生命システムの論理
河本英夫
ベイトソンの議論のなかに、学習レベルの構想がある。本人は階層的に学習能力の形成だとみなしていた議論である。これは形成される能力が順次別種になるような仕組みになっていて、実は学習理論ではない。むしろ生命の基本的論理に届かせようとしている。ここでは四種の学習能力が挙げられている。情報に対する反応が一定している場合が、「ゼロ学習」と呼ばれ、繰り返しあたえられる刺激に対して、精確に正しい反応をする場合や、慣れとともにある刺激に対しては反応しなくなり、反応パターンの内容にほとんど経験が関与しない場合のように、機械的な定型パターンの形成になる場面である。
これに対して、学習I とは、同一選択肢集合のなかで、選択されるメンバーが変更されるプロセスである。これには慣れにともない出来事の繰り返しに対して反応していたものが、徐々に反応しなくなる場合や、あるいはパブロフの犬のように餌の現物ではなくブザー音に反応するようになる場面であり、パターン化そのものの形成である。
またさらに学習II とは、選択肢の集合じたいが変更されていくプロセスである。あるいは刺激に対する経験の仕方そのものの変更のような場合である。ここには過去の経験と記憶の選択的関与があり、学習IIではパターンの選択が出現する。たとえば犬がブザー音に代えて鈴の音が聞こえてきたとき、それにどう反応するかというような場面での選択を介した学習である。この選択を含んで行動を決めていく場面では、実はさまざまな問題が生じる。つまり既存の習慣的な学習パターンを部分的にしろ破壊していくのだから、どのように振る舞えばよいのかが分からず、学習状況からの撤退、退行、自己破壊のような、それじたいはもはや学習行動ではないが、その周辺に付帯し、さらに大規模な行動が起こる。そのなかに神経症性の反応や統合失調症性の反応も出てくるというのが、ベイトソンの言い分である。
さらに学習IIIでは、その選択が自分自身の経験にもおよび、経験そのものを組み替えて対処するような場面である。そしてそこで生じる経験の自在さは、選択的行為の範囲を超え出てしまう。たとえば鈴の音に反応すれば、どうなるかの洞察を形成するような場面であり、場合によっては鈴の音に反応する反応しないにかかわらず、鈴の音を直感的に別様に受け取るような場面である。ここでは選択的行動がもはや解除され、肯定とも否定とも異なる別様の行動を実行することである。この延長上にさらに、論理的には学習IVも設定できるとされている。ここでは論理的推測として学習IIIとはまったく異なる経験を指定することであり、ベイトソンは地球上の生命体では起こらないだろうと予測している。
ここでの議論の立て方は、学習、学習の学習という学習の反復的な高度化であり、直前の学習をさらに再組織化するのだから、階層的に学習能力が高まるとことになる。ところが学習IIIでは、学習というよりは無垢の自然状態に近づくという事態が生じる。本能に近い直感で、すでに当該の事態に対処してしまうというのである。とするとこれはもはや通常の学習ではなく、一般に学習でさえない。こうしたことは東洋の禅僧や神秘家に起こるようなものだとベイトソンは言うのである。学習の階層化の延長上に階層そのものが消滅してしまう。選択的行動を組織化する学習行為の高度化にあって、もはや選択さえしない場面であり、学習の高度化にあって、学習そのものの消滅が起きるのである。こうした議論の立て方は、ベイトソンに固有のものであり、著作の多くの場面で活用されている。
そうしてみると学習IVでは、もはやまったく学習とは呼べないほどの変化が起きると考えることができる。たとえば経験を組み替えるだけではなく、みずからの身体さえ組み変え、それ以前にはなかった行為が出現したり、選択的行動とは別の仕方で選択を実行するようなものである。しかしこれらはほとんどの場合、学習IIIに含まれることになる。学習IVの特質は、およそ現在の人間の知性の延長上では設定できないことであり、知性の限界のさらに一歩先を言い当てようとしていることである。しかもその知性の一歩先の事態は、およそ知性的ではないという条件も満たさなければならない。そしてそこにはみずからの生の可能性を拡張するような、超知性的な変化の出現が条件となる。[1]
ベイトソンが学習IVとして理念的に設定した課題に、敢然と踏み込むようないくつものタイプの議論が出ていたことは、二〇世紀末の歴史的事実である。ドゥルーズとガタリが、陸上動物の出現を論じたときにも、結果としてそうした事態につながっていた。サメのようなエラ呼吸をしている動物を、波打ち際に引き上げて半日も放置すると、体内の浮き袋用の器官を活用して、肺呼吸ができるようになるらしい。器官を不測の環境変化にあわせて作り変えてしまうのである。海に生息する動物にとって、陸上は強い紫外線と七倍にも増える体重と高濃度の酸素で危険極まりない環境である。自分でうっかり波打ち際に近づいてしまい、引き潮にともなって周囲に水がなくなると、海生動物にとっては生存の危機である。多くの動物は、引き潮を追うように海に戻って行く。だがこれでは陸上動物は出現してこない。陸上動物の出現には、危険な状態に置かれれば、さらに危険な方へと進んでしまう個体やそうした資質がなければならない。こうした行為は、生存の危機をさらに危険な状態に曝すことで、自分自身が別様になってしまうことを含んでいる。おそらくこうした行為の変容と自己の可能性の拡張が、学習IVのなかに含まれるようなものである。
