計図、レイアウトその他の必要なものはすべて揃え、棟梁を指定して、棟梁の指示通りに作業を進める。・・・もう一方の13人の集団には見取り図も設計図もレイアウトもなく、ただ職人相互が相互の配置だけでどう行動するかが決まっている。職人たちは当初偶然特定の配置につく。配置についた途端、動きが開始される。こうしたやり方でも家はできる。
この比喩は含みが大きく、行為の自然性を言い当てるためには、こうした比喩をつかわなければならないのかと思えるほど、事態をうまく言い当てている。ヴァレラの先生のマトゥラーナが考案したものであるが、生前のヴァレラと話をしていたとき、ヴァレラはこれが「自己組織化の典型的な比喩」だと語っていた。まず第一に家を作るという課題を設定したとき、それに向かって進むことが唯一の仕方ではないことである。通常家を作るさいには、作られる家に設計図や見取り図に向かって進むことになる。目的に向かってそこに近づく以上「目的合理的行為」であり、人間の習い性となったものである。しかしアリやハチが巣をつくるさいには、見取り図や設計図に合わせて巣を作っているとは考えにくい。また身体や行為が、そうしたプログラムに沿って作られているとは考えにくい。オオカミに浚われてオオカミに育てられた少年の例がある。およそ二足歩行とは異なる身体と行為のモードを作り上げている。
かつての健常状態を回復させようとするとき、健常状態を手本としてそこに向かうように治療を設定することが普通である。ところが健常状態に向かって進む以外の仕方で、結果として健常状態が回復されることはいくらでもありそうである。間接的に健常状態を回復させるというプロセスは相当に多いと考えられる。セラピストにとって必要な感覚は、患者の能力をありあわせた条件で存分に発揮させるような介入を続けていくうちに、気が付いたら健常状態に近づいていた、という事態である。
2 オートポイエーシス
オートポイエーシスは、個体化のプロセスから成るシステムの構想であり、物理的な由来は、たとえば結晶化のプロセスで溶液の底に析出した結晶は、プロセスの継続の外に出ており、それじたいでは廃棄物(糞)であった。ところがこの廃棄物が、プロセスの継続を支えるようになると、プロセスのネットワーク(システム)は、自分が作り出した廃棄物を使って、自分のプロセスをさらに展開するような局面に来る。このとき廃棄物はたんなる廃棄物ではなく、自分を産みだしたプロセスのネットワークをさらに起動させるように働く。こうした作動の仕組みからおのずと形成されているのが、システムの個体である。これによって個体は断続的に作り出され続けるものとなる。この作動の動きを追跡してみればわかるが、個体はこのシステムの作動をつうじて結果として副産物のように出現するのである。
個体は世界内の一個の不連続点である。それはどの個体にとっても言えることで、個体は世界のなかにはない。みずからを世界内の不連続点とするのが、個体化のプロセスである。そしてこの個体化の構想をあたうかぎりの広さで展開可能にしたのが、オートポイエーシスである。
個体というとき、一つの閉じた系を思い浮かべる。そのとき空間内にまるで球形の物体のように閉じた系を思い浮かべることになる。これはライプニッツの定式化したモナド(単子)である。オートポイエーシスの場合、閉じていくプロセスのネットワークを定式化しようとしている。そのため断続的に閉じていくという事態を扱うのである。
ここには個体の自己が含まれるが、そこには二種類の自己が含まれている。一つは結晶のような物質の集合で作られる自己であり、これはシステムの構造体であって、いずれにしろなんらかの物質性を含んでいる。その意味で、この自己は固有の空間を占める。物質の集合が、固有の空間を形成する。
もう一つが動きのネットワークから作り出される自己であり、これは作動体としてしか規定されない。つまり一切の空間的な場所とは独立に規定される。そのため空間内に描くことは本来困難であり、空間そのものが出現する作動体とでも呼んだ方が近い。自己組織化とオートポイエーシスの見かけ上の違いは、プロセスのネットワークに円環が入っているかどうかである。そのためオートポイエーシスの前段階として、ハイパーサイクルがある。
ハイパーサイクル 接続するプロセスがどこかの段階で出発点に繋がったとき、自己組織かは新たな局面に入る。複合した機能系となるのである。それぞれの小さな円は、それぞれが機能系になっており、それが連動してより大きな機能系になっている。脳の機能系を考えるうえで、とても有効な模式図となっている。
ハイパーサイクル
