身体・重力・光・空気――舞踏物理学へ向けて
河本英夫
身体の形成に重力は内的である。重力は地球の中心が引きつける力のことだけではない。万物は引き合うのだから、身体の各所は引き合い、また環境と引き合っている。地球が物を引っ張る引力は、概算で重力の内実の1/10程度であろう。この重力でさえ、一切の慣性運動系のなかに組み込むことはできない。そのため重力は単独の固有な作用であり、光と同様、全貌を露にするには困難がある。見ることに内的な光を還元するのが容易でないのと同様、身体の形成プロセスに内的な重力を還元することは容易でない。宇宙空間で身体が落ちていかなくても身体は重さをもつ。動こうとすればそのことによってただちに慣性質料が生じる。動いた途端重さが出現するもの、それが重力である。だが慣性速度0であっても本来重さがある。存在者は、まさに存在者であることによって重力をもち、重力に浸透されている。ただちに思い当たる重力の現われは、身体が消すことのできない不透明さをもつことである。身体の不透明さこそ、重力の最初の現われである。
かつてシェリングが引力と斥力を統合するものとして重力を導入していた。カントの構成法に従って、引力と斥力から物体のまとまりと体積を導くことはできる。だが物が固有の重さを持つことの由来は、そこからは出てこない。物の固有の重さを構成するためには、重力が必要になる。相反する引力と斥力を統合する概念的構成法の原理として導入されたシェリングの重力は、とても正しいことは証明されそうにないが、間違っていることも証明されそうにない。重力の全貌が明らかにならないからである。
存在者は、光のなかではみずから存在者であることによって影を作る。影を作るものには、一切の透明な明るさと無数の色が生じる。眼が存在者である限り、眼には真闇はない。視は、みずからの影をもたない。真夏の真昼に公園で散歩をする人たちがいる。一様にくっきりとした黒い影がある。一人だけ影のない人間がいる。異様な光景である。視は、影のない人間である。このとき視界に影を作る物が一切なくなると、視の視界は真闇となる。視は真闇から立ち上がり、物に出会うことをつうじて、はじめて透明な明るい世界を見ることができる。だがにもかかわらず視は、同時に形成してしまう身体をもたない。視はかりにそれが存在者であれば、光と同様奇妙な存在者であり、光に最も近い。ここから際限のない光のメタファーが生じる。その視ならびに光の解明の最初の手掛かりが、色である。だが光の近傍に生じる無数の色のような解明の手掛かりを、一切欠くのが重力である。身体を語るには、人間の言葉は粗すぎる。また視は、視の特性によって身体の前で身体の傍らを通り過ぎる。作動する身体とともに身体の動きに気づきを向けてみる。重力、光、空気は、対象化した途端に内容の半分以上が隠されてしまう。そのため身体行為とともに出現する現われに注目する。
1作動する身体
身体行為には、際立ったいくつかの特徴がある。第一に行為には、要素単位がある。まばたきを途中で止めてみる。途中で中断すると、まばたきとは無関係な別のことをしていることになる。眼を半ば閉じ半ば開いているだけである。寝返りを途中で止めることも、左足をペダルに乗せ、右足の移動途中で中断することも容易ではない。これらも中途で停止させると、寝返りとも自転車に乗る動作とも無縁なことをやっていることになる。運動を無限分割できないというベルクソンの主張は、行為にとてもよくあてはまる。分割しようとすると、それだけで並外れた訓練を必要とするからである。この要素単位が、行為するシステムの構成素である。これらの要素単位を継続しながら、身体行為は作動を継続する。
身体行為の継続の第二の特徴は、同じ行為の反復が二度と同じことをできないことである。はじめて歩行を始めた幼児は、一歩歩くごとに歩く行為を行う自己(Selbst)を形成している。歩くことの実行が、行為する自己の形成となる。そのため歩くごとに自己を形成しつづける以上、二度と同じ一歩を歩くことができない。行為の実行がそのまま自己形成となるところでは、同じ行為の反復がつねに異なる事態となってしまう。行為する自己を比喩的に円で描くと、この円の軌道が回るごとにブレつづけるようなものである。これは認知系で言われる差異化とは別のものである。行為がつねに同時に(immer zugleich)行為する自己の形成でもある。分析的には、身体の作動はつねに二重である。