建築家の故荒川修作は、「死なないために」をスローガンに掲げ、死や死後の世界を起点にして語られるヨーロッパ思想に戦いを挑む一方で、身体や脳神経系を組み替えていくような多くの作品を作りだした。落命が別のことになってしまうような身体や人間そのものの変化を作りだそうとしたのである。あるいは予期として論理的に不可能であることが、現在の人間の知性の予断にすぎないことを、直接経験のなかで感じ取れるような作品を経験の場所として作りだそうとした。このとき生命は、地球上でたまたまここ40億年ほど生存し続けているようなものである必要はない。DNA-タンパク質系は、現在では高度に洗練された精密なマシーンとなっている。だがそれ以外にも生命はいくらでも可能である。荒川修作が、イタリアの文化財団の招待で一年間ローマに滞在していたとき、ダ・ヴィンチの遺稿を読みたいと希望を出し、この遺稿のなかに「生命を制作すること」というダ・ヴィンチの走り書きを見出した。荒川は、生命の解読のためには、生命そのものを作りだしてしまう方が早いと感じていた。ダ・ヴィンチの遺稿に同じ思いを見出し、それが確信に変わった。だがこのとき生命の最小必要条件は何であるかが問われる。そこから出てくる構想が「バイオスクリーヴ」であり、切ると同時につながっていく「境界形成」の機構である。雨上がりの川土手にはブヨの集団が発生していることがある。その集団を腕で切ってやると、集団は空気抵抗によって二つに分かれるが、ただちにまた集まってくる。この集合化の仕組みをバイオスクリーヴと呼んだのである。実際細菌性粘菌は、通常は単独で生活し餌を求めているが、餌がなくなって飢えると集合してキノコのような姿に変身する。そこには数十、数百の集合体ではなく、数十万という規模の集合体を作るものがいるらしい。細胞は、地球上での生命体の基本単位であるが、それらが集合した多細胞生物は、集合の仕方に密度とモードの違いと呼ぶべきものがある。一方ではアサクサノリのように多くの細胞がただ並置しているだけでそれぞれの細胞は独立生活をしているものや、海綿動物のように比較的各細胞が分離しやすいものがある。一般にこれらは群体に近いものである。他方発生が完了するまで母体内に留まるような哺乳類の個体では、一個の受精卵に何重にも区切りが入っていくような分化の仕方をしている。単位体を生み出しそれを数珠のようにつないで個体化する仕組みと、単位体のなかに何重にも区分が入り、無数と言えるほどの細分化を作りながら総体を膨張させていく仕組みは、異なる個体化の戦略である。[2]ところがヤマトヒメミミズのように体節を伸ばしていき、やがて一つ一つの体節を分離して、そこから個体を形成するものがいる。この分節化は、外圧や外的作用をかけても起こらず、自分で体節分離を行うことではじめて進行する。要素-複合体の形成ならびに全体性の分節化という系譜のなかに、両方式をさまざまな度合いで活用するものがいる。
生命システムの機能のなかには、通常の言語的論理には解消できない多くの仕組みが入り込んでいることがわかる。論理は、一般に言語を基本にして作られている。つまり線型性を基調とする。だが生命にも身体にもおよそ言語に類似したものは何もない。もちろん記述のためには、言語を用いる以外にはないが、それは生命をどのように記述するかという認識論の問題、すなわち記述の系をどのように設定するのかという記号内の意味論的な問題となる。かりに神経系の高度化にともない言語が発生したとしても、言語を優先的モデルにする理由は特段にはない。その手前の神経系をモデルにしてもかまわないのである。そこで言語的論理とは異なる仕組みから論理的な事態を取りだしていきたいと思う。それは本来地球外の生命体であっても、論理的には妥当するようなものでなければならない。
1 生命のカテゴリー
生命の機能の二大特徴は、代謝と増殖だと言われる。たとえば呼吸も酸素と二酸化炭素の代謝である。だが呼吸しようとして呼吸しているのではない。呼吸は多くの場合、おのずと作動するが、呼吸という機能を発動しようとはしていない。しかし呼吸をゆったりおこなったり、緊急に呼吸を速めたりすることは調整的な制御として、頻繁に活用されている。実行的な作動と制御的調整の区別は、モノーとヤコブがさまざまな生命現象に見出してきたことである。代謝や増殖には、速度が関与する。放置すればただちに進行して終わりにいたるシステムの作動に対して、速度を遅らせる「遅延効果」は、化学的なフィードバックで出現する。その遅延のさなかで、たんに速度調整だけではなく、選択肢を確保するようになったとき生命の条件が整ってくる。遅延は、最小の生命の条件である。
