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臨床美術の可能性
――日々新たに目覚めるために

河本英夫(東洋大学文学部)

 人間が再生していく現場では、神経系の再形成と再編が必要とされる。この再編に制作行為をかかわらせることによって、独特の治療効果をもたらすことは、理論的にも、経験の仕組みからも肯定されると予想される。しかしながら、神経系の形成はある種の創発を含む以上、論理学や機械論的物理学のように、ある前提を設定すれば、そこから必然的に治療効果が生まれる、というような性格のものではない。創発を内在する科学は、どこかに生成プロセスに飛躍を含む以上、決定論的なものではない。それだけではなくおよそ確定した基礎的理論の上に、応用領域が形成されるようなものではない。また基礎法則の上にさらに詳細な派生規則が積み上がるようなものでもない。
むしろ人間の能力の回復、再生、創出に向けたプロジェクトは、神経システムが多並行分散系であることに応じて、多様な企てがそれぞれの現場での前線を形成しながら、同心円的に拡大していくような企てである。ある現場での試みが隣接領域にも適用され、類比的な企てのネットワークが、徐々に拡大していくような試みの総称となる。比喩的に言えば、それは類比(アナロジー)の連鎖のようなものに近い。臨床美術の展開は、おそらくこうした拡大する同心円的なネットワークとして進んで行くと考えられる。
そもそもリハビリ系の学問に基礎的な規則は見当たらない。それはこうした技法が、理論ではなく、個々の治療事例の緩やかなネットワークになるからであり、理論という名称を使うにしても、「半理論」にしかならないことによっている。「片麻痺」と呼ばれるごくありふれた病態がある。街中でも近所の道路でもしばしば患者の苦しそうな歩行を見かけることがある。しかし右片麻痺と左片麻痺では、まるで異なった病態である。片麻痺とは、病態の疾病分類的な総称のことであり、治療過程で個々の病態は細分化される。個々の理論は、現場での治療行為の手掛かりを提供するにすぎず、応用のための基礎理論ではありえない。また治療過程は、促通技法のような「テクニック」ではない。患者に絵をかかせる場合には、患者はまさにみずから絵を描くのであって、テクニックに合わせて描画するのではない。ここでは、臨床美術で要請されるエクササイズの内実を吟味し、臨床美術が何を行う企てであるのかについて検討を行う。