この身体の形成運動は、ヘルダー、ゲーテの語っていた「形成力」の現代阪であり、ショペハウアーにはっきりと出現する意志の自動運動とは異なる。形成運動は植物性のそれじたいを形成する運動であり、意志の情動運動は移動可能な動物性の肉に閉じ込められた運動の剰余である。運動の剰余は、それじたい行く果てもなく、止むこともない自動運動だが、この運動が感情となる。形成運動は、運動をつうじてみずからの境界を形成することで、それじたい感覚となる。感覚と感情の起源はまったく異なると予想される。
認知系の差異化は、運動し続ける対象の微分に近い。微分された小さな差異を繰り返す。物の運動を、ベルクソンやドゥルーズに倣って、みずから自身への差異化だと言ってみたくなる。物は現に在る状態から、それじたいでその状態に差異化を行っている。確かにそのように表記することはできる。対象化された事態に差異を見出そうとすると、どうしても無理やりなことを言わなければならない。しかもこう言ったからといって事態はなにひとつ進んでいない。ただ言ってみただけに近いのである。というのも観察者の視点から、物そのものへと視点を移動させているだけだからである。視点の移動だけであれば、すでにうんざりするほど経験してきたのである。ここでは視点の移動ではなく、行為する機構が問題になっている。つまり経験を変えることが問題になっている。
身体行為の継続の第三の特徴は、要素的行為と要素的行為の接続点では、つねに選択性がある。歩行の一歩は、次の一歩と接続することもできれば停止することも、ジャンプすることも、飛び上がることも、しゃがむこともできる。停止のさなかでのフライングを、アフォーダンスでは「マイクロ・スリップ」と呼ぶ。要素的行為と要素的行為の接続には、いまだ実行されていない新たな接続の可能性は、かなり多くある。それが新たな身体行為となり、見るものにとって新たな運動感の感知となる。
身体行為の継続の第四の特徴となるのは、要素的行為の継続がつねに最短距離を進む傾向があることである。身体は物理的な肉体であることを免れることはできない。そのためアリストテレスに倣って「自然は無駄をしない」とも、近代物理学から援用して「自然の最小作用」とも、ルーマンに倣って「複雑性の縮減」とも言ってみたくなる。車の運転の修得のさいにも無駄な動きが削られて、行為は最短距離で進むようになる。これは傍らで見ていてもわかる。余分な動きが伴なっていたり、余分な力の入っているものは、ただちに不自然だと感じられるからである。通常力んでいると形容されるものである。最短距離の回路を進むとき、身体行為の要素単位はひとつひとつが対応自在さを獲得する。重心移動の行為は、歩行にも階段の上がり降りにも自転車に乗るさいにも、自在に対応できる。行為はそれとして一貫して作動を継続するよう接続しているのであって、環境内の個物に対応して形成されるのではない。これが要素的行為と入力、出力とが対応しなくなる理由のひとつである。要素的行為と対象との間に一対一対応がなくなるのは、懐疑的反省によって対応関係を断ち切っているからではない。行為システムの本性上、作動の必然として一対一対応はなくなる。そうでなければ自然で自在な行為はできない。だがこれによって行為の意味づけは、つねに未決定性を含む。