代謝は、どのようにして出現するのか。出現とは、生物学用語で「由来」と呼ばれているものである。由来の理由は、存続の理由とは異なる。進化論は一般に、存続の理由を生存に有利という事実を指摘することで見出してきた。だが存続の理由は、ほとんどの場合、由来の理由にはなっていない。このことが進化論の問いが終わらないことに関連している。外から栄養物や酸素を取り入れて、二酸化炭素を排出する。多くの場面で見られる生命機能の総称である。だが代謝が成立するためには、出し入れの境目となる境界がなければならない。境界を作ることと代謝の出現は別の事態だが、同時に出現してくるような事柄なのであろう。原核細胞のような固い殻をもつ細胞とは異なり、真核細胞のような柔らかい細胞膜をもつ個体は、境界そのものに弾力がある。弾力のある境界では、内外に浸透圧の違いが生じる。[3]すなわち創発のレベルが異なってくる。この内外の落差が、物質の導入、排出の仕組みを支えている。また境界に弾力があれば、選択的透過性がある。現行の真核細胞の膜は、二重にできており、原核細胞の膜に較べれば弾力性があり、伸縮性のある多くの穴が空いている。境界は線を引くことではなく、線を引くと同時に左右差、内外差のような落差を同時に出現させる。一つの行為が、そのことの遂行をつうじて同時に別の事態を出現させる。この仕組みは生命の論理のもっとも基本的なものであり、一つのプロセスが、そのプロセスをつうじて同時にプロセス以外の別様の事態をおのずと出現させるのである。こうした事態が、「由来」にからんでいる。これは経験的にも薄らとどこかで感じ取っていることである。たとえば歩行すれば、たんに機械的に場所移動だけを行っているのではなく、また到達点への達成でもない。たんなる力学的な運動が行われているのではなく、プロセスとしてそれじたいを行うという自己目的でもない。
機械論は、目的への到達の必然性を出発点で設定する議論であるため、実は機械論と目的論にはほとんど差はないのである。結果に必然的に到達するように出発点の定数を決めることは、出発点で最終結果を見込んだ議論であり、これじたいは目的論の一つの変容体である。だから本当は目的論か機械論かが争点になっているのではない。かりに争点があるとすれば、目的論(機械論)vs創発的科学であり、この創発的科学には、各種進化論、職人によるポイエーシス、ゲーテ自然学、自己組織化、カオス理論、オートポイエーシス等が含まれる。
線を引くことは、左右落差、内外落差を作りだそうとして行っているのではない。結果としてそうした事態が出現しても、それを目指して行っているのではないのである。つまり一切の目的論は、解除されている。また線を引くことが左右落差、内外落差の原因ではない。ここでは因果関係で事態を配置することもできない。しかもこうした仕組は、生命の多様性を根本のところで支えていると考えられる。そうすると境界のような事態は、生命の論理の「原カテゴリー」に相当する。この作動的カテゴリーは、異質性の発生を含み、作動することが同時に別様の事態(機能領域)を出現させることでもある。これは機能性の出現そのものにもかかわる。異質性の発生を「否定」というような語で総称するわけにはいかない。否定とは言語的判断の特質をあまりにも帯びすぎるのである。
こうした異質性の発生を本来的に含んでいる作動的カテゴリーが、総数としてどの程度取り出せるのかはいまだよく分からない。こうしたカテゴリーとは別に、すでに機能化した領域での変異は、経験科学的な事実列記として夥しくある。遺伝子の突然変異は、かりにそれが特定部位で起きたとしても、それによって生じる変異に見合うだけの他の部位での変異が同時に起きてこなければ、個体全体の変異をもたらすことはないはずである。すると突然変異だけが重要なのではないはずである。とすると変異ではなく、異質性の発生こそ問われるべき課題となる。[4]機能化する以前の原カテゴリーの特質について少し考察してみる。
境界が出現することは、隙間を開くことでもあり、隔たりを作りだすことでもある。こうした事態は生命現象のいたるところで出現する。真核細胞の核膜は、ゲノムを保護するために形成されていると言われている。ところがこの膜には多くの穴が空いている。膜を通過することによって、場所的な隔たりを作ることができる。さまざまなオペレーションを分離することが可能となり、一挙に進んでしまう反応を段階的に区分することができる。原核細胞である細菌由来のDNAは複製も速く、真核細胞のゲノムにはさまざまなDNAが混ざり込んでしまい、非コード配列が散在する。それがイントロンと呼ばれる部分である。