ハイパーサイクルは、その内部の部分サイクルに損傷が生じて機能しなくなっても、それを無視して、ハイパーサイクルを縮小し機能系として自己維持することもでき、また損傷した部分サイクルに対して、代替機能をもつサイクルを組み込むことができる。機能系として維持できるものであれば、どのようなものでも活用可能なのがハイパーサイクルである。
「神経可塑性」と言われるとき、壊れた神経が治るという仕組みは神経系にはない。これは体細胞系と神経系の細胞レベルの本性の違いからやむないことである。手の皮膚を傷つけたとき、損傷した皮膚細胞は増殖して補われる。ところが体細胞に見出される修復の仕組みは、神経細胞には一切期待することができない。というのも神経細胞は個別に機能化するさいに、神経細胞の数を減らす仕組みを活用しているからである。神経細胞は、細胞の間に働きの違いが生じたとき、間にある機能未分化な細胞を消滅させることで機能化するという「減弱機能化の戦略的なプロセス」を活用する。そのため神経系が破損したとき、隣接する神経系部分を作り変えて代替させるか、損傷がひどければ無いものとして短縮機能系を再組織化させると考えられる。
ハイパーサイクルのうちのどこかの機能系が損傷したとき、有効な代替ハイパーサイクルを作り出すことが、自己組織化を活用した再組織化である。
内的と外的 こうした系が出現すると、観察者にとって、内的なものと外的なものの区別が生じ、物事を二重に扱わなければならなくなる。この事態の由来は、物性の触覚性感度にある。手で物に触れてみる。物の感触を「感じ取る」ことができる。さらに物に触っている手の感触を「感じ取る」ことができる。物の感触を感じ取っていることが、触覚性知覚につながり、触っている手の感触が、内感につながる。同じ「感じ取る」という語を用いているが、経験内容はまったく異なっている。これが内外区分の出現の基本的な事態である。この事態は、個体の出現という場面で必ず起きることで、たとえばボールが別のボールに衝突したとき、別のボールに触れることと、触れている自分の物性の歪みを感じ取ることは、同時に別の働きとして起きる。感覚のなかでは触覚、味覚、臭覚までは触れている器官そのものの感触ははっきりと伴っているが、聴覚では耳の感触を感じ取ることは稀になり、視覚では眼を同時に感じ取ることはほとんどない。物が見えることは「光の奇跡」という内容を含んでいる。外的感触(触覚性感覚)と内的感触(内感)がほぼ完全に分離してしまうのが視覚であり、視覚をモデルにした認知科学や情報科学は、実はリハビリにとっての基礎科学としては、適格性を欠いている。
内外の区別は、世界内に新たな事態をもたらす。当人が内的に感じ取っていることと外的に感じ取っていることが食い違うだけではない。当人の身体の感触と外から見ている人の観察事実が食い違ってくるのである。たとえば発達障害者で重度な人をときどき電車で見かけることがある。当人は長椅子状の車イスに横たわったままであり呼吸も荒い。見た目にも苦しそうである。しかしそれはどのような苦しさなのか。当人はこの状態以外の別の状態を感じ取ったことはあるのか。仮にないとしたら、現在の状態以上に快適で楽な状態を経験したことがあるのだろうか。それがないとしたら、一体当人はどのような苦しさなのか。あるいは苦しいのだろうか。個体は固有に生きているのだから、それ固有の感覚や感情や快不快をもって生活しているはずである。それが健常者とはまるで別のものであることはわかる。しかし一体どのような世界なのか。
安定した半側無視の世界でやっているひとは、たとえば左側が見えにくいということに大きなこだわりがあるようには見えない。本人には見えない左側にご飯のおかずを置くと、まるでそれがないかのように右側にあるご飯だけを食べ続け、しかもそのことを不自然だと感じている様子がない。半分の視野が欠けている、あるいはとても見えにくい状態であることに、本人は当然気づいている。その見えない半分に注意を向けさせようとすると、腫物に触られたかのように、話題を代えようとする。そこに注意を向けるぐらいなら、視野が半分欠けていた方がまだマシだという感じである。
視野が半分欠けた世界の自然性とは何なのだろう。急性期に一時的に視野が半分欠け、やがて急性期の終わりころには、視野が回復しているという経緯をたどる患者は多くいる。急性期の半側無視と慣性化した半側無視とは病態として別のもののようである。そうだとすると慢性化した半側無視の状態では、脳神経系の損傷に対する患者自身の自己治癒の努力の最大の成果が、この病態だと考えた方が良い。つまりできる限りのことはすでに患者本人が行っており、その成果が慢性化である。こうなるとまったく異なる経験に誘導しなければならない。