1 何が行われているのか

 ある朝目覚めると、身体が思うように動かない。足をばたつかせてみるが、自分の足のような感じがなく、上体を起こすこともできない。見ると、自分の足がなにやら虫の足のようになっている。本人には自分に何が起きているのかわからない。だが次のバスに乗らなければ、会社に間に合わなくなるという思いだけは、くっきりとしている。これはカフカの『変身』の冒頭である。虫のような身体になって、なお会社に行かなければならないという思いがよぎる。意識は、自分自身の身体に起きる変化に対しては、容易に気づくことができない。それが何であるかもわからないのである。
さらにある朝目覚めると、自分がすでに逮捕されていることがわかった。なにやら数名のものが自分を見張ってもいる。しかし職場である銀行に行くのも自由であり、何一つ昨日までの生活とは変わらない。何も変わらないのに、「逮捕」という事態だけが付け足されたような逮捕である。これもカフカの『審判』の冒頭の場面である。おそらく自分の見張りになっている数名のものは、いつものようにただ道路を行き交う人たちである。それが見張り役に見えてしまっている。ある種の妄想様の変容が起きている。
 一般に経験の変化は一切の予期なく訪れ、そのため過剰な筋違いの意味付与と病態全体への広範な無視が起きる。過剰な筋違いの思いは、さらに筋違いの思いへとつながる。このプロセスを描いたのがカフカの作品である。またそのとき気づけないままになる多くの現実がある。自分でおのずと対処できないものに対しては、一般に広範な無視で対応してしまう。無視とは余分な認知を避けるための積極的能力であり、車を運転するさいに路上の小石を無視するような場面で働く。路上の小さな石まで見えていれば、車を運転することもできない。病的な欠損においては、おのずと対応できないもの、環境、世界、自分自身において対応困難なものに対しては、広範な病態無視(病態失認)が生じる。
 神経系の障害を含む病態に対しては、おのずと経験が変わっていくような取り組みが必要になる。意識は自分自身の変化に気づかないように、防衛的な変容を行っている可能性が高く、そのためには意識の制御から治療過程に入ることは得策ではない。すると意識をつうじて「知ること」ではなく、「できる」ことに対応する経験を拡張していくことが肝要である。神経系の形成にとっては、行為をつうじた選択肢に直面することが必要であり、みずから選択したことが、次の行為の起動につながることが必要となる。こうした行為の継続可能性は、自分自身の経験の回路をさらに開くことにつながる。このことが臨床美術の可能性にかかわっている。
感覚的経験は、経験の可動域を広げることにつながる。関節に可動域があるように、実は経験にも可動域がある。肩の関節を動かさなければ可動域が狭まることと同じように、経験も可動域をもち、経験を拡張する行為を断続的に行わない限り、可動域そのものが狭まってしまう。この経験の可動域を拡張する企てが、どのような場面でも必要となる。たとえば質の間の関連づけを行うようなエクササイズがある。カレーライスの味は、六角形、五角形、四角形、直角三角形、正三角形、円のどれに近いかというようなエクササイズである。味と図形が直接関連することはない。質の間には共通の座標軸がない。にもかかわらず各人にとって、カレーライスの味が、どの図形に近いかは直感的に決まる。このとき近さ、遠さの度合いとして捉えられているのが「強度」である。強度は量として捉えることはできないが、度合いとして区別されているものである。こうしたエクササイズは、新たな神経回路を開くために必要なことであり、経験の可動域を広げることにつながる。こうした経験は、ゲームや囲碁・将棋のような規則の明確に決まった範囲での選択肢ではない。むしろ選択性そのものを開くことである。こうした経験に直面して行くことが神経系の活性化につながる。