遺伝情報をRNAに移し取ってリボソームというタンパク質製造工場でタンパク合成を行うさいには、こうした余分な非コード部分は、切り取ってしまわなければならない。この切り取りのはさみは、酵素の働きであり、RNAそのものが担っている。この切り取りの作業は、複製の作業ではなく、進行の早いタンパク質合成に較べてかなり時間がかかるようである。原核細胞では、核とリボソームは隔てられておらず、混在してタンパク合成が進む。だが必要なタンパク質を有効に作りだすためには、核とリボソームに隔たりを作り、酵素機能が働くだけの時間的余裕を作らなければならない。こうした隙間を開く仕組みを、膜という境界が作りだしていると考えられる。[5]そうすると内膜組織のような境界が何重にも形成されるさいには、境界区画だけではなく、それと同時に多くの変数が出現する。真核細胞の膜が柔らかいために、細胞のかたちを大幅に変えることができる。こうした「つねに同時に」形成される変数のうち、恒常化したものが「機能の出現」と呼ばれるのである。あるプロセスのなかで変数そのものが出現してくることは、自己組織化の要の仕組みである。そして原カテゴリーについては、変数の出現の範囲があらかじめ決まっていない。
閉じた境界の出現は、閉域化であり、包むことである。閉じた領域では、ゴミが発生する。あるいは不要な物質の蓄積がある。ゴミや物質の蓄積を、資源へと変換する仕組みが、「オートファジー」と呼ばれており、真核細胞内のリソソームが担っている。[6]この仕組みは比較的単純である。細胞質内の膜を使って、物質を取り囲んで隔離する。こうした隔離膜を作ることのできる素材が細胞質内には、かなり多く存在すると予想される。実際には細胞内小器官としては特定されていないので、正体は不明だということになっている。膜による隔離が行われて細胞内小器官(オートファゴソーム)が形成される。これは観察を通じて特定できる。
構造体とは一時的にしろ維持される集合体のことである。だがこれがなければ、人間の眼には機能体は容易には見えない。構造体とは、観察をつうじて人間に見えるようになった一時的な安定機構のことである。ある意味で人間の眼の限界に対応するものが、構造体である。このとき人間の眼は、すでに敗北である。たとえば細菌の遺伝子の多様性は、どのようにしても人間の観察のなかには入ってこない。かりにDNA解析で細菌遺伝子の細かなデータが示された場合でも、それがどのような観察レベルの違いなのかに対応づけることができないのである。生命現象は、人間の眼の臨界にあって繰り返し現れ出るような多様性のことである。
膜で囲まれた細胞内小器官にリソゾームが融合して、オートリソゾームとなる。このなかで不要物や蓄積されたタンパク質がアミノ酸まで分解され、再度必要に応じて必要なタンパク質に作り変えられる。おそらく隔離膜は、不要物を一定の濃度以上に圧縮し、分解の開始を指示したり、分解速度を速めたりしていると予想される。酵母菌の研究では、環境に窒素成分が不足して飢餓状態に陥ると、蓄えたタンパク質を一度分解して、資源となるタンパク質を合成しているようである。
また哺乳動物の受精卵の発生は、卵割にさいして卵に蓄えられたエネルギー源を活用するしかない。精子は、エネルギーを提供することはないので、発生が急速に進行するためには、そのためのエネルギーは卵に蓄えられたものを活用する。有性生殖での一倍体の配偶子そのものは休止状態に近い。配偶子はいわば休むための仕組みであり、それにふさわしく栄養を蓄えている。ところが受精して発生を開始すると、休止状態の栄養とは別の栄養が必要となる。子宮に着床すれば、母体から栄養を得ることはできるが、着床までに卵割は相当進む。このとき初期の胚発生のエネルギー源は、蓄えられた栄養を分解し、再度エネルギー源に作り変えるような仕組みが作動しており、それをオートファジーと類似した仕組みが担っているようである。事実オートファジーに相当する遺伝子を欠落させたものは、この初期の発生を実行できないことがわかっている。隔離膜という弾力のある境界が、こうした機能遂行の場所である。
機能(目的)の出現をどのように理解するのか。この問題が人間の眼の一切の現実性の基礎にある。機能は生存に直結するまなざしに対して出現する。そのためよほど信用のおけるものであるらしい。それをアリストテレスやキュヴィエが活用している。まなざしにとって種や機能はある種の先験性をもつ。特定の機能を果たすものは、手段-目的、原因-結果の関係で探求を進めることができる。いま主体、自我、自己のような経験にとってはかなり明確な高次の事象を取り上げてみる。これらは特定の機能体ではないが、にもかかわらず何の働き(機能)をしているのかは、どこかで良く分かっている。そのときたとえば主体の成立は、主体という機能を実行するために形成されてきたのではないことは、おそらく確かである。何らかの仕組みで主体は出現する。だが主体として機能しようとして、主体は生まれたのではない。機能の確立の成果は、世界の現実に明確な境界線を引く。その生成した現実の結果や成果から、世界を論じることはできる。そのとき世界は比較的安定した像を結ぶことが大前提である。そこにはさらに事象に対応した何らかの確固たる基礎があるはずだということも大前提となる。