内的感触と観察者 観察者から見えている病態と、患者本人が感じている病態とはつねに異なっている。その場合には、観察者の感じ取っている病態をつねに括弧に入れて、病態に繰り返し接近していくやりかたを採るよりない。そこにはいくつもの理由がある。病態の固有性は、脳神経系の損傷の場合、損傷の位置と広がりによって個人差が出る。それだけではなく、損傷が起きたときのシステムそのものの自己修復がどのようになされたかによって、個体差が生じる。オートポイエーシスレベルのシステムでは、自己修復の仕組みが何重にも整っているために、病態はそれじたいで自己組織化した病態である。
そこから患者本人にとって起きていることと外から見た病態との区分が生じ、繰り返し本人自身にとって何が起きているかという問いが生じ続ける。これが「内部観察」と呼ばれるものである。だが内部観察は一義的に確定するわけではなく、患者本人にとって何が起きているかを推測する方法的な道筋である。その意味で、内部観察は病態に接近するための一つの「通路」である。
リハビリで名人芸をもつと呼ばれる人たちは、最初からこの内部観察を行っており、そこから突然のように治療を開始する。しかも治療的介入については、「おのずとそこに手が行く」と語ったりする。「考えてはダメだ」ともいう。それは治療的介入をつうじて、つねに損傷したシステムそのものの在り方を探りながら、そのことをつうじて次の治療的介入の選択肢を探し出しているからである。つまりここではセラピストの治療的介入の自己組織化が行われている。
リハビリ的病理 ある種の介入によってそれまで見えていなかった病理が出現することがある。病態は改善しているはずなのに、痛みがでたり、痺れがでたり、身体の一部の感覚が消失したりということが起きる。これはリハビリのプロセスが、それまで見えていなかった別の病理を前景化させたもので、システムそのものの改善が一時的に安定化できるところで起きていると考えられる。また病態が改善すると、それまで理解していた病理とは本当は異なった病理であったことが判明することもある。プロセスのさなかにあるものは、まさにそのさなかで組織化されるので、病態そのものが予想外の進行をしてしまう可能性をいつも見込んでいなければならない。ことに発達障害の場合、認知能力だけに働きかけていると、運動の能力の形成に複雑な変数が関与してしまうことがある。生前の人見眞理がいつも語っていたのだが、脳性麻痺児の認知能力の改善はずいぶんと進んでも、運動能力は容易には形成されない、という事態が起きる。
システム的抑制 システムの本性は、一貫して自分自身であり続けるように作動してしまうことである。そこには何段階もの仕組みがある。脳神経系に損傷が起きれば、そこから出るノイズを減らす方向で、損傷部位の機能を抑制してしまうことは、ごく普通のことである。また左脳の一部に損傷が起きれば、右脳の対応する部分に機能移転が起きる。それは利き手変換を行うような試み以前に、脳神経系で自動的に利き手変換が起きてしまうことに近い。こうした事情から、健常状態から見たとき、システムに損傷が起きれば、健常状態に戻っていくこととは別の仕方で、システムは自己修復してしまうことがわかる。そのときシステムに起きることは、(1)損傷への対応のコストを最低限にすること、(2)損傷以前に実行されていた機能を別様の仕組みで代替すること、(3)システムの現実世界への対応であっても現状の変化に抗するように対応することである。見かけ上これはシステムそのものの抵抗に似ている。
リハビリの開始時点で、患者は今日のリハビリ室では「こんな訓練」を行わせようとしている、という読みを行っているのが普通である。その訓練に対して、どう対応するのかの予期をもっていることも普通のことである。そして予期の範囲内で、対応しようとする。これはその時間帯の訓練を「やり過ごす」ための患者自身の戦略的対応である。そして人間である限り、こうした対応はごく普通のことである。生前の人見眞理のような卓抜した治療能力をもつものであっても、「まじめなやり過ごし」を簡単に見抜くことはできないことがあった。その症例において起きていたことをはっきりと分析できるようになるまで、人見眞理にとっても半年の歳月が必要だった。この症例では訓練の効果は出ている。局所的な改善はみられた。ところが能力の形成が行われた様子はなかったのである。
患者の予期の範囲内での訓練を行っている限り、システムはもっとも安易な対応をしようとする。そのとき患者自身にとって「新たな経験」ができているかどうかが問われる。患者自身の経験的な予期から見たとき、予期の範囲内にないような経験ができるかどうかが、決定的に重要になる。ただ訓練を繰り返しているのであれば、その訓練は予期された意味の範囲内にあるために、既存の能力の維持にしか貢献しない。新たな能力の獲得のためには、予期を超えた体験に踏み出せるかどうかである。予想外の訓練を突然開始することが、局面の転換に寄与する。これはオートポイエーシスの動きのなかに、新たなタイプの構成素を突然導入することである。これによってシステムの作動の局面を変えていくのである。