 さらに色彩は、情動的な運動性をもつ。青は拡散性の運動感をもち、黄は浮遊性の流動性をもち、赤は刺激的な遮断性もつ。画面の真中に赤の円を塗り、周囲を緑で囲む。すると赤は、前方に走り出してくる。逆に緑の円を描き、周辺を赤で取り囲む。緑は奥行き方向に走り出す。道路信号は、赤、黄、青と記号的な取り決めを行っているのではなく、むしろ色のもつ運動感に対応させて、行為を誘導している。色のもつ情動的運動感は、まだまだこれからも発見できるようである。ちなみにゴッホは、燃え上がるような黄色の激しさを発見し、マティスは身じろぎもしない黒を発見し、ルノアールは曖昧な影の暗がりの綾を発見した。ことにゴッホの作品では、黄と青の使用が際立っている。黄色は、光の近くにある色彩であり、青は闇の近くにある色彩である。真夏の真昼の学校のグランドの光景は、全景が黄色がかっており、明け方の町並みは、深い青に沈んでいる。光の近くには黄色があり、闇の近くには青がある。このとき光とは可視的な明るさであり、闇とは可視的な暗さである。闇と黒は異なる。黒は色だが、闇はいまだ色ではない。ゴッホは、こうした黄と青を発見したのである。実は、ゴッホが発見したものは、ゲーテが色彩論で色彩の基本法則にしていたもので、ゴッホは実際の絵画でそれを独立に実行して見せたというのが実情である。
 運動の軌跡にも、感覚と情動の動きがともなう。カオス物理学が見出したことのなかに、健康とは一定の複雑さを維持していることである、という基本事態の確認がある。たとえば雨が降り、雨水が樋を流れるとき、同じ量だけ流れ落ちているのではなく、ちょろちょろと流れることもあれば、一時にどっと流れることもある。雨水の落ち方は、非規則的で非周期的である。こうした運動の総称がカオス運動である。この意味でカオスは混沌のことではない。心臓から血液が流れるさいにも、一定量ずつ流れているのではない。血液の流量も非規則的であり、非周期的である。血液の流れ方が一定量に近くなるのは、むしろ老人性痴呆やアルツハイマーの人たちのようである。統合失調症の人は、むしろ一定の複雑さを維持したままである。健康とは、一定の複雑さを維持しており、それは非規則的で非周期的な動きとして表現されている。そうなるとこうした複雑さに向けて、線を引くことを考えてもよい。カオス図形をデザインとして活用している世界的なデザイナーがいる。図は、カオス関数をコンピュータで作動させて、ある時点で静止させたものである。この図柄の前後の図柄もあるはずであるが、それはこの図柄とは似ても似つかぬものである。こうした図柄に色を付けてみる。速度感とか、運動感とか、情感のテーマを決めて色を付けることもできる。
 色を塗るさいに、形に意味を見ないことが大切である。チョウに似ているとかクジャクに似ているとかのように、似ているものを探していくことは、すでに知っていることを図柄に見出すことである。形を見るとき、「みずから自身を繰り返さない」(M.デュシャン)ことは、注意しておかないと簡単にはできない。たとえば火星人をタコ足のように描くことは、地球的規模の感性の鈍磨である。
 カオス関数には、運動が一定の複雑さを維持するという条件だけではなく、形には圧縮と伸長の変換がある。たとえば餅を一方方向に引き延ばして、他方向には圧縮するような操作を行うことができる。ヒトデは、放射性動物で、五本指であり、回転運動を行いながら場所を移動する。それに対してイカは、軟体動物であり直線性の前後運動を行う。ヒトデとイカの形は、人間の眼から見ると相当に隔たっている。しかし圧縮と伸長の変換をかければ、それほど大きな隔たりではないことがわかる。ヒトデの口は、裏側についていて、通常海水面から見えているのは背である。そうすると口と背の間を伸長させる。五本足は、口と反対側にしだれ状に折り込む。そして五本の足のそれぞれの中央に切れ目を入れる。そうするとイカの形とほぼ相似形ができあがる。つまり物理的に考えると、ヒトデとイカの間の形の隔たりは、それほど大きなものではない。このエクササイズは、人間の形を見る力が、比較的弱いことを思い起こさせてくれる。あるいは幾何学的図形に幼少期から慣らされ過ぎていることを示唆する。このとき形に対して、伸長と圧縮という操作を設定しながら、イメージで形を見ることが必要となる。
 一般に物を作ることは、つねにいまある身体の身の丈を越えていくようなところがある。身の丈をつねに超え出ていくように、物は作られる。あるいは物を作ったときには、おのずと身の丈を越えている。スコップは、手以上に掘ることに適しており、自転車は足以上に移動に適している。物を作ることは、身体の機能を物に移しかえるだけではなく、身体にはいまだない能力を物において実現することである。