ところで機能の出現の仕組みは、出現一般の論理と同じように、既存の機能を遡行するようにして、その源基を見出すことは困難である。出現と出現の成果は別のものである。そこには埋まらない不連続性がある。化石記録に失われた環があるから見えないのではない。化石記録には残りようのない不連続性がある。形成された成果は、すでに再編されたものであり、再編されたものには前史に飛び石のような痕跡を見出すことはできる。だが再編された成果から前史のプロセスを遡行することはできない。ここには一種の非可逆性がある。この非可逆性は、かなり単純な系でも見出すことができる。湖水が有機物質の混入によって汚濁した場面を想定する。汚濁した湖水の浄化を企画し、汚水制限を行って混入有機物質の濃度を下げていく。汚濁の始まった有機物質濃度まで濃度を下げても、湖水は透明化しない。ひとたび汚濁状態になれば、汚濁のプロセスを逆回しにするようにしても、透明にはならない。汚濁化のプロセスと透明化のプロセスは別のものであり、実際汚濁した湖水を透明にするためには、有機物質の濃度を極端に下げ、別個の条件を設定しなければならない。ひとたび成立した現実には、別の再編条件(自己維持条件)が関与しており、プロセスの遡行は封じられている。
このとき時間的な遡行を行ってみる。観察者の視点から、作為的にそうした操作を行うのである。ある時点での系の状態には、次の局面では別の事態が出現するとする。そして別の事態からもとの系に戻ることはできないという条件を付ける。最初の系の状態から、必ずしも次の局面の状態だけが生じるのではない。別様の状態が生じるのかもしれない。そうすると最初の状態と次の局面の状態との間には、一対一対応がないことになる。多くの場合には、後の局面が最初の状態から可能な一状態である。そのとき最初の状態と次の局面の状態は、潜在態-現実態というカテゴリーで呼ばれるものとなる。
二足歩行可能な身体の条件から、環境条件との関係で、おのずと四足歩行になってしまうことはある。オオカミのなかで育てられて、二足歩行にならないことは動作模倣の自然性がある。あるいは雌雄の決定に環境温度が関与し、この温度の偶然性によってオスになったりメスになったりする魚類がいる。潜在態は、環境条件次第で別様の発現様式をもつことがあり、別様の現実性となる。ボラの一種では、四度という水温を目安に性が決まるようである。ベラ科のブルーヘッドでは、集団を支配していた有力なオスがいなくなると、最も大きなメスがオスの行動を取るようになり、生殖巣が卵巣から精巣に変わる。その場合の潜在態は、「選択性を内在する先行的機構」である。
してみると発現状態に対応させて、一つ一つの事象に根拠となる構造を仮構する必要はないであろう。それは発見的な設定として構造を仮構し探求することに寄与するかもしれないが、その探求が成功する見込みはあまりない。というのも生命現象は、事象-根拠関係で成立しておらず、断続的なプロセスのなかにつねに選択性が含まれるかたちになっており、そのなかでいくぶんか安定した結果のことを事象と呼ぶからである。
「構造」とは二十世紀的な科学の探求の仕方である。社会科学、人文科学では莫大な成果を出してきた。それは哲学程度ではとても太刀打ちできず、どのように批判を繰り出しても遠吠え程度に留まってしまうほどのものである。そこには一般的な事象の基礎には、固有の構造があるという大前提がある。事象の根拠であるような構造を設定することは、構造主義一般の特徴であり、また科学を指向する企ての当然の要請でもある。レヴィ=ストロースは、親族の基本構造のような婚姻の構造を、意識的制御の作為が消えていく分に応じて設定している。いわば意識下の行為がおのずと規則性と反復可能性をもつかぎり、そこで取り出される婚姻関係の規則のネットワークが「構造」だと呼ばれた。このことは『野生の思考』でのフランスの犬の固有名のネットワークのような分析でも応用され、日常生活で恣意的になされているように思われる犬の命名にも、ある種の構造的な規則が成立していることが明らかにされている。こうした分析手法は、文化の基層となる構造を明らかにするものとして、多くの分析手法に継承された。いわば構造主義の開発した探求方法は、当時の時代水準から見て、「発見的な回路」をもっており、個々の事実記述を越えて精密科学の要請を満たすものであった。このさいに分析の道具立てをあたえているのが、言語・記号のなかに見られるある種の特殊な関係であり、一般的には「隠喩」と「換喩」として定式化されるものである。このとき言語のなかに見出される関係が、分析の前景を占める以上、しかもさらに事象の分析そのものは、言語をつうじて実行される以上、事象と分析の間には比較的なだらかなつながりが当初より保証されている。構造が言語的な活動(パロール)をつうじて形成されている場面では、言語のなかの論理を活用しながら分析することは、いわば対象と分析の間の内在的つながりが当初より部分的に保証されている。それは逆に撞着的な保証でもある。記号的な事象がある。そこには記号的な規則に貫かれた構造がある。ここではすでに現実化した機能的な規則性がすでに前提されており、自己撞着である。