このことから派生する身体行為の継続の第五の特徴は、要素的行為の形成には、行為そのものの自在さの獲得が必要となる。重心移動の行為は、行為間の接続によってなだらかで自在なものとなる。ここには知識の形成にみられる分析と総合の高度化に類似したものはなにひとつ見られない。身体行為の形成を、認知的な知識の形成に類比させて考えることはできない。むしろ行為は何者でもないが何者でもありうるという原型的個物へと向かって形成され、それによって自在な対応が可能となっている。身体はつねに個体性をもつ。個体でありながら同時に普遍性をもたねばならない。この普遍性は、現実の個体性をまぬがれることができないのだから、普遍関数や普遍概念のようなものではありえない。知識の普遍性とまったく異質な普遍性が成立しているに違いない。いまイメージとしてゲーテの見ていた「原植物」を考えてみる。原植物は個物であり、個物のなかに変化の可能性としての普遍性を、ゲーテは直観している。この直観された動きが、原型的個物である。何物でもないが何にでもなりうるというのは、変化の可能性の基本形であり、それが個物の形をとったとき原型となる。
身体行為の継続の第六の特徴となるのは、要素的行為が行為間の接続と環境への対応という二重の働きを要請されていることである。いまブレーキの踏み方、アクセルの踏み方、クラッチの切り方をひとつひとつ身につけてみる。それぞれの機器への対応を修得するが、それぞれの行為の間の接続は、行為システムの形成過程を経て変容していく。行為システムの形成過程に組み込まれないものは、おそらく要素的行為としては残ることができない。身体の要素的行為は、行為の継続を行うことと認知的に対象にかかわることの二重の働きをつねに行わなくてはならない。このとき行為の継続で形成されているシステムの境界と、認知的に判別されるシステムの境界は、繰り返しズレを含む。身体行為の不調が出現したとき、身体の継続的な作動を回復させることが、身体と物との関係の回復に優先する。
2身体で行う物理学――舞踏
身体行為をつうじて、身体行為とともにはじめて現われ出るものがある。それをひとつの表現とすれば、そのまま身体表現となる。このとき行為をつうじてはじめて露になる現象が身体とともに表現される。
重力
重力は通常地面に引き付ける作用である。重力のなかに溶け込むような試みを行う。かかってくる重力にすなおに全身から力を抜いて、重力に溶けるのである。この動作を勅使川原もダンス集団カラスも繰り返し行う。現実的には舞台の上に倒れ込むのである。倒れ込む動作は、一般にダンスにはない。無条件に動きを停止させるからであり、立ちとどまる動作とは異なる。このほとんど活用されない動きを用いる。立つことの体得は、幼少期の思考錯誤のもはや思い起こすことのない記憶となって、身体に染みついている。
重力は、身体に内部も外部もないように浸透している。身体の形成に内的に関与してしまっているものは、身体に対して対象としてあるわけでもなければ、身体にとっての作用因として介在するのでもない。重力は身体感覚で言えば、どこまでも身体が不透明な広がりを持ちつづけることであり、それは気がつくことなく身体に力が入ってしまっていることの別名である。地面の上に立つだけのありふれた行為にも、すでに力が入ってしまっている。だからただ重力のなかに立つだけでも無数の身体技法が働いており、本来重力のなかに立つだけでも身体表現になるはずである。
重力のなかに動きをとどめたまま停止するためには、重心を持ち上げなければならない。回転するコマが一点で静止できるためには、コマの本体が高い位置になければならない。コマの本体の位置が低いと、回転しながら静止することはできない。そのため足のつま先に全身の力を集中し、重力のなかに静止するのである。身体の重心を持ち上げ、重力のなかで吊り下げられるというのはこうした動作のことである。歩行においてさえ、前進するとは、高さから落ちることである。