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(木本圭子 『イーマジナリー・ナンバーズ』)

 このとき物を作ることをつうじて、身体はみずからの可能性を超え出て行き、みずからの可能性を越えたものにつねに触れていくことになる。物を作ることに内在的に含まれるこの身の丈を越えてしまう活動の仕方が、経験を活性化させることになる。制作はまだないものへと向かってともかく試みてみることであり、そのなかに経験の可能性を探り当てていくことである。そのため絵を描くことは自己表現というような生温いことではない。表現されるべき自己など日を追うごとに壊れていき、放置すれば人間の可能性のかなりの部分を失ってしまう状態にある。こうした局面でなお自己そのものを再建し、再編成しようとしているのだから、最低限絵を描くことは、絵の制作であると、同時に自己の制作でもある。
 たとえば以下のような図を前にして、何を考えればよいのか。

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(荒川修作+マドリン・ギンズ 『意味のメカニズム』より)

これは2010年5月に神経性の筋委縮症で亡くなった荒川修作の初期作品『意味のメカニズム』に含まれる図である。課題は「AをBとして知覚せよ」というようになっている。知覚することは、直接そう見ることであり、解釈することではない。AとBの間の隔たりは大きい。その分だけいろいろと解釈することはできる。だが直接AがBとして見えることはない。するとここで課題設定の仕方を変えるのである。つまりAとBの中間の図柄を複数個描きなさいという課題に変更する。通常は、Aに変更をかけて、Bに近づけようとして、その途中にありそうな図を描いてみることになる。しかしそれだけではないはずである。たとえば立体で、前方から見たときAとなり、側方から見たときBになるとしてみる。そうなると上方からそれを見たときどうなるのかという課題が生じる。これはかなり高度な課題だが、少なくてもAとBの間には無数に可能性が生じてしまう。その可能性に向かってともかく何かを描いてみるのである。