もちろんそこでの構造には、付加的な修正がさまざまなかたちで行われてきた。現実態となった事象には、つねに別様でもありうるという可変性の幅がつきまとってしまう。現実性は、未完、未定、未了という性格をもち、そのため現実性の周辺には、つねに確定できない剰余、余白、襞、空白が指定されることになる。多義性とは、感じ取られ想定された剰余や余白を、コンテキストや観点の違いとして分類し、それを並置したものである。三塩基一組のDNAの複数の並びが、特定のアミノ酸に対応する。これは一対多対応であって、多義性ではない。多義的なものが同時にともに出現することはないのだから、ある現実はその一部が出現したものであり、その現実にはなにか別様にも成りえたという感触が残る。むしろ再度出発点から同じ条件でプロセスを開始したとき、次の局面で別様な事態が出現した場合には、プロセスそのものに「ゆらぎ」が内在する。同じ条件でもわずかのきっかけの関与で、別の事態になる。
さらに現実態が偶然なんらかのかたちで成立したとき、それにともなって潜在態そのものが組み変えられてしまう事態が考えられる。現実態が、可能な潜在態の一部が出現してくるだけではなく、現実態がまさに特定のかたちで出現したことによって、潜在態はそのまま維持されることはなく、別様の再編を受けてしまうのである。こうなるともはや構造の設定は、ほとんど意義を失う。これが二十世紀後半にさまざまなかたちで展開されたポスト構造主義であり、自己組織化やオートポイエーシス等によって別様に展開された生成の論理である。
2 出現の仕組み
こうなると事象(機能性、働き)の出現の仕組みを考えておかなければならなくなる。個々の機能性や調整のような基本タームについて、個々の科学的説明を括弧入れし、事象の出現が同時に生命システムの基本的な論理の解明になるように考察を進めることができれば、生命についてのシステム現象学的な考察となる。もちろん網羅的に取り出すことは容易な作業ではなく、典型例に限定されたものにしかならない。
機能性の出現は、第一に働きの転換という事態がある。鳥の羽は、もともと体温調整にために出現した動作が、別様の働きになったものであろう。空を飛ぼうとして飛ぶための器官が出現してくる(意図性)とも、飛ぶためにそれにふさわしく動作が形成されてくる(合目的性)こともありえない。耳の鼓膜も、海生動物に典型的に水の浸入を防ぐためのものであったのだろう。それを水圧の微妙な変化を感じ取る仕組みに転換させたとき、聴覚が成立してくる。発声を喉で行うことも、呼吸の器官を微妙に使い分けることで、発声機能が生じる。呼吸をいくぶんか犠牲にして発声する以上、発声は息を詰めることであり、息をひそめる危険な行為である。これは器官を別様に活用する以上、機能分離や機能転換に近い。
このタイプの機能変換の典型が、おそらく「性」の起源である。性を、複数の半数体(一倍体)が合体して、個体数が半減することだと定式化しておく。するとこの段階では、雌雄の区別は必ずしも必要はなく、またその後の増殖とも分離することができる。そうなると半数体を形成することになんらかの生存上の機能があったにちがいない。DNA鎖は本性上突然変異が起こりやすい。そのためDNA鎖の突然変異を修復する機構はいくつも備わっている。また耐用年数を大まかに決めておき、修復機能が間に合わなくなれば減価償却する仕組み(テルメロ)も備わっている。もちろん細胞分裂を繰り返すなかで、細胞そのものを若返らせるホルモン様物質(イマチュリン)も見つかっている。こうした修復機構の一つが、性であったと考えられる。半数体が休養期間を提供し、リセットのための隙間を開き、増殖を一時的に停止する。そして半数体どうしを再度接合させるのである。これが一般に若返りと呼ばれるものである。ゾウリムシの場合には、各細胞個体の寿命をリセットするものとして活用されている。この仕組みには、いまだ遺伝子レベルの多様性の増大は必要なく、また二つの半数体が同じ遺伝子であれば、実際多様化は起こらない。[7]ところが半数体に遺伝子の違いが出現すると、合体のさいに交叉・組み替えが起こり、しかも生存不適合な組み替えは増殖を継続できないので、初期に段階で取り除かれてしまう。この局面では、遺伝子の多様性を増大させる方向にこのプロセスは進む。生存のリセットから遺伝子の多様性を自動的に生み出す方向に機能の力点が起き変わってしまう。性の機能性を多様性の出現だと見ると、多様性をもたらさなくても生存を持続しているものはいくつも見つかるのだから、その結果、性は偶然出現し、それが結果として有効であったので維持されてきた、という説明に戻ることになる。すなわち典型的な思考停止である。