重力の働きよりもさらに速く倒れ込む。空気中の一切の手掛かり、足掛かりがないところで重力よりもさらにすみやかに落下する。こうしたさまざまな身体の動きをつうじて、内部も外部もないように浸透していた重力との距離感に変化を作り出すことができる。つまり知らず知らず対抗していた重力に対して、距離感を変えることで、動きが重力と相即する。ここが身体をつうじた重力の表現であり、身体行為を行うことが、そのまま表現へとなるところである。全身から力を抜いて重力に溶け込むとき、身体は重力に相即している。この相即が、行為者にとって重力を新たに身体知覚することであり、観察者にとってひとつの表現となることである。動きの継続が、はじめて重力に対して新たに身体の境界を作り出すような動きであり、この動きによってつねに身体は、自己を形成し内‐外を区分する。そのためこの内‐外の境界は、動きのモードに応じてつねに変動していく。重力に溶け込むのは、この境界を変動させているのであり、重力のうちで再度行為する自己を形成する。このとき身体は重力との自在な浸透の関係に入っている。この浸透の度合いの変動が、行為者にとって舞うことであり、観察者にとって表現である。
エクササイズ (1)柔道で投げられるとき、浮き持ち上がる身体と落下する身体が均衡して空中に留まる瞬間がある。このとき重力から一瞬距離が取れる。この距離が取れている瞬間が、重力への気づきである。窓から飛び降りる開始の瞬間に、重力に気づくことができる。かりにこの均衡状態を空気中で2秒以上保つことができれば、それは曲芸であり、それは眼に対して新たな運動感の変化を引起す以上、特異な表現となる。
(2) ごく普通に立った姿勢で、あたりを見回しながら身体の局所を何点くらい感じ取れるか試みてみる。おそらく通常一〇以下だろうか。身体から力を抜く訓練を積んで行くと、やがて五〇以上の身体の局所を感じ取ることができるようになる。
(3)どのようにして自然落下よりも速く落ちることはできるか。重力のなかを泳ぐようにして落ちていくのではない。重力とは別の落ち方をする。ここが落ちるとは別の行為であり、重力へのかかわりが運動感として出現する場面である。転んで起き上がることの繰り返しが、重力を感知できる場面である。だが重力よりも速く落ちることは、水中の潜水以上の訓練がいる。
(4)重力に吊るされることはできるか。かりに吊るされることができれば、人間は振りをしなくてもすでに人形である。これは勅使川原の作品『メランコリア』の最後の場面で、全身にガラスの破片を刺して人形のような自動運動を繰り返す場面に示されている。重力に吊るされるためには何が必要か。
(5)歩行で前進するとは、落ちることである。歩くためには最低限どの範囲の高さが必要か。どこまで重心を下げたら、歩くことが不可能になるか。
身体の構造部材
勅使川原の行う身体運動には、いくつかの際立った特徴がある。関節の周辺の回転運動と関節の自由度を放棄したような機械状の折れ曲がりを基調とした動きである。関節付近の力の入れ方を変えるのである。関節こそ勅使川原の身体の要である。電車と電車の間は、ジャバラでつながっている。いま連結器をはずしてジャバラだけにしてみる。この揺れ動くジャバラの上に立ち続ける感覚が、関節に固有のものである。関節ごとに全身にジャバラを感じ取ってみる。この状態からジャバラの周辺の力の入れ方を変えてみる。
骨と骨はばらばらであり、周囲の張力材によってかすかにつながっているだけである。非連続の骨という圧縮部材に、筋という張力部材が連続的に取り巻いている。機械は比喩的なものではない。また有機体という隠喩を回避するための対抗手段でもない。身体は骨という圧縮部材と筋という張力材によって接続されている。顔相を骨相で見るように、全身を骨と筋で見てみる。すると物理学の基本的定式に適うような身体像が得られる。身体を機械の動きのように骨組みだけで取り出すと、この骨組みの動きにどのように特異な変形を加えようと、それらには自然性が残る。身体は、釘打ちされた建築物や、ボルトで接続されたロボットのようなものではない。骨と骨は離散的であり、接続していないのである。ここには均衡と均衡からのズレが生み出す固有の動きが生じる。力学的な部材が力のかかるごとに自在な変形を遂げる。この変形がプロセスとなる。こうした骨と筋からかなる骨格に、屈伸、ねじり、回転の運動を基調とする局所的な変化を作り出すのである。屈伸は、身体の反対側の別の屈伸を呼び起こし、ねじれは次々とねじれを引き起こし、回転はこの骨格の境界を次々と更新する。