意識 意識の機能がどの程度に及ぶのかについては、現時点でも良く分からない。感覚反応の速度を遅くし、反射反応を遅らせて、経験をそれとして一まとまりの内容としていく働きをもつことであることは、意識の働きとして特筆してよいことである。荒川修作は、そのため意識を「躊躇の別名」だと呼んだ。意識の流れを分析するさいに、流れをそれとして捉える場面に、意識そのものの遅延作用が働いている。ただ流れるだけであれば、流れていることに気づくことさえできない。つまりフッサールの時間分析には、意識がもっている「遅延の働き」が自明な形で前提されている。感覚的に感じ取った刺激がそれとして意識されるには、0.5秒の持続が必要である。リベットの実験で、そのことははっきりしている。この持続を支えているのも意識である。
こう考えてみると、意識は認識とは別の起源から由来したものであるだろうと推測できる。鳥の羽は、当初体温調整の働きから出現したものであろう。羽が一定の大きさになり、体温を調整しようとして、大きく羽ばたいたところ身体が浮き上がってしまったというのが実情であろう。つまり特定の機能体は、それを活用する間に機能そのものが組み変わってしまうことがある。
当初、意識も、調整のための選択肢の広さを確保するための機能として出現してきたのであろう。それが遅延であり、保存能力であった。実際冬山で遭難し眠ってしまうと、低体温症、凍死とつながることがある。意識が覚醒している限り、体温維持のための多くの選択肢が維持されている。片麻痺の急性期の患者で、ある時期左側の視野が欠落することがある。一月も経てば、やがて視野は回復されるが、意識そのものを維持するために、視野の半分を消した方が有利だとするような時期があるに違いない。とすると意識の自己維持のために、認識の範囲はすでに限定されているのかもしれない。これは結構厳しい事態で、健常者であれ患者であれ、現在認識できている世界は、意識の自己維持に対応できる範囲に限定されていると考えられる。
意識を焦点化の働きとして活用することは、新たに獲得できそうな能力の自己確認のためだけに役立ちうる。能力の形成のためには、むしろ予期にない体験に踏み出さなければならない。そのため多くの場合、意識的な予期が妨害になってしまう。そのため本来、意識を「注意の分散の場所」として活用する方が有効である。新たな体験が行われたとき、行為後にそれを想起するという作業を行うと、それによって獲得された経験が再度組織化されることがある。組織化を行うために活用される想起は、過去を思い起こすようなものではなく、むしろそれが一つの行為であるかのような働きであり、「遂行的記憶」である。そこには余分なものを捨て、エッセンスのみをリセットするようなリセットが同時にともなっている。
言語 人間の言語は、身体行為とは折れ合いが悪い。身体行為は、それとして進行し、言語で言えば「無人称」で進行する。「私」(一人称)がいちいち制御しなければならないような身体行為は、それこそ「病的」である。また色彩の感覚的区別は、3万5千程度の細かさで行うると言われているが、色の名前は数十に留まっている。かりにたとえば黄色と緑の間の黄緑という名称を当てて、その延長上に「黄黄黄緑」という語を発明したとしても、それがどのような色なのかを対応付けることはできない。言葉を人工的に作っても、それを経験と対応付けることができない。机の上を手で撫ぜてみる。ざらざらや滑らかさは、4000程度区別ができると言われている。撫ぜる速度によって随分とこの数値は変わって行く。ところが触覚性の言語はほとんど足りていない。滑らかさの度合いを示すような言語はほとんどない。つまり言語で掬い取ることのできる事象はごくわずかである。
言語的表現がかりに有効性をもつとしたら、はじめて踏み込んだ経験、何が起きたのか本人にもわからない経験が起きたとき、それを再度自分の経験として、思い起こしながら記述してみる場面が基本である。一人称で記述できたら、病態が改善したというのは、ただの誤解である。
すでに行った身体行為を再度想起しながら、再組織化を行うところが、行為の組織化に貢献している。だがそれは言語的表現をしたことによるのではない。起きてもいないことを語ってしまうのが、言語の特性である。言語的な記述が有効に機能したというような議論に出くわしたときには、言語的記述とともに、患者の経験では何が起きたのかを考えてみることが必要である。言語とは経験の再組織化のたんなる一手段にすぎず、その場合でも「言語的記述ができたので病態が改善した」という主張は、ただの虚偽である。