第二に構造部材の組み替えという事態がある。真核細胞は、細菌様のいくつかの細胞が共生してできたというのは、ほぼ間違いない。宿主になるのは古細菌である。ミトコンドリアは当初餌として食べられていたのだろうが、単位体内に止め置きそれをエネルギー生産拠点として活用する方が有効であったと思われる。一時的な餌として使うよりも、恒常的なエネルギー生産工場として活用するのである。ミトコンドリアは、複製のためのDNAを細胞核に委譲し、「機能特化」していくのである。現在の真核細胞のなかに、ミトコンドリアの器官そのものが細胞内器官として残っている以上、視覚的にも分かりやすい。ところで真核細胞の細胞壁は柔らかく、細胞本体は細胞の骨格と呼ぶべき筋肉組織で覆われている。この筋肉組織は、高度の運動性があり、また細胞分裂のさいには、複製された核を両側に引き寄せるようなクレーンの役割を行っている。この細胞骨格が共生によって獲得されたのだとすると、運動性に富むスピロヘータのような細胞が、大きな細胞内に入り込み筋肉様の細胞内組織にみずからを組み変えなければならない。運動性の器官は、すでに機能特定化した結果なので、器官としては安定している。それを作り変えて細胞の筋肉組織とするさいには、器官の解除とその解除にともなう編成の自由度をあげなければならない。その程度の変化が起きるのだとすると、ここではもはや共生なのか、内部タンパク質の形成なのかは部分問題になってしまう。いずれの場合でも何段階にも大幅な組み替えが必要であり、個々の段階でそのつど前史を消していくからである。つまり起源が問題なのではなく、起源からどれほど隔たったかが問題であり、その隔たりのプロセスが容易には見えないのである。細胞の内容物が大量になるにしたがって、細胞骨格の組み替えが必要になるが、柔構造でかつ必要に応じて骨格そのものを自分で組み替えられるような仕組みまでは簡単には形成されはしない。
第三に、自前で自己維持可能な異なる系が連動して、新たな複合機能系が形成される場合であり、アイゲンのハイパーサイクルが形成される場面である。おそらくタンパク質からなる活動体と核酸系は、こうしたハイパーサイクルの典型例である。[8]当初のRNAは、自己複製や触媒反応をもち、アミノ酸配列に対して、選択的触媒として機能し、速度調整として働いていたと思われる。このうち最頻速のプロセスが、アミノ酸配列を決定していくような選択的結合の場所として働くようになったと思われる。場所の確保されたもの(リボザイム)が、情報の担い手になる。ここでは機能の力点の変化が進行している。アミノ酸鎖であるタンパク質は、増大しては自分で切れていくようにして自己増殖の仕組みを備えている。RNAは自己複製能力がある。異なる系は、それぞれが一貫して自己増殖できる。それの連動の仕組みは、基本的には触媒機能であり、自己増殖のランダムさの減少が、連動の成果である。ランダムさが一定範囲内まで減少することが、情報機能の出現だと考えることができる。つまり特定のアミノ酸と特定のアミノ酸を間違いなく結びつけていれば、それを支える情報機能が確立されたということになる。そこで起きることが、触媒機能から情報機能への移り行きである。ただしRNAのままでは大容量の情報処理はできない。細菌のように小型の細胞であれば、RNAをそのまま遺伝子として活用することもでき、事実そうしたウイルスは実在している。RNA系とDNA系はそれほど移行の難しい関係ではない。核酸の形成から見て、リボヌクレオチド(RNA単体)が形成され、そこから糖が還元されてデオキシリボヌクレオチド(DNA単体)となるからである。DNAは当初情報のメモリーという外付けの末端デバイスであったはずである。保存能力に優れただけの孤立体が、当初のDNAの姿である。ところが調整機能を担うタンパク質の情報を担うようになって、やがて細胞活動の司令塔になっていくのである。
第四に調整能力の出現がある。調整能力は、一挙に進んでしまう化学反応を遅らせ、そこに選択肢を開く仕組みであり、この初等の化学的仕組が、反応の産物が反応そのものの速度を調整するフィードバックである。この自己調整の仕組みは基本的なもので、あらゆる調整機構に含まれる。一般には「再起的相互作用」と呼ばれるものである。これじたいは新たな機能の出現ではないが、生命の特徴がよく出ている。一挙に進行してしまう反応にロックをかける。そしてロックをかけた状態から必要に応じて、ロックを解除するのである。ここに多くの場合酵素や補酵素が関与している。こうした再起的ネットワークは、みずからの作動を自動的に継続すると同時に、みずから自身への関与によって自己調整するのだから、機能が二重化する。再起的相互作用は、「自己言及」のような高次レベルの形成ではなく、機能の二重化その9ものに力点がある。調整機能が構造部位として一つのタンパク質のなかで独立部位を占めていることは、二十世紀後半には広く認められるようになっていた。タンパク質には、機能のための部位とその機能を調整する部位が独立に存在する。機能性の二重化は、あらゆる場面で出現する生命の原カテゴリーの一つでもある。こうした調整機能の延長上にも、新たな機能の出現が起こるのである。