2 レジリアンスと制作

 レジリアンスは、最近生態学や精神医学でしばしば活用されるテーマであり、課題設定の仕方を変える試みである。サンゴ礁のように一群の生態的系をなすものは、暴風雨や台風に見舞われ、一部損壊してはまた再生される。そのことが生態系の多様性の維持につながっていると言われている。レジリアンスは、損壊したときに元の状態に戻る時間で定義される。これは計測するための指標である。レジリアンスは一般的に言えば、「壊れにくさ」とか、「壊れたときの復旧の能力」という内容である。これに対して伝統的には、「脆弱性」という語が、病因論的な概念として精神医学を長らく支配していた。同じ社会環境内にいる人でも、ストレスによって壊れやすい人、壊れにくい人が別れる。少々壊れたとき、簡単には立ち直れない人と、かなり短時間で立ち直ってくる人が別れてくる。この脆さの側を指標するのが「脆弱性」という概念であった。これに対してレジリアンスは、壊れにくさ、壊れたときの回復の容易さを示す概念である。見かけ上は、対抗概念を対置しているだけに見える。ところが脆弱性は、壊れやすさという病因論的な概念であり、レジリアンスは自己維持や自己再生にかかわるテーマであり、自己組織化の概念である。原因論に代えて、組織化の概念が設定されていることになる。
 こうしたレジリアンスというテーマに即して、臨床美術が何にかかわっているのかを考察したいと思う。アルツハイマーや認知症関連の症状では、現実性が縮小していく。同じように物が見えているのではなく、感じ取ることのできる経験の範囲が縮小してしまうのである。放置すれば、この傾向は一層進行するだけである。そこで現実性の縮小に対応することが必要になるが、最も緊要な経験の局面は、触覚性の経験である。触覚性の経験が、一切の現実の基礎にある。セザンヌの絵を画集ではなく展示場で直接見ると、絵具の厚さが絵の感触の決め手になっていることがわかる。場合によっては、数センチの厚さで絵の具が塗られている。これがセザンヌの絵の感触をつくり出しており、まさにそれこそ触覚性の現実である。
 暗箱のなかにある生地の布を入れ、手を入れてそれに触った後、箱の外に置かれた複数の生地を触り、そのなかで暗箱のなかで触れた生地がどれであったのかを当ててみる。まずここでは触覚性の感触を確認する課題が設定されている。さらに複数の生地を前にして、選択に直面している。これは認知的な判別を要求している。さらに触覚性の感触と視覚的なざらつき、肌理、起伏等の諸性質との対応の確認を要求している。
 わずかに「ざらつき」のある面に触れてみる。そのとき前方方向に触れる速度をあげて、この感触がどう変わっていくかを感じてみる。速度を速くすると、面のざらつきがさらに際立つことがわかる。ところがさらに速度をあげるとざらつきが消えてしまう。このとき触れている手に注意を向けてみる。手の運動性の動きが前景化すると、触覚はほとんどのものを「無視」する。この無視じたいは重要な能力であり、余分な痛みや体感がでないようにして、身体を動かすための回路でもある。この無視の能力は、余分な負荷だと感じられるものを消していく能力でもある。つまり苦しいこと、きついこと、厳しいことを無いことにしてしまう能力でもある。これが現実性の縮小をもたらしていく。無視が恒常化すれば、ある種の現実がまったく消えてしまう。痴呆は、過剰な慢性的無視症状である可能性が高い。つまり痴呆には自己防衛が含まれている。そうすると無視するものとそうでないものの境界を再度繰り返し形成していくことが必要となる。(レジリアンス1)
 凹凸のもの、ざらつきのあるものに触れるさいには、手に籠める圧力や運動の速さをおのずと調整している。触覚性の感触には、運動覚や圧覚が内在している。だが物に触れるさいには、それらは前景化していない。物に触れることは、意識下でおのずと運動の調整能力を活性化させることでもある。この局面では、動かす自分の手に意識的な注意を向けないことが必要である。意識を向ければ、焦点的な注意が向いてしまい、すでにわかろうとしているものしかわからなくなってしまう。あらかじめわかろうとするものを決めておき、わかろうとしているものをわかるだけになる。それでは経験は拡張せず、神経も活性化しない。意識の制御の向こう側に踏み出すことが必要である。踏み出すことは、認知的選択ではなく、行為的な選択である。
 砂と木のチップを作り、平らな面にそれらを配置して、視覚的な模様を作る。それを閉眼でなぞり、さらに模様を変えていく。そのとき空間的な感触として、どういう模様になったのかを、だいたいイメージしてみる。そして開眼後にそれを視覚的に見てみる。閉眼でイメージしたものと、開眼で視覚的に捉えたものとが、どの程度ズレているのかという感触を確認する。視覚世界の大半は、実はイメージで作られている。自分の身体も自分の顔も、見て知るようなものではない。むしろイメージとして感触を掴んでおり、イメージとしてよく知っているのである。現実性は、つねにイメージと連動している。日常生活で身体を机やテーブルの角にぶつけたり、階段を踏み外したりする場合には、うまく通れると思っていてもぶつけたり、階段を上ることができているはずだと思っているのに、階段の端に足が引っ掛かってしまうことがある。この場合には、身体イメージと現実の運動がずれてしまっていることが多い。触覚性の感覚と対応しているのは、大半はイメージである。このイメージの形成こそ、現実生活ではつねに必要とされている。ところが現実性が縮小してくると、イメージと現実性との調整が難しくなってくる。つまり経験の可動域が狭くなってしまう。経験の可動域を拡張するためには、触覚性の現実とイメージとの連動を繰り返し形成することが必要となる。(レジリアンス2)
 いま下の図に線を一本描き加えてみる。
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多くの場合、何かまとまりがつくように線を引いてしまう。それが心の本性であり、物事を集約してしまうように線を引いてしまうのである。できるだけ完結しないように線を引く練習は、通常行われていない。そこでむしろ選択肢が増大するように線を引くことを試みてみる。現在ある線を含めて、「分散性」が増大するように線を引くのである。意識の本性の一つは、分散的な選択肢の場を開くことであるが、多くの場合、その働きは活用されないままである。意識の機能性とは、(1)注意の分散の場所であり、(2)注意の選択的な焦点化であり、(3)自己自身の組織化(集中、解除)である。ところが幼少期からの学校教育をつうじて、注意の焦点化だけを活用してきており、集中するとはそうしたことだと思い込んでもいる。焦点的注意は、意識そのものを視野を狭める方向で活用することである。むしろ注意の分散の方向へ向けて、さらに選択肢が多くなる方向に線を引くのである。注意を分散させることは、神経系の回路をつねに開いた状態にすることでもある。(レジリアンス3)
 さらに物を作るさいには、最終的に到達したいと思うものを想定していることが多く、こうした絵を描きたい、こうした作品にしたいという思いはつねに抱えているはずである。そしてつねに最終状態に向かうように組み立てているはずである。ところがそのときこの最終状態に到達するためには、いくつもの回路が存在するのである。典型的な事例を出しておきたい。