[補遺] ちなみにこうした物理的な身体と、機械状の「器官なき身体」とはなんの関連もない。ドゥルーズ、ガタリの器官なき身体は、身体の有機化に抗する対抗概念である。器官を一切消滅させる停止と再起の瞬間であり、口もなく歯もなく舌もない死の本能の別名である。つまり彼らは動力学(ダイナミクス)の延長上でちょうど引力に斥力を対抗させるように、組織されるもの、秩序化されるもの、有機化されるものに対して、器官なき身体を対抗させたのである。欲望する機械の作動の偶然的な瞬間に、一切の秩序がやみ、いかなる形態もなく、なすこともなくただ存在している器官なき身体を見出し、これこそ原初に存在する消費しえないものだとみなしている。事態をわかりやすくするために次のように言い換えてもよい。生命は必ず死ぬ。死へのプロセスは、生命の誕生の瞬間から始まっている。つまり生の過程には二つのプロセスが併存していることになる。みずからを有機化するプロセスと有機化そのものを停止させるプロセスである。だが有機化を解体するプロセスも生に本来的であり、別様な生の過程である。この思考パターンがまぎれもなく相反する二原理を対抗させる動力学的構想なのである。この死へのプロセスをシステムの機構として表現したのがドゥルーズ、ガタリの器官なき身体である。システムの作動と構造の区別を行うことのなかった時代のやむをえぬ比喩が、器官なき身体である。
エクササイズ (1)関節は全身に200箇所以上ある。個々の関節の位置で、電車と電車のつなぎ目にいる感覚を喚起すること。どの関節を自在に活用できないか。(2)ひとつの動作たとえば歩行で、いくつの関節の動きに気づくことができるか。
空気
運動は聴覚起源の直観から直接くる。音の流れから、身体の動きを形成することはごく普通のことである。運動系は聴覚的感覚と連動している。音感の形成から身体運動が生み出される。身体は音感の作動と連動するように作り出される。身体の運動と連動する音感を活用することは、幼少期に形成した身体感覚を再度一から形成しなおしてみることである。そのためこの身体運動は、つねに再生の予感に満ちている。これはもはや思い起こすことのできなくなった記憶を辿ることでも、忘れてしまった本能を呼び戻すことでもない。当初の形成過程を再度同じように辿り直してみるのである。再生が何度でも可能な位置から、再生をやってみる。このときなにひとつ同じ事が実行できないという身体の本性を活用するのである。
音との関連で、勅使川原の身体表現のもうひとつの主題がはっきりする。音は基本的に空気の振動である。とすれば聴覚的な感知が身体運動へと連結されるさい、感知されない空気の振動を感受しているはずである。太鼓の振動を皮膚で捉えるようなものである。この感知されないが感受している働きの領域が、感覚に固有なものである。感知されていなくても感受されている経験領域は、身体の運動に連動する。感覚は、認知する活動と同時にそれじたいが一種の運動である。あるいは運動であると同時に一種の認知である。音と身体運動の間の不可視の感受された広大な領域を、身体表現へと組み込んだのが勅使川原の身体行為である。
制作上の音の役割は、基本線に沿ったものである。さまざまな音を流し、音感から身体の動きがおのずと開始される地点で、身体の動きを作り出す。音と身体運動の連動が、カップリングと呼ばれる場面である。音と身体運動が当初より内的であることから、この連動関係には開閉がある。それは音が身体運動を発動させるためのきっかけとなるだけのものから、音と身体運動が全面的にリズムの共振をしているもの、さらには音が空気の振動となって音と物理的に連動しているものまでさまざまな連動のモードを取るからである。これは肉のうごめきに音を当てていく舞台と対比してみればよくわかる。山海塾の舞台の音は、洗練された見事なものだ。『ゆらぎ』『ひよめき』『ひびき』のいずれをとっても最高度に工夫されている。音だけをCDにして単独で聞くことができる。だがこれは身体運動と音との距離感が一定であることを意味している。一定でなければ音だけを単独で聞くことができない。肉から湧きあがる動きは、本来音とは独立のものである。肉の動きにやってくる最初の音が声であり、いずれしろ外からやってくる。そのため肉の動きに対し、音を純粋にそれとして導入することができる。この場合音はどんなに緊密に肉の動きに沿わせようと、象徴的な位置を占め続ける。音と身体の動きが接続されるさいに、外的につながるものの本性上、つねに接続点に意味が発生しようとする。観察するものにとってなにか分かるという事態は、ここから生じる。