プログラム プログラムは展開可能性だけに支えられている。ことにリハビリのように患者そのものの再生に向けた自己組織化のプロセスを目指す構想にあっては、方法的技法を適応すれば病態が自動的に改善するということは、ありないことであある。力学のような単純な系であれば、初期条件をうまく設定すれば、到達点に到達するということはあるのかもしれない。しかしその場合でも、到達点にうまく到達するように初期条件の係数を決めただけなので、結局のところ、到達点がすべての内実を決めてしまう。そして自己組織化やオートポイエーシスでは、到達点に向かうとは異なる仕方で、結果として到達点に行きつくことはいくらでもあるという事態に即した技法の開発に向かうことが基本となる。
ペルフェッティの考案による「認知神経リハビリテーション」は、リハビリのなかに認知機能を最大限に盛り込む「探求プログラム」である。そして実際には、細かな認知の活用をめぐって膨大な工夫の余地のある構想だった。ペルフェッティ自身は、舞台上で長いマフラーを首にかけ詩の朗読を行ってもぴったりの雰囲気を醸し出すような才人だった。そして次々と多くの技法の開発を行った。ただし純粋認知から、行為もしくは行為能力が再生されることはありえず、どのような技法であれ治療効果があるとすれば、そこには二重作動が含まれている。認知を行うことが、行為の一面であるような「認知行為」としての認知だけが、リハビリでは有効に機能する。
そうなると認知神経リハビリテーションには、膨大な無駄が入り込んでしまうことになる。その場合に必要とされるのは、有効な認知行為とただの認知とを区別し、余分なものを捨てていく進み方である。この捨てるプロセスにセラピストのセンスが含まれる。
他のセラピストの発表を聞いた後のコメントに、時として「それは認知的な治療ではない」という発言がなされることがある。立場や観点としての「認知」が問題になっているはずもなく、力点として重要なのは、「その治療の仕方は展開可能性があるのか」という問いである。
展開可能性がないにもかかわらず、立場としては「認知だ」などというのでは、ただの筋違いである。そして筋違いが、圧倒的に多く含まれてしまうのが、認知的な治療構想である。ただの認知からどのようにして運動能力が回復されるのか。そのときの回答は驚くようなものだった。頭頂連合野で認知と運動は繋がっているので、認知を行えば運動機能が回復される、というのである。かりにこんなことが起きるのであれば、片麻痺患者も健常者の歩行を観察していれば、歩行という運動ができることになりはしないか。こんなデタラメが混ざり込んでしまうのである。
どのような理論構想も、実際には「展開可能性」だけに支えられている。そしてペルフェッティの構想のコア・ユニットになるのは、実は認知ではなく、「二重作動」が実行されるさまざまな治療構想をアイディアとして次々と出したことである。ペルフェッティと直接話をした時に、このことはわかっていたのだが、うまく伝えることができなかった。あるいはまだ伝わる局面にはなかった。ペルフェッティは自分の構想をベイトソンたちの情報科学で説明しようとしていた。ところがペルフェッティが実際に行っていたのは、オートポイエーシスの仕組みだったのである。ペルフェティは、自分の構想を説明するために、時代的な制約から適切な理論構想をもつことができなかったと思われる。
世紀の変わり目の2000年前後に、私のなかで、ある疑問があった。オートポイエーシスの仕組みのなかにあるのは、「円を描くように走り続ける者は、まさにただ走り続けるだけで、同時に世界に内と外の区分を作り出す」という事態である。これが個体化の仕組みである。ここでは何が起きているのか。走る続ける者はただ走り続けているだけであって、世界の内外を区切ろうとしているのではない。つまり走り続けることと世界の内外区分は因果関係にも動機-帰結関係にもない。また世界の内外を区分しようとして、あるいは区分を目指して走り続けているのでもない。つまり一切の目的論ともかかわりがない。この事態を分析的に考えはじめたとき、マトゥラーナやヴァレラのオートポイエーシスでは、オートポイエーシスの半分しか語れていないことに気づいたのである。そこから二重作動を前面に出した「オートポイエーシス河本版」の構想が始まった。二重作動は、自己組織化の場面から起きており、アリストテレスとも近代科学とも異なる仕組みを立ち上げることができるという確信のようなものがあった。