調整機構には、多くのモードがあると考えられる。タンパク質は、四次元の立体構造を取るが、酸素や二酸化炭素の運び手であるヘモグロビンは、二種類の立体構造を取る。この二つの立体構造の違いが、酸素結合に関してスイッチの役割をしている。一方では酸素結合状態であり、他方では不活性状態もしくは酸素放出状態である。酸素濃度が高く酸素結合状態のヘモグロビンが増えると、不活性状態に戻ることがなくなり、まずます多くの酸素との結合ができるようになる。ここではフィード・フォワードが働いている。各ヘモグロビン分子に四個の酸素が結合すると、活性状態は一万倍にもなるようである。このことは一挙に事態が変わることを意味し、速度調整よりも、オン・オフ様のスイッチになることを意味する。これも機能転換の一つであり、化学分子では、電磁気のようなオン・オフ仕様は備わっていないので、急激な加速化と減速化によって、スイッチ状の機能を作りだすのである。調整による変化率の変動が、スイッチ機能を出現させている。
また働きアリは、餌にありついたとき、ただちに多くのアリは協力体制に入るが、アリの密度が一定の度合いを越えると、一定比率のアリは働くことを止めてしまうようである。すべての餌にどのアリも群がるわけではなく、それぞれの餌の大きさに応じて、その餌に反応する「反応域」が異なるように、個体差の調整がなされている。さらにそのことに留まらず、同じ反応域のアリでも、密度効果によって、働かなくなるアリが出現するようである。[9]これはアリの個体群のなにか出現してくる行動の調整機能である。同じ条件に対して同じように反応していれば、極端な条件変化に対してアリの集団そのものが絶滅する可能性が高くなる。コンピュータでシュミレーションすれば容易にそうした結論が出る。そのとき行動の幅を分散させるという、ネットワークの分散機能を密度効果の調整をつうじて形成していくのである。
多細胞生物の形成の仕組みも、調整機能に由来するのではないかと思われる。多細胞生物が単細胞生物より生存に有利だという証拠は、どこからも出すことはできない。試みに二細胞生物を想定する。二つの細胞はたんに接触しながら、ともに増殖を繰り返す。ところが増殖速度にはおのずと違いが出る。二本の杉が並んで育ってもおのずと大きさが異なることと同じである。この落差は拡大方向に推移する。これによって一方の細胞はたんに増殖を繰り返す方向に進み、それに付着した細胞(娘細胞)は、増殖よりもむしろ移動能力を活用するとしてみる。餌を求めて移動できるのであれば、これは結果的に二細胞体の生存戦略として有効に機能する。これはマーグリスが想定していたことである。[10]しかし付着した二つの細胞がどのようにして明確な機能分化していくのか。密度効果を含んだ複数細胞の接触効果をつうじて、すべての細胞が同じように増殖するのではなく、ここには増殖頻度と速度を調整するという局面があるに違いない。頻度と速度の落差を作りだすことで、一方の細胞は増殖に専念し、他方の細胞は増殖よりも別の活動が前景化するという局面があるはずである。ひとたびこうした落差が生まれれば、次に生み出される細胞は増殖か移動能力かを発揮するための分化を経ていくと想定される。このプロセスの繰り返しのさなかに、前者が幹細胞となり、後者が各種体細胞になる原始的な分岐の場所が出現すると考えることができる。
注
1、G.ベイトソン『精神の生態学 下』(佐藤良明、高橋和久訳、思索社、1987年)ことに「学習とコミュニケーションの論理的カテゴリー」参照。
2、石川統「細胞の進化」『シリーズ進化学 第三巻』(石川統他編、岩波書店、2004年)参照。
3、メイナード・スミス、サトマーリ『生命進化8つの謎』(長野敬訳、朝日新聞社、2001年)第六章。
4、カーシュナー、ゲルハルト『ダーウインのジレンマを解く』(滋賀陽子、赤坂甲治訳、みすず書房、2008年)第一章。
5、ニック・レーン『生命の跳躍』(齊藤隆夫央訳、みすず書房、2010年)第四章参照。
6、水島昇『オートファジーの謎』(PHPサイエンス・ワールド、2011年)
7、高木由臣『寿命論』(NHK books、2009年)
8、メイナード・スミス、サトマーリ『進化する階層』(長野敬訳、シュプリンガー・フェアラーク東京、1997年)第四章参照。
9、長谷川英祐『働かないアリに意義がある』(メディアファクトリー、2010年)
10、マーグリス、セーガン『性の起源』(長野敬他訳、青土社、1995年)
(かわもとひでお/システム・デザイン)