家を建てる場合を想定する。十三人ずつの職人からなる二組の集団をつくる。一方の集団には、見取図、設計図、レイアウトその他必要なものはすべて揃え、棟梁を指定して、棟梁の指示通りに作業を進める。あらかじめ思い描かれた家のイメージに向かって、微調整を繰り返しながら作業は進められる。もう一方の十三人の集団には見取図も設計図もレイアウトもなく、ただ職人相互が相互の配置だけでどう行動するかが決まっている。職人たちは当初偶然特定の配置につく。配置についた途端、動きが開始される。こうしたやり方でも家はできる。しかも職人たちは自分たちが何を作っているかを知ることなく家を作っており、家が完成したときでさえ、それが完成したことに気づくことなく家を建てている。実際ハチやアリが巣を作るさい、あらかじめ集まって設計図を見ていたということは考えにくく、またそうした報告もない。(マトゥラーナ、ヴァレラ『オートポイエーシス』)

ここには二つのプログラムが、比喩的に描かれている。認知的な探索プログラムは、前者の第一のプログラムに相当する。そのため対象を捉えるさいには、第一プログラムにしたがう。それが認知や観察の特質であり、目的合理的行為を基本とする。ところがシステムそのものの形成運動は、第二の後者のプログラムにしたがっている。
形成運動を、対象認知のプログラムのように捉えることはできない。また対象制御能力のように捉えることはできない。形成運動は、初期条件と結果との関連で設定されはせず、それじたいでの形成可能性をつねに含む。
この建築の隠喩は、現在人間が手にしている生成プログラムそのものが、理論モデルの選択を狭く設定しすぎていることを示唆している。制作する行為は、到達目標に向かうようになされるわけではない。ただし結果として、副産物としての「家」ができるように、みずからの生成プロセスを進行させていく。たとえば神経システムの作動からすれば、このシステムはまさに作動を継続しているだけであり、世界内でみずからを有効に機能させようとしたり、みずから自身を高めようなどとはしない。たとえ結果として、そうしたことが起きたとしても、神経システムがそのようになろうとしたのではない。こうしたことが、障害者の治療に決定的に効いてくる。というのも障害者は、ほとんどの場合みずからに何かが欠けていると感じることはなく、それ自体で固有に生きているだけだからである。その固有の生をさらに豊かにする方向に設定することが、同時に結果として治療効果を生み出すように設定されなければならない。そうすると絵を描く場合であっても、最終的に行きつく先をイメージしながら、なおそれを括弧に入れ、そのつどの選択肢を継続することで、結果として最終イメージに到達することができる。すると制作する自己にとって、目標を決め、そこへと向かってどのように一生懸命であっても、なお自分自身にとっての隙間がつねに開かれていることがわかる。(レジリアンス4)つねに自分自身に対して隙間を開くことが、自分自身の可能性を開くことでもある。

おわりに

 こうして臨床美術のなかに含まれるおおまかな方針設定は、明らかになってきたと思われる。それは以下のようなものである。どのような課題から出発する場合であっても、それは次に接続される課題の予期のなかで行われる必要がある。意識をつうじた直接的な課題遂行は、視野を狭くするだけで、このとき神経系は再生されはしない。むしろ間接的に課題目標が到達されることが必要となる。制作された作品は、本人の制作プロセスから見る限り、プロセスの継続の副産物である。作品とは、階段の踊り場のようなものである。またすべての表現手段は、出発点では等価であるが、プロセスのさなかでそのつど選択される。臨床美術は、こうした選択的なプロセスのネットワークとして、多重に交叉していくことになると思われる。

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