二重作動には多くのモードがある。そのモードをできる限り明らかにしようと考えた。その手順で組み立てたのが、『メタモルフォーゼ――オートポイエーシスの核心』(2002年)である。こうした構想を作り続けていた時期に、サントルソでペルフェッティと会ったのである。
それでもまだ私には解決しなければならない問題が残った。紙の上に円を描いてみる。円によって紙は内と外に分かれる。しかしどちらが内でどちらが外なのだろう。紙の余白を内だと言ってはいけない理由はない。視点の移動で内、外を決めているのであれば、視点の移動次第で内外が入れ替わる。形式的にも数学的にもその通りなのだが、かりに将来入れ替わることがあったとしても、どこかでは内外は「なんらかの働き」で決まらなければならない。これが決まらなければ、個体がそれとして世界内に不連続点として存在することはできない。それは意味や時間や認知のような高次の働きではなく、最も基本的なところで起きている事態に違いない。そして四、五年の試行錯誤の果てに、この「なんらかの働き」こそ、運動性触覚であり、触覚はそれの内部に運動を含む基本的な認知行為だということが明らかになってきた。
介入の最近接領域 最近接領域は、ヴィゴツキーによって発達と学習の場面で導入された。「自分一人では実行できないが、教員、保護者、セラピストの手助けがあれば実行できる経験可能性の範囲」のことである。そしてそうした条件下で実行できるようになれば、やがて一人でもできるようになるという「経験可能性」の範囲である。比喩的に言えば、鉄棒の逆上がりしかできない子供に、大車輪を教えるようなことはできない。身体行為の場合、手順を踏んで能力を形成していくよりない。
ところでその範囲はどのようにして決まっているのか。ヴィゴツキーの場合、基本的には定常発達という基本形を外側に置くことが大前提になっている。かりにそれを置くことができれば、定常発達から見て、最近接領域の幅を決めることができる。ところが脳性麻痺のような非遺伝性の疾患では、定常発達を外側の基準としておくことができない。また脳神経系の損傷の場合、かつての健常状態を外側の基準として置くことができず、また損傷の度合いや病態によって最近接領域の幅が異なってしまう。さらにやっかいなことだが、損傷後の患者本人の自己治癒の最大限の努力によって、その幅に制限がかかってしまっている。病態とは自己治癒の努力の結果であり成果なのだから、本人自身にとっての防衛機制としても機能している。そのため有効な介入を行っているように見えたとしても、この防衛機制にひっかかってまったく効果がないこともあれば、あらかじめ治療的介入に対して身構えてしまい、ほとんどがやりすごしになってしまうことがある。ある意味で、患者本人にも驚きであり、すべてを治療者に委ねても大丈夫だという局面を潜るのでなければ、訓練を始めることができないことになる。
こうしてリハビリが不断の工夫を構成素としながら進行し続けるプログラムであることがはっきりする。外科的、生理学的な治療法の開発によって局面が一挙にかわることもある。それらの環境条件の変化を組み込んで、なお工夫を続けるしかない。セラピストとはそうした「覚悟」のことである。
The conceptions of the system theory have developed with cybernetics, self-organizing, mechanical theory of chaos and autopoietic system in not only psychopathology but also rehabilitation theories. The forms of conceptions emphasize the dynamic equilibrium of system, the processes of organizing of itself, the processes of differentiating of the self and becoming itself by itself each other. In autopoiesis, scientists have to advance with phenomenology because their cognitions are drawn into the processes of becoming itself and brought to the emergence of the self. In this paper, I discuss with the many properties of system theory to which therapists face in the processes of their rehabilitation.