ところが音と動きが内的であるところから立ち上げる場合には、作品の作りがまったく違ってくる。音と動きの間に繰り返し距離の変動が生じるからである。物を擦るような機械音は、身体の動きと共振し、メロディアスな音は動きそのものが生み出す情態性とかすかに連動する。さらに問題になるのは空気の身体知覚である。音の知覚と身体運動の連動の中間領域に、空気と身体感覚という広大な領域がある。形式的に配置すると、音の知覚、音の感覚、振動の感受、振動の共振、共振する身体の動き、身体感覚、身体知覚、身体運動の知覚と並んでいる。必ずしも直線上の配置を取らないこうした区分のなかの中間領域で起きてしまっていることが問題になる。というのも振動の感受と共振する身体の動きの関連は、物理学の領域であり、記述は物理的なものである。ところが振動の感受と身体感覚の関連は、行為する身体とそのことをつうじて同時に感受されている環境との関連にかかわり、ここは相即の関係となる。ここでも身体行為は、みずからの作動を一貫して継続するだけであるが、このことが同時に環境との相即となる。空気の振動を捉える身体運動は同時に、叫びともなる。叫びは、呼吸とともに作動する。呼吸を介して、身体を動かすこと。呼吸法としての身体の調教が、そのまま身体運動の自発性であるような回路を形成することはでき、それはもっとも自然な身体行為へと身体を開くことである。
[補遺]レヴィナスはつねにすでに呼吸している空気との関連は、経験ではないという。そして「呼吸することですでに、私は不可視の他なるものすべてに従属すべく自分を開いているということ。彼方ないし解放は圧倒的な重みを支えることであるということ――、これは確かに驚くべき事態である。」と言う。空気の呼吸は、身体行為において遂行されている。この行為は一切と意識の作動、志向性とは独立であり、むしろ自分を開く開き方こそ問われる。この開き方は身体行為をつうじて開発されるのであって、意識よって開示される他者とは、いかなるかかわりもない。
[補遺]肉に付帯する運動の剰余は、通常本能とも情動affectionとも呼ばれる。純粋な動きを示すためには、本来情動に訴えるほうが手っ取り早い。というのも情動は認知系を伴なわない純粋な運動系の動きだからである。ショーペンハウアーが表象される世界に対して意志を対置したとき、意識の対象として現われ出ることのできない情動から情感、感情にかかわる領域を論じていた。表象には見るものと見られるもののような極化をともなう二分法がつねに成り立っている。それが世界の現われの特質である。この方向をもつ二分法は主観‐客観、ノエシス‐ノエマ等の言い換えの基本となっている。これに対して情動の動きは、表象に見られるような主観‐客観の二分法にしたがう現われをいっさいもたない。しかも情動はなにかに向かって作動するわけでもない。情動は、いまだ意志と同様根拠を欠き、認識を欠き、さらに目標を欠く。しかも満たされることもない。満たされることがない運動だからこそ欠如と言い換えることもできる。肉には、こうした欠如としての運動の剰余が閉じ込められている。肉から湧きあがる動きをそれとして発動させ、眠っている情動に届かせる身体表現は可能である。これのもっとも洗練された形態を、天児牛大率いる山海塾の舞台に見ることができる。この場合肉のなかに含まれた、眠っているうごめきをおのずと解除することになる。山海塾の舞台が情感に満ちているのは、このためである。
[Notes]